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変態テレフォンONANIE
1992年 60分 日本 カラー
監督:佐野和宏 脚本:佐野和宏
撮影: 音楽:
出演:佐野和宏 岸加奈子 梶野考 高木杏子
舞台は田舎の山奥。どこだろう、あそこは。相当ロケハンしないと見つからないような、田舎ならではの大きな平屋建てが間をあけて並ぶ集落。そこに危篤の父親と二人、ひっそりと暮らす少女。看病のために恋人と会えなくて、かけてきた電話でテレフォン・セックスをするのがタイトルになっているんだけど、寝たきりの父親を気にしながらピンク色の受話器を握り締め、恋人の声に耳を傾けて行為にふける少女はエロティックと言うよりも、風情があるといったら変なんだけど、とにかくなぜか嫌ないやらしさは感じないのだ。暗めの自然光や、木や畳敷きの、音を吸い込んでしまう感じがそうさせるのだろうか。
親の死に目に会うために帰郷する女とその夫である男。男は自衛隊の、多分戦争に一般人を兵士にして派遣するといったような機密文書を握っていて、それをマスコミに公表することを、仲間意識に縛られていまだ迷っている。彼ら二人が寒々した枯れ林でセックスするシーンも、やはりその枯れ木や冬の色合いがあいまって思わず見とれてしまう画。彼らが出会う“映画少年”が素晴らしい。自分で撮った映画を巡回上映している彼は「♪ウ・ヒ・ハ、ヘンテコリン」とまさしくヘンテコリンな歌を常に歌いながら「こういう映画を観ないから、日本の文化水準は低いんだよ」とひとりごちる。“こういう映画”にピンク映画という言葉を監督は入れたいのかもしれないし、あるいは、この少年の言葉自体を皮肉って、私小説スタイルのインディーズ邦画の内向的さを揶揄しているのかもしれない。その映画をみた二人、男が「ひどい映画だな」と言うと、女「でも、雲のシーンがきれいだわ。あなたと二人で映画を観るなんて何年ぶりかしら」という。暗闇の中、ジー……と軽い音を立てる映写機から映し出される画面を並んで見ている二人は、ここのシーンだけ本当に幸福そうなのだ。
この映画少年を伝言役に使い、危篤の父親と対面を果たした女だったが、この少年の不手際で追手に捕まってしまう。そして、殺される。夕暮れ、廃材置き場のような場所、ブラウンの空気に満たされて、二人が宙づりになっているのをロングでとらえる場面の、息詰まるような美しさ!少年が少女をそこに連れてくる。少女の悲痛な泣き叫びがその美しい画面にこだまする。「泣くなよ、もう、泣くなよ」と手立てがない少年も痛ましい。二人を巡回車のワゴンに乗せ、女がきれいだと言った雲のシーンをバックに映し出す少年。「飛んでる、空を飛んでる」と泣き笑いする少女、彼女の肩を抱き寄せる少年……ああなんてなんて!そして去っていく少年のワゴンをいつまでも手を振りながら追いかける少女をサイドミラーで確かめながら走り去る少年。車を追う少女をバックからとらえるショット……ああもう、なんてなんて!
ラストシーン、家庭用ビデオと思しき映像の中で男が写真で登場した男の子二人とキャッチボールをしている。キャストの名前は両方とも佐野。ということは、監督の息子たちなんだな!それにしても、これ、一般映画でかけたら、右翼かなんかに狙われそうだ。自衛隊員が女装男性とセックスしてる場面まで出てくるんだもん……。★★★★★
サイモンの詩を真っ先に認めたのはヘンリーの他に、雑貨屋に貼り出したサイモンの一片の詩を読んだその店のろうあの娘(ミホ・ニカイドウ。確かこの人ハートリー監督の奥さんだよね?)、そして学校の壁新聞に掲載したいと言ってきた女子学生二人。この娘は、サイモンの詩を見て、ふと歌を口ずさみ出すのだ。驚く雑貨屋の主人。 「いったい何をした?娘が歌いだした!」かくて出版社にぞくぞく売り込みをかけるも、ことごとく返却、サイモンはヘンリーの言うように自分に才能が本当にあるのかにいつまでも自信が持てない。しかし、インターネットに彼の詩を載せたとたん、賛否両論湧き起こり、特に若い世代の圧倒的支持を受けて、サイモンは「まるでロックスターみたい」な時代の寵児になっていく。
ヘンリーの小説もサイモンの詩も映画中に出てくることは一切無い。だから、観客は各々の才能を計り兼ねるのだが、それはもちろん計算ずくであろう。詩人や作家に限らずその才能が本物のものなのか、あるいは支持者が多いだけだからなのかというのは、永遠に答えの出ないものだ。その一時だけ支持者が膨れ上がってそれこそロックスターみたいにもてはやされることがあっても後年には忘れ去られてしまう人あれば、死後に“才能が発掘”される場合もある。時代によって評価は刻々と変化する。どの時代の評価が真実かだなんて、誰にも判らない。サイモンの詩は、彼の内在するセクシュアルなものも含めた欲望や孤独や叫びが叩きつけられているらしく、当初はポルノまがいの糾弾を受けもするが、後年なんとノーベル文学賞を受賞するまでに至る。サイモンと交代するかのようにゴミ清掃人に落ちぶれ、カフェでそのニュースを聞くヘンリーは「あんな詩、俺が書いた方が数段上だ」とカラむ酔っ払いに「サイモンは本物の詩人だ!」と一喝する。あれ以来サイモンからは音沙汰がない……。
あれ以来……自分の才能を発掘してくれたヘンリーの、“傑作である筈”の小説を自分の契約を条件に出版させようとサイモンはその小説「告白」を読む。しかしそのあまりのひどさにサイモンは自分だけ契約してヘンリーの本の出版を見合わせるのだ。はじめは無学でスペルや文法も知らなかったサイモンが、ヘンリーによって審美眼を授けられ、これまたヘンリーとは正反対に、友の作品に残酷な評価を下す。しかしこれまた、真実の評価だったと誰に判るのか。その評価を下したのはかつてサイモンが掃除人夫として働いていた出版社の編集長と、サイモンだけなのだ。ヘンリーの、サイモンに対するように、彼の作品に対して入れ込む人がいたならば、彼だってどうなっていたか判らない。
ヘンリーがよその家庭のいざこざに巻き込まれ、殺人を犯してしまい、そのピンチを救うべく彼の息子(サイモンの姉との間の子)が、サイモンを探し出す。サイモンはかつての編集者である恋人とホテル住まいをし、仕立てのいいスーツに身を包み、理知的な眼鏡をかけて、驚くほどハンサムである。これがあの、胸に名前のワッペンをつけた地味な清掃人夫の制服を着ていたサイモンなのか……。今はかわりにその制服を着ているヘンリーがサイモンの前に現れた数年前は、やはりスーツ姿だったが、どこか服に着られているような、道化のようなペテン師のような、そうまさしく風来坊な容貌であったような気がするのと対照的である。うーむ、そうするとやはりサイモンの方が“本物”なのか?いやいや、とにもかくにも世間的な評価で“本物”になったからこその本物なのだ。ヘンリーはそれを得ることが出来なかった。……多分サイモンのせいで。
ヘンリーは過去に少女暴行によって刑務所暮らしをした経歴がある。彼の性的欲望はその後もなかなか抑えがたいものらしく、しかしそれを欲している女たちに向けられるので(サイモンの母親と姉。それで姉のフェイは妊娠してヘンリーと結婚)犯罪には至っていなかった。しかし、そのよその家族のいざこざで、義父にセックスを強要されている少女が、父を殺したらフェラしてあげるなどと勝手に約束させたことで、実際には肉体関係を結んでなどいないしそのつもりもなかったのに、またしても過去の悪夢が蘇る結果となる。反対に有名になる以前のサイモンはうつ病の母親とセックス狂の姉を養うために一人黙々と働くも、セックス狂の姉が始終メス犬のように発情しているのと対照的に自分は女の子に声をかけることすら出来ない。しかし一方で道すがらの男女のセックスをじっと見つめたりして、彼の内側にたまる欲望の方がヘンリーの行為よりずっと恐ろしい。ヘンリーがサイモンの人生に登場したのは、もしかしてその欲望が犯罪に転化する前に吐き出させるためだったのか?詩という形によって。ヘンリーの人生とサイモンの人生はそういう意味で紙一重だ。どちらに転ぶかなんて才能ではなく、触媒となる人との出会い、それだけなのかもしれない。
サイモンの助けで彼のパスポートを使い、国外脱出を図ったヘンリーが、しかし飛行機へと走るその途中でふと立ち止まり、くるりときびすを返す。サイモン・グリムとして逃げることの違和感を感じたのだろうか……FOOLだからって本当のバカではない。自分はヘンリー・フール自身であることに誇りを持つべきなのだと、きっとそう思ったんじゃないかと、いやそうであって欲しいと切に願ってしまう。
全編を通じてとつとつと語っていく、淡々というのとはちょっと違う人をはぐらかすようなゆったりしたテンポ。そして静謐というのともちょっとちがうオフ・ビートな語り口が相変わらずハートリー監督らしい。上映時間が結構長いのだけど、この独特の旋律についついのせられて、ひょいひょいとラストになってしまうという感じ。彼が描くニューヨークは他のどの映画に出てくるニューヨークとも違って、あえてニューヨークということもないような、都会の吹きだまり、しかしそれなりに幸福な生活が営まれている感覚が個性的。ヘンリーを演じるトーマス・ジェイ・ライアンはそのちょっと特異な風貌が魅力で、彼がやたらと性欲旺盛だったり、トイレでブリブリ下痢こいても(……)なぜか許せてしまう。そしてもう一方の主人公、サイモンを演じる、どこかジェームス・スペイダーをほうふつとさせる、冷たいような風変わりなハンサムのジェームス・アーバニアクがイイ。苦虫をかみつぶしたような表情のまま変わらないところがバスター・キートンみたいで妙なユーモラスさが漂う。★★★☆☆
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