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「こ」


1999年鑑賞作品

恋におちたシェイクスピアSHAKESPEARE IN LOVE
1998年 123分 アメリカ カラー
監督:ジョン・マッデン 脚本:マーク・ノートン/トム・ストッパード
撮影:リチャード・グレートレックス 音楽:スティーヴン・ウォル
出演:グウィネス・パルトロウ/ジョセフ・ファインズ/ジェフリー・ラッシュ/コリン・ファース/ベン・アフレック/ジュディ・デンチ


1999/5/12/水 劇場(錦糸町楽天地)
今回のアカデミー賞作品である本作。伝統を持っている憧れからなのか、イギリスモノに弱いハリウッドなんである。そう言えば、コテコテのアメリカ映画である「スター・ウォーズ」の、今度公開されるエピソード1だって、メインをイギリス人俳優で占めているものなあ。それともコスプレに弱いのか?とてもポジティブな空気に満ちたゴージャスで楽しい映画で、満足はしたものの、これをイギリス映画として撮ったらどうなったかなあ、と思わざるを得なかったりして。シェイクスピアが「ロミオとジュリエット」をいかにして生み出したか?という発想のもとに作り出された本作は、シェイクスピアモノとはいえ完全オリジナル脚本で、フィクションだし(某テレビ番組の映画コメンテイターなんぞという肩書きを持つやからが、「これは史実をもとにした……のかな?」などとほざいていたけど、ちゃんと調べろよなー。そうでなくても、そんなワケないことぐらい判りそうなもんだが……)ことさらに本場イギリスを主張するのも詮無いことだけど。きっともっとシニカルでヒネリのある作品になったんだろう。でもまあ、そこそこそういった要素もクリアしているか。

完全にアメリカ人でありながら、イギリス風な、ノーブルな雰囲気をたたえるグウィネス・パルトロウ。今までもそのせいか、あるいは本人の作品選択の結果か、いかにもなアメリカ映画とはあまり縁がなく、ここでもコスプレものにドンピシャにはまっている。女性が舞台に立つことが禁じられていた時代、芝居が好きな彼女は、男装してオーディションにのぞみ、ロミオ役を手に入れる。二つの性を行き来する役としてはエレガントすぎるというか、中性的な魅力に欠けるものの、対するジュリエットを演じる少年もまた、素顔ではオッと思うほどの美少年でも、女装がかなりキッツイので、その対照的な面白さがいいのだろうな。彼女の役名はヴァイオラ。どこかで聞いたことがあるなあ……と思っていたら、そうか、「十二夜」のね!そう言えばあの映画で男装するヴァイオラも、あんな薄いひげをつけていたっけ。まるで「うる星やつら」の竜之介ちゃんみたいに胸を布でぐるぐる巻きにし、シェイクスピアとのラブシーンでは、「あーれー」とばかりに(言わないって……)回転しながらそれを解かれるわけだ。

どこかロバート・ダウニーJrのような感じのする情熱的でハンサムなシェイクスピア、ジョセフ・ファインズが、あの線の細いレイフ・ファインズの弟とは驚きである。繊細な魅力を見せるものの今一つ存在感にかける兄とは違って、その濃い色の髪と瞳……力のある瞳に惹きつけられてしまう。いつでも爪の中までインクで真っ黒にしている戯曲作家としてのアクティブさが、肉体的なアクティブさをも感じさせるエネルギー。

とてつもない威圧感、しかもユーモラスさをともなったそれでオスカーを取ったジュディ・デンチの女王や、パッショネイトなシェイクスピアと対照的に、落ち着いて懐の深いライバル作家、マーロウを演じるルパート・エヴェレットなど印象的な脇は多いが、面白かったのは劇団でいつも主役級の役を振られる俳優役のベン・アフレック。彼はシェイクスピアがヴァイオラに惚れた煽りを食らって、最初は主役だと聞かされていたマキューシオの役が、脇役で、しかも死んでしまうことに気づくのだけど、苦々しい顔をしながらも、作品自体の魅力を認めてシェイクスピアを激励する。そのやんちゃな傲慢さと素直さが同居するチャームが絶妙で、今までピンと来なかった彼だけど、やはり上手いのだなあ、と今さらながら気づいたりして。

こうした作品では当然そうでなければならないけれど、美術、ことに衣装が素晴らしく、それも日の光の下が似合っているような生活感、躍動感に満ちているものから、貴族たちや舞台衣装などの緻密で豪奢な衣装までさすがの隙のなさだ。いや、それにしてもジュディ・デンチはその衣装からしてスペシャルだった。★★★☆☆☆


恋は嵐のようにFORCES OF NATURE
1999年 106分 アメリカ カラー
監督:ブロンウェン・ヒューズ 脚本:マーク・ローレンス
撮影:エリオット・デイヴィス 音楽:ジョン・パウエル
出演:サンドラ・ブロック/ベン・アフレック/モーラ・タイニー

1999/8/27/金 劇場(渋谷松竹セントラル)
「恋は嵐のように」……過ぎ去る、ということだったんですな。いくらお気楽ハリウッドムービーでも、行きずりの恋を優先するようなところまでは行かなかったということか。とはいえ、お気楽ハリウッドムービーにしかそんな思い切った結末は出来ないと思って期待していた部分もあったのだけど、案外と、保守的だった。主人公、ベン(ベン・アフレック)が、そのフィアンセを本当に愛している描写が事前にもっとあったなら、それもまた納得しなくもなかったけど……。うーん、これもまた昨今の“家族回帰”ばやりの一つで、不安定な恋愛より、すでに家族も同然のフィアンセとの愛を大事にしなさいってことなのかもしれない!?

考えてみれば、このベンとサラ(サンドラ・ブロック)の恋は、ギャグ的要素に囲まれすぎてるもんなあ。……というのは、“男もマリッジ・ブルーに陥る”というこの映画のテーマをほとんどお笑いの粋にまで高めている展開のせいで。彼の行く先々で、結婚なんてろくなもんじゃない、というやからがつぎつぎとあらわれ、新婚ラブラブハッピーモードにすでに入りかけていたベンの気分をけちょんけちょんにつぶしにかかってくれる。いくらなんでも、こう都合よく結婚のデメリットについて語る人がところてん式に出てくるはずもないだろうとも思うが、それを言っちゃあ、おしまいってやつでね、更に笑っちゃうことには、ベンが結婚を中止しようといったんは心に決めて、荒れ狂う嵐に吹き飛ばされそうな屋外の披露宴会場へと向かうと、また待ってましたとばかりに結婚の良さを語り出す周囲の人々にはばまれる。……そして結局ベンはやはりフィアンセとの結婚を選ぶのだけど……一応バルコニーから見下ろしているフィアンセを見てもういちど惚れ直したとかいってるけど、これってまわりの意見にばかり左右されているフラフラ男にしか見えないんじゃ……?

劇中で「ここまでツイてないと、次が楽しみになる」という、まるで脚本家の自虐的な独り言みたいに聞こえるセリフが出てくるように、最後にはこうした確信犯的なわざとらしさを感じさせるほどのトラブル続きになるベンとサラの旅。ベン・アフレックって、こういうどうしよう、困ったな、てな表情が天下一品。これは彼のこういう顔を見たくて、脚本が作り上げられたんではと思うくらい。彼の場合のオー!ノー!は両手のひらを天にかざしてポーズをつくる、あのアメリカンスタイルではなく、目を抑えて上目遣いになって、勘弁してくれよ、っていう感じのポーズの取り方。独身最後のパーティーでセクシーダンサーに絡まれている時も、ストリップに立っている時も、そんな絶妙の表情を見せるから、彼のウブさ(曰く一穴主義!?)が説得力あるものになる。

対して、サラ。途中、実は10歳の子供の母親であることが判明するも、27歳という設定はちょーっと無理があるサンドラ・ブロック(なんでも実年齢は36歳だとか……)。思えばラスト前シーンで彼女が勇気をふり絞って子供のもとへと訪ねていくのも、“家族”が裏テーマなゆえ、だったのだな。それ言ったら、まさしくラストシーンはそれぞれの“家族”ベンと今や妻となったフィアンセ、そしてサラとこの子供という両ツーショットなのだものね。それにしてもサンドラ・ブロックのおりゃあーっ!てな感じのブラとショーツ姿のセミヌードは、色気ゼロだったなー。なんなんだ、あの妙にガフガフしたパンツは……。それになんだか筋骨たくましいしさ。デミ・ムーア路線にはなってくれるなよ……。それに、中盤からは改善されたものの、なんなのあの、パンダメイクは……マジックで縁取りしたみたいに真っ黒。悪趣味なメイクだ。

ま、でもテンポの良さは天下一品。玉突き事故みたいに(!?)どんどこ押し流されていくのが痛快なぐらいに。予告編のあのテンポの良さが損なわれることなく展開されているのはなかなか驚異的だったなあ。そしていろんな天候に左右されることになる二人なのだけど、その中でもスローモーションの雹の美しさは特筆モノ。ガラス玉か、ダイヤのかけらが降ってくるような、キラキラした中を、手をつないで駆け抜けていく二人のシーンは、ロマンティック。

ベンの職業がちょいと面白い。本にかける宣伝用帯のコピーライター。それをうけてサラが「本の宣伝屋さん?」と言うと「いや、コピーライターだ」と語気を強めるベンが可笑しい。自分の職業に絶対の自信は持っていないものの、文章に携わっているというプライドがあるのだろう。対してサラと言えば、自分の天職が見つからなくてなのか、あらゆる職を転々としている、見るからにフーテンな女性。途中そのことに対してベンが彼女に自分を甘やかしている、といったような言葉をぶつける場面があるのだけど、ベン自身も、自分の職を最上だと思っているかどうかは疑問だ……サラは彼にとっての反面教師のようにみえて、ある意味まっとうな教師、そのまま自分の願望の姿なのかも知れないな。

しかしこの二日間は、ベンの一生の中で一番充実した二日間だったのではないだろうか。あわや飛行機事故にまきこまれそうになったり、列車の屋根に登って大声出したり、ニセ医者になってみたり、ストリップやったり……。この思い出を時々小出しに思い出しながら、これから先の長い長いながーい結婚生活を送るんだろうな……。うーん、やはり結婚は……!?★★★☆☆


恋人たちは濡れた
1973年 76分 日本 カラー
監督:神代辰巳 脚本:神代辰巳
撮影:姫田真佐久 音楽:大江徹
出演:中川梨絵 大江徹 絵沢萠子 薊千露

1999/2/28/日 劇場(亀有名画座)
うっ……もしかしたら私、やっぱり神代監督は苦手、なのかもしれない……陰うつな描写、海はまさしく日本海で、荒れていて、寒々しい色。そこで男女三人で、途中女性が裸になってくたくたになるまで続けられる馬飛びは(ワンカット!)一体なんなんだろう……。しかしこれは、うーむ、ドッペルゲンガー?本人はあくまで否定するんだけど、周囲の人々は彼がかつてこの街に住んでいた中川という男だと言って譲らない。彼が隠しているだけで本人なのか、それとも本当にドッペルゲンガーなのか?隠すくらいなら、かつて自分が住んでいた街へなんか来ないよなあ……。しかし彼がなぜこの街に流れてきたのか、何を目指して生きているのかさっぱり判らないけど。

旦那が浮気をしていて欲求不満になっているピンク映画館の女主人、絵沢萠子が妖艶。彼女がおとなしい猫を抱いて(表に猫売ります、の張り紙がしてある)受け付けにいつも退屈そうに座っている様はまったく画になる。昔っからこの雰囲気だったのね。男の肉体におぼれて、彼が出て行こうとすると「おいていかないで!」とどこまでも追ってくる。和服で、前がはだけるのを押さえながら懸命に走る彼女はどこか滑稽で、でも痛ましい。セックスシーンになるとぼかしどころか大きな四角い黒い帯がダーッと画面を横切って隠すのには唖然。不当な扱いを受けてたんだなあ……。★★☆☆☆


ゴールデンボーイAPT PUPIL
1997年 112分 アメリカ カラー
監督:ブライアン・シンガー 脚本:ブランドン・ボイス
撮影:ニュートン・トーマス・シーゲル 音楽:ジョン・オットマン
出演:ブラッド・レンフロ/イアン・マッケラン/ブルース・デイヴィソン/デヴィッド・シュワイマー/エリアス・コーティアス

1999/7/12/月 劇場(東劇)
思い出すのは「ベニスに死す」。美しさと若さの特権である残酷さと対峙する愚かで哀れな老醜。しかしここで展開されるのはその老いの抵抗である。悲劇的な結末を迎えるそれは、若さとは違う潔い美しさを放つ。

スポーツ万能、成績優秀、眉目秀麗。先生からも同級生からも一目置かれる存在であるトッド(ブラッド・レンフロ)が、授業で習ったホロコーストに興味を持ち、かつ街で見掛けた老人、デンカー(イアン・マッケラン)が、ナチスドイツ時代、何百万人者ユダヤ人を手にかけた戦犯であることを暴く。指紋を取り、写真を手に入れ、デンカーを脅しつけて真実を語らせるトッド。次第にその残酷な世界に魅入られていくトッドは、成績も落ちてしまう。そしてある時、トッドと同じようにデンカーを脅すホームレスの男を殴り殺してしまうトッド。そんな中、デンカーの戦犯の過去が世間に明らかになり……。

まったく、まだ16歳、撮影当時はなんと14歳(!しかも18歳の役をやってる!)だっていうんだから、恐ろしいこのナルシス。成長途中真っ只中といった感じの長い手足をもてあましぎみに、青い瞳に柔らかそうな皮膚の薄い唇を半開きにしている、ブラッド・レンフロふんするトッドの若さと美しさは、それだけでデンカーをたじたじとさせるものを持っている。本来の存在感と威厳を抑え、老醜の悲しみを醸し出すイアン・マッケラン(まだ60歳だというのだからこれも驚き。10も20も老けて見える……)とブラッド・レンフロの、ほとんど二人芝居のような本作は、その残酷なまでの対比にほとんどのエネルギーが注がれているかのようだ。ゲイであるブライアン・シンガー監督が、この耽美的な嗜虐性を感じさせるブラッド・レンフロと、そしてカミングアウトしているイアン・マッケランをキャスティングしたのにはおおいに興味をそそられる。そう、この二人は歪んだ愛憎関係にあるのだから。

内容はシリアス。何たってホロコーストなんだから。それも犠牲にされた側ではなくて、加害者側の苦悩を描こうという意欲作でもある。もちろんその部分はイアン・マッケランの当然のヨユウの熱演であっさりクリアしている。そう、このテーマが重ければ重いほど、ある意味禁断の、耽美的な美が強烈なものとなるのだ。ホロコーストのあのガス室を思い起こさせるというのはもちろん判るが、ブラッド・レンフロの全裸姿をなめるように執拗に映し続ける学校のシャワー室でのシーンなど、いかにも彼のファンが喜びそうで、その実監督が一番喜んでそうな気もする。ほんの少し筋肉のつきかけた、しかしなめらかな侵食するものがない陶磁器のようなその身体。女の子から迫られる場面があるが、「時間がかかるだけだよ」と言ってはみるものの、彼は身体がまったく反応しない。ぼんやりと、萎えた身体。

それがデンカーからナチスの話を聞く時、そしてデンカーにナチスの制服を着せて、行進させる時(この時のデンカー=イアン・マッケランの異様な光を放つ目は圧巻)、彼の瞳は輝き、その唇は楽しげに捻じ曲がり、肌は紅潮する。それは彼が、羽を痛めた鳩にボールを投げつける時も、死にかけたホームレスをスコップで殴り殺す時にも、きっと彼自身が感じたであろう、まさしくオルガスムス。

心臓発作に見舞われたデンカーがトッドに聞く。「どうだった、人を殺す気分は」……。この時、おそらくこのデンカーもまた、そうした恍惚感を自覚していたんだと気づいて戦慄する。もちろん彼の過去は被害者とはまた違うとてつもない悲劇の一言だ。しかし、そこに一種の快感を覚えていたからこそ彼は一層苦悩していたのではないか。忘れていた、いや忘れようとしていたその感覚を、その頃の自分と同じ感性を持つ少年によってこじ開けられてしまった悲劇。

トッドと生徒指導員の対峙もまたそうしたナルシシズムを充分に感じさせるものだ。落ちた成績を学期末の試験でオールAを取ることで削除しようと提案するこの指導員は、悩んでいる時には家に電話をしろと言い、別れ際の握手がやけに丁寧だったり、少年嗜好を感じさせはしたけれども、それは確かではない。デンカーが戦犯だと知って、彼がトッドの祖父だと聞かされていたこの指導員がトッドの家を訪ねてくる。そこでトッドは指導員の少年嗜好を主張し、突っぱねる。自分の美しさに完全な自信を持つ、その自信がまた的を得ているものだという恐ろしさ。

一見原題に思えるこれも、また訳の判らん邦題のつけかただが……。原題の「APT PUPIL」は賢い、利発な生徒という意味。たっぷり皮肉な意味を染み込ませた、いいタイトル。“ゴールデンボーイ”となると……たしかに人気者とか成功間違いなしの人とかいう意味で似てはいるけれど、やっぱり原題のニュアンスの方が耽美的な意味も感じさせるんじゃないかなあ。大体、ゴールデンボーイって、音から来るイメージが陳腐というか、泥臭い感じがするのだもの。原作が日本で紹介された時点でもう“ゴールデンボーイ”だったのだから仕方ないけど……。一見原題に思える邦題で、いいものに当たったことないなあ。★★★☆☆


コキーユ〜貝殻
1998年 95分 日本 カラー
監督:中原俊 脚本:山田耕大
撮影:上野彰吾 音楽:山田武彦
出演:小林薫 風吹ジュン 益岡徹 深水三章 吉村実子 林泰文 浜丘麻矢

1999/4/20/火 劇場(シネスイッチ銀座)
何だろう、なにかが物足りない。30年浦山を思い続けていた風吹ジュンは少女のように可愛らしく美しいし、思いを寄せられて戸惑う小林薫の抑制された演技もいい。男の片耳が聞こえなかった為に成就されなかった初恋という設定も魅力的……なのに、なぜだろう。

風吹ジュン扮する直子の台詞に違和感があったからかもしれない。彼女の思いは中学時代から変わらず純粋で、その思いを表現する言葉もピュアで美しい。だけど、最初から浦山が妻帯者だと判っているはずなのに、最初から不倫するのが当然だとでもいうようにそのピュアな言葉を武器にどんどん浦山を落としていくのに首をかしげてしまう。一見して不倫につきまとうイヤな感じがなく、清潔な印象なのが余計に疑問符を掻き立てる。それこそ中学生同士ならいざ知らず、お互いの立場を思いやる大人の苦悩に欠けているからだ。はっきり言ってしまえばカマトトに感じる。温泉旅行に出かけた先で浦山が「妻にちゃんと話す」と言うと、直子は「あなたの家庭を壊すつもりはない」なんて本当にいまさら言う。そう思っているなら、なぜあんなに積極的に浦山に近づいたの?と思わずにはいられないのだ。

確かに初恋の感情は変わらないものだし、30年の月日を飛び越えることも理解できる。でも、その30年の間、二人がそれぞれ選び取ってきた人生だってまた真実だったはずで、それを大切にするスタンスが感じられない。その30年間の人生が障害になるからこそ、中学時代の初恋を再現する二人のロマンスが味わい深いものになるのではないのか。これでは、まるで年をとった中学生同士の恋愛のようだ。

女は離婚していて、しがらみもなく、男の妻は何の疑うこともなく、唐突な女の死で終わる。死は美しい思い出をそのままに永久保存してしまう。あまりにずるい幕切れに半ば呆然としてしまい、泣く気にもなれない。直子の残した、浦山への思いを象徴する貝殻……コキーユもとってつけたようなわざとらしさで興ざめてしまう。

浦山のことを常々聞かされていたらしい娘、彼女はそれを不快に思わなかったのだろうか。いくら離婚した父親が不実な男だからといって、それは自分の父親であり、母親と違って、自分とは血のつながりがあるのだ。それなのに母親は、中学時代の初恋の男の話ばかりする。そのことに自分のアイデンティティが崩れ去るなんてことがあってもよさそうなのに、母親の墓に現れた浦山に、中学時代の直子そのままのたたずまいで接する娘の描き方がちょっとイヤだ。そう、中学時代の直子とこの娘をおなじ少女に演じさせるというのが、他の血を完全に否定していて、御都合主義にさえ感じるのだ。

中学時代の同級生で、絵に描いたようなイヤな男(益岡徹)のあまりにステロタイプな描き方や、浦山の妻や子どもたちの、内面に全く切り込まない表面的な描写もまた??だった。浦山と直子の恋愛に焦点を絞るためなのかもしれないけど、それが出来るのはティーンまでの恋愛であって、この年齢の恋愛ものを描くなら、それがどんなにピュアな感情のものであったって絡んでくる問題なのだから、やはり不満なのだ。

しかしただひとり、過去と現在をその体にまとわせている女、コキーユの隣の居酒屋を切り盛りしている女将が印象的だった。夫に浮気されて逃げられた女、そしてその夫が帰ってくる。その夫が登場するでもなく、彼女の話だけで彼女の人生が鮮明に見えてくる。直子と違って、もうすっかりオバサンの、恋愛をやり直すことも困難な風情のその女将は、でも夫が帰ってきた時に、本当に可愛らしい、少女のような笑顔を見せる。

しかしなんだかんだ言って、やはり風吹ジュンは美しかった。特に彼女の最後の場面、直後にトラックに轢かれることが後に語られる、雪の中をブルーの傘をさして、真っ赤な大きなストールを肩にかけた彼女がふと振り向くその笑顔と、長い髪がゆれる後ろ姿。後から思えばその赤は、あまりにも鮮やかで、彼女のその非業の死を象徴していたようにも見え、いや、彼女の浦山への思いの鮮やかさなのかもしれない。ラスト、同窓会で今は亡き直子を思って泣く浦山の哀れな滑稽さ……でも出来ればこのシーンはないほうがよかった。★★☆☆☆


孤独の中の光Seamless/SEAMLESS
1999年 94分 アメリカ カラー
監督:デブラ・レマットレ 脚本:ヤス・タナカ/ミツ
撮影:デニス・ブラザード 音楽:望月衝
出演:剣太郎セガール/シャノン・エリザベス/ピーター・アレキサンダー/メリンダ・シューウィンスキー/ロス・ストラウス/ダニエル・ポーター/サニー・マクリーニー/ブロック・ベネディクト/ダリル・スティーブンス

1999/11/6/土 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ:レイト)
スティーブン・セガールの長男である剣太郎セガールを初見。彼もまた黒帯だというけど、本作はノーアクションの青春ドラマだし、アクション一辺倒で最近行きづまり感のある父親とは違って、微妙なバランスを保ち、かつ知的さもある雰囲気が可能性を感じさせる。それにかなりの甘めのマスクだし。

本作の監督は短編映画で高評価を得ている方らしいのだが、うーむ、本作に関して言うと……。日本ではR指定がついていたので、いったいどこが引っかかったのかな、と思ったら、後半はもっぱらドラッグ中毒描写になるんで。だけど、このドラッグというのがねー……。剣太郎セガール扮するJBとブティックを共同経営しているジンク(ピーター・アレキサンダー)が作った、ドラッグを球状にしたものをアクセサリーにしたやつで、それをなめるとトリップするというんだけど、それが安っぽいというかウソっぽいというか、なんなのあの、プラスチック玉みたいなのは?てな感じなんだもん。トリップ描写もクサい。JBがストリートから救い出し、店を手伝うといいながらたむろしている連中からしてなんかリアリティがないというか、ほとんど「愉快なシーバー家」みたいなノリでガヤガヤしてるんだもんなあ。

JBは孤児で、裕福な白人婦人に引き取られた日米混血。この“裕福な白人婦人に引き取られた”てとこからして、なんだか(悪い意味での)少女漫画っぽい。彼は海賊ラジオのDJをつとめて、ストリートのキッズ達に信望を得ている。しかし彼がそこで喋っていることって、内輪の人たちしか判らないような私的な感情の吐露で、こんなんでキッズのカリスマになっちゃうのかあ?彼はキッズ達を森の奥深くに連れて行き、樹液(アンバー)をなめさせて、これでトリップ出来るんだ、という。ドラッグにおぼれさせないための、想像力によって“冒険”(トリップ)させることを教えるためだったのだけど、モロ悪役、ジンクによってモノホンのドラッグを知ったキッズ達は、JBを嘘つき、とののしるのだ。……しかしさあ、こんなワルそうな街にいて、本当のドラッグを知らなかったなんて、あまりにも……こういう街にいなくたって、ドラッグがどういうものかくらい判るのに。

そのキッズの中で最年少のエルモ(ブロック・ベネディクト)だけはなかなか買いだったけど。ま、見た目がまず美少年。ドラッグにおぼれた時のほとんどホラーメイクには笑っちゃったが。彼だけは過去のトラウマもきっちりと描かれる。暴力をふるう父親を止めきれなくて、母親が目の前で銃で撃たれて死んでしまったことが彼の中でずっと引っかかっている。JBに惚れ込んだエルモが、JBと恋に落ちたニコル(シャノン・エリザベス)との仲を疎ましそうにながめているのは、そのせい。正直言って彼だけであとのキッズ達はいらなかったけどなあ。だって、ほんとにいるだけって感じだったもの。あ、JBにホレてるジジ(メリンダ・シューウィンスキー)はちょっとイイ感じだったけど。

それで、ジンクの魔の手にかかってジャンキーとなったエルモは、ジンクを撃とうとして、JBを撃ち殺してしまう!しかしこの幕切れもねえ。なんか、にっちもさっちも行かなくなったJBを手っ取り早く神聖化するために死なせたみたいで。

このジンクのキャラも、判りやすいというか、判りにくいというか(どっちやねん!)、悪役としては判りやすいけど、彼がなんで、そしていつからそんなにヒネクレちゃったのかが判然としない。JB一人だけが店を譲りうけたことに嫉妬するんだけど、その前から口ではJBを親友と呼びながら、いい子ちゃん呼ばわりして、悪事には手を染めてたみたいだし。ま、彼もまたJBにホレてたからこそ、JBがやたらと彼のシンパのストリートキッズたちを拾ってくるのが気に入らなかったのだろうけど……。このジンク、演技も判りやすすぎ!ちなみに恋人役のニコルもまあ、こんなもんかな、という印象で。適度に美人ね。あくまでも適度に。

なんだかんだと文句を言っても、この日(だけでなく連日かな)来場者全員(15人くらい?)にサントラCDorTシャツのプレゼントがあり、私はサントラをget!ので、★☆☆☆☆じゃなくて★★☆☆☆なんである。セコイ……。でも剣太郎セガールはなかなかチャーミングだったから(フォロー、フォロー)。★★☆☆☆


ゴト師株式会社THE MOVIE ルーキーズ
1999年 90分 日本 カラー
監督:中田信一郎 脚本:後藤輔
撮影:山下弘之 音楽:
出演:川岡大次郎 伊藤裕子 本宮泰風 大久保貴光 黒沢年男 村野武範 宮本和知 平子悟 森一弥

1999/7/5/月 劇場(銀座シネパトス)
見逃していた「ゴト師株式会社」が鶴田法男監督の劇場デビュー作だったということで、このシリーズが頭の片隅にあったことと、今回の若者……ルーキーズに焦点を当てた新作の主人公があの「TIME LEAP」の初々しい主演の片翼、川岡大次郎だということで、俄然観る気になっちゃったのだ!まあ、パチンコのことは全く知らないし、最初のうちはパチンコ業界の専門用語とかが、しかもわりと早口に喋られるものだから、ううッ、ついていけんー、とか思ったのだけど、それも次第にノッてこれた。それに、あーた、川岡大次郎がイイッ!「TIME LEAP」の時も、あ、この子、いいなあー、と思っていたんだけど、なんたって佐藤藍子のピカピカの魅力の方に私の目は行ってしまって(美少女フェチだからさ)たんだけど、ピンで見ると、この子もまた、驚くほど瞳が大きく、ほんとに佐藤藍子並みで、瞬きすると音がしそうなくらいなのである。この子の素直な演技がいいんだよなあー。いや、なかなか上手いと思う、ほんと。彼に限らず、このルーキーズのメンメンはその直球の感情を表現する演技がとにかく好感度大。「酔夢夜景」や「しあわせになろうね」より格段にのびのびとした表情を見せる大久保貴光や、ヘンにオタクっぽいエネルギーのお二人(平子、森)も楽しい。どっちがどっちか判らないけど、「俺って趣味がありすぎるから」と漫画やフィギュアぐらいまでは当たり前ながらも、ヘッドフォンと集音機を取り出して「日本野鳥の会に入ってるんだ。これも趣味」と言うのには笑った!しかもこれがちゃんと後に活躍するんだから!

ゴト師というのは、パチンコ店の機械に「裏ロム」や「注射器」と呼ばれる装置を取り付け、パチンコ機械を操り、その店を破産に追いやる技術を持つプロフェッショナル。東都大学の四年生である熱志(川岡大次郎)は、パチンコで稼いだ金を学費の足しにするほどの腕前。かつて、「ゴト師株式会社」代表取締役であった教授、姫田にその天才的素質を見抜かれ、卒業単位との引き換えに、大学のパチンコサークルに入部し、パチンコ大学選手権に出ることを強要される。彼らの特訓先、小さなパチンコ店セコイアの跡継ぎ娘、千晴(伊藤裕子)にひと目ぼれした熱志は、単純にやる気になるのだが、ライバル校である慶洋大を率いる財前グループの御曹司、総一郎(本宮泰風)が千晴の恋人であり、しかし総一郎がゴト師を使って自らのパチンコ店チェーンをジャマする競合店を次々に破産に追いやっているという事実が発覚して……。

ゴト師を仕掛けた後にルーキーズのメンメンが、徹夜でゴトしかえして試合に挑むのだが、仕掛けたはずの裏ロムが効かず(実は熱志がわざと仕掛けなかったことが後で明かされる)、熱志が総一郎の手口を背中ごしに鏡を使って盗み、時間ぎりぎりで大当たりを連発して勝利する緊迫のクライマックスが圧巻である。本宮、川岡両氏の顔のアップのまわりをカメラがめまぐるしく回り、次第に焦りの色を映し出す本宮氏と、勝負師の顔になっていく川岡氏!

いやー、まったく、川岡大次郎、彼は素晴らしくいい。思わずすいよせられてしまう、その大きな瞳がさらに大きく見開かれ、きゃしゃな身体がまたなんともいいのだよ。特にこの年頃の繊細な美しさをいかす作品にもっともっと恵まれて欲しい!★★★☆☆


御法度 GOHATTO
1999年 100分 日本 カラー
監督:大島渚 脚本:大島渚
撮影:栗田豊通 音楽:坂本龍一
出演:松田龍平 ビートたけし 武田真治 浅野忠信 崔洋一 坂上二郎 田口トモロヲ トミーズ雅 桂ざこば 伊武雅刀 的場浩司 吉行和子 神田うの

1999/12/27/月 劇場(丸の内プラゼール)
恥ずかしいのだけれど、私は大島渚監督作品を殆ど観ていない。でもだからこそ、まっさらな気持ちで観ることが出来て幸せだった。一回目、なにか心がざわざわするものが感じながら、どうしてか入り込めなくて、判断を下しかねた。小さな刺のようなものがひっかかって気になる感じを引きずって、気がついたら、もう一度劇場に足を運んでいた。そこで、なかったはずの先入観が完全にパン!とはじけて、魅了されずにいられず、震えた。感じてはいけないような恍惚感が頂点に達してしまった。

その、刺のように引っかかったのは、松田龍平である。チラシや予告編の時からそのただならぬ妖気に圧倒された。恐ろしいほどの美しさ。どうして第一回目の鑑賞からその美しさにのめり込めなかったのか……たぶんそれは、彼がいわゆる“普通の”美しさではなくて、どこかまがまがしいような美しさを持っていたから。やぶにらみのような、片方ずつバランスの違う瞳。小さく閉じられた唇はやわらかだが、今にも皮肉の一つを言いそうに歪んでいる。抜けるように白く、きめの細かい肌。“前髪の惣三郎”の、その前髪が軽くはずむ少年期の残酷なまでの美。まがまがしく、混沌としているのに、そこにあるのはシンプルで清冽な美なのだ。その矛盾したマジックな魔力に、私は一回目で充分に気づくことが出来なかったのだ。そしてそれに気づいた時、心をとらわれてしまった。

加納惣三郎は「人を斬りたい」という欲望で新選組に入隊してくる。彼に最初に言い寄る同期の田代彪蔵(浅野忠信)は閨(雑魚寝をしている隊士達は、足もあらわに寝息とともにうごめいていて、なまめかしい)で「君は人を斬ったことがあるか」と惣三郎の肩に手をかける。そして「君は人と契ったことがあるか」……と……。彼はこの時点では人を斬ったことがなく、人と契ったこともない、ということになっているが、果たしてそうなのだろうか。局中法度を破った隊士の斬首を命じられた惣三郎が“初めて”首を落とす時のその落ち着き払った様子に、そしてその冷たい美貌に慄然としながら思う。この少年は、何もかももう知っているのではないか、と。

それでも無邪気に田代は彼に言いよる。演じる浅野忠信は粗野な男の役だが、びっくりするほどハンサムな笑顔を見せたりする。言い寄られる加納の松田龍平は、白い剣道の稽古着と胴着で無邪気さを装いながら、その内面は冷たく冴えている。自分に向けられる欲望で自らを光り輝かせている異形の美しさ。

ここで最初に契りを結んだのは田代となのだろうが、実際のシーンで出てくるのは湯沢藤次郎とのそれである。演じるは田口トモロヲ!中剃りの頭に目を血走らせん勢いで惣三郎を押し倒し、背中に唇を押し付け、全身筋肉を強張らせて絶頂を迎える彼のきわどさ!しかし彼は三池崇史監督作「新宿黒社会 チャイナマフィア戦争」でもかなりキテいる少年愛好者を演じていて、こういう役をやる時、やはり目が血走り、かなり異様に、しかしハマってしまうのだ。湯沢は殺され、土方(ビートたけし)に彼が衆道(男同士の同性愛)だったのかと聞かれた山崎蒸監察(トミーズ雅)が「知っていたとは思いますが、あの顔じゃ……」と言われるのが可笑しい。まるで、散々ヘンな顔と言われつづけた「ファーゴ」のスティーブ・ブシェミではないか!

そう、そのトミーズ雅が思いもかけずいいのだ。この場面に限らず、ふとしたユーモアがこの作品の魅力の一つなのだが、彼のいい人ぶり、まじめになればなるほど可笑しさが込み上げる、愛しいキャラクターは出色である。土方に、女を知らないらしい惣三郎を指導するように言われ、自分まで衆道だと誤解されながらくそ真面目に惣三郎を再三追っかけて、逃げられる場面、逆にこの山崎に好意を持つにいたった惣三郎がそっと彼の手を握った時、山崎がふともらしてしまう「えぇ?」という声と表情、“その気”はないはずなのに、惣三郎にふと見とれてしまう自分を「いかんいかん」と首を振って戒めるところなどなど、もうこの人の地のいい人ぶりが出ているようで嬉しくなってしまう。

それと正反対なのが、その指令を下している土方歳三を演じるビートたけしの凄まじさ。一人最初から惣三郎の“異形”の部分に目をむけている彼は、唇の端を歪めるように嗤う表情がホラー映画なみに怖い。近藤勇(崔洋一)ですら、惣三郎を見る目が違っているのを冷徹に見て取る彼は、その独特の“嗤う表情”を浮かべるのだが、その顔の下で何を考えているのか本当に判らない。怖い。怖くてたまらない。

そんな土方を多分好いているのが、武田真治扮する沖田総司。土方と対照的に、いつもやさしい微笑を湛えている彼は、大島監督の言う通り、素晴らしい沖田像を作り出している。今までの沖田総司の中で、私がもっとも素晴らしいと思ったのは(テレビだったけれど)故中川勝彦氏だったけれど、それを凌駕するかもしれない、はかないけれど、しなやかな強さを持つ美しさである。美しさという点で言えば、まさしく松田龍平と対照的なポジティブな美しさ。しかしその武田氏が、三年前の企画段階では惣三郎役の候補だったというのだから面白い。

トップに立つ近藤勇を演じる崔氏もまた面白い。まったき映画監督を起用するキャスティングからして面白いが、ここでの近藤勇像は、常に穏やかな笑みを湛えてはいるが、その穏やかさが、したたかなのか、あるいは指導力に欠ける優しさなのかいまひとつ計り兼ねるところがなんともスリリングなのである。相当なタヌキのようにも見えるし、ただのイエスマンにも見える。そして特筆すべきは、常に細かく震えているその黒目である。これは単に崔氏の体質なんだろうけど、その泳いでいる目が、図らずも本作での近藤勇を象徴しているようで興味深いのだ。その近藤勇と土方歳三のただならぬ絆が、土方を好いている沖田総司の言葉だけで明らかにされる場面は、そう、言葉だけなのに、そのエロティックさを身に染みて感じることが出来てしまう。この凄みのある関係。

他にも剣術がからきしヨワい坂上二郎や、眼光鋭い的場浩司など、枚挙にいとまなく魅力的な男がゾロゾロ出てくる。しかしここでの男のドラマは“男の友情”が“男の色気”に昇華するなんていうウツクシキものではなく、もういきなり性愛と欲望の渦巻く世界なのだ。しかし、美しい。そのストレートなのにまがまがしい感情が、闇にきらめく刀のように美しいのだ。その世界を映し出す栗田豊通カメラマンの映像の美しさには本当に息を呑む。突き放した寒々しさを感じる、その冴え冴えと浮かび上がる黒、夜間撮影のおさえた色味、その青、闇に浮かび上がる妖しいまでの松田龍平の白い肌がゾクゾクと鳥肌を立てさせる。この完璧な構図、四角い画面に紙芝居のようにきっちりと人物が、美術が配置される。歩いてきた人物も剣を振るう人物もかっちりとそこに収まる。その美しさ。こんな性愛の世界を描いていながら、この禁欲的な美しさはいったい何たることなのだ、禁欲的だからこそ、官能が匂いたつのか。

どこでもさんざん言われていることだと判っていても言わずにはいられないワダエミの衣装の素晴らしさ。黒の隊服、羽織を脱ぐと着流しのようになるその色気、羽織はまるで戦闘服のように後ろ襟が立ち、“男だけの組織内の愛と欲望”をよりいっそう際立たせてゾクリとさせる。そして幻想の場面で惣三郎=松田龍平が着る白と赤、それぞれの一重の着物の恐ろしいまでの色気は、衣装が役者のオーラを最大限に引き出すことがこれほどまでに可能なのだと証明するものだった。あの場面の松田龍平は本当にヤバかった。

その場面で加納惣三郎は、おそらく自らワナに陥れた田代を斬るのである。それを傍らで見守っているのは沖田と土方。田代と惣三郎が斬りあう場面は、まさしく殺気と色気の凝縮。ふてぶてしい、しかし、胸にグサリと突き刺さるほど美しい嗤い顔を見せる松田龍平の赤い唇が恐ろしい。そして、形勢不利になったと思われた彼が、田代に許してくれ、と哀しげな表情でつぶやき、なにごとか、きこえない言葉をさらにささやくと、ふと田代の力が抜け、その隙に惣三郎は彼を斬りぬくのである。いったいあの場面、何を言ったのだろう。二度観ても私には判らなくて……松田龍平自身が考えて言ったというその台詞が気になって仕方がない。そして、土方とともに帰ろうとした沖田が、なぜ引き返したのか、惣三郎のもとに行ったのかも……。

キャスティングが発表された当初こそ、松田優作の長男が……と何度も取りざたされた松田龍平が、今ではそんな言葉もすっかり聞かれなくなった。それもかなり早い段階で。男くさい、シンボル的な存在だった父親とは全く違う。そう、これがオーラというものなのだろう、松田龍平の、魔力的ともいいたいしなやかで強烈な驚くべき個性がそうさせているのだ。これは、凄いことだ。私は松田優作をリアルタイムで知らない。そのことに今までどことなく引け目を感じていた。でも今は、この松田龍平という俳優と同じ時代を生き、その役者人生を見つめていけることを、本当に、とても嬉しく思う。★★★★★


今宵かぎりは……
1999年 68分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:小林政宏
撮影:広中康人 音楽:山田勲生
出演:葉月螢 沢田夏子 本田菊雄 村木仁 久保田あづみ 佐々木ユメカ 羅門ナカ 岡田智広

1999/5/3/祝 劇場(銀座シネパトス)
団地の、隣同士に住んでいる若夫婦同士。話題といえば、セックスだけ(ま、ピンク映画だからね)。夕食に肉を“食わせて”(食べさせて、ではなく)「すごいわ、やっぱり特上のロースだったからかしら」なんていうセリフで笑わせ、「昨日は凄かったの、三発よ、三発」と隣の奥さんに自慢げに言う妻、朝子(葉月螢)。隣に負けまいと、あまりその気のなさそうな夫に「今日は三発、いや四発よ!」とけしかけるその隣の奥さん、友子(沢田夏子)……とまあ、冒頭しばらくは、こんな含み笑いめいた展開が続くのだが、お互いの夫が飲み屋で二人の女(OLとプータロー)と出会ったことから少しずつ歯車が狂いだしていく。

愛妻家で、他の女と関係を持つなんてタイプじゃないと自ら言い切る朝子の夫、田向と、言い寄られたその男を羨ましがる、友子の夫である太った男。最終的には二人の女がそれぞれ交替に二人の男とセックスをし、そして友子も昔の男と関係を持つ。朝子はどうかというと、突然押し込んできたストーカー風の男にレイプされる。彼女だけが、自ら望まないセックスを強要される。殴られて目のふちを赤くして、むき出しにされた胸もそのままに、大きく足を開いて脱がされた下着をくるぶしにまとわりつかせたまま、暗くなるまで一人部屋の中で横たわる朝子の痛ましさ。彼女は夫の帰宅を待っているのだろう。その頃夫が二人目の浮気相手と“合意のセックス”をしているのも知らずに……。やがてのっそりと起きだした彼女は冷蔵庫をあけ、漬物を取り出し、炊飯器に残っていたご飯をよそい、「いただきます」と言って食べ出す。電気もつけずに……。扉のあいた冷蔵庫の前でしゃがみこみ、中をぼんやりと見つめる朝子は、レイプされる前、買い物から帰ってきて買ってきたものを冷蔵庫に入れる時に同じ姿勢を取っていて、そとみはまったく同じながら、内側をけがされてしまった痛みを否応無しに感じさせるのだ。

若夫婦はともに避妊を全くせずにセックスをする。ともに子供はいない。大して気にも求めてなかったのだが、後に夫婦二組で温泉旅行に出かけた先で(実はその温泉旅行は友子の夫がOL達と示し合わせた上でのものだったのだが)妻二人とも(はっきりと明示したわけではないが)子供を堕ろした経験を持つことが明かされる。子供の出来ない夫婦。それを埋め合わせるかのように連日セックスにふける彼らは、決して埋まらない空虚な穴を懸命に埋めようとして、実は逆に掘り続けているような空しさを感じる。特に愛妻家で、妻とのセックスの相性も良く、何の不満もないはずの朝子の夫が妻がレイプされていることも知らず、二人目の女と情熱的なセックスをしている描写を見せつけられるとき、女はともかく、男は肉体関係を持つ女は割と誰でもいいんではないか、誰とでも相性良く出来るんではないかという女がわの疑問がふつふつと湧いてきて、空しさにいっそう拍車をかけるのだ。

ぽっかりと都会から外された、しかし全くの地方でもない、摩天楼を遠くに眺める原っぱの挿入が印象的で、それはまるでアイデンティティを模索しながら都会への憧れも隠せない浮遊した世代を象徴しているように思える。子供が出来ないことで、夫婦としての価値を見出せないでいる、浮気に罪悪感を持ちつつも(それは妻と上手くいってないわけではない、むしろ外見上は全く上手く行っているからこその、罪悪感)その魅力に抗えないでいる、自分の自意識がわからなくなる感覚。

……やはり葉月螢は素晴らしい。この人のふわりと浮いているような感覚がたまらなく好きだ。★★★☆☆☆


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