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「ら」


1999年鑑賞作品

ライフ・イズ・ビューティフルLA VITA E BELLA
1998年 117分 イタリア カラー
監督:ロベルト・ベニーニ 脚本:ロベルト・ベニーニ/ヴィンチェンツォ・チェラーミ
撮影:トニーノ・デリ・コリ 音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
出演:ロベルト・ベニーニ/ニコレッタ・ブラスキ/ジョルジョ・カンタリーニ/ジュスティーノ・ドゥラーノ/セルジオ・ブストリック/マリサ・パレデス/ホルスト・ブッフホルツ


1999/7/2/金 劇場(シネスイッチ銀座)
なんの予備知識もなく観はじめてしまえば、この作品がホロコーストをテーマにした作品だとは、前半の展開ではよもや思わないだろう。“チャップリンやバスター・キートンを思わせる”と言われる監督・主演のロベルト・ベニーニの動きはしかし、玉子や植木鉢で頭をガツンとやられたりするコテコテのギャグでほとんどドリフのノリだが、とにかく可笑しい。イタリア男とはかくなるものか、あるいは関西人をふと思わせるような圧倒的なしゃべくり、口説きまくり。これはラブコメディとしか思えない展開なのである。実際、ラブコメディとしてだけでも充分観るにたえる作品に仕上がっており、例えば後半をばっさり切って、ラブコメディの映画ですよと言ったって通じちゃうくらいなのだ。ただ口説きまくるだけならただのしつこい男なのだが、天から鍵が降ってきたり、濡れた帽子を通りすがりの男と取り替えたりと、つぎつぎと先回りしてまるで魔法のように彼女に思わせる徹底ぶりはまさしく驚異的で、はては婚約パーティーから馬に乗って彼女を連れ出してしまう最上のロマンティックさ!

しかし、これはホロコーストの映画なのである。前半徹底的に陽気なラブストーリーに徹しておいて、その比較対象の意味も含めて後半にシリアスな展開を持ってくるあたりは、「ボンベイ」を思わせもする。ユダヤ系であることを全く隠そうとせず、ついには収容所行きの列車に載せられてしまうベニーニ扮するグイドと息子であるまだ幼い少年ジョズエ。そして夫と息子を追って列車に乗ってしまった妻ドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)。ただならぬ雰囲気をジョズエに悟られまいと、これは旅行なんだ、と言い聞かせるグイド。そして収容所につき、これまた尋常でない、疲弊した人々を目の当たりにしてグイド自身も腰がひけながらも、息子には、これはゲームで、ママに会いたがったり、おやつを欲しがったりせず、大人しく隠れていれば点がもらえ、1000点たまってトップにたったら戦車がもらえる、と言い含める。

さすがに収容所のモノトーンの空気の中ではグイドの陽性のキャラも沈んでしまうのだが、いや逆にこの異様な雰囲気の中に半ば浮き上がるようにカラ元気のようにそれでもひたすらしゃべくりまくるグイドの姿が、この状態は異様なんだと、おかしいんだと主張しているようにも見える。人間が薪のかわりに焼かれるとか、ボタンや石鹸にされてしまうと聞きかじった息子に、ここでの生活がゲームだということを終始一貫して貫き通してしまう。それもまたホロコーストに向けた辛辣な批判であり、ユダヤ人だけを選択して迫害する“ゲーム”(何の真実性もないということを暗に揶揄している)に参加させられてしまったなら、そのゲームを楽しんでやろうじゃないか、というもはや主張である。これは今までのホロコースト映画には見られなかったものだ。

ドイツ語が判るふりして、珍妙な同時通訳をしたり、見張りの目を盗んで生きていると信じている妻に向かって構内放送で呼びかけたりと、彼のゲームの楽しみ方はまさに堂に入っていて、しっかり笑わせてくれる。大好きなパパの言うことをひたすらに信じるジョズエ少年は言いつけを守って隠れ続け、架空の点数を稼いでいく。前半部分でジョズエが風呂嫌いだということが描かれ、それが伏線となって彼がガス室でのシャワーを逃れるエピソードも効いている。

グイドのかつての知り合いだった軍医があらわれ、助けてくれるかと思いきや、彼はグイドがなぞなぞ名人だったことしか頭になく、「このなぞなぞを解いてくれ。夜も寝られないんだ」と泣きつくありさま。がっくりきたグイドが息子を抱きかかえて構内を歩いていると、山積みにされた死体を見てしまう。色を失うグイド。さすがの彼も、この残酷な現実の前では、それを笑いのめす力はない。

あるいはこの時、グイドに死の影が忍び寄ったのかもしれない。戦争終結の報が届きながらも、いやだからこそか狂乱状態になる収容所内で、息子と妻をなんとか脱出させようとはては女装し、はてはハロルド・ロイド並みにアクロバティックに壁にはりついて奔走するグイド。「周りがすっかり静かになり、誰もいなくなってからでないと出ちゃだめだ。そうでなければ失格になる」とジョズエ少年をハコの中に隠し、そこからジョズエが覗いているまさに目の前でドイツ兵に捕まってしまう。しかしこれはゲームなんだよ、と目配せと表情、おどけた歩き方でせいいっぱいジョズエ少年にアピールするグイド。しかしその直後、グイドは物陰に連れ込まれ、そこに銃撃の音だけが連続して響く。一瞬の出来事。その場面は映されず、人の死とはこんなに一瞬なのか、とそのあっけなさに戦慄する。

周りが静寂に包まれ、ジョズエ少年が表へ出ると、そこにアメリカ兵が戦車に乗ってやってくるものだから「ほんとに戦車だ!」と狂喜する彼。若いアメリカ兵は彼を戦車に乗せてくれ、チョコレートを与え、収容所から生き延びて元の世界へ戻っていく人々を先導する(ある意味、ちょっと恥ずかしいくらいのアメリカに対する好意的な表現だ……それでいいのか!?それともこれもまた皮肉なのだろうか……)。その中にジョズエは母親の姿を見つけ、感動の再会を果たす親子。まさしくグイドが命を与えた二人であり、いつかこのジョズエ少年が成長して、全てのことを知った時、父親はこれまで以上にヒーローになり、ホロコーストのあやまちを決して忘れないだろう。

一見、不謹慎にも見えるホロコーストでのグイドの言動は、しかしその逆説的な意図で、ストンとこちらの胸に届いてくる。むしろ、正面から描いた戦争映画が、そのエセヒューマニスト的な正義感を振りかざした主義主張で辟易させられることが多い昨今、ベニーニのとった方法は難しく、勇気のいるものだが、見事に成功した結果、人の心に届く作品となり得た。そして驚くべきことに、コメディ作品としても希有な良質作品になったのだ。★★★☆☆


ラッキーロードストーン
1998年 分 日本 カラー
監督:高橋ジョージ ささきまさひこ 脚本:森岡利行 高橋ジョージ 田中敬久
撮影:西久保維宏 音楽:THE虎舞竜 入江純
出演:高橋ジョージ 三船美佳 田中美奈子 喜多川美佳

1999/2/23/火 劇場(シネマカリテ)
この映画を観て16歳と40歳のカップルが文字での情報より不自然ではないということは判った。というより、きっと美佳ちゃんが、大スター、三船敏郎の娘ということで、早くから大人の世界に接していたこともあるだろうし、年の離れた両親を見て育って、年齢差に対する先入観を持っていなかったせいもあると思うが。だって、特に彼女が大人びているとかいう感じはせず、ちゃんと16歳のはちきれん若さ(古い言い方……)を持っているものね。それに加えて高橋ジョージさんがいわゆる40歳のオヤジではないこともあるんだろう。

いやー、それにしてもこの高橋ジョージさん、一体何にこだわっているんだか、愛すべきクサさと言うのもちと誉めすぎのような気すらする。大体、ポンコツのハーレーとパンクなヒッチハイク少女、というのもこの日本を舞台にしちゃひたすらクサいが、全編にわたって演出されるシーンや台詞のクサさときたら、もう身悶えして恥ずかしくて劇場を逃げ出したくなってしまう。夕暮れの海岸を歩いている二人のシルエットをロングでとらえた画はまるでジグソーパズルで東急ハンズに売ってそうだし、雨で窓ガラスが洗い流されてる外から二人を捕らえたショットとか、その時に研一(高橋ジョージ)が回想する葉子(田中美奈子)との別れのシーンがどしゃ降りの雨の中で(!)、研一を裏切って通報した彼女に彼が銃を突き付けると、彼女が抜いておいた弾丸を差し出して地面に落とすとか(クッサー!)空に飛行機が飛んでいるのを研一が見上げ、それに向かっておもちゃの拳銃(中から銀色の紙吹雪が出る)を撃つのを(それも上から見下ろす形での、顔と拳銃を突き出した腕のアップだぜ!)青のフィルターをかぶせて撮ったショットとか、もう、枚挙にいとまなし!って感じで、そう、なんか、硬派系の少年漫画に出てきそうな世界なんだな。

ハーレーが日本の田舎道を走っていく姿は思っていたよりおかしくはなかったけど。それと台詞のクササがまたすごくて「今見えてる星だって、もうないかもしれないでしょ。ないものだって見えるんだよ。」だのとお星様にたとえてロマンを語るくだりも凄いが、研一が裏切った葉子に会いに行った先でのシーンにまさるものはない。研一に葉子が「ごめんなさい、私だけ幸せになって」という台詞もいつの時代の台詞だよ!とどっひゃーだけど、それに対する研一の「今まで苦しめてごめんな。それを謝りたかっただけなんだ。泣くなよ、旦那と子供が変に思うぜ」という台詞がまた追い討ちをかけ、さらに去っていった研一に向かって葉子が「……ありがとう」というのでクサさ完璧!で、のけぞってしまった!

……でもある意味ここまで徹底しているのは凄いことかもしれない……確信犯だったりして。それにさあ、そんな普通に拳銃持ってるのもおかしいし、それに対して悠夏が「殺しだけはしないって約束して」と言うのもおかしい。それとも説明はなかったけど、彼がパトカーに乗ったことがあるというのは刑務所に入っていたからで、それは殺しだったってこと?だったら説明しろよ……。惹かれあう磁石という小道具も(小道具というか、まんまタイトルロールだけど)ストレートすぎて恥ずかしい。それと、悠夏が自分を捨てた母親に会いに行って、最初、子供がいて裕福そうな母親に怖じ気づき「家を間違えました」と言って逃げ出すんだけど、その後またクサさ爆発の研一の説得によって再び会いに行き、母親と13年ぶりに相対するシーンで、なぜいちごのショートケーキが用意されているの?この家にはいつでもケーキがあるわけ?それとも悠夏が戻ってくる間に買ってきたんだろうか……このシーンにいくらなんでもケーキは不自然だろう……お茶だけでいいじゃない(私、細かいこと言い過ぎかなあ)。

そうそう、冒頭に研一がコンビニ強盗したり、挑発したワゴンの男二人をメッタ打ちにしたりする描写が出てきて、その後にシチュエイションが同じ場面が続くから、??と思っていたら、最初のいくつかのシーンは悠夏が見た夢で、そのトラブルを未然に防ごうと彼女が奮闘する、というものだった。確かにはっとしたような顔をして目を覚ます彼女のシーンは挿入されているけど、それが彼女の夢だということが見てるこっちにはさっぱり判らなくて、これは編集の仕方が悪いのかしらん(ちなみに編集もジョージ氏だ)。

ただ、いくつかの場面……傷を負った研一を悠夏が手当てしているシーン(傷にしみた研一がうめくと「あ、ごめん」という悠夏の台詞の調子がすごく自然!)や、ハーレーが故障して立ち往生した二人を助けてくれて、コーヒーまで振る舞ってくれたこれまたハーレーの男2人組に「スペアは持ってた方がいいですよ」と言われてコーヒーをすすりながら金八っつあんみたいな情けなさそうな笑顔を見せる研一とか、泊まったホテルで二人がポテトチップやらお団子(!)やらサクランボ(種を連続して口から発射する美佳ちゃんのお見事なこと!それを真似しようとしてつまるジョージ氏がまた可笑しい!)やらをほおばりながらテレビを見て笑い、ついでのようにプロポーズの言葉を口にしたりする一連のシーン(ここはリズムのある編集も抜群!)はそこだけ別の映画のようにポップでキュートな魅力にあふれていて、この調子で全編撮っていたら、さぞかし素敵な映画になったのに……と思う。そこには地の二人(あくまでこちらが想像する、だけど)が出ている感じで凄く可愛いんだもの。

音楽はTHE虎舞竜と入江純で、そのクサいシーンに使われているヒーリング・ミュージックっぽい(これが入江氏なんだろう)と虎舞竜の音楽がはっきり分かれているのがちょっとなあ……。それに、エンドクレジットで流れる同名主題歌「ラッキーロードストーン」はすごくパンクでクールなのに、何で映画はこんなにクサくなっちゃうのかしらん。ラストクレジットの“三船敏郎氏に捧ぐ”のは気持ちは判るがちと恥ずかしい……。★★☆☆☆


ラッシュアワーRUSH HOUR
1998年 97分 アメリカ カラー
監督:ブレット・ラトナー 脚本:ジム・コーフ ロス・ラマンナ
撮影:アダム・グリーンバーグ 音楽:ラロ・シフリン
出演:ジャッキー・チェン/クリス・タッカー/エリザベス・ペーニャ/トム・ウィルキンソン

1999/3/12/金 劇場(渋谷東急)
うー、やっぱりジャッキーにはピンで主役を張って欲しいよなー。全篇ジャッキーのアクションが鎖のようにつながってエンディングになだれ込むという、その止まらない疾走感がジャッキー映画たるものなんだもん。この口先だけで世の中渡っていく男、クリス・タッカーがジャカジャカ喋っていると、ジャッキーのアクションもただ唐突なだけに見えてしまう哀しさ。特に前半はジャッキーが英語が喋れないフリをしているせいもあってなんだか食われてるし……。

でもでも確かにアクションは一級品。往来でのジャッキーがクリス・タッカーから逃げまくる一連の流れは本当に信じられないし、もうこれはジャッキー映画では毎回の定番、椅子を自在に使ったクリエイティブなアクションにはまったくワクワクさせられるし、中国領事館に忍び込んだ時に見せるアクションは、スパイよろしく塀に軽々とジャンプして飛び越えたり(ラストのNG集でここの失敗シーンを見ることが出来る!)、何といってもクライマックスの、目も眩む高さにぶら下がったところから、クリス・タッカーが広げる飾り布(?)に飛び降り、消防訓練みたいに凄いスピードで滑り降りてくるあのスペクタクル!

音楽があの「燃えよドラゴン」のラロ・シフリンというのが嬉しいじゃないの!そして今回は監督も製作会社も向こうだから、ジャッキー映画の冒頭にいつも見ていたゴールデン・ハーベスト社のアナクロなオープニングもなく、こりゃおなじみのNG集もないかーとちょっとガックリしていたらこれがあるんだな!これは嬉しかった。台詞が上手く滑らないというドラマNGが多かったのはアレだけど、お楽しみのアクションNGもたっぷり観られたし。でももうすっかり英語が堪能になってるジャッキーがほんのちょっとの中国語の台詞に四苦八苦しているクリス・タッカーにニコニコしているところはなんだかとっても嬉しくなっちゃったなー。NG集のジャッキーの方がずっとチャーミングなんだから困ってしまう。★★★☆☆


ラン・ローラ・ランLOLA RENNT
1998年 81分 ドイツ カラー
監督:トム・ティクヴァ 脚本:トム・ティクヴァ
撮影:フランク・グリーベ 音楽:トム・ティクヴァ/ジョニー・クリメック
出演:フランカ・ポテンテ/モーリッツ・ブライプトロイ/ヘルベルト・クナウブ/ニナ・ベトリ/ヨアヒム・クロール/アーミン・ローデ/ハイノ・フェルヒ

1999/7/16/金 劇場(シネマライズ)
全篇走ることが主軸であるという点で、即座に「弾丸ランナー」を思い出させる。そして、違ったシチュエイションが提示されるという点では「スライディングドア」を。後者はともかくとして、このトム・ティクヴァ監督、「弾丸ランナー」の存在は知っていただろうか。と思うほど、映画をつらぬく走ることへのカタルシスが似ているものだから……。「弾丸ランナー」は1996年度作品。そしてこの「ラン・ローラ・ラン」は1998年度。サブ監督は様々な映画祭で多くのファンを作っている人だし、「弾丸ランナー」も各地で上映されているはず。どこにも言及はされてないけど(誰か突っ込んでもよさそうなものだが……)影響関係をどうしても感じてしまう。

「弾丸ランナー」は「ラン・ローラ・ラン」のようなタイムリセットはなく、本当に映画の82分間、三人の男達が走って走って走りぬく。そういう意味では「いくらなんでもそんなに(しかも全力で!)走り続けられないよ!」と突っ込みたくなる荒唐無稽さがまたたまらなく魅力的で、その82分間、少しも飽きることはない。そしてこの「ラン・ローラ・ラン」面白いことに上映時間が81分と、こんなところまで似ている。「弾丸ランナー」が最初の目的が次第にどうでもよくなって、“走ることの気持ち良さから走る”ということに変わっていくという展開になるのに対して、本作は恋人を救う金を作るため、というポジティブな目的のため、他に寄り道することは一切なく、しかも女の子が全力疾走する。

そして「弾丸ランナー」と決定的に違うのは、タイムリセット。ローラが走る実質的時間は本当に20分弱だけで、それがわずかなタイムラグを起こしながら、三回繰り返されるのだ。20分間だけというところが「弾丸ランナー」と違ってリアルだが、三回繰り返されるところが非リアル。何も知らないで観ていたから、冒頭20分ほどを過ぎたところでいきなりローラが警官に撃たれて死んでしまって、えええ、そんな短い映画だったの!?(んなわけない!)とのけぞったが、そうしたらローラが小さく「ストップ」と言う。たちまち時間が巻き戻り、ローラの部屋の赤い受話器が中空に舞いあがるところからまた始まるわけだ。

これはまさしく現代っ子の(死語か?)発想で面白い。どこでも言及されているように、これは容易にロールプレイングゲームの影響を思い起こさせる。しかしこのローラ、学習能力が欠如してるんだか、二回目も三回目も同じように金を都合してもらいに父親のもとへ行き、失敗し……と繰り返すのだ。とは言いつつそこにはわずかなタイムラグが生じ、二回目、三回目とも展開と結果はもちろん違ってくるわけなのだが、かなりな部分を同じ事で共有しているので、三回目ともなるとなんだかちょっと飽きてきてしまう。RPGの影響があるとはいえRPGではなく、二回目、三回目のローラもそれぞれただ一回しかない一瞬を生きているのだと考えれば、学習能力なく、同じ人のもとへ同じように金を求めていくのも無理からぬ事なのかなと思わなくもないけど、毎度似たような映像につきあわされるこっちは、たまには違う人のところに行けよ……などと思ってしまう。

アニメーションが併用されるのは面白いのだけど、それがそれぞれのエピソードの冒頭、ローラがアパートの階段を駆け下る場面のみで使われているものだから全体から見るとアンバランスで、それなら使わない方がサッパリしている気がするのだけど……。それに、ローラが道々激突する人々のその後を三秒間(監督弁)写真を使ったフラッシュバックで描くのも、こうして文字で書くと確かに面白そうだが、実際は邪魔でうっとうしい感じしか与えない。走る、それだけをコンセプトにしたシンプルさがこの作品の最大の魅力、それを飽きさせないようにとの思いなのか、そうしたごちゃごちゃした細工がその魅力を削いでいる気がして仕方がない。そんなことしても、やっぱり飽きちゃうのは、つまり別なところに理由があるのだよ、ティクヴァ監督。

第一ユーモラスさに欠けるしねー……とはどうしても「弾丸ランナー」と比べてしまうから出る言葉なんだけど。そして三回目のエピソードでは恋人、マニの方でもともとの盗まれた金を盗んだホームレスから取り戻し、ローラが自らカジノで稼いだ、いわばキレイな金が10万マルク、まるまる二人の元に残るという、なんだかとっても健全な幕切れで、半ば拍子抜け。しかもマニとの待ち合わせ場所に向かうローラが救急車の中で癒しの超能力を発揮して瀕死の男性を救ったりもしてしまう。どうもマジメすぎるなあ……。

“走れ、ローラ!愛のために”の惹句は80年の米映画「歌え!ロレッタ・愛のために」からまんまのいただきなわけね。真っ赤に染めたゴワゴワ髪を振り乱し、時に発する奇声がグラスや時計をこっぱみじんにする、アニメキャラになりそうな、マジックで描いたようなヒロイン、ローラの造形は見事。彼女もまた全篇走らなくてはならないということで、足を痛めないようにとか、体力作りをしたのだろうなあ。でもその上半身、特に肩から二の腕にかけての見事な筋肉に、ああ、この人はもともとスポーツウーマンなのだろうな、と容易にうなづける。ま、ちっと割れぎみのアゴが気になるけどね。それに対して恋人のマニの凡庸さが……でもそれはローラとの対比で正解かな、やっぱり。★★★☆☆


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