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「み」


1999年鑑賞作品

ミートボールマシン
1999年 70分 日本 カラー
監督:山本淳一 脚本:山本淳一
撮影:美佐田幸治 音楽:古橋幸雄 羽石敏
出演:渡邊稔久 佐々木暁子 塙雅夫 相馬里乃 内屋敷保 黒沢ヒロオキ


1999/5/26/水 劇場(中野武蔵野ホール)
肉体破壊、轟音、絶叫、そしてコマ撮りの手法で、もう即座に「鉄男」を思い出すのだけど、というより、このコンセプトってまんま「鉄男」じゃないかと思うくらいなんだけど、鉄の冷たさと熱さ、非情さと激情が渦巻いて、その疾走感の中にたとえようもない美しさをさえたたえていた傑作だったかの作品に対して、本作は目を突き刺して張り付いているバツ印ついたボール状のものとか、背中から煙吹き出すとか造形がどこか幼稚な感がぬぐえないのが痛い。途中でこのバケモンを追う科学者だの、どうして彼らがあらわれたのか、だのといった状況説明がされるのも、少年科学小説みたいでジャマである。

肉体の中で、まるで命令するかのように、いや、あれは一緒に動いているのかな、細胞というか、血肉の固まりが人間のような動きをして“ミートボールマシン”が取りついた人物とシンクロする。それはまるでその動きがそのままロボットの動きとなる「エヴァンゲリオン」みたいである。最初のうちはなんか赤いドロドロしたものを映したショットを執拗に挿入してきているだけかと思ってわけが判らなかったのが、そうと判ると結構面白い。なんだか変に照れたような動きまでする。

盾人間がちょっと笑えたかな。バケモンの餌食になって生きながらにしてぐるぐる巻きにされて、盾にされてしまう。まんまマンガチックな単純な人間の姿にアルミホイルを巻いたような格好で、ミサイル受けたりしちゃっていやあ、かわいそう。全体にブラシがかかったような、水色ベースの柔らかさを持つ画面が、つややかな血肉の画面と対照的に交互する。そして妙に哀切な音楽が(作品に合ってるかどうかは疑問だけど)印象的。

オープニングタイトルで「MEATBOWL MACHINE」と出たんだけど、BOWLってことはないよね?それとも特別な意味でもあるのかしらん?でもチラシではちゃんとMEATBALLになっている。しかしいくらなんでもフィルムに映している方が間違っているってアリかなあ……舞台挨拶で来ていた監督が「3年かかった」作品だと言っていたけど、それでタイトル表示間違うってことは……ないよね?★★☆☆☆


Mr.PのダンシングスシバーMr.P.’S DANCING SUSHI BAR
1998年 90分 日本=アメリカ カラー
監督:田代廣孝 脚本:田代廣孝 田代智子
撮影:サーシャ・レンドリック 音楽:クリストファー・ホールデン
出演:フランク・マクレイ/ナンシー・クワン/デボラ・クリストファーソン/サイ・リチャードソン/ロイド・キノ/ジャッキー・ディバディン/ゲイリー・グロスマン/シャロン・アルシナ/オリビア・ブラウン

1999/10/4/月 劇場(シネマ・カリテ)
真の意味での戦争を描く映画を作るには、やはり第三者、あるいは、被害者からの視点が絶対条件なんだと、改めて思う。日本は原爆映画は作れても、「風の輝く朝に 等待黎明」や「南京1937」のような映画は作れない。自らの加害者意識が希薄だからだ。それと同じく、アメリカにはベトナム戦争関連の映画はあふれていて、一見自らの加害者意識に苦しんでいるように見えながらも、その実、それによる自分たちの精神的な後遺症や、同胞の死を悼むという、被害者意識からの自慰的な映画に終始している。本作は、ベトナムの帰還兵で、何千人もの、それも女子供を殺した男がその罪に苦しみ、ラストでベトナムを実際に訪れ、まっすぐに自分の罪と対峙することで、反戦を訴える作品として結実している。なんでも、ベトナム戦争後、アメリカのスタッフによるベトナムロケは初めてなのだという(監督は日本人だけど)。一見ただのどかなだけに見える田園風景と、穏やかに働く民の描写が、ここでたくさんの人を殺したという主人公ブルースの嘆きと祈りによって、胸に突き刺さる場面になる。ニュース映像なのか、瞬間的にベトナムの凄惨なモノクロ映像は挿入されるものの、特に作られた殺戮場面はない。そんな場面よりも、この、稲穂が風に揺れるラストシーンの方が、よほど戦争の悲惨さを物語るマジック。

とはいえ、これは「Mr.Pのダンシングスシバー」である。最初のうち、“黒人初の寿司職人”と“ベトナム帰還兵”を一緒に語るのが、欲張りすぎじゃないかなとも思えて……それというのも、物語がここまでベトナム戦争に突っ込んでいくとは思わなかったものだから。黒人の寿司職人というユニークな設定から、自ら店を持とうと奮闘するアメリカンドリームの話を軽いタッチで描く物語を想像していたから、最初のうちは違和感があったのだ。実際、中盤までは彼は帰還兵としての苦しみよりは、人種差別の方に苦しんでいて、勤めていた寿司チェーンの店長が、店を持たせてくれるというのに本社が反対したことで、恩人で友人の日本人店長を殴って店を辞めてしまい途方に暮れる。そして妻ミツコと一緒に金策に走り回り、ついに自分たちの店をもつにいたるわけだ。その名も「Mr.Pのダンシングスシバー」。歌って踊れて寿司が食えるという、アフリカンアメリカン(かな?)独特の発想と、その大きな手で握られるビッグな寿司、考案したピーナツ・バター寿司が評判を呼んで店は大繁盛するまでのくだりは、まさしく楽しい雰囲気でいっぱいだ……と言うには至らないほど描写は淡々としてて、食い足りないけど。特に肝心の“ダンシングスシバー”という設定が今一つ使い切れてないのが惜しい。

もともと反戦運動家で、今でもデモ活動をしている妻のミツコは、ただただウェイトレスをしている日常に我慢が出来なくなり、ブルースとの間に亀裂が入りはじめる。たしかに愛し合っている、信頼しあっている、だけど、その前に一個の人間であるということ。若いカップルのラブストーリーでは見落とされがちな、しかし人間同士として一番重要な部分が、この年の、お互いやりなおしの夫婦だからこそリアリティを持って描出される。金策に走っている時に知った、捨ててきたはずの元家族……離婚した夫と子供が、半年前に死んでしまっていた事実もミツコに重くのしかかってくる。……駆け落ちとはそこでハッピーエンドになるほどロマンチックではないのである。

先述したラストで、ブルースは「やっとこれで自分の人生を憎まずにすみそうだよ、ミツコ」と静かに語った後、その田園のあぜ道から転がり落ちるように倒れるのがずっと引いたカメラで映し出される。「ブルース!」というミツコの悲痛な叫び。そこでカットアウト。ブルースが自分の罪を犯した土地に受け入れられるようにして命尽きることは、確かにキリスト教的な救済の視点を感じるが、ブルースが救済されるにはそこで彼は死ぬしかなかったのだろうか。もう一度寿司職人として、そしてミツコとの夫婦生活を取り戻すことすら許されなかったのだろうか、と……。ちなみにそのミツコとの最後の会話で店の名前のMr.P’SがMr.PEACEのつもりでつけたことが明かされる。

ブルースがインポテンツなのは、ベトナムの後遺症だろうか。ちょっとあざとい気もするものの、この事がブルースとミツコの精神的な信頼感を高めているように思える。何もブルースの元妻のインラン女を持ち出さなくても。ブルースの陽気な弟の、兄と義姉に寄せる愛情の深さも泣かせる。小タイトルをつけてエピソードをつないでいくことで、流れのつながりが淡白すぎて拍子抜けしてしまうのが物足りないと感じるのは、画面的にはアメリカ映画に見えるせいで、過剰表現のハリウッド映画と比べてしまうためかもしれない。なるほど抑制された表現と取れなくもないけれど。★★★☆☆


皆月
1999年 114分 日本 カラー
監督:望月六郎 脚本:荒井晴彦
撮影:石井浩一 音楽:遠藤浩二
出演:奥田瑛二 北村一輝 吉本多香美 荻野目慶子 柳ユーレイ 斎藤暁 篠原さとし

1999/11/7/日 劇場(テアトル新宿)
望月六郎監督待望の新作(待ってました!)。あ、ひょっとして「極道懺悔録」以来?だとしたら1年半ぶり、それほど経ってないのに、なんだかとても久しぶりな気がする。望月監督のどこかライトな感覚が、多作監督のイメージに感じるせいかな……。相変わらず女に股おっぴろげさせて、セックスシーンはかなりえげつなく(情事の最中男の口から女の口にツバをたらすなんてうげげなことまでする)、正直言ってそこは苦手なんだけど(あ、でも「鬼火」(望月作品の中で一番好きだ!)はそんなことなかったのになあ)。奥田瑛二はもちろんだが、ああ、北村一輝!思えば私が北村一輝を初めて見てうたれたのは、「鬼火」の切ないオカマ役だった。あの時はまだ北村康の名前だったけど。あ、そう言えば、あの作品で股おっぴろげてたのは、片岡礼子のかわりに彼だったっけ(笑)。本作での彼はキレやすいしがないチンピラのアキラ。登場人物の中で一番殺気だった鋭角的な演技を見せてくれるが、この人なんだかこういうギリギリの役ばっかりなんだもん。一度、こう、普遍的というか、穏やかな役を見てみたいもんだ。「CLOSING TIME」はまあそうだったけど、あれ、つまんなかったからなあ……。

「みんな月でした。がまんの限界です。さようなら」という置き手紙を残し、突然妻、沙夜子(荻野目慶子)が去ってしまった。呆然とする諏訪(奥田瑛二)。その彼の元に義弟のアキラが電話をかけてくる。「あ、アニキ、女房いる?」「女房?」「女房だよ、アニキの女房」たわむれで言っているようなこの言葉が、はからずもラストで合点が行く伏線となっている。諏訪は、見合いで結婚した沙夜子が初めての女(らしい。設定では)。彼女を愛しているという感覚よりも、彼女のために生活をたてているといった感覚。子供もおらず、彼女に去られた彼は突然自分の存在価値を見失ってしまう。呆然としたまま「腹は減っている」のに食事をとることすらも出来ない。

その諏訪を見兼ねて面倒見てくれるのがアキラ。彼は、若くて経験は浅いけれど一生懸命やっている信頼のおける組長(柳ユーレイ)に頼み込んで諏訪の就職をあっせんし、高級ソープ嬢、由美(吉本多香美)をあてがう。「勃ってたんだけど……最後までいかなかった。やっぱり沙夜子でなきゃダメなんだ」「あそこは愛情よりも技術の方が気持ちイイって教えてくれる店なんだけどなあ」深刻そうに見えて、どこか可笑しい諏訪とアキラの会話。諏訪は再び由美のいる店に向かう。何もしなくていいという諏訪を挑発する由美(あのえげつない挑発の仕方!)に、諏訪はイクことができた。そして彼女と暮らしはじめる……。

由美の意図はちょっと判りかねるところもある。最後にはもちろん諏訪を本当に愛するようになったとは思うも、どこに惚れたんだ、とアキラに問われて「決まってるじゃない、セックスよ」と答えるのが真実なのか、それとも諏訪の金が目当てだったのか、はたまた本当に最初から諏訪に感情的に惹かれるものがあったのか。なんにしてもアキラへの回答を裏づけるように、暇さえあればセックスする二人。

由美の借金を取り返すために人を殺してしまったアキラ。身を隠すためもあって、三人は沙夜子探しの旅に出かける。能登半島の皆月。そこで駆け落ちした組員とともに三人の前に姿をあらわした沙夜子。駆け落ち相手の故郷、皆月の名を聞いた時、字面なのか、語感なのか、目が離せなくなったという彼女は「あたしも、あなたも、アキラも、みーんな月なんだって思った。いつも同じ面だけを見せて、裏側を見せない。自分ひとりでは輝くことが出来ない」と言う。しかし彼女にとって、その輝くための光源は、諏訪ではなく、駆け落ち相手でもなく、アキラだった。お互い月どうしなのに。相手にとってだけは太陽になりうる存在。お互いにとってたった一人の相手。諏訪に太陽だといわれる由美も実際はそうなのかもしれない。彼女は「あたしは太陽なんかじゃない、ただのヤリマンだよ!」とのたまうけど(そこまで言わすなよ……)。

突然アキラが自首するといい出す。警察署、連行される前にちょっと、と言って、アキラがシャツを脱ぐ。背中に刺青。ハッとして駆け寄った沙夜子が言う。「刺青なんていつ入れたの」「(諏訪と沙夜子の)結婚式の日」……抱き合い、アキラの肩に噛みつく沙夜子。刺青の上を真っ赤な血が流れていく。「もっと、強く噛んで、姉さん!」セックスの時肩に噛みつく癖のあった沙夜子を知っている諏訪は呆然とそれを見つめる。その諏訪の元に近寄っていってつぶやくアキラ。「ごめん、アニキ」待ってるから!と泣き叫ぶ沙夜子の声を背に連れられていくアキラ。

由美とともに彼女の故郷へと向かっていた諏訪が、突然何かの思いにかられたのだろうか、居合わせたトラックに乗せてもらって彼女の前から姿を消そうとする。それを追いかける由美。くだんのセリフ「あたしは太陽なんかじゃない!……」を叫びながら。トラックが止まり、諏訪が降りてくる。二人がかけよる。いざ抱き合うか、という直前でカットアウトされ、車の窓から見えているとおぼしき、海に沈む太陽を流れる風景の中に映し出す。そこにかぶさる山崎ハコのテーマソング「早く抱いて」……なんかスゲー世界。

奥田瑛二は全編ボーゼンとしている印象。くたびれ、どうしていいか判らずにたたずんでいる中年男の可愛らしさ。それが由美の母性をくすぐったのだろうか。やはり北村一輝の刹那的な無軌道ぶりがピカ一。彼は本当に素晴らしい!画面をカッターナイフのように切り裂いていく。個人的にお気に入りだったのは、穏やかな笑みをたたえる、友情にあつい若き跡取り組長、柳ユーレイ。彼も日本映画に欠かせない存在になったなあ。★★★☆☆


港のロキシー
1999年 87分 日本 カラー
監督:あがた森魚 脚本:あがた森魚
撮影:白尾一博 音楽:あがた森魚
出演:岡和則 藤丸美哉 河原孝俊 山崎一 町田康 コモエスタ八重樫 もりばやしみほ 小林克也 若松孝二

1999/11/5/金 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ)
★★☆☆☆か★★★☆☆かにするので揺れ動く。単純に作品としての面白さや、役者の演技(主人公の三人、特に主役の橘人役の岡和則がヘタすぎる……)等々を考えるとかなりツラい本作なんだけど、あがた森魚監督の作品には抗いがたい魅力が確かに存在していて、それは舞台が函館だから私に感じ入るものがあるだけなのかもしれないのだけど……。なんでもジャン・コクトーの「恐るべき子供達」を下敷きにしているという。うーむ、不勉強ながら未読、ジャン・ピエール・メルビルの映画化作品も観ていない。

アイスホッケーのオリンピック候補選手である建三(河原孝俊)とストリートスケーターである橘人(岡和則)がインラインスケートが取り持つ友情で結ばれる。橘人は建三に対する憧れから、彼が橘人の姉である菜穂子(藤丸美哉)と恋仲になるのが許せない。いや、それだけではなく、橘人と菜穂子は姉弟の関係線ぎりぎりのところにいるから。とはいえ、橘人は確かに菜穂子を姉としてしか見ていないし、菜穂子もまた橘人を弟としてしか見ていない。しかし彼らはお互い姉と弟としての意識があまりにも確固としているからそれが逆に危ないものだと気づかない。菜穂子が嫌っていた父のトラウマに苦しんでいる時、橘人は菜穂子のベッドにそっともぐりこみ、彼女を後ろから抱きすくめる。その行為は彼らにとっては純粋で、しかしはたから見ると危ないことだというのが彼らには判らないのだ。

三人で海へ行くシーンが印象的。もう夏も終わりなのだろう、人気のない海。がらんとした海の家。三つの蚊帳をつりさげて、そこに映る三人のシルエット。建三と菜穂子は二人で抜け出す。戻った菜穂子に橘人は建三を一人占めするなと怒りをあらわにするが、彼は同時に菜穂子を一人占めにする建三に対しても怒っている自分に気付かない。

そんなもやもやを吹き飛ばすためのように、建三が橘人が率いるインラインスケート仲間に函館山から街を抜け、ゴールのスケートリンクに至る35キロのロードレースを提案する。このクライマックスは白眉。疾走するスケートのスピードと躍動感、寄り道する水辺でのたわむれ、真夏ではない晩夏の寂しさを感じさせる空気の中でのそれは、夏の永遠が幻想にすぎないことをはっきりとつきつけてくる。この時は長くは続かない、おそらくはこの少年の時はこれが最後なのだという、菜穂子と二人の少年の関係が均衡を保っていられるのもこの夏がきっと最後だという、予感。

路面電車が走る函館が、こんな晩夏のつつましやかな光の中に佇んでいる時、あがた森魚監督の言う「20世紀中頃の匂いのする街」というのが本当に首肯される。さびたトタン屋根の個人商店や、こじんまりしたアーケード街。そして菜穂子の勤める映画館も、都会でヒットした映画を二本立てで持ってくるといったおもむきで、この時には「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」(再映のものですな)と「ジュラシック・パーク」の二本立て。このスタイルは10年以上前、私が地方にいた時に、地方の映画館の定番スタイルだったけど、今ではそれもなくなってきている(はず)。だからよけいに懐かしい感じがする。そう映画は必ず二本立てで(それも配給会社とかもバラバラなやつだったように思う)目当ての作品より同時上映の作品が面白かったことがよくあったよなあ、超絶つまんなかった「プルメリアの伝説」の同時上映「さびしんぼう」がすごく良かったことを思い出してしまった……。

全編に流れる地方FM放送、あれはあがたさんがDJをつとめているのだろうか?何ともいえないあのもたっとした喋りとノンジャンルな音楽、それが流れてくるこれまたアナクロな、どこで見つけてきたの?てなラジオや、そのとなりにたてかけてあるギター、それに重なるシルエットと室内の夕暮れ時の沈んだ空気、全てがノスタルジック。そういやあ、チラシの裏や前売りのレイアウトデザインも、昔のそれっぽくしていてレトロな感じがめっちゃチャーミングなのだ。

菜穂子を演じる藤丸美哉が、目尻に入れたつりあげぎみのアイラインがよく似合う、ちょっと石堂夏央タイプのレトロな美少女で雰囲気がある。脇役キャストが面白いんだよなあ。腹黒そうな刑事の山崎一や、訳判らん理想論演説する町田康ににんまりさせられるも、なんたって腰ぬかしそうになったのは、ビール博士の若松孝二!あ、あやしい!★★★☆☆


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