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WiLD ZERO
1999年 98分 日本 カラー
監督:竹内鉄郎 脚本:竹内鉄郎
撮影:小林基己 音楽:ギターウルフ
出演:ギターウルフ(セイジ ビリー トオル) 遠藤雅 シティチャイ・クワンチャイル 仲条春香 種子 森下能幸 並樹史郎 梅宮誠
そう、私はギターウルフというバンドの存在を不勉強ながら今回初めて知りました。……聞いたことあるような気もするけど。リーゼントにグラサン(あ、ボーカルはリーゼントじゃないや)、革ジャン革パンを絶対にくずさない恐ろしくアナクロなスタイルで爆音と絶叫のステージは圧巻の一言!……下手すると彼らのプロモーション映画になるかと思いきや、主役にもう一翼。おおっ!遠藤雅!まったくあんた、どこ行ってたんだよ!あ、でもテレビドラマには出ていたらしいから、テレビを見ない私が知らなかっただけかあ?なんにせよ、橋口亮輔監督「二十歳の微熱」での鮮烈デビューから、NHK朝ドラ「ひまわり」では、松嶋菜々子の弟役で、彼女とはおーちがいの(松嶋菜々子ってどこかカチンと来る喋り方だししかも大根だ)の繊細で的確な演技力を披露してくれて実にその後を楽しみにしていたのが、ぱたっと見なくなったから心配してたんだよう。愛すべきバカ!なキャラを素直に演じていて、やはり彼はイイ。しかし、本作のHPでの紹介“久しぶりの映画出演がこんなんでいいのか、遠藤雅!”には笑った。うーむ、確かに。しかも現在“上海エキスプレスにてバイト中”ってあんた、おいおい!
ストーリーがどんなんだったか、あるいはストーリーなんぞ語ってもしょーもないほどなんだけど。まあ、ギターウルフがまんまの人気バンド役で、ライブハウスのヘンタイオーナー(おかっぱでイマワノキヨシローひげ、ぴちぴちの短パンは横がひも編み!)と対立してて、ギターウルフ命のロケンロール少年、エース(自分でエースってつけたんだろうな……(笑)これが遠藤雅ね。しかし彼、ギターウルフ達と同じような格好をしてるのにロックというよりロカビリーっぽい)に、実は男だった!!??美少女、トビオ、チェックのレオタード姿の武器商人女だの、行き当たりばったりの強盗に失敗したおマヌケ三人組だの(そのうち二人はラブラブ。女の方は妙におばさんっぽく、男の方はスティーブ・ブシェミ似だ)、そんでそのほかは軒並みゾンビ!?いやホント。そんで円盤状のUFOが飛び交い、それでこれは「インデペンデンス・デイ」のパクリか、頭上すれすれに抜けていく巨大UFOを実は仕込み刀(!)のギターウルフのギターが切り裂く。よーく気をつけて観ていると、結構様々な映画を忠実に模写している。ゾンビなんて、劇中で語られるぐらいにそっくりだもんね。ゾンビはそうそう、あれ、実際オリジナルもちっとも怖くなくて、むしろユーモラスだったのを、監督ひじょーによく判ってらっしゃって、もうここでのゾンビは、ちゃんと最初から笑うしかない描写。おマヌケ三人組のうち、カップルの二人がゾンビになっちゃって、ゾンビになっても純愛つらぬき通してるのが泣ける(ホントか!?)
んで実は、舞台になる旭町は全編タイロケ!(何でやねん!)“むやみにある爆発シーンも軍調達の火薬で”って、あれ全部モノホンの爆発かよ!(なんでも隣に人が住んでる部屋を一室1万5千円で吹っ飛ばしたなんてことも……)確かに大迫力だったが……スゲエ!何がスゴイって、すぐ後ろで大爆発おこしているにも関わらず、ギターウルフがバッチリの位置にキメキメのポーズでビシッと立っていることだ。あんた何者!?そして、うっわ、この超美少女(劇中では男だった!?という設定だったが……)誰だあ?と思ってたらいきなりヌードになっちゃってびっくり仰天!実は実は監督がタイのクラブでナンパした子だって、なんなんだそりゃ!?じゃあ、もしかしてほんとに男の子だったりして……まさか!ここもまた、見せ方が(監督も明言しているように)まんま「クライング・ゲーム」で、「まじかよー、男?うっそだろー」と素直なノリで狼狽するエースが笑える。そう、この美少女?トビオに惚れちまった彼が躊躇しているところへ、幻想のギターウルフがこれまたキメまくったポーズで、時にはバイクにまたがって振り向いたカッコで(笑)「愛に国境も男も女も関係ない。惚れちまったんなら行っちまえ、エース!」てなノリで出てくるもんだから、もう抱腹絶倒!エースに「ヤバくなったらこれを吹け」って笛を渡してくれるのはいいんだけど、エースが吹いてから駆けつけるまで遅すぎる(笑)。
なんかもう、!?の連続で爽快に疲れ果てる。いやまあ、例えばライブのオーナーのキレたオカマっぽさとか、今やありがちなキャラだったりもするし、そうそう諸手を挙げて面白がるわけにも行かないんだけど、非常に気持ち良く破綻してくれているのが超絶面白いのがとにかくスゴイ。監督のインタビューを読んだら、とにかく音楽畑な人で、映画もそれほど観ているわけでもなく、さらに現場の知識も全くないという状態で撮ったため、とんでもないエピソードがバンバン出てくるんだけど、そこがここまでスバラシイ?効果を生み出しているんだな。映画が好きで好きで、色んな映画や撮影技法を知りすぎちゃって、ナルシスティックに鼻につく映画作家が一方であるのに多少ヘキエキする部分もあったから、こういう、本当の意味でツッパシッた(映画的知識を知ってる上で確信犯的に突っ走っているのではなく、ということ)監督&作品を心のどこかで待っていたような気がする。ただ、それだけに、もうこの一作だけで終わってしまって、今後の映画作品がないことだって充分考えられるけどね(笑)。でも、ツマラナイ作品を垂れ流し的に作るより、一発かまして去っていく、そしてそれが伝説の一作になる、そんな監督がいてもいいと思うんだ(え、誉めすぎ?)。★★★★☆
いつものようなスタッフの明記だと、本作品に関しては一番重要な人を落としてしまうわけで。そう、コンセプトデザイン(ま、キャラデザインというか、画面に出てくるすべての画、ですな)&製作監修の天野喜孝氏。すでにイラストレーター(?)として名を馳せている氏だが、イラストで見せる緻密な画とはまた違って、動くための画、シンプルなバックに流れるようなラフな描線がとてつもなくエロティック。そう、冒頭のちらっとあるナレーション(ジーナ・ローランズ。たったあれだけのために彼女を引っ張ってくるとは……)以外は一切の台詞はなく、まさしく映像だけで描写されるわけだけど、観てるこっちはストーリーを追ったりする気にはなれない。画面、そして中のキャラはめまぐるしく展開しているし、ストーリーを追うことも可能なのだろうけど、とにかくその動きに、色の、線の、キャラの妖艶な美しさに釘付けにさせられるだけ。
しかしその性的な描写には息をのんだ。そう、あれが冒頭ナレーションで説明されていたカマール王子とブドゥ姫、なのだろうが、まるでサテンの生地で出来ているかのような、長くしなやかでなめらかな二人の舌がらせん状にからまりあい、あらわな姿の二人が重なり合いそれぞれを愛撫しあい……すると、女性の方に(何で女性の方なんだろう……)それと判る稲光がつらぬく。その間鬼神ダーニッシュの舌や黒く節だった手がかわりに姫を愛撫したり、その口の中に彼女をとらえたりするという禁断のエロさ……そしてその動きはまさしくバレエそのものなのだ。本作品はビジュアル・バレエと定義つけているのだそうだけど、そう、まさしくそう。
監督のマイク・スミス、初めて聞く名前だが、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」「ジャイアント・ピーチ」のアニメーションを担当したという。「ジャイアント・ピーチ」は観てないけど、ああ、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」のアニメって、劇中ウディ・ハレルソンとジュリエット・ルイスの二人が出会うシーンで二人をキャラクターにして挿入されていたあのキュートなアニメかあ!あのイメージとは(そしておそらく「ジャイアント・ピーチ」だって)大きく違う本作品、イギリス人だということだけれど、そう言われればヨーロッパ的なシニカルなエロティックさも感じられるんだ。
いささかやおい系の匂いがするというか、ま、それはいい意味でなんだけど、少女漫画の香りを残す顔だちのキャラが、見事に芸術的に昇華。そして一体どうやっているんだか見当もつかないんだけど、まさしく描線画が自由にしかもこれほど柔らかくしなやかに動くというある種の衝撃。色が、線が、光りがめくるめく、といった感じで全篇休む間もなく変化していくスピード。そしてクラシックさを前面に押し出しながら、その実現代音楽をしっかり聴かせるオーケストラ。この24分に凝縮された世界は、映画の可能性の奥行きも充分に感じさせる、新しい芸術作品たりえている。これは映画と音楽を融合させるというフィルムハーモニックというプロジェクトの第一弾だそうで、今後ダニー・エルフマン&ティム・バートンなんていう組み合わせの予定も!おおおー!★★★★☆
天国に行く前の1週間、自分の最も大切な思い出を選んで、それを映像にするというユニークな設定。ドキュメンタリーの要素が入り込んでいる。しかしそれは完全に用意されたドキュメンタリズム。案内人を演じる役者によってインタビューを受ける素人の人たちもまた、その内容は実際に自分の言葉ではあるけれど、自分がつい先日死んでしまった人物(やはり自分自身ではあるものの)を演じているのだ。由利徹が演じる人物など、彼は役者ではあるものの、語っている内容は自分自身のことという。しかしそれはどこかコメディタッチで、彼のキャラクターを大いに反映しており、ますますもってドキュメンタリズムとフィクションの境目が判らなくなる。誰が素人で、誰が役者であるかなど、本当に見分けがつかない。しかしそんな事はどうでもいいのだ。この作品世界の住人であるというそのことだけで充分なのだもの。赤い靴に合せて踊ったという初老の女性はお兄さんとの大切な思い出を実に楽しそうに語ってくれる。そう、その思い出は本当に楽しげなものなのに、その女性の話をふっと思い出す時、目頭が熱くなるのを感じるのだ。
物語の主軸となる案内人、望月(ARATA)と彼のかつての婚約者の夫である男(内藤武敏)、その時空を超えた三角関係。男は案内人が妻がずっと思い続けてきたであろう戦死した婚約者であることに途中気付くが、そのことを口には出さない。望月もまた、何も言わない。長いこと自分の思い出を選べないでいたその男、妻との穏やかなある一日を選ぶ。望月にあてた置き手紙……「あなたが妻のかつての婚約者だということに気づきました。私は妻との思い出を選びます。この長い夫婦生活を肯定することが、自分の人生を肯定することだと思うのです」彼は多分、自分の妻が望月との思い出を選んだのではないかと、思っていたろうと思う。そして実際そうで、そのフィルムを観た、長いこと自分の思い出を選べないでいた望月も自分のフィルムを作ることを決意する。ベンチにただひとり座り、何かを思い出しているかのような映像を。そのベンチはかの婚約者が選んだ映像の中で使われたベンチであり、彼がそのベンチに座って何を思っていたかは明かされないものの、やはりその女性のことを考えていたのか……もしそうならこんな残酷なことはない。だって、それではその女性の夫の気持ちだけが孤独に突き放されてしまうもの……。でもみんなそんなものなのかもしれない。まるで思い出の片思いである。自分が思っている分相手が思っているとは限らないと。でも本当に望月はその女性のことを考えてあのベンチに座っていただろうか?その前のシークエンスで彼に思いを寄せるアシスタントの女性(小田エリカ)に「ここのことを忘れることなんて、絶対にない」と言っている。たった一つの思い出を天国に持っていく時、その思い出以外の記憶は失われることを誰よりもよく判っている望月がそう断言したのだから、単に慰めの言葉ではなかったと思いたい。望月はここでの思い出を選んだのではないだろうか……生前の記憶以外を選べるとしたら、だけど。
そのただ一つの思い出を映像化する作業はまったくそのまま映画作りである。この映画の魅力の一つがまさにそこにあり、実際の映画スタッフである人たちが画面の中で映像作りをしているのが見られるのだもの。思い出を持つ人の気持ちを出来るだけ汲んだ映像を作ろうとあの手この手のノウハウを見せてくれるスタッフたちに、ああ、映画を簡単にこき下ろしちゃいかんなあ、などと殊勝な気持ちになってしまう。これはまさに映画の映画なのだ。
冬、である。どの季節だって選べたはずなのに是枝監督は冬を選んだ。劇中で枯れ葉や木の実を拾って机にならべる寡黙なおばあちゃん(原ひさ子。メチャ可愛い!)が「春になったら花が咲いて、きれいでしょうねえ」と言い、それに案内人(寺島進)が「きれいですよ、桜も咲きますよ」と言う。しかしそこは冬である。案内人の着ている黒づくめの服がいっそうの寒さを感じさせる。しかし、この冬の映像の手触りが素晴らしいのだ。フィルムの手触り、質感を感じさせるまるで幻想世界。やや粗い粒子の、湿った雪に閉ざされた世界、立ち枯れた木のくすんだブラウン。廃虚のようにさびがはびこっている施設の中はドライヤーを使っただけで許容電力が持たなくなるほどで、いつも薄暗いのだけど、冬のわずかな自然光を窓から入れていたり、部屋のスタンドの明かり、案内人達が資料のスライドを見ているわずかな光など、小さな明かり達を大事に大事に撮っている。それがたまらなく魅力。そうそう、そのくだんのおばあちゃんが、撮影に使われた作り物の桜の花びらにはしゃぎ、その花びらをこっそり取っておいて、天国に行く映写の日、案内人に手渡すシーンがいい。渡されたビニール袋の中の桜の花びらを見て、何ともいえない、泣きそうにも見える顔をする寺島進がとてもいい。
望月を演じるARATAと、女性アシスタントで望月が去った後案内人として第一歩を踏み出す小田エリカ、双方の少し沈んだところのある透明な魅力がとても良かった。あえて自分の記憶を選ばなかった青年(伊勢谷友介)のやんちゃなテンションも忘れがたい。ところで石堂夏央どこに出ていたの!?★★★★☆
ウェズリー・スナイプスとナスターシャ・キンスキーが盛り上がっちゃってコトに及ぼうとしているところに、その連れ合い同士ももつれ合ってるという、みんなしてセックスでしかつながってないのかよ……やめてくれえ。そりゃあ、観ている最中は、私N・キンスキー好きだし、ヤッちゃえ、ヤッちゃえ!なんて思ったけど、強盗に襲われた心を慰めているうちに……という展開の安易さと、なぜそれで愛情になる?というここでもまた「リービング・ラスベガス」でも見られた(もっとひどいかもしれない)御都合主義に唖然としてしまう。心地よい音楽とフェイド・イン、フェイド・アウトを多用したカッティングでおしゃれっぽくごまかしたってダメなんだから!(このテーマ音楽、妙に岩井俊二監督の「Love Letter」に似ていたが……)
瀕死の、それもHIV患者の親友を持ってくるという臆面もないお涙頂戴にしてその行為をあたかも純愛のように正当化するのも首をかしげてしまう。まあそりゃあさ、その親友に扮したロバート・ダウニーJrは相変わらず良かったよ。この人のでっかい瞳とその訴えるような光にはいつも圧倒される。フィギス監督でなくても、この人ってゲイの役をやらせたくなるんだよなあ……そういう空気を持っているというか。冒頭でW・スナイプスが訪ねていった時に撮られるスナップショットのあまりにも魅力的な微笑にドキッとしてしまい、同時に彼の死の予感を確実に感じてしまう。
チャーリー(R・ダウニーJr)の病状が彼の恋人によってマックス(W・スナイプス)に知らされたというから、もっとその恋人とのエピソードを見せてくれるかと思ったら、どれがその恋人?と言いたいくらい、まるで触れてくれない。おーい、チャーリーの立場はあ?これじゃ、いくら劇中でマックスが、ゲイ差別論者みたいな友人に「Fuck You!」って言ったって、それだけじゃ納得行かないよ。カイル・マクラクランがその恋人役だと思ったのになあ……しかしそのカイル、ちょっと見ない間に白いものがだいぶ髪の毛に混じって、いかにもミドルエイジ、びっくり。そういう意味でなかなか魅力的になってた。若い時よりいいかもしれない。
彼はいかにもカタいお兄さんで、弟のチャーリーに付き添っている時にはゴム手袋を常に着用し、マックス夫妻と4人ですし屋で(美味しそうだったな……あのすしと日本酒)談笑してる時[チャーリーのことは残念だが、そういう行為をしなければ避けられた。愚かだ」と言う。“そういう行為”がチャーリーのアイデンティティのただ一つの表現方法だということを思いも寄らないんだろうなあ……。
ああそれと、おーっとびっくりの、後から思えばあれはジュリアン・サンズ!チャーリーの主治医だが、チャーリーの遺志(自分が生きていたことを祝ってくれという)を継いで、葬式後に開かれたパーティーで、こともあろうにシースルーのアヤしげな衣装を着ているのにのけぞった!おいおい、君はドラアグクイーンかあ?もしかして、彼もゲイだったりして……うーん、有り得る。(ロバート・ダウニーJrの分だけ加算して)★★☆☆☆
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