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月世界の女/FRAU IN MOND
1929年 135分 ドイツ モノクロ
監督:フリッツ・ラング 脚本:フリッツ・ラング/テア・フォン・ハルボウ
撮影:クルト・コウラント/オスカー・フィッシンガー/オットー・カントゥレク/コンスタンティン・チェット 音楽:――(サイレント)
出演:ゲルダ・マウルス/ヴィリ・フリッチュ/フリッツ・ラスプ/グスタフ・フォン・ヴァンゲンハイム/クラウス・ポール/グストル・シュタルク=グステッテンバウアー
ああ、でもでも、私の目には、このヘリウスの、恋に苦しむ顔しか目に入らなかったなあ!確かに彼、科学者として侮辱される辛苦も味わうのだけど、冒頭、彼女と(彼の共同研究者である)ハンスの婚約パーティーの招待状を受け取るところから始まって、100%予期できるとはいうものの感動的なラストまで、彼女の要素なしには絶対に進まないのだもの。それにしてもこの彼女、××(役名忘れた!)最初からどうもヘリウスの気持ちを判っているみたいなんだけど、なんだってこんな肝っ玉のちっちゃいケチな男、ハンスと婚約なんかしたのかね?いや、まあそれに気づいて、なおかつヘリウスの男気に惚れたからこそあのラストになったんだろうけどさあ……。
月の世界に憧れて、ヘリウスにちょこまかとつきまとう二人、ちっちゃいじーさんとちっちゃい少年。ま、宇宙に憧れる少年はね、判りやすいキャラだけど、このじーさんが笑えるんだよなあ。もう冒頭も冒頭から、ヘリウスに疎んじられながらも彼に付き従う……まあ、一応はこの研究の仲間らしいんだけど、どうも役に立ってそうにない。それでも彼の、月に憧れる少年がそのままじーさんになってしまったような無邪気さは実に微笑ましくおかしい。
そしてヘリウスの研究を邪魔する悪役男が、悪役なのにひじょーに笑えるのだな!何が笑えるって、その髪型である。いやね、最初はマジかと思ったのだよ、七三通り越して二八、いや一九くらいになっている、丁寧に梳かれた毛足の長い前髪がね。でも、月に不時着してもんどりうって転がり、その不自然にだらんと乱れた前髪を懸命にもとの一九に直そうと櫛を入れている姿の可笑しさときたら!彼は宇宙船の一部を破壊し、誰か一人が月に残らなければ飛び立てないような状態にしてしまって息絶えるのだけど、そうしたシリアスなキャラの印象は残さないんだな、これが。
最後に月に残るのは誰か、ヘリウスとハンス、そして彼女の三人で公平でくじで決めようということになる。ここでハンスが非常に大人げなくうろたえ、婚約者のことなど微塵も考えない、自分が地球に帰りたいことばかりを訴えることで、こいつのキャパの狭さが俄然露呈するんである。ま、その前から露呈しつつはあったんだけど。ヘリウスはと言えば、これは彼のキャラクターなのか、それとも失恋から来る諦念なのかは知らないが、いつもシリアスに落ち着いていて、うーん、ちょっと町田康入ってるぐりぐりの眼力の強さだけど、とにかく断然こっちに惚れるに決まってるんである。くだんのじーさんや笑える悪役、あるいは無邪気な少年とのシーンで半ばおちょくられているようなところでも、とにかく至って真面目。可笑しさを誘発するようなぐらいのその超真面目さが愛しいぞ、ヘリウス!
彼は婚約したての幸せなカップルである二人を引き離すわけにはいかないと、二人に眠り薬入りのコーヒーを飲ませ、少年に最初の操縦を任せて、自分が月に残ることを決意する。彼を慕う少年は泣きじゃくり、嫌がって何度も彼に抱き着き……うー、泣かせるわあ!それを振り切り、一人月に残った彼が飛び立って行く宇宙船を眺め、しかしふと目を転じるとそこには彼女の姿が……!えーえーえー、予期していましたとも、もちろん。ここで彼女も残らなかったらお話になりませんもん。でも、でもね、やっぱり感動してしまいましたよ。今回のピアノ伴奏者であるアリョーシャ・ツィンマーマン氏もここぞとばかりに感動のクライマックスを盛り上げてくれるしさあ。……しかし、彼女確かにあのコーヒーを飲んでいたのに、効かなかったんだろうか……そこまで突っ込むのはヤボというものか!?
普段着状態で宇宙船に乗り込み、月でも普通に呼吸出来ちゃうあたりの無邪気さと、それでもなぜか酸素樽が破壊されることで危機に見舞われるという矛盾もよう判らんけど、ま、そのあたりは御愛敬。丸い計器類や、これまた丸っこい弾丸型のロケットが可愛らしい。でもこの辺のSF描写は、現代の科学的常識は無論取り入れられべくもない、この時代のことを差し引いて考えても、その“空想科学”という点でかなり魅力的&本格的。★★★★☆
主演や企画製作は日本ながら、キャストやスタッフの半分以上が台湾で、舞台も台湾のこの映画。水野美紀が主演に抜擢されたのは、彼女が広東語が出来てカンフーが出来るからと聞いていたので(なんたって志穂美悦子の再来と呼ばれていたらしい!)、そっちでもものすごーく期待したのに、彼女は広東語が喋れる設定にはなっていなくてほとんど日本語で通してたし、カンフーはおろかまともなアクションすら見せる場面はなかった。結局は拳銃をぶっ放すだけである。最初は武道の達人である女性という設定が、香港映画でよくあるという、撮影中に設定も物語もどんどん変わってしまうという弊害によってそうなっちゃったらしく、彼女自身もやりたりずにフラストレーションがたまったらしいけど。広東語が出来るという能力も生かされることなく……まさかそれって、つまりは通訳を使わなくていいからって理由だったわけじゃ……ないよねえ?
彼女が扮する加奈子は恋人だった日本人マフィアの恋人、伊藤が殺されたことで単身復讐のために台北にやってくるのだけど、そんなせっぱつまった感情は残念ながらちーとも感じられないなあ。彼女が遺影の前で泣く、ただその場面だけで、あとはなんだか淡々とアクションをこなしていくという感じ。いつのまにか、あれ、なんで彼女がこんなとこでこんなことしてるんだろ、あのお金のためだったかしら、て思うくらいに切実感がないのだ。
切実感があるのは、台湾側の人間の方である。特に印象的なのは、加奈子を助けることによって危険な立場に立たされるシャオハウと、彼と加奈子の間を誤解して他の男と寝てしまい後悔の嵐に襲われる、彼に惚れきってるのがほんとよく判るガールフレンドのシャオペイ。シャオペイが口を滑らせたことでシャオハウが組織に捕らえられ、暴行され、軟禁されることになる場面、そしてその後に今度は自分に死の危険が降りかかることも承知でシャオペイが彼を逃がすところなど、強烈である。
台湾マフィアの内部は、伊藤を殺したグループのリーダーであるアサンとアタイの強硬派と、まるで日本の政治家みたいに利益を第一に考えて根回ししまくるロンやミンとの間でぐちゃぐちゃに分裂しているのだが、それもまた私の頭が悪いのか今一つ判りづらいというか、こちらに響いてこない。大体なあんか、ヤクザ事務所が妙にチープなセットくさいのからして気になってしょうがない。あ、でもこれは作品全体そうなんだけど。使い込まれてない、着込まれてない、そういうピカピカしたこぎれいさが、カタログかCMか、トレンディドラマかって感じなのだ。
台湾の裏世界で飄々と生きている日本人青年、高橋(柏原崇)は結構面白いキャラクターだと思うのだけど、それを生かすチャンスもまた、監督は放棄してしまっている。彼は事務的に加奈子に情報を提供し、事務的に彼女に拳銃の撃ち方を教え、事務的に脱出する算段を整える。彼女との間に信頼関係や微妙な心の交錯があってもいいようなものなのに、まるでない。あるいはある設定だったのかもしれないが、演出のせいなのか、のんのんと演じているキャストの二人のせいなのか、そんな空気は感じられなかった。
加奈子とシャオハウの間にそれを用意していたのかもしれないんだけど、ね。シャオハウは、次の日には高橋の用意した船で台北を離れるという加奈子に、待ち合わせをしようというメッセージを残しているけど、ミンに殺されてしまったシャオペイの弔い合戦をしている彼、間に合うことが出来ない。一方の加奈子は彼を残して台北を離れることが出来ず、船を下り、画面のこちらがわに向かってまっすぐ歩いてきてカットアウト。彼女の決意やその後の予期される運命を考えれば、強い印象を残すラストシーンになるはずなのだけど、彼女があんまり淡々とした表情をしているもんだから、シャオペイとの絆にそこまでの切迫感など感じられず、困ってしまう。画的にはカッコいいんだけど、心情が……ねえ。
これは偏見かもしれないけど、やっぱりスクリーンには特別な力があって、そこで光り輝ける人とは、何か言葉では言えないsomethingを持っている人なのだ、それがスクリーンに住む住人達なのだと思うから。水野美紀は残念ながらスクリーンに光り輝く女優にはなり得なかった、と思う。ま、作品に恵まれなかったせいかな……。★☆☆☆☆
この、少女。チラシに使われている扇情的なセックス場面の写真では、わりとほっそりと見えたのだが、実際はかなり肉感的な、ハッキリ言ってしまえば太り気味の少女である。顔も、ブーたれてて、美少女といった風ではない。「乙女の祈り」でかのケイト・ウィンスレットとアブない関係になっていたメラニー・ウィンスキーに受けたインパクトとよく似ている。そのあまりに揺らぎのない言動と、圧倒的なその肉体には説明の出来ない強烈な、鮮烈な力がある。彼女は老境の画家を夢中にさせ、毎日セックスをし、ついにはその画家が望むとおり、腹上死させた女である。ふとしたことで死の直前、この画家と知り合った男、マルタンはこの少女にそれほどまでに執着した画家の気持ちに興味をひかれ、自ら自分がその立場になることを選択する。いや、彼女のその肉体が放つ否応ない力のもとに選択させられてしまう。
毎日、毎日、男のもとに通っては、つるんと服を脱ぎ捨ててセックスをする少女。早い時にはものの5分とかからない。入れて、出して、終わりである。愛撫も何もなし。キスも、部屋に入ってくる時に軽く唇を触れさせる程度。それでいて、「毎日来ていると両親がうるさいから、週二回に」などといって男を翻弄する。うるさく言われるほど時間がかかっているようには思われないが。男は彼女が他に恋人を作ったのだと思い込み(実際そうなのだが)彼女を質問攻めにし、付け回し、罵倒する。愛の言葉を口にはするものの、常に淡々としている少女とは対照的に、彼の執着度は急速に増してゆく。
画家が少女に執着した理由を知りたいがためだったはずの男が、自分が今度はその理由がなんなのか判らずに苦しんでいる。観ている観客も、あまりに彼があっという間に彼女の虜になるので、いささか驚くが、まさしくそれこそ、彼女が何度となく口にする「判らない」「理由がない」ことであり、世の中に判らないことや理由がないことなどないと信じて生きてきた、学問系バカの男をトコトンまでに打ちのめして行く。彼はなんとかその判らないことを解明したくて、彼女に切れ目なく質問の言葉を浴びせる。彼女はいつもシンプルな言葉で即答し、イヤな顔もせずに同じ答えを繰り返し、判らない時は判らないと言う。実に当たり前、普通のことなのだが、小説家であり哲学教授である男には、……そう、言葉をこねくり回すことが人生の意味だとでも考えている男には、この少女の方が異常に見える。
頭がガンガンするほど質問攻めにする男と、性器の出し入れのことしか考えていない少女の構図は、時に恐ろしいほどに可笑しく、時にイライラするほどにうっとうしい。正直、どちらにも共感することなど出来ないのだが、これが滅法面白いのだ。会話劇のスリリングさと、ボケとツッコミの夫婦漫才を目の前で見ているような。この構図は、ある意味、昔から脈々と続いてきた男と女の違いを、今までの認識とは逆方向に描いていて面白い。
それに、この少女を演じるソフィー・ギルマンのスゴさときたら!まあ、今時、新人の少女女優がいきなり大胆なセックスシーンを演じたくらいでは驚かないが(でも、本作は全篇に渡って何度も何度もだからやっぱり驚くけど)、この肉体からして既にふてぶてしく、しかしその肉体は、ルノアールの美女を思わせる(優しさはないけれど)官能性に満ち、裸になった時はもちろん、服を着ている時のムチムチ加減も(特に、その胸のデカさ!)少女にして既に爛熟した域に達している。本当のファム・ファタルとは、決して完成された美女ではないのだと、「クーリンチェ少年殺人事件」(漢字が見つからん)に感じたことを思い出したりして。男が、俺はこんな女に執着するはずはない、と最初に思い込んでいるところがミソなのであって、そうした男の、ある種の女に対する侮蔑の感情が、逆に執着を増幅させる原因になっているとも言えるのだ。女は、そうした男たちに対して、時に無意識に復讐を仕掛けているのかもしれない。
平気な顔をして二人の男を同時に愛せると言い、「彼が失業中だから楽しく過ごせるためにお金を貸して」などとしれっと言う少女のその強心臓。さすがにこの時ばかりは男もカッとなって少女の首を絞めかけるのだが、どうにか理性を取り戻して手を放した男にこの少女が「痛いわ。どうしたのよ、一体」と言うのだから恐ろしい。そして、男が最後の手段に、とプロポーズをするに至っても、「結婚するなら貴方だけだけど、モモ(もう一人の恋人)と会えなくなるのもイヤだし、それに彼と明日から二週間旅行に行くから」と、これまたとんでもない切り返しをする。……ここまで来ると、嫌悪感などという常識的な言葉もすっ飛んで、ただただスゴイ、と思うしかないのだが、この少女が、癌でもう2,3日しかもたない父親を置いて旅行に行ってしまった事実が判明すると、そしてそれを「あの子に愛なんてない」と泣きながら訴える母親を見ると、さすがに……。男は狂ったように車を走らせ、途中道端にたたずむ、少女によく似た体形の娼婦を乗せ、しゃぶらせながらメチャクチャにスピードを上げる。そして、木に衝突。足を吊られてベッドの上の人になり、ようやく気持ちが落ち着くのである。俺はあの少女によって、倦怠していた気持ちから、生きている感覚を取り戻したのだ、などと分析しながら。
少女の言葉はいつでも正直なものだったけれど、それが真実をついていたかといえばはっきりと首肯できないし、かといって男の饒舌な言葉が人生の真実なのかと言えば、それも違う。まあ、いわば、真実なんてすべて終わってしまわなければ判らないのだが。ただ、少女がセックスをすることによって「相手の愛を感じ」例え自分の愛が冷めたとしても「愛を感じると女は喜ぶわ」と言うのには、確かにある一面真実を突いてはいるのだけれど、彼女の感じている愛は、その相手もこれが愛なのだと思い込んで与えている、どこか自己欺瞞に満ちたものであって、そうすると「愛を感じると女は喜ぶ」というのは、さらにむなしいと言うしかない。しかし、それこそが真実なのかもしれない。愛が愛だけで純粋に存在することなど有り得ないのだから。相手を愛する感情は自分を気持ちよくするものだし、ましてや、自分が快感を得るための側面が絶対的に存在するセックスをもって、愛と言うことなど出来はしないのだから。愛とはいつだって自己欺瞞と一緒に存在する。だからこそ人は、そしてこの男も苦悩するのだが、少女はそうしたことを本能的に察知しているのだろう。彼女にとっての全ては、その身体で感じることすべてである。あまりにも頭を素通りしすぎではあるけれど。
それにしても、言ってしまえば男と女の痴話げんか映画がこれほど面白いとはねえ。★★★★☆