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「に」


2000年鑑賞作品

ニーベルンゲン 第一部 ジークフリートDIE NIBELUNGEN−SIEGFRIEDS TOD
1924年 144分 ドイツ モノクロ
監督:フリッツ・ラング 脚本:フリッツ・ラング/テア・フォン・ハルボウ
撮影:カール・ホフマン 音楽:――(サイレント)
出演:パウル・リヒター/マルガレーテ・シェーン/テオドール・ロース/ハンス・アダルベルト・フォン・シュレトウ/ゲオルク・ヨーン/ハナ・ラルフ


2000/3/17/金 京橋フィルムセンター
行ってみたら、100分の上映時間のはずが、大幅に変更されて144分になっていたのにのけぞり、どうやら、コマ数を招聘しているドイツのピアノ伴奏者が常日頃弾いているパージョンに変えたらしいのだけど、ひえええ、二時間半かい!とちょっと腰が引けてしまった。しかしである。そのプロフェッショナルによる伴奏を生で聞きながら鑑賞できるという超贅沢なこの企画、その伴奏者であるピアノ&ヴァイオリンのギュンター・A・ブーフヴァルト氏の素晴らしいことときたら!大体この二時間半、当然ながらひとときも休むことなく、画面にピタリと合ったそれも豪華なアレンジの演奏を、時にはヴァイオリンとピアノを同時に駆使して(!一体どうやってたんだ!?)演奏するコンセントレーションには驚嘆……ああそれなのに、私は途中かなり居眠りぶっこいてしまった……だってだって、こっちは一時間半の心づもりで来てたんだもん……と言い訳はよろしくないですなあ。

しかし、居眠りしていたとはいうものの、これはかなりタンノウである。大体サイレント映画ってそうだけど、これだけの長さで冗長なところが何一つなく、全てが濃厚に物語を紡いでいくのだから。しかも、この主人公であるジークフリート役の青年のまあ美しいことときたら!顔立ちもそうだけど、半裸の状態で登場する冒頭の、その完成された美に心奪われてしまった。腕のいい鍛冶職人に成長した王子、ジークフリートは(しかし王子がなんで鍛冶修行してんのかね?)美しいお姫様、クリームヒルトを求めて、白馬に乗って旅に出る。おいおいおい、白馬ですよ、白馬に半裸の美しい金髪の王子様! もう完璧じゃないですか。白馬ってカラーで見ると結構ヨレて見えるんだけど、モノクロのせいか、実にそのしなやかさが美しい。途中彼は水辺にまどろむ竜を退治し、その生き血を浴びることで不死身の体を得る……背中に偶然貼りついてしまった月桂樹の葉の部分以外は……そこがラスト命取りとなるわけだが。それにしても、何にもしてない竜をこっちから仕掛けてあんな殺しちゃうことないのにねえ。まるで必要もないのに鬼退治した桃太郎だ!?この竜の造形、驚くべきことに意外とチャチくない。確かに一点から大きく動くことはなく、しっぽや頭をバタつかせる程度なのだけど、その動きがなかなかリアルで、モノクロのせいもあってか結構本当の竜に見えてしまうのだ。そしてここで竜の生き血を全身に浴びるジークフリートの背の、使われている筋肉の美しさ……うーん、いいわあー。

かくて自信満々でクリームヒルトのいる宮殿にたどり着くジークフリート。そこでクリームヒルトの兄、グンター王の思い人である気の強いブンデヒルド姫(ちょっと名前ちがったかしら!?)をジークフリートがグンター王に嫁がせるため落とすことが出来たらクリームヒルトと結婚させようとこの国の王は言う。まあ、このブンデなんたら姫のくえないことときたら!ラスト、ジークフリートが命を落とす原因となるのも、この女のガンコ一徹さ故なのだが、でも、そこはおとなしくて従順な美しい姫、クリームヒルトと好対照。この時代にはまだまだ(そして現代でも)クリームヒルトの女性像の方が無論好意的に見られるわけだけど、このブンデなんたら姫の、男と腕っ節の勝負で堂々と渡り合い、人が勝手に決めた縁談に憤って決して契りを結ぼうとはしない意志の強さは、ある意味非常に理想の女性像!しかし、このブンデなんたら姫のコワいこと!彼女に惚れきってるグンター王は(しかし、そういう意味で彼はかなりマゾというか、マザコンぽいというか……)彼女に言われるまま、ジークフリートを殺害してしまうわけだけど、その時の彼女がコワい!ジークフリートの死の知らせを聞いて、一瞬表情をこわばらせ、うつむき、そしてげたげたと(聞こえないけど、多分)笑い出す。「女の嘘を真に受けて、かけがえのない友を殺すなんて、愚かな人ね!」その時の彼女の壮絶な笑顔の恐ろしさときたら……!目を見開き、体をゆさぶって笑いこける、きつくウェーブのかかった黒髪に黒く縁どられた瞳もコワい!

でも、彼女、ジークフリートの方に惚れてたんじゃないのかねえ。彼女はジークフリートに腕っ節三番勝負で負け、グンター王に嫁ぐことになるのだけど、このグンター王にどうしてもなびかない彼女に業を煮やして、ジークフリートが魔法?でグンター王の姿となり、この姫を腕づくで(多分×××しちゃったんだろうなー)落とすなんて所もあり、ま、彼女はそれが実はジークフリートだとは知らないはずではあるんだけど、でももしかしたら知っていたんじゃないかなとも思えるし。なんにせよ、女の嫉妬がそこまで力を持つと考えた方が自然な気がするもんなあ。

ジークフリートとこのグンター王はこの姫の言うとおり信頼し得る友であり、同志であり、だからこそ、ジークフリートはグンター王のためにコンナコトまでやっちゃうのだけど、これはお互いいくらなんでも気まずいよなあ……ジークフリートがこのなんたら姫を落とし、部屋から出てきたところで、気になってその前をうろついていたグンター王と鉢合わせる。気まずく、もじもじしているグンター王に、ジークフリートは冷たく、突き放すようにふいと行ってしまう。その後で泣き伏している姫のいる部屋に入って行くグンター王の愚かさで切ない滑稽さはどうしようもない。グンター王はこの姫に促されてジークフリートを殺してしまうわけだけど、ジークフリートが自分のためを思ってやってくれていることを充分知りながら、いや充分知っているからこその羨望と嫉妬に苦しめられての行動だったに違いなく……それで言うと、主人公カップルのジークフリートとクリームヒルトよりこのグンター王となんたら姫の方がよほど人間くさい面白さなのだ……ジークフリートとクリームヒルトはただただ美しいだけね。ま、でも第二部ではクリームヒルトの復讐譚が描かれるらしいからそうとも言い切れないか。

しかしこの時代でこれほどまでに完全に完璧に完成された、しかもファンタジー&コスチュームプレイが存在していたと考えると、今の映画群のある部分は退化しているのではと思えてしまうほど。……それにしても、二時間半、コンサートさながらの生演奏はほんと、素晴らしかった。いくら言っても言い足りないくらい。これを810円で観られるなんて、贅沢すぎるぞ!それに、知名度無さすぎだ、もう。もちょっと宣伝しろよ、NFC!★★★★☆


ニコラNICOLAS
1998年 分 フランス カラー
監督:クロード・ミレール 脚本:クロード・ミレール/エマニュエル・カレール
撮影:ギョーム・シフマン 音楽:アンリ・テクシエ
出演:クレモン・ヴァン・デン・ベルグ/ロックマン・ナルカカン/フランソワ・ロイ/イヴ・ヴェローヴェン/エマニュエル・ベルコ

2000/4/27/木 劇場(シネスイッチ銀座)
子供の頃、夢と現実をどうやって区別するのかとよく考える事があった。夢から覚めなければそれが現実だと思っているならば、夢見ている時間の方が長くなってしまえば夢と現実が逆転してしまうのではないかと。そう言えば、そういう風に考える事は、大人になってからはなくなってしまった。本作はまさしくそうした子供の感覚を、冷たいリリカルさでとらえた作品。主人公のニコラは12歳、内向的で過保護気味の親に反発できないでいる。スキー教室へ出かけるのに、バス事故を危惧する父親が、彼だけを自ら送り届けるという徹底ぶりだ。このスキー場での彼の夢想が物語を進行させていくのだが、ふと、ニコラは普段からこんな夢想はしてなかったんではないかという気がする。したかったんだけれど出来なかったというか。抑圧的な両親のもと、そうした夢想の根っこは充分に育てられてきて、彼が両親から離れた時に、それが一気に噴出した……そんな感じ。それはもはや夢想ではなく、彼の願望であり、子供の強い願望の一種呪術的なオーラが、あの残酷な結末を引き寄せてしまったという気すらする。あの結末はニコラの願望ではなかったかと。

医療器具の販売をしている父親から聞いた、臓器を盗むために誘拐される子供の話、そしてスキー教室での、子供の失踪、遺体の発見……。その犯人がニコラの父親であったという結末は、でもそれが本当に現実の事なのかもあいまいなまま。実はニコラは今でもスキー教室で過ごしているのではないかという気すらしてくる。ニコラの見る夢はいつも死の匂いに満ちている。父親がアイスバーンとなった道路で事故に遭い、腹に金属が刺さり、頭と顔は血だらけになって死んでいるさま、雪に誘われて、真夜中外に出たニコラが締め出されてしまって車の中で一夜を明かすも、翌朝雪に埋もれた車の中で白く凍って死んでしまっているさま、そしてその葬儀、ガラスの蓋がされた棺に入ったニコラがもがく様子……その全てが、彼の死への強い興味と恐怖をひしひしと感じさせる。

そう言えば子供の頃、「死」がとても怖かった。親がいつか死ぬという事、友達がいつか死ぬという事、そして何より、自分がいつか死ぬという事。……死とはどういうことなのか、出来る事なら一生死にたくない(という表現も矛盾しているが)と願い、死ぬ事を考えたくないのに、でも考えずにいられなかった。それは多分、このニコラと同じように、死に恐怖するゆえに死への憧憬もまた強かったのだろうと思う。いつかそんな風に考える事もなくなってしまった。……なぜだろう。

子供の頃って、不必要に不安にかられていたと思うのだけど……これは性格的な事で、私や、この劇中のニコラのような子供にしかないことなのかもしれないけど、少なくとも私は、子供の頃心穏やかに過ごした記憶があまりない。そう、この作品のニコラ少年を見て、それを思い出した。彼のように些細な事や、考えなくてもいい事を思いつめていつもいつも不安に身を焦がしていた。それは本当に些細な事……朝教室に入ると自分の席に誰かが座っていて談笑していて、自分の座る場所がなくてどうしようとか、逆上がりがどうしても出来なくて、夕方まわりが真っ暗になるまで泣きべそをかきながら練習するとか、そんな事で死にそうに心臓がドキドキして、この世界から逃げ出したいと思っていた。死に関する事を考える時だってそうだ。あの頃は考えもしなかったけど、実は自分がそうした不安を感じること自体が自分の願望だったのではないかと思えるのだ。

それは本当に不可解な感覚なのだけれど、このニコラ少年も多分、そうだと思う。別に悲劇的な状況に身を置く事で自己愛的な気分にひたるということではない。なにかこう、もっと根源的な、本能的に根差した部分での願望というべきか……。ミレール監督が言う、人間を成長させるのは幸せな記憶よりも悪い思い出、悪い経験によるものだということ……自ら自分を追いつめるような夢想や不安にかられるのは、自分を大人へと導くために無意識に操作しているのではないかと。本来なら大人は、ある程度子供をほっとく事、ある程度子供の願いをかなえて“やらない”事がその“悪い経験”につながってくるわけで、普通の(?)溺愛はやはりそうした成長を妨げてしまう。現代の子供の犯罪の多発ぶりは、ひょっとしたら、こうした不安を抱えずに育ってしまっているせいなのではないかと思えるのだ。不安を知らなかったら、他者に対するそれを想像する事も出来ないから。幸いにも(?)ニコラの両親は自分本意の考えでニコラを溺愛した結果、それがニコラにとっての“悪い経験”になったわけだけど。あるいは利発なニコラ自身がそれを無意識下で感じ取って自分で防御線を張っていたのかもしれないが。

大人になるという事は、あらゆる経験をつむ事で免疫がつき、そうした不安が徐々に取り除かれるという事であり、それが大人になった自分へのご褒美なのかもしれない。ニコラの父親は、そうした意味では大人になれなかったのかもしれない。ニコラにあらゆる期待を託し、自分の抱える不安をニコラに伝染させているような父親、彼の手首に何本かの傷痕を見た時、背筋がゾッとした……その手でニコラを抱きしめる彼に。

不安げなニコラをかばって面倒を見てくれるガキ大将のオドカンや、ニコラの性的な夢想の対象となる女性教師、何かと優しくしてくれて、最後のキーワード的な小道具「擦り切れて落ちた時に願いがかなう」ミサンガをプレゼントしてくれるパトリック先生などの味のあるキャラが印象に残る。そうだ、そう言えば、この作品、性への不安も非常に印象的に描かれているのだ。ニコラが女性教師との愛撫にも似た、慰めのキスを夢想している場面のなまめかしさ、そして何より、初めての夢精に驚き、うろたえる真夜中のか細い姿……夢精ではないけれど、「THE END OF EVANGELION(新世紀エヴァンゲリオン)劇場版 Air/まごころを、君に」の冒頭で意識不明のアスカの前で自慰行為をし、強烈な自己嫌悪感に打ちのめされるシンジの姿を思い出させた。性的欲望が罪悪だと感じる少年の姿は痛ましく、美しい。……しかし、それもまた、現代においていまだ存在している感覚なのかと考えると……そうした感覚の欠如もまた、現代の荒廃につながっているのではないか。

それにしても、この全てが美しく凍結されているような冬の、雪の、氷の真白い、そして透明な厳格な美しさには胸を打たれた。「アイス・ストーム」や「ウィンター・ゲスト」あるいは「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」でもそうだったけれど、この冬のストイックな美しさは、なぜこうも子供たちのピュアな世界に似合うのだろう!★★★★☆


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