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「に」


2001年鑑賞作品

≒森山大道
2001年 84分 日本 カラー
監督:藤井謙二郎 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:藤井謙二郎 音楽:
出演:森山大道 荒木経惟 西井一夫 笠原美智子 サンドラ・フィリップス(サンフランシスコ近代美術館) 山岸享子 猪瀬 光 榊原斎 丹野清志 瀬戸正人 大田通貴(蒼穹舎)境洋人 野口浩史 中村悦子 後藤啓太


2001/12/11/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/レイト)
私はこの森山大道という写真家のことを、全くの門外漢で知らなかった。彼のことをかのアラーキーがこの機を得たりとばかり嬉しそうに絶賛しているのを(まあ、アラーキーはいつもそんな感じだけど)楽しく観ながら、この秀作ドキュメンタリーの中で、初めて出会う人に少しずつ近づいて行く。カリスマ的人物で、とっつきにくい、と言われていたというのも知らないので、私にとっての森山大道はまさしく未知の、新鮮な、面白くてたまらないものがつまった一人の芸術家だ。そのひとなつっこさと同時に併せ持つ人見知りっぽい部分の矛盾が、上手いこと同居しているような。自分と自分の表現に対して驚くほどに正直で、家族の価値に対してもこちらがひるむほどにバッサリと切り捨ててしまうような。それでも彼のことを憎めないのは、きっと彼の家族も同じなんだろうな、と思うような。

何と言ってもいきなり驚いたのは、冒頭に出て来た築地のパレットクラブである。この場所は場外市場の中の、私の会社の事務所のすぐ近くにあり、河岸の人たちは皆それがどういう店なのか知らず、場外市場がすっかり引けた夕方頃に若い人たちが出入りしているのをたまに見かけたりして、一体何なんだ、秘密クラブか、ホストクラブか?などと噂していて、半ばそれが信じられているような状態だったので、ああいうワークショップみたいなことが行われているなんて、全然知らなかった!あんなガヤガヤした、あんな俗世間の中に、空気の色すら違うような中で熱心に行われている様は、まさしく不思議としか言いようがない。森山大道をリアルタイムで知らない若い写真家の玉子たちが、熱心に彼を勉強するために集まっている空間。

森山大道の写真の特徴は、ブレ・ボケ・アレ、高速スナップ、ノーファインダー。つまりはいわゆるきちんとした形での“写真芸術”に真っ向から反対したものであり、その作品群は相当年数たった今見ても、驚くほどにその新鮮さを失っていない。こうした手法の写真はそれまでにも見たことはあるけれど、彼のものが明らかに違っていることがわかる。それは表現として奇をてらったものではなく、彼の中の波長や、その時の時代や、そうした全てのものに向かい合った時に、その一瞬にしか存在しないものを映しこんだ結果、という印象。いわゆる記録、が個人の存在というファインダーを通した時に見えてくる、ただ一つの真実。一つの真実、というのは唯一の真実ということではなくて、ある一つの真実である。無数にあるうちの、小さな真実のかけら。しかしそれは、表現というものに縛られた写真があからさまにフィクションであるのに対して、どんなに小さくとも真実のきらめきには他ならず、その真実性が小さければ小さいほど、凝縮したリアリティを持って、こちらを射抜いてくる。小さな穴から飛び出してくる水ほど勢いがあるような、集中力のある真実。

森山氏が展覧会よりも写真集を好んでいるというのも、彼にとっての写真が表現よりは記録であることを重視しているように思える。どこかテレではないかと思われるほど、森山氏は表現というものに対して拒絶反応といえるほどの姿勢をとっているのだけれど、しかしある一方で、その記録性こそが彼の表現だというのは、当然のことで。森山氏が今ライフワークにしているという、新宿を撮り続けている様子が映し出されるのだが、そこで彼が用いているのは、何とコンパクトカメラである。私たちが普段使っているような、あのバカチョンカメラと称される、あれ。しかも彼は、今までカメラを自分で買ったことが殆どないという。人からもらったり、借りたりしたものが自分のものになったり。写される写真が、一瞬通過するだけの機械にこだわることを廃する森山氏の姿勢は、全てにおいて形式にこだわる私たちにとって、衝撃的なまでの潔いカッコよさだ。しかも彼はしばしばファインダーをのぞくことすらしない。それによって道行く人々がカメラに対して構えてしまうことを避けており、そうすることによってそこに写された人々は、人間ってこんなにも生々しく写真に写ることが出来るのかと思うほどに、本当に生きている一瞬が焼き付けられる。遊ぶ楽しさに満ち溢れていたり、仕事の疲れが全身を覆っていたり。

コンパクトカメラを用いているのでも判るとおり、彼は新しいものに対してとても柔軟で、作品中で彼に勧められたデジタルカメラを興味津々で使い出す。全く初心者のやるようなことだよな、などと初めてのオモチャを手にした子供のようにはしゃぎながら、あっという間に修得してゆく。この映画内で紹介される森山氏の写真は、その殆ど全部がモノクロで、その光による陰影が強い印象を残すのだが、デジタルカメラで出来上がるのは当然のごとくカラーであり、しかしそれに対しても森山氏は、こういうのはカラーがいいんだよね、と全く意に介さず、カメラの画面に映し出された一瞬の画に、この色がいいね、これがそのまま出ればいいね、と感心する。コンパクトカメラを用いていた時に写されるものとはまた全く違う世界が展開していくのを、目の前でつぶさに見られるこの臨場感がたまらない。デジタルカメラはコンパクトカメラと違って、シャッターを切る時ふと止まってしまうから、対象物がおのずと違ってくるのだ。森山氏はアパートに干されている洗濯物や、なにげない通りをカメラに収め、家に戻ると部屋の中の小物や両親の写真を接写したり、自分の目のアップを撮ったりする。例えば人形の足の裏のアップ、例えばくくられた電灯のコード、それらが醸し出す、予想外のヴィヴィッドさに目を奪われる。あの道行く人のドキュメント写真とは打って変わった、こまやかな情感が大切に凝縮された、コレクターの愛情を表現したような世界。森山氏の、カメラそのものにはこだわらない姿勢は、その道具が変わった時に、それに合わせてこれだけ柔軟に最良の方法を見つけ出すことの出来る才能につながっている。

森山氏は写す時のカメラには構わないけれども、それを一枚の作品にする時の現像にはとてもこだわる。彼にしか、それも一度しか焼けないという神業的な現像、素人の私が見たって、目を見張る、どうやったら出来具合がそれで判るのかという、溶液に浸しながらその上で手をヒラヒラやったりする、あのワザは!しかしそうしたことをしながらも、表現というものを嫌う彼は、それに対してすらも、今や否定的である。アマチュアリズムを信奉し、限りなく人間そのまま、生活そのままに寄り添っていこうとしながらも、やはりその彼の撮った作品は、彼にしか撮れない作品。嫉妬と羨望と、そして何より惹かれてやまないものなのだ。

たばこの灰がちょっと落ちただけでもすぐ拭いちゃったり、来客におしょうゆを渡したり、それをすぐしまったり。生活上の森山氏はなんだかおかしな程に生真面目な人で、そうした素の部分も映し出す本作は、まるでアイドルスターの意外な姿を映すプライベートフィルムのようでもある。でも確かに、彼のことを何にも知らないままこの作品に向き合った私ですら、その写真の他にそうした姿を見せられるにつけ、段々とこの写真家自身に魅せられてしまう。人間から生み出される芸術は、やはり人間自体に魅力があるからこそなのだということを、改めて認識させられる。かつてはドラッグ中毒だったこともあるという森山氏は、しかしその黒々とした髪といい(染めてるのかもしれないけど)、着慣れたジーンズ姿といい、そんな年齢(1938年生まれ!)とはにわかに信じがたいほど、自然な若々しさを保っている。劇中で彼のことを色っぽい、と称した女性がいるのも納得の、ニクいお人なのである。★★★☆☆


24時間4万回の奇跡LES CONVOYEURS ATTENDENT
1999年 94分 ベルギー=フランス=スイス カラー
監督:ブノワ・マリアージュ 脚本:
撮影: 音楽:
出演:ブノワ・ポールブールド/ジャン=フランソワ・ドヴィーニュ

2001/3/6/火 劇場(ユーロスペース)
タイトルである、ドアの開閉回数世界記録に挑む、オフビートでオバカな映画かと思ったら、違った。特訓場面もほんの少しだし、実際の記録は途中ズルを試みたにもかかわらず、世界記録の半分にも満たなかったのだから。この家族を始め、彼らを取り巻くさまざまな登場人物がいて、彼らが直面する大小さまざまな人間としての苦しみや痛みを、とつとつと語ってゆくのである。ハデな音楽が流れるのはこの記録に息子が挑む時の入場音楽ぐらいのもので、その他は、予想よりもずっとまっとうな甘美なメロディが控えめに使われる。しかも、モノクロ。おバカどころかリリカルであり、それでいてかすかに社会性も匂わせて深刻である。

一つの家族がいる。父親が熱心にギネスブックと顔を突き合せている。この父親は三文記者。警察の無線でこれはと思う事件があれば取材に出かけてゆく。特に何かに不自由しているというわけではないのだが、常にイライラとしているのは性格か。商店街のコンテストでなんでもいいから何かの世界記録を出せば1300ccのスポーツカーがもらえるということで、何か出せそうな記録はないか、と模索中なのである。そこで見つけたのが、24時間で41827回ドアを開閉したという、メチャくだらない記録。これを息子に挑ませようというのである。息子、ミシェルは映画オタクなネタでラジオに出演するような、いわば文科系青年であり、身体も見るからになまっちろく、とてもそんな体力があるようには思えないのだが。父親は庭にわざわざ特訓用のドアを作り、親友をコーチに雇ってまでミシェルをトレーニングさせる。そのドアの影で彼は女の子を妊娠させちゃったりもする。ミシェルに自信をつけさせるためちょっと高いところから飛び降りさせて皆で受け止めるなんていうよく判らないこともあったりする。そうこうする場面もほんのサワリ程度で、あっという間に大会になり、彼は16000回ナニガシでフラフラになり、父親にもコーチにも反発して、商品の車に乗って迷走し、激突し、物語の中盤からずっと植物状態になってしまうのである。

というわけで、本作の中におけるこのタイトルの果たす部分はそれほど多くない。目を覚まさないミシェルによって人間関係がさまざまに錯綜していくという点で、この記録挑戦はその原因となっているとは言えるのだけれど、これ一つだけを取ってもっと(いい意味で)アホらしい映画を作ることも可能だったように思う。それにミシェルがこの記録に挑戦させられる前に、それよりももっと心惹かれるいくつかのエピソードもある。娘のルイーズ。まだ8歳の彼女がかもす、慈悲とかすかな色気は、本作の白眉である。彼女は弱いものに敏感に感応する。そして救済してゆく。皆からバカにされている、伝書鳩チャンピオンの青年。その地味な種目のせいなのか、常におどおどとした態度のせいなのか、常にチャンピオンという輝かしい記録を持つこの青年に皆は一様に侮蔑の目を向ける。しかしルイーズは、この青年をじっと見つめ、特に言葉をかけるというのではないのだけれど、そばにいるのである。

彼が何よりも大事にしているチャンピオンの鳩。この鳩は恋人のもとへ戻ってくるために、どんなに遠くから放たれても一番で帰ってくるのだという。大会に出かけるため、列車に乗せられ、この鳩が画面の手前でアップになっているのがなんか可笑しい。妙に可愛くて、妙に凛々しくて。そしてこのチャンピオンの鳩は種鳩(?)の誘いを受けている。大金を提示されている。この青年がそれに応じるのはまだもう少し先である。

ルイーズは、この青年に対してもそうだし、父親に連れられて事件現場に行き、取材の対象となっている加害者に対してもそうだし、そして何より、この愚かな父親に対して、その感応性を発揮するのである。この父親。子供がイヤがるようなことをそれと気付いているんだかいないんだか、強制させ、さしものルイーズもガマンしきれずに飛び出してしまったりするのだけど、この父親がそんなことをするのは、子供たちを非常に愛しているからに他ならない。彼を見ていると、親というものは完全で絶対で何の非もないのだと思っていた子供時代を逆説的に思い出す。ミシェルはまさにその子供特有の服従心と反発心の狭間で揺れ動いているのだけれど、ルイーズはこの父親の、愛情が深いのにそれの示し方を間違っている、どこか子供じみた部分を静かに見つめている感じがある。父親の命じる恥辱的なことに落ち着いた目をして対応しながらも、彼に対する深い悲しみと愛情と慈悲が感じられるのだ。それはまだ言葉でさまざまなことを表現する以前の、この年頃の女の子だから可能な精神性なのだけど、しかしこんな女の子はちょっと、いない。彼女、大人になったらさぞや美人になるだろうと思われる、キレイな顔立ちで、モノクロでも判るきれいなまっすぐのブロンドで、センスのいいイヤリング(ピアス?)をいつもつけていて、親友はずっと年上の、お兄ちゃん、ミシェルのガールフレンドであるジョスリーヌ。しかもジョスリーヌの恋や妊娠の悩みに対応してしまうのだから、彼女の方が大人なのだ。それがイヤミじゃなく、わざとらしくもない。このルイーズのキャラクターは、凄いと思う。

ルイーズと鳩青年の前振りがあり、大会があって、ミシェルが植物状態に陥ってからが、本作の語るべきところなんだろうと思う。私は前半のルイーズと鳩青年のくだりが一番好きだけど。父親はもしかしたら子供たちをこんなにも愛しているということをどこかテレて自覚できなかったのを、でもやっぱりこんなにも愛しているんだと、しかもこんな形で突きつけられて悄然としているように見える。あまりの傍若無人と愚かさで見ていてかなり腹のたつ父親なんだけれど、ルイーズの、父親に向けるあの表情がなんだかよく判ってしまうのである。それにこの父親、隣の鳩青年にも理不尽に当り散らしたりするけれど、でもバーの男たちみたいにこの青年に冷たい軽蔑の笑いを浴びせたりはしない。妻や子供たちや親友に対するのと同様な、ちょっと子供っぽいけれど敬意と愛情を持っていることが、ここまで見てくると判るのだ。ミシェルの生命維持装置が、お金がないために打ち切られそうになった時、父親はこの鳩青年に、なんとかこの銀食器を買ってくれる人がお前の仲間にいないか、と涙をこらえながら訴えるのだ。お前なら工場の仲間もいるだろう、と。この青年がバカにされ、疎まれているのを知ってか知らずか……いや多分、彼自身にそんな気持ちがないから、判らないのだろう。このあたりもほんと子供っぽいんだけど、だんだんとこうしたキャラが判ってきて愛しくなる。鳩青年はこの時あのチャンピオンの鳩を売ることを決意する。

この鳩青年からお金を受け取る、なんていう無粋な場面は見せず、次のシーンではルイーズの誕生パーティが行われており、しかしミシェルはまだ目を覚ましておらず、このオトナコドモな父親はイライラとケーキを投げつけたりするんである。たまらず外に駆け出してゆくルイーズ。しかしそこに一本の電話が。ミシェルの意識が回復した!父親は妻と抱き合い、急いでルイーズを追いかけてゆく。彼女を抱き上げ、病院へと急ぐ。そしてまた次のシーンでは新世紀への変わり目のパーティーが行われており、鳩青年も訪れる。ミシェルのガールフレンド、ジョスリーヌの大きくなっているおなかに耳を当てさせる。あの鳩の生まれ変わりのように、新しい命が誕生するのだ。

と、言うわけで、想像していたよりもかなりまっとう。ラストも2001の数字を体に貼り付けての記念撮影、ダンス、と妙にまとめに入っている。予告編は、とにかくこの開閉記録の達成に没頭していて、入場行進の音楽だけが高らかに鳴っていて、それぞれのシークエンスの場面は一瞬間ずつ挿入されているものの、ドア開閉の訓練シーンのみが印象に残り、そのにぎやかさは確かに予告編もモノクロで観てるのに、本編を観るまでカラー映画だと思い込んでしまうほど。ある程度のネジクレ加減はあるものの、それがエピソードの中に埋もれてしまっているのはちょっと残念かな。なんとなくこの監督さん、マジメな人なんじゃないかな、なんて思ってしまった。 ★★★☆☆


日本女侠伝 血斗乱れ花
1971年 107分 日本 カラー
監督:山下耕作 脚本:野上龍雄
撮影:山岸長樹 音楽:渡辺岳夫
出演:藤純子 高倉健 津川雅彦 水島道太郎 大木実 天津敏 山本麟一

2001/3/16/金 劇場(新宿昭和館)
ああ、藤純子作品を観るのは久しぶりだ。一番、美しい頃の、藤純子。本当に毎回見とれてしまう。その真白い肌、うなじ、和服を体の一部のように着こなす葦のようなしなやかさ。博徒役が一番好みだけど、ここでの彼女は大阪の呉服商のお嬢さんから、九州の炭鉱の女主人に飛び込んでゆくという役どころ。藤純子と炭鉱の女主人、かなり、意外。それこそ呉服商のお嬢さんは似合っているけれど。劇中でもその世間知らずから痛い目に会うエピソードが描かれ、汚いやり方をする土地の炭鉱商に翻弄される……そこを助けるのが、鉄壁コンビの高倉健どのなのである。しかし、本作では彼女のために斬り込みに行って死んでしまう彼より、彼女の夫の生前からの相棒で、最後まで彼女に付き従っている平吉が、凄くイイんだよなあ。彼もまた彼女にホレてるのに、彼女が健さんにホレてるのを知って仲をとりもち、健さんが死に、彼女がまた一人になってからも、変わらず彼女のそばについていてやる、ホレてるのに……ああッ、もう、泣かせるッ!

はじまりは、呉服商のお嬢さん、てい(藤純子)の婿養子である藤吉(津川雅彦。若い頃は結構お兄ちゃんに似てるのね)が、石炭掘りにとりつかれ、店をほとんどつぶしそうになっているところから始まる。ていは、藤吉のその行動が、たんなるお遊びとしか思っていないから、店をしっかりやるのが先でしょう、なんてたしなめるのだけど、藤吉は、一度はしおらしく見せておきながらも、それは芝居で、店を建て直すために用意した金をつかんでトンずらしてしまう。追っていったていの目の前に現れたのは、ふんどし一丁の姿で山にこもり、一心に石炭を求めて掘り続けている彼の姿。この金で山を買ってしまった。あきんどはどうにも性に会わない。炭鉱堀りは男の仕事だ、判ってくれるよな、と……。ていが微笑みを浮かべて私にもひとこと言わせて、と言っているうちに、彼は石炭が出た!という仲間の叫び声に飛んでいってしまい、……そこで落盤事故。息も絶え絶えになった藤吉は、ていにひたすら謝りながら、そうして、山を頼む、と言い残して死んでしまう。

あの時、ていが言おうとしていたその一言は、貴方の好きなようにおやりなさい、私もついていきます、という言葉だった。彼女はそれをなぜ夫に言えずに先立たれてしまったのかと悔やみ、その呉服商を「おとうちゃんが一代で築いた店、おとうちゃんならきっと判ってくれる」とたたんでしまい、夫の遺志を継ぐことを決意する。上品な和服姿の彼女がいかにも不似合いな炭鉱の女主人になるのである。彼女を助けるのは藤吉の相棒であった平吉と、彼女にプロの炭鉱工夫である父親を紹介してくれた川船頭の吉岡という男。しかし土地の炭鉱を牛耳る大島という男によって次々と汚い手で翻弄されていく。頭領である吉岡の父親も死んでしまう。ていの営む平野鉱山はどんどん窮地に追い込まれる。それでも彼女は笑顔を絶やさず、乗り切ろうとするのだが、ついには山を手放す決心をする。

そんな彼女に、「この山はあんたのご主人と俺の父親が命をかけた山だ」と説得し、「俺はあんたに惚れちょる」と、ああ、健さんがそんな直截な殺し文句を!と、思わず涙してすがりつく藤純子と、それでも仁王立ちの高倉健、という、これぞ!な場面にクラクラ。ああー、この画よ、この画はお約束だけど、こんなに完璧な男と女はいないわよねー。とうっとりしている間に、健さん、もとい吉岡は彼女との約束を破って単身大島の元へ乗り込み、敵を壊滅させ、……死んでしまう。

そして数年後、すっかり炭鉱経営者のたくましい風体になった藤純子が、吉岡との思い出の場所、真っ赤な曼珠沙華がぽつん、ぽつん、と咲いている枯れ野原にたたずんでいる。そばには平吉。「御寮さんほど不幸な人はいませんわ」と言い、そんなことを言ってしまったことに自分で驚いて、すいません、とうなだれる。御寮さん、いくつになりました、と聞く平吉に、あなた、女の歳を聞くなんて、野暮なことね、と返すてい。あの時、平吉が彼女と吉岡を取り持とうとしていた時、平吉は彼女に向かって、いつまで死んだ旦那に義理立てしているのか、女の29なんてもう若くはないんだ、と自分の気持ちを押し隠して諭した。思わず、そうか女の29は……などと私は苦笑してしまったが、あの時からまた何年かたって、華やかな女主人だったていは、地味でしっかりとした女主人となっている。ちょっと哀しいけど、そんな彼女もまた美しい。藤純子はたおやかで美しいけれど、一度も弱々しいと思ったことはない。しなやかで、強くて、美しいのだ。

実は、真ん中すっかり眠くてトロトロしててすっ飛ばしてるんだけど(笑)。まあ、だから健さんのやった吉岡の印象が薄くて、平吉にばかり肩入れしちゃうんだろうなあ。いやいや、実際、平吉が泣かせるよ!。 ★★★☆☆


人間の屑
2000年 90分 日本 カラー
監督:中嶋竹彦 脚本:中村義洋
撮影:猪本雅三 音楽:
出演:村上淳 佐伯日菜子 夏生ゆうな 岸田今日子 鰐淵晴子

2001/4/12/木 劇場(シネマスクエアとうきゅう)
原作を読んでから書いた方がいいかな、と思いつつ、結局未読のまま、こんな点数で書き始めるのを多少申し訳なく感じたりもする。町田康の原作だから、と思って観たけれども、考えてみれば私は役者としての彼しか知らないのだ。今や芥川賞作家として、押しも押されぬ小説家だっていうのに、その作品は一度も読んだことがないし、ましてや彼のパンクバンド時代の音を聞いたことがあるわけでもない。……もしかしてこれって、この作品を観て語るには資格のない身分かも知れないのだが……。

ただ、文学のリズムというか、ああ、これを文章で読んだら、きっと凄くイイに違いない、という感覚は受けた。そして同時に、原作を読んだら、これを映画化したら面白いだろうな、そうしたらこのキャストで、と夢想するだろうな、とも思った。原作を読んでいたら、キャスティングを聞いて、きっとああ、ピッタリ!と思ったであろうな、ということも。で、こういうスタンスのもとでめでたく映画作品となったときに、こうした温度差があらわれてしまうんじゃないかという事も。なんていって、原作を読んでもいないのに温度差があるなんて言えっこないのだが、しかし原作未読の立場でこの映画をながめてみると、そんなことを感じてしまうのだ。キャストたちの躍動感が、そのリズムはとても面白いのに、それを作品としての面白さと感じることが出来ない。まとまりを求めているわけではないし、まとまっていないという訳ではないのだけれど。監督が言うように、確かにこれは原作に忠実であるんだろうな、と未読の観客にも不思議と感じさせるところがあるのだが、それだけに、やはり文学と映画は別物なんだよな、と思ってしまう。

毎日を怠惰に過ごす主人公、坂本清十郎(村上淳)。かつてはパンクロッカーとして世間に注目されることもあったが、今は祖母(岸田今日子)の経営する温泉旅館で無為の日々を送っている。彼はそのパンクロッカーであった時も流されるままだったし、ここからの展開もただ流されるだけである。計画性もなく、女たちの助けの手も彼自身のそうした性質で無意味なものと、それどころかマイナスのものと化してしまう。彼にたった一つ見どころがあるとすれば、猫を愛することくらいか。とりあえず食うには困らなかった祖母のもとを逃げ出してきたのも、庭に遊びに来る“貴族の血を引く”猫たちを殺されたからなのだ。

かつて自分のファンであったという小松(夏生ゆうな)のもとに身をよせたものの、彼女から妊娠を告げられて、小松の友人であるミオ(佐伯日菜子)のもとへと逃げ出す。この時の、「だって、中出しで大丈夫だって……」「何言ってんの、生むよ」という攻防は、清十郎のイイカゲンさと小松の女の怖さを語りきってあまりある。全編この調子でお調子者でイイカゲン、しかし時々殊勝に落ち込むものだからどうにも憎めなくて困るこの清十郎を、村上淳はまさしく的確なチャーミングさで演じている。……そう、キャストに関しては、本当にみんなベストアクトなのだよね。夏生ゆうなの怨念系コワさも、佐伯日菜子のちゃらんぽらん系コワさも、岸田今日子の慇懃無礼系コワさも、母である鰐淵晴子のケバ系コワさも。ううむ、こうして見ると、清十郎は常に女たちに囲まれ、その女たちはそれぞれあまりに違うタイプだから一見気づかないけれど、コワさという点で一致しているのだな……というより、女はコワいという、町田康氏のつぶやきなのか?

この母による手助けで、清十郎は小さなうどん屋を経営することになり、大繁盛。しかし“文化的な”見栄を捨てきれない彼は(……一応ポリシーはあったのね)、せっかくのそのうどん屋をアホなアダルト店に変えてしまい、客はさっぱりである。ライブハウスに変えて、清十郎さんがオープニングを飾れば繁盛するよ、とミオはアッケラカンと言うが、もはや清十郎には気力がない。彼は日雇いの仕事を求め、しかし小松から赤ちゃんの写真を投函されておびえ、逃げ回り、ミオとの子供も可愛がることができない。

ここからラストに向かって、彼はただただ混乱の雄叫びを叫び続けるに至るのだ。……というより、全編彼はそんな感じだったという気もするが。その彼の、自分の身をもてあました、時代に、そしてこの国この場所に、その身の置き所のない(あまりにも向いてない餃子屋で働く場面など、それを象徴してあまりある)という造形が、映画においての、ある確固とした形を結んでいかない。それが小説に置いては独特のリズムでの面白さと、確固とした形を結ばないからこその混沌としたパワーになっているんだろうな、ということが想像できる。主人公と、彼を取り巻く人たちと、出来事と、それらが絡み合う面白さの手法が文学と映画ではやはり違うのではないか、と、こんな作品に出会うと思わずにいられない。

何度も言うようだけれど、原作を読みもしないで、こんなことを言うのは本当に不遜なことだっていうのは、判っているのだが……。キャストが良かったからこそ、それなのになぜこちらに響いてこないのか、ということをつらつら考えていて、……結局こんなふうに帰結してしまうのは、私の想像力のなさのせいなのかもしれないのだが。そして、これもまた原作の感じをあらわしているのかもしれないのだけれど、ノイズの走る、イメージショットのような都会のカットが折々にあらわれるのも、なんだか気分をそがれる思いがした。これはこうした映像を最近のワカモノ映画でさんざん見せられているせいかもしれないのだが。★★☆☆☆


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