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異形ノ恋
2002年 分 日本 カラー
監督:堀井彩 脚本:林壮太郎
撮影:大道省一 音楽:
出演:西川方啓 田中愛理 奈賀毬子 石川謙 宮川ひろみ 田中要次 大竹一重 渡辺哲 塩田時敏 奏谷ひろみ 宮川宏司 新納敏正 浅見梨絵 鈴木朝美 三浦景虎 上野裕馬 高橋卓也 吉永雄紀 杉浦太陽 三原光尋 佐藤佐吉 吉岡睦雄 辻岡正人 井上貴志 入月謙一 建みさと 木下ほうか 寺田農
で、そのオフィシャルサイトでこの監督さんに影響を与えた10本の映画、というのを見て、あ、だあめだあ、やっぱり私には、などと思ってしまったのであった。好きな映画も入ってはいるけれど、私が10本、いや、20本でもあるいは100本でも選べと言われて入る映画は一本もない。つまりは、この監督の感性と私はきっと相性が悪いのだ。そういうことって、結構あると思うもの。などとついつい言い訳したりして……でも、その10本を見て、そう思ったのは、本当。でも、その10本を見て、この映画がこの監督から生み出される必然性みたいなものは、判る気がした。
どしゃ降りの中座り込んでいたところを同性愛者の多菜子に拾われ、同居することになった晃。彼は自分が性的不能者だといつわり、彼女の家に転がり込んだのだけれど、彼女は彼が自分に思いを寄せていることを知ってか知らずか、彼などお構いナシに女を連れ込んで、ヤる。彼はたまらず外に出て行く。やりきれない思いを、金属バットに込めて見ず知らずの人たちを打ちまくる。やがて、彼は歩道橋の上で一人の少女、切子と出会う。彼女に性的なはけ口を求める。しかし、切子の秘密を知って、彼の運命は転がり始める……。
と、こうストーリーを改めて書き出してみると、なるほどなと思わなくもないのだけれど、観ている時にはなぜだかどうにも伝わってこない。言われているように“徹底した肉体描写”なのかもしれないけれど、ピンク映画におけるそれの量と質にも至っていない気もする。あるいはそうしたセックスの描写もひどく記号的というか、いや、セックスに限らず、映画の記号としてのショットが満ち満ちているのだ。次々と倒れた自転車の果てに、座り込んだ晃と真っ赤な傘をさした多菜子とか、引きのカメラがくるくるとはしゃぎまわる晃と切子を小さく映し出したりとか、ラストシーンの、雪の中を夏服で転げ落ちる晃、というのもそう。窓にぼんやりと映った姿からカメラが二人をナメ取っていくショットなど、映画的魅力があって上手いとは思うけれど、記号的に過ぎて、伝わらない。あるいはもう最初から……この晃は“絶望の淵をさまよっている”らしいんだけど、何に絶望しているのかも、彼がどこからきたのかも、どういう男かという氏素性も、判らない。ただ、彼は“絶望している男”であり、自分を“野良犬”としか見ていない多菜子に強い男として見てもらいたくて、その強さを“暴力”に転換して夜の街で暴れる。しかしそれを示したい多菜子は当然そこにはいなくて、強さを示すための“暴力”はただただ記号的な意味で空回りする。……本当に、全てが記号的で、実際の現実、気持ちの連鎖に入ってきてくれない。
もう一人の女、切子の描写も。彼女は歩道橋の上で男が通りかかるたび通せんぼをしている。黄色いワンピース姿で、何だかちょっと頭がヨワそうである。危なっかしい足取りで、いつも笑っている。何かこの、“頭のヨワそうな女”というのも、映画の中で天使的なものとしての記号で何度となくお目にかかっており、そろそろいいかげんウンザリするものを感じているので、ついつい、ああ、またか、などと思ってしまう。頭のヨワそうな女、というのは、そんなに映画の素材として魅力のあるものなのだろうか?そして彼女は血のつながらない兄に近親相姦を強いられており(これもまた、よく見るパターン)、この街を一緒に出て行こう、と言ってくれた晃に嬉しそうな顔を見せるのだけれど……。この兄と妹が一糸まとわぬ姿で絡み合う場面は、褐色の肌の男と真白い肌の女で、まるで戦っているみたいなセックスで、印象的だった。しかしそれを晃が窓から覗いている。その晃に気づいて、切子は不思議な笑顔を見せる。笑顔、だったのか、セックスの歓喜の顔だったのか。
切子、というのは、珍しい漢字の当て方。切ないの、切、なのかな。彼女は晃からどこに住んでいるのか教えてほしい、と言われるのだけれど、教えない!と歩道橋の向こう側を駆けていく。彼女の姿が見切れて、手だけがバイバイ!と振られる。しかし晃は彼女のあとをつけてしまう。気づかずどんどん彼女は歩いていって、ずんずん歩いていって、周りが暗くなるまで歩いていって……随分と遠くから来ているのだ。そして晃はくだんの場面に遭遇してしまう。あの歩道橋は二人をつなぐ橋だった、彼はあちらがわに渡ってはいけなかったんだ。それでも切子は翌日、その歩道橋に再びやってきて、晃と一緒に遠い街に行くことを約束する。しかし旅立ちの日、そこにはその兄が来ていて、切子もこの兄に足を切られていて、そして川の中で凶器を持ったこの兄と晃は、戦う。切子はこの戦いに勝った晃に対してもただ呆然と見つめているだけで、溺れそうにあっぷあっぷしている彼に近付こうとしない。
この切子を演じる女優はちょっと印象的。その童顔が印象的な顔立ちで、柔らかそうな真っ白な肌に黄色い童女のようなワンピースが映える。ぬいぐるみみたいなふわふわした茶色く縮れた髪。するりと脱いで晃の欲望に応えてあげる時でも、無邪気な笑い声をたててそのあどけなさは変わることがない。このあたりは、女とフェティッシュなセックスを繰り広げてよがる多菜子とは対照的。「今まで何人の男と寝たんだ」と問う晃に「ヤられたことは、あるよ」とあっけらかんと応える切子。兄との情事は彼女にとって寝ている、のではなく、ヤられている、ことなのかな、やはり。
一方の多菜子は、晃を追い出して一緒に住もうと思っていた恋人に「結婚するの。レズだなんて、キモチワルイ」と高笑いされ、まるであの時の晃みたいに、ボロぞうきんのように捨て去られる。もはや晃もこの部屋から出て行ってしまっていて、彼女は一人ぼっちになる。多菜子が働く美容室は客が全然こなくて、あるいはいきなり仕事終わりの描写になったりとか、美容室、仕事、という提示だけのそれもまた随分と記号的なんだけど、とにかく彼女は同僚に、「犬が、いなくなっちゃったの。野良犬だったんだけどね」と悄然と、つぶやく。
田中要次は路上でキスするカップルのかたわれとしてワンショットだけ出演。この物語にどう影響しているのか、よく判らないけど……。ベテラン、寺田農は、これは本当の性的不能者で、愛する妻の身ごもった子供は自分の子ではない。しかし愛する人の子供だから、と慈しむ姿を晃に見せてくれる。木下ほうかは晃のいらだちのはけ口として暴力を受け、その報復をする男として、彼らしい執念深い恐ろしさを見せる。そして結局晃に撲殺されてしまい、晃の行きづまりを決定的なものにしてしまう。
シュールなイラストの、やけに気合の入っているチラシが、何となく違和感。それに、どのへんが「異形ノ恋」なのかもよく判らない。結局、判ったようなことを書きながら、判んないなあという感想が最も正直なところ、であるのは……やっぱ、否めないなあ。★★☆☆☆
映画に思い入れがある割には、映画的、という部分が薄い、気がしてしまう。
>演技をつけるということが監督の大きな仕事の一つだとしたら
と、ケラ監督は言っていて、リハーサルを厳しくやった話なんかも出ているんだけれど、そう、確かに舞台ではそう。そりゃそうだ、一発の本番でミスられたらたまんないもの。でも、映画ではそこまで必要なんだろうか。というか、“演技をつける”ということは、舞台での演出よりも映画においてはそれほど大きな意味を持たないんじゃないかって、そりゃ私は現場なんて何も判らないけれどそんな風に思ってしまう。映画は舞台より役者におもねる部分が大きい、役者を信頼するところから映画監督は始まるんじゃないのかなって勝手にそんなことを思ってて。この映画が、何か今ひとつサムシングというか、キラキラしたものを残せないでいる、そんな気がするのはそのあたりにあるのかな……なんて。映画では、映画という、ひとつの残る作品の、その全てのカラーを決定する責任者が監督だから。それは確かにテーマも意図も完璧に出揃ってはいるけれど、出揃っているだけに、何かひとつぎゅっと締まらないと、というか……。
この監督の面白さは不条理な会話や、それに対するリアクションの意外性な脱力感とかそういう部分にあるのかな、と思う。それは本作では30パーセントぐらいでしかツボにヒットしていない。
ひょっとしたら、それは映画というメディアでは、舞台ほどに生き生きとした魅力を発揮しないのかもしれない。
やっぱり映画は、うーん、何ていうのかな、何かひとつの物語や何なりの筋がひとつ通ってて、その前提があってこそで。80年代のアイテムや時代の雰囲気を伝えて、会話の面白さがあって、だけじゃやっぱり締まらない。舞台と映画は文脈が違う。コトバの面白さと、魅力ある役者を動かす演出家の腕で成り立つのが舞台だとしたら、映画は多分、それ以外のサムシングが作用する割合が大きい。それを見つけ出すのが、あるいは醸し出すのが監督の重要な仕事のひとつなんじゃないのかなあ……なんて(なんて、ばっかり)。
かといって舞台での仕事をまんま映画に持ってきたというわけでもなく、三人の姉妹のそれぞれのエピソードを同時進行で描いていく、というのは舞台ではなかなか難しく、映画だからこそ出来るのかもしれなくて。でもまたそれも、散漫になってしまった原因って気がする。
一応メインは次女のキリナ=レイコなのかな……でも、映画の重心がコロコロと変わっていくのが落ち着かない。しかもあの80年代アイテムの羅列でさらに落ち着かなくて。
姉のカナエは高校の教師。次女のレイコは元アイドルで、母校であるこの高校に教育実習でやってきた。そして三女のリカはこの高校に通う2年生。
カナエは今、夫の浮気を疑って実家に出戻り中である。レイコは昔のマネージャーに暴露本を出されてうろたえており、しかし懲りずにホレっぽい。リカは映研でヌードになるかどうかで揺れている。
リカにホレている衣笠という少年はテクノかぶれで、映研の隣の部室であるロック研部員。さだまさしというあだ名はいかにもである。
映研の、「私の映画を守る」などと言い放つ、やけにストイックな女部長?とやたらヒステリックなその参謀。その割には出来上がった映画はピンボケ。
……あっ、ダメ、やっぱり。書いているだけで散漫になってきてしまった。なるほどキャラは生き生きとしているに違いない。でもその生き生きは……役者のそれというよりは、キャラの成り立ちのそれで、役者が演じる時のフィルターが作用してないというか、役者同士のコラボレーションや化学反応が作用してないというか、やっぱりやっぱり締まらない印象。
そりゃあ、キャラそれぞれは魅力的なんだけど。この三人姉妹が異母姉妹で仏壇が三つ並んでいるというのも奇妙な可笑しさだし……だって、ということはさ、お母さんが死んでお父さんが再婚してまたお母さんが死んで……って繰り返しだったわけでしょ。何か呪われた三姉妹よねー。
長女の犬山イヌコのざっくりとした物言いと時代遅れの可愛さ。次女のともさかりえの惚れっぽいキュートさ、特にあの、スリップ姿で胸のふくらみも生々しく横たわる彼女の艶姿にドキドキ。三女の蒼井優は聖子ちゃんカットが確かにあの頃の女の子っぽくって、カラフルチープな80年代の装いが似合ってて可愛い。うん、三人とも種類は違うけれど、皆チャーミングで可愛い、乙女なのだ。
なのだけれど……どうも集中できなくて。群像劇って観客の集中の度合いを図るのが難しい……だろうな。
長女のカナエ。生徒の名前が覚えられない描写も面白いけれど、何たって、彼女がジョン・レノンの射殺事件に「何もジョンを殺さなくても……ジョージやリンゴならまだしも」などと言うこと。これがついつい納得してしまうのはコワイけど、多分皆心のどっかで思っていることなのよね(ヤバイ、ヤバイ)。
カナエはずっとダンナの浮気を疑っていた。彼女の浮気探索は確かにうなづけるものがあり、浮気していないと言い張るダンナに、これだから男ってヤツあ……などと思ってしまっていたのも事実。
でも、どうやら本当にダンナは浮気、していなかったんだな……。
奥さんに帰ってきてほしくって、高い留守電まで買って。で、奥さんとの言い合いの果てにタイミング良く(悪く?)窓から飛び出しちゃうダンナには大笑い。うん、あそこ(だけ)は面白かった。
で、カナエは改心する。本当にダンナは自分のことを思っていてくれたんだ、って。クリスマスツリーにたなばたみたいに下げた短冊には、彼の回復を願う言葉が書き綴られていて可愛い。
しかし、ダンナは入院先の病院で、皮肉にもそこの看護婦と、浮気ならぬ本気になってしまって今度はダンナの方から離婚を申し入れる。泣き崩れるカナエ。
次女のレイコは教育実習に行ったその一日目で美形の(かなあ……何か私はこの顔ダメ)男子高校生に一目ぼれ。さっそく交際を開始するものの、その一方で暴露本が世に出て、学校内もそのことで持ちきりである。
この本のことも一因になったのか、交際は一日でご破算。池袋サンシャインの水族館でいすを振り回し、水槽をぶっ壊し、水がドドドーと……ありえないわ、しかもギャグとしてもいまいち。
この本を書いたマネージャーはレイコが突然失踪したことで迷惑をこうむったと主張。なんなら訴える用意だって出来ているんだ、と悪びれない。
このマネージャーを演じるのが田口トモロヲ。彼が「松田聖子もどこまで持つか」とか「山口百恵の結婚は絶対続かない。3年以内に離婚するのにかけている」などと言い、その先見のなさが露呈されている。なるほど、こういう風に表現することができるのね、と思う。
レイコがデビューしたのは、東馬健の妹分として。この東馬健はかのミッチー。生き残るために演歌からサーファーロックから、さまざまな歌を節操なく歌っている落ち目の歌手。異常に、似合ってる、ミッチー……。
マネージャーの仕打ちに傷ついて、今や芸能界からは引退したレイコが、この彼の家を訪れる。彼は若い女と痴話げんかの真っ最中、女の乗り込んだタクシーにくらいつくなんていう暴挙に出たりしている。しかしこの場面は案外笑えず……。
実はレイコがずっと好きだったんだ、と彼。壁一面のレイコのポスターを披露する。嬉しいというよりはこりゃヤバいよ、という表情をするレイコがちょっとだけ可笑しい。
などといいながらこの健とよりを戻すレイコ。しかしその直後に、彼が10歳も年下のあの女と結婚会見をしているのを目にする。号泣するレイコ。
そしてリカ。所属する映研は、置いてある数々の映画本といい、はってあるポスターといい、何だか映画をやたら神聖視していてオタクより始末が悪いというか。何と300万もかけて16ミリ映画を撮るというんだから、なるほどリカの言う「狂ってる」というのは確かに正しいんである。
この映研のOBでリカの恋人である室井は、その映画制作を手伝っている。とはいえ、別にこの映画にやる気があるわけでもないらしい。ただ単に恋人のリカがヒロインを演じているからであって、リカが脱ぐことにもなし崩し的に賛成してしまうのは、何かそうしないとヤバい雰囲気じゃん、ぐらいな感じ。
いかにもプレイボーイなこの彼氏は、リカに黙って昔付き合っていた女の子とよりを戻そうとする。そのためにばーちゃんが死んだとウソをつき、リカを傷つける。リカがかけた「おばあさん、死んでるんですよね。おばあさん、死んだんです」という電話は実にシュールで、しかもその時本当におばーちゃんが死んでいるっていうのが凄い。
ま、その話は後日談なんだけど。とりあえず映画制作は粛々と進んでて。ぴあフィルムフェスティバルに出品するとか、元アイドルのレイコの出演依頼を「映画にヘンな色がつくのはイヤだから」だとか、その真剣さは何だかカユイ。
なるほど、今ならデジタルビデオや何かで簡単に撮れちゃう映画が、あの頃は確かに特別だったのよねと、その時代を愛しくも思うけれども、このカユさはいたたまれない。
で、ピンボケに仕上がってしまった映画に呆然として、そして突然踊り出す女部長に、嬉々として「踊ってる、踊ってるよ!」と続けて踊る参謀。そしてダンスの渦と化する部室。このあたりも不条理の面白さだとは思うけど、ピンボケだったことも、突然のダンスも案外笑えないんだよなあ……やっぱりこれは舞台じゃなくって、映画だから、なんじゃないかと思うんだけど、こういう部分が文脈の違いというか。
全編、そしてラストを彩るあの名曲「ライディーン」、作曲は高橋幸弘だったんだ。
なるほど、彼だけが全身YMOだったんだなあ。センターだったし。他の二人の方が有名だけど、彼らがそれぞれの方向に行ったのに対して、彼はやっぱりいまだにYMOの空気を残しているって感じがする。
この曲のシンセの音って、懐かしいというかあったかいというか、冷たくない。携帯の着メロが今ほど緻密じゃなかった始めの頃、この曲だけが完璧に再現できてた、ってあたりがいかにもだったよな、と思う。確かにデジタル、そのさきがけではあるんだけれど、それを作り上げていった手触りがこの曲にはある。それが愛しさでありあったかさであり、そして何よりカッコよさなのだ。
あの頃は痛がゆい時代ではあるけれど、こういう“良心”が残っていた時代でも、確かにあった。
「ライディーン」の執着に、そのことだけは強く感じたなあ。
ラストシーン、1980年最後の夕日を見ながらの三姉妹。可愛く切ないシーンだけれど、でも、でもね、カナエとリカがレイコに対して言う「何かムカツク」っていうの、むかつくなんてこの時代には使ってないでしょー。★★☆☆☆
トニー・レオンはマフィアの組織に潜入する捜査官、ヤン。アンディ・ラウは警察に潜むそのマフィアのスパイ、ラウ。双方まさしく180度正反対の立場。両極。しかし不思議と似ているのは、正反対の両極だからか。
いや、本当は悪のスパイだったはずのラウが、いつしか自ら善を選択する、つまりは根がヤンと同じ、正義の男だったから。本来は二人、同じ魂を持つ男だったのだ。
それをラウは正反対の立場であるヤンに伝えたかった。誰よりも、判ってほしかった。
もともと同じ警察学校にいた二人。その時には確かに志は違っていたけれども、その頃からきっと、心根は一緒だった。潜入捜査官に抜擢されたヤンをラウはまぶしく見送っていたのだ。自分もあんなふうにここから出たい、と。
その時には、勿論、ヤンが潜入捜査官になったことなどラウは知らなかった。ただラウはここから出たかった……。正義の顔をして悪を働くこの先の自分を憂いていたからに違いないのだ。
ただ、彼には義侠心があった。世話になったボスのサムの役に立ちたいという気持ち、それもまた本当だった。
しかしそれが崩れ去る時がくるのだ。
……と、こう考えてみると、何となくラウの方にシンクロするものを感じる。役柄としてはトニー・レオン演じるヤンの方が何たって最後死んじゃうし、自分の立場を判ってくれている人は誰もいなくなってしまうし、もうけ役だと思うんだけど。しかもトニー・レオンの方がアンディ・ラウよりお気に入りだったにも関わらず、そう思ってしまうのは……ヤンがただただ自分の立場のやりきれなさに打ちひしがれているようなところがある反面、ラウの役の方がアイデンティティという点において葛藤があって、それが悩める人生を送っている(?)私たちに、そうそう、そうだよね、と思わせる部分があるのだ。しかも彼は、ドラマティックにも途中で見事に方向転換してくれる。そこにまた一種の痛快さを感じさせてくれるのだ。
勿論、ヤンはそのやりきれなさこそが、いいんだけど。自分ではどうしようもないことに抗えない人間の哀しさを一身に体現しているという点で、ヤンもまた共感する部分は多い。だって、ただ一人、ヤンの身分を知るウォン警視が死んじゃうんだもの。この時は本当にビックリ。一体、これからヤンはどうするの!?と思って。
だって、ウォン警視がいなくなったら、ヤンの潜入捜査官という存在が誰にも知られないことになってしまう。つまりはただの身分詐称男。あるいは、ただの悪の組織に属する男、になってしまうのだから。それどころか、この時には既に組織内の内通者が疑われている時で、ウォン警視が殺されてしまったのもそのせい。つまり自分のせいで、自分の存在を唯一知る人が死んでしまった。それは、ヤンの存在理由すら、なくなってしまう……つまり自分が失われてしまうことになるのだ。
一方、ラウが自分の方向性を悩みだしたのもこの時から。確かに彼はスパイだったけれどこの警視のことは尊敬していたし、たかだか目ざわりだというぐらいの理由で彼を殺してしまうボス=サムに不信感を抱き始める。
でもそれは、ラウ自身が潜入している先の、警察の人間、つまりは自身の中にもともとある、正義の血をその場所にいるからこそ自覚し始めていたから、でもあるのだ。ウォン警視はそんな中でお手本のような人物だった。サムに流す情報が彼の鋭敏な機転でジャマされたり、ラウ自身の正体が見抜かれそうな鋭さといい、ラウにとって脅威の人物であればあるほど、尊敬できる人物であったのだ。
ラウは子供の頃ボスのサムから、自らの方向は自らで決めろと教えられた。サムにとっては、それこそが彼のために働いてくれるということを示唆して疑わなかったのが愚かだった。この時から既に彼の人間としてのほころびは見えていた。ただ、サムの育てた中に、本物の正義の男がいたということは、彼の唯一の善行だったかもしれない。
双方に内通者がいる。そのことを同時期に警察とマフィアは感づく。真っ向敵対する関係上、協力してあぶりだすわけにもいかない……ウォン警視とサム・ホンの老練な二人が微妙に綱を引き合うこの対面シーンはかなりの見ごたえ。この時、それぞれ逆の立場で相対するヤンとラウも双方の集団の中にいて、何ともいえない視線を絡み合わせる。それは敵同士のはずなのに、何だか仲間の目配せのような、いやそれ以上の妙な色っぽさを感じさせてドキドキする。
男同士がその根っこの部分で同じものを持っていると無意識下で感じている時の、その感じ。トニー・レオンとアンディ・ラウはそういうものをガンガン感じさせてくれて、うわぁ、ヤバ、すってきぃ、と心の中で叫んでしまう……ヤバい……。
こういうのは、ホント香港男優の独壇場。同じアジアでも日本映画ではなかなか……ハリウッド映画もこういう色を感じさせてくれることはまずない。
そして、二人はそれぞれがスパイなのに、それぞれの場でほかならぬそのスパイを探し出すことを命じられてしまう。潜入した先の組織で他の誰よりも信頼が篤いというこの皮肉。
信頼されるだけの情熱は、実は裏切り者だというぐらいの立場じゃないと得られないという皮肉。
ことにヤンは苦悩する。だって、裏切り者を探し出して、殺せと言われるんだから。
まさに、自分に向けられた言葉。その渦中にあのウォン警視の悲劇が起こる。しかもウォン警視は直前まで自分と一緒にいた……目の前で警視が空から降ってきて、むごい死に様をさらす。驚愕の表情を浮かべるヤン。
呆然とするヤンを、弟分のキョンが救い出す。車に乗せる。走り出す。
しかし、キョンの様子がおかしい。見ると腹部から大量の出血。キョンは不在だったヤンをスパイの疑いからかばって、自らが犠牲になってしまったのだ。
本当は自分こそが裏切り者なのに、その自分を信じて疑わない弟分。そして息絶えてしまう。
ちょっとお……これ、これってあんまりじゃないのお、と愕然とする。ウォン警視もそうだけど、キョンがかわいそう過ぎて。自分のせいで自分を信頼してくれている人間を一度に二人も失ってしまったヤンの絶望も想像を絶する。しかもヤンは、立場上、キョンを裏切り者に仕立て上げるしかないのだ。一体自分は何のためにここにいるのか、その表情に彼の苦悩がありありと見える。
そしてヤンはラウとの対決を決意するのだ。
ヤンがラウに銃口を向ける。ラウはでも、チャンスをくれないかという。この時にラウは既に、自らの手でサムを葬り、組織と決別していた。いや、決別していたはずだった……とにかく、ラウの心はもう、ヤンと同じ立場だと思っていたのだ。でも、違った。
この時点では、彼ら二人が心から判り合って、同志であることを分かち合えるんじゃないかなんて、そんなハッピーな想像をしていた。というか、それを願いたかった。無理だということは心のどこかで判っていたような気がする。それでもこの時、少なくともラウの心はもう決まっていた。ただヤンが平常心を失っているだけだったから、ヤンがそれを取り戻したら何とかなるんじゃないかと思っていたのだ。
しかし事態は一瞬で覆ってしまう。ラウを人質にとっていたヤンの額に突然撃ち込まれる銃弾!
そりゃ、最初から死に顔していたトニー・レオンだから、あー、この人また死んじゃうかな、なんては思っていたけれど、でも、“案の定死んじゃう”のには心臓が止まるほどに驚いてしまう。だって、伏兵がいるなんてどんでん返し思いもつかなかったから。突然撃ち抜かれた彼に、どうして、どうして!?と繰り返すばかり。警察に潜んでいたのはラウだけではなかったのだ。しかも彼にそれが知らされていなかった。ラウがヤンを撃ったこの男を始末したのは、彼の仇ということが勿論第一義にあるだろうけれど、結局は自分を完全には信頼していなかったサムへの今度こそ明確な別れの意味もあるだろう、と思う。
それにしても、この伏兵の男も結構哀しいヤツだったかもしれない。
ラウがサムを殺したのに、それでもラウが裏切り者だとも思わず、これからのボスはラウなのだと思い込んでいる。ヤンを殺したことが、ラウの窮地を救ったのだと本気で信じている。
そして、ラウに撃たれる……可哀想なヤツ。
サムにとって、こういう男こそが最も望ましかったんだろうけれど、サムが最も信頼したのはコイツではなく、ラウだった。何だかどこまでも皮肉。
ベテランの脇役がさすがである。老練でありながら父親のような懐の深さを見せるウォン警視役のアンソニー・ウォン。そして穏やかな体つき、顔つきながら冷酷非情なマフィアのボス、エリック・ツァン。エリック・ツァンは本当に名優。どんな映画でも、たとえヘタレ映画でも彼にはいつも目が釘付けになってしまう。
ヤンの相手は彼の精神をケアする女医のリー、ケリー・チャン。彼女はどーもピンとこないのよね。ま、確かにキレイだけど、キツイ顔の美人だし、こんな疲れた男を癒せるだけの女性とはどうも思われない。
一方、ラウの奥さん、メリーの方が人間味があってイイ感じ、自分の夫の正体が掴みきれなくてうろたえるんだけど、でも彼のことを純粋に愛していて。
哀しいブルーにモノクロを思わせる黒い男たちの配置は、香港映画には特に顕著な定番ではあるけれど、そこはさすがクリストファー・ドイル……と、思ったら、カメラは彼じゃなくて、監督もしているアンドリュー・ラウだった。ドイルはヴィジュアル・コンサルタントだって。それは何だろ……何にせよ、この絵画のような風合いの画は鮮烈な魅力。
しかし、またしてもあーあ、と思うのは、また“ハリウッドでリメイク”かよお。という話、である。
映画そのものを売る目的で行ったプレゼンが、リメイク権の引き合いばかり殺到したというのが、本当にお寒い、と思ってしまうのだ。
どうして他国の文化をそのまま尊重するだけの謙譲の精神を持ち合わせていないんだろ。やんなっちゃう。
その熾烈なリメイク権争いが他国での評価を高めて、アメリカ以外の国にはこの映画そのものが売れまくってヒットしまくった、っていうのも実に皮肉なのよね。まったく、もう。★★★★☆