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「ね」


2003年鑑賞作品

眠る右手を
2002年 208分 日本 カラー
監督:白川幸司 脚本:白川幸司
撮影:井川広太郎 音楽:小松清人
出演:草野康太 山埼君子 二見林太朗 平井賢治 沖本達也(ワンダラーズ) 斉藤剛 大鷹明良 岸燐 藻羅


2003/7/8/火 劇場(シネマ下北沢/レイト)
下北沢のミニミニシアターで、レイトショーで、3時間半もの長さがある、というのに正直腰が引けながらも、これは観なければきっと後悔する、と直感的に思った。普段短編までチェックする余裕のない私にとって、初めて聞く名前の監督、しかし海外では既に知られた存在なのだという。こういう時に、日本の映像文化に対する姿勢の貧弱さをやはり感じざるをえない。観ていないんだから大きなことは言えないけれど、やはり上映の機会や評価や、そうしたものがあまりに聞こえてこないから。この監督はその中でも実験的な映像で評価を重ねてきた監督なのだという。それが、ドラマの長編でいきなり3時間半。それは逆に監督の中の揺るぎない堅い確信を感じるものだった。こうした耐久性映画は時々出てくるけれども、これは、壮絶、だった。まるでホラー並みに恐怖を感じた。心の闇を言い当てられる恐怖。

正直、人間ドラマを長尺で語るというのは、ちょっとズルイような気もしていた。それは、長さだけ、いくらだって語れるんじゃないかと思ったから。でも、そうじゃない。人間のことや、人生のことや、そんなもの、いくら時間があったって語れるってもんじゃない。山田洋次型の収まり方をする映画なら、別にしても。実際これだけの時間がありながらも、語る、なんていう大上段に構えたものではなく、その逡巡は狂気にまで追いつめられ、理想も現実もめまぐるしく入れ替えられ、高みのものを引きずりおろして、そしてすべてが夢だったかのような、何かぽっかりとした恍惚にも似た喪失感を、でもそれはどこか、ハッピーエンディングのようだとも思う、まるで体験したことのない旅に連れていかれる3時間半なのだ。

正直、最初のうちは拒否反応が強い。ちょっとしたドキュメンタリーチックな趣で、精神カウンセラーの元に集まる人々は、自分がいかに弱くて傷つきやすくて汚い人間なのかということを、時には涙ながらに訴える。それはどこか“迫真の演技”で。ペットの死やレイプ未遂の経験を涙ながらに訴える女性の過剰気味の自己表現に、それこそ私こそイヤなヤツだなと思いながらも、うっとうしいと思わずにはいられない。それは、自分が弱くて傷つきやすくて汚い人間だと訴えることが、イコール謙虚で感情豊かで美しい人間だと主張しているように感じるから。そう受け取ってしまうのも、相当に歪んでいるなと思いつつも、何だか聞いちゃいられねえ、なんて気分になってしまう。

でも、それは、まさに確信犯的な描写だったのだ。彼らの話を聞いているカウンセラーの女性は、後にそんな彼らを、まさしく今の私の感慨そのものに嘲笑し、「救ってもらいたいのは、私よ!」と絶叫する。私はその彼女を見て戦慄した。私もそう言いたかったのではないかと。普通に生きているつもりで、彼女と同じ狂気をどこか奥深くにしまいこんでいるんではないかと。予備軍なのではないかと。人の苦しみを救える人間なんて結局はいないんだと思うことは、自分の苦しみを救ってほしいと思っているからではないかと。

彼女の苦しみは、家庭の崩壊。画家である夫、シンの右手が突然、動かなくなった。親指をなくし、そしてどんどんと皮膚が侵食されていく。包帯だらけの異様な姿になってゆく。絵が思うように描けなくなった彼は苛立ちを爆発させる。一人息子、コウは、口をきかない。彼は、人の心の声を聞くことが出来る。その能力は、子供の彼にとって不幸なばかり。だって、母親は、夫へのアテツケに彼を生んだんだと叫び、父親はただただ彼を疎ましがるばかりだから。でも、その、特に母親の方の心の叫びは、でもそれは本当は違ったのだ。いや、違うというのも、違うかもしれない。彼女は確かにこの息子を愛していたのだ。そのことを、忘れてしまっているだけ。コウのこの能力にたった一人気づき、しかも全くそれを恐れないオカマのソラがコウに諭す言葉がある。心の中の言葉は本当じゃないこともあるんだと。その時は言い訳めいた響きにしか聞こえなかった。だって、ソラが聞かれたのは、彼のむき出しのセクシャルだったから。でも確かにそれは本当だったのだ。自分の心で思うことは、それがすべて真の心情とは限らない。人間は自分の心にさえカギをかけることが出来る、愚かなことに器用になれる生き物だから。

夫婦関係が冷え切って、もはや崩壊寸前の描写ばかり続く中で、コウがお腹の中にいた時のことを思い出す声だけのシーンは、だから涙が出そうなぐらい、人間の心の美しさを 信じられる。お腹の中にいる時点でもう名前をつけて呼びかける若い夫婦の、純粋で、真の愛情は確かに本物だったのに、それは夫婦生活を続けていくには、いささか単純すぎる愛情だったのだろうか。いや、そんなことはない。だって、あまりにもあまりにも取り返しのつかない回り道をした後で、彼が放心した彼女を介護する側に回った時、つまり、今までの立場が逆転した時、それは何か奇妙で危ういバランスの上ではあったけれど、確かに彼らは幸福な夫婦、幸福な家族になっていたのではないか?介護の立場の逆転は、生と死の逆転。確実に死に向かって、妻にとって重荷になっていた夫が、妻への愛に気づき、心の届かない彼女を愛情深く介抱する。そのお腹には他の男の子供がいるのに……。何で人間ってわざわざこんな風にモノゴトを複雑にしてしまうの。ただただ単純に愛する人を愛する、それだけだったらどんなにいいかと思うのに。

取り返しのつかない回り道は、血にこだわる彼女の兄が、妹である彼女を犯して子供を孕ませてしまったこと。このサイテー男の兄は、血のつながりにこだわり、自分の子供を孕まない(のは、自分の精子の少なさに原因があったのに)聾唖の妻を突き飛ばして手話の出来ない手にし、他人である夫婦より、家族の血のつながりの方が重要だ、と妹を犯す。 小さな頃からこの傲慢な兄にイタズラされてきた彼女は、家族?血のつながり?バッカみたい、という態度をとり、お兄ちゃんを慕っていたのは、演技よ、名演だったでしょ、と言い放つ。彼は逆上し、妹を殺しかける。血のつながりがなくなるわよ、と叫ぶ妹に、お前の息子を自分が育てる、とまで言う。あの子にだけは手を出させない、と彼女は兄を刺し殺す……。

血のつながりって、それは図式的なものに過ぎないのに、と思う。濃くなりすぎると、遺伝子的にヤバくなることもあるのに、と。愛よりも前に血があることに恐ろしく思う。しかしやはりそれが厳然としてあるのだ、とも思う。夫との子供を宿せなかった聾唖の妻。彼女の心象風景。夫が死んで、世話になっていた義妹夫婦の元から去る時に、彼女は、今まで唇の動きで言っていることは判っていたの、とぎこちない発音で告白する。それは、彼女の唯一の武器だった。正面きって悪口を叩かれているのを、自分は判っているんだという、あまりにも自虐的な武器。それを告白する時の彼女は、バックがめまぐるしく輝く白い光に満たされている。幸せなようにも、不安なようにも思えて、心がざわめく。

こうした心象風景を映像でダイレクトに示す手法はそこここに使われており、轟音と、暴力的な線画のアニメーションなどにしばしばドキリとさせられる。人物の動きをスピードアップして短縮するコミカルな映像の加工も随所に見られ、一見私小説的な語りに見えるところを、時にコメディタッチに、大部分は大胆にアーティスティックに処理してゆく。しかし常に目指しているのは、やはり心象風景をいかに映像で表現するかの腐心、であるように思う。暗鬱の中に沈みこんでいる人物たちも、その暗さは心の暗さであるように思う。

シンを蝕んでいく皮膚の病。どんどん腐り、壊れていく肉体。しかしそれはどこかエロティシズムを感じさせもする。皮膚の病、太宰治の「皮膚と心」をふと思い出した。皮膚の病が心を侵食してゆく話。皮膚がただれただけで死にたくなってしまう女の話。皮膚なんて表面、外見だけに過ぎないのに、でも世間は表面、外見でまずリアクションをとる。特に女性に対しては……残酷な話である。本作のシンにエロティシズムを感じるのは、彼が男だからかもしれない、などとも思う。これが女だったら、外見、表面が第一義とされるような女だったら、成立しないのかも、とも思う。悔しいけれども。ヘルパーとしてこの家に訪れたゲイであるソラが、一時ホレてしまったこのシン、彼の身体をお風呂で洗い、ただれた皮膚に丁寧にガーゼを貼り、包帯を巻く。シンの外見はもはやモンスターなのに、ソラにそうやって介抱される姿には、たとえようもない色気が漂う。実際、ソラも勃起してしまうぐらいである。ただれた皮膚に、ついつい触りたくなるような、あるいは、破壊=死に直面している負のたたずまいの色気。それはあまりにネガなそれなのだけれど、それだけに、自分の中にもシンクロするものだけに、抜け出せないほどに、執着を感じてしまう。

このシンを演じるのが草野康太で、彼の成長と素晴らしさには目を見張ってしまった。こんな大きな子供のいる役が演じられる年になったんだという驚きもあるけれど、彼の滅びゆく負けの美学が、気合いの入りまくったこのアーティスティックな映像の中で、まるで負けることなく屹立し続けていることに感嘆を覚える。疲れた男のくたびれ加減を体現しながら、きちんと色男である。そこが何ともニクイのだ。

ソラには一番、参ってしまった。本作には彼を軸にしたゲイの仲間たち、その描写が深く掘り下げられており、それが何ともはや痛ましいのだ。ソラはその中でも純粋な愛をまっすぐに信じている愛しい人。でも、ソラにこそ、すべてが見えていたのではないかと思う。ソラの恋人、ロウに横恋慕する美少年、ケンケン。彼一人がゲイ仲間の中で若くて、そしてすっと美しい。ケンケンはこのゲイ仲間たちの関係性を、彼らと寝ることで引っ掻き回していく。いわば、ゲイの中での不倫関係を作っていくんである。でも、結局、彼は誰からもかえりみられることはない。誰の関係も、壊すことは出来ない。確かに彼が余計な手出しをしたせいで、ソラはシンに嫉妬したロウの手によって死んでしまうけれど、でもそれは、ロウにソラへの愛を再確認させるにすぎなかったから。ソラがシンに好意を持っているとケンケンに耳打ちされて、全身嫉妬の固まりになったロウ、その嫉妬ゆえにソラを殺してしまったロウ。それはソラへのこれ以上ない愛で、死んでしまったソラは心が読めるコウを通じてそれをロウに伝え、ケンケンは、ライバルが死んだというのに、これ以上ないほどの大失恋となるのだ。コウだけに見える、起き上がったソラがコウに耳打ちをする場面、何かゾウッとした。それは怖いとかいうんじゃなくて、何かもっとこう……人間の深いものを目の前で見せられた感じで。

ケンケンは、哀しい。あんなに美しいのに。愛を知らないのだ。それぞれのカップルの愛を奪ったつもりで、奪っているのはひとときの欲望だけで、彼はひとり、空回りをしているばかりなのだ。哀しいのは、コウも同じ。愛されているのに、表面的な心が聞こえるばっかりに、愛されていないと思い込んでいた。コウが手やら顔やらに画鋲を突き刺す自傷行為は、彼が微笑んでいるだけに、余計に哀しく、痛ましかった。お願いだから、自分を見てよ、見てよ!と叫んでいるようで、たまらなかった。愛されているんだよ、あなたは、愛されているのに、本当は……。子供は無条件に愛される対象なのだから。何も、悩む必要なんかないんだから。それなのに……。
手、指、唇、声、心。そんなささやかで繊細で、でも本当は大声で主張している表現が、チクチクと突き刺してくる。ソラがシンをさする手の愛情。ドキドキするその感情の描写。それを見つめる奥さんの突き刺す嫉妬の目線。ハラハラする人間の、抑えようもない醜い感情。シンに思わずキスして拒絶されるソラの哀しさ。ソラが死んで改めて彼への愛に気づいて震えるロウ。ひとときの愛、続いていく愛、すべてが、たまらない。

どうして、一緒にいてあげられないのか。どうして傷つけあうのか、どうして……。そんな風に、聞きたくない質問を畳み掛けてくる低い声のナレーション。やめて、やめて!と叫びたくなる。どうして、なんて、そんなこと、そう簡単に解決できれば、ただ、野生の動物のように、食べて生殖して、それだけで満足して生きていけるよ。そうであったら、どんなに良かったかと思うこと、ある。人間である意味、女である意味、血の意味……そんなこと、考えずにただ生きていけばいいから。考えなきゃいけないことだって、判ってる。でも考えたくない、お願いだから、そっとしておいて!って、叫びたくなる。考えることで、深みにはまることで、傷つきたくないんだ。だから……。

自身の内面に耽溺しつつ、少しだけ外に出ている足が、そこからどんどん人間の、あまり露にされることのなかった普遍性へと侵食していく。夢から覚めたのか、と問い掛けるラストは、人間の愚かな感情のすべてが夢で片付けられるような残酷を私は感じてしまった。深く哲学的な音楽がたまらなく感情の奥底をかきむしる。★★★★☆


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