home!

「わ」


2003年鑑賞作品

私は「うつ依存症」の女PROZAC NATION
2001年 99分 アメリカ カラー
監督:エーリク・ショルビャルグ 脚本:ガルト・ニーダーホッファー/フランク・ディージー/ラリー・グロス
撮影:エルリング・トウルマン・アネルセン 音楽:
出演:クリスティーナ・リッチ/ジェシカ・ラング/ミッシェル・ウィリアムス/アン・ヘッシュ/ジェイソン・ビッグス/ジョナサン・リース・マイヤーズ/ルー・リード


2003/9/30/火 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティ)
音楽ライターからキャリアを出発した作家、エリザベス・ワーツェルによるベストセラーの自伝が原作となっている本作。パソコンではなく、ワープロですらなく、タイプライターだというのが時代を感じさせるものの、その描かれるテーマは時代遅れでは決して、ない。“徐々に、そして唐突に”蝕まれてゆく、うつ病のヒロインを演じるクリスティーナ・リッチが製作にも名を連ねるという力の入れようで、確かに役者なら一度はやってみたいと思うような役柄。思えばクリスティーナ・リッチは男性が主人公の映画においてのヒロインは数々あれど、彼女がピンの主役である映画は実に初めてなのではないだろうか。少なくとも私は初見。そして、これだけ不安定なキャラの彼女も初めてのような気がする。彼女はどんな映画のどんな役でも、その黒い瞳でまっすぐ前を見つめる、強い女の子だったから。でもここでは彼女は髪の色もあいまいなブラウンで、ブレ加工のショットとともにおびえた目をいつもこちらに向けている。人もうらやむ才能があり、そのまま進めば間違いなく輝かしい将来が待っているのに、彼女はまるでワザとみたいに迷い、戸惑い、堕ちてゆく。

自伝とはいえ、そこにはどこかフィクショナルな匂いがする。劇中、家族の物語を雑誌に掲載したことが脚光を浴びるきっかけになったリジーもまた、その結末をフィクションとしていることを考えると、やはりそうした意図がかなり感じられる。ここ最近よく見るようになった精神を病む人を扱った映画。ドキュメンタリズムこそが大事、みたいな以前と違って、フィクションとしての面白さを追求する傾向が最近、強いように思う。本作でも、うつ病がいかに大変な病気かというのではなく、そこから派生する家族や友人との関係、アイデンティティの物語である。彼女、リジーは最新の薬、プロザックによって治療を受けるのだけれど、それによってうつ病ではない自分が作り上げられること、つまり、世間的にはマトモな人間だけれど、今まで知らなかった、作り物の自分にさせられることに抵抗を感じるのだ。うつ病の中で自身の不安定さに嫌気がさしながらも、そして観客もそんな彼女にハラハラし、時にはイライラし、更にはムッとくるような場面も多々あるのだけれど、でもその中に確かに彼女だけの唯我があったのだと感じる。薬によってマトモな人間になることに抵抗を感じる、という彼女の気持ちが判るのだ。それはフィクショナルな部分にこそ重点を置き、うつ病であるがゆえのアイデンティティをクリスティーナ・リッチが丁寧に、的確に演じているからだと思う。

いきなり冒頭で巨乳を見せ、それだけではなくアンダーヘアまでバッチリのオールヌードをさらしてドギモを抜くクリスティーナ・リッチ。しかしこのショットは何の意味があったのか、よく判らないけど……その後はメイク・ラブのシーンでさえ、そうした姿は見せないのだから。まさかサービス・ショットではあるまい??それにしてもクリスティーナ・リッチ、顔が違う。今までは大人になったとはいえ、確かに子供時代の顔立ちが見え隠れしていたのに、それがない。ヒステリックな演技が多いせいか、顔までとんがって見える。彼女ののめりこみぶりがよく判る。

夫に去られ、呆然とし、出来のいい娘に没頭するようになった母親。そんな母親の期待に必死に応えようと努力し、応えるだけの才覚もあったから、どんどんと深みにはまってうつ病の闇にとらわれてしまう娘。名門ハーバードに入ったのだって、母親の希望。リジー自体は乗り気ではなかった。しかし、今までの自分からは脱皮しようと決意するリジー。同室のルームメイト、ルビーとも気が合い、「暗くて、知的で、華やかで、セクシーな女になろう」と言い合う。この表現は、クリスティーナ・リッチにまさしくドンピシャリ。理想の男性とロストバージンも実現、そのためのパーティーを開いてしまうというハシャぎぶり。しかし19歳でロストバージンがそんなに驚かれるほど遅いんだろうか……。

そこで友人関係や男性関係、ドラッグ、お酒などを覚え、それなりに学園ライフを楽しんでいた彼女。ルー・リードの音楽評で学内の最高賞も受賞し、傍目には順調に見えていた彼女だが、だんだんと精神の混乱が最高潮に達していってしまう。なぜなのか。
彼女唯一の武器である、文章が書けなくなることへの恐怖が彼女を支配するのだ。あふれる泉であったはずの言葉が、降りてこなくなる。書いては破き、書いては破き、カメラは彼女の周りを猛スピードでぐるぐるとまわる。色とりどりの紙に書かれた書きなぐり、風呂にも入らずニオッてくるまでになる彼女に、周りの友人は心配し、精神科医に連れて行くのだが……。

言葉というのは、ひどく不安定な表現要素だ。芸術か、紙くずかっていうのが、あまりにも紙一重で。言葉は大いなる真実でもあり、一方で大いなるムダでもある。真実を追究しようと思って言葉を駆使していたはずが、言葉を駆使することのみに固執するようになると、ただ言葉をこねくり回していることに気づき、その無為さに呆然とするのだ……書いても書いても、以前のように真実を貫く言葉ではなく、ただ虚飾の言葉しか出てこない彼女の苦悩は察するに余りある。それはきっと、文章を書く全ての人の苦悩に違いないから。
だから、そうして悩み、深みに入り、そのことが友人関係や男性関係にまで暗い影を落とす彼女は、とても繊細な正直な人間で、それを、つまり自分の闇を見ない“マトモな人間”に作り上げる薬、治療というのが、本当に正解なのだろうか、などという考えに陥ってしまうのだ。

優しく、誠実で、セクシーな恋人を得て、幸福を得たかに見えたリジー。しかし彼女は、自分でも自覚するほどのうっとうしい女になってしまう。彼を愛せば愛するほど、疑心暗鬼に駆られ、愛されているという実感が欲しくて干渉してしまう。あれほど、自分に干渉する母親に苦しめられてきたのに。……つまりは彼女は確かにあの母親の娘だったのだ。
母親はリジーがすべて。ドラッグと酒におぼれて軌道を外れてしまった娘に慌て、誕生日パーティーをやりましょう、と言う。豪勢なご馳走、そして祖父母を呼んで、娘の自慢話。
リジーは、“本当に自分を思ってくれているのではなく、他人への見栄のために”と嫌悪してしまう。しかし“本当に自分を思ってくれて”と望むことこそが、彼女の可哀想なところなのだ。
完璧に愛してもらっていると感じなければ満足出来ない、いや、信じることが出来ない寂しさ。 この、ほんの少しの混じり気も許せない彼女の、潔癖なまでの純粋さが引き起こす哀しさは母親との関係だけにとどまらない。

リジーと意気投合し、その最初は「彼女が男だったら良かったのに」とまで信頼するルビーは、しかしリジーと比べればごくごく普通の女の子。リジーは自分の気持ちに正直に過ぎ、そのために自分と他人を両方傷つけてしまう。
ルビーの恋人にちょっかいを出したことを、公衆の面前で言ってしまうリジーにルビーは激怒し、二人は仲たがいしてしまう。リジーは既に彼女の周りの現実がぐらぐらと揺れている状態。親友のルビーが怒っているのもどこか上の空で聞いている。でも孤独に耐え切れず、そして確かに悪いと思う気持ちもあったリジーはルビーに許しを請うのだけれど、許しを請う自分、それを受け入れる相手、という、どうしても入ってくる虚構性、世間向けの芝居の部分にリジーは耐えられなくなる。

それは、本当に普通のこと。人間は100パーセントお互いの気持ちを即座に判るわけではないのだから、相手の出方に合わせて表情や言葉を用意するのは、ごくごく当然のことなのだ。でもリジーはそんなことさえも耐えられない。「いい人ぶっている」ルビーに、そして彼女にそうさせた自分に許せないまでの嫌悪感を感じてしまう。
確かに、リジーの感じていることは判るのだ。真に他人を心配するということの難しさ、なのだ。でも、それはあまりにもあまりにも純粋すぎる。無菌室でしか生きられないほどの純粋さだ。ルビーは本当にリジーのことを心配していたはず。ただ、リジーがどういう状態でいるのかを、リジーとは違う人間であるルビーには最初は(あるいは最後まで)理解することは出来ないのだ。人間のいいところは、そこであきらめず、芝居という虚構を介在させてでも、相手の痛みを知ろうとすることなのだ。

リジーは「せっかく彼女がいい人ぶったのに」などと思って、くるりと態度を翻し、ルビーを傷つけるような言動を吐いてしまう。決裂に継ぐ決裂。でもそれでも、リジーはやっぱりルビーの元に帰ってくるのだ。男には失敗を重ねたけれど、ルビーの元には何度も帰ってくる。彼女から拒絶されても、リジーにとって頼れる他人はルビーだけなのだ。ごく一般的な、普通の女の子であるルビーが、エキセントリックで才能豊かなリジーよりも、生の強さを感じるゆえん。
ここが、友達という存在の、人間だけが持てる素晴らしさなのだと思う。

実家に帰っている恋人、レーフに、何度も何度も何度も電話で呼び出そうとするリジーに、親友のルビーは彼にうっとうしく思われるわよ、と忠告するのだけれど、リジーは彼女をバカにしたように「あなたは本当に人を愛したことがないのよ」と言い放つ。その言葉に涙を流すルビー。リジーは勝ち誇ったように、でもどこか慌てながら「傷ついたかしら?」なんて言う。ルビーは言う。「違うの。あなたが可哀想で泣いているのよ」と……。
ルビーはやはり、リジーを本当に心配していることを物語る場面。
愛されていると実感できなければ不安になることが、愛することだと思っているリジーは確かに、本当に可哀想だ。虚をつかれたようにその場を立ち去るリジー。

レーフにはリジーに隠していることがあった。知的障害者である妹の存在。彼女はさもイヤそうな、身震いしたような顔で彼に言う。「こういう趣味なの?人の不幸が楽しいんでしょ」
なんてひどいこと言うんだろう、と思ったけれど、考えてみると判るのだ。うつ病を抱えている自分に自己嫌悪に陥っているリジーがこう言ったのは、彼が妹を隠していたこと、恥ずかしい存在だと思っていたことが、自分に跳ね返ってくるんではないかとの恐怖だったことが。そして隠してまで心配し、面倒を見る妹以上に自分が愛されてはいないんじゃないかということが。ここにもリジーの哀しいまでの純粋さが影を落とす。
でもレーフにはそれが判らない。「君は狂っている」の一言を残し、彼女を捨ててしまう。
男はあきらめるのが、早すぎる。

「あなたの精神科の治療費にいくらかかったと思っているの!」などと、ちょっと信じられない台詞まで吐く母親。しかしリジーはこの母親を負担に思いつつも、決して憎むことはなく、むしろ強烈に愛している。
ある日、リジーの母親が強盗に遭ってしまう。
リジーがスペースシャトル、チャレンジャーの爆発を見ているシーンと、母親が強盗に暴行されるシーンの執拗なカットバックが目に、心に痛い。
母親がしばらく介護を必要とする身になってしまった時、「私は大丈夫だから学校に戻りなさい」と弱弱しく言うのだけれど、リジーは、大学を休んで母親の世話をする。
「あの子のおかげで助かっている」と祖父母に言う母親。この祖父母はリジーの素行の悪さにまゆをひそめており、ここでも孫娘に対して冷ややかな態度をとっている。でも母親にとってどんなことがあってもリジーは自慢の娘で、そして今自分のそばにいてくれる娘に心から感謝しているのだ。
リジーは、今までと真逆の、母親の面倒を見、必要とされている側になっていることに戸惑う。
でもその戸惑いの中に、彼女の経験の中についぞなかった、新鮮な喜びが見え隠れする。

リジーを診る精神科医、アン・ヘッシュはちょっと退廃的な女医というのが印象的な役柄ではあるけれど、決して頼りになる医者ではない。ただ、リジーが自身をあらわにしていく触媒となっているだけだ。彼女は原題ともなっているうつ病の代名詞であるという薬、プロザックをすすめる存在としての役柄に過ぎないとさえ言える。精神科医やカウンセリングによって患者が治る、という話はそういえばついぞ聞いたことがない。結局は自分の中を必死に泳いで行き着くしかないのかもしれない。
その中で介在するこのプロザックという薬……。
タイトルになっているぐらいだし、あらゆる意味でドラッグ天国のアメリカにおいて、結構無邪気にこの薬を賛美しているのかもしれないとも思うのだけれど、クリスティーナ・リッチが演じるスタンスは、やはり決してそれだけのことではない。否定しているとさえ思える。
心の病が、薬によって治るということへの疑問と抵抗……。

本人役で出てくるルー・リードが、このカリスマ女優、クリスティーナ・リッチと対峙するスリリング。彼女の評論のテーマとなり、ひいてはこの作品の色を染め上げるまでの波及効果を生み出すさすがの存在感。★★★☆☆


トップに戻る