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ビッグ・フィッシュ/BIG FISH
2003年 125分 アメリカ カラー
監督:ティム・バートン 脚本:ジョン・オーガスト
撮影:フィリップ・ルースロ 音楽:ダニー・エルフマン
出演:ユアン・マクレガー/アルバート・フィニー/ビリー・クラダップ/ジェシカ・ラング
ま、でもこういうタイプのお父さんっていうのも珍しいのかもしれないけど……。愛すべき、ホラ吹きのお父さん。口から出てくるお話は際限なく壮大な、空想タップリな冒険譚。小さい頃こそそのお話に目を輝かせた息子だけれど、大人になってくるとさすがに閉口してくる。いや、閉口していたのは息子だけだった。他の人たちは、そのお父さんのホラ話が大好きだったし、そんな話が次々出てくるお父さん自体も大好きだった。
何で息子だけがそれに反発するようになったかっていうとつまり……お父さんがみんなにそんな風に愛されていたから。実に息子の結婚式でさえお父さんはこの息子が生まれた時の話をいつものように大風呂敷を広げて喋り、座の主役を奪っていた。息子は自分が主役になれる場を、いつもいつもお父さんに奪われてきた、こんな人生最大の時でも、と思ってきたのだ。
うん、何となくこの息子の気持ちも判る気がする。だってこの息子ってばお父さんとは正反対、事実を何より重んずるジャーナリストであり、そんな職業についちゃえば、ますますお父さんを疎んじ、あの人と自分は違うんだと思ってもしょうがないもの。それにしてもその結婚式でミソがついて3年間も口をきかなかった、というのはいかにもクラいが……。
まあ、男の子はいつか父親を乗り越えなくてはならない時があるっていうし、彼の場合遅かったけど、この3年間とお父さんの最期の日々とがそれだったのかもしれない。彼はどこか認めたがらずにいたのだ。自分がこのお父さんの息子だということに。
このお父さん、エドワード・ブルームの過去の回想……つまり彼が広げる大風呂敷と、現在の時間軸である最期の数日間を平行して描いていく。もうベッドに寝たきりになっているというのに、お父さんは相変わらず口だけは達者で、息子ウィルに言わせるところの、“作り話”を意気揚揚と話して聞かせる。微笑みながら黙って聞いているお母さんと、初めて聞くこのお父さんの話に惹き込まれるウィルの嫁さん。
ロマンチックなお父さんとお母さんの出会いの話を、なぜしてくれなかったのかと嫁さんはウィルに問う。ウィルは言う。だってそんなの作り話なんだから、と。
嫁さんは悲しそうな顔でウィルを見つめる……そりゃ、この嫁さんだってお父さんの話をまるまる飲み込んでいるわけではない。ウィルのもの言いはつまり……そんな作り話をする父親、を全否定していると彼女は感じたから、黙り込んでしまうのだ。
もうお父さんは最後の時を過ごしているのだから、何とかこの親子の断絶を埋めてやりたい……そう思って嫁さんはウィルにお父さんと話し合ってみるように勧めるのだけれど……。
お父さんのお話はいかにもロマンティックでファンタジック。普通の人間の5倍はあるような巨人や腰のところでつながった双子の姉妹などのフリークスたち、あるいは少年の時出会う不思議なガラス玉の目を持った魔女など、ティム・バートンらしい愛で描かれる。夢のようなサーカス、そこで出会うお母さんに一目ぼれしたとたんに時がとまり、彼は宙に浮いているポップコーンをパラパラ落としながら彼女に近づいていく……ステキ!
彼女のことを知るためにサーカスに入って三年もかかり、必死のプロポーズのために一面の水仙を彼女のために用意して、見事彼女をゲットする。……何だか「北の国から」の正吉君みたいなエピソード(正ちゃん好きなのだ)。
若い頃のお父さんを演じるのはユアン・マクレガーで、こういう現実離れした優しいお伽噺が彼には本当に良く似合う。
でも、とふと思う。お父さんのお話は本当に全部、作り話だったんだろうか?
彼が旅の途中で紛れ込んだ、夢の中でもさらに夢のような理想の街は、パステルカラーのふわふわしたドレスを着た女たちと、やはり白っぽい服装をした男たちが、はだしで生活している。はだしでも傷つかない優しい芝に覆われた街。
その中に紛れ込んだ彼は一人ダークな格好をしていて、ひと目で現実が入り込んだと判る。はだしでいられるのは、ここには現実の厳しさがないから。
確かに理想の街なんだろう。楽しげに喋り、踊り、駆け回る。ここにはイヤなことなんかひとつもない。なぜここを辞するのか街の人たち、あるいは彼自身にさえよく判らない。でも彼は、足をキズだらけにしてでも、この街を出て、現実へと歩いていく。
例えば、こういうところに、感じるのだ。確かに夢のような話。でもその中にはこんな風に、彼自身の意思を伴った、現実への思いが見え隠れしている。痛みも、ちゃんと判ってる。
あるいは、全てが本当に本当だったのではないかとさえ、思える。このお父さんを最後まで愛しきったお母さんは息子のウィルに「すべてが作り話ではないのよ」と言っていたけれど、彼女は本当はパーフェクトに信じていたんじゃないだろうか。
お話の中の登場人物に過ぎなかったはずの巨人や双子や詩人が、お父さんの葬儀に続々とかけつける。息子は目を見張る……彼もその時、同じことを考えていたのではなかったか。
でも、この最後のシーンに行き着くためには、ウィル自身の手助けがなければならなかった。お父さんはベッドの上で常々言っていた。あの時魔女のガラス玉の目の中に見た自分の最期はこうではなかった。わしは驚くような死に方をするんだぞと。
本当にもういまわのきわ、彼はウィルに、……もう息も絶え絶えながら仕掛けてくる。自分の最期がどうであったか当ててみろと。
戸惑いながらもウィルは一生懸命想像をふくらませて話し始める。……父親ならどう話すか、いや、父親が見たものは何だったのかを。
皆に笑顔で見送られて、息子に抱き上げられて川の中へと入ってゆく。そして伝説の怪魚となって、ゆうゆうと大河を泳いでゆく……。
ウィルのその話にお父さんは満足そうにそのとおりだと笑みを浮かべ……こときれるのだ。
お父さんは言っていた。自分は口で喋る、お前は文字で書く。同じ喋り好きなんだ、と。
ほら吹きのお父さんを、自分とは違う、とずっと否定し続けていたウィル。でもやはりこの父親の息子なのだ。
お父さんは、事実を要点だけ言って話したって、何にも面白くないじゃないか、といつも言っていた。でも本当の事実なんて存在しないかもしれない、なんても思う。だって事実だといって喋っている先から、その人の主観はどうしても入ってくるんだもの。それが前提であることを彼は判っていたから、それならもう、思いっきり主観を入れて面白くしちゃう、それが彼の流儀。
あるいは、作り話が本当になってしまった、みたいなことでもあるのかもしれない。彼自身、どこに境界線があるか判らない。だって起きた事実も彼自身が望む真実も、同じ彼の中の主観から発生しているのだから。彼にとってはそんな境界線はどうでもいいことなのだ、おそらく。
あるいは、真実は、彼自身を形容するもの。事実だけを言おうとすると、どんどん言葉は少なくなる。自分がなくなってゆく。彼の話が面白いのは、いつもそこに彼の存在を感じるからだ。そして人々は決して彼の話を忘れないし、彼を忘れない。その存在こそが事実ではなく、真実だ、ということなのかもしれない。
魚、だって、本当に彼は大きな魚だったのかもしれないよ?
ついには息子にまでそう言わせてしまった大きな魚。お父さん自身をまるまる形容するかのような、どこかほら吹きの象徴のようなこの大きな魚。彼の話にはよく水が出てくるし、……豪雨の中車を走らせていると水の中に沈んでしまうお話の中で、車の中から彼が見る、しなやかに泳いでゆく一糸まとわぬ姿の女性、なんてエピソードもある。彼の話によく出てくる、凪いだ池や川は、動かずにいる水だからそこには確かに……ずっとずっとい続ける何かが、いそう。そう、こんな怪魚だっていそう。
そして彼は「のどが乾く」と言ってよく水を欲し、「乾いたから」と水を張ったバスタブに服のまま身を沈めるのだ。
夫婦の最後の愛のシーンになるこのシーンはステキだった。水を張ったバスタブの中で二人、そっと抱き合うのだもの。
涙を流すお母さんをそっと抱き寄せるお父さん。水の中で……どちらかが先にいってしまう、そんな年になっても出会った時と変わらない愛情で愛し合っているのが、判った。
本当にあるのかなあ、こんなこと。そんな風に、皮肉っぽく思っちゃうぐらいに。
でも、お母さんはお父さんの最期の時を、息子に譲る。そしてあの、まさに父と息子の血の絆を感じるあのシーンである。
まさしく父と息子の映画。母と娘じゃこうはいかない。
その違いは何だろう……男は大河を泳いでゆく魚であり、女はその大河そのものである、なあんてね。
そしてそれを父は息子に、母は娘に、こんな風に言って聞かせるのかもしれない、などと思うのだ。★★★☆☆