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「も」


2005年鑑賞作品

MOOG モーグ/MOOG
2004年 70分 アメリカ カラー
監督:ハンス・フェルスタッド 脚本:
撮影: 音楽:
出演:ロバート・モーグ/キース・エマーソン/リック・ウェイクマン/ガーション・キングスレー/ジャン・ジャック・ペリー/ハーブ・ドイチ/ウォルター・シアー/バーニー・ウォレル/DJ ロジック/ルーク・ヴァイバート/DJスプーキー=ポール・D・ミラー/パメリア・カースティン/ステレオラブ/マニ−・マーク/ティノ・コープ/チャーリー・クローザー


2005/3/31/木 劇場(シブヤ・シネマ・ソサエティー/レイト)
平日だというのに十重二十重に人が取り巻いていてビックリした。その日はテルミンの生演奏があるということもあったんだろうけど(わたしゃ知らずに行っちゃったよ)そうでなくても、かなりの大ヒットを記録しているらしい。しかも観客層は、こう、なんつーか、テクノ系?の若い人たちが圧倒的で、何となくフラーッと来てしまった私はすっかり圧倒されてしまった。多分彼らにとって神様のような伝説の存在、なのだろう、このモーグ博士というのは。電子音楽のパイオニア、ことにシンセサイザーの生みの親。電子音楽、なんていう言葉自体が、ああ確かにちょっと前はそんな言葉も聞いていたかも……でも今やそんなものもすっかりアタリマエの世の中になってしまって、いわゆるアコースティック楽器と並んで当然のように楽器店に置かれている。でもそうなってからほんの何十年かしか経っていないんだよね、思えば。そしてこの神様はだからまだしっかりご存命で、自分が生み出したその電子楽器をまだ改良を重ねんと、日々没頭している。いやー、これが、伝説の名にふさわしい、お方なんである。

モーグ博士。そう、博士。うーん、博士って感じ。しかもアインシュタイン方向の。ちょっとキテレツで、俗世間から隔絶されていて、ものすごくチャーミングな。これがまたもんのすごいマシンガントークの博士で、自分がいかにこのモーグ(彼が生み出したシンセサイザー)を愛しているか、電子楽器を愛しているか、もう止まらないったら止まらない、そのマシンガントーク。何たって博士だから、結構ムツカシイことも織り交ぜてガンガン話していくから、思わず時々眠りに落ちそうになるんだけど(笑)。
音楽というよりは、哲学、芸術というよりは科学。そんな、趣である。あるいは心理学も入ってくるような。彼はもう、電子というものをまずものすっごく愛している。電子回路と心を通わせちゃうんである。そんな風に心を通わせちゃうから、その思いを汲み取って、こんな電子楽器を作らずにはいられないんだろうと思うぐらい、もう相思相愛なんである。電子回路と相思相愛だなんて、まさに電子が使わした電子の神の申し子って感じ。そこには、電子楽器という響きから来る冷たさは全くなく、この世に確かに存在する電子という物質の心を伝える使命を負った、使者であるようにさえ思われる。何かもう、何言ってんだか判んなくなってきたけど(笑)、なんていうか、それぐらい、浮き世ばなれしてるのよ、このオジサン。発明者でありエンジニアである、というのが通常の肩書きなんだろうけれど、そんなカタさがまるでないの。そりゃそういう技術者としては天才なんだろうと思う。でもそれがまるで、天からの使命を受けて彼の指先が動かされているような、そんな気がしちゃうんだもん。

まあ、そんな風に思ってしまうのは、このモーグというシンセサイザーの驚くべき形状にあるわけなんだけど。今でこそシンセサイザー(キーボード)っていうのは鍵盤の音をボタンで変えられ、まあ電子ピアノなんて見た目はアコピにソックリだったりするわけだし、形にしても音色にしてもいわゆる、違和感のない楽器、というものに近づける努力をなされているような感じなんだけど、初期のモーグのこれは……もうなんじゃこりゃ!だもんね。こんなん、エンジニアを側においとかなきゃ、ミュージシャンが演奏なんて出来ないよ!みたいな、電子回路がそのまま露出したような、しかもそのボードがおっそろしく巨大で、一体何個つまみがついてんの!っていうような……ぬりかべのように操作ボードがどーーーん!とそびえたっているんだもん。これは……衝撃。

でも私、何か見たことあるんだよなー、そう、シンセサイザー、そしてテクノといえば、あの御大、イエローマジックオーケストラですよ。今回この作品を観にこようと思ったのも、やはり心の底にYMOの演奏シーンが焼きついていたせいがあったかもしれない。無論、私はオンタイムで知っているわけじゃないんだけど、だから、確か、彼らの映画「YMOプロパガンダ」だったと思うんだけど、キーボードの坂本教授が、やっぱりこんな具合の、どーん!とした操作パネルを自在に操ってシンセを弾いていた記憶があるんだよね。そうか、あれがモーグシンセサイザーだったんだ。あ、そういやああの頃、確かにシンセって言ってた!今は言わないよねー、キーボードって言うよねー。つまり、シンセはシンセであり、キーボード状のモノを指すその他全般とは違うってことなのかも。と、考えると、その頃のミュージシャンたち、ホントにあんな、怪獣みたいな?シンセを操ってたんだ。教授が教授って言われるのも判るような?だって、ある程度頭良くなきゃ扱えないような気がするもん、あんなの。それに相当高そう……実際、かなりトンでもない値段がついていたらしい。モーグ博士は商売でモノを作る人じゃないから、トンでもないコストをかけてシンセを開発したらしいから。

そして、ミニモーグと呼ばれる普及型のモーグシンセが出てきてから、シンセサイザーは音楽界を飛躍的に席巻するようになる。モーグ博士は言ってた。それまでは楽器というのは木の枠組みか、弦が張られていなけりゃ楽器と呼ばれなかったんだって。モーグはだから、ずっと楽器じゃなかった。実験器具のような扱いだった。でもモーグ博士はなんとしてもこのシンセサイザーを楽器として認めさせたかったんだよね。電子を愛する人だから。
今の電子キーボードは、そういう意味でやはりモーグ博士の作る“シンセサイザー”とは違うんだと思う。シンセはモーグ博士の専売特許。だって、それは、シンセの音がしているから。今の電子キーボードは、あらゆる音が出るけれど、そのあらゆる音は、既存の楽器の音に出来るだけ近づく努力をしている向きが強いように思う。コンピューターも入り込んだ最先端の電子楽器には、より精密なプログラミングによって確かにそれは可能だ。モーグ博士は何たって天才エンジニアだからそういうことだって当然出来るに決まってるんだけど、彼はシンセならではの音にこだわっている感じがする。それは彼が電子を愛しているからであり、電子の声に耳を傾けているからだと思う。何かそんなこと言っちゃうとますますアブないオジサンだけど(笑)。

でもこのモーグシンセの音って確かに、何か懐かしくてあったかいんだよなあ。電子によって作られた音じゃなくて、電子そのものの音、という、ある意味アコースティックな音のまろやかさ。確かにモーグシンセは改良が重ねられるたびにたくさんの種類の音が出るようになるし、演奏者がそれをベースにしてもっと理想的な音を作り出すことも可能なんだけど、足したり引いたりこねたりまるめたり、みたいな、そういう作業によって生み出される音であって、最初からこの楽器の音をコンピューターでコピーして、はい完了!っていうんじゃ決して、ないんだよね。電子そのものの音は、この宇宙の最初から確かにあった音のように感じられるんだから不思議。そして多分モーグ博士はそれこそを、愛しているんだよね。

そういえば、モーグ博士は、本当は鍵盤型にしたくないんだと言っていた。彼が電子楽器の大元であるあのテルミンが大好きで(という話は劇中にはあまり出てこなかったけど、この日演奏に来ていたテルミニストの女性が言ってた)、そのイメージが頭にずっとあったと思われる。テルミンはハッキリとした鍵盤の音階はなく、それはもっぱら演奏者のテクニックによって刻まれるわけだけど、ハッキリと刻みきれなくて、その境界線はいつもあいまいで、それこそがテルミン独特のまろやかな曲線の音色を生み出すんである。電子、そして電子音そのものを愛しているモーグ博士がテルミンを理想としたのは確かにうなづけるけど、鍵盤にしていなければ、それこそテルミンと存在価値を異にすることなど出来なかったであろう。鍵盤型にすることで、ミュージシャンの演奏テクニックがダイレクトに反映され、モーグ博士の愛する電子音はより複雑な形の、新たな芸術として生まれ変わることになるのだから。実際、数多くの有名ミュージシャンがモーグシンセを愛用しており、そしてそのライブシーンも本作にはふんだんに盛り込まれており、それはまさしく圧巻のひと言なのだ。電子というものが、死んでいるものではなく、この宇宙に存在するものなのだということを、一流ミュージシャンの腕によって確実にこの世に知らしめることになる。色んな音が出る便利な楽器としてではなく、この宇宙に同じく存在するもの同士としてのセッション。

博士はモーグシンセサイザーを愛用しているミュージシャンたちを訪れる。ミュージシャンたちにとってモーグ博士は師匠で神様で恩人だから、もう喜びいさんでトークが弾みまくるったら。モーグ博士の、深遠で素晴らしいんだけどちょっと難解入り気味のマシンガントークよりも、モーグシンセの素晴らしさをより身近に物語ってくれる。モーグシンセを新型になるたびに買い換えたあるミュージシャンが、「ヨメさんと同じで、夢中になるところは一割だけだから、すぐ次のが欲しくなる」なんてキワどいことを言っていたりするのは、笑えたりして(女の私が笑っちゃダメだろー)。モーグシンセの研究開発当時の映像までをも盛り込み、電子楽器をテーマにしながらも、実にユーモラスでヒューマニスティックなドキュメンタリー。テクノ系の観客だけに取り込まれるのはもったいない!★★★☆☆


モダン怪談1,000,000,000円
1929年 15分 日本 モノクロ
監督:斎藤寅二郎 脚本:池田忠雄
撮影:武富善雄 音楽:(サイレント)
出演:斎藤達雄 松井潤子 坂本武 吉川満子 小倉繁

2005/11/4/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(斎藤寅二郎監督特集)
おいおい!これは全体の2割しか現存していないって!?そりゃヒドすぎる!これは資料的価値って感じで見るしかないのかなーと思っていたら、2割しか残っていないというのに、しっかり筋が判るし面白いのはどーいうことだ!え?なんで?大きくガッと失われているんじゃなくて、途中途中でフィルムが抜かれてるのかなあ。それとも大きなエピソードが抜け落ちているのかなあ。いずれにしても、ナンセンス喜劇の基本がここにあり、という面白さで、無声だし、テンポも今のギャグに比べりゃゆっくりとしているんだけれど、可笑しいんだよね。いや、これちゃんとした形のをぜひ観たかったよなー。

若い恋人同士、女の親からビンボーを理由に結婚を反対されてて、二人は駆け落ちのようにして山の中に入ってゆく。女は親に深刻な書き置きを残していってるんだけど、さほど深刻そうな様子もなく、ノンキにピクニック気分、キャンプよろしく焚き火起こしてメシなぞ作っちゃって、女に気づかれないように男がつまみ食いするあたりからもうギャグは始まってる。しかしそこにヘンなじいさんが。しっかしこのじいさん、なんだったの。仙人みたいで、モノクロの無声だとやたらコワいんだけど!逃げようとする彼ら、男が木の枝に引っかかって動けなくなるギャグはちょっと間のびしていたけど、とにかくこの山に国定忠治の埋蔵金が隠されているとの話で、ひっきりなしに一攫千金を狙う人たちが訪れているところだと知る。こりゃ願ってもない話、自分たちも掘り出そうと、男、ツルハシを振るっている人に、「国定忠治の埋蔵金はどこですか」さ、さすがに吹き出した!「バカヤロウ!それが判れば何十年も苦労するか!」

怒鳴られて逃げ出した二人は、怪しげな古寺に迷い込む。ミイラじみた置き物があったり、ヘビは這ってるし、いかにも気味が悪いんだけど、男は怖がりながらも、「あのお供えの団子を食べよう」とか言うもんだから、だ、脱力ッ!しかし彼が手をのばそうとすると、そこに安置されている棺の白い布がだんだんに浮き上がり、やせこけた手が出てきて団子をつまむもんだから、ホントに、モノクロで無声で気味が悪いんだけど、だけど、可笑しくてここも吹き出しちゃう。ガイコツの置き物が彼女の方にしなだれかかったり、この棺の三角布の幽霊?がニヤリニヤリと笑いながら迫ってきたりするから(ギャグなんだけど……しつこいけど……モノクロの無声だから、本気でコワい)二人はほうほうの体で逃げ出してしまう。

しかし、そこで時代錯誤なカッコの男と、連れの子供に遭遇する。ツルハシをふるっている。女、「きっと国定忠治の幽霊よ!」くるりと振り返ったその男の形相は、まさに国定忠治そのもの。こここそが埋蔵金のありかだ!と男はその穴に突進するも、「近づけば、斬るぞ」男は腰が引けながらも、たまたまそこにあった(なんでたまたまあるかなー)十手を突きつけ、「御用だ、御用だ!」すると国定、穴の中にすうーっと消えてしまう。子供が慌てて、「おじちゃん、ボクを忘れちゃダメだよ!」そうすると国定すーっとまた出てきて(爆笑!)子供をおぶってまた穴にすーっと消えてしまう。男、その穴を掘ろうとすると、姿見えず無声映画ならではなんだけど、字が画面にかぶさって「掘れば、斬るぞ」なんて出るんだもん!もう、笑っちゃうよ!そこで男、穴に向かって十手突きつけ「御用だ、御用だ!」(アホ(笑))大人しくなったんで、男がツルハシをふるい、女が十手を突きつけて御用だをくり返し、見事二人は埋蔵金をゲットするの!

その頃、行方不明の娘を探して山に入ってきた彼女の親、娘のキモノを着ているあの三角布の幽霊をみつけ、こりゃ娘は死んだものと合点、家に帰り、悲しみにくれて法要を営んでるのね。ゴーン、と鐘を打ち鳴らそうとして隣りの奥さんの頭をごつーんと叩くあたりはベタだなーと思いつつ、ちょっとウケる。その後再三そのギャグを、死んだと思った娘が現われてうろたえたことでくり返し、奥さん木魚の代わりに打たれっぱなしだし(爆笑!)、幽霊と思い込んだ娘と目をあわすまいと、鐘をつくつく叩きながら逃げ回るし、もう可笑しくて!しかもすっころんで頭打って、ガクッとなって、死んじゃったか!みたいになるしさー!そこに男も帰ってくる。女もそうだけど、いくらなんでもそのボロボロになりぐあいは大げさだっての。ズボンの裾なんぞ、縦にビラビラに切れてるのは、一体どうやったらそうなるのじゃ!で、小判がジャラジャラジャラッ!と落ちてくると、この親父さん、ゲンキンすぎるわ、それで目が覚めちゃうんだもん!笑ったなー。「金があるなら」と即座に結婚を許しちゃうあたりもゲンキンだよねー。いやー、ドライな大団円だなー。

たった15分だけど、こうして書いてみると、すんごくみっちりつまってるのね!それにもうギャグの基本がすべて確立してる。こういうのを見ると、新しい笑いを作り出すのがいかに難しいか判るなあ。★★★☆☆


モトショップ富田
2005年 10分 日本 カラー
監督:小船統久 脚本:小船統久
撮影: 音楽:丸山力臣
出演:小船統久 本間由人 中屋F実奈子 増田佳恵

2005/4/29/金 劇場(下北沢トリウッド/新映画党上映会)
モトショップっていうのは、バイク屋さん?それとも修理屋さん?とにかく、モトショップトミタ、とまるで手書きみたいな文字で書かれたTシャツを着た富田君が、沢村さんのところに、今日納品するはずのバイクが明後日になる、と告げにくるシーンから始まる。中学時代同級生だったということが後に明かされる二人は、特に富田君の方がどうも微妙な距離感をとっているような感じが常にしている。大体、その納品が遅れたことを謝る態度も、意味もなく慇懃無礼で、確かに沢村さんがキレちまうのも判るんである。

夏休み、なんだろうなあ。真白く照りつける太陽と、長々と感じる昼間の時間の空気。沢村さんは明日、彼氏とツーリングに行こうとしているんである。そりゃ怒るのも道理なんである。沢村さんは、富田君が中学時代いじめられていた話をぶつけてくる。「いじめられてない」「いじめられてたじゃん」そのカットバックがキレ味するどく何度か投げつけられた後、「跳び箱の中に閉じ込められて、漏らしたくせに」そのひと言で富田君は鼻白んでしまう。

いやー、これは言っちゃいけないひと言だよねー、と思うんだけど、富田君、いかにもクラくって、陰気なイヤミくさいところがあって、そんなことを言わせちまう雰囲気が確かにあるんだよなあ(うッ、でもこれ、監督自身の主演だ……)。彼女は後でそれを謝るんだけど、「お前バッカじゃねえの。お前なんかに言われたって全然気になんないんだよ。自意識過剰!」と富田君から返す刀で言われてしまう……でもさあ、彼、それがまるで用意されたような台詞でさあ、待っていたようなさあ、なあんか彼自身が気にしていた感じがアリアリなんだよね。で、富田君は、沢村さんが付き合っている彼氏について、あんな二股かけるヤツのどこがいいんだ、浮気してるに決まってる!とまで言う。そしてサドルのない自転車にグラグラよろめきながら坂道をのぼっていく。サドルのない自転車……高校になってもまだ彼はイジめられているんだろうか。

沢村さんは、この彼氏にバイクの納品が遅れたことを電話しようとしてたんだけど、倣岸不遜な態度の彼氏にそのことを言い出せずにいた。そして約束のこの日、彼氏のアパートまで来ていたんである。しかしドアから出てきた彼は、「それは来週になったって言ったじゃん。聞いてなかったのかよ」いや……言ってなかったんだろうなあ。沢村さんはただただ、そうだっけ……とつぶやくしかない。富田君に対する感じとは明らかに対照的である。「あがってもいい?」と言う彼女に彼、「ちょっと待って、部屋片付けるから……」その間に浮気相手をベランダから脱出させているんである。富田君の言うことは見事当たっていたわけで。今の沢村さんの立場は、恋人と思い込んでいる相手から裏切られているという、富田君にとっては身に覚えのあるコトだから判っちゃうのかもしれない。

シャワーを浴びた髪をタオルで拭きながら、「私のことどう思ってる?浮気なんかしてないよね」と問いかける沢村さん、彼氏からの否定の言葉に単純に嬉しそうな顔を見せる。そのアパートを夜、富田君が見上げているんである。うっ……富田君、何かストーカーっぽいけど、やっぱり沢村さんのこと、好きなんじゃない?
と思ったら、次の日、沢村さんが帰ろうとする横を、富田君が自転車で通ってゆく。昨日と違ってスムーズで、ふと見るとサドルがちゃんとある。沢村さん、あれ?って顔をして、いざ自分の自転車に乗ろうとすると、ありゃりゃ、彼女の自転車のサドルが盗られているんである(笑)。
10分で、2日間を、ほんの少しの会話のやりとりで、過去の痛みと現在もそうそう上手く出来ないやりきれなさを、ちょっと自嘲しちゃうようなナナメ加減に切り取っていて、上手いんだなあ。★★★☆☆


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