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「そ」


2005年鑑賞作品

そして、ひと粒のひかりMARIA FULL OF GRACE
2004年 101分 コロンビア=アメリカ カラー
監督:ジョシュア・マーストン 脚本:ジョシュア・マーストン
撮影:ジム・デノールト 音楽:リン・ファインシュタイン
出演:カタリーナ・サンディノ・モレノ/イェニー・パオラ・ヴェガ/ジョン・アレックス・トロ/ギリード・ロペス/パトリシア・ラエ/オーランド・トーボン/ジェイム・オゾリオ・ゴメス/ウィルソン・グエレロ


2005/11/18/金 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
監督さんが「17歳の世界」という普遍的なもの、を描きたかったと言っていて、あらま、またしても17歳?とちょっと驚く。今や全世界的に17歳というのはクリエイターを動かすテーマらしい。普遍的で、最も複雑でとらえきれない季節。子供というには成熟しすぎてて、大人というには無鉄砲で青すぎる時代を、コロンビアの厳しい社会情勢に巻き込まれていく一人の女の子、マリアを通してとらえていく。

そう、厳しい社会情勢、に目が行きそうになるけど、これはあくまで、その17歳という季節の活写なのだ。まともな職もない中、やっとありついている花工場でのバラの棘とりの仕事、でもそんな仕事での稼ぎで、しかもたった17歳で一家の大黒柱、といったら聞こえがいいけど、お給料はほとんど家族の生活費に消えてしまうんである。父親はいない様子。母親は……働いている様子があんま見えないんだけど。そして極めつけは姉がシングルマザーとなって家におり、その赤ちゃんのオムツ代やら何やらまでこの姉は当然のように、しかも半分キレ気味に妹に要求してくるもんだから、そりゃマリアだって腹がたつってなもんである。

でもマリアはね、この17歳という季節特有の苛立ちじゃないかって気がするの。一家の大黒柱、それはそう。でも自分のやりたいことも、出来るかもしれないことも判らずに、楽しくもない仕事を毎日単調にやらなきゃいけないことに対する不満がアリアリなのだ。しかも恋人、ともいえない、まあ多分……寝るだけの相手のホアンは、彼女いわく、確かに「つまんない男」である。マリアがたわむれに、屋根に登ろうヨ、と誘うと、そこでヤるのか?バッカじゃないの、お前、みたいな感じで、一人屋根に登ったマリアを置いてさっさと帰ってしまうんである。マリアは青い空を見上げる……実はマリアはホアンに話があったのだ。重大な話が。

工場で、彼女は主任と衝突している。やたらと休憩をとりたがるマリアに、「君とばかりモメる。他のみんなは黙々と働いてるぞ」と主任はどやしつける。まあ、主任の言うことの方が正しいよな……と思ってると、マリアは突然バラの上にうげっと吐いちゃうんである。ビックリする。主任は休憩を取らせなかったことを悔いるどころか、あー何やってんだよ、売りモンにならねえじゃねえか、ってな感じで、怒るんである。マリアはもうあったま、きた!ってなもんでその工場を辞めてしまう。とにかく挑戦的なマリアと、その彼女に対して言うことを聞かないワガママ娘という目しか向けない主任という関係性は、子供と大人のそれぞれ悪い部分だけを映していて、いやあなんというか……反面教師ってヤツ?

マリアの体調が悪かったのは、妊娠していたからだった。ホアンにそのことを話した。ホアンは苦虫を噛み潰したような顔をして、仕方なくって感じで「お前、結婚したいか?」と聞いてきた。「結婚しよう」ではなく、である。そりゃそうだ。ホアンはマリアを愛してないっていうんだから。それに対してマリアもホアンに私も愛してない、と言う。双方共にそれが本音なんだろうけれど、「男が逃げないで責任とるって言ってんだろ」みたいに高圧的になるホアンは、ほおんとに、確かに「つまんない男」だ。恋愛の感情さえまだまともに判っていないような、若さゆえの愚かな関係だったのだ。寝るどころか、キスさえつまんなそうだったもんなー。けれど……マリア、どうするつもりなの。

マリアは都会に住んでいる友達を頼ることにしたらしい。旅立つ日、通りに立っていると、パーティーで知り合ったフランクリンという男がバイクで行き会う。ボゴタまで行くと言うと、送ってくよ、と言う。こういう“親切”に彼女がアッサリ乗っちゃうあたりもまた若さだなと思うんだけど……。フランクリンはマリアが職探しをしているという話を聞き、それなら仕事のクチがある、と彼女を誘う。旅が出来る仕事だ、と。あの田舎町からとにかく出たいと思っていたマリアは興味をそそられる。でもその仕事が運び屋だと知って躊躇する。運び屋、勿論麻薬の、である。フランクリンは一度はその話を引っ込める。忘れてくれ、と。でもしっかり稼げる金は提示してくる。今から思えばね、このフランクリンは親切な男なんかじゃなかったよ。一見そう見えたけれど。困っているマリアを助けてくれる、優しそうな男。でも後にマリアの親友のブランカも運び屋に引き入れるし、つまりはフランクリンは紹介料によって稼いでいる男なんだから、女をヘとも思っていない点についてはホアンと大して変わりはなかったんだよね、多分。

マリアは運び屋の話を引き受けてしまうのだ。面接を受ける。「体の具合に異常はないか」と聞かれる。元締めが聞いているのは麻薬を飲み込むから胃は丈夫か、っていうことだったんだけど、おいおい、マリア、あんた妊娠してんじゃん、そのことは言わないの?と思いつつ……それを言えば絶対この仕事却下されるだろうなとは確かに思い……マリアはそれを伏せたまま仕事をOKしてしまうのだ。
元締めと面接した店に、同業らしい女性がいた。その女性とバスの中で行き会ってマリアは声をかける。本来ならそうした同業者同士は接触しちゃいけないんだろう、その女性、ルーシーは最初、マリアが話しかけても無言である。でもマリアがこの仕事が初めてだと察すると、おずおずながらも話に応じ、自分の部屋に招き入れてくれて、麻薬を飲み込む練習の仕方や、どういうカッコをしたらいいかとか、話をしてくれる。そして自分の家族の話も……。

みんな、結局、家族のため、なんだよね。マリアは確かにこんな田舎町、そしてこんな家族から離れたいと思った。でもただ離れたいだけなら、仕事うんぬんは後回しでもまず都会に出て、友達んところに居候して……で良かったと思うのね。でもマリアはまず仕事のことを考えてる。それは離れてても家族に送金することを考えているんだと判る。それはルーシーもそうだし、マリアにくっついてこの仕事を引き受けてしまった親友のブランカも、そして後に出会う、ルーシーの姉がニューヨークに出てきたのも同じ理由なんだよね。なんかそれが……そりゃこれは17歳の話なんだけど、そしてここから離れたい、家族から離れたい、自分だけでやっていきたい、って部分も同じなんだけど、自分より家族を食わせることが第一義、ってのがもう絶対的に違うんだもん。引っ越す準備のためにボゴタから一度故郷の町に帰ってくるマリアは、「あんたに仕事なんか見つかるはずない」という姉に、支度金としてボスにもらった金をたたきつける。とたんに黙り込む姉。痛快だけど、やっぱり結局、この妹に対して金を稼いでくる人間、という目でしか見ていないことを明らかに感じてしまう。でもマリアはこの姉のこと、家族として愛してるんだよね。ホアンに、「くだらない男に妊娠させられて捨てられた」ってけなされると、姉さんを悪く言わないで!と烈火のごとく怒るんだもん。多分そのとおりだろうに……うっ、しかも今のマリアが同じ状態じゃん。

マリアが麻薬を飲み込む場面から、ニューヨークに着いてそれを吐き出す場面まで、もう見てるこっちは胸が苦しくてたまんない。飲み込む麻薬はゴムの袋にぴっちりと入れられた、親指サイズのもの。うっ、結構デカい……それを飲み込むだけでもタイヘンなのに、それを64粒も飲み込めっていうんである。ううう、見てるだけでウエっとなる……当然歯を立てることなどご法度だし、のどの奥に押し込んで、のどを広げてヌルッと滑り込ませなきゃいけないんである。ああ、もう、ダメ、キモチワルイ……。最初マリアはなかなか飲み込めなくて、そばでサポートしてくれてるボスが、ムリならやめていいんだぞ、と言う。それはビジネスライクに、親切心もまあちょっとはあるかもしれないけど、言っただけだったんだけど、マリアはそれを挑発ととったか、いえ飲めます、と果敢に取り組む。結果、64粒の麻薬は彼女の胃に無事収まり、ニューヨーク行きの飛行機に乗るんである。

この飛行機には4人の運び屋がいた。経験のあるルーシーによると、「一人捕まれば他が通りやすくなるから」らしい。もうこの時点で、運び屋がただの捨て駒であることがハッキリする。マリアはそこまで自覚していなかったんじゃないだろうか、少々顔色が悪くなってる。ちなみに同じ飛行機に親友のブランカも乗っている。彼女はふとっちょの、いかにも田舎娘って感じのコなんだけど、“ニューヨークへ女の一人旅”を演出したのか、すんごいギンギラギンのメイクとファッションで思わず吹き出してしまう。そして飛行機の中ってのがね……またこれが息詰まるのよ。ボゴタからニューヨークまでどれぐらいの時間がかかるのかは知らないけど、相当でしょ。飲み込んだ麻薬でいっぱいの胃で、こんな密室にギュウギュウに閉じ込められて、乗ってる四人はみんな気持ち悪くなっちゃう。お手洗いでマリア、下から二つ出ちゃうの!うっわ、どうするの、これそのまま持ってるわけにいかないでしょ、と思っていたら、ガッツあるなー、マリア、歯磨き粉?を塗りつけて、下から出たふた粒、キッチリ飲みこんじゃう。うう、もうホントにこっちが汗出る……。で、ルーシーが相当気持ち悪くなっている模様。いや、気持ち悪いどころじゃない。明らかに彼女の様子はおかしい。この時点でルーシー自身も、そしてマリアも、見ている観客も、それがどういうことなのか、察している。これはシュラバな展開になるぞと。

ニューヨークに着く。コロンビアからの女性の一人旅、は多分それだけで睨まれる材料なのだろう、ビギナーのマリアはあっさりつかまっちゃう。しっかしあのギンギラメイクのブランカがスルー出来たっていうのはかなり不思議なんだけど。でもマリア、尿検査で妊娠してることが判って、X検査を受けさせられないから、と釈放される……女性捜査官の方はかなり不満そうだったけどね。でもマリアさ、まさか忘れてたわけでもないだろうけど、でもここで自分が妊娠していることを改めて意識したんじゃないの。だってこれは、赤ちゃんがこの場を切り抜けさせてくれたとも言えるんだもん。
今から思えば、麻薬のことや、そしてメインテーマである17歳のことさえも、ワキなんじゃないかとも思えるのだ。真ん中に据えられているのはこの赤ちゃんであり、その代わりというわけではないけれど、一方で死にゆく友達がいて、マリアが自分の中に芽生えている命を意識して、守っていこうと決意した時に、大人になるっていう物語だったんじゃないかと思うんだ……というのは、ラストシーンまで待たなければいけないんだけど。

何とかこの場を切り抜けたマリア。しかし四人のうち一人は捕まってしまった。迎えに来たチンピラ風の男二人に連れられた三人は、小汚いモーテルで男たちに監視されながら麻薬が全部出るまで過ごさなければいけない。しかも流れないようにバスルームで用を足すんである。ものすごい屈辱。そしてルーシーの様子がいよいよおかしくなってくる。マリアは病院につれていってやってと男たちに懇願(っていうより、かなりドヤしつけている風だけど)するも、そんなことが出来るわけがない。マリアはやはりまだ今ひとつ、自覚しきれていないというか、若さゆえの青さがある気がするんだけど……運び屋という仕事は、危険な上に、捨て駒だということを。その全てを承知した上だからこそ、莫大な報酬がもらえるんだと。ルーシーは死んでしまった後に、バラされたんだと思う。朝目覚めたマリアが見つけたのは血だらけのバスルームだけだった。ルーシーは勿論、男たち二人もいなくなって、マリアは自分たちもそうなってしまうとブランカとともにブツを持って逃げ出してしまう。おいおいおい!なんでよりによってブツを持って逃げるんだよ!そんなことしたら絶対血眼になって追っかけてくるだろうが!あるいはそれこそホントに殺されちゃうよ!ルーシーは死んじゃったから、バラされたのだ。胃の中の麻薬を取り出すために。そうじゃなければ組織だって不必要に危ない橋は渡らないはず。つまり、自力で出せるマリアたちを殺すはずはないのだ。でもマリアたちが逃げ出してしまったことで、その危ない橋を渡らざるを得なくなってしまう危険性が出てしまう。ホント、若さの衝動性には見ててハラハラするよ……だって、どうする気なの。

まあ、どうにかなってしまうのが、若さなんだけどね。マリアはルーシーから聞いていた彼女の姉の家に身を寄せる。ルーシーは姉に自分の仕事のことは隠していた。運び屋でニューヨークに渡れても、なぜここにこれたかを説明なんか出来っこないから、会いたくても会えずに……死んでしまった。マリアはルーシーがボゴタで会社の秘書をやっている、元気だ、とウソをつく。「あの子が秘書……」姉、カルラは感慨深そうに言い、彼女の夫はからかい気味に「不肖の妹なんかじゃないじゃないか」とまぜっかえす。小さなアパートだけど、カルラのお腹は大きくなっていて、だんなさんは気が良さそうで、小さな幸せがここにひとつ、灯っている感じなのだ。カルラは、ここは狭いし、他に居候もいるし……いつまでここにいるの、と困惑をストレートにぶつけるものの基本的にはイイ人で、このニューヨークでのコロンビアコミュニティを支えている人物であるらしい、ドン・フェルナンドを紹介してくれる。実際このドン・フェルナンドにマリアは相当助けられるのね。

最初は彼は彼女たちに(あ、この時点でまたしてもブランカがついてきてんのよ……ぶつぶつ文句言いながらついてくるところがムカつくんだけどさあ)仕事と住むところを提供してくれようとする。んだけどブランカが金は必要ないの……と持ってきた麻薬をバカだからチラリと見つかっちゃうのよ。ホントバカだよなー、お前……。しかも彼が紹介してくれた縫製工場の仕事を、「縫い物なんてやる気なの?」なんて言うしさ……そりゃまあ、あの花工場の仕事に嫌気がさしていた二人だからムリもないし、若さゆえに、自分には他に出来ることがあるハズとか思うんだろうけど、でも仕事って、そういうもんなんだって。麻薬で稼ぐようなものじゃないんだって、この時点でマリアはさすがに判ってるだろうに、ブランカには判ってないあたりが……。
でも麻薬を見ても、ドン・フェルナンドは通報するようなことはしない。ブランカはそこで出て行っちゃうけど、マリアに、それは返さなければダメだ。そうでなければ家族がタイヘンな目にあうんだよ、と諭してくれて……だからマリアもこの人は信頼できる、と思ったんだろう、ルーシーのことを、話すのね。彼は不審な遺体がないか、警察に聞いてくれる。そしてルーシーの遺体が発見されるのだ。

その合い間にマリアは産婦人科に赴く。すぐ診てほしい、と窓口にねじこんで、まさか堕ろすつもりじゃ……と思っていたら、女医さんに、酒やタバコや、そして麻薬は絶対にダメよ、と説明されて素直にうなづくマリア、エコーで見える赤ちゃんの姿と、まるでロックミュージックのような心音に心底嬉しそうな笑顔を浮かべるのだ。ルーシーの死に悄然としていた彼女だったから、やはりこの生と死の邂逅が運命的に思えて……。
次回の予約と診察券を手渡され、マリアは戸惑いながらもそれを受け取る。そしてルーシーの遺体が見つかったとドン・フェルナンドから聞かされる。マリアはそれをカルラに伝えることが出来ない……。マリアはカルラに、「迷惑をかけたけど、国に帰る」と言うんだけど、カルラは、「あなたは帰らないわ」と断じるのね。マリアはその前に家に電話をかけていた。その様子をカルラは見ていた。「私には判る。私も祖母に電話をしたの。楽しそうな家族の声が聞こえてきた。私もそっちに行きたいなんて言われた。初めて家族に送金した時のことは忘れられない」涙を流しながら話すルーシー、そしてやはり涙を流しているマリア。
カルラは続ける。「米国を選んだ一番の理由は、子供よ。チャンスを与えてあげたいの。コロンビアで子供を育てるなんて考えられない」
カルラはマリアの妊娠を知っているわけではないんだけど、この言葉がさらにマリアに追い打ちをかけたことは想像に難くない。
それにしても、考えられない、なんていうほど、コロンビアの実情は厳しいのか……。

ルーシーの遺体が見つかったことがドン・フェルナンドからカルラに連絡され、ルーシーが何をやっていたのか、そしてマリアやブランカがその同業だということを一気に知らされ、カルラはパニックに陥り、二人を追い出してしまう。まあ、ムリもない……マリアは、言おうと思った、でも言えなかった、と涙ながらにカルラに訴えるものの、汚らわしいものを見る目つきのカルラには通じない。マリアとブランカはアパートを出、そして組織の男たちに連絡して麻薬を返す。ヤバいなー、大丈夫かな、殺されずとも、ボコボコにされちゃうんじゃないの、とハラハラしていると、さすがに男たちは激怒しているものの、そこまではされず、ホッとするものの、マリアとブランカは、お金は?と要求するもんだから、うっわ、大丈夫かよ、こんなことして命があるだけでもめっけもんなのに、若さってチャレンジャーだよなあ、とさらにハラハラして見るも、二人は、お金が必要なの!と引かないの。わ、若さってコワい……でも男たちもイカりながらもちゃんと分け前を渡してくれるところがエラいというか……しかもその上に、マリアはルーシーの分まで要求するもんだから(ま、つまり彼女の家族に渡したかったってことなんだけど)さすがにそれは拒否される。まあ、そりゃそうだよな……大人の解釈しちゃうあたりが私もイヤだけど、ルーシーが死んだことでこの男たちも相当のリスクを負ったわけだから。あ、でもここで男たちの口から「自己責任」って言葉が出るのよ。それに同調するようなことを思っちゃった自分にちょっと寒気がしたりして……ああ、ヤなこと思い出しちゃった。

マリアは自分がもらった報酬から、ルーシーの遺体を本国に送還する費用を出し、ドン・フェルナンドに託す。そして警察の死体安置所なのかな、あそこは……ルーシーの遺体と対面しているカルラとダンナに行き会うのね。カルラはマリアを見てももう取り乱さない。ただルーシーの眠るような死に顔に、キレイでしょ、とマリアに話し掛け、涙を流しながら……妹は何も話さずに、遠いところに行ってしまった、と。家族を愛しているから話せなかったんだけど、愛しているから話してほしかったんだよね。マリアだって同じ目にあうかもしれなかったのだ。ルーシーがこんなことになってしまったことを目の当たりにしたから、マリアはもう二度とはやらないはず。ルーシーはこの仕事、過去に二回やっていた。その二回とも成功して、失敗例を聞いてはいてもその目にはしていなかったから多分、この三回目にも手を出して、そして自らを失敗例にしてしまったのだ。マリアにとって、短い間だったけど、多分最も信頼できる友達だった。死んでからもずっと、死んでからの方がマリアの心の中に深い影響を残した。

マリアとブランカは空港まで一緒に行く。マリア、帰っちゃうのか……と思ったら、ゲートでブランカだけを送り出す。ブランカは、マリアが帰らないことを知っていたのかどうか、そうなの……みたいな顔で振り返り振り返り、ゲートへと消えてゆく。マリアはそれを見送り、きびすを返して歩き出す、その姿は、ただただ向こう見ずだった17歳から、一人で、いや赤ちゃんと二人で生きていくことを決心した一人の女性のそれになってる。無鉄砲が腰を落ち着けると、強く生きていく力になるのだ。それが女ってもんさね。★★★☆☆


ソン・フレール 兄との約束Son frere
2003年 90分 フランス カラー
監督:パトリス・シェロー 脚本:パトリス・シュロー/アンヌ=ルイーズ・トリヴィディック
撮影:エリック・ゴーティエ 音楽:
出演:ブリュノ・トデスキーニ/エリック・カラヴァカ/ナタリー・ブトゥフ/カトリーヌ・フェラン/シルヴァン・ジャック/アントワネット・モヤ/ロバンソン・ステヴナン/フレッド・ユリス/モーリス・ガレル

2005/3/25/金 劇場(渋谷ユーロスペース)
不治の病に侵された兄と、それを看取る弟のこの物語がひときわ際立つのは、その確かに存在する、くっきりとした距離感だ。兄の病や死を哀しんで涙を流す弟ではなく、信頼する弟に見守られて死にたい兄でもなく、そこにはひょっとして……もしかしたら最後まで、近づくことのない二人の距離感が厳然と存在していること。
兄は35〜6歳といったところ。弟はそれより3つ下。もう長いこと会っていなくて、連絡すら、とっていなかった。そんな弟のところにある日突然、兄がやってくる。痩せて、フラフラの体である。血小板の異常からくる病気で、もう自分は長くはないんだと言う。弟は久しぶりに会った兄の、そんな突然の告白に、とまどう。

例えば恋人同士のように、お互いをハッキリと愛していると言える相手同士なら、いいんだろうと思う。あるいは自分を生み出してくれた両親に対しては、たとえ親子間が上手くいってなかったり複雑な事情があったとしても、まぎれもなく今自分が存在しているのは親のおかげだと言える。でも兄弟というのは、その点、確かにこんな風に、断絶してしまったらその距離が、何かそういう、納得できる理由で埋まることがなかなかない関係なのかもしれない。兄弟は顔かたちが似ていても、価値観は大抵、かなりの逆方向を向いている。趣味も、性格も、大抵対照的である。顔かたちが似ている分、そこには相手に対する複雑な思いがどうしても生まれてくる。仲が良くても、それは友達のような仲の良さとは違う。こんな風に、価値観や趣味が違うんだから、気が合うという意味での仲の良さではない。兄弟の距離感って、確かにかなり難しいものがあるように思う。だから距離や時間は簡単にあいてしまうし、その間、殆んど忘れてしまっているんじゃないかと思うことすらある。
この、兄トマと弟リュックの、ぎこちなく、どこか寂しい距離感が、判るなあと思ってしまうことこそが、少し、寂しい。

でも、“恋人同士なら”と思っていても、このトマの恋人は、彼の末期症状に辛くなって、耐えられなくなって、側を離れてしまった。トマはそれを予感していたのだ。だから疎遠になっていた弟や両親を呼んだ。そのことを知ったトマの恋人は、「哀しんでくれると思ったのかしら」などと言う。かなり、シンラツなことを言う。更に、哀しくなる。トマにとって最後の砦だったはずの家族は、確かに積極的に哀しんではくれない。特に父親なんてサイアクで、「どうして病気になったのがリュックじゃなかったんだ。彼なら病気に耐えられる強さがあったのに」なんてことを、イライラとしながら怒鳴り散らす。この父親はトマが病気に対して無気力であることが歯がゆく、許せないのだ。
でも、トマはそれまでの姿を父親に見せてはいなかった。この父親の台詞からして、どうやら親子関係はあまり良好でないらしいことが見て取れる。恐らくリュックと同様、長いこと会っていなかったんだろうと思う。トマだってそれまできっと闘ってきた。だって彼だって生きたかったに違いないから。今回家族を呼んだのは、再発してからである。最初の時は、知らせもしなかった。彼は死の恐怖にさらされながら、闘ってきた。

病気と闘うことを強要されるなんて、それが当然の義務みたいに言われるなんて、その辛さは想像を絶する。
だって、絶対に治ることのない病気。今血管が破れて大出血して死んだっておかしくない状態。それなのに、彼に頑張れと言う権利が、誰にあるというのだろう。
最後まで頑張って生き抜く。そりゃそれはウツクシイ定義だ。でも。
私もそうは思ってた。もし病気になったとしても最後まで諦めずに生きたいと。でも。
自由に死ぬ権利も、生き抜く権利と同じなんじゃないだろうか。
死は、生の終わり。つまり、生の一部に数えられるんじゃないだろうか。

トマがリュックを呼んだのは、そのことを彼なら判ってくれるんじゃないかと思ったんじゃないかって、ちょっと思った。この両親(特に父親、そしてそれにヒステリックに反応する母親)じゃ、確かにムリだろう。
そりゃ、この兄弟は世の兄弟の例にならって、性格も価値観もライフスタイルも全然違う。
でも多分、この兄のたった三つ下で、一緒に子供時代をすごしてきた弟の方が、ずっと大人の立場であった両親よりも、この兄の内面を理解している(好き嫌いは別として)のは、おそらく確実なことだろうと思う。
愛、という言葉は時に気恥ずかしいけれど、こんなものもひょっとしたら愛のひとつに数えていいんじゃないかとも思う。

弟は、その隔てられた距離と時間そのままに、兄のことを冷静に見つめていた。でも、仕事があるから看病はムリだと言っていた最初と比べて、兄のサポートを的確にするようになったし、子供の頃兄に対して抱いていた苛立ちをぶつけたりして、その距離は確実に狭められていく。
自分には、兄弟がいるんだと。それはきっと、自分を映す鏡。
兄の中には少なからず自分がいるし、自分の中にも少なからず兄がいるんだという感覚。
それは、リュックが夢?に見るシーンに象徴的に現われる。トマがチューブを装着されてベッドに横たわっているシーンからふっとリュックの幻想の世界にシフトし、そこではスーツ姿のままのリュック(だったと思ったけど、トマだったかなあ?)が同じようにチューブを装着されている。そこに兄が自分を呼びに来る。兄は健康体で、自分の足でしっかりと歩いている……。
この時からだったような気がする。リュックがトマの看病を積極的にするようになったのは。

リュックはゲイである。恋人がいる。その恋人がトマをお見舞いに訪れる。トマはそれがリュックのパートナーであることを、彼が何も言わなくても敏感に察知する。……それが、兄の感覚というものなのか。
そう言われてリュックはうろたえる。別にゲイであることを隠していたわけではないんだけれども。ただ、リュックはこの恋人を、恋人というよりは単なるセックスパートナーぐらいに思っていたような感じもある。その後、リュックはこの恋人と別れてしまうし……ただ、トマがそう察知したのは、この恋人こそがリュックを愛している気持ちを、察知したんじゃないかと思うんだ。
ひょっとしたら、リュックはまだ本当の愛する人を得たことがないのかもしれない。兄に自分がゲイであることを話す彼の態度は、ゲイであることそのものに臆した気持ちがあるように感じる。
でも、このリュックの恋人はそんな感じは全然なくて、リュックのことをまっすぐに愛して、心配していた。きっとそれがトマに響いたんだ。
トマの恋人は去ってしまった。でも今、自身の愛というものから遠く離れてしまっているトマにとって、そして死の感覚を近くに感じているトマにとって、きっと愛そのもののアンテナが敏感にふれるんだろう。
お前を愛している人がいるのに、なぜお前は愛さないのか。
愛されるということは、本当に、奇蹟のようなことなのに。
お前は兄である自分だって、愛してくれていないんだろう。
そんな風に、聞こえてしまう。きっとこの時点で、トマはリュックを愛していた。いや、愛していることを、思い出していた。なぜ忘れていたんだろう、愛する義務がある相手がいるということが、どんなに幸福かということを。

兄弟の、子供の頃の記憶を思い出すリュック。トマの恋人につれづれなるままに語る。「トマと寝たの?」と問う彼女。そこまではしない、子供の頃に戯れにチンチンを触りあっただけだ、とリュックは言う。「男を勃起させたのは初めての経験だったよ」と。
もしかしたらこの記憶を、トマは忘れているかもしれない。でもリュックにとっては忘れられない経験。だってリュックはもしかしたらこの経験がきっかけとなって、自分がゲイであることに気づいたのかもしれないから。
リュックの、トマに対する複雑な距離感はさもありなん、なのだ。
そしてリュックはトマにこんな苛立ちをぶつける。「僕が必要としている時に、助けてくれなかった」
この台詞自体が、彼が兄を愛しているというイコールの意味だということを、リュックは気づいていただろうか。助けてほしいと思うのは、愛する相手にしかそうは思わないのだということを。

トマは先の見えない治療を拒否して自宅に戻る。確かに出血さえしなければ、ある程度普通に生活していける。でも、いつ出血するか、判らない。ほんのちょっとのケガも、出来ない。いわば病気に殺されるのを待っているような状態だ。
そう、死は生の終わり、だから生の一部。トマが病気に殺されるのをただただ待ち続けるんじゃなくて、生の権利を勝ち取るのと同じ意味で、自分の死期を自分で決めたのは、それはあきらめじゃなくて、生きることそのものだったんだって、思いたい。
トマは海の中に入っていった。リュックから、海は波が高いから、危ないから泳ぎに行っちゃダメだよと言われていたのに。別に彼は何を言い残していたわけではない。だから本当にただ単純に泳ぎたかっただけなのかもしれない。いや、でも、違う。少なくともこのトマを演じたブリュノ・トデスキーニはそうではないと理解してこのシーンに臨んだに違いない。服を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿で海の中に静かに歩んでゆく彼の姿は、穏やかな死を望む意志そのものだったもの。そしてリュックが兄の行方不明を、だいぶ後になってから届けるのだって、そんな兄の気持ちが判っていたからじゃないの?生の一部である彼の死を、できるだけ長く、穏やかに、過ごさせてあげたかったと。
今となっては、リュックがトマに、“波が高いから危ない”と言ったことさえ、死期を探っていた兄の気持ちを察してのことだったように思える。
でもこれで、リュック自身も確かに解放された。皮肉だけれど。兄の行方不明を届け出て、海を臨む砂浜に置かれたテーブルと椅子、そこにふう、とばかりに全身の力を抜ききって座るリュックには安堵の空気だけが、感じられた。悲哀ではなく、安堵の。そしてそこでカットアウトというのはちょっとショックでは、あった。でもリュックにはもう最初から兄の死は見えていたんだ。今はそれを送り届けたことで感じている、正直な気持ちなのかもしれない。

トマの闘病生活をカメラはとても冷静に切り取る。やせさばらえた体を裸体でとらえ、手術の前に全身の毛を剃る場面も、やけに時間を割いて克明に見つめる。そこにはひどく事務的な病院側の手際の良さが冷たく存在していて、患者やその家族の思いとの隔たりを痛烈に感じさせる。なので、こういう場面で性器のボカシ(ですらない。ペンでグチャグチャと塗りつぶしたような隠し方)はもう映倫ええかげんにせえよ、と言いたくもなる。病人だし、別に勃起してるわけでもないのに、人間のフツーに持ってる肉体の一部なのにさ。

神様を信じたくなるのは、こんな時。
お願い、人を愛する資格を与えてください。
人を愛する権利を与えてください。
いや、人を愛する義務さえも、与えてほしい。
死ぬ時に、一方的でもいいから、誰かを愛して死にたい。たとえ誰にもその思いが通じていなくても。★★★☆☆


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