home! |
東京五人男
1946年 分 84日本 モノクロ
監督:斎藤寅二郎 脚本:山下與志一
撮影:友成達雄 音楽:
出演: 横山エンタツ 花菱アチャコ 古川緑波 柳家権太楼 石田一松 戸田春子 田中筆子 飯田ふさ江 小高ツトム 鳥羽陽之助 石田守衛 永井柳太郎 高勢實乗 登山晴子 豊原みのり 光一 谷三平 江藤勇 原文雄 藤間房子 田邊よね子 山田長政 松川彩子 大庭六郎
もうねえ、いろんな点でほおんと、興味深いの。まず言ったけど、アメリカの民主主義思想。これは悔しいけど、とても、イイのね。悔しいというのもアレなんだけど、今のアメリカは民主主義やアメリカンドリームがいろいろとゆがんでしまっている感じがするんだけど、この当時は、本当に原点の、まっすぐで純粋な思想に貫かれていたんだなというような……まあ、戦争に勝った国、戦争の勝ち負けを一番に考える国、ではあるけど、この大戦が終わってアメリカもまた、原点からやり直したんじゃないかと思えるような、純粋な思想で、これにケチをつけることが全く出来ないのね。それこそ、なんでもお上のいうとおりだったそれまでの日本が、自分たちに権利があるんだ、と目からウロコだったのもむべなるかなというような。まあ、日本は今でもお上のいうとおり、みたいな部分が抜けきっているとは思えないけど……。
そして、このロケーションである。終戦直後の東京、当然のことながら、焼け野原である。ニュースとかの資料映像としては見たことがあるけれど、映画で、しかもエンタテインメントの映画で、これほどまでに本物の、戦争による焼け野原、を映し出しているなんて驚きじゃないのかなあ。ほんと、ふんだんにロケーションを使ってるの。しかもかなり機材を使ったと思われるような、俯瞰の画もずいぶんとある。当時を直截に描出していて、皆が貧しさであえいでいる時に、これだけ贅沢なアングルを撮れたというのも驚きというか、なんだか皮肉な感じもするけど……それこそ、おカネのあるアメリカ様のふところはさぞかし暖かかったんだろう、みたいなね。でもこの、焼き尽くされた中にバラックがぽつぽつとようやっと建っているような情景がふんだんに映し出されているのは、本当に貴重だと思うし、その中での人々の生命力というのも、日本人の、人間の、生命力を感じさせてくれるのだ。
そう!だって、この焼け野原のロケーションで展開されるのがめっちゃコメディなんだもん!それ自体、ある意味ありえないよねー。だってロケーション自体はかなり悲惨なのよ。戦争の無情さを思わせるのよ。その情景だけ見ればただシリアスに、ペシミスティックになるしかないと思う。でも、コメディなんだもん!しかも当代随一のコメディアンたちによって、つまりはプロの仕事によって、笑わせてくれるんだもん!中で紹介されているエピソード自体は、当時の世相や問題を反映したものだと思うのよ。仕事がないとか、頼みの綱の配給がおエライさんの怠慢によって滞っているとか、おエライさんに酒をヤミで流して私腹を肥やしている店主とかね。最終的にはそれに対して民衆の怒りが爆発し、さらにラストには、民主主義の象徴である、選挙制度を指し示して終わるわけで、社会派映画としてだって作れるのに、そうはしないんだよね。それらを全部きっちりと見せながら、あくまでコメディなんだよね。笑わせるんだよね。それが凄いんだもん!でもこういう問題を当時まさに起きていたであろう問題を、コメディにのせるとはいえ、時節に即してビシッと指摘するのも凄いなあと思うんだけど。
私でも名前だけは知っている、しゃべくり漫才のパイオニアで伝説の漫才コンビ、エンタツ・アチャコを初めて見る。それだけでもかなり感激である。貧弱な体とメガネがいかにもいじられ役の横山エンタツと、いかつい顔と体格ながら妙に庶民的な花菱アチャコの二人のコンビは絶妙で、ここは東京だし、関西弁の二人がいるだけで目立ってて妙に可笑しい。犬猿の仲なのに、路面電車の車掌と運転手で職場も一緒、住まいも隣同士のバラック、しかも二人とも女房の尻にしかれっぱなしで、それもムリないほど二人とも弱すぎでさ。ヤクザ の金儲けのための理不尽な地上げにオロオロとするばかりなのを、奥さんがキイーッ!とばかりにほうきでそいつらをたたき出し、その奥さんの後ろから、マネして虚勢はってオノを突き上げる二人には爆笑!いやー、お約束の、弱いダンナなんだもん!
何より印象深いのは、この物語の中で一番のインパクトを誇っている古川緑波(ロッパ)なんである。一時私は彼の名前をとったハンドルネームを使っていたのさ。全然知りもせず、メガネをかけているっていうだけの理由だったんだけど(笑)まあでもとにかくだから、彼にはちょいと思い入れみたいなものがあるのさあ。だからこの作品で一番の存在感と共感を覚えるロッパ氏を、ちょっと嬉しく感じたなあ。彼はこの戦災で妻と、そして職も失う。一張羅のスーツが鷹揚な印象を与える彼は、育ちのいいインテリにも見えるんだけど、疎開先にいる子供に食料を送ること、ただその一心で、プライドもなにもかなぐり捨てて食料を請うて歩くんである。このシーンはかなり切実というか……それをネタにギャグも盛り込まれているんだけど、切なくてね。
当然最初は彼、お金のありそうなところに頼みにいくんである。でも最初のシーンで、彼らの勤める社長のところに物資を運ぶも、そこにはモノがあふれているのに、「苦しい時は、お互いにガマンしなければ」などとお前が言うな!ていう具合で社長に言われて、庶民はおこぼれひとつもらえなくてさ。お前、死ぬほどあるじゃねえか!って感じなんだけど……。
お金持ちほど、施しや助け合いの精神など持ち合わせていない、という皮肉な描写で、それは本作に実に一貫している部分でもあり、だからこそ最終的におエライさんを叩きのめすんだけどね。で、そう、ロッパはお札が紙ヒコーキになって飛んできた(!)屋敷におそるおそる入っていき、なんとか食料を分けてもらえないか交渉するんだけど、そこのケチじじいは彼の差し出す妻の形見の銘仙を奥さんの寝間着(!)にしようかと言うし、一方奥さんは「なんだ、銘仙でねえか。寝間着はちりめんに限るんだよ。こんなの、雑巾にしかならねえよ」と突っ返し、じゃあこのスーツは、と脱ぎかけた上着の裾をぐしゃぐしゃともんでみてシワになると首を振って田んぼのカカシを指差し(かかしがモーニング着てる!)じゃあ時計は、と腕時計を指し示すと、じじいの腕には三つも四つも腕時計がはめてあり、しかもかごに無造作に無数の腕時計が放り込まれており、もう……サイアクなの。そこにこのじじいの孫?が駈けて来て「ねえ、グランドピアノ買ってよお」じじい、ロッパに「グランドピアノを持ってきたら、食料と変えてやるぞ」!!!アホかー!!ロッパ氏はすごすごと引き下がるしかない。
彼に施しをしてくれるのは、決して金持ちには見えない農家のご夫婦なんだよね。しかもこれでもか!ってほど持たせてくれる。両手に米俵を引きずり、背中にも巨大な荷物を背負ってもう持てないってのに追いかけてきて、「これも子供さんに食べさせてやんな」とさらに十字がけに持たせるもんだから、あまりの重さに歩けなくなって彼、へたりこんじゃうの。あったかな笑いで満たしてくれるいいシーンなんだよなあ。
疎開先から子供が帰ってくる。この一人息子に頬ずりせんばかりに喜ぶロッパ氏が微笑ましい。一刻も早く一緒に帰りたいのに、型どおりの、これまたおエライさんの挨拶を聞かねばならず、その挨拶がキイキイと聞き取れない雑音に聞こえるのは、まるでチャップリンの「独裁者」のようなシニカルさで、笑っちゃう。そして子供と一緒に戸外の狭いお風呂に入り、嬉しそうに抜群の美声を聞かせるロッパ氏。おエライさんも、われら庶民も、持ってる胃袋や考える頭はひとつで同じ、という、本作に即した道徳的な歌なんだけど、それを幸福そうに歌うこの伸びやかな美声がすっぱらしいね。なんかそれだけでニコニコと幸せになっちゃう。でも子供がなんだか身じろぎしちゃって居心地悪そうだけど(笑)、この居心地悪そうなのはギャグで「おとうちゃん、のぼせるよ!」とかいうオチがあるのかと思ったら、ない。つまりこの男の子はホントに居心地が悪かったんだな!オイ!(笑)
この子供が熱を出してしまい、「日曜に病気になるなんて、非常識よ」という、お前が非常識だ!ってな看護婦さんを「古川大将の息子が熱を出している」と言って説き伏せ、お医者さんを連れてくる。おんぼろ小屋を目にしたお医者さん、だましたな!と怒るんだけど、「私が古川大将です。みんなにそう呼ばれているんです」とロッパは言い、ちょうど通りかかった男が「よっ!古川大将、元気かい!」と実に都合よく言うのが笑わせる。「じゃ、そういうことで」と有無を言わさずズルズル医者を中に連れ込む。医者はそこにおいてある満杯の一升瓶にニンマリして治療を引き受けるんだけど、それは実は湯たんぽに使っているだけ。笑えるけどなんか切ないよー。
「ハハノンキだね」という有名なフレーズ、そう、それこそ私でも知ってる!この歌を歌っている石田一松、という“演歌師”(という肩書きも初めて聞いた)を見ることが出来たのも大きな収穫。しかも、「ハハノンキだね」というフレーズ以外の部分をじっくりと聞けるのも、いや、貴重だよねー。作中の、高いところであぐらをかいてるおエライさんは勿論、配給に真っ先にむらがる奥さん連中さえも笑い飛ばすカルーい節が実に快調で、ロッパ氏の歌もそうだし、民主主義を勝ち取った最後にはみんなでさわやかに歌いながら行進したりってのもあって、なんだかミュージカル映画のようにさえ思えるんだよなあ。そんな楽しさがあるわけ!
この石田は配給所に勤めてて、手続きの煩雑さによって配給が滞っていることに義憤を感じている。腐りかけてるイモは上からの指示でほっとかれっぱなしだったり。耳の遠い、足腰の弱いおばあさんが孫のミルクを欲しがっているのに、警察やら保健所やら地区の理事長さんやら、いくつものハンコをもらわらなくはいけない、とエラそうに説教する所長が、二度目には同じ説明が言えなくなるのはいかにもお約束なギャグなんだけど、このバカバカしいハンコ至上主義は、今の日本でも大して変わってないよなー、という部分がなかなかに興味深いのだ。石田はこのおばあさんのかわりに手続きを買って出るも、会議だ食事中だとお役所仕事でダラダラしているのを目の当たりにし、しかも自転車までも盗まれてしまう。笑い飛ばした描写ながらも、かなり皮肉っているのが痛快。~次の会議はいつにしようかと会議する、ハハノンキだね♪とさっそうと自転車を駆って歌う石田の歌に、そうだよねー!と深くうなづいちゃう。
もうひとりは、国民酒場に勤める北村。こんな時世ですでに酒場があって、しかもそこに並ぶ人々がいるっていうのが、どんな時でも酒の持つ力って凄いのね、と妙に感心しちゃう。でもそこではおエライさんに対する横流しが行なわれていて、北村はそれを告発しようとするんだけど、調べにきた警察までまるめこまれてしまう始末。ここで、燃料用アルコールにまぜものをして、一級品のウィスキーのマガイモンを作り出しちゃうのも笑えるんだけど、その燃料用アルコールをストレートで飲んじゃって、首が曲がっちゃってフラフラ歩き出すおエライさんたちもかなり笑える。いやー、酔っぱらいは、つまるところアルコールであればなんでもいいのね、いつの時代も。
豪雨にバラックが凄まじい雨漏りになり、古川ロッパのところなんか、崖から滑り落ちて木切れをオールに見立てて漕ぎ出すハメに。このシーンは凄いスペクタクル!襲ってくる波のような土砂崩れに、みるみる川に押し出されてしまうボロ家……。一方、エンタツ、アチャコ、石田らは、地下倉庫からの荷物の運び出しに呼び出され、おエライさんたちがたんまりヤミ物資をためこんでいるのを目の当たりにし、堪忍袋の緒が切れて、彼らを叩きのめして(まあ、間違って味方を一人ぐらい叩きのめして(笑))、水量がどんどん増してくる地下倉庫に閉じ込め、この物資を民衆に還元することを誓わせるんである。どんどん水量が増してくる地下倉庫、というのは、いかに悪人たちといえど、見てるこっちもかなりの恐怖であり、結構キッツイ描写やらせんのね、などと思っちゃったり。
ラストは石田が他の四人の協力のもと、選挙の壇上に立ち、民衆のために、百の計画より一の実行(いい言葉だね!今の政治家にも聞かせたいよ)を掲げるシーンである。つめかけた民衆から疑問を投げかけられる度、壇上を降りて四人の仲間達と円陣を組んで相談するのがいかにも笑えるなあ。そして悪徳社長を引っ張り出して、援助を約束させるあたりなぞ、拍手喝采。それにしてもこの石田一松、この翌年実際に衆議院議員に当選し、政治界で活躍したってんだから、オドロキ!
歴史的映像として貴重でありながら、伝説の喜劇人たちの伝説の芸を見せてもらえて、いや、実に、感激でありますな。★★★★☆
まるで、ページがめくられるみたいに、するするとした横移動でカットが変わる。プリントに脱色処理を施して色調を浅くしたという、クリーム色の中にセピア色が溶けているような色合いの画は静謐そのもの。こまかな脇役以外のメインは、イッセー尾形と宮沢りえ、ほぼ二人だけで演じ切る。それぞれに二役。イッセー氏はタイトルロールの主人公、トニー滝谷とその父親省三郎を。宮沢りえは彼が愛する妻、英子と、彼女に体型がそっくりの女性、ひさこを。
トニー滝谷は、ほとんど父子家庭で育った。彼の母親は彼を産んで三日後に亡くなってしまった。あっという間に死に、あっという間に焼かれた……。
そんな、小説の地の文が、しん、と語られる。ナレーションは西島秀俊。これには、酔った。ひょっとしたらキャスト以上にベストキャスティングじゃないかと思われる。彼の声。闇の中でひっそりと響く声。夜そのもののような声。それは夜露の冷たさと、その中で抱く気持ちのあたたかさ、その切なさを、彼の声が、声だけで、体現しているような。そして、時おり、イッセー氏と宮沢嬢によって、ふとナレーションが交替される。本当に時おり。彼や彼女がそのスクリーンの中で息づきながら、地の文を、登場人物をそのまま生きながら、つぶやく。小説の、繊細な心理をそのまま生かした大胆かつ的確な手法は、実現してみると、とてもつつましくって、傷つきやすいほどに優しく、静かに、度肝を抜かれる。
イッセー尾形はトニー滝谷を大学生のころから演じる。美大時代。さすがにこのあたりはツラい……ヅラをかぶり、顔にしわの刻まれた彼を見ながら思いつつも、それはトニーの英子に出会うまでずっとずっと続いていた、“完璧な孤独”を見事にあらわしていて。
彼の孤独は完璧だったのだ。彼は美大時代、女子学生にこんなことを言われた。「上手いんだけど、体温が感じられないのよね」それはいかにも、美大でアツく語られそうな、芸術の概念というヤツ。
トニーが得意なのは、モノの細密描写。機械の中身なんか、実に正確に描く。そう、正確なもの、完全なもので彼の生活は満たされていた。
ジャズミュージシャンとして巡業続きのトニーの父親は、彼を家に置きっぱなしで、殆んど会うことはなかった。だからといって、トニーを愛してなかったわけじゃないし、トニーも父親を愛してないわけじゃないと思うんだけど……でもこんな風に語られる。省三郎は父親向きの男ではなかったし、トニーもまた、息子向きの男ではなかった、と。
だからトニーはずっとずっと孤独だったんだけど、ずっとずっと孤独だったから、その真ん中にいてそれ以外知らなかったから、孤独だなんて、思ったことはなかった。というより……それを孤独だということさえ、知らなかったんじゃなかったのかって、思う。
孤独というものを知っていて孤独を居心地良く愛することと、孤独というものを知らずに孤独を完璧に全うして暮らすこととは、似て非なるものだ。全然、違う。
トニーは英子と出会ってしまった。ほとんど初めての恋だったんじゃないだろうかと思うような。だって完全な孤独をそれと知らずに全うしていたら、恋なんて入る余地があるわけがない。
それは、トニーが語るように、恋をすることによって、再び訪れる孤独におびえるようになるから。
ここに至って、ようやくトニーは孤独というものの存在を知ることになる。均衡が、破れたのだ。まるで密閉された容器の中にぴたりと収まっていたようなトニーの人生に、ぷつりと穴があけられ、彼の“完全”は幸せな流入物によってバランスを失ってしまった。あの完全な孤独の中で何十年も生きてきたのに、その孤独に戻るのはもう耐えられないと、思った彼。
これが、恋というものなんだ。
でも、だったら、恋をすることって、幸せなことなんだろうかって、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ思ってしまう。
恋をしなければ、孤独の存在にさえ、気づかずにいた。孤独で完全に満たされていたから。そう、満たされていたのだ。ある意味。
でも、恋という、幸せというものが入ってきて、完全ではなくなるから、そしてその幸せがあまりに幸せだから、今度は幸せで完全にしたいと思う。愛する彼女に、そうやって、自分の中に残っている、あるいはまた訪れるかもしれない孤独を完全に追い出して、幸せだけで埋め尽くしてほしいと思う。
孤独が、完全に自己制御されたものなのに対して、恋という幸せは、他人に大きく依存するものだ。だから不安になる。自分で制御できないから。いくら埋められても、まだ隙間があるんじゃないかと思う。
隙間はあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。トニーの生活は幸せだった。恋人がいたのに、彼の求婚を受け入れてくれた英子。彼女は主婦としての能力も完璧だった。
ただひとつ、英子は服を買わずにはいられなかった。それは結婚前から判っていたことで、トニーは彼女のそんなところに確かに惹かれてもいたのだ。かろやかに、服をまとって坂道を、まるで踊るように、歩いてゆく。「服を着るために生まれてきたような人なんだ」そう言うと、久しぶりに会った父親は破顔一笑「それはいい」と祝福する。
普段は優秀な主婦で、魅力的な妻なのに、キレイな服を見るとそれだけでいてもたってもいられなくなり、片っ端から服を買ってしまう彼女。トニーはそんな彼女に後ろからついて歩き、勘定を払う。
宮沢りえの、足元が強調される。くるぶしから下。華奢な靴をとりどりにはきかえて、その小鹿のような足が、あっち、こっちと歩き回る。それはなんだか実に、美しい光景で。
一部屋全部が衣裳部屋となって、ずらりと服が並んでいる。それは確かに尋常なことではないんだけれど。
でも、トニーが彼女に、服を買うことをひかえないかと言ったのは、それはどこか……ちょっとした嫉妬があったように思う。
自分が彼女に向けている気持ちと、彼女が服に向けている気持ち。そのアンバランス。そう、ここでもアンバランス。
でも、彼女は「トニーを深く愛していたから」それをもっともだと受け入れて、服を買うことを一生懸命我慢する。果ては、新品の服を返せばちょっとは気が楽になるんじゃないかと、わざわざ返しに行く。でも気が晴れたのはほんの一瞬で、彼女は信号待ちをしている間、「あのコートとワンピースのことを考えていた」そして、事故にあう。
英子はトニーを愛していた。それは本当。まぎれもなく本当。
でもこの時、ほんのちょっとだけ、トニーは彼女の服に負けてしまったんだろうか……。
英子が死に、トニーはあれほど恐れていた孤独に、再び戻ってしまった。孤独の中で生きてきたトニーだけど、再び孤独に戻ってしまったら、それは本当に、本当の意味での孤独だった。幸せを知ってしまったうえで味わう孤独は、孤独だけしか知らない孤独と、全く、180度違う。
遺骨を置いて、椅子にもたれかかる後ろ姿。お風呂に入っている。頭をごしごし洗い、無言で湯船につかっている。ただそれだけで、なぜこんなにも、彼の孤独が強烈に胸をついてくるんだろう。
彼は英子の服に負けてしまったの?判らない。果たしてそうだろうか……。
彼のそれまで持っていた孤独というものと、英子の服に対する執着心が、性質の異なるものだったのかもしれないし……。
孤独は、孤独ではない幸せとある意味類似するもの。あまりにも正反対だから、ちょっと針がふれるとまた元に戻ってしまうもの。だからトニーは孤独と引き換えに幸せを手に入れることを望むことが出来た。でも英子の場合、まず孤独は前提のものとしてあって、その中に、服への執着心もあった。服への執着心以外の孤独は彼によって埋められたかもしれない。でもそこから切り離せない服への執着心は。
でも、彼を愛していたから、切り離そうとした。切り離したかった。
でも……。
本当に彼を愛していたんだ、よね。もしかしたら彼以上に。
彼は秘書を募集する。英子が残していった服、英子の影に精気を奪い取られていく毎日。英子とソックリの体型の女性に彼女の服を着させて、彼女のいない生活に慣れようとした。
ここで、その応募に応じて採用されるのが、ひさこである。宮沢りえ二役。これはなんだか不思議な情景。小説では無論、体型はソックリでも全くの別人として読むわけだけど、ここでは同じ女優が演じていることで、彼の孤独の魂が、よりハッキリと提示されるような感じ。
でも、英子とひさこの印象はハッキリと違う。さすがこのあたりは真の映画女優、宮沢りえの真骨頂である。どこか寂しさの影を引きずった、はかない美しさであった英子に対して、その英子よりだいぶ若く見え、華やいだ、明るい雰囲気のひさこ。
トニーから仕事の概要を聞かされて、「よく話の筋が飲み込めないんですけど……」などと正直に言いながらもそれを承諾するあたり、ひさこの素直さがよく表われている。
そして、ひさこは英子の衣裳部屋に通され、それはどれもこれもひさこにあつらえたようにぴったりで、そして彼女は……その部屋の空気に飲み込まれたかのように、むせび泣く。
なぜ泣いているのか、そうトニーに聞かれても、彼女は上手く答えられない。でも。
なんか、判る。判っちゃう。判るというか、感じてしまうというか。
この中に無数にある英子の影に、彼女が感応してしまったような、トニーを残して死んでしまった英子の哀しさに。
でも、トニーは結局ひさこを断わってしまう。英子の服を眺めて衣裳部屋にただただ座り込んでいるトニー。彼女の服を処分し、ほどなくして死んでしまった省三郎のジャズレコードも処分し、またあの、完全な孤独を取り戻そうとした、のだろうか。
トニーはがらんどうになった衣裳部屋にうずくまる。まるで胎児みたいに。それは省三郎の、上海での記憶と重なり合う。終戦後、捕らえられて、仲間たちが次々に処刑される中、死への恐怖におびえて監獄の中でうずくまっていた父。
ある意味それも、完全な孤独だったんだけれど、それは物理的な意味でだけで、彼の心の中は、真に完全な孤独である死への恐怖と、生への憧憬でその孤独のバランスを崩していた。
でも、それこそが人間なんだ。人間はバランスが崩れているもの。だからこそ、人生は、美しい。
今のトニーも、そう。状況的には完全な孤独を取り戻した。でもその心の中はその孤独そのものへの恐怖と、恋への憧憬で、バランスを崩している。
やっと、人間になれた気がする。小さな子供だったトニー。あの頃から、彼は、とてもとても頑張ってきたから、だから、幸せになってほしい。
あるパーティーで、トニーは英子の元恋人、つまりトニーと結婚するために彼女がフッた男と会うのね。英子のことをなれなれしく「あいつ」などと言うこの男にトニーは不機嫌になる。(英子の服の趣味が)大変だったでしょうなんて言われて、ちっとも大変なんかじゃなかった。それに、あいつなんて呼ぶのはやめてもらえないか、とトニーは言う。男は、トニーに、やっぱりあんた、つまんない男だ、と言って、去ってゆく。
この男が言っているのは多分、英子と出会う前のトニーのこと。機械は完璧に描くトニー。でも孤独の中に生きていたトニーには、そこに体温がなかった。でも英子と会って変わったのだ、トニーは。そんなこと、こんな男に判ってもらわなくったって、全然かまわない。
そうだ、こんなことを、思い出す。英子と結婚して、トニーは彼女を連れて父親の演奏するジャズバーに行った。それはあの、英子に服を買うのをひかえるように言った運命の夜であったのだけれど……トニーは、この時、父親の演奏が、今まで何度も聞いていたはずの同じ曲がなんだか違って聞こえた。トニーは演奏している父に直接、どこが違うんだと聞きたいくらいだった。
思うんだ。それは多分トニー自身が変わったせいなんだって。英子と出会って、恋を知って、哀しさを知って、切なさを知って、トニーはやっと人間になれて、だから身体に共鳴する音がきっと違ったんだって。恋は、人間のすべてを変える。聞こえてくる音楽さえも。
トニーはひさこに電話をする。その時ひさこは坂道を歩いてくる。あの時、トニーのところに面接に行った時、まるでかつての英子そのもののように、服をかろやかにまとわらせて坂道を駆け上ってきた彼女。電話が鳴っている。近所のおばさんに話しかけられ、適当に受け流しながら、彼女は電話に急ぐ。彼女が電話に出る前に……トニーは電話を切ってしまうのだけど。
でも、お願い。もう一度かけてくれるよね?
トニーには幸せになってほしい。
だって、彼は、本当に頑張ってきたんだもの。
“15も年が違う”のに、こんなにステキなカップルに見えるのは、イッセー尾形であり、宮沢りえだから。イッセー尾形は本当に、本当に可愛くて、チャーミングで、この人は日本の宝なのに、映画においては今まであまりにもったいない扱いでさ、本当にもったいなかった。彼の笑顔にはぎゅうっとなってしまう。胸が締めつけられるって、こういうことなんだな、と真に理解してしまうような、笑顔。それだけでどうしてこんなに切ないのか。愛する英子に向ける、あの子供のような、くしゃくしゃの笑顔。
宮沢りえ。ああこの人はなんて素晴らしいの。映画に来てくれて本当に良かった。何よりいいのは彼女の声。弦を震わすような、細くて明るくてそして、寂しい声。彼女を見ていると、苦しくなる。美しくて、そして寂しくて。夢のような女性。スクリーンという、明滅することによって存在する、光と闇だけで構成される、手を触れても突き抜けてしまうような世界に、よく似合う。
心理の底を深く揺さぶるような坂本教授の音楽が、これは……彼の仕事としては最もイイと思ったなあ。すべてがまさに奇蹟のように組み合わさって生まれた、映画という世界のたからもの。★★★★★
その恐るべきバービー人形のようなスタイルの良さも、そんなプログラムピクチュア時代のスター女優を思わせる。だって!ホントバービーだよ!何あの美脚!あの長さ!あり得ん!奇跡だ!マンガだ!いや、彼女がスタイルいいのは知ってはいたけど、これほど露出バーン!と出されたら、もう呆けたようにながめるしかないじゃん!本当はさ、本当は、バリバリのキャリアウーマンがあんなキャバクラ嬢並の超ミニスカ状態なわけないじゃんとか思うわけ。でもキャバクラ嬢にはもちろん見えない。次々とっかえひっかえするカラフルなファッションは本当にまさにバービー状態で、どれもこれもすっごく彼女に似合うわけ。でも、あの、あの、足!あんなに足出すか!いや!出してくれてありがとう!こんな足出さなきゃもったいない、もったいなさすぎる。一度だけ、足フェチのオヤジに抱きつかれた後に懲りて、パンツスーツになる場面があるんだけど、ああ、ダメだ、あの足を出さないなんて、あんなイイモン持ってて出さないなんて、バチが当たる!と思ったぐらいだもん。まあ彼女も正直それなりに年がいって、目の下のくまが気になったりもするんだけど(笑)、この足の美しさはすっばらしいね。こんなマンガのような美脚だと、足フェチジジイが出てきても、かえって生々しくないなと思うのだが、作品カラー事態がマンガチックなので、それでイイんだわね。
冒頭ね、彼女のプレゼンテーションに使う子役の子供が読んでいるアメコミに彼女がオーヴァーラップされるのね。それが彼女、貴奈子の登場シーンなのだ。いやー、まさしくである。アメコミに出てくる思いっきり誇張されたプリップリの女にだって充分に負けてない観月ありさ!すっばらしいね。
あまりに彼女の脚が見事なので、思わずそれだけで興奮してしまったが……。まあ、でも彼女の脚は確かにキーワードではあるのだ。でもそれはおいといて話を進めよう。彼女が勤務しているのはキッズもののあれこれを取り扱う大手。彼女は子供の姿勢矯正器を企画開発してプレゼンしたんだけど、ライバルの企画に敗れてしまう。その彼女にいきなり命じられた次の仕事っていうのが、新しいサテライトビルのオープニングセレモニー、そのビルには象徴的なモニュメントを設置するんだけど、その設置を依頼する業者、つまり鳶との折衝、だったのだ。
まるで、左遷的なこの命令に貴奈子は憤然とするんだけど、この仕事を首尾よく終えれば企画開発部に今度はチーフとして迎えると社長が言っているというんで、奮起するのね。
実はこの前に、彼女はある鳶一家と軽いモメごとを起こしていて……それはあのプレゼン後、このビルで作業をしていた鳶の女の子が窓の外からパチリと彼女を映したもんだから、貴奈子、産業スパイだ、キイイーッ!とばかりにこの鳶一家、「日本晴れ」の元に乗り込んで、ネガを取り返したのだ。
まあ、取り返したといっても、相手の、特にご隠居と頭はとても丁重で、失礼を働いた女の子を縛り上げてみの虫みたいにつるしちゃって、貴奈子はこの鳶一家の独特の雰囲気に飲まれたまま、退散してしまうんだけど。
この仕事の業者はあらかじめ指定されていた。何たってデカい仕事だから、デカい業者でないと勤まらない。だけどその業者との折衝は前任者の時にトラぶってて中断していた。その中継ぎもされないまま、貴奈子が先方に赴くと、この業者、いやさ鳶のトップはトンでもないエロじじいで、ミニスカの貴奈子を椅子に座らせて足を組ませたりなんかして(かっんぜんに「氷の微笑」状態だな……)「わしの好みを判っててあんたを後任にしたんだな」とか言って、むしゃぶりついてくるもんだから!
貴奈子がはいつくばって必死に逃げようとしているところに、突然入ってきたのが、哀川翔!じゃなくて、いやそうだけど、哀川翔扮する悦治。いやああ、きゃあああ、カッコイイー!彼はこの間、ヤクザ役はもうやらないとか宣言してたけど、鳶役はこれからもやってくださあいい。ヤクザ役よりもチンピラ役よりも、鳶役がカッコイイー!じゃなくて、あ、この場面ではまだ鳶のカッコはしてないんだけど(笑)。ごめん、また先走っちゃったー。
えーとね、だから、悦治はこの組がエゲツないことやったせいでブタ箱に入れられちゃってたのだ。で、出所して真っ先に乗り込んで、まあ何発かぶん殴って、これでもう一切関係ナシだ!とケジメつけにきたわけ。ヤクザじゃないから、復讐(殺し)したりはしねえ、とか言いつつ、もう兄さん、思いっきりヤクザ役の時とおんなじ目え、してますけど……。
で、これが貴奈子と悦治の出会い。その後、他の鳶業者を当たるも、この大手が断わった仕事じゃとてもムリだとどこからも断わられ、日本晴れなら出来るんじゃないかとどこも言うもんだから、あんなことがあって貴奈子はすっごく気が引けたんだけど、恐る恐るもう一度日本晴れの門を叩くんである。
貴奈子が勤めている会社の社長は風吹ジュン扮する女性社長で、それは貴奈子が憧れるに充分な素敵なキャリアウーマンであり、広大なオフィスや、女の子が憧れる企画開発の仕事や……正直ね、まあ言ってしまえば、まるでトレンディドラマのようにかなり、ベタなのよね。それは勿論、鳶の世界と一番ギャップを持たせるという意味だからだけど。こういう人生の勝ち組を歩んできた彼女が、家族のような絆を持つ鳶職の彼らとどう接点を見出だすのかというところなんだよね。
本当に、家族みたいなんだもの。かやぶきじゃないの?あの屋根!その大きな家にみんなして住んで、悦治が“お勤め”中は一人娘のツミはご隠居と頭をはじめ、みんなから厳しく、そして暖かく育てられ、少年院送りにされるような少年を引き取って一人前の鳶職人になれるよう修行させてたり、まあ軍事オタクのよく判らん兄弟がいたりもするが(品川庄司)、とにかく凄く日本的で、それこそ昔の仁侠映画に出てくるみたいな親兄弟の盃状態で、貴奈子の勤める近代的なオフィスの、パーテーションで区切られて個人同士で競争する社会とは、まるで違うのだ。
貴奈子は最初はどう切り込んでいいか判らなくて。彼ら背中にイレズミなんかしょってるしさあ、もうまんまヤクザとどこが違うんだろって感じなんだもん。期間もなくて焦って話をすすめようとする彼女を、特にご隠居が、いさめるのね。仕事は心でするもんだ。そんなに焦ってあんたは何をしたいんだ、って。
とは言いつつ、けんもほろろに追い返したりはしない。まあ、まずご隠居が貴奈子を気に入ってるっていうのもあって。このご隠居を演じているのが宇津井健で、初めて貴奈子が乗り込んで来た時、ずっと女っ気がなかった(ツミちゃんは女に入っていないのね(笑))この家に、いやー、いいねいいねと、いい匂いがするねとか、これがエロモン(フェロモンだッ!)かと、もう大喜びでさ、でもそれが不思議と、あの脚フェチのエロジジイと違ってヤラしい感じじゃなくて、貴奈子もまずこのご隠居を信頼して話を持ってくるし、それは彼がこの鳶一家の家族的絆をまず大事にしているというのが判るからなんだろうな。
貴奈子が何とか彼らに話を聞いてもらいたい、と手作りの弁当を持って現場に行ったりすれば、それが激マズでもちゃんと食べてくれるし。あまりの高所に失神した彼女を介抱して、よーしみんなで銭湯だ!と乗り込んで、なんかだんだん、その家族的な雰囲気に彼女、巻き込まれてっちゃうの。
この銭湯のシーンは良かったな。この貴奈子に敵対心ムキ出しのツミちゃん、現場で高所に怯える貴奈子をことさらにあおったことを、浴槽のはじっこでシーンとなりながら気まずげに謝るのが可愛くて。一方隣の男湯では、貸し切り状態にはしゃいだ彼らが床すべりの真っ最中、オイオイ、金隠しマークがとびかってるぞー!特に須藤元気、背中でクルクル回転までしちゃうから、金隠しマークつけるの大変だぞ!いやー、笑っちゃったな、この場面には。撮影時もさぞかし可笑しかったに違いない。思いっきり楽しんじゃってるもん。腹ばいにすべってって、×××がイテエーとか言っちゃって、そらそうだよ(笑)。
あ、そうそうそう、須藤元気、彼もまたこの一家の若手実力者なんだけど、どことなくヘンな雰囲気なの。インテリっぽくも見えるんだけど、微妙にズレているというかさ。そういうミョーな雰囲気の鳶職人を、実に絶妙に演じてて、やっぱり彼って、格闘家にしとくにゃ惜しい役者だと思ってしまう。この若い衆の中では彼が一番上手い役者なんじゃないの?面白いよね、この個性はさあ。
ツミちゃんと貴奈子は、このシーンあたりからちょっと接近してくる。ツミちゃんはこんなところで育って、優秀な鳶職人である父ちゃんを尊敬してて、自分もそうなりたいと思ってるから、男言葉で、ガサツで、女の子らしいところなんか何ひとつないわけ。でもお風呂上りに念入りに化粧をしている貴奈子に、「ダルイことしてんな」とか言いながら興味津々だったり、なんかいつのまにか彼女になついてる。それが決定的になったのは、ツミちゃんの、ケンジ君(一番年若の若い衆ね)への恋心を見抜いた貴奈子が、一世一代にキメてみようよ!と彼女をプロデュースする場面。まず美容院行って(かゆいところはないですかと聞かれて、「……ない!」とぶっきらぼうに答えるのが、ツミちゃんらしい)、お洋服屋さん行って、このお洋服屋さんで二人してファッションショーさながらに試着室のカーテンから出たり入ったりする場面が、楽しいの。ずっと仏頂面だったツミちゃんの表情が一気に笑顔で弾ける。やっぱり女の子なんだもんなあ、と思って、しかももうどんどん可愛くなっちゃうんだもん、ツミちゃん。
で、貴奈子。どうやって彼らに仕事を引き受けてもらおうか思案して思案して、そのモニュメントの彫刻家自身を連れてきちゃう。「いきなり本丸連れてきやがって……」と苦い顔をする頭(塩見さん、シブカチョイ〜)なんだけど、このブリックという彫刻家がね、自身でヘリをチャーターして彼らの仕事ぶりを見たり、この家に来ても日本家屋や装飾品の数々に興味津々でさ、素直で率直なオーラがバンバン出てるのね。ツミちゃんはこのデッカイドイツ人に無条件に興奮気味だし(笑。カワイイ)。彼が、職人が設置する作業も自分の作品の一部だと主張したこと、そして何よりその嘘のない瞳と、その手……職人だから判る、妥協のない仕事をしているその手に、彼ら、特に頭はホレちゃうのだ。なんか、それって、イイよねっ!「職人の仕事も作品の一部だと言いやがった」「俺はあのブリックっていう男を買う。あの目と手にホレた」と。泣きそう……。キューンとくる。まあつまり貴奈子自身がどんなに頑張っても彼女自身の努力ではなく、その本丸にヤラれたってことなんだけど、でも貴奈子は彼らと接してきて、心で仕事をするとか、絆とかがどういうものかっていうのを学んだから彼を連れてきたわけで、とても嬉しそうで、この場面は私も本当に好き。
ただ……悦治がね、この仕事が自分を陥れたあのエロジジイのいる組が断わった仕事だって知って、男としてそれは出来ねえ、と言うわけ。彼が参加しないことにはこの仕事は成立しない、と頭は「申し訳ないが、縁がなかったと思ってくれ」と……。貴奈子は呆然としてしまう。
この間に、貴奈子はこの仕事を命じた女社長と対峙する場面があり、社長が決して、左遷的意味合いで貴奈子にこの仕事を命じたんじゃないことが判る。このサテライトビルはのびのびと自由な発想で仕事をしてほしいという願いを込めて作られるもので、ブリックの彫刻は、この社長が救われたことのある……つまりその心の余裕というか、そういうメンタルな部分でね、だから思い入れがあって、その仕事を貴奈子に任せたわけで、彼女は貴奈子の仕事への情熱をちゃんと判ってたし、彼女に鳶職人と仕事をさせて、成長させようとしたんだよね。
それに貴奈子はこの仕事の最中、エリートの恋人からプロポーズされちゃって、すっごいデッカイダイヤの指輪を差し出されるんだけど、断わっちゃう。いまだに女には仕事に関して恋愛と結婚(と子育て)の問題がつきまとい、同僚たちは、あんなエリートと結婚できるなんてとうらやましがったり、あるいは彼女が仕事を辞めるかもしれないことを口さがなくウワサしたりして、貴奈子はただまっすぐに頑張りたいだけなのにそんなことに忙殺されることにもウンザリとしている感じである。
日本晴れに断わられて、もうどうしようもなくなって、屋形船の上で一人ヤケ酒を飲む貴奈子、橋の上を一人歩いている悦治を見つけ、慌てて岸に着き、自転車を勝手に拝借して、猛然と彼を追いかける。直談判するのかと思いきや、その酔った勢いで、まくしたてるの!「そりゃ、あんたらのこと最初は、奇妙な動物を見ているような気持ちだったわよ!でも、心意気とか、ご隠居のエロモンも、いいなって思えてきたのに!いいわよ、私だって女を張って仕事してるんだから!日本中を回ったって、他に日本一の鳶を見つけてやるもん!当てなんかないけど!」ともうメチャクチャに。でもこのメチャクチャにまくしたてる観月ありさはキュートでね。悦治はさあ、彼女に惹かれてるわけよ、つまりは。でもツミちゃんが成人するまでは、女には近づかねえ、と自分ひとりで決めてるわけ。それを貴奈子は、ツミちゃんが恋をしたことを怒ってるんだと誤解してんのよね。でね、この場面、悦治がそのことを言い返そうとしたとたんに、貴奈子が「あ、やべ、これ返してこなきゃ」と自転車を引いてくるりときびすをかえす、そのボケッぷりが可笑しいんだよねー!唖然とする悦治だけど、でも言うわけ。「俺はツミが成人するまで女には近づかねえと決めてるんだ!」と。ポカンとする貴奈子。あーん、もう、それってあんたが気になってしょうがないと言ってるのと同じじゃーん!ズキューン!
で、結局悦治はこの仕事を受けることに決める。翌朝、貴奈子を日本晴れの一家が迎えに来て、現場に到着!彼らがおそろいの半纏をくるり、と羽織るスローモーションがカッコイイ!彼女にもおそろいの半纏をくれて、みんなで一本締めをする。その輪の中にいる彼女はもう最高に嬉しそう。
悦治、「あんた、名前なんていうんだっけ」
「貴奈子です。中野貴奈子」
「……もう一度名刺くれるか」
いやー、いいねいいね!
ビルにはりつく巨大モニュメント、迫力!
この仕事が無事終わって、貴奈子が日本晴れを再訪する場面、つまりラストシーンが好きなんだなあ。ツミちゃんが嬉しげにキナコ!と駆け寄る。彼女が来たのが一発で判る、哀川翔の、イイ女が来た、という満足げな笑み。それはまるでいやらしくなく、テレでもなく、本当に自然に、イイ女が来た、っていう笑みだから、ズキューンとくる。それまでは、「ツミが二十歳になるまでは」と女断ちしていた、ひょっとしてツミちゃんが二十歳になったのかな。 それまで抑えていたクールな表情と全然違う。
遊び心ってやつなんだろうけれど、編集やワイヤーアクション、CG、テンポ操作をいじりすぎな感じがするのが、唯一、気になってしまった。
それも最初の方だけって感じなんだもん。中盤から疲れたのか、結局普通のカッティングが多くなるから余計に……
つかみってヤツだったのかしらん。★★★☆☆