home!

「へ」


2006年鑑賞作品

HAZE Original Long Version
2005年 49分 日本 カラー
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也 志田貴之 音楽:石川忠
出演:塚本晋也 藤井かほり 村瀬貴洋 神高貴宏 辻岡正人 さいとう真央


2006/3/7/火 劇場(渋谷ライズX)
あら塚本監督ったら、いつの間に新作作ってたのかしらん、などと思ったら短篇で、あ、短篇かあ、かるーくひとひねりしたのね、と思ってランランとばかりに足を運んだら、アタマかち割られた。
塚本監督が、かるーくひとひねり、なんてするわけなかったのだった……もうどっしりアンコのつまった薄皮饅頭のごとく、どっぷり塚本作品。
フィルムにこだわってきた塚本監督が、初めての全編デジタル。ほお、時代におもねったか、なんて考えた途端、これまたフリーキックでゴールに飛ばされた。小回りのきくビデオ撮影でなければ出来ないことを、彼はまたしても人に任せずに自分の手でやってのけたのだ。
超恐怖、なんて惹句にあるから、あら塚本監督ったら、今ハヤリのホラーに手ぇ出しちゃったりして、なんて思ったらこれもまたカキーンとぶっ飛ばされた。
そんなホラーじゃない。本能的な恐怖。本能に直接、いや本能をそのまま否定せんがごときの恐怖。どんなオバケより、どんなミステリーより、怖い。
たった1時間あまりの作品(これでもロングバージョンだという!)なのに、やっぱり塚本監督はスゲエよ!と改めて塚本信者になり申した次第。

なんか、塚本監督の基本中の基本、「鉄男」に帰っていった感じもして、それがちょっと嬉しかった。
とにかく爆音(塚本監督作品を100パーセント表現しうるのは、やはり石川忠しかいないって!)、とにかく不条理、とにかく絶叫、そして鉄の存在感もちょこっと出てくるし。
思い出すなあ、「鉄男」を観た時の衝撃を。残念ながら劇場ではなく、ビデオで観たんだけど、ただただ爆音と絶叫が娘の部屋から聞こえてくるもんだから、一体何観てんのと、母親が心配してドアをノックしたっけ。
鉄男は本当に圧倒的だったけれど、彼の恐怖や苦しみは、視覚的に与えられるだけだった。もちろん、それこそが衝撃だったんだけど、本作は、スクリーンの中の主人公の恐怖が、ダイレクトにこちらに注入されるのだ。

ふと目を覚ました主人公は、仰向けに横たわっていて、その目の前に、本当に目の前に、天井があるのだ。
そしてあたりは暗く、どの方向にはいずっていけば出口があるのか、そもそも出口なんてなくて密室(室、ですらないが)なのかどうかも判らない。
もう、もう、この画だけで発狂しそうになった。主人公(塚本監督自身だ)が目えむいてパニックになって、どういうことだ、どういうことだと何度もつぶやいて、なんてことがなくても、もう、見ているだけで、というか目をそらしたい、この劇場から(このライズXというのが閉塞感のあるミニミニシアターなもんだから!)走って逃げ出したいという衝動を抑えるのにひどく苦労した。
だって、この画を見ているだけで、死んじゃう。呼吸困難で死んじゃうよ。本当に、胸をぎゅっと抑えながら、酸素を取り入れようと池のコイみたいに口をバカッと全開に開けて、息も絶え絶えに、見てた。
昨今のホラー映画の、凝ったクリーチャーや、意外などんでん返しや、血しぶきや、そんなものの百倍も、怖い。私は閉所恐怖症じゃないけど(どころか、狭いところ、かなり大好きなんだけど)、出口があるのかどうかさえ判らない、身じろぎさえ出来ない閉所の恐怖が、殺人鬼を目の前にした映画より恐怖だなんて。

殺人鬼を目の前にする、という映画は、古今東西、数多く作られてきたから、もう私たちは免疫が出来ているからかもしれない。でもこの究極の閉所の恐怖は、そういえば映画になったことはなかった。当然かもしれない。だって映画は空間を自在に操れるのが強みなんだもの。わざわざ閉所を描こうとは思わない。
それに、そんな閉所をリアルにそうだと感じさせるのは、どんな豪華絢爛な美術の映画より、きっと難しいことだ。
自分の作品は常に、本作も当然、美術も担当している塚本監督の真骨頂である。本当に、彼は天才だと思う。

ふと気づくと、彼は壁に設置された鉄パイプを口いっぱいにくわえている。もうあごが外れんばかりの状態で、圧迫されていている。横方向に動いて外そうとするも、右方向に必死に移動してみたら、壁につながっていることに気づいて、絶望する。
彼はまた必死に、歯と鉄パイプがこすれあう、背中に三列ぐらいサブイボが林立しそうな音を立てて、今度は左に行く。良かった、途切れていた。ようやく彼は歯を鉄パイプから外せる……もう、この悪趣味な(ほめてます、もちろん)シーンを耐え忍ぶまでにマジで発狂するかと思った……。

最初は、横方向だった。横たわった彼の眼前に天井が迫っていた。
しかし彼が必死に逃げ回るうちに、それは様々な方向に変化してゆく。
まっさかさまに落ちていくと思ったら、その先には切り立った剣先が!彼は必死に横の壁にくらいつき、頭がブッ刺さるのをこらえる。まさに腕の力一本で、ギリギリとなんとか上へと登ってゆく。
もう、もう、本当に気が狂う。
このまま一時間、不条理に彼は出口を求めてさまよい続けるのか……本当に見ているだけで気が狂うよ、と思っていたら……。

あら、見たことある顔。あの傑作(塚本作品はどれも傑作だけど)「東京フィスト」のヒロイン、藤井かほりである。
スリップ一枚の姿でこの閉塞状態に横たわる彼女は、やけになまめかしいが、そんなノンキに言っていられる状況であるわけもない。彼女の周囲にはバラバラに切り刻まれた、血や血以外のモノでヌルヌルの“人体の一部”が散乱しているのだ。
彼が、逃げ惑う中、聞こえていた絶叫。
一体どうなっているのか。戦争でもはじまって捕虜になったのか、それとも金持ちの変態ヤローの餌食になったのか、そして何より……出口はあるのか。

やっと遭遇した生きている人間である彼女は、不安な目を揺らめかしながらも、冷静に言う。皆、あそこから運ばれてきた。出口はあそこしかない。そこは血で真っ赤に染まった下水のような水で満たされた小さな穴。“人体の一部”で満杯になっていた。
ここから出口を探すか否かを巡って、彼と彼女はこの息苦しい天井と床の隙間で長いこと議論をするんだけれど、とにかく彼は不安をつのらせるばかり。一方、彼女は絶対にここから出て行く、それにはあそこから出て行くしか方法がない、ともう決心している様子である。
そういやあ、「東京フィスト」で彼女にボコボコに殴られてたよな、塚本監督、と思い、女の決断力について行きたい男の姿、なのかもしれない、と思う。
でもそれは、その先に、愛する彼女をなんとしても助けるんだという壮絶なシーンが待っているからなんだけど。

そう、不条理なままでは終わらないのだ。そこもまた「鉄男」と違うところ。彼女と会った時から、不思議なつながりを感じていた。そして一人でも行く、という彼女を追いかけて、血で赤く染まった水の中を、腕やら足やらを掻き分けながら必死に進んで行った。
でも、ついに水が満水になっている場所まで来てしまう。彼女は振り向き、「ここから息が吸えないわよ」と言う。
彼はまたしても怖じ気づき、戻ろう、と必死に懇願するんだけど、彼女はその先の光を信じて、文字通り血の海の中を潜ってゆく。
必死で追いかける彼。水中の“人体の一部”はさらに密度を増している。本当に、見ているだけで吐きそうになる。
ようやく、水面と天井の間に空間を見つけ、彼は必死に息をする。その“天井”は、力を入れると浮いた。
ふと垣間見えたのは、こじゃれたマンションの一室といった趣。やっぱり金持ちの道楽だったかと、彼は必死に……必死という言葉はこういう時にしか使っちゃいけないと思うぐらい、本当に死ぬ思いで、頭で“天井”を打ち抜く。“床”に転がり出る。
そこは、彼と彼女が暮らした部屋だったのだ。

不条理のままで終わっても秀作だったなと思うけど、この着地点がまた素晴らしい。
死にかけた二人の悪夢だったというのはちょっと夢オチのようにも感じるけれど、目覚めた彼が、血だらけになって死にかけている自分に全てを思い出し、やはり死にかけているであろう、くたっとした手しか見えていない彼女に向かって、絶対に助けるから、と渾身の力を込めてはいずっていくシーンは、鳥肌の立つ集中力に満ちている。
夢の中で、あの悪夢の狭い迷路の中で、“もう一度”出会えたんだもの。二人は運命の関係なんだもの。
彼らがどうして心中という手段を選んだのかなんて、語られるほどヤボじゃないけど、死のうと思った彼についていく形で寄り添った彼女、その愛に迷いはなかったに違いない。彼はこの“悪夢”の最中でも、幸せな夢を思い出していた。二人で見た、まるで自然発生しているみたいに見えた、ビルの谷間に小さくあがる、ささやかな打ち上げ花火。穏やかな、幸福なそのシーンがラストに使われているのは、お願いだから、二人が助かったハッピーエンドだと思いたい。
いやでも、やはりそれはムリかな……。

世界の(だったはずなのに)キタノが脱落してしまった(でしょう、どう考えても)今、日本の映画界における真の才能は、やっぱりツカモトに託すしかないのか。
ごまかしのない、有無を言わさない、圧倒的な才能は明らかなのに、キム・ギドクもそうだけど、自国がその真の才能にきちんと投資をしないのがホント問題だと思うよ。アジアはね、ホントそうだよね。だからアン・リーもハリウッドに行かざるをえなかったんじゃん!★★★★☆


ベロニカは死ぬことにした
2005年 107分 日本 カラー
監督:堀江慶 脚本:筒井ともみ
撮影:柳田裕男 音楽:アンドレア・モリコーネ
出演:真木よう子 イ・ワン 風吹ジュン 中嶋朋子 荻野目慶子 田中哲司 片桐はいり 多岐川裕美 淡路恵子 市村正親


2006/3/3/金 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
今、書いたのを読み直したら、私やけに怒ってるから、ちょっとビックリした……この映画が好きな方は、読まない方がいい、かも。ごめんね。

観ている間中、すっごいイライラしてた。端的に言えば、「なんでこの女の人生につきあわされなきゃいけないの?」という感じ。いや観に来てるのは自分なのにおかしな言い草なんだけどね。
だって、もおー、たまらずに、うっとうしいんだもん。
映画の2時間あまりっていうのは、その主人公の人生と共に生きる2時間。それをこんな風に思ってしまうのは一番、キツい。
なんかね、こういうこと言うの、ホント、ヤなんだけど、“女優映画”の最も悪い部分が出た、ように思えてならない。
主人公含め、四人の女優の“競演”といった趣なんだけど、なんか誰も彼も作られた感じで、一人として心を寄せたいと思う演者がいない。おかしいの、そんなの。だって彼女たち、もともとはすばらしい女優のはずなんだもん。

なんつーか……作品そのものに対する視線が、女はこういうもので、こういうことで悩み、自殺に美しい結末を見て、最後は男のセックスによって救われる、みたいな眺め方に思えて、ばっかやろー、冗談じゃねえ!とか思うのさ。
……これは、女性監督に演出してほしい話だったかも。つーか、これ、原作も男性なんだ。こんな女性の真の姿をあぶりだそうとする物語が。ちょっと意外。原作はどうなってるんだろう……読む気もないけど。

主人公のトワ(真木よう子)は、大量の睡眠薬を飲んで自殺未遂をするが死に切れず、このサナトリウムに運ばれてくる。
目覚めた彼女が、なぜ自殺したかを語る最初、本当の理由を隠してた。何にもない、同じ一日の繰り返しがイヤになったからだ、と。
話を聞いている院長先生が、君はまだそんなに若いのに……と言うと、自嘲気味な笑みを浮かべた彼女は、若い?とおうむ返しに聞き返す。
「もっと若い頃は大人になったら選択することが出来るんだと思ってた、今は何かを変えるには遅すぎると思ってる」このままシミが増えてシワがふえて、醜くなっていくばかりじゃない、みたいな言い方をする。
この時点で私はもう、最高潮にイライラする。彼女の言うこと、判るけど、女の価値は若く美しいだけってカンタンに言ってしまうことに、もの凄く腹が立ったのだ。女のアンタがそれを言ってどうする、って。アンタは何、クレオパトラかなんか?って。
ほんでもって、自殺をジャマされたことで本気でキレる彼女になんかもう、ウンザリしちゃって。

でも、彼女の真の理由はそこにはなかった。トワが本当に心を失った理由は、人生の全てだったピアノ、その大事な試験の時に失敗して、挫折してしまったから、である。
でもそれを聞いても、私のウンザリした気分は大して回復しなかった。それならまだ、同じ毎日の繰り返しでその先に希望を見いだせない、まあ、芥川的な「ぼんやりした不安」の方がまだ、理解できたかも、と思った(シミが増えて……云々って部分はのぞいてね)。
こういうこと言うとナンだけど、それぐらいの理由で?て感じだったんだよね。そりゃあ、挫折の程度は人によって様々で、それによるダメージの大きさを測ることなんて出来っこないんだけど、彼女がそこまでダメージを受けたことが、なんかサッパリ肌身に感じることが出来なかったのだ。
はあー?アンタその程度で何言ってんの、みたいな。演者にそれを説得させるまでの演技がなかったと言ったら酷だろうか……。
それに、トワは自分は地味な人生だったとか言いながら、彼氏はいるっていうし(だとしたらその彼氏に失礼だよなー)、地味っぽくするためのはずのメガネが、一見地味に見えそうになりながら、キラキラ光るラインストーンをアクセントに使ってる、やけにデザイン性のあるものだったりするのもヤラしいんだよね。

なあんか、さあ。いかにも女優を見せますっていう演技で、女が狂えば熱演、みたいなのが凄くヤなの。
男優はそれがないじゃない。
トワもね、もう取り乱してギャーギャーと叫びまくる。まあ、熱演、なんだろうけど……耳をふさいでうるさーい!とか言いたくなる。
これは全体的に、演出がそういう意図のようにも感じるなあ。

しかしトワはまだいい。まあまだまだ言いたいことはあるのだが、それは後にとっとく。何たって一番サムいのは、中嶋朋子演じるサチなんである。
本気でサムすぎる。
彼女、こんなサムい演技する人じゃないのに。なんでこんなんさせるの。
なんか、小劇場の学生演劇かって感じのはしゃぎよう。成熟した女優の演技とは思えない。
サチは、初恋の人への思いを断ち切るために、何人もの男とつきあった。今のダンナはその中の一人。
その初恋の人がどうしても忘れられなくて、自分を見失って、彼女は今ここにいる。
でもかけがえのない三人の子供たち。彼らを愛しているのは本当(ダンナは?)。
催眠療法にハマって、何度も現実世界に戻ってこれなくなりそうになった。現実世界では子供たちに会えないから、催眠術で、飛んで行くんだという(だから、ねえ、ダンナには会いに行かないの?)。
つまり、サチのはしゃぎっぷりは、傷ついた自分を隠すための明るさ、ってなことなのかもしれない。
でもねえ……舞台よろしくあちこち走り回って、うふふふと歯茎を出して笑いまくる彼女に、そうした機微は残念ながら微塵も感じられない。
彼女自身の考えで、こんな演技プランになったのかなあ……。

と、疑問に思うのは、それは荻野目慶子の演技も、ここまで極端ではないけど、似たようなもんなんだもん。彼女もそんな演技をするようなタイプじゃないのに。スリリングな荻野目慶子らしさが全然、なかった。あまりにらしくなくて、彼女だと気づかなかったもん。
彼女が演じるのは、このサナトリウムの婦長さん。過去に何度も自殺未遂をしたことがある、だからあなたの気持ちが少しは判るつもり、と、無数の傷のついた手首を見せる。なぜ、と問うトワに、自分が嫌いだったから、と答える。その理由はトワと同じだった。答えを求めるように、婦長の顔をまじまじと見つめるトワ。
そうすると、婦長さん、その彼女に答えを返すように、「でも今は、自分が大好きー!」と、叫ぶのだ。
いやあの……普通に言おうよ。両手突き上げてそんなこと叫ばれた日にゃ、ゾッとして首を引っ込めちゃうよ。何コレ、自己啓発映画かい?
他の演者にも、それぞれ微妙にテイストは違うものの、そういう無粋な大げさを感じるんだよなあ。

そして、風吹ジュン扮するショウコである。このサナトリウムのお局さん的存在。彼女だけが外に出て行ける権限を持っている。
トワは心臓の一部が壊死をおこしていて、もって10日の命なのだけれど、自分の死ぬ時くらい自分で決めたい、と、一刻も早く再度の自殺にトライしたかった。ので、彼女についていって睡眠薬を手に入れようというわけである。
薬を手に入れた後、ショウコは一軒の映画館に入ってゆく。
そこでショウコはとつとつと話し始める。弁護士としての自分のキャリアに疑問を持ち始めた時、この映画館で戦争のドキュメンタリー映画を観た。その時パニック障害になった。仕事も夫婦関係も全て失ってしまった、と。
トワは驚いて、なぜそれで仕事を失わなければいけないの、と問う。
ショウコは遠い目をして、さあ、なぜかしら……と応える。そして、今日は試してみたかったんだと。でもやっぱりパニックを起こしてしまった、と言う。
それは、過去の回想ほどに、ヒドイパニックではなかった。トワは、ショウコに、でもあなたは乗り越えたわ、と言ってあげる……。

と、いうシーンにも、まああの……私もなんか重箱つつきみたいでアレなんだけど、どーもシックリこないものを感じる。
ショウコが、弁護士というキャリアウーマンだったにもかかわらず、それで人は救えない、ボランティア活動をしたい、と思い、周囲に反対され、パニック障害を起こしたっていうことなんだけど……なんかキレイすぎるんだよね。
結局それって、彼女はボランティア活動をするだけの余裕のある財政状態だったってことでしょ。サナトリウムでも一人優遇されてて、門番にお金つかませて外に出たり、なんか、彼女の悩みに切迫したものを感じないんだよね。
それは、トワがこんな風に、かんったんに彼女の悩みにシンクロしてしまうせいもあるんだけど。

まず前提としての、トワが余命数日だっていうのは、実はウソなんである。このオチ自体、趣味が悪いというかセンスがないって気がしてならない。
彼女に生きる力を与えるためのカケだったわけだけど、何でその数日で彼女がそれを得る確証があるんだよ、ってこと。そんな数日で息を吹き返すなら、自殺なんかしないよ。
でも、ふきかえしちゃうんだもんなあ……。
大体、あんなに厭世的に、自分のカラに閉じこもっていた彼女が、他の患者たちの身の上話を聞いてアッサリ同情目線になり、慰めの言葉をかけて素直になってゆく、というのがあまりに単純すぎて拍子抜けしてしまう。
え?アンタそこで感銘受けてる場合?みたいな。とても死ぬまでの悩みを抱えてた人間とは思えないんだもん。
それだけ、他の人たちの悩みが彼女以上に深かった、だから感銘を受けたってことなんだろうけど、やっぱりここにもそこまでの説得力はない。
どの悩みにも、男や仕事に追い詰められて、女は精神を病むものよ、みたいな目線感じるし。
言っとくけど、ノイローゼになるのは男の方が多いんだからね!
女はこんな弱っちくないっつーの。

トワの最後の日がだんだん近づいてくる。このサナトリウムにもなじみ始めたトワに、ショウコがこんなことを言った。「あなたは本当に幸福なセックスしたことある?」
……何を言い出すんだ、あんたは。
というか、これが最終結論なの?彼女たちの人生の。
女の幸福が結局はそこに収斂される、なんて言い方に思えて、今まで以上に寒気がするのは、考えすぎなんだろうか……。
確かに、男は発射してスッキリみたいなところがあるからごまかしようもないけど、女は感じ方に余剰や曖昧が多いから、相手の気持ちを考えて演技しちゃうこともある。だから出た台詞なんだろうけど、でもさあ……。
やっぱりこれが、男なら絶対に出ない台詞だと思うのがイヤなの。男に向かって、幸福なセックスこそが男の幸せ、っては……言わないよね、絶対。
女に対してはそれが成立する、みたいなニュアンスが、なんか、なんかすっごくヤだ。
それはつまり核心をついてて、女は満足してないってこと、虐げられてるってことなんだと判るんだけど、それを男の手で、なんのクッションもなく、提示されるのがイヤなの。
女はセックスに満足してない、だから苛立ってる、みたいな印象を与えるんだもん。

しかも更なる結論が、理解不能なんである。なぜ彼の前でオナニーすることが、本当の自分を見つけることになるのか、本気で意味が判らない。
彼、とはこのサナトリウムにいるクロードという青年。大物政治家の御曹司であった彼は、しかし絵が描きたくて家に反発を繰り返し、家族は彼をここに送り込んだ。
ちょっと脱線するけど、このクロードになぜイ・ワンを起用したんだろ。海外戦略?隆盛を極める韓国映画界への目配せ?
タイトルが、原作そのままのベロニカを使っている時点で、やたらクレジットにアルファベット使うし、海外公開への意欲があるのかな、とは思ったんだけど。
クロードが言葉を発しないという設定とはいえ、一番重要な場面、倒れたトワを抱き起こして助けを呼ぶ場面と、“最後の一夜”の場面で喋るんだから、逆に発音は重要でしょ。少ない台詞場面でこんなたどたどしく発音されると、ゲンメツする。
顔立ちが、いかにも韓国って感じだしさ。
しかもドラマ出の彼は映画初出演だという。冒険だよー。ホント韓国公開の足がかりの意図を感じるなあ。

そもそも、オナニーをしたらとトワに勧めたのはサチだった。一度、サチが自分をなぐさめているところにルームメイトであるトワが入っていってしまい、ひどく驚いたことがあった。サチはあっけらかんとしているんだけど。
実に嬉しそうにオナニーを勧めるんだよね、サチが。なんかシュミ悪い。……つまり、自分の気持ちイイところは自分が一番よく知っているから、それで閉じこもっている自分を解放しろってことなのかもしれないけど。まあそこまでの理屈は判るけど、なぜまたわざわざオナペットを目の前に立たせてやるんだよ。
クロードに対して「最後の恋人になって」などと言うから、セックスすんのかなと思ったら、このありさまである。
しかも、「あなたが見守っていてくれたから、本当の自分を見つけられた」見守ってって……そういうことか?うーん……理解に苦しむ。

しかしまあ、本当に彼女が最後だと思った(ていうか、院長が、もってあと24時間と言ったから)一日、クロードと一緒に外に出て、恋人のように過ごすから、何とか救われたけど。
ちゃんと愛し合いもするしね。……つーか、オナニーで自分を解放してからじゃないと、セックスは出来ないってこと?んなこともないよね……やっぱりあのシーンは意味が判んなかったなあ。
しかし、トワは死なない。ウソだったから。もう二度と見ることが出来ないと思っていた朝日を、彼女は一人、あびている。もう一度生き直してみよう、そう思いながら。

催眠療法で、サチの魂が抜け出すシーンにCG使ったりするのがあまりにファンタジーで、女優の狂う演技にこだわりながら、結局はこれかあ、などとも思ったりする。
確かにサチの造形は、ほとんどファンタジーと言わざるをえないしなあ。でも結局はそういう感覚だったのかな、全編。このサナトリウムの造形も、そこに居心地良さそうに賑やかに暮らす患者たちも(これがまた、最高にサムいのだが)やけにファンタジックだし。
院長先生を演じる市村正親からして既に、悪ノリ状態にコミカルに演じてるから、これをマトモにシリアスに受け止めようということ自体が間違ってたのかも……。

トワを演じる真木よう子はちょいとキレイだった。何より身悶えてオナニーする姿が、爛熟したおっぱいが、美しい。
というか、まだ若いじゃないの……28の設定はカワイソウな気が。というか、23歳で28の苦しみはまだ判らないよ。女優だから演じればいいんだけど……それが判ってる演技とは思えなかったな。
というか、実際、28が決して若くはないという苦しみは、そこを通った女たちは確かに判るから、23の女優にやってほしくはないという気持ちが正直なところかも。

しかも、音楽がうるさかった。音楽にも高名な人を使ってて、これも海外への目配せだろうか。でも音楽こそがこのシーンを表現してるのよ!なぐらいに“熱演”に容赦なくかぶさってくるから、これまたうるさーい!と言いたくなっちゃった。★☆☆☆☆


変態村CALVAIRE
2004年 94分 フランス=ベルギー=ルクセンブルグ カラー
監督:ファブリス・ドゥ・ヴェルツ 脚本:ファブリス・ドゥ・ヴェルツ/ロマン・プロタ
撮影:ブノワ・デビー 音楽:ヴァンサン・カエイ
出演:ローラン・リュカ/ジャッキー・ベロワイエ/フィリップ・ナオン/ジャン=リュック・クシャール/ブリジット・ラーエ/ジジ・クールシニー/フィリップ・グランダンリー/ジョー・プレスティア


2006/4/27/木 劇場(渋谷ライズX)
えー?こんなん全然変態じゃないじゃーん!「変態村」というタイトルに心ときめかせた私がいけなかったの?観るかどうか、悩んだのよ。上映終了間際で時間的にもキツかったし。でもこのタイトルの映画を落とすわけにはどーしてもいかんかった(まあ、邦題だけどさ)。そう思った私がいけなかったのお?
変態、つーのはもっと深い意味があるのよ。そんなカンタンに使ってもらっちゃ困るのよ。変態ってのはね、伝統と、文化に根ざされているのよ。

飛躍しすぎか?えーとね、つまりは私は、谷崎とか団鬼六センセとか、そーいうクリエイティブで、自分勝手な変態を思い浮かべて心ときめかせていたわけよ。まあ、勝手にだけど。
その場合の変態は、自分の自分勝手を自覚しているところが重要なわけ。
本作の登場人物、あるいは展開は、その自覚がないのね。それこそが真の変態とも言えるのかもしれないけれども、私は自覚のある変態さんが好きなんである。
つまり、自覚のない変態は、ただのキ○ガイなわけ。この作品は正しく言えばキ○ガイ村なわけさ。

で、キ○ガイっていうのは、変態よりも割と作りやすいんである。
だって、まずモラルを外れればいいし、狂えばいいし、ヒステリックになればいいから。衝撃や、深い洞察はあまり感じられないというかね。
キ○ガイモノっていうのは、割とあるのよ。ショッキング系は、天井知らずに作られてて、その中に何かがないと、心に響かない。ただショックなだけなら、人間というのは(哀しいことだけれど)慣れてしまうわけ。
変態には、そこにこだわりが発生しなくてはならない。それが他人にどんなに理解されなかろうが、絶対になければいけない。
一見、変態とキ○ガイは同じように見えて、そこが決定的に違うんである。

変態は、自分の世界を持っているから、外の世界に向かっての間違いは起こさない。あくまで私の認める変態は、だけど。
でも、キ○ガイは、それを起こしてしまう。本作はまさにそれである。外に向かって間違いを起こせば、物語を転がすのはカンタンなんだよね。軌道から外れればいいキ○ガイなら、画的に衝撃的にするのもカンタン。
どことなーく、なんとなーく、そう簡単に認める気になれないのはそのあたりで。
一見、似た世界を構築しているかに見えて、そこにひたすらこだわりと、内へのコミュニケーションを忘れない塚本監督は、やはり私の定義からすると変態さんなのかなあ。

まあいいや、物語に行こう。
主人公は旅芸人の歌手。今日はいかにも寂しい村の老人ホームで、クリスマスコンサートを催したところだった。おばあちゃんから関係を迫られたり、施設のスタッフに熱烈に抱きつかれたりと、やけにモテモテな彼。でもそれはなぜかどこか……不穏な空気が漂ってて、これから起こる出来事のイヤーな予感をかきたてる。
この施設のスタッフの女性に彼、マルクは手紙を渡されるんだけど、そこには彼女のポラロイド写真がラブラブのメッセージとともに入っているのね。

それが明かされるのはずっとずっと後で……問題の「変態村」に入ってから、宿の主人によって勝手に開けて見られるんだけど、最後の写真に「そんなのウソ。もう皆あなたには、ウンザリなの」とかそういうコトが書かれてるのよ。
私はそれ、ひょっとしてこのキ○ガイの宿の主人が勝手に書いたのかしらとも思ったんだけど、多分違う。実際、手渡した彼女が書いたんだろう。判る気はするんだな。どこか、狭いナルシシズムに陥っているようなマルクには、確かにうっとおしいものを感じてはいたもの。

ただの宿泊客なのに、俺たちは仲間だとか言う宿の主人は、確かにもっとうっとおしいけど、それをうっとおしがるだけのモノがこの青年にあるのかと。
なんかね、こういう言い方すると口はばったいんだけど、所詮は旅芸人の売れない歌手なのにスター気取りで、置いてく女たちを泣かせてるんだみたいな気でいるワケ?ウザイ!みたいな、なあんかそういう……ま、悔しまぎれにしても、そんな好悪相反した気持ちを感じさせるんだよね。
そんなマルクの発する自意識過剰の魔性とでもいったものが、「変態村」の彼らに火をつけたのかもしれない。

マルクは道に迷い、どしゃぶりの雨の中行き遭った、もうひと目でキ○ガイの男に案内されて宿をとる。
その宿の主人は別に普通そうに見えた。壊れた車のエンジンも、自分が修理すると言い出してきたり。でも、なんか必要以上になれなれしいわけ。たかが宿の主人とその客の関係なだけなのに、「俺たちは仲間だろ」と迫り、そして、なぜなんだか「村には決して行ってくれるな」と何度も何度も彼に言い含める。
この宿の主人、バルテルが電話で頼んでいた車の修理工は来る筈もない。だって電話の線は途中で切られているんだから。
そして彼はマルクに、妻に逃げられた自分の身の上話をするうちに、美青年のマルク、そして妻と同じように歌の上手いマルクを、逃げた妻が戻ってきたと思い込むようになるのだ。

で、おかしいのは、後にここに乗り込んできた、バルテルが恐れていた村の男たちもまた、マルクをバルテルの妻だと思っているらしいコトなんである。
バルテルがそう思い込むのは判らなくもない……ような気もする……けど、その女を取り合ったライヴァルもそう思い込み、そこまではまだ……まあ何とか判らなくもない……かなあ……けれど、村中の男たちが、その思い込みに気づいているんだかいないんだか、ちっとも止めようとしないのは、さすがに解せないというか、別の意味があるんじゃないかって気がしてしまうんだよね。
つまり彼らは、マルクがバルテルの元妻とか、どういう人物かどうかは問題ではなく、村にきた餌食だというぐらいに考えていたんじゃないかって。

行くなと言われると行きたくなるのが人情。マルクは散歩のコースがついつい外れた、なんてな感じで集落に近づき、豚小屋で、豚のケツでヤッてる男たちを目撃してしまう。
この描写もそうだし、後にバルテルが“妻”に手を出すな、と乗り込む酒場もそうなんだけど、男しか出てこないんだよね。まるでこの村に男しかいないみたい……いや実際そうなんじゃないのかと思う。かつていたバルテルの妻が、村唯一の女だったんじゃないかと思うぐらい。
この酒場の描写は、いかにも「キ○ガイ村」を造形しました、ってなワザとらしさで、ここでもう決定的にウンザリしちゃった。狂気を示すためであろう、ただ叩きつけるだけのピアノと、新興宗教団体のような、統制は取れているけれど奇妙な、男たちだけのダンス。

歌の上手い、恐らくは美人だったであろうバルテルの妻。そのキャラは、天使でもあり、娼婦でもある、ように思える。
バルテルが酒場に乗り込むのは、そこにかつて彼女を取り合ったライヴァルがいたから、彼に牽制をしに行ったんだけど、男たちが“戻ってきたバルテルの妻”に総じて興奮しているのを見ると、みんなにとっての娼婦、つまりは彼女は慰み者だったんじゃないかとさえ、思えてしまう。
だから、彼女は逃げたんじゃないの、この村から。
いや、逃げたならまだしも、こんな風になぶられて、殺されたのかも!
だって、飼い犬が(それもメス犬!)いなくなっただけで狂ってしまう男(マルクを宿に案内した男ね)がいるような村だよ?やっぱりキ○ガイ村じゃん!
そしてその替わりとして放り込まれたのがマルクだったんじゃないの。

もうね、人の話を全然聞かないのよ。バルテル始め、村の人たちは。
マルクはまあ、いわば一般的な常識人。バルテルの身の上話なぞ聞きたくもないけど、オトナの気遣いで聞いてあげようとする。
そう、聞きたくもないのに、聞いて“あげる”わけよ。つまりはマルクの方こそが、鼻につくハイソサエティを気取った人間だと定義しているようにもまあ、思えるんだよね。
だからといって、本当に人の話を聞く気もなく、自分の欲望どおりに相手に答えさせ、あまつさえ自分の思い通りの人間にしてしまうというバルテルを持ち上げる気には到底なれないわけだけど。
つまりどっちに転んだって、人間はしょーもないんだと。寂しいからコミュニケーションをとりたがるけど、それは自分ひとりで生きていけない唯一の生物だということを露呈しているだけで、どっちがどうとかいう問題でさえないんだと、いうことなのかもしれない。

もう完全にマルクを戻ってきた妻だとバルテルは思い込み、マルクのバンにガソリンをかけて焼いてしまい、彼に妻のワンピースを着させ、逃げ出さないようにと、彼の髪をバリカンで坊主に刈り込んでしまうんである。
その前から、マルクの散歩中にバンに勝手に入り込んで、彼の私物をポケットにしまいこんだりしているバルテルはヤバいと思ってたけど……それは物欲というよりは、マルクがマルクであるということを示すものを持ち出していたってことなんだと思うもの。顔写真が入った身分証とかさ。
つまり、バルテルは基本的には判ってるのだ。決してマルクが戻ってきた妻であるわけはないと。でも彼にとってここらあたりがもう、限界で。そこに飛び込んできたマルクこそが悪い、みたいな。

バルテルの、そして村人の監禁、陵辱の手から必死に逃れようとするマルク。ようよう逃げ出したと思ったら狩猟用のトラップにかかって森で一昼夜過ごした上、キリストの磔よろしく手にクギを穿たれて、完全に自由を奪われる。ウワー!サイアク!こういうのが短絡的なキ○ガイだというのよ。しかもこの部分が原題に由来しているらしいし……やっぱダメだあ。
はては乗り込んだ村人に押さえつけられてオカマを掘られるし(まあ彼らにとってはフツーに女とヤッてると思ってんだろうけど)、もう散々なんである。

それでも何とか、本当に何とか逃げ出す。最後まで追ってきたのはバルテルではなく、彼とバルテルの妻を競い合った、あのライヴァルの男、マルクのケツに突っ込んだ男である。
なんか、ここらあたりから、お伽噺的雰囲気が出てくるのね。いや、全編そうだったってことなのかもしれないけど。
荒野を逃げ続けるマルク。追ってくる男。なぜ途中から追っ手が一人になってしまったかというと、村人たちは、この先には底なし沼があると知っていたから。
底なし沼、なんて、愛に溺れる男が陥るのには、おあつらえむきすぎるじゃないの。

男は、ハマってしまう。マルクを、いや恋しい女の名前を呼ぶ。マルクはそれに反応する義理もないのに、その呼びかけに対して引き返してくる。沈みゆく男をすぐそばでじっと見つめてる。
「お願いだ、愛していたと言ってくれ」と言う男は、もう首まで沈んで息も絶え絶えである。マルクはまるで感情もこもってない顔をして、「愛していた」とアッサリ、言ってやるんである。
マルクのこの時の心境は……この状況に彼自身が溺れちゃったのか、あるい間違われたバルテルの妻が、降りてきたのか。なかなかに神秘的ね。
それを聞いたこの男が、果たして幸せだったのかどうかは、判らない。
ただ、沈みゆく男をじっと見送ったマルク、でラストクレジットとなる。びょうびょうと吹き続ける荒野の風がそれに重なる。そしてラストクレジットが終わる直前、絹を引き裂くような叫び声……意味するところは判らんけど、これはちょっとあざというというか、ありがちだよなあ。意味を考える気持ちも失っちゃうよ。

どーも滅入るのは、ひたすら光量が少なくて、頭が痛くなるような暗さが続くことである。
唯一、マルクが目覚める朝だけが、白ッ茶けている。それもなぜか明るい気分にはなれない明るさである。
マルクが村に迷い込んだ時、どしゃぶりの雨だし、なんだか絶えず湿気てて、それは森だから落ち着くとか、そういうヒーリングにはどうにも思えないまがまがしい異常さなんである。
癒しの場所である森を、そんな風に思いたくはないんだけどなあ。でも昔から森や山奥や人里はなれた場所は、ホラーの定番だよね。「悪魔のいけにえ」とかさ。

地図にも載らない村っていう前提が、今更ながら逃げのようにも感じるんだけど。
それはお伽噺の、実在しない、夢物語だったっていうこと?拍子抜けだよなー。こうなるとキ○ガイ映画でさえ、ないじゃない。人間の、ドロドロした、自分勝手さを追求していそうに見えながら、最後にはその自分勝手な男に夢を与えちゃってさー。だって「愛していた」なんて言ってやる必要なんてないでしょーが。優しすぎるよ!
やっぱりこのあたりは、男性監督の願望が現われてるのかね?女だったらこの状況でこんなこと、絶対、言ってやんねーよ。ケツに突っ込んどいて、冗談じゃないよ。勝手に絶望して死ね!だよなあ。★★☆☆☆


トップに戻る