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「れ」


2006年鑑賞作品

レディ・イン・ザ・ウォーターLADY IN THE WATER
2006年 110分 アメリカ カラー
監督:M.ナイト・シャマラン 脚本:M.ナイト・シャマラン
撮影:クリストファー・ドイル 音楽:ジェイムズ・ニュートン・ハワード
出演:ポール・ジアマッティー/ブライス・ダラス・ハワード/ボブ・バラバン/ジェフリー・ライト/サリタ・チョウダリー/フレディー・ロドリゲス/ビル・アーウィン/ジェレッド・ヘアイズ/M.ナイト・シャマラン


2006/10/20/金 劇場(サロンパスルーブル丸の内)
うーん、なんとなく、なんじゃこりゃというのが正直な気持ち。この監督の作品を観るのは実に「シックス・センス」以来で、かの作品はまさしく彼の名を売ったヒット作になったわけだけれども、私は気に入らなかった。特にオチのつけ方にガックリだったので、その後追いかける気がしなかったのだ。
ゆがんだ水中の表情の、コワイ顔のヒロイン、の予告編や宣材写真につい興味を惹かれて足を運んじゃったけど、その印象も全然かなえられなかった。
異才なんかじゃないと思うなあ……別に、普通じゃないのかなあ、この人。

脚本も彼だし、ヒットを飛ばしたことである程度自分の作りたい映画が作れる立場にあるんだろうけど、かなり意味不明なのよね。
ハリウッドの作り方で作っているから余計にそうなっちゃったんじゃないかと思う。逆に、アーティスティックに作ったら、それなりに見られる作品になったかもしれない。
撮影にわざわざクリストファー・ドイルを持ってくるんだったら、そういう美学を期待しちゃうじゃん。
こんな娯楽大作みたいなルーティンにかかるのがヘン。だってハリウッド型の美しい役者も出てないしさ。これじゃ観客のターゲットがあまりにも絞れない。客もそりゃ入らないよ。

アパートの管理人として、住人のクレームや修理に対応する日々を送っているクリーブランドの前に、不思議な少女が現われる。
突然、プールの中から現われたその少女は、ストーリーと名乗る。かつては人間と近しい関係にあった水の精の彼女は、元の世界に戻ろうとしても、天敵であるスクラントに阻まれてしまう。
彼女を助けるためには、さまざまな役割りを果たすこの世界での協力者が必要であるということを、クリーブランドは彼女を描いたと思しきお伽噺から見い出すんである。

彼女がこのアパートに出現したのも、そういう運命の絆のもと。このアパートの住人の中に、その役割の人間たちが住んでいるはずなのだ。管理人であるクリーブランドなら、その人間たちを割り出せるはず。
しかし、彼は最初、完璧には探し出せない。彼女を癒すヒーラー(治癒者)と、手助けをする職人たちが、探し出したメンバーとは違っていた。自らもストーリーのガーディアン(守護者)であると思っていたのに、そうでありたいと願っていたのに、スクラントを撃退することが出来ず、違うということが判ってひどく落胆する。
彼がストーリーを見い出した人間であり、彼女になにがしかの思いを抱いていたからに他ならない。ストーリーもまた、父親のような包容力のある彼が、自分を守る人だと思いたかった。

最初は、彼が彼女の“器”であることを願った。それは彼女が最も心を通わす、その人に伝えなければいけないことを持っている運命の相手。会えばすぐに判る。胸が針を刺されたようなうずきを感じるから。それはこのアパートで自らの心と格闘しているライターのビック・ランだった。
彼女の存在に懐疑的ながらも、お伽噺を信じたい現代の大人たちは、次第に一致団結を図っていく。
そしてストーリーは彼らに助けられて、帰っていく。水の精の女王としての強さを得て、それを後押しするかのようなどしゃぶりの雨の中を。

……とまあ、めんどくさいのでとりあえず、ずらずらーっとストーリーを並べちゃった。監督自身が娘に話して聞かせたお伽噺を元に、現代社会への警鐘を鳴らす趣でのヒューマンファンタジーに仕上げた、という形なんだけど、その構成自体がそもそも、なんだかなあ、って感じである。
ファンタジーならファンタジーでいいじゃん、と思う。こっそりそうした考えを忍ばせておくにしたって、それを見い出すのは観客の方だし、そんなあからさまにこうだ!と言われてもなあ。

水の精として現われたストーリーという少女が、“器”となる青年、ビック・ランに、あなたの書いた本がいずれ指導者となる男の子に影響を与える、というのが最も象徴的なのね。
まず、その指導者って何よ、と言いたくなるし。どういう意味?この国の指導者?それとも世界の?
明言はされてないものの、なーんとなく、アメリカの、って雰囲気がするのがどうもね。
で、アメリカの指導者は世界の指導者で、人類を変革に導くわけ?
水の精も世界を代表してアメリカのアパートのプールに現われて、あらゆる人種が集まっているとはいえエーゴで喋って、アメリカ国民の彼らに世界の危機を伝えるわけ?気に入らないね!

……うーん、私はどうも、こういう方向に考えが行きがちなのは良くないな。
でも、このビック・ランを演じているのが監督自身だというのも、なんだかなあ。一番イイ役じゃん。そもそも彼は、自分の作品に結構出ちゃう人なんだというけれど、監督の役得にしてもこれはちょっとなあ。しかもインド系の彼が、差別的で傲慢なアメリカを変えらえるっての?
うう、ごめん。あまりにヘンケンなことを言ってしまった。でもね、この作品、いかにも色んな人種に平等に役割を与えて、平和な世界を目指す、みたいな、あまりにも判りやすい見せ方をしているのね。
フツーに頭に浮かぶような、金髪碧眼白肌のアメリカ人、なんてのはほとんど出てこない。一番アメリカ人っぽい風貌のイヤミな映画評論家は、散々かきまわした挙げ句、「悪役が怪物に食われるように」排除されてしまうし。

しかし、この映画評論家の造形は実にシニカル。彼が自信満々に指摘する職人とヒーラーの定義は間違っているのだし、彼が解釈する映画ほどに、世界はカンタンにはいかないのだ。
でもそれって、映画そのものをおとしめているのと同時に、自分の表現だけはそこには当てはまらない、と自信マンマンって感じだけど。
まあ、確かに、映画に対してあーだこーだ勝手なことを言う評論家のいまいましさ、というのは凄く表現されてて、それは素人ファンが勝手なことを言うことへの皮肉もなんとなく含まれているから、結構身が縮こまる思いがする。でもね、それなら、そういうガイヤを黙らせるようなものを作った上で、こーゆー描写をしてくれよと思っちゃう。

この、引っ越してきたばかりの映画評論家は、華やかな世界に生きる重鎮ぽい雰囲気があって、クリーブランドはそれだけで尊敬してしまって教えを請うんだよね。最初に集めたメンバーたちも、彼の解釈によって導き出した。でもヒーラーと職人は間違ってた。
彼にこう教えられたから、とクリーブランドが言うと、そんな男は世界なんてカンタンに判ると思ってる傲慢なヤツだと、言われちまうわけ。
なんか、哀しい。映画は全ての世界がつまっているから素晴らしい、と思っているのに。
でも、この評論家が語ってるクダラナイ映画の法則って、ハリウッド映画そのものだよね。雨の中で告白したりさ。そんでもってそのクダラナイ映画の法則に従って、キラワレモノがホラー映画で排除される仕組みに彼自身がはめ込まれてしまうのは、実に皮肉である。

大体、ガーディアンだヒーラーだ職人だ証人だと、役割があまりに多すぎて、それぞれの重要度を語るのには、この尺じゃ駆け足すぎるんだよ。これがどういう役割で云々……とか頭の中で整理しているうちに、見つけ出したその人はマチガイだったとか言われると、ちょっと待ってー!とか思っちゃう。
お伽噺を完璧に現代に甦らせようと思ったんだろうけど、重点となるキャラを決めて、他は排除するぐらいの潔さが欲しかった。そうして語るべきことを明確にするのが、クリエイターというもんじゃないの?

四角四面に説明しすぎると、お伽噺に本来あるはずの美しさがどんどん失われていく。せっかくヒロインに謎めいた風貌の彼女を持ってきても、他の従者たちにガチャガチャされちゃうと、彼女自身の特異な印象もその中にかき消されがちになってしまう。
ま、でも凛と静かに時を待っている、しかし自分に与えられたものが判らなくて怯えている水の精、を演じる彼女は、「スプラッシュ」のダリル・ハンナを思い出させるようなコワきれいさが印象的で、その存在感はなかなかに揺るがないんだけどね。まゆもまつ毛もプラチナブロンドだとコワいんだよねー。

しかし正直、このお伽噺自体がよく判んないんだよな……。
ストーリーを助けるためにと、この話を教えてくれたコリアン系の女の子とその母親に、何度も教えを請うクリーブランドなんだけど、しかしなぜ、コリアン系?
韓国の、つまりアジアの伝説に、思いっきりプラチナブロンドのストーリーが合致するのは、違和感がある。「世界はひとつ」を目指してるのか?
なんか逆に、アイデンティティを否定している気がするけど。
それともコリアン系というのは特に意味がなく、このお伽噺をたまたま彼女が知ってたってだけなのかなあ。

まあ確かに、吃音気味のクリーブランドが、やたらケンカ腰の(いかにもコリアン!)彼女たちに恐る恐る教えを請う場面は、コメディリリーフとして息をつける場所ではあるんだけど。
娘が、「ムジャキな子供のように母親に見せて」とクリーブランドに注文をつけ、言われるがままにおひげに牛乳をつけたままニッコリとソファに横たわる彼は、オマヌケでちょっと笑える。
しっかしこの娘、胸なさすぎでビキニ姿がイタイ……。
そんでもってこれだけ語らせといて、このオンマに役割はナシかい。

クリーブランドが孤独な管理人の職に収まるのには、それまでの過酷な運命があった。
強盗に妻と子供を殺され、ひとりぼっちになってしまったのだ。
誰にも見せたことのない日記を、ストーリーが見つけてしまう。「美しい日記だわ」そう言って涙を流す。
誰にも触れられずに、ひっそりと生きていくつもりだったのに。でも誰かに見つけてほしかったのかもしれない。
そしてそのクリーブランドの苦しみ悲しみを、このアパートの主と言われるリースという老人も気づいていた。日がな一日テレビの前に座っているだけのように見えた彼は、このアパートの些細な変化も敏感に察知するような人だったのだ。
彼が、最後の最後に判った証人の一人だった。
そして、正確な役割の人間を、まるで神の啓示が降りてきたように答えを導く男の子。彼によってクリーブランドはガーディアンではなく、ヒーラーであることが明らかになる。
クリーブランド自身の悲しい過去こそが、彼自身向き合って浄化することで、傷を負ったストーリーもまた、回復を遂げるのだ。

しっかしさあ、“器”のビックにね、ストーリーは死の予告までしてしまうのよー。そこまでせんでも。まあそれだけ影響力を与えるものを残す彼だから、なぜそこまで自分の作品が世に影響を与えることになるのか、そのカラクリに繊細に気づいてしまったということなんだろうけどさ。
何度も言うけど、一番オイシイ役を監督自身がとるなっての。しかもこの設定も、自分の作品が世に影響を与える、って言ってるみたいで、ちょっと引くぞ。
ところでこのビック・ランは妹のアナと暮らしていて、アナはお兄ちゃんの才能を誰よりも判ってて、信じてて、ハッパをかけてる。彼も妹のアナを誰よりも心配しているから、自分の先のことが不安なのだ。
そんな彼にストーリーはこう告げる。
「アナは7人子供を産むわ。そしてあなたは最初の二人目までを見る」
静かに頷くビック・ラン。
彼には、恋人は出来ないまま死んでしまうのかも。この水の精との出会いは一生一度の恋に似たものなのかも。

ストーリーを襲う犬のような怪物、スクラントがターントゥティックを恐れる、というくだりが最も意味が判んなかった。それにこのあたりに来ると物語も後半戦で、謎を解いていくクリーブランドもかなり早足になってくるもんだから、余計に判らない。
結局、ストーリーを襲うスクラント自身が、秩序を乱す裏切り者だということ?んでもってコイツを取り押さえるように出てくるバケモノチックな造形のCGがまた唐突で、なんかヤッツケに思えちゃう。
しかもこのギリギリの攻防戦で、ようやくガーディアンが誰かが判る。今までガーディアンこそがストーリーを守る重要人物、みたいな感じだったのに、ようやく判ったその人物の見せ場はほんの一瞬。このスクラントをひとにらみで撃退するんだけど、彼自身その役割が判ってなくて偶然って感じだし、「右側だけ鍛えている自称化学者」ってキテレツな男なんだもん。実はコイツだったって、ギャグかよ!

起承転結にこだわって、音楽がうるさく、ハリウッドの作り方で噛み砕くというより、破壊してしまったお伽噺、がなんだかアワレに思える。
哲学的、文学的なモティーフを持ってきながら、結局は敵との戦いのゲーム的な展開なんだもんなあ。
しかも、その敵は排除されるべき少数派の異端児で、抹殺されても何の問題もない。
ヤだな。
お伽噺の本質がそうだという、キケンな立ち位置に思える。★★☆☆☆


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