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「も」


2006年鑑賞作品

もっこす元気な愛
2005年 85分 日本 カラー
監督:寺田靖範 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:音楽:趙博
出演:倉田哲也 


2006/1/17/火 劇場(ポレポレ東中野)
優れたドキュメンタリーはまず映画としての面白さを備えているということを、あらためて強く印象づけられた。なあんて固い言い方、したくないなあ。だって本当に、すっごく面白いんだもん!その面白さは、興味深い、とか勉強になる、とかいう、ドキュメンタリーとしていきそうな方向ではなく、面白い、の純粋な意味での面白さ(ややこしいが)なんだもん。まるで劇映画のようにドキドキワクワク、心の底から笑って、そして泣く!
こういう涙を流すことが、こんなにも気持ちいいことだって、忘れてたような気がする。
それは、ただただ幸せな涙なのだ。かわいそうとか、哀しいとか、そんなんじゃなくて。
時には彼らの悔しさが本当に痛いほど伝わってきて流れる涙もあるんだけど、それさえも、幸せな涙なのだ。
多分それは、せいいっぱいやった結果だって、判るから。
ニコニコ笑顔で見ながら、ダーダー涙が止まらない。そして満たされる。
生きてるって、それだけでなんて素敵なことなんだろう。

障害者のドキュメンタリーだし、脳性麻痺である主人公の倉田哲也氏は両手は曲がったまま動かすことは難しく、表情も作りにくくて、発声も難しく、そうした人たちと接する機会のない私たちは、確かにその彼の外見だけで臆してしまう部分がある。
そのことに我ながらとても恥ずかしいと思うんだけど、でも日本がずっとそういう社会であり続けていること自体に対する問題に、この倉田氏の行動や言葉で改めて気づかされるのだ。
確かに、そう、私たちいわゆる健常者の目から見れば、彼らの姿は異様に映る。言ってしまえば怖い、とさえ思ってしまう。でもそれは彼らが私たちから遠ざけられていたからなんだよね。
身体障害者、なわけで、表情が作りにくくても発声が難しくても、考え、思考出来る同じ人間なんだもん。
ただ、そういう風に考えることは、だったら知的障害者に対しては差別していいのか、という方向にいってしまいそうで、だから私たちはどこか及び腰になってしまうんじゃないかと思うんだけど、でもだから、それをいいことに、“同じ人間”であることさえ、考えもしようとしなかったんじゃないかと思うんだ。

倉田氏は、HPの中でこう語っていた。「「障害」者が地域のなかで自立生活をするといっても、自分一人ではできませんので、多くの介護者が必要になってくることです。 そうしたときに、地域の中で生活していなかったので「健常」者の友だちが一人もいなく、ボランティアや介護者を捜すことが大変だったのです」って。
なんか、普通に、なるほど、と思ってしまう、今更。
障害者にとって養護学校ももちろん大切なんだろうけど、どんな人間でも、地域の中で暮らす仕組みをやっぱり国自体がちゃんと作らなきゃいけないんだ。そうでなければ、いつまでもそこに壁があるばかり。
そりゃ人間には違いがある。障害者と健常者という違いにいきなり挑まなくても、そのことを私たちは知っているはずなんだ。男と女の違い、生まれたところの違い、親の職業の違い、そうしたことに子供の頃から私たちはちゃんと苦しんで育ってきた。なのに障害者と健常者だけを遠ざけてしまう理由はないはず。
こういう映画を見ると、毎回思う。出会えないんだもん、私たち。努力をして出会うことをしてないからなんだけど、努力をしなくても、生活の中で自然に出会える仕組みがやっぱり必要なんじゃないかと思うんだもん。

なあんて、難しいことを考えたのは観た後で、観ている間は、“主人公”である倉田哲也氏のまさに“主人公”としての魅力に釘づけなんである。
この話は荒っぽく分ければ二部構成になっていて、彼が運転免許をとるために頑張る第一部、そして恋人の母親に結婚の許しを得るために頑張る第二部という感じ、基本的なテーマは彼女との結婚にあるわけで、そのために頑張って運転免許をとろうともしているんである。
でももっともっと大きなテーマは、彼が世界を切り開いている姿にあるんじゃないかと思うのね。
倉田氏が言った言葉で最も印象的なのが、ついに運転免許をとった時に言った「これで前例が出来た」というものだった。健常者が基本となっている社会で生きていくために、前例を自ら作ろうと前進する倉田氏のカッコ良さに参っちゃったのだ。
だって、私たち、前例なんてことを考えもせずに、前例だらけの世界で暮らしているじゃない。
でも彼らは、まず前例がなければ、私たちにはカンタンな運転免許をとることさえ、認められないのだ。

私ね、やっぱり知らず知らず、“障害者”が弱い人たち、守られるべき人たちだと思い込んでたと思う。守られていたのは私たちの方だったのだ。彼らは生きるために、ただ普通に生きるためだけに、自分からあらゆるものをとりにいかなきゃいけない。そんなこと、私たちの方が全然、してないじゃない。
あの台詞を言った倉田氏、最高にカッコ良かったなあ。
誰かにしてもらうのではなく、彼が皆にそうさせているんだもんね。運転免許センターの人たちは、それこそ前例がないから、と最初は門前払い状態だったんだけど、最終的には学科試験の解答用紙を書きやすく大きくしてくれたり、足で書く彼のために低いテーブルを用意してくれたりする。「あなたのために便宜を図った」と言う。でも、そうさせたのは倉田氏であり、しかも、“便宜を図ってもらう”ことを、恥じたり臆したりするのではない。
だって、生きていかなけりゃいけないんだもん。そして愛する彼女と結婚しなければいけないんだもん。
そして彼は人にそうさせる努力を惜しまない。それだけの力があるし、カリスマ性さえあるのだ。

私たちのいわゆる“一般社会”は、そうした努力をしなくても、とりあえず生きていける。ぶちあたる壁はある。でもそれには目を瞑ってもそれなりに生きていけちゃうから、特に努力をせずに、やっぱり社会はダメだとグチをこぼして終わってしまう。
それなりには生きていけちゃうから、人の力を借りることを、恥ずべきことと思ってしまう価値観が出来上がってしまっている。
それってこうして改めて考える機会を得ると、おかしいことだよね。レベルの差こそあれ、全てを完璧にこなして生活している人なんているわけない。農家でなければ米作れないし、布織って着る物作ってるわけじゃないし。
一般的、という便宜的な線引きが、自分ひとりで生きてるんだ、などというカン違いを生み出しているかを思い知らされ、呆然とするのだ。

そもそも、養護学校を卒業した彼は、一般企業に就職できなかったので、友人とともに「くまもと「障害者」労働センター」を立ち上げ(彼はここの代表)今や法人化もしている、つまりは青年実業家ってヤツなのだ。
“就職できなかったので、会社を作った”というバイタリティにまず打たれるし、学校や病院から回収した牛乳パックから造られた再生紙グッズは、いわゆる障害者が作ったという先入観をはるかに超える洒落た作りで、途上国とのフェアトレードも行なっているという目の付け所といい、なるほど法人化されたのもうなづけるのだ。
そんな彼が運転免許をとろうと決意する。飛び回る彼にとって、必要なものと考えたから。でもいわゆる彼のような障害者用の既製の車は高価なので、彼は知人である自動車整備工の男性に、自分に合った車に改造してもらう。

こうしたことも、倉田氏が人にそうさせるだけの人物だからなんだよね。倉田氏の要望を聞き入れ、受け入れられない悔しさを彼とともに感じながら改造に没頭する整備工の男性にも心打たれる。そして免許センターの融通のきかなさを通すために、地元の政治家までも動かしてしまう。都会ならば、倉田氏の暮らす土地よりはそれなりに障害者のための“便宜”は用意されているのかもしれないけど、ここでは彼はそれをひとつひとつ、切り開いてゆくしかない。
そして、1年以上かかって免許取得。動かしづらい表情を、でも基本いつでもニコニコだった倉田氏が、泣くのをこらえ切れないのを何度も何度も……、もお、見てるこっちも涙が止まらんよ……。

しかも!免許とりたての状態で、彼はフェリーに乗って大阪まで行き、そこから東京までのライブに挑戦する。凄い!普通に免許とりたてだけだって、かなりの冒険だよ!しかも、こういう“事件”が撮影中に起こってしまうあたりが、彼の大物っぷりを示していると思うんだけど、高速で、トラックに衝突されちゃうの!ヒドいの、トラック、そのまま“逃走”よ!もおー、すっごいハラハラした!でも、倉田氏はとにかくチャーミングな人だからさ、ドライブ中も、六本木ヒルズだ、銀座がオレを呼んでいる、だのとハシャイじゃってて、この衝突の後も、ミラーの破損のために車線を見失ってフラフラしつつ、路肩に止め、「恐るべし、首都高速」と言うのには思わず爆笑!彼のチャレンジ精神は、すべてを“素晴らしき哉人生!”に変えてしまうのね。不謹慎な言い方だってのは判ってるんだけど、全てが用意された中で暮らしている私たちにはそうしたチャレンジの目標がなかなか見つからないから、なんだかちょっと、うらやましく感じてしまう。

倉田氏は、近しい障害者たちと一緒に暮らす共同ホームも立ち上げている。その名も「共生ホーム・元気」。そもそもそこは、彼と長い付き合いである亮司を迎え入れるために用意したところだった。彼はポリオを患って左足が不自由であり、その障害のためにうつになって、精神病院にお世話になっていたのだ。
小説家になるのが夢のこの亮司は、見た目は“普通”である。ゆるゆるのジャージをはいてしまえば、多少足を引きずる歩き方をしていても左足が極端に細く短いことも判らないし、倉田氏のように手や表情や発声に問題もない。

世間から奇異な目を向けられるのは絶対に倉田氏の方がキツいはずなのに、倉田氏がそんな亮司を心配して彼を受け入れるためにホームを設立し、自分にできることなら何でも力になるからと言うのだもの!そして倉田氏が運転免許をとれたことを真っ先に彼に報告した時、一緒に喜んでくれた亮司に、「亮ちゃんにも自分を受け入れてほしい」って、泣きながら、一生懸命に言葉をつむぎ出して、その彼の言葉を、じっと、涙をためて亮司は聞いているのだ。
もう、たまらなく、涙が出る、ここ。いわゆる一般の人にも言われていたかもしれないこの言葉、本当の意味で、倉田氏でなければ亮司に対して言えないもの。この時ね、思ったんだ。もちろん愛する彼女のためもある。でも倉田氏、この大切な友達のためにも、諦めずに運転免許にトライしたんじゃないかって。今の自分のまま、否定しないまま、生きていってほしいって。

亮司が、カメラに向かってぽつり、ぽつりと語りだす。彼はかつて結婚もしていた。でも離婚し、パチンコに手を出し、多額の借金を抱え、うつになり、倉田氏に救い出された。
女に行ってしまうんですよね、という。そしてパチンコも、自分を忘れていられる時間だからと。
「残飯は、ゴミに出せるじゃないですか。月曜とか水曜とかに。そうしないと匂ってくる。オレの左足も、残飯なんですよ。匂ってくるのに、ずっと左足についてる。できることなら捨てたいんですよ」
衝撃、だった。彼が自分の足を残飯に例えることが、その苦しみが、想像を絶していて。
でも、倉田氏が運転免許を取得し、こうして自分の苦しみを語って、直面して、彼はきっと変わっていく。そんな希望が、涙をためて倉田氏を見つめていた彼に、感じた。

「免許をとったからって結婚を許してもらえるということではないんだけど」そう倉田氏は言う。そう、これは愛する彼女のためのことだったんだ。
この彼女っていうのがね、小学校の先生をしている美穂。で、健常者。あ、そういうカップルってアリなんだ、などと思ってしまった自分を心底恥ずかしいと思い、でも見ていくうちに、ああ、普通の恋人と何ひとつ変わらないじゃん、と思う。
この美穂、ちょっと出っ歯の地味な、正直10人並み容姿だし(ゴメン!)、倉田氏は表情を作りづらいということをヌキにしても、彼もまあ……10人並みだし(更にゴメン!……いや、ホームで一緒に生活している同じ障害を持つ恭弘が、アンディ・ラウ風の美青年だったりするからさあ)、だから二人の恋愛は障害を乗り越えた、みたいなドラマチックというより、二人のキャラもあるんだろうけど、ほのぼのとした空気が実にほほえましいんだよね。
でも、それを思うと、健常者である美穂が、恋人の倉田氏を障害者だと全く思わせないだけの自然体であることに驚いてしまう。驚いてしまうこと自体が無知なんだけどさ、きっと。

でも彼女、彼が障害者だから支えてあげようとかそういう感じは本当に皆無で、まあ皆無って言っちゃ語弊があるか……支えるならお互いに、であり、それよりなにより、ホントに倉田氏のことが好きで、男性として頼りにしてて、だから結婚したい、という思いに、まるでブレがないのだ。
それは逆に私たちが、やはりいかに健常者だけの、隔絶された社会に生きているかを思い知らされるんである。そりゃ倉田氏は上肢が不自由だから、外食の際に彼女の手を借りて食べさせてもらったりもする(普段は足で食事)。でも、そういうのは、今までも倉田氏が切り開いてきたことで感じていたことなんだけれど、何かが出来ない場面で人の手を借りることは、当たり前なことなんだと。それを臆することを強要するような“一般社会”を彼は自分自身でその価値観を変えてきたから、恥ずかしいことじゃないんだ、当然で、尊いことなんだということを、教えてくれるのだ。
もちろん、それに感謝はする。道を教えてくれた人にお礼を言うのと一緒で。そして自分が他人に出来ることには尽力する。そう、亮司に対してのように。
もんのすごく、単純で、明快で、正しい、こんな基本的なことを、線引きされた社会で暮らす私たちは、忘れてる。
そういうことを美穂も彼に教えられたからこそ、彼を愛することに躊躇などあるはずがないんだろうと思う。

彼女の母親は、どうしても、受け入れられない。会って話をすることさえも拒否する。
知人を通して、「見てるだけで吐き気がする」とさえ言う。
哀しいことなんだけど、この母親の感情も、判っちゃうんだよね。
それはやはり、この隔絶された社会が大きな問題。それがそうしたイメージを作ってしまっている。
うん……私もさ、こうした障害者の人、知り合いにいないし、たまに見ると、慣れてないからごめんなさい、やっぱり異様な感じを受けて、怖いって思っちゃうんだよね。
だからね、こういう機会にいろいろ考えてみると、それって、日本人が見慣れていない外国人に対する拒否反応と似たようなもんじゃないかとも感じるのだ。今ならまだしも、ちょっと昔、外国人なんてホント異様で、バケモノ扱い状態だったじゃない。
意思の疎通がなかなか難しい部分も、似ているように思う。
特に、もう70を過ぎているこの母親にとって、彼女が生き続けてきたこの社会の枠組みを打ち破ってまで彼を受け入れることは、奇跡に近いことに違いない。
でも外国人とだって、意思を通じ合おうと思えば、顔をじっと見て、耳を傾ければ難しいことじゃないんだよね。うん、同じじゃない。
むしろ、気軽に会話して、“前例”だらけのなかで生きている私たちは、どれだけ意志を通じ合えているんだろう、と思ってしまう。
きちんと顔を見て、耳を傾けて、人の話を聞こうとしていたのは、いつのことだっただろうか……。

でも、彼はあきらめない。それは運転免許のために車を改造し、二年越しで免許を取得した時と同じ、普通だったら、個人の努力だけじゃどうにもならないヨ、などと思ってしまいそうなところを、しつこいよ、と思えるぐらい、くりかえし、くりかえし、トライする。
なんかもう、なんかもう、涙出るんだ。
こんなに信頼して、愛し合える人に出会えるなら、私も結婚したくなっちゃう(おいっ)。
「私がてっちゃんに支えてもらってるの」という美穂の台詞は、倉田氏の人となりをここまで見てきた私たちには充分判るんだけど、彼女の母親にはどうやったら判ってもらえるんだろう。
こうしてドキュメンタリーで撮ってもらわなきゃ、私だって本当にそうなんだって実感できない。恥ずかしいけど。 それに日本じゃいまだに女の子がお嫁にいくという感覚があるし。
いや、そりゃ倉田氏ならいくら障害者であっても、彼女におんぶするような生活には決してならないんだけど。でもそういう価値観で話を進めるのもここでは違うような気がするし。

ああっ!もう!とにかく……二人とも、優しいんだもん。
もう、大人なんだから、別に親に許しを得なくても結婚ぐらい出来る。ことにこんな、判ってもらうなんてこと、絶対ムリだよ、なんて相手に対して、そんなに頑張ることなんてないよ、結婚しちゃいなよ、って思うんだけど。
でも、二人は頑張るんだ、何度も何度も、諦めずに。
自分の母親だから、責任感じて、彼に会わす顔がなくて、ホームに帰ってこない美穂を心配した倉田氏が彼女の携帯に電話をかけて、コンビニの駐車場に止めてあった彼女の車まで会いに行くシーン。顔を伏せて泣き続ける彼女に、「泣かんでもええやんか」と「美穂の顔が見られて良かった」って言う倉田氏に涙ドバー!部屋に帰っても、顔をあげることが出来ず、涙が止まらない彼女の素足に、彼が素足を重ねるの。倉田氏が足で全てをこなすからなんだけど、でも、手を重ねるより、手を握り合うより、もう、もう、胸がギューンとしめつけられちゃって、あー、もー、ダメ、涙が止まらーん!そしてひとつの布団に二人してもぐりこみ、美穂が彼の胸元に顔をうずめて……更に滂沱の涙が止まらんのだ。こんなに愛する人がいるアンタがうらやましいよ!!

倉田氏のお父さんが、美穂のお母さんと話をしようということになる。倉田氏のお母さんはもう他界してしまっている。倉田氏は幼い頃から養護学校に行っていたので家族と暮らした期間は短かったらしいんだけど(彼の社会への自立精神はだからなのかも)、このお父さんが、そして今は亡きお母さんもきっと、この息子のことを愛してて、誇りに思っているのがすんごく感じられるんだよね。

最後まで、美穂の母親の許しは得られない。二人は籍だけ入れて、ゆっくりと、判ってもらおうという結論を導き出す。時間外に役所に婚姻届を提出しに行く場面で、またしても涙が出ちゃう。私ちょっと泣きすぎだな……年のせいかしらん。別にうらやましいわけじゃないもん!いや、いいんだけど。でもね、でもね、ここが、ドキュメンタリーはドラマよりもドラマチック!美穂の亡くなったお父さんの墓前に報告に行こうと二人が向かうと、もう先に花が供えられてて、それは多分、この日入籍したことを知っているはずの美穂の母親が手向けたものに違いなく、美穂のたまらずにこぼれる涙を見ずとも、もうせんからゆるゆるの涙腺が完全に修理不能になってバカみたいに、でも幸せな涙がダーダーこぼれる。ニコニコ笑顔のまま涙が滝のように流れるこの顔は、映画館の暗闇の中でよかった……見せらんないよ。でも、幸せ。幸せの涙がたまらんのだー!

切らなければいけない部分、時間的に限界があった部分がたくさんあったんだろうけど、なんか、もう、なんだろ、シンプルに、生きてることってだけの幸せと誇りと、人への気持ちの尊さと、自分が自分として生きていくことに努力と責任を持たなきゃいけないってことを、そして何より愛を、愛の意味を、こんこんと教え込まれたなあ。★★★★★


悶絶!!電車男 (痴漢電車 挑発する淫ら尻)
2005年 59分 日本 カラー
監督:友松直之 脚本:大河原ちさと
撮影:下元哲 音楽:
出演:北川明花 武田勝晴 北川絵美 飛田敦史 華沢レモン 小泉充裕 天川真澄 吉川けんじ 中村英児

2006/5/24/水 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.1/レイト)
成人映画としてのタイトルは伝統の痴漢電車モノなんだけど、一般公開としてこのタイトルが当てられているとおり、電車男のブームをまんまいただき、パロディにした……いや結構マジに本質を追っているのやも知れぬわ、と思われる本作である。
「電車男」はねー、ネットで拾い読みした時に私もかなりハマって、その後の展開とかまで追っていったら、彼がエルメスとの初体験まで赤裸々に書いてたりするのね。純情なラブストーリーに感動していた掲示板の住人たちが慌てふためいて彼を止めようとするのに、「電車」はどんどんナマナマしく書いていくのが衝撃だったのを覚えてる。
確かに恋愛にはこの展開が絶対待ってるわけで、「電車」が今まで女の子と付き合ったことのないウブなアキバ系である限り、避けられない問題は愛の告白よりも、ここにあったのかもしれないんだよなあ……。

で、本作では主人公はまんまアキバ系、ヒロインの方はエルメスを持ってるかどうかは定かではないけれどもハイソなOL風(ちょっとスカート膝上過ぎるけど)ってなあたりまではオリジナルを踏襲している。
彼を応援する掲示板の住人たちは、成仏できずにこの世をさまよっている幽霊たちである。確かにネットの住人たちも生身の姿が見えないという点では幽霊のようなものであり、しかも主人公に声(言葉)しか聞こえないというのも同じで、この辺の変換は上手かったりするんだよなあ。一般の映画化の方でもこんな感じに描写してたしね。

ちなみに、検索して出てきた最初のキャラ設定の中には、この幽霊たちの中に「アーミールックのスズハラ」というのがいて、これは映画版電車男の中で、コメディリリーフだったアーミーオタクの三人組を模しているに違いないんだけど、残念ながら完成した本作からは抜け落ちている。ちょっと残念な気もするけれど、キャラの拡散を防ぐという点で、正しい選択だったかもしれない。
四人の幽霊たちは、なぜ死んでしまったか、この世に未練を残しているのかの理由を一通り言いはするものの、それを断ち切るために夢の中で愛する人とセックスする描写が用意されているのは二人だけである。主人公カップルのこともあるし、いくら絡みの数が必要なピンクといえど、ここらあたりが限界なわけだよね。

「電車」さん、に当たる彼は、ここでは優治という役名が与えられている。そして「エルメス」に当たるのは江里香。優治は電車の中でひと目惚れした美女、江里香の尻を「勇気を出して」触るんである。つまり、酔っぱらいからエルメスを助ける「勇気」がここに当たるわけで(笑)。
この点に関しては、後に彼女との仲が徐々に進展しながらも、どうしても最後の一歩を踏み出せない優治に対して幽霊たちが「痴漢する勇気があるなら何でも出来る。痴漢なんてなかなか出来るものじゃないもの」と励ますもんだからまさしく爆笑で、「最初の勇気」から「最後の勇気」につながる線をオリジナルからきちんと踏襲しているから生まれる絶妙の可笑しさなのよね。

ちなみに、この幽霊たちがなんで優治の後押しをすることになったかというと、このままこの世に未練を残したままズルズル居座るのなら、地獄行きの特急列車に乗せちまうぞ、と死神に脅されたからである。それがイヤならこの童貞のまま26年が過ぎた優治を一ヶ月以内に筆下ろしさせてみろ、というのが条件。
つまりこの時点では、彼らはこの世にさまよい続ける現状維持のために引き受けるのであって、最終的に彼らが選択する成仏=生まれ変わりは頭にない。
ここもね、「電車男」の頑張りによって自分たちもこの現状から抜け出すために頑張ろうと掲示板の住人たちが思う、オリジナルの流れにきちんと沿っている。ブームにノッたパロディのように見えながら、ま、そのとおりなんだけど、変換の仕方にオリジナルに負けないオリジナリティが生まれてて、実に上手い。

それにしても、優治の痴漢行為に最初から感じまくり、二度目にヤラれた時などストッキングを破かれてもヌレヌレにモダエてる江里香っつーのは、ま、当然ピンクだからこそ成立するキャラなわけだけど。あまりにもありえないので、逆にウケちゃうわけ。
優治にしか聞こえない幽霊たちのアドヴァイスによって、彼は生まれて初めて女性に触れ、奥へ奥へと指を進めてゆく。優治には声しか聞こえないけど、当然私たち観客には全てが見えているわけで、懸命な優治に知らない振りしてかすかに悶えてる江里香、その周りで優治にやいやいアドヴァイスする幽霊たち、しかも電車の中!という図は、素晴らしくギャグとして成立している。

そして電車を降り、今の夢のような体験にぼーっとしながら彼女を見送る優治に幽霊たちは、彼女に話しかけて電話番号もらって来い!と更にハッパをかける。優治は慌てて追いかけ……その手にあるのは新品のストッキング!
「あの、すいません、破ってしまって」と差し出すもんだから、オイオイ、痴漢っつーのは基本、認めないのが前提なのになんてスナオな!と吹き出してしまう。
「あなたがあまりにステキだったから」と幽霊たちのアドヴァイスの通りに優治が言うと、彼女は恥じらいながら微笑んでまんざらでもない様子。そして見事彼女の携帯番号をゲット、デートの約束も取り付け、二人の仲は順調に進展していくんである。

というメインの二人と同時進行で、幽霊たちのうち二人のエピソードが語られてゆく。
一人目はひきこもりの高校生、トモヤ。彼は拒食症による栄養失調で死んでしまった。彼の心残りは恋人のマイ。
……んん?部屋にこもりきりで、外の世界、つまり人間関係を築けないのがひきこもりじゃないの……?まあ、彼がひきこもる前に出来た恋人だということにしておこう。彼がひきこもったことによって、なかなか会えなくなったという台詞もあるし。
トモヤの死に意気消沈しているその恋人、マイは「どうして死んじゃうかな」と彼の写真を見つめている。写真のトモヤは暗い顔をしている。「会いたいよ。またエッチしようよ」そうひとりごとを言いながら、彼女は自分で自分を慰めることしか出来ない。
そんな彼女をじっと見つめているトモヤ。死神がそっと彼に耳打ちする。「あなたの心残りは彼女ですか。夢の中ということならば彼女に会えますよ」トモヤはその言葉に従い、マイの夢の中に現われ、彼女と存分に愛し合う。
そしてマイがハッとして目覚めた時、写真の中のトモヤは笑顔に変わっている。彼女は涙ながらに「ありがとう……」そう言って写真を抱きしめるのだ。

そして今一人は、夫がかまってくれない寂しさから酒びたりになり、急性アル中で死んでしまった主婦、リョウコである。
あらら振り返ってみれば、ひきこもりの青年、会話のない夫婦、とこれまた一般映画のキャラをしっかと踏襲してますな。
実は江里香が言い寄られている会社の上司が彼女の夫。そっから浮気に発展していたわけではないみたいだけど(それなら夫の浮気に悩んでいたという設定になるだろうしね)、この描写からもなんとなく外の女に目が向くタイプの男みたいだ。
ちなみに江里香が上司に言い寄られている場面でリョウコが呆然と、「私の夫」とつぶやくシーンは、劇場内はウケてたけど、私はなんか……笑えなかったなあ。だってシャレにならないじゃん。妻がそんな理由で死んだばかりだというのに。いや、急性アル中で死んじゃったということは、この夫は本当の理由を知らないのかもしれない。

そして彼女もまた、夫の夢の中に現われる。純白のエプロン姿でキャベツをきざんでいる妻に欲情する夫だけど、リョウコは彼の指に指輪がないことに気づき、ふっと背を向ける。彼はポケットにしまってあった指輪を元通りはめ、キッチンに立つ彼女を後ろから抱きすくめる。「君が食べたいんだ」
でね、こっから男の夢である(んでしょ?)ハダカエプロン姿にむいちゃうわけだが、下のスカートはいいとして、エプロンしたまま上のサマーニットをどうやって脱がしたんだよー。しかもあんな理性のない状態で!細かいところで笑かしにくるなあ、もう。
そして一糸まとわぬ……じゃなくて、エプロンだけまとったリョウコと夫は情熱的に何度も愛し合う。こんなにも肌を熱く重ね合ったことが、夫婦生活の中ではなかったのかもしれない。
そしてハッと目を覚ました夫は、夢だったはずが、彼女と交わしたワインの満たされたグラスが二つ置かれているのを目にして、妻の思いにようやく気づいてくれた、かな。

んでもって、優治と江里香の話に戻ると……江里香が上司に言い寄られているのを目にした優治が早合点して、やっぱりダメだとその場を走り去り、しかもその時携帯を落としてしまうのね。だからリョウコの説明で誤解が解けても、江里香と連絡をとることが出来ないのだ。
当てもなくアキバを疾走する優治。自分がいるべき場所のここで、デートしたいと江里香は言ってくれたのだ(踏襲してるなー)。そしてけつまずいて転んで、メガネが吹っ飛ぶ。それを拾い上げてくれたのは、江里香だった(まんまだなー)。
そんで勇気を振り絞って、あなたが好きです、と告白するシーンは、これはホント、オリジナルそのままを忠実に持ってきたと言っていいぐらい。江里香の「私も好きですよ」と返すトコなんか、思わず中谷美紀がダブッちゃったもんね。

しかし当然、違うのはこっからである。優治が童貞喪失しなければそもそもの目的が達成されないんだから。
実は、ここ、ホテルで彼女のシャワーが終わるのを緊張しながら彼が待っているシーンは、もう映画の冒頭で示されてる。つまりはここに向かって物語はまっすぐに突き進んでいたのだ。
幽霊さんたちの詳細なアドヴァイスに必死に従って、優治は江里香の全身を懸命に愛撫する。彼女は感じまくってくれるけど、この時点で優治自身に興奮する余裕はないように見える。
間違って違う穴に指を突っ込んで「そこ……違います……」と息も絶え絶えに江里香に言われ、「いきなりアナルはないやろー」とヤクザの幽霊さんが嘆息するトコなんか笑えるのだが、とにかくもう彼は必死、挿入も、余裕がないままあっという間に終わってしまうので、彼は落ち込んじゃう。

しかし、ここに思いもよらぬオチが。早かったことを謝る優治に、「凄く、良かったですよ」と江里香は言い(確かにアンタ、悶えまくってたもんねえ)、「大丈夫、ちゃんとつかんでますから」とつかんだのは優治の××××!この台詞!「電車男」でエルメスが放つ名台詞のひとつであり、無論こんな意味で使われるワケじゃないんだけど、この台詞に掲示板の住人たちはココと同じ発想をして妄想しまくってたもんね!(私も読み込みすぎだが)
つーわけでめでたく二番勝負となり、二人はラブラブカップルに。そして幽霊さんたちは優治に勇気をもらって、もう一度人生をやり直す、まさに文字通り生まれ変わることを決意する。
若くして死んでしまったその理由がみんなして悲惨で、だからまた人生に希望を持つなんて怖くて出来なかった。でも勇気を持って生きさえすれば、きっと次の人生には希望が待っている。その決意を聞いた優治、「皆、行っちゃうんですか」とつぶやいたのを江里香が耳に止める。
「誰に話しかけてるの?」「最高の友達たちだよ」感激する幽霊さんたち。いやー、最後まできっちり踏んできたなあ。

まさに2005年しか出来ない、勢いとノリを感じさせながらも、パロディから生まれるオリジナリティで楽しませてくれたです。★★★☆☆


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