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「に」


2008年鑑賞作品

西の魔女が死んだ
2008年 115分 日本 カラー
監督:長崎俊一 脚本:矢沢由美/長崎俊一
撮影:渡部眞 音楽:トベタ・バジュン
出演:サチ・パーカー 高橋真悠 りょう 大森南朋 高橋克実 木村祐一


2008/7/23/水 劇場(銀座シネパトス)
私はあまりおばあちゃん、という思い出がないのね。
母方の祖母は、まだ私が幼い時に亡くなってしまったし。
父方の祖母は長生きで、先年大往生したけれど、でもやっぱり離れたところに暮らしていたから、いわゆるおばあちゃんから生活や人生のいろんなことを教わる機会がなかった。
そのことを、今まで特に思うこともなく過ごしてきた、と自分では思っていたんだけど、実は私、そういうのに憧れていたのかもしれないと思った。

おばあちゃんと過ごす、ひと夏。そこには両親もいないし、他の子供もいない。本当に、自分だけが大好きなおばあちゃんを独り占めにする夏。
人生のパーセンテージから見たらほんの一瞬に過ぎないほどの数日間なんだけど、でもきっと人生で一番強く印象に残ってて、愛しくて、ちょっとほろ苦い、大切な大切な時間。
しかもそのおばあちゃんが、本物の魔女だっていうんだから!?

といっても、別に魔法を使ってみせたりする訳じゃない。おばあちゃんが本当に魔女だった証しは、ハッキリと示されはしない。
だから夢のない大人になってしまった観客は、きっとおばあちゃんが孫に夢を与えるためにそんな風に言ったんだろうなどと思ってしまう。実際、そんなファンタジーが紛れ込んでしまったら、こんなに心に残る作品にはならなかっただろうし。
確かに、このおばあちゃんが本物の魔女であろうがそうでなかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。ただこのおばあちゃんは本当に大切なことを知っている。しかも沢山知っている。
だからまいはおばあちゃんが大好きだったのだもの。

でもホント、こんな設定におばあちゃんに対する理想や憧れが完璧なまでに詰まっているなんて、すっごく意外だった。だってフツーの日本人やってたらありえない。おばあちゃんがイギリス人だなんて。
演じるサチ・パーカー、何者?と思って、日本名がついていたから、日系かと思ったら、まったきアメリカ人。しかもシャーリー・マクレーンの娘!ビックリ!!!
しかしいくら両親共に親日家だからって、日本名って、と思ったら、シャーリーと仲の良かった小森のおばちゃまに命名されたというのもビックリ。いやあ……知らなかった。

だから、夏休みにおばあちゃんから教わる人生の何たるか、という日本の縁側のおばあちゃん的なイメージとは全然違う。
まるで赤毛のアンに出てくるような、すその長いスカートに大きなエプロンをしたおばあちゃんは、本当に西洋の絵本から抜け出してきたよう。同じ白髪でも、黒髪が白髪になるのと金髪が白髪になるのでは、色の明るさが全然違うんだもの。

中学の英語の教師として来日したおばあちゃんは、同僚の理科の先生だった夫と恋に落ちた。
劇中では大事に飾られた写真と、石を愛したちょっと変わり者っぽいエピソードがちょいちょい語られるだけなんだけど、このおばあちゃんが夫をどんなに愛していたか、夫もおばあちゃんをどんなに愛していたかが凄く感じられるのだから不思議である。
おばあちゃんは森の奥深くに、小さな一軒家を構えて、一人で住んでいる。かつてはここにまいの母も生まれ育ち、おばあちゃんの愛した夫も、大好きな石の収拾と研究に没頭していた。
そして今、孫であるまいがしばらくの間、おばあちゃんと一緒に暮らすことになったのだ。

まいはいわゆる不登校。まだ中学に入ってちょっとしか経っていないのに、「私はもう学校には行かない。あそこは私に苦痛を与える場所でしかないの」とキッパリと宣言する。
その理由を、後におばあちゃんに語る場面には、いやー、実によく判るなと思う。
新しいクラスになると、女子はまずいくつかのグループに分かれ、その中に入れないと、その後の生活が厳しくなると。
今までは入りたいグループの子にニッコリ笑いかけるとか努力をしたりもしたんだけど、今回はそれをやらなかったら一人になってしまったと。
以前仲が良かった子も、私と喋っていてもグループの子から呼ばれるとそっちに行かなけりゃいけないんだと。でもそれは仕方のないことなんだと……。

おばあちゃんに、そんな風に不登校になった理由を明かすまい。うっわ、なんかスッゲー判る!と思う。おばあちゃんもある程度はそういう日本の女の子の風土が判っているようで、大変ネと親身になって聞いてくれる。
でもまいがそんなことを説明したのは多分、初めてだったんだろうと思う。
少なくとも母親は知らなかった。突然学校には行かないと宣言した娘に戸惑い、「昔から扱いづらい子だった」とおばあちゃんへの電話で話していたのを、まいは聞いてしまった。
「扱いづらい子……」とまいは一人部屋でつぶやく。

でもね、だからといってこの母親が、そして単身赴任で離れている父親が、娘のことを判っていないかといえば、そんなことはないんだよね。
ウッカリ、扱いづらい子、なんて漏らしたのを聞かれちゃったのはマズかったけど、でも思春期まっさかりの子なんて、扱いやすい方が、おかしいんだもん。
でも、そんな母親の台詞を聞いてしまっては、キズつくのは当然な訳で。

昔から、まいはおばあちゃんが大好きだった。おばあちゃん、大好き、と言うと、決まっておばあちゃんは「I know」と囁いてくれた。
おばあちゃんの家を訪ねると、まいの頬を挟んで、「来ましたネ」と迎えてくれた。ここに来た理由なんて、全然聞かなかった。
だからまいは居心地よくいられた。ずっとここにいたいぐらいだった。おばあちゃんも、いつまでもいてくれたっていいのよ、と言ってくれた。
でも後に、まいは気づくのだ。学校に行かなくなった理由を聞かなかったのは、お母さんもお父さんも一緒だったと。
それは自分を疎ましがっているからだと、ちょっと思っていた部分があったのかもしれない。でもおばあちゃんも聞かなかった。そのことをふと聞いてみると、穏やかな笑顔でおばあちゃんは言ったのだ。
「それなりの理由があるからだと思っているから。みんなまいを信頼しているからですよ。」

本当にね、この物語には悪い人なんて、一人も出てこないのだ。
劇中ではね、まいが毛嫌いする近所の男がいたりはする。キム兄が演じるから、いかにも野卑で子供に厳しい男、という、思春期の女の子にとっては最も苦手なタイプの大人の男。
「学校休んでいいご身分だな」と言われたファーストインプレッションからサイアクで、ゴミ捨て場に大量のエロ本が無造作に捨てられているのも、中学生の女の子にとっては超マイナスポイント。
しかもおばあちゃんの鶏小屋を襲ったのが、彼、ゲンジさんの飼っている凶暴そうな犬だと思い込んでしまったまいは、どうしてもあの人を好きになれない、おばあちゃんは私よりあの男が大事なんだ!と叫んで、おばあちゃんにぶたれ、気まずいまま別れてしまうのだ。

と、いうのはまだまだ先の話。急ぎすぎた(爆)。ゲンジさんもね、人付き合いがイマイチ苦手なだけで、このおばあちゃんが親しく付き合っていたぐらいだから性根はイイ奴。壊れた鶏小屋をピカピカに作り上げたりする腕もいい。
そしておばあちゃんはその報酬もきちんと払う。馴れ合いの関係じゃないのがイイのね。
そして、のほほん系の郵便屋さんがまたイイ。演じているのは高橋克実だから更に癒される。
この森の中に届く郵便物を一手に引き受けているのを、誇りに思っている様子がありありと浮かぶ郵便屋さんは、だから自分の息子が後を継ぐと言ってくれていることに、手放しで喜んでいるのがカワイイ。

バイクが壊れて、おばあちゃんちで手作りのカリン酒をもらっていい気持ちになっている父親を迎えに来る、しっかり者の息子。しかし後に「サッカー選手になりたいって言い出したんですよ!」と心底悲嘆に暮れている郵便屋さんの悩みのほのぼの加減に、思わず微笑んでしまう。
それは、「いいご身分だな」と言われるような状態でここにいるまいと、照らし合わせられているからなのかもしれない。
まいは、まだやりたいことなんて見つからないし、こんな風に親と対等に話すことだって出来てないのだ。

いわゆる文明的なものは何もない。テレビもないし。でもちっとも退屈しない。それどころか毎日忙しい。
丘に群生しているワイルドストロベリー、それを摘んでのジャム作り、ハーブには毎日たっぷり水をやり、大きな桶の中で足で踏んで洗濯した真っ白なシーツは、ラベンダーの上に広げて干すと、ベッドに潜り込んだ時、お日様とラベンダーの匂いが一緒に鼻腔をくすぐるのだ。
早寝早起きを実行するために、慣れない時間にベッドに潜ったまいに、眠れるおまじないよと言って、枕もとにたまねぎを吊るしてくれるおばあちゃん。

ああ、なんか本当に憧れの、西洋のグランマの知恵袋みたい。いくつもの瓶に詰め分けられた、お砂糖たっぷりに煮詰めた甘酸っぱいワイルドストロベリージャムは、朝食の時間、お茶の時間、夜食にまで大活躍する、いくら食べても飽きない“おばあちゃんの味”だ。
ふとまいは、お母さんもジャムつくりを手伝ったの?と聞いてみる。すると、こんな風にワイルドストロベリーが群生したのは、夫が死んでからなのだとおばあちゃんは言った。
このジャムが大好きで、何にでもつけて食べて、しまいにはキュウリにまでつけて失敗しちゃったというまいのおじいちゃん。愛する夫が死んで、次のおばあちゃんの誕生日に、丘に突然、ワイルドストロベリーが群生していたというのだ。
その中で、嬉しくて、おばあちゃんは泣いたという。

その時にはまいの母親は家を離れていたのだろうと思うと、確かにこの母と娘には距離があるのかもしれないと思う。
決して、仲が悪い訳じゃない。生き方が違うだけで、お互い、愛している。でも、その生き方の違いが、世代がハッキリ違うせいもあるけれど、明確に浮かび上がる。
一度仕事を辞めて、夫の単身赴任先で家族三人で暮らす決心をするこの母親は、「大事なものの優先順位を考えた結果」と言った。それを聞きとがめておばあちゃんは、考えなければ判らないのかと返した。
彼女はやや尖った口調で、私はお母さんのようには出来ない。仕事を辞めるつもりはない、と言い返す。するとおばあちゃんは、そうね、私はオールドファッション過ぎるのかもしれない、と悄然とするのだ。
彼女は驚いて、そんなのお母さんらしくない、と言う。お母さんはいつも信念を貫いていたじゃない、と。
この時、おばあちゃんはゲンジさんのことで孫をぶってギクシャクしちゃってて、ちょっと落ち込んじゃったりしてたのだ。

このエピソードは、思ったよりも重要だったのかもしれない。孫のまいの目からは、おばあちゃんは常に完璧だったのだもの。
まだ揺れ動く思春期のまいがどんなに平静を保てないことが起こっても、ネガティブな気持ちを持つことがどんなに悲しいことかを客観的に示して、優しく孫を諭してた。
おばあちゃんの妹が予知能力や透視能力を持った“魔女”だということを聞かされ、そういう家系であることを知ったまいは大興奮し、私も頑張ったら魔女になれるかな、頑張ってトレーニングする!と宣言する。それに対しておばあちゃんがまず提示したのは、規則正しい生活。
自分を律することに大切さ、忍耐力を育む大変さを、まいは魔女修行として学んで行く。

確かにそれは、おばあちゃんからまいが心の内を見透かされたように、単純すぎてガッカリするようなもので、夢のない大人の観客の目からも、いかにも子供を道徳的に育てる手段のように思えて仕方なかったんだけど。そして、確かにまいは規則正しい生活が苦手ではあったんだけど。
でもこれが後に指導したおばあちゃん自身に帰ってくることで、確かにより重要な要素となるのが、皮肉のようにも見え、いや実に上手い部分なんである。

まいは確かに頑張って、規則正しい生活を送ってた。まいが、つい人のことを悪く言ったり、疑ったりしたことをたしなめられた時、反省し、落ち込んだまいに、おばあちゃんは優しく言ったものだ。「私はまいのような子供が生まれてきたくれたことを、本当に感謝しているんです」と。
でも、自分だけの植物を育てようと思ってたお気に入りの場所に、ゲンジさんが土を取りに入り込んでいたことに大ショックを受け、おばあちゃんに訴えるのだ。サンクチュアリに入り込んだ。許せない、あんな汚らしい男、絶対に好きになれない、と。

思わずおばあちゃんは、まいをぶってしまう。
孫以上に動揺したおばあちゃんは、それでも必死に平静を取り戻そうとして、夜食をふるまったりするんだけど、でも「おばあちゃんだって、動揺してたじゃない」と言われ、返す言葉がない。
ここは、確かに孫の目からは完璧な道徳者に映っていたおばあちゃんが、初めて揺れ動いた場面として、重要な部分なんだよね。
ゲンジさんが悪い人間じゃないってことを、孫娘のような女の子に判ってもらうには難しくて、それにはやっぱり人生の経験とかが必要で……でも多分、そのことを言い訳にして、おばあちゃんはその説明からは避けてたんだもん。
誤解があったのを知ったのは、ずっと後。二年後、おばあちゃんが亡くなった時。娘や孫娘よりも、ご近所さんとしてずっと助け合いあってきたゲンジさんのことを、真の意味でまいが理解する時に至って、なんである。

単身赴任先から、お父さんが訪ねてきた。学校に行っていない娘を心配して。おりゃ、ついに真の悪者が登場したかと思ったら、このお父さんも真実娘を心配していたし、妻の実家である森の中の家に愛着もあった。
特に、石の魅力を教えてくれた今は亡き義父の思い出を「僕はおじいちゃんが大好きだったんだよ」と、娘にしみじみと語る。
まいは、心の中ではもう決めているようだった。それでもお父さんが来た夜、おばあちゃんに相談した。
何でも自分で決めること、と魔女修行の鉄則を教え込まれていたまいは、「そう言いながら、おばあちゃんの言うことにいつも乗せられているみたい」と言っていたけれど、まいは自分で決めることが出来るようになってる。

なんか、思わず、隔世遺伝かしらなんて思う。魔女の資質がね。だってまいの母親はそういう感じはなかったし、おばあちゃんはまいにこそ熱心に魔女修行を施したんだもの。
父親は、まいが見知らぬ土地に引っ越して、両親と暮らすことを選択すると、手放しで喜んで、朝食の用意をしていた娘を後ろから抱き締める。うう、大森南朋がやるもんだから、萌え萌え。
もう、ほんっとに、悪者が一人も登場しないんだから!
でもその孫の台詞の瞬間、おばあちゃんは、手の動きが一瞬止まってしまった。

「そうよ、あの人は本物の魔女よ」そう、お母さんは言った。
それは、もはや子供だましのお伽噺として話すには、娘ももう分別のある年になってからである。
おばあちゃんが亡くなったという連絡を受けて、母娘が急ぎ向かったのだ。
娘が、ハンドルを握ったまま静かに涙を流している母親にハンカチを差し出して、母親におずおずと声をかけた時、返って来た返事だった。
タイムラグを始めとしたいろんなラグが設けられているから、この台詞にはすんごく真実味があるんだよね。

おばあちゃんは、娘であるまいの母親は、そういう能力に関心がないと言っていた。そして、おばあちゃん自身の能力については未知数だった。おばあちゃんは、そんな能力よりも、今、この時の生活を大事にしていたから。
でも、きっと娘には見えていたに違いない。具体的な現象もきっとあったに違いない。それが劇中では「何でもお見通し」ぐらいな、大人向けの描写に押さえられていたとしても。
だって、おばあちゃんは、まいとの約束を果たして、魂が身体から離れた瞬間を示してくれたんだもの!

これもまた、思春期の大事な通り道のひとつ。死の概念、死というものの未知なる事象への苦悩を、まいはおばあちゃんにぶつけたのだ。
それは、まいがひとりっ子だということも大きかったと思う。孤独、自分の立ち位置への不安。身近になくて、恐怖でしかない死という概念。
父親に聞いたら、それはただただ無なのだと言われた。もうただちに無になるのだと。
まいはそのことに、非常なる恐怖を覚えたのだ。ならば今、こうして考えている自分はどうなるのかって。
それに対しておばあちゃんは、「実は死んだことがないから」判らないと笑わせる。同じお布団の中で、死と孤独の恐怖に泣きじゃくるまいを抱き締めながら、おばあちゃんは教えてくれる。おばあちゃんが、信じていることを。

身体は借り物に過ぎないんだと。魂はその後、長い旅をするんだと。
それならなぜ、身体があるのかと聞くまいに、暑い日の木陰の涼しさや、ラベンダーの香りのシーツに包まれる幸せを感じませんか、とおばあちゃんは言う。それは、身体がなければ感じないこと。なんて、判りやすく、すっと心に入ってくる、生の喜びの論だろう。
それにおばあちゃんがいつもこんな風に、敬語で話してくれるのが、子供であるまいのことも、尊重されているように感じて嬉しいのだ。

身体は借り物、魂は生き続ける。もちろんそれは、持論に過ぎない。だって、「死んだことがない」んだから。でもおばあちゃんは、身体から魂が離れた時には、まいだけには教えてあげると約束した。
この場面はほんと、いろんな意味で印象的で。まずね、おばあちゃんが自分の死期を、大分早い段階で悟っていたという示唆が現われている部分ね。
魔女の資質として、見えているものがあるんだと、具体的なことは言わずとも、意味深な言い方をしたのは、このことだろう。
どこかの時点でおばあちゃんは人生を逆算して、よりよい終わり方をしようと思っていたのかと、でも孫との幕切れはひょっとしたら予想外で、でもそれでも、あの最後の約束を砦にしていたのかと。

そしてね、身体は借り物で魂は旅をする、っていうのが、仏教的な感じがしたのね。だから凄く意外で。そうでもない?キリスト教的な考えにもあるかなあ?
そして、二年後、死んでしまったおばあちゃんの元に急ぎ駆けつけ、穏やかな死に顔の前で一人泣き崩れる母親を残して台所に出たまいは、そこにおばあちゃんが約束を果たしてくれているのを見るのだ。

「ニシノマジョカラヒガシノマジョヘ 
タマシイダッシュツダイセイコウ」

そう、曇った窓ガラスに書かれていたのだ!

みるみる瞳に涙がたまるまい。「おばあちゃん、大好き!」あの別れの時、言えなかった言葉。すると、どこからか、あのおばあちゃんの優しい声が聞こえてくる。

「I know」

うっ……大号泣。


しかし、この原作が10数年も前からのベストセラーだってことが、不思議なぐらい。サチ・パーカーなくして語れない。まるで彼女に当て書きしたみたいだ。
美しい日本語、滋味溢れる人生観。
そして、号泣の余韻を引っ張るラストテーマ、手嶌葵の清らかな声がまた、涙を振り絞るのだ。★★★★☆


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