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屋敷女/A L’INTERIEUR
2007年 83分 フランス カラー
監督:ジュリアン・モーリー/アレクサンドル・バスティロ 脚本:アレクサンドル・バスティロ
撮影:ローラン・バレ 音楽:フランソワ・ウード
出演:ベアトリス・ダル/アリソン・パラディ/ナタリー・ルーセル/フランソワーズ=レジス・マルシャン/ニコラ・デュヴォルシェル/ルドヴィック・ベルシロー/エーマン・サイディ/エマニュエル・レンツィ
うう、思ったよりずっと、血の海だ……。
特に後半は容赦のない残酷描写なので、いくらツクリモノだと判っていても貧血起こしてぶっ倒れそうになってしまう。だ、だって妊婦の腹をかっさばいて、胎児を取り出すてんだもん。いやいやいや、これが帝王切開な訳ないって!(……)。
妊娠という、異常事態。それは神聖であるがゆえに、極限で180度裏返ってまがまがしいものにもなってしまう、そんな人間の想像力の恐怖。
そこには、女のあまりにも哀しすぎる妄執がうずまいていたのだ。理不尽にしても、あまりにも哀しすぎる……。
しかし、アレね。子供を失った女がそうした狂気に陥る物語って、昔から散見されるように思う。そういうのって当然男にはない訳だし。女のそういう妄執に対する一種のイメージって、ちょっとカンベンしてよと思わなくもないんだけど、でもまあ、現実問題として確かにあるわけだしなあ。
でもそれって、それがある女と、ほぼない男と、どっちがマトモというか、アリというか、幸せなのかしらとも思う。
なんかだって、やっぱりここに、男と女の決定的な違いがあるようにも思うしさ。
だってね、ここで加害者となる、お腹の中の子供を亡くした女にも、被害者となる、腹かっさばかれて殺される女にも、共にパートナーがいないのよ。
加害者の女は、最初からいなかった、と思われる。子供を失った事故に遭った時、彼女は運転しながら、ようやく子供がさずかった、私の子供……とつぶやいていた。それはただ一人で運転していたという感じではなく、最初から、彼女は自分の分身としての子供だけを望んでいたように感じられた。
そして被害者となったサラも、事故の時お腹に赤ちゃんがいた。彼女と赤ちゃんは無事だったけれども、隣に乗っていた愛する夫は死んでしまった。彼女はたった一人、子供を産んで育てようと決意していたのだ。
もう今日生まれるか、明日生まれるかというクリスマスの夜、その女はやってくるんである。あの忌まわしい事故の相手、死んだと聞いていた“屋敷女”が……。
でもさ、なんで死んだと聞かされていたのかなあ?だって、この女の方には、サラの情報は筒抜けだったわけでしょ?だから、そろそろ子供が生まれると踏んで、その子供は私の失った子供だ、私が育てるという妄執に駆られて、クリスマスの夜、サンタならぬ死神となった訳で。
でもね、なんか……実はこの女、やっぱり死んでいたんじゃないかとも思っちゃう訳。ホントに死神、っていうか、怨霊だったんじゃないかって。
だってそうでなきゃ、サラが相手の女は死んだと聞かされていた説明がつかない。待望の子供を失った悲しみが強くて、自分が死んだことを忘れちゃったんじゃないのかなあ?なんて、日本の幽霊話に近寄りすぎ?
被害者となるサラは、女カメラマンなんである。明日生まれるかってな状態でも、カメラを放さない。幸せそうな家族に向かってシャッターを切って、ため息ついたりしてる。
そんなサラを、母親や上司が心配しているんだけど、彼女の心には届かない。ていうか、こんな状態になった彼女を、どう扱っていいのか困惑している感じも、あるんである。
特に母親は、一体何の軋轢があるのか、娘からやけに避けられ、「一緒に幸せになりましょう」と娘に寄り添ってみても、冷たく無視されるばかりなのだ。母親との絆がちゃんとあれば、あんな目には合わなかったのかもしれないのに……。
サラは上司に、出産予定日である翌日迎えに来てくれるように頼んでいるし、彼を頼みにしているんだろうけれど、この上司とも何となく微妙である。
確かにこの上司は、サラが疎ましがるのも判るような、ウザい感じはある。カメラを構えるサラの前を、携帯電話で話しながら無遠慮に右往左往したり、なんかスケベっぽい下心がありそうな感じもするし。
それは単に、フランスの男は皆この程度に下心アリアリなもんなのかしらん?
クリスマスの夜は、救急車が出ないからネと医者から注意を促がされていたサラ(しかし、そんなんって、アリ?)、そのクリスマスの夜に、恐ろしい惨劇が起こるのだ。
見知らぬ女が、電話を貸してほしいと訪ねてきた。ダンナが寝ているからと断わったサラに、ダンナは死んだでしょう、サラ、とその女は囁いた。驚愕したサラは、警察に通報、しかしクリスマスの夜の警察は、通り一遍の見回りをしただけで、パトロールの者にも伝えておきますから、と言っただけで去ってしまう。
思えばこの時にもさ、ドアの覗きレンズから、女の姿は見えなかったじゃない?そしてサラが威嚇の意味も込めて向けたカメラにも、女の姿は影のようにしか映っていなくて、「これじゃ何も判りませんね」と警官にポイされちゃったぐらいなんだもの。
この後もサラは威嚇や相手の居場所を突き止めるためにカメラのフラッシュをたく場面が何度かあるものの、結局はそれが、彼女の身を助けることにはならない。
影のように映った女の姿を、上司のジャン=ピエールに解析してほしいと思って携帯にメッセージを残したものの、心配して駆けつけた彼は、この殺人鬼にアッサリ殺されてしまう。
だって、この女のことを、サラの母親だとカン違いするってんだもん。正直、このあたりは物語のツメとしてちょっと甘いような気も。
それにね、女の影や、カメラのフラッシュが象徴されるように、惨劇の場面になると、まあ確かに夜だけど、それにしてもって感じで、画面が暗くて暗くて全くもって見えないのさ。
いや、それは演出として効果的に使うのは全然、アリだと思う。というか、それこそホラーの使うべきワザ。見えない恐怖、どこに潜んでいるのか判らない恐怖、次に何が飛び出してくるのか判らない恐怖、っていうのはね。
でも本作はさ、その潜んでいる相手が飛び出してきても、まだ画面は暗くて、ギャーギャー叫んでても何をやってるのが全然判んなくて。まあとりあえず、刃物突き立てて、血が出てるんだろうな、みたいな……。
ホラーは白々しい光の恐ろしさも重要、ことに深夜のバスルームのそれとかは特にさ。それも若干は用いられているけれど、もうちょっと見せて(魅せて)ほしかったなあ。
だって、ベアトリス・ダル演じる狂気の女殺人鬼が、せっかく魅力的だったからさあ!私、彼女を久々に見て、思い出したよ。唇もそうだけど、その唇から見え隠れする大きな歯も印象的だったこと。
それが殺人鬼の役を得ると、エロからホラーに転化するのかって!たっぷりとした唇からこぼれる大きめの歯が、こんなに恐ろしく見えるなんて。
そして、まさに死神を思わせるすそを幅広に引きずった黒いワンピースドレス、しかもそんな姿で、実にアクティブに相手を追いつめるんだもの。
なんか、望月峯太郎の「座敷女」を思い出しちゃう。ひょっとしてこのタイトルは、それを日本の配給側の人が想起したからなのかなあ。
足でドアを蹴破るかってなぐらいに蹴りまくり、ハサミで相手の手をドアに釘づけにしちゃう(!!!)うっわ……数ある残酷シーンの中でも、ラストの腹かっさばくシーンの次点ぐらいにおぞ気をそそるシーン。しかもこのシーンは、蛍光灯の白々しさの下での数少ないシーンだったから余計に。
もはやここまで追い詰められてくると、こんな恐ろしいことをされても弱々しい悲鳴しか出てこないサラと、白々しい白い蛍光灯の明かりが、恐ろしさを増幅させるのだ。
こんなことになってしまったのは、援軍である上司のジャン=ピエールと母親が、この惨劇の犠牲者になってしまったから。しかも母親の方は、バスルームで震えていたサラが、ドアを叩いた母親を殺人鬼だと思って、決死の覚悟で首を刺し貫いて、殺してしまったのだ。
ショックの悲鳴を上げるサラ、そして迫りくる殺人鬼に、また閉じこもるしかなかった。
パトロールの警官が訪ねてくる。一度はこの女の演技で追い返されたものの、どうもヘンだと引き返してくる。しかしあっという間に警官二人が殺され、補導した少年と共に恋人に電話しながら待機していた警官が、戻ってくるのが遅い同僚を案じて、来てくれるんだけれども……。
この警官は一見、ヤワそうに見えながらも案外正義感が強く、隠れて震えていたサラを力強くサポートしてくれて、これは助かるかもしれないと思った。しかし一緒に連れて行った補導少年がとにかくビビリまくってて、足手まといだったのは気になるところではあったんだけれど……。
しかし結局、この警官と少年もこの女の餌食になってしまう。
追いつめられたサラは過呼吸に陥って、自らノドをついて呼吸を確保する(!!)というアラワザに出て、しかもその後、血の吹き出るノドをガムテでぐるぐる巻きにして(!!!)までも、殺人鬼に立ち向かうんだから、恐るべきパワーである。だって、あちこち斬り付けられたり、なんたってハサミで手をドアに釘づけにされたりしてるのに!
なんかこの女、不可解な行動にも出るのよ。動けないサラに優しげにキスをする。大丈夫よ、とでも言うように。
確かに……最初からこの女の目的は、お腹の中の赤ちゃんだけだったのだから、それを取り出しさえすれば大丈夫、という意味なのか、でもそれを手に持ったはさみで取り出そうとしているんだから、全然大丈夫じゃないって!
ライターをかざして顔を照らした女にスプレーを拭きつけ、顔中やけどを負わせて何とか窮地を脱したかに見えたサラ。しかし、最終的には陣痛が訪れてしまったことが、サラを地獄に突き落としてしまうのだ。
いや、その前にもう破水を迎えていた。その状態で殺人鬼とのアクションを交えていたんだから、いやー、大したもんである。もう産まれる、産まれてしまう!という段階になると、産むという本能に従うしかなくて、殺人鬼にのしかかられて、私が助けてあげる、なんてあり得ないことを言われても、もうただただ受け身になるしかないんである。
もはや破水しきってしまって、赤ちゃんが股から出てこないのに業を煮やした殺人鬼は、もともとそのつもりだった、ハサミで腹をかっさばいて、赤ちゃんを取り出すんである!!!
かっさばかれた腹からドクドクと溢れ出す血、も、もう正視出来ないって……。ペンキで塗りたくったようなほどになる、血で染まった顔。いや、それより何より、もはやうつろな目でそれを受け入れるしかないサラ。ここでエンドだなんて、その哀れな赤ちゃんは、この女の手で育てられるしかないの?ホントに!?
子宮の中の胎児のリアルなイメージが最初から最後まで、ことあるごとに挿入される。衝撃に血の混じった羊水の中で、苦しそうに泳ぐ赤ちゃん。確かにここには神聖というよりも、まがまがしくグロテスクな印象しかない。そう思ってしまう人間の恐ろしさ。
ふっと、ロマン・ポランスキーの妻のあの事件を思い出してしまった。
ところで、サラ役は、ヴァネッサ・パラディの妹、へえー。★★★☆☆
しかし劇中、時には男たちに足手まとい扱いされながらも実際一番暴れまくるのは彼女で、柔道と合気道の遣い手というキャラを差し引いても、充分に無鉄砲なおてんばさんなのがチャーミング。
しかも彼女にはフランスに行って柔道の指導者になるという夢があり、なんでフランスなのとも思うけど、彼女のパリジェンヌにも通じるようなバタ臭い顔とちょいと聞かせるフランス語の小粋さ、しかも現代、フランスで確かに柔道が強いことを考えると、ナカナカ上手い設定だったなあ、などと思うんである。
まあ、つーか、話自体はムチャクチャなんだけど。いやー、でもこれぞ日活アクションってヤツかなあ。そういうの、案外私、観る機会なかったかも。
改めて思い返してみるとかなり血なまぐさい場面もあり、容赦ないんだけど、物語のテンポやキャストの独特の軽さがそうは感じさせないのだ。
ひとことで言ってしまえば、贋札に関わる男たちの駆け引きの話でね。
まず透かし入りの和紙が盗まれる訳。その話を聞きつけて集ったのはいずれもブン屋稼業の三人。週刊犯罪(すげー雑誌名だな……)の編集長である計算尺の哲こと沖田哲三と、ガラスのジョーこと近藤錠次、そしてダンプの健こと芹沢健の三人である。
それぞれに名前の由来は、哲は何でも成功の確率で動くしっかり者(というよりチャッカリ者か)。ジョーはガラスをひっかく音が何よりキライで、どんなに有利にコトを運んでいてもその一点で台無しにしてしまう。そして健はその名のとおりトラックの運転手、ダンプで敵地に突っ込み、人質を吐かせるのに、荷台の間に圧死させるぞと脅したり、なんか若干マニアック(笑)。
その中でも目を引くのは、やっぱり若い頃は桑田圭祐に激似だと毎回思う哲役の長門裕之。
仕立てのいいスーツにハットをあみだにかぶり、片足が不自由で杖をついているのさえ妙に色っぽく映る彼のダンディさには、このムチャクチャな物語の中の一服の清涼剤かと思われるぐらいなんである。
そもそもその登場である冒頭、自宅でポーカー賭博を開いているんだけど、そのトランプが拳銃をモティーフにしてるってのがまずカッコイイ。
「確率で、これ以降は下降線だって出てるんだ」とスッと勝負を降りるのが、ただ単に勝ち逃げじゃないスマートさがあってしびれる。
しかもね、彼がずっと足が悪いと見せていたのが、仲間にその弱点をつかれて出し抜かれた時だってあったのに、クライマックス、絶体絶命の場面で、実はそれがウソで、いつも持ち歩いている杖が、折りたたみ式のマシンガンであり、引きずっていた足にマシンガンの弾を仕込んであったと知れるんである。
オイー!カッコ良すぎだろ!それって、ここが人生最大の山場であるってことを常に意識して生きてきたってことでさ、そういう一世一代ってのも、しびれるんだよなあ!
しかし恐らくメインであり、この人が主人公であるっつったら、ガラスのジョーなんだろうなあ。彼がヒロインであるとも子(浅丘ルリ子)と唯一関わりがあるわけだしさ。
とも子は、和紙を強奪したグループがカクレミノにしている会社の電話番で、会社といえどもそこは電話番である彼女しかいなくって、つまり、ヤバイ連絡の引き継ぎ役なのね。
彼女自身は、そんなこととは露も知らない。ただ紹介されたバイトだってことなだけで、住みこみだから家賃タダで、フランスに行く資金を手っ取り早く稼げるってことだけだった。
そこに、敵地を探り当てたガラスのジョーが乗り込んできて、ボスからの電話に勝手に出てとも子をクビに追い込んでしまうことから、彼女の参戦が決定するんである。
こおんなカワイイ女の子に、このヤロー共のだあれも最後の最後まで懸想のひとつも示さないっつーのもねえ。
そりゃあ彼女はトンでもないおてんば娘(って、死語だわね)で、中盤、この話の命である和紙を積んだトラックを持ち出したりして、そのドライブの途中でエンストは起こすわ、ケンカを吹っかけてきた運ちゃんと路上柔道をやらかすわで、もうヤロー共は生きた心地もしない訳だけど。
ああでも、これってある意味SM的趣向かも!?じゃじゃ馬娘(ってのも、死語だな)にホンロウされたいっていう、都会男の屈折が良く出ている?
いやいやしかし、このメインの三人男+一人女よりも、むしろこの人こそが大メインだったかもしれない。いや、そうに違いない!
私、ひょっとしたら初めてマトモに観たかもしれない、あの伝説の左卜全。いや、そんなことない、黒澤作品とかで観ている筈なのだが、ううむ。
ズビズバァは聴いたことあれど、それぐらいの知識しかなかった、それだけに胸のうちでイメージが膨らむままだった伝説の怪人は、実際マトモに目の当たりにしても、やはり怪人だったんである。
彼は、唯一無二の腕を持つ贋札職人、坂本剛太名人。彼はにせさつ、とかがんさつ、とは言わず、贋幣(がんぺい)という言い方をするのが、その独特の響きが、すっごいプライドを感じさせてシビれる一方、トンでもねーエロジジイで、仕事をするのは雑多でエロいところがいい、とか言いやがるんである。
当然、集中できる静かなところと思っていたワルいヤツら(和紙を強奪したヤクザたちね)は困惑しながらも、彼らが経営してるアカプルコなるキャバレーの、踊り子が踊っているのを透明アクリル張りの床を見上げて仕事できる地下室を用意する。
大いに股を広げまくって床に股間と太ももを押し付けながら、エロエロアクロバットダンスを披露するダンサーを時おり見上げながらニンマリし、せっせと仕事に励む左卜全、あ、怪しすぎる(笑)。
しかもね、名人の奥さんってーのがまた、効いてるのだ。彼よりも先に登場して、ジイさんは今香港に行ってますヨとうるさそうに電話に対応してる。
しきりにかかってくる電話は当然、和紙が盗まれたことで、それにはこの名人が関わってくるに違いないという黒い目論見が方々で起こっているからなんだけど、それを知ってか知らずか、いや、当然、知っているに違いないんだけど、うるさげに対応している時点で、もうごうつくババアだってのがアリアリの、この強烈な個性の武智豊子の圧倒的さ!
ダンナの西部劇趣味につきあって、オモチャの拳銃で死んだフリしている場面、笑った(つーか、このシチュエイション自体が(笑))
しかし更に爆笑なのは、そこに乗り込んできた、坂本名人に仕事をさせたいヤクザ連中と、そのヤクザ連中につけこんで金を巻き上げたい哲やジョーたちとがハチあわせしたトコ。
ヤクザ連中が持っていた銃に「これはトカレフじゃないかい!?」と興奮するバーさん、おいおいおい、あんたこそガンマニアじゃないのさ(笑)。
最終的に坂本名人が仕事を再開するんだけど、その間にもジョーと哲の間で坂本名人の奪い合いが発生したり、先述したようにとも子が和紙を強奪したり、健がキャバレーに突っ込んで店をメチャクチャにしたり、まあ色々すったもんだある訳。
しかし当然、ヤクザどもは哲たちをそのままにしておくつもりはない。彼らが坂本名人をその気にさせたことはあくまで利用しただけで(ちなみに、坂本名人はスンゴいストリップに連れて行くことを(笑)、バーさんには多額のリベートを支払うことを条件に(笑笑))、最初から四人を消すつもりでいたのだ。
勿論彼らもそのことは予測していたから、最初から応戦体勢を整えていたんだけど、あえなく縛り上げられて地下室に放り込まれ、アウシュビッツよろしくガスを送り込まれるハメに。
しかしさ、ここらへんが日活アクションだから、そんな事態になっても、ちっとも悲壮感が漂わないのがスゴくて。
この事態に悪態をつきながらも、っつーか、悪態をつく余裕があるんであって、口では絶望的だとか言いながら、絶対なんとかなると思っている雰囲気があるんだよね。実際、なんとかなっちゃうしさ(笑)。
とも子がナイフをジーンズのポケットに隠してて(しかしそれを見逃すヤクザ連中もどうかと思うが……)、縛り上げられている状態からは脱出し、身の自由は確保。
鍵穴から流れ込んでくるガスを足の指で抑え、脱いだ靴下はガスより臭い、なんてざれ事をかましつつ、錠破りが得意なジョー(まんまだ……)がカギを開け放つ。
その後は、エレベーターの中と外、更にハコの外のワイヤーで上げ下げする空間までも使った、劇中一番の凄惨なアクション!
とも子はあまりの凄惨さにショックを受けて、ゲロゲロしちゃうし(爆)。お気楽そうに見えるエンタメなのに、案外容赦ないのだ。
だけど、その後のオチは実に、日本のプログラムピクチュアの、ナンセンスな、しかし粋なオチって感じで、後味がイイんである。
ヤクザたちを、全滅させちゃったじゃない(それもスゴイっつーか……相手が悪の組織で正当防衛っつったって、ある程度罪に問われるよな……)。だから手つかずの贋札がそのまま手に入っちゃったんだよね。
一瞬狂喜したメンメンだけど、あのひと筋縄では行かない坂本名人が、その贋札にトンでもない仕掛けをしていたことを知って、ボーゼンとする。それは、見る角度によって、肖像画のヒゲが、ちょいと上にハネあがるという仕掛け。
これじゃ国内で使うのはムリだと意気消沈しかけたんだけど、もともとこれは台湾(香港だったかな)の大物にドル札と交換することになっててね、もう、渡しちゃえば判んないと。
少なくとも上の一段の束の、一番上だけ本物を乗せちゃえば何とかなるっつって、その分は自腹で負担して、大一番に臨む訳。
この場面で、ニセのサイレンを流すのが遅れたとも子に一瞬、焦ったんだけど、ホンモノのサイレン、つまり警察の一団が来て絶体絶命。
警察になんでバレたのか、更にそこから彼らがどうやって逃げおおせたのかいきなり飛んじゃうから謎なんだけど(坂本名人が手配したのかなあ)、無事大量のドル札を手にした彼らは、坂本名人夫妻と祝盃を交わす。
坂本名人は、カネ自体には頓着のないお方(エロには頓着あるけど(爆))。自分の“作品”が大金で“評価”されたことにご満悦なんだけど、その評価の値となったドル札を見せてほしいと手にとった彼は、いきなり笑い出す。
あらららら、ひょっとして、同じ手を使われた?一番上だけがホンモノだった?と思ったら……それよりヒドかった。
「これは、ワシが作ったドル札じゃ。ワシントンをこの角度から見てみい」
紙幣を視線の先に水平にして、角度を変えて見たメンメン、あっ!と声をあげたまま、後が続かない。
早く、早くネタを見せてよ、とじれた観客に披露されたのは、角度を変えるとウインクして、更にペロリと出した舌が真っ赤に染まってるジョージ・ワシントン!
と、見て来ると、あーあ、結局は、誰よりも何よりも、左卜全にさらわれちゃったってワケじゃん、などと思うんである。怪人、恐るべし。
しかしこの、人を食ったタイトルが最初と最後に大きく宣誓され、しかしその最後にはジョージ・ワシントンの舌を出した肖像画に合わせて「NO!!」と一喝されるのが、また粋でね!★★★☆☆
この作品にどう向き合えばいいのか、悩んでいる。
このことは本当に起こっていること。でも、ドキュメンタリーじゃない、劇映画。
本当に起こっていること、でも原作は小説。綿密な取材を重ねているとしても。
この映画の惹句のように、真実、事実、現実という意味を様々に考えてしまう。
ひとつ大きく言えることは、この映画は、この映画に関しては、役者の演技がどうこうというのが、まるで意味をなさないということだ。
それは役者たちが、この役を演じたいとか、上手い演技をしようとかじゃなくて、この作品に関わる意味を感じて出演しているんであろうことがスクリーンのこちら側から見ても、ひしひしと感じることはそうなんだけれど。
でもそれ以上に、スクリーンの中の役者である彼らが、やはり役者以上の何ものでもないことを感じざるを得ないこともある。
この凄絶すぎる現実に、役者というスタンスでは本当の意味では切り込んでいけないのか。
そしてそれは、その凄絶な運命にさらされている子供たちにしてもそうなのだ。
無論、ここで演じている子供たちは、みんな演者であって、そんな目に合っている訳ではない。
その地にいるのだから、なにがしかのことを見聞きはしているのかもしれないけれど、でもやはり違うのだ。
誤解を恐れずに言えば、この演者である子供たちの表情には、物足りなさを感じずにはいられなかった。だって彼らは、本当にそんな悲惨な経験をした子達じゃないんだもの。
でもそう思うってことは、そんな子たちを見たいと思っているのだ。そんな自分に、戦慄する。
想像力を働かせて、ヒドイ目にあわせているのは私たち世界の大人なのだと必死に自分を説き伏せようとしても、その気持ちが止まらないのだ。
虐待描写もスクリーンの外に見切れさせ、観客の想像力にゆだねるという大人の対応をしているこの映画が、どこまでの意味を持つのかとか、どこまでのことを伝えられるのかとか考えてしまう。
それならば、全てを頭で考えさせる原作の存在を超えられないんじゃないかと。社会派映画として勝負する意味を考えてしまうのだ。
ただ、この映画がそうした方向性で作られたことに対して、当初は映画化に懐疑的だったアドバイザーの方が言った言葉は、非常に頷けるものはあった。
センセーショナルにすればするほど、それを続けなければ関心は薄れ、更に後続の犯罪を生むのだと。
ニュースやドキュメンタリーが、時にカメラのこちら側の奢った気持ちが現われて過剰に刺激的になることは、確かに苦々しく、間違っていることだと思ってきた。
それは、真実をとらえていると酔いながら、結局は刺激的に見える表面だけをなぞっているに過ぎないのだと。
その内面に迫るために、この映画は演者というものを介在させて、子供の心に迫ったのだ、そうは思う。
そのアドバイザーが語っているように、被害者を無垢な、非力な存在として扱うと、途端にこの問題を糾弾する力を失って、ただのカワイソウな子供たちの物語になってしまうのだろう。
でも、普通の、生き生きと生きていく力のある子供たちが、こんな悲運の運命にさらされた時の、そのギャップを、そうしたいくつもの枷に縛られた時、どこまで描出出来ているのだろうと、思ってしまうのだ。
それとも、子供たちの物語だからと、そこにばかりこだわってしまうのが、そもそも間違っているのかもしれない。
むしろこれは、大人の問題を扱っているのだと。
その問題をあぶり出しているのが、犠牲者となっている子供たちなのだと思えば、このもどかしい物足りなさも、解決出来るのかもしれないと思う。
いや、単純に大人と言うことも出来ない。子供たちを大人の性の欲望に供するためにつれてくる仲介人も、過去にそのような目に合っている。彼の頭の中で、幼い頃のおぞましい記憶が何度もスパークし、彼は物陰で嘔吐を繰り返す。
一体、真の悪はどこにあるのか。
そう思ってみれば、“役者”たちはその中で必死に闘っている。でもそれは、何のためになのか、誰のためになのか。
劇中、この凄惨な問題に立ち向かう三人の日本人たちは、子供たちを救いたいと願い、必死に運命に抗い、闘いながらも、あまりにも非力で無力なのだ。
特に、そのうちの一人、NGOで活動する若い女性である音羽恵子は、使命感に溢れているからこそ、その非力、無力がいたたまれない。
生きたまま臓器を抜かれるという、言語道断の臓器売買に憤って、日本の新聞社の取材に同行した彼女は、その手術を子供に受けさせるために大金を支払った金持ちの両親にかみつき、取材も何も、台無しにしてしまう。
彼女の言う「お金で命を買うんですか。そんなことが許されると思っているんですか」という言葉は、その通りのことを言ってはいても、なんだか妙に借り物で、現実の悲惨さを逆に伝えなくなってて、彼女が憤れば憤るほど、そのギャップというか、虚無感を強くしてしまう。
そして当然、その両親は貝のように心を閉ざしてしまうのだ。
それまで根回しを行なってきた新聞記者は腹立ちまぎれに、あざけるように言う。「あんた、NGOやってんの、自分探しのためとかなんでしょ」彼女はキッと怒りの目を向けながらも、それに対して何の反論も出来ない。
そして、そのNGOに対して、地元のボランティアとして協力していた青年が、実はそれが仮面で「NGOだらけで、うっとうしいんだよね」と突然牙をむくという、あまりにいたたまれない場面さえ出てくる。
しかもそれがクライマックスなのだ。それは……本当に、ついこの間の、真摯なNGO職員が無残に殺されてしまった事件を思い起こさせるじゃないか。
私は何もやっていない、何も出来ないお気楽者だから、何を言う資格さえもないけれど、感謝されていると思うこと自体、甘いのか。
いや、彼らが感謝されたいから活動しているなんて、そんな甘っちょろい心じゃないことぐらい判ってる。判っているなんてことも言うべきじゃないのかもしれないけど。
でも、そういうことなのだ。この映画が示しているのだとすれば、子供の問題よりも、そうした大人の問題なのだ。
ここで彼らは一応は、一定の結果は出す。ひとつの売春宿は潰した。子供たちを救い出し、客や経営者を逮捕した。
でも、それは無数にある中のひとつにしか過ぎないし、そこまで追いつめられたのは、中に知り合いの子供がいたからなのだ。
エイズにかかったために、黒いゴミ袋に入れられ、ごみ収集車に打ち捨てられた少女、アランヤー。
彼女が助かったのは、音羽が働く社会福祉センター、「愛あふれる家」で読み書きを習っていたからだった。その覚えた文字で、売春宿から決死の覚悟で手紙を出した。
そして音羽は、臓器売買の情報を探しに訪ねてきた新聞記者、南部によって、生きたまま臓器を売られる(つまり殺される)子供たちのことを知り憤って、先述のような行動に出る訳だけど、それも、その目の前の、もう、すぐ手術が行われて日本の裕福な一人の子供のために死んでしまうタイの子供を救いたいと思うからなのだ。
ここでの、音羽と南部を始めとした新聞記者たちとの亀裂は、この問題の根幹で、大きな問題を明確に示している。
目の前の子供たちを助けたいというもっともな感情と、それでは何も変わらないという理性。
この映画が大きな使命感を持って作られていながらも、どこかに物足りなさを感じるのは、結局はこの部分を描きながらも、描ききれなかったからなのかもしれない。
どちらかに肩入れするという問題ではないけれど、カネのために死んで行く子供の顔を見、脳裏に焼き付けるしか出来ないという決着に、やるせなさよりは、歯がゆさばかりを感じるのだもの。もう今や、ペンはちっとも剣よりも強くなんかないのだと、思い知らされる。
あるいは、その死に行く子供が、その運命がどんなに過酷なものなのかということを、それこそ暴力的、残酷的描写は排除しているから、何も知らずに、あるいは予感しているのかもしれないような目線をスローモーションで投げかけるのが、妙にポエティックなものを感じて。
これで、こんな感覚だけを残していいのか、センセーショナルは確かに悪だけど、どこかに訴えかけるクレシェンドは必要なんじゃないかと思ってしまう。
だって、それで結局、そうした決断を下して、女の子の姿をその目に焼き付けた南部は、自責の念に耐え切れずに自ら命を絶ってしまう訳でしょ。
しかも、その場面すら、抑制されているのだ。天井に括りつけられたヒモがピンと伸びた部分が接写され、訪ねてきた、その女の子をカメラに収めた若いカメラマンの与田が目をむく表情でそうと知れるだけ。
……なんか、ここまで抑制されると、逆に緩慢な印象になってしまう気がする。子供たちが虐待される描写は確かに悪趣味だし、それを想像に任せる抑制は正解だと思うけど、そんな子供たちよりも大人の方が屈してしまって自ら命を絶つのならば、それは見せるべきだと思うのだ。大人に陵辱された子供たちのためにも。
たった一つ、子供が死に行く、目を背けたくなるシーンがある。エイズにおかされ、ゴミ袋に入れて捨てられた少女が、ゴミ捨て場から必死にはいずって人里までたどりつく。その場所が彼女の故郷なのか、まるで関係ないところなのか、それすら判らない。彼女にとりあえず食べ物を与える村人。
しかし次のカットでは、干からびて死んだ彼女に無数のアリがたかっている。しゃがみこんで慟哭している女性、その少女が横たわっていた小さな木組みの小屋に火がかけられる。まるで最初から、そのための場所だったかのように。そう、まるでそれが……日常的に行なわれていることのように。
音羽が属するNGOが、それまでは貧しい子供たちに読み書きを教える小さな活動をしていたのが、優秀な生徒だったアランヤーが売春宿に売られたことで、運命が変わるんである。
彼女を救うために動いたために、闇組織に目をつけられて協力者が殺されてしまう。それでも音羽は踏ん張り、エイズにかかったアランヤーが捨てられそうになるところを決死で救いだす。叫び声をあげ、ゴミ収集車を追いかけ、無我夢中で乗り込んでゴミ袋を破ってアランヤーを抱き締める。ここはひとつのドラマチックな場面になっている。
自分は穢れてしまった、とベッドの上で悄然とするアランヤーに、音羽が優しくキスする場面は、この映画の中での数少ない心癒されるところだけど、でも現実があまりに残酷なために、癒される筈の場面が、何かワザとらしく感じてしまうのが、そんな風に感じてしまう自分が、哀しい。
彼らは民衆を味方につけようと考えて、ビラを配って集会を開く。多くの、子供を持つ大人たちが集結してくれる。成功したかに見えたその集会に、味方だった筈のボランティアの青年が、本当は密通者だったことが明らかになるのだ。
善なる心が悪なる心より、単純にエネルギーで負けてしまう悔しさは、どうすればいいのか。善なる心は、結局は幸福であったり、余裕があったりするからこそ生まれる、甘く弱い者なのだと突きつけられたら、一体どうやって、この事態を変えられるのだ。
こうなると、病に冒された我が子を救いたいと思う切実な筈の思いさえ、それはカネがあるから出来るんだろうという気持ちを持ててしまうことに戦慄するのだ。
そう、“持てて”しまう。本当なら、葛藤すべき場面。自分の子供を救うために、他の子供の命が犠牲になることに、苦しまずにいられるのか。いや、親は一生その事実に苦しむだろうと。
でもその苦しみを、自分の子供には知らせず、真実を知らせず、ただ、「もともと不幸にも死んでしまったために、自分が幸運にも生かされた」子供に対する感謝だけを伝えて。
普通なら、この真実が隠されたシチュエイションに単純に感動するのだろう。実際、そんな“ニュース”や“ドキュメンタリー”は腐るほど世の中に流出されてる。
病に冒された、愛する子供のために、奔走する親たちの“ニュース”や“ドキュメンタリー”に、今まで何度も泣かされてきた。
感動のハッピーエンドの裏側に、こんな事実があったかもしれないと突きつけられてしまったら、一体これからどうすればいいのか。
病気の自分の子供のためならなりふり構わず、どんな手段も講じる両親の姿は、“通常”ならば、受け入れられただろう。
でも、この中でどんなに、このベテラン俳優である佐藤浩市と鈴木砂羽が鬼気迫る演技を披露しても、やっぱりダメなのだ。そこに存在する子に対する親の愛は……お金があるからこそ、成立するのだもの。
お金がなければ、親は子供を売春宿にも売るし、生きたまま臓器売買もさせる。つまり、自分たちが生きるために、子供の命を売ることは、許容範囲になってしまう世界なのだ。
それを、どうして、お金がある私たちが責められるのか。
劇中ではそれを、直接には責めていない。ある意味、ちょっと不自然なぐらいに避けている。それこそ通常の物語なら、カネのために愛する子供を売り飛ばす親こそが責められる筈なのだろう。
でも、ここではそれはない。なぜなら、この映画を作っているのが裕福な日本人だからなのだ。で、責めるのが、そんな“カワイソウな”タイの子供たちの命を犠牲にする日本人であり、「タイの子供の命が奪われてもいいんですか!」とその当の日本人の、良識ある女の子が吠えても、その二重三重の枷がジャマして、なんだかボヤけてしまうのだ。
スタンスは決して間違っていないけれど、立場が立場だけに、及び腰であることは否めない。そのせいもあって、その“良識ある女の子”が吠える言葉は、「タイの子供の命が奪われる」とか、なんかそんな、現実の残酷さを即座に想像させにくい、道徳的な、間接的な言葉で。
そりゃ、自分の子供が第一なこの両親の、彼らの中にある“自分たちがすべてを飲み込めば”いう、本当の意味を判っているようで見ないで逃げている気持ちを曲げさせることなんて、出来やしないのだ。
このあたりは本当、シンラツで。音羽の真摯な気持ちは判るし、やっぱりまだ若いしということで、そんな先走る若い気持ちをベテラン記者にあしらわれるし、なんだけど、でも、結局は音羽もそういう言葉を知っている、咄嗟に出る、ってぐらいの教育を受けた女の子で……。
むしろね、そういう知性のベールをかぶった言葉って、全ッ然、リアルを伝えないんだよね。命を奪われる、だなんて、実際に生きたままメスを入れられ、脈打つ心臓を取り出される子供を思ったら、生ぬるすぎる。
それは売春宿にいる子供たちに関してもそうで……私がこの作品に関して、その手法に納得しつつもどうしても歯がゆさを感じたのは、そういう部分なんだよね……。
残酷を見せたい訳じゃないのだ。でも……っていう。でも一方で残酷描写に対する人間の興味と、付随するエスカレート、偏見があって……本当に難しくて。
でも一番憂うべきことは、そんなことを悩むことになった、今のこのどうしようもないヒドい世界に対してなのだ。
でも、音羽が様々にヒドい現実を目の当たりにしても、「逃げたくない」とこの地に留まったのは、女の強さかも知れない。
なんだかんだ言いつつ、ガチな現場には結局居合わせてはいない南部が首を括ってしまったのは、男の弱さ?
いや、最後の最後、与田が彼の部屋を片付けている時に見つけたのだ。壁一面に貼られた、幼児性愛者の記事のスクラップ。
同時に何度も挿入される、南部が少年の手を引いて、モーテルみたいな通路を歩いているシーン。
これは、どういう意味なの?彼がそんな、手引きをしていたと言うこと?
それともまさか、南部自身が、あの仲介者の青年と同じような過去を持っていたとか……。
などと思っていたら、「南部は小児性愛者ですよね」と教えて頂いた。そう言われればそうだ……こういう表現で気付かないところが私のダメなとこだ……。
少年は、「手を離してよ」と、南部に言った……。
タイは楽園だと言って、長期滞在していた日本人も、殺されてしまった事件さえ、頭をよぎった。
それこそ、全然関係ないのに。
でもつまり、楽園なんてどこにもないのか。★★★☆☆