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「こ」


2009年鑑賞作品

GOTH
2008年 96分 日本 カラー
監督:高橋玄 脚本:高橋玄
撮影:釘宮慎治 音楽:村上純
出演:本郷奏多 高梨臨 松尾敏伸 柳生みゆ 山中聡 鳥肌実 夏生ゆうな 中田圭 長塚圭史


2009/1/19/月 劇場(渋谷シアターTSUTAYA)
乙一というのも、最近映画原作作家としてよく聞く名前。若干、いつもオチや仕込みが甘いような気がしないでもないけど(爆)、こういう、いかにも映画向きな題材を提供してくれる人というのはいそうでいないので、結構足を運んでしまう。
今回は監督も演者も全く知らない人なので、しかもいつもここでかかる作品には、殆んどアタリのない旧Q−AXなので(それにしても、最近なんでこんなに劇場名が変わるの。渋谷周辺軒並み。)更に若干の躊躇は感じたのだけれど……。

右手を切り落とした女性の死体が、塩化カリウムによってまるで生きているかのように保存され、美しく飾られた状態で放置される連続殺人事件の謎を、神山樹という男の子と森野夜という女の子が追って行く。
うーーーん。こういう世界観は割と好きなのだが。いわゆる死体趣味、残酷を耽美として鑑賞するという感覚っていうのは、恐らく……誰しもの心に少なからず存在していると思う。
そりゃまあ、そんなことは大っぴらには口に出来ないけど、どこか怖いもの見たさという単純な気持ちもあるし、死というものが神や天国とつながる、どこか聖性を帯びている感覚も、人を惹きつけるものだと思う。日本だって、死んだら誰もがホトケになるわけだしさ……。
そして、若く美しい時に死んでしまう時に付随する鮮やかな血や、血の気の失った白蝋のような肌も、そんな禁断の魅力を提供しているし。

眠れる森の美女や、一時的に死んでしまった白雪姫が美しく魅力的なのは、それが死体を模しているからなのではないかと思うことがある。
彼女が王子にキスされて目覚めるのは決してハッピーエンドではないように思うのは……最上の美しさのまま封じ込められていた時が、強引に動かされ、あとはただただ老醜へと突っ走るからなのだ。なーんて、そんな美とも縁がなく、しわくちゃのババアになるまで長生きしたいと思っている私が言うことでもないのだが(爆)。
ただ、この作品を予告編で見た時、死体を美しく飾ること、恐らく犯人は彼女たちを美しくしてあげたいという一念で殺し、飾りあげていること、というのが、そんな心の中に押し隠していた感情にふっと火をつけてしまったのだ。

この事件を解いていく少年、樹が、そんな気持ちは誰にも理解できないだろう、としたり顔で言うと、共に行動する美少女、夜に、「あなたには犯人の心が理解できるみたいね」と返される。
でも恐らく……言えないだけで、皆どこかにそんな危険な気持ちは持っているんじゃないかと思うし、だからこそ、彼が、自分は他の人間と違ってそういうアーティスティックな感覚が理解出来る人間だ、みたいな顔してるのが、ちょっと自信過剰に思えたんだよね。

確かにこの主人公、神山樹は自信過剰に違いない。それこそが、彼の魅力であるに違いない。家族や学校の前ではフツーの愛想のいい息子や兄や同級生であり、という顔を取り繕っているのに、普段は冷徹な顔を見せる。それをただ一人、夜だけが暴くんである。「その表情の作り方、教えてよ」と。
だから、樹と夜は似た者同士であるに違いない。ただ夜が世間向きのキャラをわざわざ作っていないだけで。
しかし劇中、夜は殺された女の子になりすまして、いわゆる世間向きの女の子になる。その時、本当に、いきなり“普通”になるのだ。確かにニコニコと可愛いバージョンは魅力的だけれど、こんな女の子、その辺にいくらでもいる、みたいな。
全く笑わない、黒髪がうっそうと覆っている、夏なのに厚手のタイツに冬服を着ている(のはよく判らなかったが……)彼女の方が、ゾクゾクするほど美しかったのは、それこそ、死体の美しさへの希求を示していたのかもしれない。

そうなの、この夜を演じる高梨臨はまだいいんだけど……でも彼女も決して上手くはなくて結構ハラハラするんだけど、それでもある意味素直に、陰のある夜という少女を演じているからなかなかに魅力的ではある。
だけど、樹役の本郷奏多君がね……。彼、ちょっと微妙なんだよなあ。この役って、ただウラオモテがあるとか、クールに演じればいいとか、そういうんじゃないと思う。
表の顔の、フツーの少年は、まあいいんだけど、全編キメ続けるクールで残酷な目線を持つ樹に彼は……なんかちょっとハズかしいんだよね、見てて。思いっきり作りこんでキメキメなのが丸わかりなんだもん。しかも彼、美少年というにも微妙だしさ(爆)。

やはりこの役は、圧倒的な美少年、見ていて背筋が寒くなるような美少年にやってほしかったと思う。まあそういうタイプの美少年が今の日本の若い俳優にいるかどうかは……清涼系、カワイイ系の美少年は結構いるけどさ……。
うーん、そうだな、例えば、松ケンの顔がもっと完璧に整ってて(ちょっと語弊のある言い方だが(爆)言っとくけど、松ケンは大好きだからね!)、この年ぐらいに若かったら、完璧だったなー、と思う。
作ってる、と演技、は紙一重かもしれないんだけど……どう言っていいのか難しいんだけど……奏多君はね、見ててなんか、むずがゆいというか、ハズかしいというか、そのウィスパーボイスも、ホストでも真似てんのかとか思っちゃうしさ。

それは、最終的にこの人が犯人、として明らかにされる喫茶店のマスター、長塚圭史を始めとした店の常連たちが一様に、短い出演場面ながらそうした“怪しい雰囲気”を非常に上手く醸し出していることもあるんだけど。それだけに、ここのメンツはもっと掘り下げてほしかった気がする。だって、彼らが最も怪しかったんだから(実際、マスターが犯人だったし)。
変わった人ばかりがここに集う、と夜が樹を案内したこの喫茶店が、なぜそういう人たちばかりを惹き付けるのか、壁に無数に張られている記事とも写真ともつかない切り抜きは何なのか、常連客たちにはそれぞれどんなバックボーンがあるのか……何ひとつ明らかにされず、夜のその台詞一発で終わってしまうのは、もったいなかった、というか、物足りなかった、というか、この場所と常連客が提供された意味が全然なかった気がする。

せっかく、鳥肌実やら山中聡やら魅力的なメンメンが揃っているのに、ほんっとうに、“ただそこにいるだけ”なんだもんなあ。結果的に犯人として挙げられるマスターの長塚氏だって、彼がなぜその禁断の美意識を追及しようとするに至ったのか、まるで語られないしさ。
まあこれは……美しき少年、少女をスクリーンで見られればいいのかもしれないけど。そしてその耽美的で残酷な死体のディスプレイもなかなかに凝っているんだけど。うん、山中の緑の中に、赤い一人掛けソファにリラックスしたような状態で座っている死体が特に美しかった(爆)。
でもさ、マスターにこそ深い物語はあるハズだし、そしてこの喫茶店に居所を見つけていた客たちにしたってそうだよね。

まあ、そんなことを言い出したら、映画の尺ってもんがあるんだからってこともあるんだけどさ。
それに樹は主人公のように見えながら、実際は狂言回しだったかもしれない。ここでの主人公は、ワザとらしいまでに暗い少女、夜の方だったかもしれない。
ワザとらしいまでに、というのは、先述の、なぜかいつも冬服、というビジュアルから始まって、最終的には、実は彼女は双子の姉と入れ替わっていたという、まるで昼メロのようなオチに至るまで、なんつーか、コテコテに劇場型なもんだから。
彼女の部屋はまるで黒魔術に凝っているかのようなゴシック調で、これが安アパートの中に据えられているということ自体ある意味ギャグだし(爆)。

双子ネタって、こういう生死の哀しさ切なさを扱うテーマでは、ちょっとベタとも思えるほどの手だよね。劇中に出てくる、ソックリな女の子が無表情で突っ立っている写真は、奇妙なアナクロニズムが不思議な恐怖を牽引してくる。
この感覚って、いつから共通認識としてあるんだろう。私なんかはやっぱり映画ファンとして「シャイニング」を思い出してしまうんだけど(爆)。
でも昔昔昔……古い日本文化として、ある地方では(ひょっとしたら日本だけじゃないのかもしれない)双子が忌むべきものとして、片方が殺されていたなんていう歴史が存在していたことを考えると、ほおんと、伝統的なネタなんだよね。

夜は最初、樹に、自殺ごっこをして死んでしまったのは妹の夕だと語る。最後までグズな妹だったと、吐き捨てるように言った。でもそれは、自分に対して投げつけていた言葉だったのだ。
夜だと自称している彼女は、実は死んでしまった筈の妹の夕の方。自殺ごっこで命綱が切れ、宙ぶらりんになった姉、夜が必死に助けようとする夕に投げかけた言葉が、コレだった。「さっさとしなさいよ、グズ!」 この時、夜、いや、夕の力が抜けてしまったのだ。
姉を“殺した”彼女は、それ以来、死んでしまった姉として、その後の人生を生きることを選択した。
人生最初に見た姉の死体に、自分の影をずっと投影し続けていたに違いないのだ。

一方の樹は、彼は妙にクールぶってるけど、そんな複雑な過去がある訳でもないし……正直単なる残酷愛好者だよね、紐解いてみればさ。自分の妹の方がやたらと死体を見つける“才能”があることをうらやましがったりする。死体写真集とか、ご丁寧にも隠し書棚にコレクションしたりして。
夜との出会いも図書室。彼女がコレ、と差し出した『いつも死体ばかり見ていた』という物騒なタイトルの本を、「これ、探していたんだ」と彼が替わりに差し出したのは、ゴシック耽美が漂う残虐系ビジュアルムック本。
しかもそれは、単なる趣味としてなら何の罪もないし(まあ、大っぴらには言えないかもしれんが)、「僕には犯人が理解出来る」とか斜に構えて言ってみても、結局実際にやってもいない訳で、理解というよりは、憧れに過ぎない、気がする。
そんな言い方をすると、まるでこの猟奇殺人の肩を持っているみたいなんだけど(爆)、彼に違和感を感じるのは、役者の問題だけではなかったってことかなあ。

犯人の動機も被害者とのつながりも何ひとつ解明されないまま、第三の事件が起こる。
それを発見したのは樹の妹だった。散歩に連れていた犬が異臭をかぎつけたか突然走り出し、廃屋の中にメタリックに縛り付けた死体を発見したのだ。
樹とは表面上、仲のいい兄妹だけど、彼はなついてくる妹をやはり突き放して見ている。先述したように、死体を発見する才能があることを、うらやましい、と夜に語る。ペットの死体から始まって、トラックにはねられたグチャグチャの死体、起こしに行った祖母が冷たくなっていたりと、樹にとってはうらやましい場面にばかり、妹は遭遇しているんである。
このことを聞いたら、妹はどう思うのかしらん、と思うけど(爆)。替われるもんなら替わりたいと思うに違いない。
そしてこの事件を契機に、夜は自分が初めて見た妹(本当は姉)の死体の話をするんである……。

犯人が記したと思しき、犯行を詳細に示した手帳を喫茶店で拾った二人は、予告殺人記録に従って、誰も足を踏み入れない山中に出かけ、緑の中で赤いソファに座った、たぐいまれなる美しい死体を発見するんである。
しかし、二人はそれを警察に届け出ない。もし次が起こったら僕らのせいだね、と言いながら。
夜は死体が手にしていた、犯人に買ってもらったと思しき洋服を着て、彼女と似たようなヘアメイクをして、喫茶店に現われる。そう、この場面、いきなり“普通の女の子”になっちゃったのは。マスターは当然、呆然としていたけれど、樹を始めとした常連客たちも呆然としていた。それは、この“変わった人しか来ない”店に異質である、つまり、普通である、ことが、異様だったのよね。

もともとマスターの好みであると思われた、長い黒髪の美少女である夜が今まで彼の毒牙にかからなかったのは、彼女が既に完成された美少女であり、わざわざ殺して飾り立てなくても良かったからじゃないのか。
殺された女のカッコをして現われた夜をマスターは拉致したけど、でもやっぱり、殺さなかったのは、だからじゃないのか。
“普通の女の子”の夜は、とってもハツラツと可愛かったけど、確かに凡百だった。白蝋のような美しき死体の、絶望的な美しさとは別次元にあった。

“夜”であり続けた、実は夕だった彼女は、常に表情を変えなかったのもそうなんだけど、照明がやりすぎなぐらい当たってたんだよね。
それこそ極妻の岩下志麻かってぐらい、白さが異様にハレーション起こしてて、学校の場面、同級生たちの中にいる彼女が、白く光ってるのが異様で、彼女ホントに生きてるの?と思うぐらいだった。もともとカッコとかも浮いてたし。
だから恐らく……夜は、死んでたんだよね。夜、なんだもん。ホントは夕なのに。それはとても究極の美しさを発揮していたけど、でも、死んでいたのだ。死んだ夜でいたんだもの。その美は、生きている彼女にとっては意味のない美だった。

夜のバックグラウンドを調べた樹が、彼女は死んでしまった筈の妹、夕の方だろうと言い当てる。マスターの魔の手から救い、彼女がよく眠れるようにと、首に赤いヒモを巻きつけ(一応、そうしないと眠れないと彼女が言った場面で伏線はあるものの、殺しちゃうのかと思ってドキっとする)しかしなぜか屋上に置き去りにしたまま(……この状態じゃ、そのまま死んじゃってもおかしくないだろ)、彼女の携帯に電話を入れる。
夜は、それに気付くのは、きっと樹だと思っていた、と言った。
それを受けた彼の表情のストップモーション。
ストップモーションしたくなるほどの美少年だったら良かったんだけどなー(爆)。

ところで、この白くメタリックで無機質な拉致室はステキ(爆)なんだけど、なぜかムキダシの屋上。冷凍庫とか漏電しないか?★★★☆☆


今度の日曜日に
2009年 105分 日本 カラー
監督:けんもち聡 脚本:けんもち聡
撮影:猪本雅三 音楽:渡辺善太郎
出演:市川染五郎 ユンナ ヤン・ジヌ チョン・ミソン 大和田美帆 中村俊太 谷川昭一朗 峯村リエ 上田耕一 竹中直人

2009/4/14/火 劇場(新宿武蔵野館)
けんもち監督の新作!ということでうわあっ!と大喜び。正直、彼の次の作品を観ることが出来るのだろうかと、ちょっと心配だったから。
作風は決してハデじゃない、むしろ地味だし(爆)、一発当てられるようなタイプの人じゃないから……でも私は、たまらなく好きだった。こんなに胸がじんわりと温かくなる作家を、私は他に知らない。
そしてこの新作も、まさにそうだったのだ。

今回が初めてのロードショー作品で、そして初めてのメジャー作品、だよね?だって、市川染五郎なんてビックネームは初めてだものね。
でもその市川染五郎、ってあたりがミソなんだよなあ。劇中彼は“おじさん”と呼ばれ、しかも“ヒゲの濃い”おじさんなんである。そりゃ誰もが市川染五郎、ヒゲが濃いとは思っているけど、一応色白細面の美形という位置づけなのに、それをバシッと言ってしまうとは……(笑)。

でも彼も父親であり、いい年齢にさしかかった男性で、“ヒゲの濃いおじさん”を人情味溢れる雰囲気を醸し出して演じられるというのは、ひょっとしたら彼にとって願ってもないチャンスだったんじゃなかろうかとも思う。
だって劇中の彼はちっともカッコよくないし、バツイチだし、しかもこれ、コイバナじゃないから、彼は最後まで“おじさん”であり続けるんだもの。
でもそれが、とてもあたたかいんだよね、彼本来のあたたかさが、けんもち監督のあたたかさを触媒として、見事に表われている。

そう、コイバナじゃないってところは、いかにもけんもち作品である。“なんでもない関係”をあたたかに描くことに関しては、彼の右に出る人はいないと思うなあ。
だからいわゆる地味カテゴリに振り分けられちゃうんだけど、でもこれって実はスゴイと思う。友達でも親子でも兄弟でも恋人でも夫婦でもない、ほんの短い期間だけを共に過ごした関係を、こんなに愛しく描けるのは彼だけだと思う。
そしてきっと人生っていうのは、そんな積み重ねこそが愛しいと思うから、彼の作品に心があたたかになるんだよね。

市川染五郎はクレジットの最初だけれども、登場してくるのにはちょっと時間がかかる。
女の子の方のヒロイン、韓国人のチェ・ソラが最初から最後まで出ずっぱりで、彼女の方が真の主人公で、水先案内人でもあるのね。
物語はまず、韓国の場面から始まる。日本へ留学するヒョンジュン先輩と、送り出す後輩のソラ。仲のいい先輩後輩同士だけど、恋人までには踏み出せない、みたいな微妙な関係。
この関係性からしていかにもけんもち監督らしくて、だから逆にいつか、彼がずっぱり恋愛モノを描いたらどうなるのかなとも思うんだけど。

でも少なくともソラの方は、気持ちを言えないだけで先輩に恋している。そして恐らく先輩の方も彼女を憎からず思っている。そうでなきゃ、留学中ビデオレターの交換など提案したりはしないだろうし。
「好きな日本映画みたいに」というヒョンジュン先輩の台詞、一体何の作品のことを指していたんだろう?
残されたソラは、もう一刻も早くヒョンジュン先輩の元に旅立ちたい。折りしも母親の再婚話が持ち上がり、「他人をいきなりお父さんって呼べる?」と反発したソラは、「お母さんの新婚生活をジャマしないから」などと半ギレ状態をどこか理由にして、強引に日本の大学への留学を強行した。
しかし、真っ先に向かったヒョンジュン先輩の下宿先には同居人の友人だけがいて、先輩は故郷の実家が火事に遭って父親が亡くなってしまったことから、帰国してしまった、というのだ。

うっわ、ソラ、カワイソ……なんのために遠路はるばる日本まで来たんだろ……と思うんだけど、実はここには結構、皮肉な仕掛けが用意されてもいてさ。
だって、大学は勉強するところだし、ソラだって表向きは(?)日本の撮影技術を学ぶために留学したのだし……。
恐らくヒョンジュン先輩とは、映画(恐らく日本映画に特化しているのだろうな)の趣味で結びついた関係だったのだろう。冒頭、ヒョンジュン先輩に長らく借りていたビデオの数々を返す場面からも推測されるし。

でも、ソラは果たして本当に、彼女自身、映画なり映像なりが好きだったんだろうか。ひょっとしてヒョンジュン先輩が好きだから、近づきたかっただけなんじゃないだろうか……。
先輩を追いかけて日本に来て、でも先輩はいなくて、彼女は無為の数ヶ月を過ごす。実に入学の4月からいきなり7ヵ月後に飛ぶんである。
彼女は12月23日をなぜか心待ちにしている。その日には……とつぶやいている。でもそこまでの彼女の大学生活は、決して実りあるものとは言えなかった。

日韓の映画が双方で公開され出したのは本当につい最近、それ以来、いろんな形でコラボがなされてきたけれど、これまでの中で一番ナチュラルに感じたし、じんわり来たと思うのは……やはり双方のどちらかが、相手国の言語にちゃんと精通していないと、ダメなんだよね。
これってすっごく単純で基本的なことのように思うんだけど、これが案外、これまでのコラボ作品では出来てなくて、単に双方の人気スターを出して、カルチャーギャップを描けばいいだろ、みたいなところがあったと思うんだよね。

でも今回、ヒロインはネイティブかと思うほどの、見事な日本語である。え?彼女、何者?エンディングテーマも歌っていたし、てことは歌手?(すみません、無知で……)
ナチュラル系の美少女で、演技もちょっと、いいんだよね……韓国娘の頑固さゴーインさ、何より一生懸命さが出ていて、いじらしい。
その彼女と、“ヒゲのおじさん”の市川染五郎のほんわり癒し系とのコラボレーションで、その時点でカルチャーギャップなどという使い古されたネタさえもう存在しないし、二人の間にはただ、“お互いへの興味”が横たわるだけなのだ。

それこそ、ソラが“ヒゲのおじさん”マツモトさんに感じたことである。
ていうか、そもそも授業の課題だったんだよね。ヒョンジュン先輩を追いかけて信濃大学の映像学科に籍を置くソラは、“興味の行方”という課題に苦戦していた。先輩を追いかけることしか頭になかったから、今ここにその興味の対象の先輩がいない彼女は、抜け殻だった。
「韓国人のソラさんが日本人の自分たちをどう見ているのか興味がある」と助け舟を出した同級生にも「私、韓国代表じゃありません」と逆ギレしてしまう。
無論、その同級生だってそこまで深い意味を持って言った訳じゃなかっただろうけれど、ソラの憤りも判る気がする。だって彼女は一人の生徒としてここにいる訳で、個人としての自分を見てもらえずに、いつでも韓国人という前提で断じられるのがとてつもなくイヤだったに違いないのだ。

ただ、それって仕方のないことでもあるし、逆にアメリカのような多民族国家に留学したならば、逆に武器になることでもあるんだろうけれど……そのあたりが日本であり、しかも地方都市であり、そして日本と韓国のこの微妙な関係性をよく表わしていると思う。
多分ね、ソラは自分自身だけの希望で留学してきたのならば、こんな風には憤らなかったと思うのね。彼女は彼女自身がないまま来てしまったからこそ、更に韓国人のフィルターを通して見られてしまったら、もう何にもなくなってしまう……そんな気持ちでいたんじゃないだろうか。

連絡のつかない先輩を、それでも“興味の行方”に設定することを決意したソラは、ビデオレターを送る。
しかし思いがけなく、ヒョンジュン先輩は長野に戻ってくる。それは、正式な退学届けを出すためだった。
恋愛にさえ至っていなかった二人の関係は、そこで完全に終わりを告げた。涙にくれるソラだったけど、この時からようやく、彼女の時間が動き出したのだ。

ソラには同じ女子寮に住む友人がいるのね。なにくれとソラを気にかけてくれる彼女は、いかにも平均的な日本の女子大生。「大学生活?青春、かな」と定義する彼女にソラは、日本の学生のお気楽さにアゼンとするばかりだったけれど……でもその時点でのソラだって、割と似たようなモンだったんだよね。
でも、ヒョンジュン先輩と別れて、マツモトさんを“興味の行方”にした時から、ソラは彼女の人生を歩み始めた。
というのも、マツモトさんが、すごく人生を歩んでいる人、だったから。

ソラがマツモトさんを最初に見かけたのは、大学の用務員としての彼。トイレの中で課題に悩むソラの目に入ってきたのは、蛍光灯を取り替えに来た用務員姿のマツモトさんだった。
女子トイレに入ってきたマツモトさんに思わず大声を上げてしまうソラ。「すいません、すいません」と謝る彼は、その時からやたらと腰が低かったのだよね。
次に見かけたのは、ソラがバイトで配っていた宅配ピザのチラシの、そのまさに、宅配人。
寮の友人がチラシの割引券でおごってくれるというから頼んだのに、いくら待っても来ない。
やっと来た宅配人がマツモトさんで、いきなり土下座した彼は、どうか会社にクレームを入れないでください、僕をクビにしないでください、と頭を下げた。

そして、ヒョンジュン先輩との別れの後、ソラが先輩に借りていたビデオカメラを返しに行った早朝出くわしたのが、自転車で新聞配達の途中、通行人と激突したマツモトさんだったのだ。
彼女がマツモトさんに興味を持ったのは、お気楽なキャンパスライフを送る同級生とのギャップを感じたこともあっただろうと思う。
確かに学生とは全く違う、オトナの事情を抱えた彼だったんだけれども、でもとても純粋で、まっすぐで、ソラに生きる指針を与えてくれたのだ。

留学生であるソラより、粗末な部屋に住んでいるということもあっただろう。
いやそれよりも、用務員の仕事の最中に立ったまま寝ているというトボケ加減が。
さらに用務員のクセに高いところが苦手で、脚立で木の上に引っかかった帽子を取るのだけで大騒ぎだし。
ってあたりにまで気付くようになるソラは、もんのすごくマツモトさんを観察しているってことなんだよね。
知らずに目で追うってさ、恋だよねっていうベタな定義があって、ここでもそうかと思われたんだけど、ソラとマツモトさんは、そうはならない。
ある意味、それ以上に、素敵で、特別な関係なんだよね。

ソラはマツモトさんを課題の対象と定めて、彼を執拗に追いかけ始める。
気のいいがために、友人に騙されて借金を作ってしまったというマツモトさんは、そのせいで離婚の憂き目にも遭い、再愛の息子とも離れ離れの生活を送っている。
多分さ、マツモトさんは、今の日本社会の中では相当に不器用な人だと思うし、もっと上手くやれる方法はいくらでもあるんだと思うんだよね。でも、それを愚直なまでのストレートな方法で解決しようとするマツモトさんだからこそ、ソラは、一個人として“興味の行方”に感じたんじゃないのかなあ。
そう、そこには韓国人とか日本人とか、そんなヤボな線引きは存在しないんである。
てゆーか、そんなのを代表させるには、二人とも癒し系過ぎるし(?)。
癒し系ってことはさ、日本人や韓国人なんていうアイデンティティとは関係ないところで、二人がそれぞれ、必死に生きることでいっぱいいっぱいになっているってことなんだよね。

マツモトさんを知るために彼の部屋を訪れたソラが、まず大量の洗濯物が押し入れから降ってくるのに潰されながら、「うわー!」と声をあげるのが、なんか懐かしのマンガみたいで、ちょっときゅんときちゃったなあ。
でね、マツモトさんの心のよりどころは、道端で拾った、いろんな色のガラス瓶なんである。
このアイディアでこの物語が始まったのだろうけれど、すんごくいい、けんもち作品にピタリとくるアイテムなのね。
道端に捨てられた、口径がゆがんだりしている素朴なガラス瓶に、人生つまずきかけている自分を重ね合わせるのだ、とマツモトさんは言う。

ダンボールに無造作に詰め込まれたガラス瓶を見つけ出したソラは、「これはゴミですか?」とメッセージを書いておくと、彼は判ってないなあ、てな顔をして「ゴミではありません」と、書き直しておくのね。
無造作に詰め込まれた、一見ガラクタみたいなビンだけど、でも確かに一個一個取り出して光に透かしてみると、赤、青、緑、茶……透明にキラキラと光って、とても美しかった。
それをいとおしげに覗きながら、マツモトさんは言ったのだ。懐かしい気持ちがするんだ、って。そしてそのビンを透かしてソラを見て、にっこりと笑った。
ソラはこのアイテムを面白いと思った。そして「ビンとおじさん」と名付けて課題を撮り始める。
12月23日までに、撮り終えたいと思った。その日は特別な日なのだ……。

マツモトさんと一緒に、ゴミが無造作に捨てられている林の中に分け入って年代モノのビンを掘り起こす。
まるで子供みたいに喜んでビンをかざしてソラを呼ぶマツモトさんを、ソラはカメラのレンズ越しに眺めた。
昔のイボコロリのビンを見つけ出して、「これを魚の目よりも痛いお尻のイボにつけて、大変な目に遭いました」と笑うマツモトさん。
その時にワケが判らないソラだったけど、後に掘り出したビンを洗う作業を一緒にやりながら、「マツモトさん、イボコロリはお尻のイボにつけちゃいけないんですよ」とやり返す。マツモトさんは「バレたか」と笑った。
二人の距離が縮まっていく。でもそれは恋愛の縮まり方じゃなくて、なんか凄く、なんだろう……人が持つ信頼というあたたかい縮まり方というか。
ソラがマツモトさんの別れた妻に引き取られた息子と遭遇する場面で、マセた息子は「ソラさんはお父さんの愛人?」などと心配するんだけど、そんなことを言って牽制などしなくたって、判るのだ。

それにしても、この三人でソラの作った激辛鍋をつつく場面はイイんである。
日曜日、ちっとも起きてこないマツモトさんを待ちながら、ソラは料理の腕を振るう。鍋も何もないもんだから、ソラはマツモトさんの勤める新聞販売所からバケツとボウルをコッソリ借りてくる。ボウルを直接火にかけて、いやー、実に豪快な野趣料理である。
ソラさんがせっかく作ってくれたんだからと、息子の頭を小突きながら自分もヒーヒー言って食べるマツモトさん、そんな親子を笑いながら興味深げに見ているソラ。
ソラにとって、マツモトさんというのは、いつか自分の人生の先にある、ひとつのお手本だったのかもしれない。
息子を見送って、マツモトさんはソラに言う。あいつの前では逃げたくない、正しくいたいんだと。
マツモトさんは強いです、とため息をつくソラに、彼はビックリしたように言った。強いのはソラさんです、と。そして「大丈夫、ちゃんと頑張っていれば、未来は明るいです」と。

この言葉がソラを大いに勇気付けるんだよね。
というのも、ソラはその後、とても辛い現実に遭遇するから。
撮影の最終を、保育園のクリスマス会でマツモトが演奏することと定めて、二人は練習に励む。そう、ビンに少しずつ量の違う水を入れて音階を作り、それを叩いて「ジングルベル」を演奏しようというのだ。
二人で足湯に浸かりながら、ソラがマツモトさんを特訓する場面は、実にほんわかする。
でもその日……、水の目盛りを入れるためにとマツモトさんのビンを持ち帰ったソラは、ヒョンジュン先輩の元ルームメイトから、彼の死を告げられるのだ。
ソラはビンがかごに入った自転車を、思わず倒してしまった……。

なんとなく、予感がしていたのはなぜだったろう。ヒョンジュン先輩が死んでしまうような予感。ルームメイトが訪ねてきた時に、その予感は確信に変わった。
学校に出てこないソラを心配して、マツモトさんは彼女を訪ねる。風邪でもひいたかと、玉子酒の材料を抱えて。
……このあたりが実にマツモトさんらしいんだよね。まさに“ヒゲのおじさん”ていうか。
ソラはどこか呆然としながら、割れたビンをくっつけていた。何度もノックするマツモトさんの声に、ただ立ち尽くして、ドアの前で泣き崩れた。

ドアを開けたソラの泣き顔と、キズだらけの手を見て、マツモトさんは驚く。
「ビンを割りました。私が悪いんです。全部私が悪いんです……」
マツモトさんは突然怒ったように「ビンを全部持ってきなさい!」と命じる。命じておいて、ソラよりも早く乗り込んできて、割れたビンも割れていないビンもザクザク袋につめて、外に飛び出した。
泣き崩れるソラが聞いたのは、そのビンを一つ一つ割っている音。驚いたソラが外に出てみると、マツモトさんが凄い勢いでビンを割っているのだ。あんなに大切にしていたビンを。
驚いて必死に止めようとするソラに、マツモトさんは叫ぶように言った。

「ビンなんかより、ソラさんが大切事です!ソラさんを悲しませるのなら。」と。
……この台詞はグッときたなあ。大切、って言葉。
ソラも「大切なのはマツモトさんです!」と言う。二人おいおい泣きながら抱きあう。
……泣いたなあ、ここ。
この“大切”は二人にしか判らない“大切”で、それが何なのか、上手く言葉には出来ないけど、それがまさにここに見えたような気がしたんだよね。

二人が一緒にいる場面はここが最後である。
結局クリスマス会にはソラが一人で出て、マツモトさんのビンではない、フツーの音階ビンで演奏した。
ソラが帰ってみると、もうマツモトさんは部屋にいなかった。
ダンボールが一つだけ残されている。
「ビンは卒業しました。ソラさん、ありがとう」そう書き残されたメモは、あの、「ゴミですか」「ゴミではありません」と応酬されたその裏書きだった。
母親から電話がかかってくる。
「二十歳の誕生日、おめでとう」
そう、特別な日、12月23日は、ソラの誕生日だったのだ。
きっとソラはこの日をヒョンジュン先輩と過ごしたいと、ほんの数ヶ月前までは思っていたに違いない。
でもその恋はひどく残酷な形で完全に破れ、そしてソラはマツモトさんに出会ったことで、大人になった。
そして今、マツモトさんとの別れも来た。もしかしたもう、二度と会うことはないかもしれない人。でも何よりも大切な時間が、ソラを大人にさせてくれた。
あんなに反発していた母親にも、素直に結婚をおめでとうと言えた。
「私が幸福なのは、ソラのおかげよ」という母親からの言葉に微笑んだソラは、その数ヶ月前よりずっと大人びてみえた。

マツモトさんを追い掛け回し、「チエ・ソラじゃなくて、チェ・ソラです!」と何度も訂正し、時には二人で自転車の競走。ほんとに、叔父と姪とも、兄と妹とも、父と娘ともつかない、この可愛らしい絆が大好き。
今回、監督の作品のあたたかさを支えてきた高瀬アラタ氏が出てないなあと思ったら、ちゃんと協力者に名を連ねているのも嬉しかった。
そして、協力、といえば、これ以上の協力はない、『日本ガラスびん協会』!こんな協会があるってだけで、ほっこりしちゃうなあ。★★★★☆


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