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続日本暴行暗黒史 暴虐魔
1967年 71分 日本 モノクロ(一部カラー)
監督:若松孝二 脚本:山下治
撮影:伊東英男 音楽:
出演:山下治 林美樹
とはいえ……これがその小平事件を元にしているんだ、と言われたら、なんだか加害者意識に加担しているように思っちゃいそうだし、だからこそオープニングであんなにしんねりと解説したんだろう。
恐らく、その事件があまりに衝撃的だったからこそ、その心理を考察してみたくなったんじゃないかとも思うけれど……ただ、この作品がどこか異色な感じがしたのは、どうやら錯覚ではなかったらしい。
つまりはこれって、主演を務めた山下治が脚本も書き、つまりは若松監督というよりも彼の思い入れの方がが強いようにどうしても思われるんである。
私多分、彼を見るのは初めてで(そりゃそうだ、普段はこの人、監督の方なんだわ)そのいかにもサエない(失礼)ちょっと頭の足りなそうな(更に失礼)、恋愛には永遠に縁のなさそうな(更に更に失礼……)風貌はかなり強烈。
なんかね……彼なら確かに世間にさんざ見捨てられて、強姦魔になっても仕方ないみたいな風情を、強烈に醸し出しているのよ。だからといってそれが許される訳でもないのだが……。
小平事件は一つのきっかけに過ぎないんじゃないかとは言ってしまったけれど、当時の情報をなかなか知る由もないこともあって、確かにこの小平という男が、なぜそんな鬼畜の所業に及んだのか、理解に苦しむところではあるんだよね。
それを、解き明かしたかったのかもしれない。小平そのものに焦点を当てるといろいろと危険だからこそ、あくまでこの主人公はフィクションの人物。
しかしその役名が丸木戸というのは、そりゃあ即座にマルキ・ド・サドを思わせるんである。
しかし一見して弱々しい、いかにも社会の弱者みたいな外見の彼は、後に町のチンピラどもに「お前みたいな猫みたいなヤツが女を強姦するとはな」とあざけり半分に驚かれるような弱々しさなんだよね。
でも、彼の中には別人格が棲んでいて、女を殺す時にはそのもう一人の人格が「やれ、やれ!」と彼をそそのかし、凶行に及ぶんである。
故に彼は女を殺したことなど何も覚えてなくて、目の前に横たわる死体に毎度呆然とするというありさまで。
女としてみれば、これってないよなー、と思うんだけど……でもそのくだんの小平事件にしたって、欲望を抑えきれない男の鬼畜の犯罪、としてしか決着をみてなくってさ、つまりは彼がなぜそんな凶行に及んだのか、欲望だけで片付けていいのか、ということって……恐らく現代でもそうそう掘り下げられはしないんだよね。
そりゃあ被害に遭った女の立場からすりゃ、殺されなくてもレイプされた時点で充分、“殺されて”いる訳で、もうその時点でさ、こんなヤツ死刑だ、動機?理由?そんなの聞く必要ない、ただの鬼畜な、この世に生まれたことが間違ったヤツなんだ!とまで息巻いてしまう訳でさ……。
でもこういう犯罪が後をたたない以上、その加害者心理というものを、それがどんなに理不尽なものであったとしても、やはり明らかにしなければいけない、んだよね。
小平事件はもう置いといて……この作品の丸木戸という男は、その最初の殺人がかなり後半になって回想されるに至ると、なんというか……随分子供っぽい、というか、子供じみた男だという感じがするんである。
好き合った女性と、身体の契りも交わしていて、だからその父親から反対されても、「だってヨシエさんとは……」と口ごもる丸木戸に、父親は彼がなんと言おうとしたか察したのか、更に激昂して、彼を追い出したのであった。
彼女が、私が父をじっくり説得するから、と言っても彼は絶望したのか彼女の言うことなど聞けず、このまま駆け落ちしてくれ、と押し倒した。
こともあろうにその場面を父親に目撃され、すったもんだの挙げ句、丸木戸はこの父親を殴殺してしまい、更に愛する彼女さえも手にかけてしまうんである。
ひょっとしたら、この時から丸木戸はおかしくなってしまったのかもしれない。道行く女たちは皆、愛するヨシエに見えてしまう。しかも総じてハダカなんである。
このあたりは成人映画として作っているからか、あるいは自分に身を投げ出すヨシエを道行く女たちに投影しているのか、疑問は多く残るのだけれど……。
だってさ、そんな女たちを見てヨシエだ!と言って飛び掛かって、なのにちゃんと服ははぐんだもん(爆。そんなところを突っ込んじゃいけないんだろうか……)。
やはり女の目からは、それがどんなにゲージュツ的であろうとも、レイプシーンは見るに耐えない。そう、ざっぷんと荒々しい波打ち際で、砂だらけに暴れ回るなんて、結構好き系なのだが……やはり一応女だからさ、キツいんだよね、見るのが……。
丸木戸は、殺した女たちを洞窟に“連れて”行き、“同居”するんである。
殺した瞬間の記憶がなく、もう一人の自分が殺した、と主張しながらも、一方で殺した女たちをまるで恋人のように扱って、丁寧に“ディスプレイ”し、愛しげに愛撫したりもする。……多分、死姦もしてる、だろうなあ……ううう、エグい……。
ただ画は……こんなこと言いたくないけど妙に美しく、嗜虐的な魅力があるんである。
これってね、ちょっとファンタジーにもしちゃってると思うよ。だって、いくらある程度気温湿度が保たれているであろう洞窟にしたって、これだけ何人もの女の遺体を置いているってことは、それだけ期間も長い筈だし、腐敗は相当する筈なんだけれど、そんな描写はまるで、ないんだよね。
警察が踏み込んだ時とか、ウッと鼻を押さえるなんていうベタな描写を予測したんだけど、全然、ないのだ。
まるで、そう、美しい女たちをチョイスして剥製にして楽しんでいる、ぐらいな風景なんだもの。
当然女たちは、その美しい肉体がちょっとも崩れてはいない。ムリヤリゴーカンされたのに身体に傷の一つも見当たらず(まあ……ゴーカンでキズがつくのは、見える部分じゃないけどさ(爆)それにしても……)、まるで、そう、眠れる森の美女のように、皆美しく眠り続けていて、ホントにご主人様をお待ち申し上げてる、ってな風情なのだ。
もちろん、彼女らは死んでいるんだから、微動だにする訳もないんだけど……物語の最後、丸木戸の動機を明らかにするために、警官、刑事を大量に引き連れて、彼をその洞窟に連れて行くんだよね。
すると、丸木戸の目には、もうそこにはいない筈の女たちが、しかもハーレム宜しく今や遅しと彼を待ち続けていて、皆蠱惑的な表情とポーズで、彼は「皆仲良く待ってくれていたんだ」と感無量、刑事たちは、やはり彼の殺人の動機を追及することは出来なかったか……と落胆してしまう。
つまり、丸木戸がマトモな精神状態ではないという結論に達し、当然彼に死刑を求刑しながらも、「彼に殺意を確信することが出来なかった」と、死刑執行に立ち会うことが出来なかった複雑な気持ちを刑事が吐露して終わるんである。
若干の消化不良を感じながらも、頭の中に響く声で片付けられてしまうことへの憤りを感じながらも、ならば、そういう理由で犯罪が行われるのならば、それに対する解決法が当然、必要になると思われるのだけれど……。
女が憤りを感じるのは仕方ないにしても、それに社会自体が腰引けちゃって、そのまま手付かずで……結局同じような事件が多発してしまっているような感じでさ。
あのね、本当に、山下治が演じる丸木戸は、子供じみていると言っちゃってもいいような感じが凄く、するんだよね。
今の自分が正義。大人社会の理不尽さをそのまま悪と断じて、説得するなんて頭もなく、自分たちが正しい、判ってもらえるなんてことこそが不可能で悪であり、この純愛を貫いて逃げることが正義だ、なんてさ。
もともと男の子は女の子より成長が遅いけど、セックスも出来るような年になってそれはさすがに子供じみてて……つまり体力だけはあって、彼女の父親のみならず、愛する彼女までぶっ殺してしまうなんて。
ヘタに男の腕力を持ち合わせているのが、マチガイの元なんだよなあ……。恐らく女が、自分の正義(それが“世の正義”とは違う場合が往々にしてあるのだが……男も女もね)を貫けないのは、そんな単純な理由にあって、犯罪まで発展するかもしれない恋愛のトラブルさえも、解消できないんだよね……。
だって時々、女だってカン違いしちゃうんだもん。男の腕力を、それはちょびレイプなのに、愛情かも、なんてさ。
小平事件を元にしているからか、彼にしても襲われる女たちにしても、そして愛するヨシエにしてもなんだか……時代を感じるんである。さびれた漁師町で身体を売っているモンペ姿の女の子なんて、その最たるもんである。
でも一方で、新しい時代を感じさせるキャリアウーマン風の女たちも、彼の毒牙にかかる。そこらへんが、日本の転換期を思わせ、そして一方で……それでも、女が一人強く生きていける希望を持たせながらも、結局は男の単純な(もちろん、単純ではないものも)腕力にアッサリねじ伏せられてしまうんだという悲哀を感じずにはいられないのだ。
でもそれはやはり……私が女だからなんだろうなあ。この作品に恐らく、きっと必ず、作り手である男性、そして観客である男性も、男の悲哀とやるせなさを感じるんだろう。G線上のアリアなど、甘美なクラシックが印象的に彼の凶行に寄り添っているのも、そんな気分を強くさせる。
そして腐らずに美しく並べられている女たちの裸体に、不謹慎だと判っていながらも、禁断の美しさとひっそりと理想さえも感じてしまうんだろう。
それはまるでそう……ラブドールだ。最近、ラブドールの秀作映画なんぞがあったりするからなんか……フクザツだけれど、つまりは男性にとっての理想の恋人は、息もしてない、言葉さえも交わさないラブドール、つまりは女の死体、なのかもしれない、だなんて。
じゃあ、女にとってどうなのかと考えてしまう。
ふと、そうだよな、人形のように男の愛撫にじっとしていればいいならラクだよな、などと考えてしまって、覚えずゾッとしてしまう。
それじゃ、男と女の、人間同士って、いったい、何なの。
丸木戸が殺す女の中でね、恋人と心中する女がいて、ウッカリ助かっちゃうのよ。それは丸木戸が物陰から見てて、女の方を助けちゃうからなんだけど……。
助かっちゃって、一緒に死のうとした筈の男にすがって泣きじゃくる女にカチンときたのか、丸木戸は彼女をお決まりに犯して、お決まりに殺してしまう。そう、そんなに死にたいなら望みをかなえてやる、ってな具合でね。
この場面、あれ、砂丘?海岸?印象的な砂の起伏、丸木戸が女に水を汲んで飲ませるんだから、海ではないのかもしれない。
で、一緒に死ぬつもりだった筈なのに、その相手の男にすがる女にカチンときて、彼は彼女を犯し、殺してしまう。
ふと思ったんだけど……彼ってさ、ヨシエと駆け落ちしたかったのに拒否されて、絶望の果てに凶行に及んだ訳でさ、その究極を実行しようとしていた彼らが羨ましかったのかもしれない……。
そう見てみれば、これは確かに、“性犯罪の被害者と加害者の人間関係”を考察した映画なのかもしれない、と思う。
でもそれを解決するのは……いや、解決なんて、きっと、この世界が終わるまででも、出来やしないのだ。
その一歩を記そうとしたのは偉大だ。でもやはり、というか、当然、というか、その後は続かなかった。
男と女は、いや、人間は、どこまでも相容れない、哀しい存在同士だから。★★★☆☆
肉体派俳優って、そういうイメージに陥りやすいってのは確かにあるんだよね。劇中ヴァン・ダムは「筋肉俳優」と新聞記事に書かれていて……それは娘の親権を争っている彼を報じたゴシップ記事なんだけど、あれって本当の記事じゃないかと(多分、何度かの結婚とか、親権訴訟とかもホントなんだよね)思われる。
筋肉俳優って……単純に過ぎるけど、ヒドイ言い方だよな……まるで脳ミソがないみたいじゃん。
そんな“B級”に落ちる前に政治家になってしまったシュワちゃん、途中落ちかけつつも何とか踏ん張ってるスタローン、ソニー千葉や藤岡弘、だってちょっと危ない。ジャッキーはもはや開き直って突き抜けているから別格としても。
真田広之氏はそれが判っていたからこそ、早いうちからアクションを封印した“役者”のベクトルに向かって見事成功した。
それでも私は、今でも真田さんのアクション映画が観たいと思うし、きっと本人だってやりたいと思っていると思う。数年前の映画の逃亡シーンで見せた身の軽さは、今でもトレーニングを怠っていないことを感じさせるに充分だったし。
で、ヴァン・ダムは、もうまっさかさまにその穴に落ちてしまった(爆)。彼だってその最初はそんな、安っぽいイメージはなかったハズなのだ……私も彼の出演作品をそんな観ていないからアレだけど。
それこそジョン・ウーを世界に押し出した功労者、というのは劇中語られるんだけど、それがこうよ。「「フェイス/オフ」は傑作だった?それはお前が主演したか?お前のおかげで世界に認められたのに裏切られて」んでもって、「(企画がきていた)役は、セガールにとられた。彼がポニーテールを切ると言ったから」う、う、う、なんてリアルなんだ。ていうか、それってまんまマジじゃねーか。
……ヴァン・ダムはどこで間違っちゃったんだろう。180度開脚キックがトレードマークとして定着した彼は、勿論アクションは天下一品だし、ルックスだってセガールより全然イイ、はずなのに……。
なんていうかね、本作を見ていたら、彼はショウビズ界で生きていくには不器用すぎたんじゃないかって思ったんだよね。もともとカラテに真摯な情熱を注ぎ込んでいたサムライ。カラテの挨拶、「オッス!」を言い合える相手なら信頼出来ると語るほど。
なんでも彼は失言、妄言でもお騒がせなお人だそうで、劇中でもそのせいで娘が学校で笑われたり、そもそも一般人にもどこか失笑気味に見られている描写が出てくるんだけど、それはひょっとしたら、カラテを信奉するがゆえに哲学的な方向に走りすぎちゃうからなんじゃないのかなあ……。
などと思うのは、それこそ彼がそんなイタイイメージを払拭したくてこの映画を作ったのかもしれないワナにはまっているのかもしれないけど。
でもクライマックスで彼が聞かせる独白は、安っぽいアクション俳優のイメージを覆す、まさに哲学的で深い精神に根ざした素晴らしさで、うっかり落涙しそうになるんであった。
ま、ま、そこまで話すにはまだ早いっての。この自虐的なアイディアの映画、しかし隅々までセンスが行き届いている。
まずタイトル前。シルエットで現われる、花を摘んだ子供。それを差し出す子供から受け取るかと思いきや、開脚キック!シルエットだけど、ヴァン・ダムだって勿論判る……花を奪い、子供倒れる。な、なんというブラックジョーク……鬱憤たまってるんだなあ。
彼はベルギーに帰ってきていて、“事件”の現場である郵便局近くまでタクシーに乗ってやってくるんだけど、その運転手のオバチャンが、まあ勝手なわけ。憧れていたスターなのに、尊大な態度を取られたと逆ギレ。ヴァン・ダムは疲れてるって言っただけなのに。
しかもキレ続けているのに、サインは求める。求めながらもキレている。ガッカリだ、憧れていたのに、映画の中の方がイイ男だ、と。
こういうのも、ヴァン・ダムがぜひとも言いたいことだったんだろうなあ……。確かにこういうファンにはなるまいと思っちゃう。
てか、私、そもそも彼がベルギー人だってことすら知らなかったかも。ジャン=クロードという名前だけで、勝手にフランス人だと思っていたような。それで、へえ、フランス人がハリウッドでアクション俳優になったんだ、みたいに思ってた。
でも、ベルギー人。これはその故郷のベルギーで作られた映画なんである。勿論、ベルギーからハリウッドのアクションスターになったなんて前代未聞だから、彼は地元の誇る大スターであることは間違いない。
間違いないんだけど……私たちが持っているような、そして恐らく全世界的である彼に対するザンネンなイメージは、彼を誇りに思っているハズのこのベルギーでも同様らしいんである。
冒頭、彼は映画を撮っている。どうやら戦争モノらしい。武装した兵士たちの中で、彼だけが不自然にタンクトップ姿で、銃弾の雨あられの中、敵を腕一本でなぎ倒しながら疾走している。
やたらカメラが揺れる。うわ、これワンカットで撮ってる……と思って、オープニングクレジットが終わったあたりで、カキワリがガタリと見えてしまう。
それまでの苦労が水の泡になり、アッサリNGを出されたヴァン・ダムは、「ワンカットは無理だって」と監督にクレームを出すんだけど、英語が判らないらしい中国人(多分)の若い監督はただアイヤー、といった雰囲気で、トンチンカンな応答。
もはや40代も後半、体力もそうは続かないヴァン・ダムは深いため息をつく。
それは恐らく、劇場用ですらない、そのままソフトに落ちる低予算作品。スターであるハズの自分に敬意も払わない若いスタッフ。もうすっかり落ち目のヴァン・ダムは、更に妻から離婚と親権訴訟を起こされていて身も心もズタボロである。
故郷のベルギー、ブリュッセルに戻っていた彼は、更に追い打ちをかけられるかのように、郵便局の強盗事件に巻き込まれる。
既にこの時点でカードも使えなくなり、次の映画のギャラの前借りをしようにもセガールに役をとられ、にっちもさっちもいかなくなっているという、もうイタすぎる状況。
弁護士費用だけは振り込まないと、と急ぎ入った郵便局で、そんなサイアクの事態に巻き込まれたのであった。
でも最初はね、彼が犯人のように観客にも見せていたし、劇中、警察やマスコミに対してはずーっとそう思わせ続けてるのよ。
実際は、バカのクセに残虐でヒステリックで見た目もキモイ(肩までのワンレン……)男を筆頭にした三人の犯人グループによる立てこもりだったのに。
後の二人はまだ全然良心が残ってて、特にヴァン・ダムのファンであることを隠そうとしない二番目の男(一応は彼がボスということになっているのだけど、明らかに操られてるボス)、アルチュールは単純で純粋で、愛すべき男なんだよね。
口にくわえたタバコを開脚キックで蹴り落とすワザに興奮し、オレも、とやってみると案の定、相手を蹴り倒しちゃう(笑)。その相手ってのは無論、人質の男性で、銃を向けられ続けている彼らは怯えきっているのは当然なんだけど、もうこの時点で、アルチュールは操られている小悪党に過ぎず、決して性根から悪いヤツではないことが判っちゃう。
で、三人目もこのアルチュールが引き入れた友人だから、更にもっと……ま、言ってしまえば愚鈍で、のっそりしててさ。だからあのキモイ男だけがネックだったんだよね。
でも警察の方はヴァン・ダムが犯人だと思っているわけだから……で、つめかけたヤジウマたちは国が誇る大スターに声援を送って、もう大混乱。
生中継のさなかには、ヴァン・ダムの“妄言”の映像が繰り返し流されたりして、郵便局に閉じ込められてそれを見ている彼が、何とも言えない表情を浮かべているシーンまでもが用意されている。
でも多分、彼にとってはすべてが整合性ある言葉なんだろうなと思うのは……だってこの映画、ヴァン・ダム自身がエグゼクティブプロデューサーをつとめていて、つまりは、ヤル気マンマンなんだもん(笑)。それにしては、流血するほどに身を削ってるけど(爆)でも、そうまでしても、彼は自分の本当の言葉を伝えたかったんじゃないかなと思う。プロモーション来れば良かったのに。
ヴァン・ダムを電話口に出させて交渉の窓口にしながら(警察はヴァン・ダムが犯人だと思ってるけど、実際はそうじゃない訳だから……ややこしいな)、お約束的に彼の両親が呼ばれたりして。
逃亡と身代金の確保のために頭をつき合わせたアホ犯人グループは、子供から母親を引き離して彼女だけを解放したりして更に混乱。子供の命のために真実を言えない彼女は狂乱して、ヴァン・ダムに、あんたのせいよ!と罵詈雑言。
犯人グループ内で内部分裂もあり(キモイ男がアルチュールに、お前の母親とヤッた、と言って、アルチュールが彼を撃ったのだ!!)、業を煮やした警察が一気に突入して、事態は強引に収束に向かう。
んだけど、ただ……この時点では、先の解放された彼女は、当然ホントのことは言えてない訳だし、ヴァン・ダムは犯人として捕らえられてしまうんだよね。
あ、違うか。この時点ではその誤解は解けているのかな。ヴァン・ダムを捕らえたことに、指揮していたブルージュ警視は、「なんてことをするんだ!」とくってかかったんだもの。
すると、警視のじれったいやり方に業を煮やしていた突撃班はしれっと、「恐喝容疑で逮捕した」と。……犯人グループの単純バカなやり方で袋小路に陥っていたのをヴァン・ダムが見かねて、そもそもこの郵便局に来た理由を利用して、「弁護士への送金」というリアルな方法で事態を動かしたもんだから。
ただまあ……実際、ヴァン・ダムはリアルにそのことで困っていた訳で、それを恐喝と言われれば、反論できないのかも……うう、なんかついこの間の小室氏の詐欺事件なんかを思い出しちゃう。大スターなのに一銭の金も手元に残ってないあたり……。
実際、劇中のスター、ヴァン・ダムは一切申し開きせず、1年の実刑、2年の保護監察を受け入れるんである。そのあたりは、自分がもしそうなったらこうする、というサムライ道を見せたいという、まあ、ちょっとしたカッコツケの気持ちもあるとは思うけど。
ただその前の、この危機的状況に閉じ込められて、いわば悟りの境地に達した彼が聞かせる独白が、筋肉バカのイメージだった(ゴメン!)のをくつがえしたもんだから、なんか素直にジーンとしちゃうのよね。
これは、映画だ、俺の映画だ……そんな風にして、始まるモノローグシーン。無論、劇中で言えば、それは映画ではない、現実に強盗に捕まって、今や彼の命は風前の灯である。
でもやっぱりフィクションである……そんな二重三重のワナの中でも、このB級俳優のイメージに、落ちたくて落ちたんじゃない彼の心情が吐露されるのには、グッとくるものがあるのだ。
確かに彼は、夢を叶えた。自分より才能があるのに成功出来ない人だってたくさん見てきて、胸が痛かった。俺はフツーの男なんだから。それでも俺が成功出来たのは、その夢のために努力し続けたからだと。
それは、こう改めて書いてみても、恥ずかしくなるほど単純でありきたりなんだけど……ただその先に、じゃあなぜ彼がこんなことになってしまったのかといえば……彼がそのまま、変わらなかったから、なんだよね。
本来ならとても尊いことの筈なのに、ショウビジネスの世界では、それは愚者なのだ。
まあ、彼の言う、家族は等しく愛する存在だから、それと同じく、何度も結婚した何人もの妻たちも等しく特別な存在だっていうのは、微妙に間違っていると思うけどさ(爆。このあたりが妄言といわれるんだろうなあ……)。
内部分裂の末に、一時は犯人グループの第三の男に羽交い絞めにされて危ない状況だったけれど、彼のみぞおちに不意打ちで拳を入れ、ヴァン・ダムは無事命拾いする。
ただ、この場面が最も皮肉というか……最初、ヴァン・ダムは彼を鮮やかに仕留め、待ち受けていた、突然のことにボーゼンとしている警察官とにこやかに握手を交わして、熱狂しているヤジウマに颯爽と手を振って見せるのだ。
いやいやいや、これはないだろう、と思って見ていると案の定、もう一度このシーンが繰り返されると……一瞬の隙をついて羽交い絞めにされていた男から逃れたのは一緒なんだけど、次の瞬間には待ち構えていた警察官たちにヴァン・ダムは組み伏されているのだ。
……これってさ、まさに映画と現実のギャップでさ、そう、現実ではこんな風に、真実も正義も、華々しく日の目を見ることなどないのだ……そんな虚飾の世界にい続けたヴァン・ダムはそれを重々判ってて、だからこそ理不尽な恐喝の罪にも沈黙を守る、という立場を役として設定したんだろう。
まあ、ちょっとカッコ良すぎる気はしたけど、でもカッコ悪い後のカッコ良さだし、そこまで言っちゃうのはちょっと、カワイソウかなあ。
ラスト、娘が刑務所内に面会に訪れて、なんとも言い難い表情を浮かべるヴァン・ダム。
このシーンと、そしてあのモノローグのシーンのために、この映画を立案したのかも、と思うほど、一瞬だけど胸に突き刺さる表情。
ネタとしては、ありがちすぎるけどね。でもそのあたりがまた、小細工のない彼らしいかも。
そういやモノローグで、故郷のベルギーでやり直したい、とも言う。う、うう、これも本音なんだろうなあ……切な過ぎるううう。★★★☆☆