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「す」


2009年鑑賞作品

スラムドッグ$ミリオネア/SLUMDOG MILLIONAIRE
2008年 120分 イギリス カラー
監督:ダニー・ボイル 脚本:サイモン・ボーフォイ
撮影:アンソニー・ドッド・マントル 音楽:A・R・ラフマーン
出演:デブ・パテル/フリーダ・ピント/マドゥル・ミッタル/アニル・カプール/イルファン・カーン


2009/6/15/月 劇場(新宿武蔵野館)
恐らくオスカー史上初であろう、ノースターのみならず、アメリカ人俳優が一人も出ていない、しかも舞台はインドで、一見してインド映画にしか見えない、しかもしかも監督までもがアメリカ人ではなくイギリス人監督の映画が、席巻しただなんて。
正直、ここまでアメリカの要素が入っていない映画が、賞の対象になりうること自体がオドロキだった。映画大国アメリカであることに、傲慢なほどの矜持を持ち続けたアメリカを突き崩したのはなんだったのか。あるいはそれは、アメリカのアカデミー賞が、国内だけではなく全ての映画を評価するんだというぐらいの、更に強固な矜持であったのかもしれないけれど。
でもこれは全編英語という訳でもないし、外国語映画賞にだってなりえそうな気もしたけれど、でも外国語映画賞というのだって、アメリカが「賜わってやってる」みたいな感覚は正直ある訳で……つまりその壁も、突き崩したんだよね、この映画は。

でも確かに、アメリカ人が好きそうな要素はいっぱい詰まっている、かもしれない。貧乏なスラム街から一攫千金で夢を掴み取るなんてアメリカンドリームをほうふつとさせるし、奇跡的なまでの運命に導かれて思い続けた恋人とハッピーエンドを迎えるなんてのも、いかにもアメリカ的楽天主義である。
私は正直、これは案外ラスト、哀しい結末を迎えたりするのかなとも思ったのだ。でもちょっと赤面しちゃうほどのハッピーエンドだったから、ある意味ビックリした……でもそれは、ミュージカル映画が成熟しているインド映画の要素も取り込んでいたりする結果、なのだよなあ。

ホント、そういう意味でこれってどこの映画?って感じなのよね。それこそインドでこんなタイプの映画は作られない、と思う……もうインド映画は音楽映画ってタイプが出来上がっちゃってるから(勿論、例外はあるけど)。
だからこれは、インドが舞台でインド俳優だけが出ていて、いかにもインド映画のように見えていて……やっぱり、違うんだよね。
かといってアメリカ映画かっていえばそりゃ激しく違うんだけど、でもアメリカ人に訴える要素はすんごくあった、ってことなんだろうなあ。

なんたってミリオネアだもの。アメリカのみならず、全世界に輸出された有名番組。
賞金を獲得するクイズ番組は世に数あれど、これほど破格の大金を、しかも素人が手にする番組は意外に、かつてなかった。しかも、一回一回、獲得された賞金は次の段階に進むことを表明すると破棄されてしまう。まさにこれって、一攫千金の図式そのもの、なんだよね。
携帯電話会社のオペレーターアシスタント、つまりはお茶くみ係であるジャマールがこの番組に出演した経緯は、幼い頃からの過酷な運命が導いたものだった。
端的に言えば、愛する女性がこの番組を見ていることを信じて、彼女の行方を捜したくて出演したんだけれど、その“端的な理由”には壮絶な過程があったのだ。

映画の冒頭、彼が全問正解出来たのはなぜか、とクレジットされる。そう、ミリオネアさながらに。
「ついていた」「ズルをした」「天才だった」と挙げられる最後の項目D、「運命だった」そう、まさしくこれが答え、なんである。
後から思えば神様の采配としか思えないぐらいに、ジャマールの過酷な運命の中にちりばめられたヒントが、次々に問題として出てくるのだ。
スラム出身の彼には知りえないと誰もが思う、神曲の詞や、ある宗教の神様が持っている武器の名前、ピストルを発明した人物、さらには有名クリケットプレイヤーの名前に至るまで、彼が遭遇したあらゆる場面で、そう、過酷な場面ばかりで印象的に耳にしたことばかりだったのだ……。
それでも最後の2問は、彼自身の力で突破する。なんとなくの感覚を信じた。いや、それもまた、神様の采配だったかもしれない。
イジワルな司会者のワナにも陥れられず、全国民が注視する中、ジャマールは見事、一攫千金の夢をかなえたのだ。

という前、物語の冒頭に、ジャマールはいきなり拷問にかけられている。スラム街出身の無学な青年が最終問題直前まで行ったことで、疑惑にかられた、というよりも嫉妬にかられた司会者によって、詐欺罪でブチこまれたのだ。
容赦ない拷問にかけられても、ジャマールは、自分は知っていたんだと言うばかり。最初はヤッツケのような態度で彼の自白を待っていた刑事は、どうやら彼が嘘をついているのではないらしいと悟り、話を聞き始める。
ミリオネアの番組のビデオを並行しながら、その答えをなぜジャマールが知っていたかを検証していくにつれ、彼の過酷過ぎる運命が明らかになるのだった。

最初の問題はね、実にムジャキなものなのよ。インド国民誰もが知っている映画スター。でもそれだって、ジャマールにとっては大事な思い出が絡んでた。
後々まで運命を共にする傲慢な兄貴と、トイレを貸す商売をしていた幼き時代、ジャマールがウンコをガマン出来なくてお客を逃がしたことに怒った兄のサリームは、彼を閉じ込めてしまう。そこに問題になった映画スターがやってくるのね。
サリームはジャマールが彼の大ファンだって知ってて、そんなイジワルをした訳でさ。
だけどジャマールは意を決して肥溜めの中に落下!ブロマイドを右手に掲げて汚れないように持って、クソまみれの身体で群集をかきわけ、見事スターのサインをゲットする。しかし兄はそのサインを売り飛ばしてしまうんだよね……この時から二人の関係性、というか運命は見えていた。

ジャマールはムジャキに夢や愛を信じている男の子で、兄のサリームは現実が過酷だと子供の頃から悟っている子。だからサリームは折りにふれ非情な判断を下し、それはこの映画の位置付けとしてはネガティブなそれではあるんだけど、でもそれこそがこのインドの子供たちの、そして子供たちが大人になった先の現実であり、ジャマールの例はあくまで例外中の例外、彼のようにどんなに過酷な目に遭っても愛を信じて突き進む、なんてひょっとしたら、相当甘ちゃんだと言われちゃうのかもしれない。
でもだからこそ、ジャマールだけの価値観が肯定され続ける訳ではない、というか、ジャマールは常に兄貴に下に置かれながらも、兄弟としての絆を切れないんだよね。兄貴が大好きな少女を見捨てても、その少女を力づくで自分のものにしても、更には非情なマフィアに売り飛ばしても……縁を切ると言いながらも、少女を探す理由にしながらも、結局兄を捨て切れない。

そこには、アジア文化に特有な、家族の、縛られていると言ってもいいほどの強い絆を感じ取ることが出来る。この描写の仕方はある意味、大げさすぎるような気がするけど、それぐらい、つまりは欧米の人間たちにとってアジアの家族の価値観というのが、憧憬と違和感をないまぜにしたような、一種畏怖にも似た感覚なのだろうと思う。
それでもここで描かれているのは、やはりどこかアメリカナイズというか、欧米ナイズされている感覚のように思う。
だって結局どんなにヒドいことをしても兄貴はそれを自覚していて、最後にはその贖罪の様に自らを銃弾の嵐の中にさらすんだもの。そういう自己犠牲もアジア文化特有だと思うけど、そのことがなくても、最後までヒドイ兄貴のままでも、やっぱりジャマールは家族の絆は切れなかったと思うしさ、それこそある意味忌まわしい、“伝統文化”が染みついているんだよね。

なーんてサラッと言っちゃうと何がどうなんだかさっぱり判んないんだけど……そもそもこの兄弟がそんな過酷な運命にさらされたのは、宗教間の動乱があったからなんである。
その中で、二人の親は彼らの目の前で……殺された。そして兄弟は逃げに逃げて……生き延びて……物乞いの末に、マフィアの手下として生きるようになるんである。
まだそんな運命に巻き込まれる前の段階でも、トタン屋根が延々と続き、ゴミだらけで、茶色く濁った水で洗濯をするスラム街の光景は、かなりの衝撃だった。
後にマフィアから逃げ延びた兄弟がタージマハル近郊で観光客を案内する場面で、恐らくインドの雄大な文化に触れに来たであろう“アメリカ”の観光客に「これがインドです」と警官に暴行される様を白々しく演出する場面があるけれど、「それなら、これがアメリカよ」と慈悲のようにおカネを出す観光客に当然兄弟(というか、サリームが)はほくそえむ訳で。
そんな風に偉大で雄大な文化を触れに、癒されにくる観光客たちの中に、当然私たち日本人もあまた含まれていることを思うと……そして「これが日本だ」とおカネを落としていることを思うと……なんかやりきれなくなるのだ。

ここでアメリカ人観光客がこんなカタチで出てきたことが、やっぱアメリカ的にはグッとくるものがあったのかなあ……贖罪の気持ちというかさ。アメリカだって貧しい文化をかつて、そしていまだに抱えているのに、大国だっていうおごりを持ちたがる風があるから、こういうのはグサッとくるのかもしれない。
でもそういう意味で言えば、日本の方がタチが悪いかもしれない。正直、この映画がこれほど評価されたのが、ちょっと意外だなと思ったのは……恐らく日本人にはこういう、壮絶な貧困から脱出するという感覚が、やはり欠けているからだろうと思うんだよね。
なーんとなく生きていける国だから、一攫千金の金で全ての幸福が得られる、みたいな感覚に違和感があるんだと思う……それは幸福なことなのかどうなのかは判んないけど、そしてここで示されている、そのどん底の部分は今の日本じゃとても判りえないことだからなんと言うことも出来ないけど、でも今の日本だと、一攫千金で脱出して、だから幸福、とはとても言えないよね……それなりに生きていける国だからこそ、金が幸福をもたらすんじゃないと言える、のは、それこそ幸せなのかもしれない。

……またしても脱線しちゃったけど。ジャマールとサリームが生きるために入り込んだマフィアが、トンでもないところだったんだよね。
最初はいかにも優しそうな感じだった。行き場のない貧しい子供たちに食事を与えてくれた。「おかわりをくれたら聖人だわ」とラティカが言ったのが、子供たちの状況を端的に示してた。
子供たちを集めて、食事を与えるだけで崇められる。そんなの、ウラがあるに決まってるのに、やはりどんなに過酷な状況で暮らしていても、幼さは純粋さ、なんだよね……。
サリームはその聡さ、というよりズル賢さで早くからボスに取り入り、ストリートの赤ちゃんを「稼げるから」という理由でさらうなど非情なキャラを発揮し続けるんだけど、さすがに「稼げるから」の理由で、クスリで失神させた少年の目を潰す鬼の所業には激しく吐いた。

その少年は、歌が上手かった。ボス曰く「目の見えない歌い手は、二倍稼げる」ってことで……それは「赤ん坊がいれば二倍稼げる」と同じ理由で、同じ調子なんだよね……。
同じく歌が上手かったジャマールも同じ目に遭うと危惧したサリームは、弟の手を引いて逃げ出した。一緒に逃がそうとしたラティカの手をサリームが離してしまったことをジャマールは激しく抗議したけれど、もうどうすることも出来なかった。
そしてタージマハルでインチキガイドとして勤める日々を送るけれども、ラティカを助け出したいャマールは、ムンバイに戻り、彼女を探すんである……。

そこで、ジャマールは、あの時目を潰された子と地下道で出会うんだよね。まさに“目の見えない歌い手は二倍稼げる”ってなわけで、憐れみを前面に出して歌っている彼に100ドル札を手渡すジャマール。それがミリオネアの「100ドル札に描かれている人物は誰か?」の問題になっている訳で。
「偉くなったんだね、ジャマール」と嬉しそうなその子に、何とも言い難い表情を見せるジャマール。私はここが……この場面が……この映画の中で、一番キツかった。この子の目がつぶされる場面が衝撃だったってこともあるけど、声で判って手を握ってジャマールを懐かしがるこの子が、あまりに不憫で……って言い方はあまりに不遜なんだけど、でも……。
この子が、一番判ってたところにいたかもしれない。ジャマールほどにムジャキじゃなくて、サリームほどにシンラツじゃない、でも一番、ヒドイ目に遭った位置。すべてが見える位置。目が見えなくても、目が見えないからこそ、全てが感じられる。一見美しいものも、美しいだけじゃないことが、判ってる。
彼はだからこそ、そんな過酷さを味合わないで済んだジャマールを、それでいて純粋な心をもち続けているジャマールに、希望を託したんだろうと思うんだよな……。

最後はね、本当に大団円なのだ。マフィアに捕らえられているラティカをサリームが命を賭して逃げ出させて、ラストクイズのテレフォンにサリームの携帯を持たされた彼女が出て、ジャマールが彼女の無事を知ってさ。
しかも問題は、幼き頃、ジャマールとサリームと彼女とで三銃士になろうと言っていた、その三番目の銃士の名前。
ダルタニャンというヒッカケがありながら、そして彼女が電話に出ながらも「読んでないもの、判らない」と言いながら、ジャマールは見事「なんとなく」で正解をゲット、番組史上初の大金、2000万ルピーを勝ち取り、インド全土が狂気乱舞に陥る。
そして、ジャマールは幼い頃からの積年の思いを見事かなえて、ラティカをその腕に抱くのだ。

充分過ぎるほどにスラムの過酷さを見せられて、でもそれは過去の回想であって、兄弟はそれを、建設中の高層ビルから今のインドの高度成長化した都市として眺める。
でも起用された子役は今もスラム街で生き続けているんであり、これを過去として示してしまった本作は、ちょっとだけ……甘かったのかもしれない。★★★☆☆


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