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2011年鑑賞作品

平成ジレンマ
2010年 98分 日本 カラー
監督:齊藤潤一 脚本:
撮影:村田敦崇 音楽:村井秀清
出演:戸塚宏


2011/2/18/金 劇場(ポレポレ東中野)
とんでもないものを見てしまった、と思ったのは無論、あの当時、子供ながらももう充分に物心のついていた私にとって、記憶の中に強烈に焼きついているから。
戸塚ヨットスクール。恐るべきスパルタと暴力で、訓練生を死に追いやった稀代の悪漢、戸塚校長。あの時、ワイドショーに釘づけになっていた全国民が、そう思っていたし、今でも思っている。
だから、この作品を、あの当時を知らない世代が見たらどう思うのだろうとも思う。

冒頭に、簡単に戸塚ヨットスクールと戸塚校長の辿った歴史がざっと描かれる。中村獅童の渋い声によって、悪名が刻み込まれた、と解説される。
私ら世代はそんな解説などを聞かなくても、その経緯は充分に承知しているけれども……などと思ったところで、本当に承知していたのだろうか、と思った。そして本作はそこにこそ突っ込んで描いているのだから。

正直、戸塚ヨットスクールと戸塚校長の今を描くと言って、そしてあの頃の報道や司法判断が本当に正しかったのかと検証する意味合いも持っているらしい本作に、私は向き合う自信がなかった。
あまりにもどっぷりとついたイメージは、子供の頃だったこともあいまって、もはや常識とか基本認識とかいったところにまで達していたから。
だから見始めのあたりでは、戸塚校長が何を言っても、なんだか身構えてしまうというか、この人何言ってんの、という思いがぬぐえなかった。

“何を言っても”というのは、彼が全国に講演に呼ばれて、教育者や保護者に教育とは何ぞや、と熱く語っているからである。
その中では彼が裁かれた体罰に対しても逃げることなく、というより彼はそれを信念で行なったのだという主張を曲げないのだから、体罰は人格を形成するために必要、とヒヤリとする言葉をまっすぐにぶつけてくるもんだから、やはりやはり、あの頃の記憶が鮮明な私はどこか、逃げ腰になって聞いていた。

そうなんだよね、あの当時もそうだけど、今でも、戸塚校長はとても弁が立つから、つまり言葉に力があるから、今こうして講演などにも呼ばれるのだろう。
勿論その言葉、いやそれ以上にずっと連なる経験や行動力こそが、迷える指導者や保護者を惹きつけるのだろうことも、見終わってみれば充分に理解出来るし、私のような無知者が知らん間に、信頼される筋にはきちんと信頼されていることに、大きな驚きを感じもするんである。

が、その弁が立つ、というところが、ワイドショーの格好の的だった、のだろう。しかもヨットマンだからヘタにマッチョで、スパルタの冷血鬼教官、といった風貌が判りやすすぎたし。

あの頃は本当に、テレビはワイドショー天下の時代だった。芸能人だけではあき足らず、少しでもセンセーショナルなものがあると食いついて、警察だ何だという手が入る前に食い荒らし、世論を決定づけ、それを警察や司法の判断にまで影響を及ぼさせた。
と、いうのは、あの嵐のようなワイドショーの熱風が、それこそ色々弊害もあって現代では沈静化され、ようやく客観的に当時を思い出すと、いくつもの冤罪が生み出されていたのではないか、と確かに思うのだ。

誰もがアイツが犯人だと信じて疑わなかったあのカレー事件だって、実は冤罪なんじゃないかという活動があることをしってえーっと思ったけれど、確かにあれも、確かな証拠がないまま、ワイドショーがこれ見よがしに騒ぎだてたことに思い当たるのだ。
それこそ“弁が立つ”という点では、あの容疑者と戸塚校長は何か似ているような気もし、一見してふてぶてしいような風貌が更に、コイツは悪人だと、そう糾弾することで、自分が善人になれるような感覚をもたらしてしまう。
そうやって、安穏とした立場でそんな無責任なことが出来てしまう庶民に溜飲を下げさせてしまうんだということに思い当たり、ふとゾッとしてしまう。

まあその中には、ワイドショーから事件が発覚して犯罪者があぶり出された例もなくはないけれど、でもやはり、あのワイドショーの熱風は、あまりにも何かの規範から、いや全てから、逸脱していたように思う。

戸塚校長は最後まで自分は冤罪だと主張していた。暴力によるメリッとなどないのは明らかだと。犯罪には犯意がある筈だと。そんなものはないのは冷静に考えたら判るだろうと。
正直、本作を見るまでは、こんなにも裁判が長引いていたとは知らなかった。あるいは、校長のみならず、12人のコーチ全員までもが罪に問われていたことさえ。
今考えると、そこまではあまりにもヒステリックだと思うけれど、あの当時は、それこそが正義だと語られていたに違いなく……。

そして、本当に、つい最近、実際に戸塚校長が収監されるまでこんなにも時間がかかっていて、それほどに彼は自分の正当性を主張していたのだ。
ワイドショーが時代の波に追いやられ、平和な、まあ生ぬるいような情報番組に取って代わられた時代になっても、なお。
しかし結局実刑が下って刑に服し、彼はスクールに復帰した。そんなことも、全然、知らなかった。

そもそもこの事件に関しては、冤罪かどうかというのが、思想的な判断に傾いてしまうので、普通に考えて実刑にまで至るのは相当難しいと思うのだけれど、世論はアッサリ彼らを犯罪者にし、そして長年かかっても実刑になってしまった。
私ね……結局あの事件のこと、子供の頃の記憶のまま、何が起こっていたかなんて、本当に知らなかったのだと改めて知ったのだ。
そもそも訓練生が亡くなった根本の原因はなんだったのか。体罰によることが本当に直接の原因だったのか。合宿中、逃亡しようとして船から飛び込んだことにまで責が負わされたけれど、それだってどこまで真相が究明されたのか、全然、知らなかったのだ。

そして、この映画の立ち位置、戸塚ヨットスクールの事件によって、教育の場から体罰が排除され、そして今、明らかにそのせいで日本の教育現場はおかしくなってしまったと言われると、確かにそうだと思ってしまう。
本当だ、そうだ、あの事件から、くっきりと、教育の場から体罰はなくなった。私が幼少の頃は確かにまだ、体罰はあったのだ。親や先生といった大人は怖い存在だったし、何をすれば、何を言えば平手や拳が飛んでくるのかを学んで、成長していったように思う。

でも確かにあの事件以来、先生は生徒を殴らなくなった。先生は怖い指導者ではなく、子供と同じ目線の友達になった。
それは一見、いいことのように思えたけれど、私のような、先生と友達になれない暗い子供にとっては、不公平感、不信感、不満を増したようにも思う。
怖い指導者であれば、どの子供に対しても公平でいられる。でも友達になってしまったら……目をかけてもらえない子供がハッキリと出てきてしまうんだもの。

家庭での、親の子供への虐待が叫ばれたりする昨今だけど、それは実は、そうした時代に育ってしまった子供たちが親になったからではないのか。
だって私は、自信がないもの。もし自分が親の立場になったら、厳しい指導と慈愛のバランスを上手くとって子供を育てられるのかって。
結局、モンスターペアレンツとかだって、そうしたところに原因が見つけられちゃうじゃない。

……てな感じで、なんかもう、ぐるぐると、作品とは関係ないところでばかり考えてしまってちっとも前に進まないけれど。
でもね、私、本作が、かつて戸塚ヨットスクールを先頭切って糾弾したテレビマスコミによって作られていること、それも、地元のテレビ局としての大いなる自責を持って作られていることに、ひどくひどく、心を打たれたのだった。
製作者の弁をちらりと拝見したのだけれど、凄く、感銘を受けた。テレビがどんなに優れたドキュメンタリーを作っても、それが地方であればなおさら、人の目に触れる機会が極端に少ない。そして映画ドキュメンタリーの世界にイライラする気持ちを感じる、というのが、それがどういう点においてなのか明言はしてなかったけど、ちょっと判る気がした。

いや、多分、私の考えは彼らとは違ってるかもしれないけど、映画ドキュメンタリーも優れた作品は沢山あるけれど、ただ……その中で、これってズルいよな、と思うことも多々あった。
それは、これ、最初から共感されるに決まってるじゃん、ていう題材をテーマにしていることだったりね。例えば出産とか、障害とかさ。
勿論それだって作品を作るのが大変なのは判ってるけど、でも感動ありきで作られるのはやっぱりちょっと、違う気がした、と思ったのは、本作に触れてからなんだから、それこそ私こそズルいんだけど。
そう、ドキュメンタリーって、人が無自覚に、無責任に、思い込んでいることを変えるだけの覚悟を持つべきなんだって、糾弾されるのなんてある意味当たり前ぐらいの覚悟を持って作らなければ、凄いものは作れないんだって、思い知らされたのだ。

て、全然内容に入っていけないけれども(爆)。でもね、うん、ほんと、私は、今でも戸塚ヨットスクールが運営されていることに、単純に驚いてしまった。
でもだからこその、本作である。しかも戸塚ヨットスクールは、ある意味今の時代にこそ求められている。ていうか、あの時代には、あの時代ゆえに受け入れられてて、ずっと、戦い続けていたのだということをまざまざと直面させられる。
あの時代の問題であった登校拒否(今でいう不登校)、非行、家庭内暴力の子供たちの受け皿となり、そんなトンがった子供たち相手だから体当たりで臨む指導者たちは当然体罰も必要になったのだと思われ。
ていうか教育に熱い戸塚校長は、子供を愛するからこそ、まだ人格が形成されていない子供というものを冷静に判断していたからこその、体罰だった。

今、こんなことを言ったら、反発される向きもあるだろうな。子供に対しても人格を叫ぶ時代だから。
どちらを是とすべきなのか、今の私には判断し辛い。確かに人格を全否定して体罰されたら、そりゃ違うだろと、ただトラウマになるだけだと思う。
でも……子供は確かに子供なんだもの。柔らかだからこそ、間違った方向にもぐにゃりと行ってしまう可能性がある。
キミたちに人格を認めているから好きなようにやりなさいと言われたら、子供の頃の私は確かに戸惑うばかりだったかもしれないと思う。今となっては、そんな幼い頃の記憶はおぼろげだけれども。

で、なんか脱線しちゃうけれども……だから、非行だなんだとトンがった子供たちを受け入れていた時代とうってかわって、今、戸塚ヨットスクールが受け入れているのは、まあ同じく不登校の子もいるけれど、登校拒否が不登校と呼び方が変わると、やはりその子供自体も変わったように思えてしまう。
イジメというのは普通?の理由だけれど、何かそれ以上に無気力に感じてしまうのは、いつの時代も大人が「今時の子供たちは……」と一律に断じてしまうせいなのだろうか?

そして、ニート、引きこもり。つまり年齢がぐっと上がってくる。かつては10代の子供たちだけだったのが、映画の最後には40歳のニートがボートを操れず、今回だけやってくださいよ、と年下のコーチにダラダラと頼んでいたりするんである。

その中にはより精神的に追いつめられて、自傷行為を繰り返している女の子も出てくる。
衝撃的なのは、この女の子が入所後三日目にスクールの屋上から飛び降りて自殺してしまうことであり、カメラは彼女が入所している時から映像をおさめているんである。
確かにこの事件はなんとなくおぼろげに覚えているような気がする。それこそ、へー、戸塚ヨットスクールってまだあったんだ、みたいに思ったような……。
でも内側からそれを見ると、ここぞとばかりに集まったマスコミが、実におざなりに、実に実におざなりに、かつてのイメージを簡単に持ってきて、体罰はなかったのかと、管理体制に問題はなかったのかと、判ったように聞くことで……。

ああ、でも、この“管理体制に問題はなかったか”って、いろんな事件があるたび、腐るほど耳にする言葉だ。今こうして聞くと、それってなんて簡単に正義を振りかざした言葉だろうと思う。
だって、どうしようもない、どうしようもないよ。戸塚校長が苛立たしげに言う、監禁したらその危険性があるとかつて言われて、今はしてない。それでもそうなる。どうすればいいんだと。止めようがなかったと。
戸塚校長はね、でもやっぱり、まっすぐな人だよね。だってこういう場合、ただ頭を垂れて、神妙な顔をしてやり過ごすことだって出来た筈じゃない。それが一番無難でラクじゃない。
でもそれこそが、無責任だってことなんだよね。自傷癖がある女の子を受け入れた経験などなかった。でも両親が困りに困って、ここしかないとスクールの戸を叩いた。

悲しい結果になってしまったけれど、両親はスクールで弔いたいと言い、ささやかな葬儀が行なわれる。それこそ、こういう場面をマスコミが、ワイドショーが報じることはない。
彼女がたった3日間でも、今まで得られなかった経験。似たような境遇の、年若い女の子になつかれて、楽しげにオカリナの練習なんかして。
たった3日でも、きっと彼女は幸せだっただろう、発作的に自殺してしまったけれど、幸せだっただろうと思ってしまうなんて……いけないだろうか。

このシークエンスは、作品にドラマチックさを与えるにはあまりに格好の出来事で、それだけに辛いのだけれど、もっと本作の本質を支えているエピソードは数多くあるんである。
それを最も強烈に感じたのは、スクールで長い年月を暮らし、一度卒業してもまた問題を起こして再入所したりして、でもその中で、自分のやりたいことや新天地での人生に希望を見つけたりと、観客が安堵したところをアッサリと裏切った二人の青年である。

それこそ、その前段階までで終わっているならば、それこそそれこそ、凡百のドキュメンタリーにありがちである。
人間どんなに恵まれない境遇であっても、もう人生ダメだと思っても、何度でもやり直せるチャンスがあるんだと、まあそんな、いわば使い古されたフレーズで締めくくることも出来そうなもんである。
でも人間は、社会は、想像以上にそんなお気楽ではない。正直、私らの感覚ってそんなにお気楽だったのかと打ちのめされる。

彼らはね、ホントに立ち直るように見えるのよ。少なくとも一人の青年は、スクールでの生活の中でやりたいことを自ら見つけ、タンクローリーを運転するのが夢だけど、その免許が取れなければ運送会社でも、と言いつつ見事免許を取得、本当に本当に嬉しそうだったし、熱心に試験勉強をしている彼を校長も目を細めて見守っていた。
なのに、なのに。試験も合格してスクール卒業のメドもたったのに、本当に、もうすぐだったのに、「スクールでの生活がイヤになった」と、それまでずっと長年暮らしていたのに彼は突然姿をくらますんである。

しかもそれを繰り返し、しまいには弁護士事務所に駆け込み“保護”される。
他にもそうして弁護士事務所に駆け込むスクール生はいるらしく、弁護士から「あのスクールは昔から問題があるから。校長の信念もテレビで見てると(!)変わらないようだし。駆け込んだ訓練生たちは、暴力を受けたと言っている」とこともなげに、まるでこちらが正義のように(まあ弁護士だから当然といえば当然なのだが……)言うんである。

……いや、私だって、本作を見なければ、アッサリとこの弁護士の言うことを、駆け込んだ、つまり脱走した訓練生の言うことを信じただろう。
それを電話インタビューの形で聞く本作のスタッフが思わず言葉を無くすのは、彼らがカメラでずっと追いかけ続けていた青年であり、人生に対するやる気を確かに感じていて、ここまでつきあってくれたスクールや校長に感謝していたと確信していたからに他ならない。

この彼と同じような年齢で、長年の生活で年下への面倒見もよく、スクールのリーダーを任されていたもう一人の青年も、沖縄での農家の住み込みを校長の口利きで紹介され、やる気満々で、将来は自分の土地を持ちたいとまで語っていたのに、わずか数ヶ月で姿を消してしまった。
あの時、長年苦しんでいた彼が更生してくれたこと、やる気を示してくれたことに校長は本当に嬉しそうで、でもそれでも、何ヶ月、何年、もしかしたら二週間かもしれない、だめになって戻ってきたらまた考えなくちゃならないから、と、もう彼自身充分おじいちゃんなのに、最後まで面倒見る気持ちでいたのに、なのに、彼は戻ってくるどころか、姿をくらましてしまった。

こうして見ると、何か本当に、人間不信に陥るのは戸塚校長の方ではないかと思うのに、彼はなぜこんなにも情熱を傾けられるのだろう?
でもね、校長はね、彼らがウソつきなのは、最初から判ってる風で、きっととても傷ついてはいるだろうけれど、実にその辺の覚悟が違うって気がするのだ。
だって校長は、スクールを始めた最初から“情緒障害児の教育”とハッキリと口にしていた。子供たちがウソをつくのもその範疇の事柄であるという認識が、最初からきちんとあるに違いない。

簡単に障害であると言ってしまうのは、特に今の時代は、人権やらなんやら難しいと思われるけれど、そこまでハッキリとした意識があって、しっかりとした教育(あるいは治療)方針が無いと、とてもやっていけないだろうと思う。こんな、一年中休みもない、こんな仕事をやること自体、ムチャだもの。

本当に、休みがないよね……夏休みには短期間で小学生の子供を預かったりとかさ。
その短期の入所後、本格的に長期で入所してくる小学生の男の子が、夏休みの時には長髪で、ダラダラしてて、いくら言っても集中力に欠けていた(ヨットスクールだから、やはりヨットの訓練の様子で明瞭に判ってしまうのだ)のだけれどね。
本格入所になり、頭を坊主に刈って、先輩に、それこそこれは暴力ちゃうのと言うような小突かれ方をして、しかしそのことで無意識に力を抜いていたのが全てに本気で力を注ぎ、全てに確認を忘れず、めきめきと人間の成長をみせていくのが目に見えるのが、本当に、目を見張ってしまうのだ。

校長は言っていたんだよね。やっぱり子供のうちだって。彼は、小学校教育に携わりたかったと語る。それこそあんな事件が起こらなければ、彼はいい小学校教師になれたんじゃないかと思う。
いやでも、それでも、今、あまりにも受け皿がない状態、家庭が投げ出した子供が、あるいは家庭から逃げ出した子供が保護される児童保護施設も、需要に対して数パーセントにも満たない状態。
戸塚校長も言っていたけれど、本当に感じるのは、行政の、政府の危機感のなさもそうだけれど、いまだに神聖視される、家庭での教育主義、もっと言ってしまえば実子主義。

子供は自ら産んだ子供でなくてはならず、そしてそれが母子家庭になろうと父子家庭になろうと、どんなに余裕のない家庭環境であろうと、家庭教育こそが推奨され、子供がうまく育たないのは家庭の、親の責任、あるいは、子供のだらしなさにされるという、悪循環にもほどがあるこの状態。
作品内でもそうした悪循環が頂点に達した結果の、家族間の殺し合いの事件の多発が新聞記事のカットバックによって示されていたけれど、そうして報道されてもなお、時代のせいだの受け皿の少なさのせいだのにはされず、やはり、その家庭の問題、親が無責任だの、子供がひきこもったりして成長してないからだのと言われる。
いくら同じような事件が頻発しても、それをデータ化して原因を探ろうとせずに、毎度、その親、その子供に責があると言う、この未熟な国家を、確かに確かに感じていたから、それをズバッとここで示されて、溜飲が下がると同時に……ダメじゃん、と。示されていても、すくいあげられないんじゃ、ダメじゃん、と。

だってさ、受け皿がないことで、スタッフが足りなくて悲鳴をあげている児童施設のスタッフが、戸塚ヨットスクールのことを質問されて、やっぱり眉をひそめるんだもの。否定はしませんけれども……と言葉を濁して。
でもそりゃそうなんだよね。このスタッフは私と同年輩か、それ以上。つまり戸塚ヨットスクールの“悪名”が刻み込まれたドンズバの世代なんだもの。

私だって、私だって、さあ……本作を見なければ……でもさ、それこそ、どんなに力がある作品だからって、それまで何十年も信じ込んできた、思い込んできたイメージを、本作のたった90分かそこらで覆されてしまうなんて、いや、それだけ本作が力があったってことなんだけど、確かにそうなんだけど、逆に言えば、それだけ、その思い込みがいかにもろい土台であったかを思い知らされたのだ。
そして同時に、あの時ワイドショーで吠えまくられていた、あの“事件”も、あの“事件”もそうだったかもしれないと思うと、人が人を村八分にして、追いやり、締め出し、時には死にまで追い詰めることを、日本全体で、メガホンを持ってやっていたのだと、今更ながら背筋が凍ってしまう。

何が本当で、何が真実なのか。そんなことを思う時、それって、そのことを判断するための情報が必要になるんだけれども、一方的に垂れ流しにされた“情報”が公平で正当だと信じていて、いや、ていうか、公平だの正当だのってことすら、考えてなかったかもしれない。
他からの考えを自分の考えのように洗脳されていた、あの時代。あの頃、マスコミは何かひとつを糾弾する時、完全に一本かぶりだったけれど、その中で、実はこれはおかしいんじゃないかと、間違っているんじゃないかと思っている人だっていたんじゃないのか。

でも、あの熱狂の中ではそう言ったら最後、糾弾される側に回ってしまうことは火を見るより明らかだったであろうと思われる。それも悲しい話だけど、でも、いなかったと思うより、きっといたんだ、でもどうしようもなかったと思う方がまだ救いだろうか。
それとも、いたのに、声をあげることも出来ない時代を憂えることの方が“正解”なのだろうか。

だからと言って、あまりに玉石混合な、どれを拾い上げていいのか判らないほどに、情報と言えないものまで氾濫している現代で、どうすればいいのか判らず、とりあえず無気力になっている。とりあえずなんておかしいけれども、もう情報が多すぎて、取捨選択に疲れ果てて、無気力にならざるを得ない現代も決して幸せじゃない。
正解がもっともっと判らなくなってる。ならば一体どうすればいいの。何を信じたらいいのか。

「諸君らの方針で、今は体罰を行なっておりません!」と苛立たしげに言った戸塚校長だけれど、でもスクール内での訓練生のいさかいには手を出さず、一見して、これ、イジメちゃうの、暴力ちゃうのと思う場面も結構出てくるんだけど、でも、“一見して”なんだよね。
それらには確実に理由があるし、それを乗り越えて、訓練生の間には絆がある。校長は、イジメさえも推奨していて、それは、今では言うことすらタブーになった、“イジめられる側にも問題がある”というニュアンスも感じるんだけれど、でも何より大事なのは、理由もなく見えないところでイジメることがノーであることであり、そのルールが破られたら、きちんと指導者が割って入ることなんだよね。
これってさ、これって、これこそが、あるべき教育の、あるいは子供同士の社会であると思うのだけれど、なぜ今の時代、それがそんなにも難しくなってしまったんだろう。

なんだか本当に判らなくなってしまうのだ。確かに30年前、訓練生が四人も死んでしまった。そこには確かに、どうにかできる問題があったのかもしれない。
でもそれは、今の教育が、社会が、家庭が、ここまで崩壊してしまうキッカケにしてしまうほど悪しきものだったのか。
どんなに世間から糾弾されても、マスコミから叩かれても、休みなく、休みなく、子供たちを育て続ける校長、そしてボーナスなしのコーチたちには無条件でこうべを垂れるしかないではないか。

ハッキリ顔出ししている訓練生と、目の部分をぼかしている訓練生と。それは今、かつての訓練生で見事に会社の経営者として社会に貢献している大人たちも、自分はいい経験をさせてもらったと言いつつも、背中を向けて顔を見せていない。
30年という時間は長いけれど短く、それはあのほんの一時の、これこそが実利主義のワイドショーの熱狂が生み出したものだと思うと、何とも言い様のない重い気分になってしまう。★★★★★


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