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「わ」


2011年鑑賞作品

Wild Flower
2011年 70分 日本 カラー
監督:青木紀親 脚本:青木紀親
撮影:岩永洋 音楽:西山健
出演:友田彩也香 深澤友貴 池永亜美 豊川智大


2011/11/22/火 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
正直ものすごい消化不良で、???という状態で終わってしまったので、トークショーぶっちして帰ろうと思っていたのだけど、そのまま監督さんとトークゲストの井土監督の話を聞くために残った。
トーク聞いちゃうと自分の考えが容易に影響されやすいもんだから、なるべく聞きたくない気持ちもあるんだけど(その割にうまく抜け出せなくていつも残ってしまう(爆))、今回はあの背景があまりに謎だったので……。

とはいえ、そのトークゲストの井土監督は私にとって最も謎で苦手タイプの監督さんだから、ど、どうだろうと思っていたら意外にも?私の消化不良をストレートに突っ込んで聞いてくれたもんだから、つまりトークを聞いてかなりスッキリとしたもんだから、あらあ意外、などと失礼なことを思ったりして(汗)。

表面上流れているストーリーは、特に難解なこともなく進んでいく。井土監督が指摘したように、ボーイミーツガールもすんなりと挟まれる。
しかしその背後には、ヒロインが手紙をやり取りする原田なる人物が計画しているらしい、“すべてを破壊する”日までのカウントダウンが刻まれている。

それは一体なんなのか、何が目的なのか、何を破壊するのか、そもそも原田とは一体いかなる人物で、ヒロインのユキコにとってどんな存在で(いやまあ一応、孤児院の院長だったということはあるんだけど、この関わり方は尋常じゃないじゃない?)、ユキコは彼のその“活動”のことをどこまで知っててどこまで関わっているのか……。

ユキコが「20歳まで生きなさいと言われて、その歳になりました。今度は何歳まで生きればいいですか?」と問いかける、つまりそれぐらい信頼を寄せている人物。
当然物語の終わりには、彼との再会やその活動やその活動のもたらす結末や……つまりカタルシスがあると思っていたから、すべてがそのままにされたんで、ええっ?じゃあ一体なんだったのその設定……とボーゼンとしてしまったのだった。

と、いうのを、井土氏もシンプルに監督さんに突っ込んで聞いてくれたんだけど、特にヒロインと関わりはない。ただ、このパーソナルな物語と対照的な世界を置きたかった、と語ってて、どへー、と思ってしまった。
井土氏は、そういうの判るけど自分には出来ないと感心したような口ぶりだったけど、それってだって……やっちゃいけないからじゃないの、とついつい思ってしまった。

観客の想像にゆだねるなんて言われたら、すべてがそんな風に、思わせぶりな映画が出来上がってしまうではないか。そりゃあやたらと説明過多な、観客をバカだと思っているような映画は腹立つっていうのはあるけど、監督自身にその程度の認識しかない設定では、観客の想像にゆだねるも何も、それじゃこの映画の立ち位置自体が失われてしまうように思えてならない。
RPGじゃないんだから、と思ってしまう。うーん、監督さんはお若いし、RPG感覚なのだろーか(いや、私がゲームしないだけっ。と見栄を張ってみる)。

まあ、いいや。最初から話を進める。ユキコは“施設”とだけ劇中では言われているけれどいわゆる孤児院育ちであるのは、後から職場(古書店)にバイトで入ってきた女の子の台詞「片親ですか?」の台詞で知れる。
「シングルマザー。いわゆる育児放棄」とことさらに冷静を保って返すユキコにその子は「母親に復讐したくないですか?私はしますよ」と笑顔で言う。
どこにいるか知っているかと聞かれ、「お墓」と返すユキコに彼女はバツが悪そう……でもなさそうな変わらない笑顔で「ゴメンナサイ。それじゃムリですね」と笑う。

施設から出た子達の、受け皿と言えば聞こえがいいけど、まあいわば腰掛け的な場所で、古株のユキコは10数人のバイトたちが来ては辞めていっているのを見ている。
ある意味店長には信頼されているとも思えるんだけど、最後の最後、ユキコもまた黙ってその職場に来なくなると「……まったくどいつもこいつも」と店長がこぼすのを見ると、ユキコもまたそう信頼されているわけでもなかったのかな……という何がしかの寂寥感を覚えなくもない。つまりは、所詮は施設出身なんてそんなもんだ、と。

そのバイトの女の子はしきりにユキコに、こんなところは出た方がいい、と持ちかける。その子自身、ここに長いこといるつもりではないのは、第三の人物、万引き少年のナオキによって明らかにされる。
やたらと豪快に物を盗み(まあそれもその場面を活写する訳じゃなく、盗品の本をどっさり古書店に売りに来るってだけだけど)、何かを調べることにも長じている彼は、そういう意味ではちょっと薄気味の悪いキャラ設定なんだけど、いつも同じTシャツにザック姿というアキバ系なスタイル、童顔に舌っ足らずな口調が年齢不詳、というか人物不詳のような、奇妙なチャーミングさがあって。

そういやあ井土氏は彼とユキコが、いくらなんでも最後セックスするだろうと思ってたのにしなくて大いにコケたと言っていた。
この青春Hという企画、エロを組み込む“条件”をその“条件”だけ放り込むようにクリアさせて、「青木紀親という監督は、セックスには全然興味がないんだな」と半ば感心したように言っていたが、確かに、って感じである。
井土監督は、自分がプロデューサーならこの企画は通さない、とまで言ってたりして(爆)。

この青春Hは勿論、ピンクでも、古くロマンポルノでもそうだと思うけど、エロを組み込むことだけが作品を作る上での条件となった場合に、それとどう向き合うのか、っていうのが作り手によって大きく異なるのが、面白いところでもあることは確かなんだよね。
エロ、セックスが人間の本質に根ざしたもの、人間関係のひとつの根幹と言えるもの、そこからいかようにも濃密な人間の物語が作れることを思えば、それを生かさない手はない、っていう方向は確かにある。

本作だって、ユキコが母親のかつての恋人を訪ねるシーンもあり、その母親と彼との回想でだってエロシーンは作れるし、その場面があれば、また作品の色合いも違ってくるだろうと思う。
まあそれこそ“一般映画”でだって、親の過去の恋人と子供が遭遇するなんてエピソードは数多くあり、珍しくもないんだけど、この企画でそれをやるならば、という思いはある。

だって本作で示されるエロは、本当に放り投げるような感じなんだもの。殆ど意味がないような。
ユキコがバイト感覚で寝る、まあいわゆるエンコウよ、かつていた施設の職員とのセックス。もらうのが一万円とは、今の冷え込んだエンコウ相場なのだろうか……。

その職員が施設で処女喰いをしていたと、憤懣やるかたない調子で言ってきたのがあのバイトの女の子で、ユキコはそれに対してちょっとショックを受けたような顔をしたから、彼女もまた処女喰いされて、その後もズルズル関係を続けているということなのだろうか?
しかし彼に関しては正直カラミ要員といった感じで、それ以上の意味は感じられなかったし、監督自身も「そういう場面は演出は殆どしなかった。いつもどおりやってくださいと言った」なんて言ってたしなあ。しかしいつもどおりって……メッチャ恥ずかしいやんか、それ。

とはいえ一応ナオキが彼に嫉妬する様子を見せたり、処女喰いの事実が発覚するとユキコがこの職員に猛毒を仕込んだり(しかしその結末は明かされないけど)するから、それなりに感情のストーリーには絡んできているんだろう……けど……。
でもそれこそ、ナオキとは何も、ないんだよね。ナオキが年齢不詳な感じがあることもあって、ユキコに対しても何か弟のような雰囲気もあるし、ナマイキだけどなんか経験なさそうだけど、だから余計に、確かにナオキとユキコのそうした“結末”は見たかったなあ。
ナオキが地域の自治警備隊によってボコボコにされて終わりって、そんなそんな。
でもそれも、ユキコの台詞にある「地域の治安を守っているつもりでいる人たち」という皮肉タップリの言葉を描出しているとも言えるけれども……。

それだけ何気に、ナオキが魅力的だったっていうこともある。あの独特の舌っ足らずさが、ちょっと異邦人感を感じさせる。
死んでしまったら復讐できないと言うユキコに、墓をあばいて骨を溶かせばいい、と提案し、ヤバい薬品をこともなげに調達(盗む)してくる彼。
更にこともなげに「手袋は絶対してね」などという妙な冷静さといい、ちょっとナニモン?と思わせる魅力があるんだよね。

自分の今のもやもやを晴らせるなら、とユキコがその計画に乗って母親の実家を訪ねると……思えば母親が死んだというのはもうずいぶん昔の筈なのに、いまだお骨がそのまま置かれているというのも奇妙だなと思ったら、その中には何も入っていなかった。
ユキコを死んだ母親と勘違いして腰を抜かす祖母といい、そんな、時間が止まったような空間がやけに寒々しかったけれど、つまりはユキコもまた、そうだったということ、なんだよな。

そういえば後に、母親の死の真相を知るため(骨がないのは自殺したから?遺体が見つかってないから?それは単なる行方不明??このあたりもよく判らない)母親のかつての恋人と会った時にその彼から「家族が出来ると前向きに、先のことを考えるようになる。君にもそんな風に……」と言われるシーンがあり、確かにユキコの時間は止まっている、のだろう。
その先はユキコにケーキをぶつけられて言えない。てか、そのために彼がケーキを注文するくだりがある感じでちょっとね。

バイトの女の子に言われる、ここから出た方がいいですよ、というのはそういう意味なのだろう。
母親が死んでいるのに、いまだに母親に縛られているような気がしているのも、ナオキが言うように、死んでいるのに死んでない、キミにとっては生きているから、つまり生きていたその時から時間が止まっているから、なのだろう。

ならばユキコにとって原田は、その止まった時間を動かす存在だったんだろうか?そこんところがね……。
原田、あるいは彼がやろうとしていること、ユキコと原田の中継ぎをする男の意味ありげな態度、すべてが単なる思わせぶりだったなんていう帰結なんて、あんまりだと思う。
そう、ユキコと原田とは直接会うシーンもなければ、電話とかメールとか現代ツールも一切使えず、手紙もこの中継ぎ男に託すしかなくて。

だってさ、もう冒頭からこの中継ぎ男(と彼の同僚……は関係なさそう、ってあたりもちょっとうっとうしい)とユキコが待ち合わせて会うシーンでさ、冒頭でこんなん示されたら、そりゃあメインやと思うやんか。
原田からの手紙はご丁寧に海外(フィリピンらしい)から届いたり、もうすぐ日本に帰ってきますという手紙が挟まれて、いよいよ活動しますとか、そんなん段階的に示されたら、ユキコとの再会、彼の活動、結末、カタルシスがあると思うやんか。
その全てが、ヒロインのパーソナルな物語と対比させるためだけの、“観客にゆだね”て放り投げられてしまうなんて!

う、うう、また何とのう、愚痴ってしまった。でもさ、だってさ、ユキコが原田の決行の日を知り、カレンダーに丸をつけ、古書店も連絡もせずに行かなくなり、エンコウしてた職員に毒を飲ませ、ネオンきらめく夜の街を何かの思いを込めて前を見つめて歩くシーンをスタイリッシュにキメられたらさ。

そして次のシークエンスでは開き直ったかのようにエンコウというか、もはや本格的にデリヘルに足を突っ込み、新人なんでよろしくぅなんて言ってさ、で、ニュース速報に流れる政府機関への爆発テロに唇をゆがめて笑う、なんて言うんならさ、まあ長くなったけど……とにかくとにかく、原田の決行とその先に凄く思いを馳せてる気がするやんか。
監督さんが言うように、犯罪のような良くないことであっても、それに勇気をもらってしまうことがある、なんてうがった見方はとても出来ないよ。だってここまで道つけられちゃってるんだもん。

それともユキコがそれぐらい、道つけてでも原田の活動に勇気付けられたかった、それを心待ちにしていた、ということなのかなあ。自分を奮い立たせるためにとか?……よく判らない。
ただこの最後のシーンでは、ユキコは別の目的のために動いているんだよね、確かに。原田に会うとか、その活動の結末を見極めるため、では確かにないんだよね。
母親がかつての恋人に託した遺書のような手紙、そこに示された背中に火傷の跡がある男。
かつての恋人の彼は母親が殺されたようなものだと言い、しかしその手紙を受け取ってもその男を捜そうとはしなかった。
そのことにユキコは苛立ち、ショートケーキを彼の顔面にぶっつけた。ユキコはつまり……過去に生きることに決めたのだとも言えるシーン。

ユキコがフーゾクの世界に身をおいたのは、背中に火傷のある男を見つけるため、だったんだろうけれど、彼女がニュース速報を目にして唇をゆがめるようにして笑ったのはそれ以上の意味はない。
監督さんの言うとおり、良くないことに勇気をもらうこともあるという皮肉な表現であり、後ろを向いて歩いているユキコを描写するにはこれ以上皮肉な表現もなかろうとも確かに思うんだけど。

なんだろう、私。何が気に入らないんだろう。うーん……。“パーソナルな物語と対照的なもの”そうした世界観、確かに見えてこないだけにちょっと恐ろしく感じる世界観、判る気はするんだけど……。
でもそれを持ってきちゃったが故なのか、その大前提のパーソナルな物語が侵食され、セックスという感情も巻き込んだ“条件”もとりあえずといった感じにこなされ、ボーイミーツガールも、一体ナオキと出会ったことが彼女にとってなんだったのかさえ放り投げられ……なのだとしたら、ど、どうなの、と思ってしまったり。

まーつまり、私は年くっても女子だから(爆)、ラブを感じたかった、って、だけなのかもしれないけど。
口が達者でナマイキだけど、実は純情そうなナオキとなら、そんなトキメキが期待できるかもと思ってしまったからかなあ。

ユキコを演じる友田彩也香嬢は、ギャル界では人気がある存在らしい。正直私は彼女のメイクの濃さ(特にアイメイク)がずっと気になっていたが、どうやらあれは彼女の通常よりずっと落とした状態らしいので……そうか……難しいな(爆)。
しかし、彼女のおっぱいの極上の美しさにはほうと見とれてしまった。お碗型というのはこういうのを言うんだろう(古い言い方だろうか……)。
やや大きめのお椀、手にちょっと余るような、実にいい感じのサイズである(照)。なんだかんだ言ってやっぱり若いうちにおっぱいは見せといた方がいいかも(爆)。女優は出し惜しみしちゃ、いかんね。★★★☆☆


若きロッテちゃんの悩み
2011年 80分 日本 カラー
監督:いまおかしんじ 脚本:いまおかしんじ
撮影:高木風太 音楽:金山健太郎
出演:辰巳ゆい ラブシングル中田 川上洋一郎 ちひろ

2011/6/7/火 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
意欲的な企画、青春Hシリーズも“セカンドシーズン”に突入。時間は遅いし、一週間しか上映してないことも多いし、なかなかツラいんだけど、今回はいまおかしんじ監督作品だというので何とか捕まえて観に行く。
青春Hシリーズはいまおかしんじから始まったというのだけれど、残念ながらそれは未見。だってこんな具合に、実に捕まえづらいスケジュールなんだもん。

本作のキャストは皆、知らない顔だが、皆、なかなかに達者な演技を見せる。特にこういう場合、ヒロインは重要である。
こういう企画にありがちではあるけど、AV女優さんが映像に挑戦!ていうね、そういう場合、ほおんとに見てられないお芝居をする人もいるんだけど、彼女はなかなか良かったなあ。
それに、んー、さすがおっぱいが美しい(爆)。いいなあお腹出てなくて……ていうか、こういう美しいヌードを見ると(ヌードという言葉自体、ひょっとして死語なんだろうか……?)、世間的には冷ややかな視線を向けられることもあるだろう職業の彼女たちだけれど、やはりプロ意識を感じる。ただ女優さん、だけじゃこんな美しい肢体は拝めないもんなあ。

などと思ったのとリンクした訳でもないけれど、劇中、ヒロインのかよは、自分には何も取り柄がないこと、ただ付き合った男たちからしゃぶるのだけは褒められたこと、思い切ってピンサロに飛び込んで、誇りを持ってやっていること、だからお客さんに気持ちいい、と褒められると嬉しいんだ、と語る。
その内容もまた、いかにもこういう企画の中のヒロインが語るものだという気もするけど、でも劇中の彼女をここまで見続けてくると、彼女のそのプロ意識にすんなり感動するんだから凄いなぁ、と思う。
青春HだからただH、エロだけではない人生の滋味、うん、彼女はまだ若いけど、その若い中で心と身体で苦労してきた滋味ってものが、なんとも出ていて、それが演じる辰巳ゆい嬢自身の良さなのかなあなどと思う。

彼女と両主演とでも言うべき、いや、もしかしたらこちらがピンの主役かもしれない、44歳の素人童貞男、加藤を演じるラグシングル田中なる御仁もなんとも良い。
ラブシングル田中??と思ったら、彼はお笑い芸人さんらしい。また面白いところから持ってくるなあ……。
まるでのだめの真澄ちゃんみたいに触りたくなるようなほわほわのカーリーヘアに黒ブチめがね、いかにも冴えないけどなんとなく可愛らしさの漂う彼は、冒頭からピンサロ嬢のかよに「ちょっとぐらい入れてもいいじゃん」と迫る。
当然、その途端に店のコワーいお兄さんから制止が入るわけで……。

冒頭はちょっと、時間軸を前後して描いていたような気がする。記憶があいまいなんだけど(汗)。
後から時間軸を整理して考えると、かよが加藤にホンバンを迫られて振り切り、外に出ると加藤が待ち構えていてドライブに誘われるけどそれもまた振り切り、恋人と同棲する部屋に帰ると、ヒモの彼氏が飲み屋からピックアップした女の子を連れ込んでいてカニを食っており、それに激怒してかよは飛び出し、コンビニの外でヤケ食いしてたところでまた加藤に出くわし、まあそんな流れで加藤と真夜中のドライブに至った訳なんだけど……。
確か冒頭、かよと加藤がドライブしている場面がまず示されて、かよが加藤にホンバンを迫られているところで……って具合に、絶妙に時間が前後しているのね。

ところでちょっと閑話休題。このタイトル。かよは当然、ロッテなどという名前ではない。そんな源氏名を持っている訳ではない。
見終わって帰って、作品情報を得るために“ロッテちゃん”で検索する。と、いきなりバムセのぬいぐるみの広告にヒットした。おいおいおい、それはロッタちゃんだろうと思うが、つまりはそのパロも当然、入ってるよね。
若きウェルテルの悩みと、ロッタちゃんと、そしてロッテちゃんていうのは……ロッテは、お口の恋人。んん?
その言葉を口にするのは、ヒモの恋人、洋介が連れ込んだ若い女の子である。「彼が言ったんですよ。お口の恋人……お口で稼いでいるって」!!!

洋介は、ロッテのガムだろとごまかそうとしたが、彼女がアッサリそう暴露したんでかよは激怒。
てかこの女の子ってのがまた憎たらしくてねー。かよだって全然若いんだけど、この彼女は、若さと可愛さをわっかりやすく全面に出してて、かよがこの事態に激怒して洋介を刺そうか、というところまで緊迫してもきょとんとして、そして笑い出す。「バッカみたい」
しかもそれを、かよのベッドの中で気だるげに起き出したカッコのままでだよ!あ、ありえない!!
ていうか、まあありえるか……確かにこういう女の子、まあ、いるわな、いるんだよな……。
かよは確かにフーゾク嬢だけど、でもその仕事に誇りを持ってる。一生懸命やってる。なのに、その“お口で稼いだ”カネでヒモがカニを買って女を連れ込んだことが許せず、何よりここはそう、かよの部屋だ!なのに!!

“かよは確かに……”などと言ってしまった私も、やはり偏見はあるんだな……。でもそこんところは、やはり上手いと思う。だって、洋介は自分は料理人で、今は不況で仕事がないだけだと言ってるけど、つまりそんな言い訳ヤローであり、そして加藤は警備員、道路工事でずっと棒を振っている、あの仕事を地道に地道に続けている御仁である。
世の中に職の貴賎はないと言えど、人は誰しも、自分の仕事はああいうのよりはマシ、とか卑屈な折り合いをつけて生きている訳で……彼らの職業(洋介は職業ですらないけど)は、そうした私らの自尊心を満足させるものなんだよね。

飛び出したかよは、加藤と真夜中のドライブに出かけ、しかし加藤は情けなく迷い、ていうか下心丸出しでラブホに泊まろうとするもかよに拒否される。
しかし、おしっこがガマンできなくなったかよが飛び込んだ民宿でチャンス!とばかりコトに及ぼうとするも、彼女に蹴り飛ばされ、哀れ寒空の中、車中泊になりそうになり……。
この場面、肩もみからかよの気持ちをほぐそうとして、「おっぱいももんでいい?」と言い出す加藤に爆笑!も、って、もむ意味が全然違うだろ!
一度は蹴り出したかよだけど、車中で震える加藤が可哀想になって声をかける。最初は意地を通したものの、寒さに負けて加藤が部屋におずおずと入ってくる。二人それぞれに毛布にくるまって、ビールを酌み交わすのがなんとも心に染みる。

朝食をもりもり食べる加藤に呆れながらも、かよももりもりと食べる。ごはんにおみおつけ、納豆に卵焼き、開いた魚の塩焼きといった朝食は、いかにも健康的でやたら美味しそうである。
そして二人はドライブを続ける。宿のご主人に勧められたというダムに辿り着く。何にもないじゃん、とかよはぶんむくれるけれど、加藤はなぜかそこで泣き崩れる。どうしたの、と驚きなだめようとするかよも、つられて泣き出す。

この時、加藤がなぜこんなにもセンチメンタルになったかは、後の、オドロキの展開で明らかになるんだけど、彼がダムが好きなんだ、というその理由が、「蛇口をひねると水が出るじゃん。それがこのダムにつながってるって凄いと思わない?」と。
つながる、というキーワードが彼の中に大きく鎮座しているのが、全てが明かされると殊更にじーんとくるんである。

あのね、ネタバレになるんだけれども、加藤はトランクの中に母親の死体を積んでるのだ。それが明らかになるのは、ヒモの恋人、洋介も含めた奇妙な三人旅になってからなんだけどね。
ずっと母親と二人暮しだった加藤が、突然の母親の死に動揺し、もしかしたらまた生き返るんじゃないかと、母親の身体を清めながら日々を過ごして実に半年、さすがにバレそうになって、この道行きに出たというのが……。
彼のつながりがそれまで母親しかなかったこと、ピンサロには常連だったけど、つまりはおしゃぶりだけで、いきなりホンバンを求めたことや、ぎこちないドライブデートの道行きがね……。
なんか、単純につながりを求めてるんだとか、ホンバン=セックス=母親が自分を生んでくれたこととか、そんな簡単には言えないし、言いたくもないんだけど、だってなんか、何とも切ないんだもの。

一晩たってかよが恋人の元に帰ってきて、しかしまだあの若い女の子がいることで、もうダメだ、あんたとは別れる!とタンカを切って飛び出し、しかしそのヒモの恋人の洋介が追いかけてきてかよと一緒に加藤の車に乗り込んだことから、更に奇妙なドライブが始まる。
この期に及んで、ああそうか、これってロードムービーってヤツなんだな、などと気づく。しかしこの事態って、あの若い女の子をかよの部屋に一人残したきりで、鍵もかけてないし、などとどーでもいいことが気になる。

とにかく三人の旅が始まる。この緊迫した三角関係を理解しているのはかよただ一人で、最も反省すべき洋介は「海行きましょうよ!ドライブといったら、海でしょ!」とはしゃぎ、かよから、免許も持ってないくせに、取るって言ったじゃん、と憎々しげに突っ込まれても全く気にせず(このあたりが、ヒモのヒモたるゆえんかもしれん……)、こともあろうに加藤までもが「海か、いいねえ」とノリノリになり、まだ肌寒い春の海に向かうんである。
あ、春だと判るのは、途中ちらほらと桜の木が見えるからなんだけど、そう言ってる訳ではなかったような。かよの格好は春らしかったけど。

海に着き、加藤がまず服を脱ぎ捨てウワー!!!と海に突進。ええ?まだ寒いじゃん、バカだね、と見ていた二人だけど、洋介も服を脱ぎ、ウワー!!こうなったらかよもそうするしかない。
ミニのワンピースからチラチラ見えていたのは、こんな可愛いレースふりふりのお姫様みたいなラブリーなパンツだったのかあ。男たちといっしょにトップレスの彼女の美しいおっぱいがまぶしい。
そしてその後、寒さに震えて車の中でワンカップをすする三人、じゃんけんでおかわりのワンカップを買いに行く係を決めるのも微笑ましく、「加藤さん、ガンガン酒飲んでたよな、運転どうするんだろ……」「さあ?」次のカットでは、ハダカの三人がノリノリ、てかもうへべれけのハイテンションでドライブ突入!オーイ!

そのままホテルの大きなベッドで三人でダイブし、絶妙なカッティングの3P突入!3Pとは言ったけど、こんな可愛い3Pは見たことないなあ。
可愛い3P?うーん……最終的にやはり加藤が一人ハブにされて、うらめしげに二人の交合を見ていることになるのが、可愛いのか(爆)。
でも、どーしよーもない男二人を余裕たっぷりに受け止めるかよは、女神だね。エロというより、なんかふふっと笑っちゃうような、幸せな場面。
でもね、結局ここでも加藤はヤレないし、そしてぐっすり眠りこけた夜中、目を覚ましたかよがトイレに行こうとすると、その中で嗚咽をもらしている加藤に気づくんだよね。
この時には、加藤の、そしてこの物語の最大の秘密はまだ明かされてない。でもかよが、最後まで彼につき合う気になったのは、この時だったんじゃないのかなあ。

加藤は、この後は一人で旅したいからと、二人を駅まで送っていく。しかしかよは、引き返して加藤の車に乗り込む。
その直前、かよと洋介は車のトランクにどす黒く変色した老婆の死体を発見しており、洋介は、あいつマジでヤバいよと腰が引けていた。
まあ確かにヤバイことはヤバい。それでもかよが加藤の車に乗り込み、どこでもいい、どこまでも一緒に行くよ、だってヒマだからさ、と言ったのは、ヒマだから、というのは何か言い訳で、この一瞬は、かよは加藤に対して何か、愛に似たものがあったような気もしたんだけれど……。
ずっと母親と二人で暮らしてきた加藤が、母親の死を受け入れられずに犯してしまった罪、死を放置したのみならず、そのまま母親の年金を受け取り続けてしまったのだから。
でもそれは「このまま、かーちゃんと暮らし続けられるかもしれないと思った」という言葉を聞けば、彼をただ、責めることも出来ないしなあ……。

トランクの中、見ちゃったんだ、どうするの、とかよが遠慮がちに加藤に問い掛ける。どうすればいいのか、加藤にも判らず、彼はこれまでの母親との生活、こうなってしまったこと、この道行きまでの話をする。
ちゃんとお葬式出してあげようよ、とかよは言う。ホテルでかよは加藤と初めて交わった。この時に話したのが、かよのピンサロ嬢である誇りであり、「でも、チンコはやっぱりアソコに入れるのがいいよ」
これってさ、この台詞だけだといかにもエロだけど、この経過を見てくると、なんかやけに感動的なんだよね。
ここまでどこかユーモラスに未遂ばかりを繰り返してきたかよと加藤が、ようやく交わる場面は、ホンバンなどという軽い言葉では語れない。
そう、チンコはやっぱりアソコに入れるのがいいのだ、だってそこには愛がこもってるんだもの、などと臆面もなく思ってしまうような、小細工も何もない、まっすぐにむきあってまっすぐに愛撫しあい、まっすぐに入れるセックスがそこにあるのだもの。

かーちゃんは海を見たことがないと、と加藤は言った。コンクリートの岸壁に、もう息絶えて久しい母親に毛布をかけて、加藤は一緒に腰掛けた。かーちゃん、海だよ、と。
かよは遠慮して離れたところに腰掛けている。うつむいた母親のあごをあげて、海を見させた。ゆっくりと傾いた母親の頭が、そっと加藤の肩にもたせかけられた。
ふと考えると結構コワいシチュエイションなんだけど、実際母親の顔もどす黒いしさ、でもなんだかね、凄く、凄おく昇華された気がしたなあ。

長い長い旅は終わる。あんなサイテーな恋人の元にしかしかよは帰り、あの忌まわしき記憶の残るカニをまたしても食べている。なんだかんだ言って、この二人は離れ難い仲らしい。
更にカットが替わり、再び客として現われた加藤。黒いスーツを着て、かよに今までの礼を言う。しゃぶってもらい、エンド。
エンドロールにはどす黒く死んでいた筈の母親と海岸で陽気にダンス!もちろん、実際に演じていた人は生きてるんだから!というシャレは判ってるけど、なんか、救われたなあ。★★★☆☆


惑星のかけら
2011年 74分 日本 カラー
監督:吉田良子 脚本:吉田良子
撮影:猪本雅三 音楽:野崎美波
出演:柳英里紗 渋川清彦 河井青葉 黒田大輔 川瀬陽太 吉岡睦雄 宮崎達也 松永大輔 西村晋也 谷川昭一朗

2011/12/15/木 劇場(銀座シネパトス)
挨拶に来ていた監督さんが、渋谷を徘徊する三人の物語、三人と一緒に迷子になってください、と語った時にはうーむ、これはどうだろうと思ったが、結果的には三本の中で最も好きな作品だったかもしれない。
まあ正直、ヒロインの和希が自分の家庭環境を吐露する場面にはちょっとだけ……まあなんかこういう造形の女の子のありがちな感じにも思えたから、ちょっとだけ、ちょーっとだけヘキエキする気持ちもあったが(爆)。
なんといってもこの二人、和希を演じる柳英里紗と、元恋人をストーキングしている三津谷を演じる渋川清彦の魅力に尽きた。

渋川清彦はね、元々好きな俳優さんである。本作に関しては、彼だけに期待していたかもしれない。
そして相変わらず、人好きのするステキな魅力で大いに期待に応えてくれたのだが、こんなにまっすぐにラブな役柄にキュンときたのは、初めてだったかもしれない。

それは和希を演じる柳英里紗の存在力に他ならない。
この英里紗嬢がね、「すごく優しい芝居に、心から安心して“和希”を演じることができました。渋川さんとじゃなかったら、私は“和希”を演じられなかったと思います」(まんまコピペ(爆))と言ってるのが、渋川氏という役者さんの素敵さを見てきたこっちとしてはそうでしょう、そうでしょう!と思うところでね。

でもさ、そういうアナタが凄いよ!だってそれこそ渋川氏とは、親子とは言わないまでも相当年が離れてる……エッチシーンをこんなにドキドキときめきにさせるなんて、そりゃまあ渋川氏のリードがあったにせよ、あなたが凄いよ!

てか、私はこの子を知らなかった。他の二作はキャリアを積んでる妙齢の女優さんで、それまでのイメージとのギャップでちょっと驚かせる部分があったけど、この子は、この幼さで、え?彼女がヒロイン、ってことは、最終的に脱ぐの?うっそお、と半信半疑になりながら見ていた。
まあ童顔ということもあって、実際は現在21歳、でも21歳でしょ!
で、経歴がジュニアアイドルであった彼女が、エロ企画に身を投じたこと自体に、私はなんか単純にカンドーする。

実際、若い女の子の身体は、おっぱいは、ほおんとに美しいよ……感動する。
確かに、若いうちにヌードは残しておくべきだと、サンタフェを撮ったかつての宮沢りえ嬢のことを思い出したりする。まあ、今のりえちゃんのヌードも見たいけどさ(爆)。いやいや(爆爆)。

しかも彼女、なんかすっごく若く見えるんだよね。いや、実際に、この役の設定自体が、明確には示されていないけど、そうなんだと思う。
おまわりさんに年を聞かれて「二十四……」とサバを読むにもムリがありすぎるだろ!と思う場面で、10若いと言ったってムリないぐらいじゃないの、と思えるほどに幼く見える。せいぜい、15、16ぐらいな雰囲気がある。

実際の設定はどうだったんだろう……でも18って感じじゃなかった、と思うのは、18ぐらいになれば、家庭環境に翻弄されてても、もう一人で生きていけるワ、ぐらいに気持ちを決められる気がするんだよね。
和希は今だに、お父さんが迎えに来るのを待ち続けている。それは、お母さんが待てずに再婚してしまったから。

そもそもお父さんに対して女の部分を見せたお母さんが、気持ち悪かった。それなのにお父さんを待てなくて、捨てて、お父さんが帰ってくる家も壊して、新しい恋人と結婚した。
そんな場所は、私の場所じゃない、と。これは……18ではないでしょ。16、でもない気がする。印象としてはせいぜい中学生な気がする。

でもそうならば、最終的に倍以上は年が上の渋川氏とセックスするのはかなり衝撃的な展開?
でもそう思わせないのは、無論そこまでに至る二人の心の触れ合いもあるけど、やっぱりやっぱり、渋川氏の、なんともいえない、人好きのする、チャーミングな魅力、なんだよなあ。

和希は母親から携帯にかかってくるのをいとわしく思って、路地に投げ捨てた。
この場面、身体をナナメにしなくちゃ入れなさそうな狭い路地に、暗闇の空だけが高く見上げられるような不安さが漂っていて、そこに投げ捨てられた銀色の携帯が空しく鳴り続けるショットが後にふと挿入されるのが、恐らく彼女の母親と同じ世代である私なんかは、ちょいと胸苦しく感じたりもする。

でも、ちょっと危なげなファザコンであったであろうことが後に明かされる和希にとっては、この“冒険”は必要なものだったのかもしれない。
「私と一緒にいてくれませんか」と声をかける彼女はあまりにも危なっかしい。そりゃあエンコウと間違われて、オッチャンにホテルに連れ込まれてもしょうがない。

このシーンで、胸をびったりとガードして、これはムリですと言ったりするもんだから、この子は脱がないんだと、思っちゃったのね。なあんだ、と(爆)。てことは、彼女がヒロインながらも、他にカラミ要員がいるんだ、と。
カラミ要員になりそうな人は確かにいたけど、思わせぶりなトイレエッチのシーンをスキマから見せるだけで、オッパイは見せずじまい。
えーと思っていたら、和希が、英里紗嬢が震えるようなみずみずしいおっぱいを見せてくれたからビックリ!カンドー!!

……いやいや、なんかどーも私、そこに行きたいばかりに脱線するな(爆)。
で、どこまで行ったんだっけ。えーと、そう、そんな具合に渋谷の街を危なっかしく徘徊していた和希、彼女のカッコがまたさ、なんかぼったりとしたヘアスタイルといい、大きな網目のベストといい、なんとなーく80年代風なような。足元のブーツは今風(という言い方も古いが)だけど。
それともそれこそ、80年代風が流行っているんだろうか?なんか、ふてた表情といい重たい黒髪といい、あの当時の中森明菜みたいだなあ、なんて思っちゃう私は年がバレバレだなあ(爆)。

こちらも渋谷を徘徊している、渋川氏演じる三津谷。先述したように元恋人をストーキングしているんだけど、後に明らかになるところによると、その元恋人はそのことを先刻承知なんである。
それを知ると確かに彼女は、この渋谷限定で、もはや行動範囲が推測できるぐらいにウロウロしている。

途中、ひょんなことから和希が合流して、その得意の鼻を活かして見事に元カノの行き先を言い当てたりもするけれど、それも三津谷のこれまでのストーキングデータのおかげともいえる。
三津谷に見せ付けるようにツレの男とイチャイチャし、しまいにはトイレでファックまでする元カノ。
そのドアの前で和希と共に膝を抱えてじっとしている三津谷……うぅ、切なキモい(爆)。

この元カノは、つまりはストーキングされること、見られることが好きなM女、なんだろうなあ。
タイトスカートからスラリとした美脚がのぞく、素晴らしいプロポーションの持ち主。モデルさんみたい。
でもファッションはキャリアウーマン然とした堅さで、だからこそ飲んだ店ごとに次々に相手を変えていく様子が、なんともエロいんである。
それは、彼女一筋であったであろう三津谷と、まだ恋愛なんてところにまでレベルが到達していない和希にとって、あまりにもキツすぎる。

おっと、三津谷については、ストーキング男という以上にもっと特徴的な、印象的な、映画的とも言えることがあるんだよね。
解説によるとナルコレプシー。劇中では言ってなかったような気がするけど。
ところかまわず眠くなって、路上でバッタリ倒れて寝てしまう。こりゃー、「マイ・プライベート・アイダホ」だよな。ある一定程度以上の年代の映画ファンに(特にミーハー系(爆))にとっては、刻み込まれている作品。
リバー・フェニックスが突然倒れて眠っちゃう。その傍らにはキアヌ・リーブス。美少年二人の禁断の匂いがプンプン漂っていたロードムービー。

本作も確かにロードムービーには違いない。リバー・フェニックスの病にかかっているのは中年手前のオッサンで(いや!まだ青年……ですよな!)、彼を介抱するのは、娘手前の確実に処女のお嬢さんで。
……関係性の萌え度で言えば、結構拮抗するかも……あー、ヤバい。何考えてんだー!

まあ、何考えてんだ、って考えてることが、ちゃんとクライマックスに用意されているから、私は本作にホレこんだんだけどさ(爆)。
でもそこに至るまで、この狭い範囲のロードムービー、ごちゃごちゃとした渋谷の街の、誰一人その行き先を心配なんかしてないロードムービーの果てのなさは、「マイ・プライベート・アイダホ」の殺伐とした広大さに匹敵するぐらいと思うんである。

そりゃまあ途中、突然寝てしまった三津谷を抱きかかえている和希におまわりさんが職務質問はするよ。
でも目覚めた三津谷が、親戚の子なんですよ、とウソ八百並べると、不審を抱きながらも、何となく解放しちゃう。つまりはマニュアルどおり動いているだけなんだよね。

後から考えると、和希がエンコウと間違われてオッチャンにホテルに連れ込まれても、彼女の様子と、早く家に帰らないと、と言うこの哀しきサラリーマンの事情で未遂に終わるのも、ひどく優しいんだよね。
和希はこれ以上なく幸せな処女(多分)喪失、喪失なんていう言葉も使いたくないほど、三津谷に抱かれて愛をもらった。凄く、うらやましい。

おっと、またしても先走っちゃったかな。でも大体言ったかな(爆)。
自分が寝てしまったら、ほっといていいから元カノを追いかけて、その先で彼女がどんな顔をしていたか教えてくれ、と三津谷は和希に頼むのね。
でも、出来ないの。元カノを追いかけながらまた倒れて寝てしまった三津谷を、元カノは、まるでつぶれたゴキブリを確認するかのようにちょっと戻って覗き込むだけで、行ってしまう。
三津谷をほってそんな彼女を追っていくことなんて、和希には出来ないの。そして、眠りこける三津谷に、先述の、ちょっと、ちょっとだけヘキエキするあの述懐。

三津谷は、和希にとって、やっぱりちょっと、いや大いに、お父さん、待ち続けていたお父さん、だったのかもしれないなあ。
そのお父さんを相手に処女喪失すると思うとかなりアレだが、お父さんが大好きな女の子にとっては、これ以上幸せなことはないのかもしれない、と思う。
渋川氏はそこまでの年じゃないし、筋肉も隆々としてて、タトゥーなんぞも目に鮮やかだけど、でも、和希の気持ちを受け止めるセックスは、涙が出るほど優しくて、彼女のお父さんが見たとしても、納得するんじゃないかと思った。って、ヘンな言い方だけど(爆)。

そもそもなんでそんな流れになるのか。三津谷が目覚めた時、ここが渋谷だと信じられないような、しんとした、雑草が生えまくっている空き地なのね。
東京のそこここに、もぐらたたきみたいに現われる、誰かがいなくなった、どこかの生活が失われたことを示す、ぽっかりとした空き地の空しさ。
それが夜のとばりが降りた中だから、余計にしんしんと感じるんだけど、不思議と空しくない。
のは、和希がここに至るまで、三津谷と共に過ごした時間で、人が人を愛する思いや、それが報われなくても、決して不幸じゃないことを、学んだからだと思う。

草むらの中で、なんだかいい感じで二人抱き合ってね、自然な流れで三津谷は和希を愛そうとするんだけど、彼女からかすかに戸惑われて、あ、ゴメン、と……。
そうか、まだこの子、幼いもんな、という雰囲気があるんだけど、でもそうじゃないの。彼女はここでは、イヤだったのだ。
ここから抜け出さなければ、ここではない場所で大人にならなければいけなかった。
ここは、母親が捨てたお父さんを、和希だけが待ち続けた場所。だから、ここじゃ、ダメだったんだ。

本当にね、すっごくね、和希と三津谷のセックスは、イイの。
ここはどこなんだろう。三津谷の住む部屋なんだろうか。何かひどくすっきりとしていたから。
でもね、愛に満ちていたんだよなあ。痛々しいぐらい小さなブラジャーに押し込められたおっぱいが、優しく解放されたあの震える瞬間、なんかまぶしくて、目に痛いぐらいだった。
ああ、あんな時は、もう取り返せないんだなあ。

本当に、優しく、ゆっくりとした、包み込むようなセックス。呆然と観客がその様を見届けた後、和希は朝の渋谷の歩道橋の上に、元通りのあの幼げなカッコでたたずんでいる。
三津谷と愛し合っていたシーンではほんのちょっとだけ、そのほつれた髪が大人びて見えたけど、ぼってりとした黒髪の幼さが元通りになっていた。

目が覚めたら世界が変わっていた、なんてことはなかった、と自嘲気味に言いながらも、それでも暗くない。
あからさまに明るくはないけれど、早朝まだ暗い中、工事の音が響く渋谷の街を歩道橋から見下ろしている彼女は、一日前のヒネた彼女じゃない。

ここで和希が口ずさむ「まるで世界」がそのままエンドクレジットにつながっていって、ちょっとスネてた子供の彼女が大人になったことを思わせて、なんともなんともジーンとしてしまうんだ。

朝 目が覚めたら
世界が 変わっていた
空は 青くて
まるで 空みたいだったし
雲は 白くて
まるで雲みたいに咲いているんだ

母さんに おはようと言ったら
母さんも おはようと言った

父さんに おはようと言ったら
父さんも おはようと言った

まるで僕の
母さんと 父さんのように

どうしちゃったんだ 世界は
まるで 世界みたいじゃないか
オーイ

朝 目が覚めたら
世界が 変わっていた
歯を みがいたら
まるで 歯みたいにみがけたし
顔を 洗ったら
まるで 顔みたいに洗えたし
あくび しても
まるで あくびみたいな気分なんだ

母さんに どうしたのと聞いたら
父さんも どうしたのと聞いた

まるで僕の
母さんと 父さんのように

どうしちゃったんだ 世界は
まるで 世界みたいじゃないか
オーイ

素敵、素敵、素敵!!あまりに素敵で全部載せちゃった!!!
この歌、聴いたことあるようなないような。日常の素晴らしさを再確認するような詩、載せたメロディもビューティフルハミングバードの歌声もメッチャリリカルで、すんごく良かった。
和希、ねえ、変わってないと言いながらも、きっとあなたの世界は変わってたから、だから、これを口ずさんだんでしょう!そうでしょう!! ★★★★☆


わたしたちの夏
2011年 89分 日本 カラー
監督:福間健二 脚本:福間健二
撮影:鈴木一博 音楽:
出演:吉野晶 小原早織 鈴木常吉

2011/10/5/水 劇場(ポレポレ東中野)
なんかもう、うわっ、苦手……と思ってしまった。玄人受けする独特の匂いがぷんぷんときて(あるんだよなー……そういうの、やっぱり)、玄人に永遠に憧れつつもアンビバレンツに感情は背を向けてしまう私のようなバカは、どうにもこうにも困ってしまうばかりだった。
せめて何か手がかりがほしいと、これをやったらドツボにはまると判っているのに、インタビューやらを読んでしまって更に沈没。
……なんでこういう“玄人受けするタイプの人”って、決まってゴダールだトリュフォーだと口にして、最近のヒット作や一般的に評価された作品を稚拙扱いしてクサすんだろ。
なんか、そういうところ、ちょっとびっくりするぐらい似ている気がする、などと思うのは、私がゴダールだトリュフォーだという方向にもあまりにも無知で、彼らが嫌う稚拙さや判りやすさにこそ単純に価値を見出してしまうことを指摘されて、幼稚にムカついてしまうからなのだろうか??

……自分が判らないからといって、それこそ幼稚にイラつくのはやめておかなければ。しかしこの福間健二という名前はほおんとに玄人筋でよく耳にする。
本業は映画作家ではなく詩人。いや、こういうカテゴリに押し込めたがるのもいけないのかもしれない。実際、映画作家として生活を立てられている人が何割いるかっていうぐらい、過酷な世界なのだから。

だけどやっぱり、今回初見となった本作では、彼の詩人としての、あるいは文学者としての要素がそれこそ“判りやすく”詰め込まれている気がする。劇中、ヒロインの一人である大学生のサキが、ある小説について強烈に批判する場面なんかにもそれは感じる。
題名は言わないけど、やっぱりあれは「サイドカーに犬」だったのか(インタビューで明らかにされてた)。本は読んでないけど、映画化されたものを観ていたから、彼女が語る内容からそうかなと思っていた。
母親がいなくなり、父親の元に愛人がやってきた、という境遇が共通しているサキは、この小説みたいにアッサリと子供たちが愛人の女性と仲良くなるなんてありえない、と強烈に批判する。

それが本作の、唯一の物語性の中にリンクしていくんだけど、私はちょっとここにもゲンナリする。だってそれ以外はなんかキーワードや詩や、あらゆるマージナルなイメージを喚起するような断片がちりばめられているのに、サキともう一人のヒロイン、そう彼女にとって父親の愛人であった千景に関してはやたらクッサイメロドラマなんだもの。
サキが「サイドカーに犬」にありえないと思うのは、それこそ“メロドラマ”的には大いにアリであろうと思う。千景が「母親にはなれなかった」というモノローグなんて昼メロそのまんまって感じである。
だからといって「サイドカーに犬」が非現実的だとか甘いとかいう話ではないんでないの、と思う。そういう話じゃないんじゃないの、と。子供らにとって突然現われた父親の愛人は、そうした昼メロ的存在を超えた、一人の異邦人としての魅力だったんだもの。

そう思っていたから、サキがこわばった顔で「サイドカーに犬」を、つまりは千景を、そしてだらしない父親を批判したから、なんか、それこそわっかりやすいじゃん、と思ってしまったから……。

しかもサキがそう批判するのも判るほどに、千景の造形はあまりにもあまりにも“女”で、女くさいんだよね。40迎えて自然雑貨の店でノンビリ客を待ちながら、本業、というより本当にやりたいことはカメラで、あちこちで「写真撮らせて」と躊躇なく言ってカメラをかまえる。んでもって腰まで届くロングヘアーでノースリで美人だなんて、それこそありえないなあ、と思っちゃう。
なんかマンガみたいに完璧な“アラフォー美女”。友達にはなりたくないタイプだなあ。アラフォーはよほど自信がなければノースリなんて着れない(と、自分の二の腕を見詰める(爆))し、ロングヘアーを結いもせずになびかせるのは、女としての自信の現われなのは、この年の女になれば、もー痛切に判ることなの(爆爆)。
ハズかしいんだもん、ワレは女よ!と主張するの、この年になるとさあ(ああ、もう、ダメ……)。
その一方で、彼女も彼女の友人も記号みたいにアラフォーを口にするけど、そのひとつの完成形が千景で、痛々しいのがその友人、みたいな判りやすさにも正直閉口してしまう。

……なんだろ。なんか私、意固地になっているのかも?でもさ……まあここではもうひとつだけ言わせて。サキが広島の被爆作家、原民喜の信奉者であること、その一節を口ずさんだりすることも、文学者である福間氏が、こういう女の子がいてほしい、みたいな願望に思えてちょっとげんなりしてしまった。
いやまあ、私自身が原民喜も知らないバカだからなのかもしれないけど、なんていうか、ね。一般カルチャーにはひどく手厳しいくせに、自分の手の内のお気に入りに関しては宝物みたいに大事にして、それをある一人の孤独な少女(ていうあたりも彼の理想なんではないかと思ってしまう)に語らせてしまうっていうのが、少女、っていうのが、それも大人になりかけの少女、っていうのが、なんかもう、超理想やん!て思っちゃう。

……あーあー、なんか私、どうもひどくひがみっぽいな。とにかくラインはなぞってみようと思う。ライン?そんなものがあるだろうか……。
とにかく触れられるのは、日本人の夏が戦争の記憶と切り離せないこと。冒頭に千景が英語のスピーチを練習しているのは、ラストの時間軸とつながっていて、つまりメインで語られるのは、そのひとつ前のシーズンなんである。うーん、結構ありがちな構成(爆)。
広島の原爆、水をくださいとさまよった人たち、それがゆえに日本人にとって「水をください」は文字面以上の特別な意味があるのだと千景は語りかける、その準備をしている。

断片的に差し挟まれる、国際ホテルに集う外国人たち、そして大学の授業でここぞとばかりに差し挟まれる9・11とそれ以降の世界。
男子学生がいかにも抜け目なく世界情勢をきっちり取り込みながら、アメリカの暴走とそれを止められなかった国連、みたいな論を、これまた抜け目なく自身の歯がゆさとして語るのに対して、女子学生たちは注目するポイントも、そこから自分が感じたことも、非常にパーソナルで面白い。うん、ここは面白かったなあ、と思った。
秋葉原の殺傷事件で、犯人が凶器を買った店で女子店員に優しくされたことを彼自身がとても印象的に覚えている、とかね。
……うーん、だからこそかな、サキの先述の批評が、彼女ではなく、福間氏の、あるいはこの場面の大学教授の文芸批評を彼女の口を借りて言わせているように思えてしまって。

えーと、脱線してしまった。で、そう。千景は20代後半になってカメラを始めた。そしてサキの父親、庄平と恋仲になり、サキと共に一時期一緒に暮らすものの、“母親にはなれなかった”。
後から思えば、そりゃあ当然だと思う。だって千景は母親になる気なんて、多分なかったんじゃないのと思う。それは本当に単純に、千景の女くさい造形からそう思っちゃう。

しかもサキが、千景のことを、嫌いではないけど苦手だったという、その理由を語る場面、ここも、判る判ると思っちゃったな。「外で皆と遊ばないの、と聞かれたから、一人で遊ぶ方が好きだと言ったら、千景さんはとても馬鹿にした顔で私を見たから」
あるいは、「学芸会で、なんでもない役かなんにもやらない役を先生に頼んだという話をしたら……」というモノローグでも同様だった。
これはね、判る……と思ってしまった。これがベースになっているのなら、サキが「サイドカーに犬」に納得できないのも判るんだけど、でも千景はあくまで、庄平の恋人なんだよね。立ち位置的に。
サキが彼女にとってどういう存在なのかというと……それこそ、ラストに「水をください」という相手?うーん……とにかく、確かに、家族ではないし、ぶっちゃけ、家族になりたいとも思ってなかったと思う。
そこがお互い判っていれば、それこそ「サイドカーに犬」のようないい関係だって築けたかもしれないけど。

……別に私は「サイドカーに犬」に思い入れがある訳でもなんでもないんだけど、おかしいなあ。大体、読んでないしさ(爆)。
それに本作は、そうしたドラマ的部分はあまり、というか殆ど関係ない。本作が語りたいであろうメインストリームとは関係ないんだよね。
千景が先輩写真家に言われた「ヒロシマに触るな」という言葉の重さ、サキが好きな被爆作家の原民喜、そして現代の世界を変えた9・11。
世界、という漠然とした言葉をどうとらえるかと聞かれて、千景が逡巡しまくって、一言も発せないこと……。それこそ9・11以前ならば、それなりの言葉、ありがちな言葉が千景の口からすべり出たんではないかとも思うのね。

でもその9.11からも10年が経った。大学の講義で議論をしている先述したスキのない男の子が、自分は小学3年生ぐらいだった、と言って、その後の世界の理不尽さを語るから、だから、なんかどうしても、後付の知識、字面だけの知識、ナマな感慨じゃない気がしてしまうんだよね。……もしかしたらそれが、10年という歳月がもたらすものなのかもしれない、などと。

それは、3・11が起こってしまったからかもしれない。本作は、それが起こる前に完成してしまったから、作品世界にはまったく影響が見られないんだけど、私たちはそれを体験してしまったから、やっぱり、違うんだよね。
その男子学生の言葉は無論だけど、千景にストレートな嫌悪の感情をぶつけるサキにしたって、やっぱり浮いて聞こえてしまうし。
何より本作の中で朗読される詩や文章が、断片的なこともあるだろうけど、意味や感慨や、単純に印象としてもスッと入ってきてくれない。上手くリンクしてハッとさせてくれない。のは、私のセンスが鈍感すぎるからと言われればそれまでなんだけど……。

でもね、やっぱり詩、いや、もっと広くとらえて文学は、映画とは違う表現媒体だから。
福間氏が言う、映画という解釈を狭くとらえすぎだという言葉は私もまったく賛成なのよ。だからこそ、もっと専門を細かく分けるべきだと思う。文学なら詩と小説でまず専門が違うし、国、時代、ジャンル、それぞれ専門家がいるじゃない。
なのに映画は、いくら新しい文化と言ったって、もう100年以上経ってるのに、いまだ一緒くたに映画評論家、映画コメンテーターなんておかしいと思うんだよなあ。軍事専門家なんてものがいて、戦争映画評論家がいないなんてさ!(おかしな比喩だが)。
純愛映画評論家とか、ミュージカル映画評論家とか、喜劇シリーズ評論家とか、いくらでも細分化していいと思うのだが。でもそうなると、私のようなテキトーに見る映画ファンが一番劣等感にさいなまれるのか(爆)。

どうも激しく脱線したな。なんでこんな話になったんだっけ。ああそうだ、映画を広くとらえるべき、と言う福間氏が、だからこそこういう映画を、詩人、文学者ならではの表現の視点で撮ったんだろうとは思うんだけど……。
特に後半、サキと千景によって繰リ返される詩か小説かの断片をモノローグのような雰囲気で朗読するのがね、まるでパッチワークのように思えるのは、それが文字ではない、活字ではないから、なんだと思うんだよなあ。

文学とは切っても切り離せない、ていうか、文学そのものであると言ってもいい活字というものが表現する世界は、音のない世界で読者の心に静寂のまま落とされてこその魅力である。
文学作品の映画化が常に批判にさらされるのはだから当然なんであって、しかもそれがこんな風に断片的に、ラインに沿うのではなく印象優先の落とし込みによって挿入されれば、そりゃー優秀な想像力豊かな受け手にとっては美しくカンドーするのかもしれんが、私のようなバカには到底ムリである。
美しい線上から切り離された美しい筈の言葉は、会話として取り込まれてもいないから、ひどく空虚に聞こえる。

この作品のキーワードとなる「水をください」にしても、同じように感じてしまったんだよね。千景が先輩写真家に、ヒロシマに触るなと言われたこと。
それだけ、ちょっとやそっとでは語ることの出来ない世界で、劇中でもドキュメンタリーチックに、ヒロシマでは重く受け止められるのが普通の終戦記念日が、東京に出てくるとそうでもない、というのはまさしくそうだと思う。けれども、それを言ってしまえば、本当にありがちなベクトルなんだよな、と思う。
ヒロシマナガサキも、それ以前に大前提のあの大戦争も、あるいは現代につながるものとして語られる9・11も、あるひとつの、ここに向かうべき価値観、これが正しい道みたいなものが厳然としてあって、それを打ち崩すのは容易ではない。

ていうか、打ち崩すだけの材料がないのに、原民喜の詩の朗読やなんかでそれを打ち崩そうとしてるように見えて、まあだから私みたいなバカは原民喜も知らんからさ(爆)。
でもそれこそ9・11は、まだ10年しか経ってなくて、正義よろしく価値観を語るのは簡単だけど、第二次世界大戦だって、こうしていまだにその正義の価値観は揺らぎ続けているやんか……。

もちろんそれは、監督自身も判っての上でだと思うし、こういう問題に首を突っ込むと私、ホントやぶへびだから(爆)。
でも、あれかな。一番こうなるかよ、と思ったのは、庄平が死んでしまったくだりかな。それもめっちゃ伏線は張られてたけどさ。
大阪でヤバいことに手を出して、いられなくなったから東京に出てきた、と千景に言った時点で、ああもうこいつ死ぬな、と思った。散々言ってきたけど、この展開が一番メロドラマチックだな、と思った。
かつては若い愛人だった千景が40を迎え、それだけ庄平も年をとったんだけど、これもズルいよな、こういう年頃なら基本あるだろってな中年腹もなく、赤貧生活、いいように言い換えればストイックな生活のために、筋肉質のスレンダー。

ズルいよ。千景も庄平もメッチャ恋愛がサマになる状態を保ってるじゃん。保ちすぎだよ。男も女も、この年でこんなに男と女の色香を保ってなんていられないよ。
うだつのあがらない生活をして娘からも呆れられているような庄平が、かつての愛人の、瀟洒な住まいに転がり込むなんて。はしゃいでハダカで走り回る千景にちょっかい出そうとする庄平なんて、もうお約束の破滅を提示してるようなもんじゃん。

世の中によくある解決されない殺人事件は、こういうケースがあるのだろうなと思うけど、メッチャ判りやすい殺し屋が出てきてあえない最期を遂げて、千景が無為の一年間を過ごすのも、あれだけ映画的稚拙さを糾弾するのに、随分ベタだよなあ、と思ってしまう、のは、難解な構成を自分の中に取り込みきれない未熟さを言い訳してるってのは判ってるんだけどさ。

でもさ、でもでも……恐らくこれが監督自身が描きたかったんであろうと思われる、死後、あるいは死んでしまった人とあいまみえるシーンが繰り返し挿入されるでしょ。
いかにもな草原、木がパラパラと生えているような、意味ありげなロケーションにいざなわれる千景。ファッションが黒のノースリのワンピースがくるぶしまであるという、ロングヘアーの彼女の後姿だと貞子かと思うような記号的なコワさでさ。
で、その道行きの途中に現われる対照的に白のノースリワンピの、老婆と言っては失礼かもしれないけど、鍛えられた筋肉が逆に、脂肪の落ちた首筋とかに強調されて痛々しくて、「バスに遅れないようにね」と千景に声をかける彼女は誰?
二度も繰り返され、しかも尺が長くて、後半はかなりしんどいというのが正直な印象。

死後の世界、あるいは死んでしまった人とあいまみえる世界、庄平が近寄る千景を両手を柔らかに上げて遮る。感動的だけど、それこそなんか、ベタ。
それにこのシーン、草原の後ろの道路に車が止まっているのが見えちゃったりすると、なんか一気に冷めちゃうしさ。

ラストは、なんかすっかりゼーゼーしてる千景がサキに電話して、あの言葉、水をくださいと言って、サキがペットボトルの水を彼女に届けるシーン。
千景からの電話に慌てて家を出ようとするサキに祖母が声をかけるシーンがあるのに、それに対して何のフォローもないのが気になる。

んでもって、土手かなんかでなんかやたらもんどりうってる千景にサキが水を届けるんだけど、まあそう、ペットボトルだからさ。そりゃまあそうだからさ。
本作のキーワードになってた「水をください」がヒロシマの、死に際の人たちの叫びだったから、なんか単純にガックリきちゃう。
そりゃ今の時代で水が飲みたい、届けてほしいといったらペットボトルになるんだろうけど、この流れでそれ?と思ってしまった。
凄く印象的なラストなのに、ガクッとなってしまう。もちろん現代を反映してるのは判るんだけど、でもあれほどこだわった「水をください」をここで昇華させるならやっぱり……違う気がするんだよなあ。

うー、つまり私は、単純に、単純に、好きになれないの。それこそ単純に言うならば、“男性の文学者”の視点、な気がしてしまう。
凄く理想的で、ストイックで、クラシックな価値観を譲らないんだよね。全てに対して。特に……女性に対して、かもしれない。なんて思っちゃう。
ああ、私、やっぱりダメ人間かも……。なんか映画を見る資格がないヤツのような気がしてきたよ(爆)。 ★☆☆☆☆


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