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「け」


2012年鑑賞作品

月給泥棒
1962年 93分 日本 カラー
監督:岡本喜八 脚本:松木ひろし
撮影:逢沢譲 音楽:佐藤勝
出演:宝田明 司葉子 十朱久雄 中丸忠雄 宮口精二 浜村純 二瓶正典 砂塚秀夫 横山道代 若林映子 原知佐子 森今日子 堺左千夫 ジェリー伊藤 富田仲次郎 林幹 草川直也 小川安三 大前亘 柳川慶子 石川浩二 塩沢とき 沢村いき雄 本間文子


2012/11/8/木 劇場(銀座シネパトス/岡本喜八監督特集)
あまり観る機会のなかった岡本喜八監督特集に足を運んだつもりが、ついウッカリの宝田明主演の二連発にゲップが出そうになったが(超失礼(爆))、考えてみればそれこそ宝田明もあまり観る機会がなかったんだよなあ。彼は舞台俳優のイメージの方が強いし、私が東宝作品をあまり観ていないのかも。

しかしそう、宝田明、宝田明である。あの宝田明の顔で、キミにセックスのなんたるかを教えてあげるヨなどと言われるとホントにゲップが出そうになる(だから失礼だってバ)。いや、そんな台詞ではなかった……いやそんなような台詞だったよなあ、バンバンと、もう、ザ・プレイボーイ。なんたって宝田明だから(しつこい)。
あの時代にセックス、という言葉をバーンと、しかも初対面の女の子に向かって、ものの5分も経たないうちに言ってのけるってかなりショーゲキである。恋愛は時間の観念など超越するんだとか、しかもダンスホールで腰に手を回して顔を寄せて宝田明が言いやがる。む、胸焼けが……(失礼千万)。

いや、この日の二本目の宝田明も結構似たようなモンだったかも(爆)、いやいや、二本目の宝田明は本作よりずっと誠実な意味でセックスと言っていたが……いやいやいや、だからあくまで劇中の役であって、宝田明が、じゃないんだっつーの。

どーも宝田明に引っ張られる(汗)。恐らく彼にメンエキがないからであろう(汗汗)。
ところでプレイボーイではあるけれども、彼の演じる吉本の第一は、野心タップリの営業部員である。野心もそれこそ、イヤラしくたっぷりという感じが宝田明なんである(もー、いいって)。出張のおみやげに、部長には大きな樽の千枚漬け、課長には小さな樽の千枚漬け。わ、判りやすっ。

原作小説のタイトルは「ダゴンさんの恋人」、後に出てくるキーマン、ザバールなる新興国のバイヤーの名前、そしてその相手となる本作のヒロイン和子。
原作がどうなっているかは判らないけど、映画化に際してタイトルが「月給泥棒」となり、いかにもやる気なさげに、ダラダラと、学生の延長線みたいに仕事している社内がまず映し出されてタイトルバーン!

彼らにうとましがれる、つまりモーレツサラリーマンである主人公、しかしそれはマジメというよりも自分自身の、言ってしまえば私利私欲、会社への愛より自分への愛、という具合になるというのは、この時代の、サラリーマン喜劇を反映してるのかなーっ、と思う。
いや、悲喜こもごものサラリーマンモノも多いだろうけど(勉強不足で……)、やはりこの時代といえば植木等や森繁久彌の肩の力の抜けたサラリーマンモノの全盛期だからさあ。
今なら新興国のザバール人や、あっけらかんと金もうけする現代女性の和子がばーんと主人公になっても良さそうだけど、サラリーマンが主人公、ってトコに意味があるのかもしれない。
しかもこのタイトルは最後に彼自身に牙をむく。自分の思い通りにならずにクビを言い渡され、自分自身こそが月給泥棒だとヤケ酒をあおるシーンにつながっていくんである。マッジメー。

ま、とはいえなんたって宝田明だから(しつこいな)、そこらへんはねっとりしてるんである。当然(?)会社のあちこちの女の子に手をつけ、しかし手柄のチャンスを得ればデートの途中でもヘーキでホゴにする。
女の子を、その後のチョメチョメ(古い)を期待したデートに誘う時、「ビフテキおごるよ」てあたりが、直裁でいいよねーっ。精力つけようね、てことさあ。
ビフテキっていうあの頃の言い方も、好きさっ。もうわらじみたいにおっきな牛肉が二枚、ジューッ!とフライパンいっぱいに焼かれる様がたまらんね。あー、ビフテキ食べたいっ。

でもさ、吉本は、イケイケのプレイボーイな顔してる割には、結局ことごとく女どもに負けてるんだよなあ。出世をもくろんでライバル会社を出し抜こうと大風呂敷かましたところに、自社の秘書の女の子がスパイだったことが明らかになって、超カッコつけてたところをケチョンケチョンにされちゃうし、売れっ子ホステスを甘く口説いたと思いきや、彼女は儲け話にはノリがいいけど最後の一線は実に固くて、結局最後の最後まで許さないわ。
あげくの果てには会社の掃除のおばちゃんが実は高利貸しで、金歯むきだしにして、「退職金を担保に、トイチで貸してあげるよ」とニンマリ。もう、負けっぱなしなのさ。

そう、吉本はやたら金を借りるんだよなあ。まあ、同僚たちにもやたら貸してる描写はあるけど、その取立てに同僚が苦い顔もするけど、基本、人がいいような気がする。
結果的には吉本は、ライバル会社のオリバーカメラからザバールとの契約をとりつけるために会社から莫大なカネを引き出したのに、失敗しちゃうんだもの。いや、結果的には成功、でもそれも、和子のお手柄だしさ。

……おーっと、またまたなんだかワケの判らんまま進んでいるが。まあでも、吉本のあからさまな出世欲は、それこそ植木等や森繁とは違って、実際のサラリーマンたちに近い気持があるかもしれない。お気楽なまま出世できる植木等や、最初からお気楽な社長の森繁とは違うもんね。
自分の上司である課長のことを能無しだと、更に上の幹部に進言、自分こそ課長に推薦してくださいヨ、というあたりのヤラしさは、ヤだなあと思いつつ、そう思っていても出来ないサラリーマン諸氏の気持を大いに刺激するだろうしさ。
人事部長の出来の悪い息子の存在を女の子経由で情報ゲットし、裏口入学をエサに課長補佐にのし上がるとか、その要素だけ見りゃ、とてもコメディじゃない、ドロドロの企業ドラマだよなーっ。
でも、ベタな要素はコメディにもシリアスにも転がる。コメディにした方が洗練されたそれが出来上がるのは、ヤハリ、なのよね。

てゆーか、ライバル会社の名前を出したのに、こっちの会社の名前が出てない(爆)。でも観てる時もね、ライバル会社の名前の方が頻繁に出てくるのよ。オリバーに販売網を食い込まれてる、オリバーからサバールとの経営権を横取りしよう、てな具合にね。
吉本が勤めているのはクラウンカメラ。サバールのバイヤー、ダゴンさんに、その身元を伏して近寄り、和子をビューティフルジャパニーズガールに仕立てて(いや、そのものだけど)、ダゴンさんのハートを射止めるんである。
オリバーカメラの接待はいかにも日本的なそれで、吉本は一応上司の顔を立ててクラウンカメラの席にもダゴンさんを連れてくるけれども結果は同様。

学生時代日本に留学していたダゴンさんは、日本文化を愛しながらも、その欠点も充分判ってるから……会社の接待なんて、その欠点ばかりだからさ、もうね、食傷どころか、ヘキエキしちゃう訳。
そんなことも吉本はしっかりお見通し、自分をダゴンさんの留学時代の大学の先輩だといつわり、オリバーの接待の行く先々に唐突に姿を現して、ダゴンさんを連れ出すんである。
ダゴンさんが世話になった下宿屋のおばさんを勝手に亡き者にして、あの高利貸しのおばさんをその妹に仕立て上げてひと芝居打ったり、もうやりたい放題。

宝田明のバタくさくウソくさいお顔(ゴメン!)が、この吉本になんとも絶妙なんだよなあ。正直ね、なぜ吉本がそこまで出世欲に憑かれているのか、現代の映画手法なら、そこにツッコまれて、あるいは作り手側が気になって、妙なヒューマンドラマになってしまったかもしれない。でもこの時代はね、いいね、そんなことはおかまいなしなの。全国民タカダジュンジでいいんだもん!(おいっ)。
吉本だけじゃなく、ヒロインの和子だってそうよ。まあ彼女の場合は一応、元々はお嬢様だったらしい過去が本人の口からさらりと語られ、かつて住んでいた豪邸の、ガレージだけを借りて住んでいる。車だけはオゴりたくて買ったんだと、今見ても可愛い、ぽっこりとした淡いモスグリーンのミニワゴン。こういうあたり、ホントセンス良い。
彼女は休日となればその車をせっせと磨いてる。そこに、彼女の力を借りたい宝田……じゃなくて吉本がやってきて、彼女のお尻をさわっと触る。あの触り方がヤラしい(爆)。ぽん、と叩くとかじゃなくて、さわっと。ヤラしい(爆爆)。さすが宝田明(だから、いいっての)。

和子はお金を稼いで家を買い戻し、車もキャデラックを買うんだと夢を語る。キミをおかずになどとまたしてもベタなこと言って襲いかかろうとする吉本を、防犯ベルと隣家の猛犬を巧みに使って脅して、一線を越えさせず、二人してお茶漬けなぞすするんである。
幸福は、目標のレベルを下げればカンタンに手に入る、と、さして否定的にでもなく和子が言うのが、後々まで印象的に響く。十人並みの結婚をして、子供を産んで、こんな風にお茶漬けをかっこむのも幸せだと。
でも今の和子は家を買い戻してキャデラック。それが夢なのだ。

いや、今の、というか、結局は最後まで、だったんじゃないの??吉本と和子の気持の交錯はイマイチ判然としない部分もあるのね。解説的には、最初のうちはスケベ心と、出世のために利用価値がある程度にしか思ってなかったけれど、和子のことを愛するようになった吉本は……云々みたいな感じで、まあそう見えなくもないけど、そうかなぁ。
吉本は結果的には出世欲、というよりかは自分の首をつなぐために和子をダゴンさんに売り渡そうとし、それに憤慨した和子は吉本と決別、ダゴンさんのプロポーズを受けたのもそのハライセのように最初は思えたけど、現代娘らしくドライに計算して、自分の夢を叶えるためにダゴンさんのヨメになる決意をしたように見えたけどなあ……それは演出的、芝居的問題なの??(爆)。

いやね、吉本が彼女の“最後の友情”を汲んで、ダゴンさんからの白紙委任状を、元の会社にいられるように、それどころか一発逆転で鼻を明かすように使ったのなら、彼女の思惑通りで、判るんだけど、よりにもよって吉本はライバルのオリバーにその契約書を持ち込み、ちゃっかり部長職!つまりはクラウンカメラは旧態依然で、手柄を立てても課長“補佐”どまりだったことに、見切りをつけていたのかもしれない。
でもね、その課長、吉本が無能呼ばわりしていた課長こそが彼の才能を認めてくれていて、彼が社を離れてライバルとなっても親しく電話のやり取り「空気が良くなって、仕事がやりやすくなったよ」
いやそれはイヤミじゃなくて、この課長さんは、タバコの煙が苦手で、イヤな相手から離れて、個室の課長室を手に入れたのだっ。

あ、やばっ。なんか一番大切な人をとりこぼしたままじゃん!ダゴンさん、ダゴンさん!ダゴンさんがいなければ、マジで話にならないっつーの!
原作でタイトルロールだけあって、主人公である筈の宝田明もあっさりと凌駕するチャームを発揮する彼。外見も訛りもあまりにもしっくりくるもんだから、マジに現地のお方かと思ったら、まあ、ンな訳ない。そっか、そっかー、ジェリー伊藤ですか!
実質的には彼が主人公と言ったって差し支えない気がする。ダゴンさんが出てきてからは、あの宝田明ですら(しつこいって)、狂言回しのように思えてしまう。

ま、吉本はつまりは、ニッポン企業のサラリーマンだからさー。今みたいに転職が当たり前の時代と違って、自分の才覚でポンとライバル会社に売り込んで更に高いポストを得る吉本は確かにカッコイイけど、ダゴンさんには、やっぱり負けちゃう。
メッチャ純粋に和子にアプローチする様は、女としてはどーしたってキュンとくるでしょ!でも故国に既に三人目まで奥さんがいるってオチが見事なんだけど。ちっくしょー、伏線はちゃんとあったのに、予測出来なかったっ。

一見、穏やかで純粋なガイコクジンのように見えるダゴンさんは、しかし実際は超絶シビアなバイヤー。ベタな接待にヘキエキしてるのは、ビジネスマンとしてそんなことに左右されないから、なんである。
最初のうちは、吉本の奇襲作戦に参っているように見えるあたりが上手い。吉本のウソを暴き、しかしそれには怒っていないという。とにかく安いコスト、それだけなんだと。
オリバーもクラウンも、ひたすら自社のカメラの性能を売り込んでいた、そんなことは彼の眼中にはないのだ。

和子と結婚したい。それが契約の条件だと言い出したダゴンさんに吉本は一瞬、躊躇するも、結局彼女を差し出しちゃう。そこに、ダゴンさんがジョークでくれた故国のホレ薬が、誤解を含め、周囲を巻き込んだ大騒動。
なんとなーく、これによってシリアス度が薄められた気も。だって、最終的にダゴンさんと別れて戻ってきた和子にこっそり処方して、あとはご想像にお任せします、みたいなラストなんだもんなあ。

岡本喜八作品を観に来た……ことは、すっかり忘れ果ててしまった。おーっ、宝田明。ゲップは飲み込んで、二本目行ってみよーっ。 ★★★☆☆


月光ノ仮面
2011年 102分 日本 カラー
監督:板尾創路 脚本:板尾創路 増本庄一郎
撮影:岡雅一 音楽:
出演:板尾創路 浅野忠信 石原さとみ 前田吟 國村隼 六角精児 津田寛治 根岸季衣 平田満 木村祐一 宮迫博之 矢部太郎 木下ほうか 柄本佑 千代将太 佐野泰臣

2012/1/23/月 劇場(角川シネマ有楽町)
オチも含めて謎だらけで、これらが全部解けなければこの映画を観る資格もないんかなあ、と妙に落ち込む気分にさせるだけに、ちょっと気に入らない、などと駄々っ子のようなことを思ってしまったりして。
板尾氏は実に才人という感じがあって、監督第一作も気になりつつもスルーしてしまった、のは、芸人さんに次々と映画を作らせる、つまりそれだけの財力を持ってる吉本のやりようにちょーっと苦々しい思いも感じていたから。
そりゃまあ、どんなキッカケやチャンスやスポンサーなんてものは、映画には関係ないのかもしれない。そこからどんな良作、傑作、秀作が生まれないとも限らない、けれども、一本の映画を作るために奔走している若い才能のことを思うとやはり、どうにも……。

まあだから、なんてことは関係ないんだけど、でもまあ、そんな理由でついつい一作目はスルーし、しかし二作目が作られたということはやはり、彼自身の意欲と才能が認められたということなのかな、と思い、まあそんなつまんない理由よりも、やはり才人、板尾創路の作る映画が気になった、と正直に思ってしまったのだから、仕方ない。
でも???が多すぎて、ことにラストシーンが、もう実に映画的魅力に満ちてはいるけれど、ナゼ?どういう意味?という思いばかりが渦巻くラストシーンでコンランに陥ってしまったので、ここまでにきっと謎を解いてくれると思っていたさまざまな???もそのまま放置されたままだったのもあいまって、そりゃないよなーと思ってしまった。

まあそういう映画もなくはない。観客にゆだねる、的なね。巨匠と呼ばれる人たちの映画の中にも、なくはない。確かに映画は観客が受け取って、好きなように解釈して完成する、とは思う。
でもこの謎に焦って情報を求めてネットをさまよい(というのが出来る現代がいいのか悪いのかという議論もあるけど、まあそれはおいといて)監督自身が、あのラストシーンを撮りたいために作ったと言いつつ、そのシーンにしても、他の謎にしても特に解明を持たず、「なんとなくふわーっとしたモノを作って、でもこっちのほうが面白いかなとか、人の意見を聞いてみたりとか。それで面白くなればラストが変わってしまってもいいくらいの感じで作ってます」だなんて言われちゃったらさ、そりゃないよな、と思っちゃうじゃん。

だってそれじゃ何だってアリになってしまう。なんとなくふわーっとしたモノ、という言い方が、一番カチンと来たかもしれない。それじゃ、一つ一つのナゾをこんな意味か、こういうことかと深読みする方がバカみたいじゃん。
そりゃ、“なんとなくふわーっとしたモノ”ってのは映像的には魅力的さ。映画的にも映るかもしれない。簡単に、世界観とも言われちゃうかもしれない。
そこは映像的センスが問われるところでもあり、確かにひとつの、その人の世界観なのかもしれないと思う。でもせめてクリエイターの側での決着がついてなければ、観る側だって受け止めるにもどうしようもないじゃない。

……こんなにイカるつもりじゃなかったんだけど。つまり判んないバカな自分を自嘲するだけのつもりだったんだけど。
それにそんなにイカることでもないんだけど(爆)。まあとにかく、話に行こう。自分なりの“解釈”をして笑われようじゃないの(自爆)。

これは落語の「粗忽長屋」をベースにしてるのね。落語には疎いんでその話も知らなかったけど、劇中、板尾さん扮するニセの森乃家うさぎが唯一発する声が、ホンモノのうさぎから習ったこの噺をぶつぶつつぶやくところであり、死んだ自分を見てる自分、オレは一体誰なんだ、というのも印象的につぶやかれるし。
なんたってニセとホンモノ、戦争で死んだと思われたうさぎをめぐって翻弄される周囲というのこそが本作なもんだから、知らなくてもなんとなく、ああその噺をベースにしてるんだな、ぐらいは判る。
でも、事前にその噺を知ってるのと知らないのとでは、観てる間の“深読み”感覚は違ったかもしれない。

顔中に包帯を巻いた男を最初に「この人は森乃家うさぎです」と断じたのは、うさぎと言い交わした彼のお師匠さんの娘、弥生である。
演じる石原さとみは相変わらず唇がヤバい。板尾さんとのラブシーンもなかなか色っぽい。
正直、いくら顔中包帯でも、板尾さんの印象的などんぐり目が片方は出ていて、厚めの唇といい、本物のうさぎである浅野忠信とは全てが正反対、対照的にもほどがあり、間違えるのはムリがあるだろと思うのだが、でもそれも計算のうちなんだろうな。

決め手は弥生がうさぎに手渡したお守りを、この男が持っていたこと。それだけといえばそれだけだけど、死亡通知が届けられてもなおうさぎを待ち続けていた彼女が、その決め手一発で、どんなに顔が違っても、それはひどい怪我を負ったせいだと思い込み、その思い込みに、周囲も巻き込まれていくというのが、皮肉だということ、なんだろう。
言葉も発しないのも単に“記憶を失っている”ということに、医者まで巻き込んで都合のいいように解釈されるのも。いや、実際にこの男が本当に記憶を失っていたかどうかさえ、それこそふんわりとナゾに包まれたままである。

本物のうさぎが帰ってきて彼と笑顔で目線を交わす場面を見れば、全ては二人の間で何がしかの協定が存在して、ニセのうさぎの彼が弥生たちの前に現われたのだとも思えるし。
その“解釈”を選択するならば、クライマックスの彼の奇行も、それを微笑んで見つめるうさぎも、ラストシーンも納得いく……いかないこともない……のだが、そうなるとこのクライマックスでのうさぎもまた……おっと、そんな具合に話が飛んじゃうと、またぐちゃぐちゃになるから。

で、軌道修正。えーとだから、なんだっけ。で、そうそう、森乃家うさぎとして彼は師匠の元で記憶が戻るように、小さな寄席の前座に出たりしながら日々を過ごしていくんである。
その間も彼はちっとも言葉を発さず、寄席で客を白けさせるのも、彼が立ち去った後の客席一発だったりする。
実際は何がしかは喋っている筈なのは、高座に上がっていること、医者の見立てが「何も覚えていないらしい」ということからも判るんだけど、ちょっとヤラしいほどに、劇中で彼は喋らないんだよね。
勿論意図的なのは判る。彼が小声でぶつぶつつぶやく「粗忽長屋」だけが、彼の声を確認できることであるし、だからこそ意味がある……筈……なのだから。

「粗忽長屋」がベースになっていて、最後まで行ってもこの男の出自も何もかも判らないこと、弥生の思い込みとは言いつつ、森乃家うさぎだと皆が信じ込んでいたこと、等々を思うと、彼が“死んだうさぎ”つまり、「粗忽長屋」で熊が抱いた“自分の死体”つまりつまり、そんなことは、そんなものは、ありえないこと、現実には存在しないこと、ニセモノという認識以上に非現実的な、ありうべからざる存在であること、ということを示していたのかなあと思う。

まあ現代的チックに解釈すれば、アイデンティティの喪失的な??「オレは一体誰なんだ」なんて台詞、いかにもじゃん。
まあわっかりやすく言っちゃえばさ、自分は誰にも必要とされてない、みたいにさえ言い換えられるっていうか。
社会で生き抜くために他人に合わせているうちに、自分が本当に思っていることが判らなくなってきた、みたいなさ、実にありがちなさ(爆)。
こういう解釈は出来ればしたくない。だってあまりにもありがちなんだもん。しやすいけどさ、こういう解釈。

いやいやそこまでクサすほど、その解釈が良くないという理由もないんだけど、なんか私自身がどうにもクサってるかも(爆)。
この男、弥生の思い込みのままに、彼女を竹やぶの中で押し倒してことに及んだりさえしちゃう。ううむ、レイプギリギリだぞ(爆)。
弥生はこの時、男の包帯を引きちぎり、彼の顔が全てあらわになる。さすがにこれで別人だと判るのかと思いきや、彼が脱いだ右肩に焦げたような黒い痕があって、それがまさにうさぎが持っていたものだったから、弥生はまるで安心したように身を任せてしまうのね。

もし、この右肩の痕がなかったら、どうだっただろうか。この右肩の痕があるからこそ、彼は戦場で出会ったうさぎと友情を交し合った。
うさぎは「お前、俺の兄弟みたいだな」と言った。彼はうさぎの落語に魅了され、彼が寝床でつぶやく「粗忽長屋」を覚えこんでしまうまでに至った。
自分が死んだら、このお守りを……とうさぎは彼に託した。無様な死に様をさらさぬように渡された拳銃で、オレを殺してくれと。
首からびゅーと血が噴出したうさぎはとても助かりそうに思えなかったし、男が拳銃を向けたシーンまでも収められていたなら、そりゃあうさぎは死んでしまったのだと思ったのだが。

しかし、ニセうさぎが、弥生や師匠や弟子たちを充分取り込んで引っかき回したあとに、本物のうさぎがやってきた。それも、ニセうさぎ不在の時に。
あまりにも高座が出来ないもんで、師匠が少し休めとニセうさぎを実家に帰したのだった。しかしその実家でニセうさぎの彼は、母親からお前は誰だ、太郎(本名ね)は死んだんだと憎々しげに追い返された。
そりゃあ、そうだ。この母親だけが正解だった。そうなるのは百も承知のはずだったのに彼はなぜ、うさぎの故郷に帰ったのだろう。それとも本当に自分はうさぎだと、“死んだ方のうさぎ”だと思っていたのだろうか……?

そう考えれば、彼の行動はいちいち、つじつまが合うかなあ。「粗忽長屋」の死んだ方の熊。一見、熊が死んでいると熊本人を呼びに来た親友の八のようにも思えたけれど、違ったのかもしれない。
それこそ深読みしまくれば、“タイムスリッパー”ドクター中松の登場も、満月のまま動かない月も、時間が止まっているままなら、死んだうさぎと生きているうさぎが同時に存在してもおかしくない……?いやどうだろう……。

ドクター中松の登場は単なる遊び心かとも思ったけど、弥生がわざわざ「ずっと満月なんです」と見りゃ判ることを解説めいて言ったり、ドクター中松が「私はタイムスリッパー」とこれまたご丁寧に言ってくれたり(白衣のいでたちとぴこぴこマシンを見れば、判るわな)するから、なんか殊更にそれを示しているのかなあ、とも思ってさあ。

満月のまま、ってのは何が起きてもおかしくないと思う一方、その設定もちょっとズルいな、とも思う。
男と、後にはうさぎも一緒に出かける真っ黒に凪いだ水面には、死んだような魚が浮かんでいる。死んでるのかと思ったら、うさぎが吊り上げてニセうさぎがその魚をつかみあげてみると、ようよう息をしているといった風にふうふういってる。
男が魚を逃がしてやると、勢いよく泳いでいく、こともなく、死んだように沈んでいく……。一体ここでは何が起きているのか。

何が起きているのか最も判らないのは、ニセうさぎが女郎屋で巨体の女郎と共に床下をどんどんと掘り進めていく展開なんである。
なぜそんなことをしているのか、そもそも彼とこの巨体女郎がそんなことをするに至る関係って?
ニセとはいえ、うさぎとして生きている彼がまるで何かを企むようにそんなことをしている理由が、結局判らないまま終わってしまうのがなんとも気持ちが悪い。

まあ、オチがつかないでもない。最終的にこの巨体女郎だけで掘り進めてガツンと貫通して月光が差し込んだ、そこにドクター中松が覗き込んでいる……。
どういう意味?彼女はタイムスリップしたということ?しかもここにニセうさぎはいないし……わっかんないなあ。雰囲気だけは満点なんだけど。

もうひとつ判らないのは、弥生の行動。自分が身体を預けたのがニセモノだと知りショックを受けるものの、男が本当に記憶を失っているのかもしれないと思って……。
だから自分が言っちゃって、本当にうさぎだと思ってしまったのかもしれない、と彼女は自責の念に駆られたのかなあ?
でもね、だからという風でもないというか、結局彼女が何をしていたのかが判らないの。それこそ、ふわーっとしてるの。
妙に意味ありげに待機している人力車引きの男。彼がそれこそ意味ありげにお嬢さんに囁く。お力になりますよ、と。
そして彼女が連れて行かれたのが、パンパンがたむろして、米兵とよろしく消えていくような路地。この場面が一体何を意味していたのか、最後には明かされるんだろうと思っていたら、そのまま彼女は客たちとともに、父親とともに、男に機関銃で撃たれて笑顔のまま死んでしまう。何だったんだよー判んないよー。

そう、クライマックスは、衝撃だしひどく映画的魅力に満ちていて、こんな場面を映画好きならば撮りたいと思うであろうフォトジェニックだけど、でもつまりなんだったんだろうと考えるとちっとも判らない。
うさぎは、戦場で生き死にの苦楽をともにしたこの男を、声が出なくなった自分の代わりに、うさぎとして高座に立たせたいと師匠に請う。そして自分はお嬢さんと結婚して幸せに暮らしたい、と。

そもそもスターが欲しいこともあって、ニセうさぎをうさぎと思い込んでいた師匠はこれをポジティブに了解、一門会で新生うさぎを華々しくお披露目せんと企画する。
この時フクザツな顔をしているのが弥生で、先述のような不可解な行動をとるもんだから、どんな展開が待ってるのかと思ったらあっさりスルーされちゃうんだよなあ。

で、晴れてうさぎとして認められる筈の席でこの男、機関銃を取り出し、冗談みたく客席に向ける。
伝説の人気噺家の復活に熱狂していた客席はこの冗談にも熱狂するけど、ホンットに、彼は、撃ちまくってしまう。
阿鼻叫喚、にさえ、ならない。客席は笑顔のまま、爆笑のまま撃たれ、笑顔のまま、爆笑のまま血まみれになって重なり合う。
それは弟子も師匠も、弥生さえも、なんである。どこか想いを含んだ表情で見守っていた弥生でさえ、父親である師匠の隣で、バツグンのスマイルを顔に貼り付かせて、手を上げて笑いながら、スローモーションで胸から血を噴出して、そのバツグンのスマイルのまま、父親とともに重なり合い、ピクリとも動かなくなる。

このシーンは実にしんねりと展開されていて、マンガチックなスローモーションもやたらと多用され、しかも彼の晴れ姿を見に来たホンモノのうさぎ、浅野忠信にも一番丁寧にご丁寧に眉間に弾丸がスローで打ち込まれ、真紅の薔薇のような血が飛び散るもんだからさ。
まあここで終わってしまえば、数々のナゾも、このインパクトで飛び散ってしまったかもしれない……?いやどうだろう……。

ともかく、ここでは終わらなかったのだ。撃ち抜かれた筈のうさぎが、一番丁寧に撃ち抜かれた筈のうさぎが、あの訳ありげな車夫の引く人力車に乗ってさっそうと去っていく。
浅野忠信のさっぱりと達成感のある顔のラスト、なんである。えー?えーー?えーーーー?……わっかんない、さっぱり、わっかんない。何、どゆこと?

うさぎは、戦場で喉に致命的な怪我を負って、声が出せなくなった。噺家、それも人気絶頂の時に戦地に取られた彼にとって、生きて帰ってきてもそれは死んだと同じことだったのかもしれない。
わざわざニセのうさぎを先に帰らせ、死亡通知が来ていた自分を噺家として生き返らせた後に、自分に期待していた人間たちを容赦なくぶち殺した、しかも期待を最高潮にみなぎらせたところで何がなんだか判らないままぶち殺した。
そう思えば、なんかすんごい、深遠かもしれない。けどもそれこそ、深読みしすぎだろうか??

こういう風にひとつの解釈をしようとすると、先述したようないくつものナゾが阻みをかけるからさ。
あるいはこういう風にも思った。うさぎは本当に死んでしまっていたのかもしれないと。だってあんな、のど笛が掻き切られるようなケガで生きているっていう方がムリがあるじゃん。
彼らが見ていたのは幽霊、あるいは幽霊のようなもの、なんたって満月のまま時間が止まっているんだから、どんなことでも可能な気がしちゃう。生霊とかさ。
で、生前心を通わせていたニセうさぎとこの最後の展開まで色々打ち合わせていた。でも……ならば人力車でその場を立ち去るうさぎは?顔は浅野忠信だったけど、ホンモノのうさぎの筈だったけど実は……?やっぱこれはダメかー。

てか、そんな具合に深読みをすること自体がつまりさ、ムダなことってことなんでしょ。だってあの穴掘りのことだって、判んないんだもん。
巨乳もあらわの巨体の女は、それこそ実に映画的で、何かこう、こう言っちゃアレかもしれんが、巨体の女ってフリークス的でもあるじゃん。画的にインパクトがあるし、献身的で情がある感じがするよね。
だからこのニセうさぎとどういう関係なのか、どういう心の通わせがあるのかと期待したのも……結局インパクト一発だったのかというのもすんごいガッカリしちゃったしなあ。

うさぎの本名が岡本太郎だっていうのも意味ありげで気になるが、関係なかったのかね、結局……これも“意味ありげ”要素なだけだったのかなあ……。
でも考えてみればこのタイトルも、正義の味方の月光仮面、でも仮面に隠されていて実体は判らない、月光の下というのも意味ありげ?みたいな?……意味ありげでまとめちゃったら、それこそ何でも言えちゃうよなあ……。 ★★☆☆☆


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