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「ま」


2012年鑑賞作品

また逢う日まで
1950年 111分 日本 モノクロ
監督:今井正 脚本:水木洋子 八住利雄
撮影:中尾駿一郎 音楽:大木正夫
出演:岡田英次 久我美子 滝沢修 河野秋武 風見章子 杉村春子


2012/2/2/木 劇場(銀座シネパトス/今井正監督特集)
ガラス越しのキスシーン、私はなんでかこれが日本映画初のキスシーン登場映画とカン違いしてて、その“ガラス越しのキスシーン”の写真はこれまでに何度も見た覚えもあり、“ガラス越しのキス”=“日本初のキスシーン”だとばかり思っていた。
そのシーンは夢のように美しくて、冬の寒さがモノクロの中で一層際立って震えるようで、目に焼きついて離れない名シーン。
でもさでもさ、それならそのキスシーンだけと思うじゃない。もうそのシーンが喧伝されてて、しかも私はこれが日本初のキスシーンなんだとカン違いしてたからさ、もうこれは超純愛映画で、ガラス越しのキスだけで心ときめくなんて、やっぱり古い時代は純情よねーなんて思ってたの。が、が!!

こ、この映画、超生々しい!

いや、確かに純愛映画であることには間違いない。そして時代的にも戦争が若い恋人に暗い影を落とし、哀しい、というより悲惨な結末を迎える。
片方が戦死するとか、とにかく二人の仲が引き裂かれるという戦争モノはよくあるけど、なんたって二人とも死んじゃうんだもの。
しかも彼女の方が先に死んじゃって、その死を知らない彼が、彼女の元に帰ってくることだけを心の支えにして戦場にむかったのに、結局彼も死んじゃうんだもの!

おいおいおいおい、いきなり大オチを言ってどうするんだ(爆)。いやその大オチは、予想だにしなかったこの映画の、恋人たちの、生々しさに比べりゃ大したことはないと思ってしまったからつい言ってしまった(爆)。
いや、つまり、その美しきガラス越しのキスは確かに皮切りだったが、その後彼らはもうチューしまくりなのよ。
なんたって彼、三郎の出征が迫ってる。もう二度と会えないかもしれない。それでなくてもちょいと身分の差とやらもあり、勿論戦争もあり、二人は絶望を抱えている。
そうなるともう二人の気分はどんどん盛り上がり……じゃなくて追い詰められ、いつ君は僕のものになってくれるんだいと抱きしめてチューすると、もう少し待ってと彼女、螢子は言うが、じきにという雰囲気が満点。

最後から二番目の日、今日こそと押し倒すと螢子は、最後の日にと三郎をいったん帰す。だってそこは彼女が母親と二人暮しをしている家だしやっぱ落ち着かないしさ、などというのはこっちの勝手な推測だが、でも螢子が最後の日にゆっくり会いましょう、その時……と言うからにはやっぱそういう意味でしょ!
しかも勝負下着よ!思いつめた表情で、ワキもあらわに真っ白のキャミソールを着るシーンにビックリ仰天!
母親に向って涙ながらにあの人が出征するの、だから……と言い、母親も娘を快く送り出す。
母親だって、身分違いで駆け落ちした過去のある母親だって、娘がこの最後の日に、送り出すためだけではないことは判ってるでしょ!!!

……ついコーフンしてしまった。でもさ、いやー、確かに見くびってたなあ。でも結果的に二人は会えずに、結ばれることなく(つまりセックスできずに、ってチョク過ぎるやな)死んでしまったことを思うと、やっぱりやっぱり純愛、プラトニック・ラブだったのかなあ。

うう、ホントに興奮しすぎだってば。とにかく最初から行く。
てか、まずね、この二人はほおんとに見目麗しい。三郎の岡田英次、螢子の久我美子、今の時代でも充分イケメン、美人で通る美しさ。
三郎は厳格な裁判官の父親の元に育ち、長兄は戦死、理解あるはずだった次兄も軍隊に入ったら軍国主義に染まりきり、芸術を愛する三郎はただただ悲しく、孤独を味わうばかりだった。

長兄の子供を孕んだ義姉が、「赤ん坊を産むまでは里に返す訳にもいくまい。それがヨメに貰った側の義務だ」ぐらいの、見栄と尊大の中でコマネズミのように働いているのも哀しい。
三郎はね、この義姉になんとなく甘えている風があったなあ。枕カバーなんか替えてもらってさ、義姉さんはかわいそうだと言うと、私は幸せなほうです。だって……とお腹をおさえる。

でもその赤ちゃんも結果的にはどうなったのか……。もう冒頭でね、クライマックスを最初に示すあの手法よ。三郎が螢子と最後の逢瀬に行く直前、義姉が流産しそう?てなことに陥ってしまうの。だから三郎は待ち合わせの場所に行けない訳で……。
赤ちゃんだけが彼女の生きる希望、そして夫亡き後、家父長制度バリバリの男ばかりのこの家での存在意義だったのに。
冒頭示された時には、そりゃ何がなんだか判らなかったけど、時間軸が戻され、彼女の立場が示されると、あまりにもやりきれなくて。

螢子は早くに父親を亡くし、軍需工場に勤める母親と二人暮しである。三郎と似たような年恰好だと思うけど、三郎は大学生なのかな?
螢子は女学校は出て、その後は戦意高揚の映画ポスターなどを売り込んで日銭を稼いでいる。
つまり本当は画家になりたい、それだけの技術もあるんだけど、彼女が描いているのはけばけばしい色彩のいわゆるポンチ絵。
出版社から、戦車に下敷きにされる敵兵を描いて持ってこいとか言われてる場面に遭遇したりもし、芸術を愛する三郎は激昂するんである。

キミはこんなことでいいのかと。生きるためよと彼女が言っても、そんなことは言い訳にならない、と言う始末。
なんという青臭さ。今の女ならこんなボッチャン、平手打ちして放り出すところだろうが(爆)、時は戦時下、そうじゃなければ彼女だって夢を追えたかもしれない。

ほおんとにね、三郎は芸術青年なの。文学や音楽を愛し、ガリ版で作品集を刷る。
詰襟で集う仲間たちは、程度の差こそあれ、三郎と似たり寄ったりのロマンチストたち。
そう、程度の差こそあれ、である、仲間たちが次々と招集され、“遺稿集”なる話を冗談めかして語っていたことが、次第に現実味を帯びてくる。
それこそ三郎が幻滅した、軍国主義に染まった次兄と変わらないことを言い出す友人も出てくる。
潔く死ねるのか、せめて犬死はしたくない。犬死じゃない死に方などあるのか。その時は天皇陛下バンザイと叫ぶのか、おかあちゃんと叫んだっていいじゃないか。
……彼らの議論は深刻でいて、やはり学生の青臭さがあって、どこか哀しい滑稽味がある。でもその先に死が待っていると思うと、若いネなどと笑い飛ばせはしない。

仲間の中でもどこか超然と構えていて、妥協をしない、それこそ芸術家肌の男を、三郎は敬愛していた。
気紛らわしのように、ピアノを弾く彼。哀愁を帯びて紡がれるトロイメライは、郷愁のような、未来への哀しい展望のような、今の、友人との他愛ないやり取りを慈しむかのような、なんともたまらなく胸を締め付けさせる音色を奏でていた。
三郎は気心の知れた友人たちと一緒にいても、本音を言わずジョークに紛らす、子犬のじゃれあいのような関係を、どこか歯がゆく思っているところがあってね。でもいかにも男子っぽくて可愛いんだけど。

このピアノ青年だけは、そんな思いを共有してくれそうに思ったから……最終的には彼は一片の詩を三郎に託して戦場に散り、深く友情を交し合うことは出来なかったけれど。
でもね、三郎の目には歯がゆく見えた友人たちだって、そんなことは百も承知であろうし、本音を言い合えるから本当の友人だっていう三郎こそが、何か青臭く感じるんだよね。
ある程度判りきっている、苦々しく哀しいばかりの思いを言い合ってどうするの、ジョークに紛らす中に、それこそまぎれこんでいる哀しい思いをちゃんと共有してるじゃないの、と、そんな風に彼らは判ってたんじゃないのかなあ。

そうなんだよね、やっぱり三郎はどこか坊ちゃん、って感じ。
そうそう、この物語は三郎のモノローグによって進行していき、友人に対する歯がゆい思いや、父や次兄に対する反発や、何より螢子に対する愛情を彼のモノローグ一発で進んでいくのね。
それが、実に理想に満ちてて、青くてさあ。特に次兄に対する反発は、「かつての兄さんなら僕の言うことを判ってくれた。あの兄さんはどこに行ってしまったんだ」的な言い様はね……。

まあ確かに、次兄の、時勢にすっかり染まって自分の考えさえもどっか行ってしまって、お国のために命を投げ出さなくてどうするんだ、お前はそれでも日本人か!てな造形は、現代は勿論、終戦からそう遠くはなかった当時でもケッと思っただろうけど(いやむしろ、戦後の当時の方が思ったかも……)、でもやっぱり三郎は、芸術を愛して生活できてる三郎は、螢子の目から見たらぼっちゃんだったに違いない。

それでも螢子は、三郎に鼻白むようなことはない。彼の青臭い主張にも耳を傾け、そうね、でも生きていくためなのよ、と静かに言う。
戦争画の展覧会なんか見たくないときびすを返した三郎は、彼女のスケッチ画を見ようと土手端に座り込む。そんであのケバいポンチ絵にガッカリする訳で。
で、その時同時に、彼女の貧しさ、ポンチ絵を売り歩いていることもそうだけど、今更ながら穴のあいた手袋とか、そんなことにも気づいてしまうのだ。

おこづかいもままなっちゃう三郎は、螢子に手袋をプレゼントしようと思うんだけど、彼女に拒まれ、だったら自分の肖像画を描いてもらって、その代金として手袋をプレゼントする、と食い下がる。ホンット、ロマンチストである。
螢子の微笑みは、まるで弟に対するそれみたい。でも戦況が押し迫り、冬の街中も寒々しくなり、二人が身を寄せ合ってそぞろ歩いている時、こんなものがまだ置いてあるんだ、と小さな店のショーウィンドウに見つけた上等の手袋、というシチュエイションが、なんとも映画的でね。
で、その肖像画を描くためにと、三郎は螢子の家を訪れる。てーか、ほとんどそれを言い訳にして、お母さんは昼間働きに出ていないんだろと言って、ムリヤリ乗り込んだようなもんである。

そういやー、彼らの出会いを記すの忘れた。突然だがここで書いとく(爆)。
空襲の晩、逃げた、あれは防空壕?なんか地下のどっか?よく判んないけど、とにかく群衆の中に二人はいた。
三郎の方が美しい彼女に一目ぼれの形で目を奪われ、彼女のそばにそぞろ寄って、爆発音を言い訳のように、彼女にかばうように身を寄せた。
おいおいおいおいー、それって、ていのいいセクハラじゃないのお。実際、その後街中で彼女を見かけて彼がハッと近寄った時も、彼女はいぶかしげによけたしさ。

てかちょっとこのあたりネムネムで(爆)。ゴメン、二人がどうやって再会したのかよく判んない(爆爆)。
とにかく気づいたら二人はにこやかに次に会う約束なんぞをしてる。でまあ、これまで綴ってきたような逢瀬を重ねて、戦局が押し迫ってくる訳。

いくつか重要なシークエンスがある。まず、次兄が突然死んでしまうこと。それも戦場での華々しい?名誉の??戦死などではなく、そう、次兄が口では望んでいたそれではなく……車両事故に巻き込まれての不慮の死だった。
軍の病院に運ばれた時はまだ息があって、三郎が駆けつけ、幼き頃は仲が良かった兄に戻っていた彼と、愛情を確かめ合い、みとることが出来たけど、裁判官である父親は、自分の仕事を優先した。
部下が、お帰りになってもよろしいですよと、気をつかってくれたのに、戦局が左右する男の見栄と、いつの時代もある男の見栄が手伝って、行かなかった。

このシークエンスはね、だからどうだとか三郎がモノローグする訳じゃないんだけど、すんごく印象的で、監督の気持ちもなんか……込められている気がするんだよなあ。
父と次兄の会話シーン、父の仕事の話になり、こんな戦局に、痴話げんかの末の殺人なんかをする男がいるんだと、二人苦々しげになる場面が示されているのがなんとも……ね。
痴話げんか、死ぬか生きるか、ていうのは勿論、主人公である若い恋人にも向けられていることだとは思うけど、でもそんな愛情や感情に背を向けて、息子の死の淵にも駆けつけない父親の哀れさを示しているようにも思えて……。

同じ親、という対照としてでもあるんだろうな。とても重要な、螢子の母親。
最初のうち、螢子が三郎に語り聞かせる若い頃の写真でしか出てこなくて、写真出演なのかと思ったら、かなり後半になって登場してからは、メッチャ重要である。
配給食糧を届けに来てくれた母親の仕事仲間から、螢子の夜の外出がバレてしまって、母娘の仲は一時険悪になる。

親族に反対されて駆け落ちしてきた母親が、娘に言えることなどない筈なんだけど、いやだからこそ、自分のようにはなってほしくないと、娘に感じる恋人の影に警戒してけん制する母親。お母さんは判ってくれると思っていた、と失望する娘。
そりゃまあそうだな。母親の言い様はまるで自分の選択を後悔しているように聞こえ、それはつまり娘の存在を否定することでもあるんだもの。
でも最終的に母親が娘の気持ちを汲んで送り出した場面で、全ては帳消しになる。母親を演じる杉村春子が、もう、この人はなんでこんなに、上手いの!そんでさ、その後さ、娘の悲劇を確信したように予感して急ぎ帰ってくるシーン……ああっ。

……おーっと、危ない、危ない。口を滑らせるところだったぜ。ていうか、もう、ここまで来たら言うしかないし、最初にオチバレしちゃってるけどさ(爆)。
そう、先述のように、二人はすれ違い、まさに現代のように携帯もなければ事情を知らせるすべもなく(あ、でも考えてみれば、待ち合わせていたのが駅なんだから、そこに電話なり電報を打つとか……それを言っちゃおしまいかぁ)、ボクに翼があれば飛んでいけるのに、とかノンキに(な訳もないが)モノローグしている間に、空襲の爆撃が駅を襲い、哀れ螢子は巻き込まれてしまうんである。

正直、このシーンには、えー、うっそお、と。いや別に、彼らの最後の日、結ばれる筈だった日、×××シーンを期待していた訳ではないが(爆)、でもうっそお、である。
で、翌日だった筈の出征もその日の夜に早まってしまって、三郎は螢子の家に行くものの誰もおらず、娘を案じて急ぎ足で帰ってきた彼女の母親とそれと知らずにすれ違う(!!!)。
そして、螢子の名前をモノローグで叫びながら、次兄に言われながらも最後まで刈らなかったそのロマンチックな長髪を列車の戸口に立って風になびかせながら、螢子―!!と、小さく過ぎ行く列車とともに、小さくこだまするのだ。

正直、さあ。螢子の母親としたら、三郎は絶対許せないよね。オメーが死ぬと思って娘は送り出しに行ったのに、オメーが死ねよ、とか思うよな(爆)と思ったら、本当に死んじゃうし(爆)。
そういう意味ではズルいとも思うけど、三郎が彼女の死を知らずに出征したこと、そして死んでしまったことが何より哀れで。お互い死んだことが判ってなかったら、天国で出会えるのだろうか……。

あのね、最後から二番目の日、そう、螢子が、ヤるなら明日と言った……いや、なんて言い方はもちろんしてませんけど!!まあその日、二人は、結婚の約束を取り交わすのね。
僕が無事戻ってきたら結婚しよう。僕は絶対に死なない。絶対に生きて戻ってくるから、と三郎は言い、螢子も、私も死なない、三郎さんを待っている、と言い、結婚生活を夢想するのね。
最初は、お互いがいれば何もなくていいとか言ってたのに、私どんな部屋でも素敵にする自信があるわ、こんなお人形を作るのも得意なの、とかから始まって、たったひとつほしいものがあるの。これぐらいの(割と小さめ)ステンレスのフライパン。ピカピカに磨いて、吊るしておくの、と。

たったひとつだけの筈が話が弾むと、ざるは二つはなくちゃなどと言い出すから三郎が苦笑すると、だってあなたのために美味しい料理を作りたいんだもの、といかにもなことを言う。
三郎が螢子の絵の才能を伸ばしたいからと、そんなことばかり言う彼女をちょっとたしなめ気味にするのが、逆にその先に何が起こるかをはっきり予感させる気がして哀しくてならない。
だって、だって、だって、未来を幸せに夢想する場面が続けば続くほど、そんなことが起こらないことが確信されちゃう。

そして、絵に打ち込んでいた筈の螢子が、三郎もその才能を認めて後押ししようとしていた螢子が、彼との甘い結婚生活、子供は6人とか彼を驚かせるぐらい多い数を言ったり、料理のこともそうだし、しまいには部屋の間取りの図面を描いてみようとか言い出しさえしてさ。
間取りは彼女の画の才能を感じさせるアイディアだけど、とにかく、未来の夢想を言えば言うほど、現実からどんどん離れていって、そんなことが実現する筈がない、彼らには哀しい結末が待っているんだ、と予感、どころか確信しちゃう、判っちゃう、んだもの。

そう、彼らにだって、判ってた。お互い、絶対に死なないと言ってたのに。
螢子が描いた三郎の肖像画を、万が一という形ではあれ、自分の遺品にしてくれと言った時、全ては決してしまった。
いやでも、まさか、螢子が先に死ぬとは思わなかったけど……。

ラストシーンは、遺品となってしまった三郎の肖像画を、螢子の母親が彼の家に持ってきて、家族と牧師さん(だったよね?キリスト教……?)とともに冥福を祈っているシーン。
螢子が死んだと明確に示すシーンがなかったから、もしやここにいるんではと淡い期待を抱いてたけど、やっぱりダメだった。
螢子と逢えないまま出征し、螢子への思いを連ねたノートに涙する母親。娘が描いた恋人の肖像画に顔を寄せて、またねと声をかける母親。
ほんっとに、杉村春子が、実質の登場シーンは少ないんだけど、もうズキューンと打たれるお母さんなの!!

なんか色々予想外で、うろたえ、ときめき、忙しかった。勝手に予想しといてなんだけど、予想外っていうのは、なんとも素敵なの! ★★★★☆


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