home!

「や」


2012年鑑賞作品

襲られた女
1981年 67分 日本 カラー
監督:高橋伴明 脚本:高橋伴明 米田彰
撮影:長田勇市 音楽:
出演:忍海よしこ 山路和弘 下元史朗 萩尾なおみ 織田倭歌 今泉洋


2012/5/13/日 劇場(銀座シネパトス/第24回ピンク大賞)
高橋伴明監督の代表作、ピンク映画史上の最高傑作とも評されるというお墨つきだらけの本作。
男二人のバディムービーというのは、なぜこうも女子の心をかき乱すのだろうか。いや、女子だけではないんだろうか。本作は男二人と女一人という体裁になってはいるけれど、女子はやっぱり切り離されている、と思う。
主人公はこの男二人だし、彼らがたまり場にしている小さなバーの女は、そこでしか彼らと顔を合わせることがない。若い方の男に彼女はほのかに想いを寄せていて、彼の方もまんざらでもなく、年長の男の方は彼女のことを好きだったのかもしれないけれど、若い相愛の二人をジャマすることを何よりも恐れている。

そして、いつもいつも一緒にいる男二人、まるで悪ガキの延長線上のような二人が彼女に対する視線は、どこかまぶしい、マドンナに対するそれなのだもの。彼女は彼らと同列にはいられない。そこから出た途端に、彼らとの関係どころか、全てが終わってしまうってことは、もう初めから決まっていたのかもしれない。

どうも、先走ってしまうけれど。そう、男二人のバディムービー。最近の映画に至るまで、こうも多い男二人の相棒モノ。女二人のそれがほとんど見当たらないことを考えても、やはり男二人の世界は、誰にとっても魅力的らしいんである。
劇中、彼らをマリアのように受け止め、そして最終的には崩壊するマドンナ、ミミは言う。「男同士って、そんなに素敵?」と。
この台詞はなんだか妙に胸に突き刺さった。その問いに対して特に返答がある訳でもなく、まるで獲物を狙った猫の前足が空を切るように何も返ってこないことが、余計にその思いを強くさせた。
なんだろう、この感覚。これは、男性はどう受け取るんだろうか。“男同士”を見守るミミのこの問いが、彼らのために崩れ去る彼女の運命さえも決定づけたような気がしてならないのだ。

どうも、どうも先走ってしまう。でも、もうここまで先走ったんだから、言っちゃう。いきなりクライマックスの話を、言っちゃう。
大きな仕事を無事終え(と、この時点では三人共に思ってた)、苦い思いを抱えながら彼らは記念写真を撮る。
タイマーをかけて三人の写真を撮る体裁を保ちながら、年長のぜんさんはひろしとミミの二人を、ミミはぜんさんとひろしの二人を切り取るアングルに据える。
ひろしだけが、三人の写真を撮る。彼だけが、子供なのだということを露呈する形になるけど、でも三人でいたかった、いたかったのに。

脱線しまくりを、そろそろ修正しなければ。とにかく設定、キャラ設定である。年若いひろしと、彼よりひとまわり年長のぜんさん。彼らは“何でも屋”をかかげ、家出少女の捜索、欲求不満のマダムのお相手、猫探しまで、何でもござれ。
冒頭が家出少女を突き止めるシークエンスで、彼女を引き入れてよろしくやっているニキビくさい青年を呼び止め、「おいおい、そこの、クリトリスな青年」とぜんさんが呼びかけるのには爆笑!クリスタルな青年だよ、とひろしが訂正するのを聞くと、なるほどそのカーリーヘアが当時の流行り、クリスタルキングの片割れを指しているということか。

そして部屋に乗り込み、彼らを背中合わせにふんじばって、「余禄ってもんだろ」と少女を、背中合わせの青年をつぶしながら犯すのは、いかにもピンク映画のツカミって感じだが、まあ女としてはやはりちょっとキツいかなあ。
いくら彼女が(恋人の元にしけこんでいるから)処女ではないとは言え、これはレイプとしか言い様がなく、「あんたみたいな子供でも、女の幸せを知っとんのんか」とぜんさんが喜ぶような快感を感じるようになる余裕なんてないと思うのだけれど……まあ、ピンクに対してそんなこと言っても仕方ないけど。

よりピンクらしさが発揮されているのは、欲求不満のマダムのお相手をするシークエンスだよな。六回の約束でもうお金は払ってる、と疲れを知らぬマダムに、若いひろしの方が息も絶え絶え。
公衆電話の前で待ち構えている、これまた欲求不満気味のぜんさんを呼び出すも、「お顔がタイプじゃないわ」と言われる始末。「いや、セガレは自信ありますよってに!」
マダムはしぶしぶ了承するも、「お顔が見えないように、バックから」と指示し(!)その四つんばいの顔の下に、“タイプ”のひろしを寝かせるという、なんともなっさけない構図!
しかもセガレが自慢の筈だったぜんさんは「一発豪華主義で」と、情けない笑顔で言い放ち、マダム激怒。うーむ、このシークエンスはピンクらしさと共に、実は男と女のセックスの違いを端的に(端的過ぎるが)示しているような気がするなあ。

猫を探すシークエンスが一番好きかもしれない。「アキコという名前なら、人間の女の子だと思うやないか」とこれまた情けない笑顔のぜんさんを小突きながらひろし、大きなプラカードを掲げて歩く二人。
このプラカード、黒猫の絵と(確か、絵だったよ。写真ですらなかったと思う)、見つけた人はこの二人まで、という書き方も何とも間が抜けてて可愛くてさ。
で、すれ違った、黒猫を抱いたマダム(どうもこの二人はマダムが鬼門らしい……)を見て、「どうせ黒猫だから判りゃしない!」とムチャなこと言って攫うことを試みた……のは描写されず、判りやすくマンガチックに絆創膏だらけの二人がミミの店で飲んでて、つまらない言い争いでケンカになるという、そのくだりに至るまで、ホンット大人になれない二人でさあ。

ともかく。このぜんさんを演じているのは、大好きな下元史郎。年長といえど、やはり若い。でも、年長である。
彼がひろしの年齢を聞いて「ひとまわりも違うのか……」とつぶやくシーンは何かやけに可愛く、しかもそのシーンが公園の、あれ何ていうの、球形をしたぐるぐる回る鉄製の遊具、あれに背中合わせに座ってぐるぐるぐるぐる、そしてぜんさんは、ひろしに向かって、そろそろこんなことはやめた方がいいと言う。お前は若いからやり直しがきく、と。
その時にひろしが言う台詞が、これまた珠玉なの。「いくつからだって、やり直せるさ」確かに、確かに、あまりにも若くて青い台詞。でもね、その台詞にぜんさんが見せる何とも言えない表情がたまらないの。それを信じたい、でも、みたいな……。

男二人のバディムービー、この台詞とよく似た台詞の映画があったなと思い出す。「キッズリターン」のラスト、「俺たち、もう終わりなのかな」「バカ。まだ始まってもいねえよ」その後ふっつりとエンドになる「キッズリターン」の方が、極めて厭世的な気分はあったけど、それでもまた、未来への希望はあったのかもしれない。
本作は、この台詞のシークエンスは中途にはさまれる。中途じゃなくても、ひろしのこの台詞は、教科書めいたこの台詞は、ぜんさんの表情がなくても、若いひろし自身でさえも、本当にリアルにそう思っているかなんてさ、そんな訳なくてさ……。

でもそれでも。「いくつになってもやりなおせる」ことを実行しようとした分だけ、確かにひろしは若かったのかもしれない。
ヤバイ仕事を引き受ける。総会屋の大物が女とヤッてる写真を調達すれば、やり直せるだけの大金が手に入る。その話を聞いた時にもうぜんさんは、俺たちにはとても手に負えないとひろしをたしなめたけれど、ひろしはもう既に前金をもらってしまっていた。
しかし当然、そんな大物だから、ボディガードも含め警護は固く、とても入り込めない。いろんな女をあちこちに囲っている相当の女好きなんだけれど。
相当の女好き、というところにひろしがふと思い当たった。そう、おとりだと。ミミを、ひろしに思いを寄せているミミを、ぜんさんが気を効かせてひろしとついに一夜を共にしたミミを、おとりに使おうと思いついた、思いついてしまった、のだ。

ミミには、このカネでどこか遠くに行って喫茶店でも始めようかと思っている、一緒に来ないか、とひろしは言った。
ミミはきっと、例えこの仕事が成功しても、それが現実味を帯びてなどいないこと、判っていただろうと思う。それはね、ひろしに同棲している女がいることをミミが判っていたかどうかは……判っていたと思うけど、またそれとは別の感覚で。女の本能で。
そう、ひろしには同棲している女がいる。でもその登場シーンは、いつでも、ひろしが帰ってきてベッドにもぐりこみ、寝ている彼女とまるで日課のようにカラミ合う、それだけである。会話さえも交わさない。
ひろしは、おとりの話をまずはこの彼女に持ちかけるのね。でも、思いがけず、ひろし以外の男と寝るのはイヤだと断られる。そしてそのまま、二人の仲は破綻する。

あたしたちいつもコレ(セックス)ばっかりだったね、と静かに言い、でもそれを空しいものだと思っているって訳でもなくて、お互いに相応に愛しい気持ちはあったのだ。客観的にも、主観的にも、まるでセックスだけの相手のように見えていたのに。
でも少なくとも彼女はひろしにホレていたから、彼からの頼みでも、おとりの話にはノレなかった。正直凄く意外だったし、それがゆえに彼の元から彼女が去っていくというのが、ひどく切なく思われた。
お互いに写真を撮るという別れの儀式も。美人に撮ってよ、ハンサムに撮れよと言って、彼女の方はひろしをわざとピンボケにしてシャッターを切るのが、こんなこと思うの、ベタかな、涙にかすんでいるようで。

同じホレてるでも、おとりがやれるやれないの選択で、ミミはやる方をとった。そしてカウンターから、店から、出てきた。三人の関係を壊してしまった。決行現場でカメラをかまえたぜんさんがことの次第を知って、それはないやろ、とひろしにつめよるも、もう遅かった。
仕事は首尾よく終わった、ように見えた。三人でムリヤリに盛り上げて酒を酌み交わした。追加の酒を買いに行ったひろし、ミミとぜんさんが二人きりになった。
「ぜんさん、しよっか」驚いて拒絶するぜんさんに「抱いてくれなきゃ、私、泣いちゃうよ」言うそばから涙をぽろぽろこぼすミミに、ぜんさんはおおいかぶさる。そりゃあ、酒を買いに行っただけだから、帰ってきたひろしがその場面を見てしまう。ドアをそっと、閉める。

それまでだって、充分判ってたけど、ミミは、この二人の男の絆に割って入ることなど、出来なかったのだ。おとりの話にかんで「これで私も仲間になれたかな」と言ったミミのその台詞、その気持ちが判りすぎるだけに切なくて。
だって……やっぱり、二人の間には入れないんだもの。三人は、二人ずつにしかなれない。男同士でも、男と女でも。それが、最初に先走って言っちゃった、この打ち上げのシーンで二人ずつの写真を撮る場面で残酷なまでに示されてる。
ひろしは、ひろしだけは、そう思ってなかった、というか、そうじゃないと、頑なに主張を通したがってた。でも彼にだって、判ってた筈。

総会屋の大物はダテじゃなかった。図られたと知ると、ミミをあまりにもあっさりと殺した。用心棒がミミをくびり殺した後に死姦するシーンは、……これはいくらピンクでも、成人映画でも、カラミとしてのシーンでも、見たくない、見たくない!見たくない!!
変わり果てたミミに、まずぜんさんが号泣するのが、彼がひろしに、そしてミミの気持ちに遠慮して彼女への気持ちを封じ込めていたことを思って暗澹とする。

ひろしは、その若さで、あっさりと復讐を決めた。やや怖気づくぜんさんも後に続かずにはいられない。ドスで斬り込んで、総会屋にも深い傷を負わせたけど、……致命傷を負ったのは、ぜんさんの方だった。
ぜんさんはひろしをいち早く逃がして、自分だけが踊りかかった。このシーンだけでも、ぜんさんのミミへの気持ち、そして相棒のひろしを思う気持ちを感じる。それが同等なのは、特にミミにとっては、女にとってはやっぱりちょっと、キツいかもしれない。

腹に深い傷を負って、フラフラと逃げさまようぜんさん、路地に隠れていたひろしと行きあうことが出来る。いつもふざけてたわむれているように、昼日中の閑散とした飲み屋路地で手に手を取って踊りだす。
だけど、ぜんさんの腹の傷がどんどんどんどん真っ赤に染まりだす。ひろしは気づかない、腹が立つぐらい、気づかない。ラストカットのストップモーション、ぜんさんが弓なりに沿って倒れこむ瞬間まで、気づかないのだ。バカ!バカ!!バカ!!!

やっぱり、二人、男二人。激しくケンカした後でおでん屋に片割れを見つけ、半分こして仲良く酌み交わしたり、路地の階段をフラフラ立小便しながら歩き、「かかった!きったねーなー!」とののしりあう様子とか、やっぱりやっぱり、女は入れない、仲間になんか、なれないんだよ。
うらやましい、いや、うらやましいのだろうか。だって、なれないよ、女は、こんな風には……。★★★★☆


トップに戻る