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「ん」


2013年鑑賞作品

んで、全部、海さ流した。
2013年 30分 日本 カラー
監督:庄司輝秋 脚本:庄司輝秋
撮影:釘宮慎治 音楽:中川五郎
出演:韓英恵 篠田涼也 足立智充 半海一晃 いわいのふ健


2013/11/13/水 劇場(渋谷ユーロスペース/モーニング)
時を経るごとに様々な形の震災映画が出てくるけれど、その中でも異色の短編。
いや、これを震災映画だなどと言うべきではないのかもしれない。大体自分で言っておいて、震災映画ってなんだよ、と思わなくもない。そうしたくくりに閉じ込めて、そこで日常を獲得していく人たちをも、いつまでも非日常に引きずり出そうとしているのかもしれない。
そうだ、これはある場所での、少女と少年の、日常の物語。ただ、そこは被災地と呼ばれる場所であるだけ。

いや、そんな風に言い切れるものでも決して、ない。なんと言うべきか……そう、このスタンスこそが、今のリアルな現実というヤツなのかもしれないと思う。
いつまでも押しつけの希望や絆、そんな言葉がオフィシャルサイトの解説にあった。
監督さんは、まさにこの地の出身、実家が津波の被災にあったという。でもその中で生きることが日常になっている、という。
そうだろうと思う。少し、判る気がする。私の実家は福島でも仲通りだったから津波の被害はなかったけれども、被災地、というくくりで語られる、被災地としての視線を受ける。
頑張って、大変だねの言葉、日常に帰りたいのに、そのたびに引き戻される、そんな感覚が、少し、判る気がする。

少女と少年、とパッと言ってしまったけれど、二人には年の開きがある。茶髪の少女の方はハタチ前後か。
「履歴書に本当のことを書けば、採用してくれるんですか。高校中退のヤンキー、頭の中はお花畑です、って」と面接の場でテーブルを蹴飛ばして踵を返す。
人にアイソをふりまくとかできなくて、試食販売のバイトも一日でクビ、試食用のシューマイをどっさりもらうも、仕事中、彼女しか食べてなかったからお腹いっぱい。
世間でウソという名のアイソなど、ばらまき慣れているこちとらとしては、まるで自分の娘を見るように(まあ、子供はいませんですけれども)ハラハラとしてしまう。

家での彼女は、もう一人いる家族は母親のようだけれど後姿だけで判然とせず、彼女が話しかけても何も返ってこない。
それこそ、この震災で他の家族を亡くしたとか、推測することは簡単だけれど、そんな観客の勝手な想像もあっさりスルーして、ただ彼女は、ここで生きている。

その意味で言えば、少年の方が明確に観客の推測を覆す。少年は、小学生。4、5年生といったところか。ぽっちゃりとした体形で、少女が面接に行った塾で彼女と出会う。
男の子のようだけど、赤いランドセル背負ってるし、女の子かなあ、と思っていたら、やはり男の子だった。
死んでしまった妹のランドセル。そう聞いてしまえばそりゃー観客は、妹は津波に流されて死んでしまったに違いない、可哀想に……と半ば食い気味に思いそうになるところを、「妹は車につぶされて死んだ」
あれ、あれれれれ、まさかの交通事故死。実にあざやかに、“震災映画”を予測してくるこっちを欺いてくるんである。

そりゃそうだ。被災地にだって交通事故は起こるし、会話のない母子家庭だってあるだろう。震災があってもなくても元ヤンの少女は「教育って大事だよな」とあからさまにさげすまれて簡単な事務の仕事さえもらえない、同じことだ。
でもそれを、津波がすべてをかっさらって更地になり、その後草が生え、その草が枯れて茶色く乾いた寒々しい場所で行われると、この日常がやはりどこかただ事でないと思える。
いや、なんとかして、ただ事でないことだと、定義したがっているのかもしれないけれど。

このタイトルからして、実に見事に観客を欺いている。この作品の舞台がどこか判らなくって、東北訛りでこんなタイトルつけられちゃ、津波で流されたことと思うじゃない、絶対。
でも、違うんだよね。だって、“流された”じゃなくて、“流した”なのだもの。自主的、意志があるんだもの。
いや、そうは思っていても、これはあくまで比ゆ的というか、悲しみも全部流して、そして私たちは未来に向かって生きていくんだとか、そういうことだと勝手に思ってて。

そういうのも、絶対計算済みだよね。そうやって外から眺める一般的観客は、やっぱり震災、被災地、被災者を定義したがってる、ってことだもの。って、私もか(爆)。
そうだよな、だって私は当然被災者でもないし、実家は福島だけど、福島がまったき故郷という訳でもない。故郷の一部、それも悲しいが……。
でも、そういう意味で言えば、両方の景色が見えるのだ。何かそれも中途半端&板挟みでツラいけれど……。

そう、流した、なんである。自主的、意志によって、なんである。何を流すかと言うと、……一言ではなかなか言いにくいけど、何だろう、思い出?未練?何て言えばいいのか。
少女=弘恵は、少年=達利に言った。長浜の海で形見を燃やせば命が甦る、と。
妹の形見の赤いランドセルをいつも背負っている達利が不憫だったのか、そんなことを言って、エンコウのお得意さん、小林をアッシーに呼び出す。
遠い長浜の海へと、小林の会社のワゴンで向かうんである。

オフィシャルサイトの解説ではね、弘恵は達利に嘘をついた、と書いてたの。形見を燃やせば命が蘇る、なんてくだりそのものが嘘だと、つい、ついてしまった嘘だったと。
見てる限りではそんな風に感じなかったんだよね。そりゃ、伝承とか、言い伝えとか、あるいは今っぽく都市伝説とか、そういう感じだろうとは思ったよ。
いくらなんでもリアルにホントなんては思わない。それをここで示したら、CGたっぷり使ったオカルトホラーになっちゃうもん。
アッシーとなった小林が「お前、そんなことホントに信じてた訳じゃないだろ」という言い回しをするのも、だからこそ違和感がないと思って見ていた。

でもそれこそ、ノンキな第三者の観客である私は、判っていなかったのかなあ。来世へのよみがえりだの、そんなことを無邪気に信じてられない、今、なのだ、彼らは。本当によみがえるところを見なければ後には引けないぐらいの勢いなのだ。
アッシー代の替わりにタダでヤッていいよと言って乗り込んだ弘恵だけど、「あんたのチンコ見飽きた」と、気分がノらない。
そりゃそうだ、後部座席には達利が、無邪気な寝顔を見せているとはいえ、いるんだもの……。
小林は怒り、二人を叩き出して車を出してしまう。「あーあ、歩きになっちゃったよ」と二人はてくてくと夜の街を歩き出す。

この時、なんだよね。達利が、妹が事故死だったことを打ち明けるのは。トンネルの中、そぞろ歩いている時に。
弘恵は知っていたのかもしれないけど、観客はええっ、と思っちゃう。先述の、思い込みがあるから。
そこへ、結局見捨てきれなかった小林がブーンと車を止めてくる。今更なんだよと弘恵は悪態をつきながらも、次のシーンでは、三人、砂浜でランドセルを燃やしてる。

燃えきらないんだよね。そう、燃えきらないんだ……。ぶすぶすとくすぶって、燃え残ってしまう。オイルもガスも使い切ってしまって、ぶすぶすと燃え残って砂浜にましましてる。
弘恵は、テキトーなこと言っちゃってゴメンと謝り、それは、燃え残ったから、蘇り伝説はナシよということなのか、どうなんだろう……。

でも、燃え残る、っていうのがね、何かこう、意味を感じたんだよね。男の子である達利が妹の赤いランドセルを背負っている痛々しさを、妹の成仏によって解消させるだなんてさ、違うと思ったんだよね。
いまどき赤いランドセルは女の子、とかいうのもナンだけどね、なあんて言い出すとまた話がややこしくなるから……。

でも、だって、達利がまだまだ子供子供してて、女の子と言われればうっかりそうかも、みたいなところがあったせいもあるんだけど……まあとにかくそれは置いといて(置いとく割には、ダラダラ愚痴ってますけど(爆))。
でもとにかく、ね。この燃え残りに、何か希望っていうか、そこまで言ってしまうとそれこそ、本作が払しょくしたいであろう、震災映画の先述したようなうっとうしさをまとってしまうからそれはちょと違うな。

なんて言うのかな……、そう、なんかね、フラットなのよ。価値観が、フラットなの。
震災だの津波だの、家族だの教育だの社会だの、そんなことは何一つ介在しない。語弊があるかもしれないけど、今の時代に信仰や神の存在が難しいとすれば、その理由は、そんな風に何も介在しない、フラットでピュアな環境が持てないからなんじゃないかと、思った。
もちろん、ここで宗教が語られる訳でもないし、思いっきりプロレタリアートの、だからこそ力強い生命への探求なんだけど、一度更地に戻されて、大切な存在も奪われて、ゼロどころかゼロ以下からのスタート。

そしてこの二人は、そのゼロ以下すら与えられず、更地のゼロにゼロのまま途方に暮れてた。
二人は妙にウマがあったけれど、放置自転車の鍵を壊してパクろうとしたり、お堅い塾の先生の車にスプレーで落書きしたりとか、その程度だった。
二人は一見、楽しそうなんだけど、でもやっぱりそこまでなのよ。たとえ嘘の都市伝説でも、長浜の海岸まで行かなければ、終わらない何かを終わらせることは出来なかったと思う。
でもその何かって、何だったんだろうなんて、言っちゃったらダメかなあ、所詮、観客の視線かなあ。でも本当に、そう思ったんだ……。

韓英恵嬢は、まだ23かそこらなんだね!最初に見たのがホントにガキ年齢(爆)だから、毎回驚いちゃう。
でもようやく、23も過ぎた。同世代の女優さんたちは、さぞかし脅威であろう。そう、ようやくあの韓英恵が、23をも過ぎ、ブチかます時が来たのだ!★★★☆☆


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