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「わ」


2013年鑑賞作品

わすれない ふくしま
2013年 96分 日本 カラー
監督:四ノ宮浩 脚本:
撮影:音楽:
出演:


2013/3/7/木 劇場()
震災後はかなり積極的に、震災を入れ込んでくる映画を観ていたように思う。でもそのほとんどにイライラし、何か違うと思い、そして疲れてしまって、もう見たくない、と思うようになっていった。そんな風に思っていることを知られたくなかったし、自分でも気付かないようにしていたと思う。
その“イライラ”は、クリエイターたちが、せっかくこの惨事に生きている作り手なんだから、これを撮らなきゃソンぐらいな不遜さを感じてしまったからで、私が観たのが多くはフィクション映画の中に組み込まれたそれであったからかもしれないのだけれど。
今落ち着いて考えてみればどんな形であろうと残し、刻み付け、外に発信することは必要なのだと思うことも出来るんだけれど、とにかく、イライラしていた。

それは、やっぱり、福島、だったからなんだよなあ。もちろん最初は、信じられない津波の光景とそれが押し流した無残な爪あとこそが世界を驚愕させたし、その後も、今も、もちろんそう。
そうなんだけど、それらはいわばフィクションに、印象的な画として組み込むには実に“絶好の材料”な訳で、でも、福島は。
福島だって沿岸地域は同じように津波の被害にあったのに、まずそこに近づくことすら出来ない。

見えない脅威は、見える脅威とこんなに違うのかと思う。何かそれは、差別やイジメに似ているように思う。この惨事に比すれば小さな比較かもしれないけど、でも結果的にそうなってる。
見えない脅威に、それにさらされている人々に、共感や同情よりも、恐れ、距離をおき、見当違いに侮蔑する。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、あの震災の後に私のサイトも書き逃げされて、凄く傷ついた。凄く、だなんて、それこそ比すれば小さな比較だ。でも、“比すれば小さなこと”と思うことこそが、本作が期せずして描くことになった重要なテーマのように思う。

私ね、観終わった時には、こんな大きくタイトルを掲げた割には、小さな、一部の、物語で、村民や、特に子供たちへのインタビューは突っ込んだ気持がなかなか見えてこない気がして、ちょっとあれっと思ったのね。なんか、物足りない……なんて言い方しちゃうとアレなんだけど、そんな風に思った。
でも、“比すれば小さなこと”なのだ。彼らは命があり、家族があり、少しだけれど賠償金も手にすることが出来た。津波に全てを流された人たちにとってみれば、良かったじゃん、てなところだ。せっかく助かったんだから、幸運だったんだから、命を落とした人の分までと、あの震災後、感動モードでよく語られたことだ。
でも、それが、蝕んでいく、押しつぶしていく。しかも、あの場所にはいなかった、遠く離れた人たちにとって、もはや助かったとか助からなかったとかいうことさえ、遠い彼方だ。

このタイトル、ね。ふくしまをわすれない、じゃないんだな、と思った。何かそれが、とても重要なことのように思えた。あの出来事を忘れないのは、福島という土地と人間、福島そのもの。
震災の被害にも遭わず、原発反対と簡単に言える場所にいる人間にとっては、もう、“福島を忘れてる”のかもしれない、と思う。いや、そうじゃない、忘れてなんかいないと言われるかもしれないけど。でも福島=ふくしま=フクシマ=FUKUSHIMAは記号になってしまって、そう、あのチェルノブイリと同じ“原発事故で放射能汚染された土地”になってしまって、その要素だけ、なのだ。

それが一番、イヤだった。私はイヤだった。福島は広いんだ、福島という名がつくだけで、全てをダメだというのか、隣接県の方が近い場所があるじゃないかと思って、思ってしまって……呆然としたんであった。

……なんて私事を言っていくともう際限がないから、仕切り直しをしなくては。そう、ここは、目に見える被害がない、見た目には穏やかな町。日本一美しい村と呼ばれたこともあるという、飯館村。
福島って、土地柄ホント穏やかで、東北のイメージとは違うんだよね。ヘンな言い方すれば、東北なのに演歌にならない、ていうか。そのあまりの穏やかさに、何にもない、つまんないところ、ぐらいに、自嘲して言いたくなるぐらい。でもそれがどれだけ素敵なことだったか、ようやく判った。

今、原発後の様子が映し出されると、その静けさ穏やかさが、一層深まって見える。
本作はね、冒頭、津波のシーンから始まるのね。身体が硬直してしまった。もう、見たくないと、思っていたから。つまりそれは、忘れたいと思っていたんだよね。
最初の記述に戻るけれど……目にしていなければ、忘れていられるから。あの時は、逆に、どこか狂ったように、そんな映像や画像を、……こんなことを言いたくはないけれど“見たがって”いたのに。
見ないでいれば、忘れていられる。表面では忘れてなんていないヨと言いながら、それは、まさしく記号としてだけなのだ。でも、かの地の人たちは、目の前にそれが存在し続ける。忘れられる訳もなく、記号に出来る訳もない。

そして福島は、目に見えない被害がある福島は……想像以上に、想像の範疇を超えていた。先述したけど、本作で語られているのは本当に、ほんの一部の家族で、子供たちの言葉も硬く、掘り下げられているとは言い難い。
でも、掘り下げられる言葉なんて、いくらでも演出できるんだと、今なら思う。それこそあの時だって、テレビやなんかでは、そんな言葉が言えちゃう子供が登場していた。でもそれは、真実じゃ、ないのだ。

真実?……。

本作ではね、ある程度深く取材するのはたった二家族。ある程度、などと言ってしまったのはまあ、そりゃ、理由がある。
見ている時には、特に二家族目、自殺してしまった酪農家に入り込むのはムリだと思った。あんなに無造作に取材に行くの、テレビでももうちょっと根回しするんじゃないの……と一瞬思いかけてゾッとした。
根回しして、演出して、作り手のほしい言葉を言わせる、それこそがイヤだと思っていたんじゃないの、と。

メインとなるのはひとつの家族で、二家族目はそのメイン家族の会話から、同じフィリピンからきた妻を持つ家庭での事件だという流れ、なんである。
そう、フィリピン。一時期、嫁のきてがない農村、酪農村、漁村などがそうしたアジアの女性たちと見合いをして、という話は話題になったものだけれど、その後の展開など、思ってもみなかった。そう、日本人なんて、そんなモンなんである。二家族目の奥さんなんてまだ30代前半、私がそんな話題を聞いた時より随分後の縁組なんじゃないかと思う。

だからこそ、余計に思う。タイトルから感じた、あるいは、“こういう映画”を作ることから感じることより、ずっとずっと、一部分で、震災、あるいは原発に翻弄される人たち、が描ききれないじゃん、と。
何を言ってるんだろう、描ききれる筈なんてない。今まで、描ききろうとした作品ばかりだったから、震災を、津波を、大きく一個のものにとらえて、大丈夫、命があるんだし、未来は無限だ、日本人は強いんだし、生きていこうじゃないの、とばかり言っていたから、イライラしていたんじゃないの。

事実は、問題は、家族家族にある。いや、一人一人にある。そしてそれは、こんな短い時間じゃ、限られた尺のあるひとつの映画という中では、とても解決できないのだ。硬い口調の子供たちや、出口の見えないまま途切れる終わり方に、そんなことを思う。
でも、ひどく、ドラマティックである。二家族目に関しては自殺したという後に訪ねていくんだから、最初からドラマティックなことはある意味約束されているけれど、週刊誌に先に報じられていた壁の遺書にはさすがにゾッとする。

そしてメインである一家族目に関しては、三人の子供と老いた姑を抱えながら奮闘する奥さんはとてもたくましくて素敵だし、これは、それこそ、テレビのバラエティ的ドキュメンタリーにありそうな涙涙の家族物語が見れるのかな、などとノンキに構えていたら、フィリピンにいる奥さんの弟が金鉱で行方不明、避難先に連れて行けなかった犬は落雷による倒木に押しつぶされて死に、挙句の果てには楽天的な魅力があった(あくまで見た目的には)だんなさんが建設現場の落下事故で脊髄損傷の半身不随。
そこからの撮影は……まあ撮らないでほしいとだんなさんが言うのもむべなるかなで、その後危篤状態にまで陥ってしまう。クレジットでは危機は脱したと言う程度に収まっていて、その後の彼ら家族がどうなったか、知れはしない。

それこそ、“テレビ的”にはよだれを流して大歓迎しそうなドラマティックだけど、常識的にそれ以上は踏み込めないし、……テレビはカネを積んで踏み込むのかな……知らないのにカンタンにそんなこと言っちゃダメだけど……しかし凄い、凄まじい。
外見的に、要素的に言えば、彼の事故による障害は、震災とは関係ない、と言ってしまえるのだろう。けれど、もし原発がなかったら、地震がなかったら、事故がなかったら、きっとどこかの時点で彼はこうはならなかった、のだろう。
そして、企業や国は、そうしたタラレバを、徹底的に排除して、臨むのだろう。でもそれを、どう評価すべきなのか、どちらにしても、極に立てば、カンタンなのだけれど……。

この二家族の他に、これぞ視覚に訴える、言っちゃえば映像向きのシークエンスがある。
それこそテレビやネットでおあつらえむきに報道された、置き去りにされた牛たち、その末路。そこでウッカリ目にしてしまった時にも、うわ、しまったと思ったけれど、それ以上にしまった、と思った。……こんなものを見てしまったら、一生、忘れられない。
そう、忘れないことが大事なのに、それがイヤだと思う、悪夢だと思う自分がホントにヤだ。
でもそれはさ、それはさ……もちろん無残な様だってことは、もちろんあるんだけど、でもそこじゃないんだと、思う。見捨てられていること、置き去りにされていること、なんだと思う。私がネットやなんかでウッカリ見てしまったのは、倒れて死んでしまった牛たち。言ってしまえば“まだ美しかった”。

でももはやここでは……腐らないためにか?石灰がかけられ、柵から頭を出して息絶えた牛たちがずらりと、もう、形も崩れて、時には放たれている子牛が力尽きて、もうくずれて骨の方が多くなって、どう形になってるのか判らなかったりして、あるいは死んだ牛をまとめて捨てられていたりして……。
……何を言いたいのか判らなくなってきた。何がショックなのか。それは、それは、それは……そこに人の心が、ないから。そんな余裕が、ない、人の心を失わせるほどの惨事であって、人の心は、こんな目に遭った怒りにこそ向いていて、それはそりゃあ、そうだ、仕方ない、という以上に、当然だ、と思う。

こんな牛たちを悼み、出来る限り引き取って放牧させている酪農家さん、東京に出かけて新橋の街角でマイク片手に訴えたり、東電本社にかけあって賠償金をぶんどったり、本当に、素晴らしい。逆にこんな人がいなければ何も動かないのかと、暗澹たる気持ちにもなる。
でも、でも、ここでショックだったのは、動物たちが、ただ死ぬのではなく、この惨事のために仕方ないのではなく、彼らは自分に何が起こったのか判らず、その魂を鎮めることもなく、放置されているということなのだ。

人間が、そんな高尚な存在だと思っていた訳じゃない。人間なんて、この世界で一番汚くて愚かしくて自分勝手だと思ってた。
でも、一方で、心のどこかで、形式的でも、うわべだけでもいいから、愛していた、自分が関わっていた、自分が世話になった、存在が死んでしまうことになった時、手厚く葬り、いたわる、それが人間の最後の砦だと、思っていたのだ。
それが出来ない状況になったんだからというのは判ってる。この酪農家さんのように、皆が出来る訳じゃないのだ。でも、あの画は、それさえも人間が、日本人が、出来なくなってしまったことを、つまりそれが、美徳という名の自己満足だったということを、突きつけられて、苦しかった。

メイン家族がね、墓参りをする場面がある。その時はまだ夫も落下事故の前で元気である。お盆で、他の村民たちも、墓参りに来ている。
自分たちの家族のお墓だけじゃなくて、そこにある墓を村民皆が、線香をそなえ、手を合わせる。そう、この時には、ああ、日本人だなあ、と思った。こういうことを、日常的に、自然に出来る、誇りに思った。
でも、そう、それは、出来る状況、環境にあるからなのだ。余裕があるからなのだ。それが出来なくなった時、それを見せ付けられた時、こんなにショックを受けるなんて、思わなかった。

ラストは、二家族目の、自殺した酪農家の若き奥さんが、これからどうしたらいいのかと泣きながらも、仮設住宅で二人の息子と共に生活し始めるところで、ある意味唐突に終わる。
20も離れた夫とフィリピンでの見合い結婚だなんて、うがった思いも観客に思わせるけれど、彼女は彼を愛していたと、彼のパスポートを宝物だと愛しげになでる。
あんなに頼りなさそうだったのに、ラスト、ゲームに没頭する息子にコタツの電源を入れるようしつこく言い、めんどくさげに入れてくれた息子に「ありがと」とさらりと言う姿に、きっと大丈夫と、思う。

そうか、そうだよ、あの震災に、あの惨事に、苦しんだのは、日本人だけだと、どこかで思っていた。慌てて帰国したガイコクジンにイラッときてさえ、いた。
今も、どう、立っていいか判らない。ミニマムにいても、マキシムにいても、見えない。本作はそれを、示していたのかもしれない。全てが全てから見ればほんの少しの集まり。でもそれが途方もなく、果てしない。それをこそ見つめ始めなければ、何も始まらないのだと。 ★★★☆☆


藁の楯
2013年 124分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:林民夫
撮影:北信康 音楽:遠藤浩二
出演:大沢たかお 松嶋菜々子 岸谷五朗 伊武雅刀 永山絢斗 余貴美子 藤原竜也 山崎努 本田博太郎

2013/6/18/火 劇場(池袋HUMAXシネマズ)
散々、カンヌのコンペ部門出品作品!と喧伝してて、日本映画唯一みたいにカン違いしていたもんだから(そんな風に言ってなかった?……思い込みか……)、是枝監督の作品が賞をかっさらってあれ??と思ったんであった。
出品と公開が同時期という、興行的にはこれ以上ないタイミングの良さで(もちろん、狙っていたんだろうが)、これで取れれば更に、という思惑は、もう一本のライバルにかっさらわれるという、なんともハズかしいような結果になってしまってうーん、という感じ。

まあ別に、日本映画同士で争っていた訳じゃないし、三池監督は確かに海外にもウケはいいけど、そのウケは賞関係というよりはファン向け、カルト向けの人気だしさ……。
彼の世界観は決して賞向きじゃない、よね。突き詰めて見ると、イジワルな人たちにはアラ探しばっかりさせられそうだもん(爆)。

今回、コンペ部門に選ばれながらも、厳しい評価をされているらしいというニュースを見出しだけチラ見して、ちょっと気になっていたんだよね。
それは作品を観なければ判らないことではあるけど、でも三池監督のそうした世界観を考えるにつけても、どこに横ヤリ入れられたんだろ……とちょっとハラハラするような気もしていた。

見た目的には、私がメッチャ入れ込んでいた頃の、黒が冴え冴えと映る、ストイックなアクション。
ランボーとも言えるほどのカッティングで、スタイリッシュなどというオシャレな言葉さえぶっ飛ばすほどの鋭さでなぎ倒していく。

そう、黒社会シリーズとか撮ってた頃の、あの頃を思い出したりした。SPの二人、大沢たかおと松嶋菜々子の黒一色スーツが余計にそんな記憶を思い起こさせた。
あの頃は、難しいことなんか考えずに、ただただシビれるカッコ良さだけで三池作品を追えていたのになあ、なんて遠い目になってしまう。まあ彼本人はそんなつまんないこと考えてないんだろうけど(爆)。

厳しい評価はどういうことだったのかまでは、知らない。そこに分け入っちゃったら、つまんない先入観を持って見ちゃうから、それがヤだから。
でも、このニュースが頭にこびりついていたのは、あんまり良くなかった、かなあ。だからという訳でもないけど、なんか観るのも遅れて終了ギリギリになっちゃったし。

勝手に推測すると、やっぱり死刑制度なのかなあ、と思う。先進国では珍しく残っている日本の死刑制度。
本作はこれが前提だから、それに対して“先進国たち”が拒否反応を示してしまったら、もうそこから先には進めないんである。

死刑制度の是非については、私自身の考えも揺らぐところはある。人が人に死を命じるなんて、傲慢で、神の領域に分け入ることではないかとか、まあ他にも色々……。
でもヒドい事件が起きるたび、コイツ死んでヨシとか思うし(爆)、でもそんな短絡的な考えが冤罪を生み出すのかもとかも思うし、ここで語りだしたらキリがないんだけど。

でもとにかくこの死刑制度、が前提にある以上、世界の映画祭に出して、問題提起、という時点でつまづいてしまうのはどうしようもないこと、なんだよね。
基本となる考え方、意識が違うんだもの。クズは死んでよし、という価値観。

なぜ日本に死刑制度が残ったままなのかと、よく考えたりもするんだけど……日本に根強く残る、勧善懲悪に快感を感じる価値観なのかなあとかも。
でも、悪人をぶっ殺すのはそれこそアメリカ映画とかでもよくあることで、でもアメリカは、凶悪犯でも冗談みたいな長期の懲役刑とかになったりする。
先進国であるというプライドなのかもしれないけれど(まあでも、アメリカって今でも死刑、あるっけね)。

ただ、アメリカ映画で悪人をぶっ殺すのは、正義の味方という名の民間人で、日本の勧善懲悪は、まあ、そういうヒーローもいるけど、さばきを下す、つまりお上であったりするんだよね。
その思想がいまだに、ずーっと、日本人の中には根付いているような気がしてならない。
んで、クズのようなヤツがまだ生きているんなら、本来はお上がぶっ殺していいようなヤツ、殺した奴がヒーロー、勇気のある人、みたいな展開になる、のを、日本以外の国に、その前提を判ってもらえる、のか。

いや、でもね。実は見ていて突っ込まれたのはそんな難しい問題のトコじゃなくて、もっと単純なとこなのかなあ、とも思った。
本作は、全国民が少女強姦暴行殺人を犯した“人間のクズ”清丸をぶっ殺そうと狙ってる。
というのも、その少女のおじいちゃんが財閥の大金持ち、彼を殺してくれたら10億円と大広告を打ち、未遂でも1億円とかバンバン出すもんだから、もうお祭り状態になっちゃったんである。
映画としては実に魅力的な、緊迫感のある展開。

でもね……なんかところどころ、いや、ほんの2、3か所なんだけど、ええっ、と思うようなツメの甘さというか、油断を、超プロフェッショナルの中でも抜擢された超優秀な筈のSPの二人、大沢たかおと松嶋菜々子が、犯すんだよね。
特に松嶋菜々子扮する白岩がこの“人間のクズ”幼女強姦殺人犯人の清丸を見張っていたのに、彼が母親の自殺のニュースに泣き崩れていることに油断し、銃を取られて撃たれて死んじゃう場面!
しかもこの場面では、大沢たかお扮する銘苅は、この騒ぎを引き起こしたキーマンである財閥の大物、蜷川からの電話に気を取られてて、コトが起こるまで気づかないしさ。

いや、確かにクライマックスもクライマックス、切迫しているのは判るけど、当の清丸が冷静に反撃しているんだからさ、これは油断というにはちょっと甘すぎるよなあ。
しかもその直前に清丸に脱走されるシーンにしたって、「あそこに誰かいる……」っていう彼の言葉にまんまとハメられて、振り向いたらいない、って、コントかよ!という突っ込まれてもしょうがないような甘さだよ。
いくら大沢たかお&松嶋菜々子が黒一色、スタイリッシュにキメてて超絶カッコよくても、こういうトコでガッカリさせられちゃうと、もう目も当てられないんだよな……。

と、いう訳で、もう、ヒドいすっ飛ばし方しちゃって、それこそ目も当てられませんけれども(爆)。今更ながら軌道修正を試みてみますと……。
幼女の強姦殺人という前科があるのに、性懲りもなく同じ罪を犯して逃亡中の清丸に、コイツを殺したら10億円、という主要紙に全面広告が踊った。手を出した相手が悪かったのだ。
全国民はこのキチクを心から憎んでなのか、その報酬に目がくらんだのか、いやでも、ヤハリその報酬がなければ、こんな“善意の行動”に皆が猛進しなかっただろう。

そこんところにも、問題提起はあるんだけど、そこもまたなかなか難しいところで……。
一般人よりも“訓練されて、武器を持った人間”こそが怖いと、そこんところが本作の面白いところで。
“凶器の群集”から守るために、十重二十重に配置される警察やら機動隊やらこそが最も恐るべき敵であり、そんなことも推測できない上層部にいらだつ銘苅たち。
たった数人で清丸を逃亡先から東京へと護送する間に、銘苅、白岩SPチームプラスアルファたちは、その仲間たちの間ですら疑心暗鬼にとらわれ、一人、また一人と仲間たちが死んでいくんである。

結果的には銘苅や白岩に目をかけて、信頼し、心配もしていてくれた上司も10億円の端っこに加担していたし、血気盛んな部下をなだめ、その死に沈痛な面持ちでいた刑事チームの奥村(岸谷五朗)こそが、蜷川に、全国民に清丸の居場所を公開するウェブサイトに情報を提供する為、手首にマイクロチップを埋め込んだ人物だったんであった。

クズは死んでよし。カネに目がくらんだとしても、それには、病気の家族がいるとか、会社が倒産したとか、切羽詰まった理由がある、みたいに、言われる。
それで人を殺していいなら収集つかないよと思う向きにはさすがにフォローはあり、何の利害もなくひょうひょうと銘苅たちの道行きを助ける女タクシードライバー(余さん、こういうのバツグン!)がそうしたくだらなさをバッサリ斬り捨てるし。

何より、清丸みたいなクズを一番ぶっ殺したいのは銘苅であり、これまたよんどころない事情があった奥村の、そのうっかり同情してしまいそうになる告白に口をゆがめて「不思議だな。金が絡むと、あなたが何を言っても言い訳にしか聞こえない」と吐き捨てる場面で明確ではあるんだけど……。
でも、ちょっと足りない気がするんだよね。全体としてのウェイトの置き方が、圧倒的に、このクズは殺して良し、に傾いてて、それが、同じ人間が同じ人間を裁くという傲慢さに観客を揺らがせるまでには到底いかない。
それは、先述したように、日本人の基本通念にある勧善懲悪に対する快感にあるのかもしれないし、この清丸という“クズ”に、彼自身にはどうしようもない衝動であるという、個人の性癖をどう社会が認め、あるいは抑えていくのかという部分がバッサリ切り落とされている物足りなさにあるように思う。

そら、この清丸は、クズさ。護送中に逃亡を図った先でさえ、ぱんつ丸見えで昼寝していた幼い女の子にイタズラしようとする性懲りのなささ。
もう死刑なんだから、少しぐらいイタズラしたっていいでしょ、という言い様もいかにも観客の、いやその前にここまで彼を重要人物として護送してきたSPである銘苅や白岩をイラッと、イライライラッとさせるには充分なのさ。
でもこのシークエンスも、かなりズルいよね。大体、清丸に逃げられたこと自体、オマヌケなのに。超優秀な筈のSPがさあ。

どうにも歯がゆい思いがあるのは、彼は結局は死刑になるんだから、死ぬしかないようなクズなんだから、という基本があり、なのに今、生きて護送しなきゃいけないというジレンマがあり、という展開で、そこにはすっぽりと、抜け落ちているものがあるから、なんだよな。
先述したけど、こうしたどうしようもない衝動を抱える人間は、いるんだと。それが悪意から来るものじゃないから、やっかいなんだと。

この清丸は、判りやすく、クズだ。抑えきれない欲望、まではまだ理解の範疇だけど、その果てに幼い女の子を目も明かないほどに殴りまくって、殺してしまう。
護送の途中、女性SP白岩を殺した理由は、「だって、おばさんくさいんだもん。車の中もずっと、くさかった」と言い放ち、激怒した銘苅に殺されかける。
このシーンは、銘苅にボコボコにされて血だらけの清丸に、怒りにブルブル震えた銘苅が、拳銃を彼の額に、口の中にぶっこみながら、アー!アーーーー!!!と我慢出来ない絶叫をほとばしらせる、まさにクライマックス、なんだけど……。

清丸が本当にクズなら、死にたくないと思って策を弄するようなヤツなら、こんなバカな発言はしないよね。
相手を激昂させる発言や、欲望の果てに相手を殺してしまうような行為、この護送中に見せる子供っぽいあらゆることが、彼が老獪な悪人ではなく、言ってしまえ単なるバカな、ちょっとだけ小利口な技術を持った男であることを示してる。

さらに言ってしまえば、ラストもラスト、一番のラストシーン、裁判で死刑を言い渡された時、「後悔し、反省してます。どうせ死刑になるなら、もっとヤッとけば良かった」と不敵な笑みを見せるのがね。
これが一昔、ふた昔、みっつぐらい昔だったなら、単なる不気味に思えたかもしれないけど、今の時代、見ると、彼はこの時代に適合できない幼さ、ひょっとしたら治療が必要な障害を持った人物なのかもしれない、ということなんぞを考えてしまったり、するのだ。
本作のそもそものテーマ性だって、きっとそういうところもあったと思うのだ。一見して、クズだから、死んで良しだから、こんなヤツ許せないんだから、殺していいんだと、そう言いきっていいのかという、問題提起。

どんなクズ犯人でも、裁く場にまで持っていかなければいけない意味は何なのか、もうこんなクズを生み出さないために、すべてを明らかにするためだということを、そんな基本はみんなが判っている筈なのに。
それを銘苅も白岩も、判り切っていても一度は口にしてもいい筈なのに、言わないし、観客にも伝わらない。
案外、判っている筈でも、忘れている、というか、実感していないのだよね、私ら。
しょせんムダだと思っているからなのかもしれないけれど……だから本作が成立しちゃうのかもしれないけれど。

カネに目がくらんだ内部の裏切者の中でも、最後の最後にそれが明らかになる銘苅の良き上司、本田博太郎は、しかしもうここまで、まさかこの人までが、っていうのが次々出てくるんで、もう驚かなくなっちゃうのがもったいない気もしたりして。
彼を見るたびホント思うんだけど、なんで本田博太郎をモノマネする人、いないのかなあ。ホンットにホンットに、彼ほど個性的なエロキューションの人、いないのに!!

血気盛んな若き刑事、お兄ちゃんより意欲的な役柄に挑戦している永山君。なんかもう、ずっと目が充血してて、心配になっちゃう。
彼が真っ先に、「俺が死んだら、母ちゃんが一人になっちゃう」と、クズは死んで良しの要素を差し出した人物。
彼は別に、清丸を殺して賞金を得たいと思っていた訳じゃないけど、でも清丸を殺そうと、次々に現れる治療にあたる看護師だの、幼い少女を人質にとって包丁を振り回す工場経営者だの、みんながみんな、そんな浪花節な事情を持っていてさ。
ならば人を殺してもいいのか、あるいは人の死を望んでいいのかという、問題提起がなされる訳なんだけどね、でも、……薄いまま終わっちゃうんだよなあ……。
基本的には、やっぱり、護送のハラハラ、エンタテインメントの部分に重きを置かれちゃうから。その割には、先述したような、えっ、と思うようなツメの甘さ、ありえない油断があって、なんか気分がなえちゃって。

松嶋菜々子嬢は、こんなショートカット初めて見た、しかもそれがバサバサの乱れ髪、メイクはしてるけど結構テキトーな度合いがイイ感じで、黒のスーツにキメキメの銃でカッコイイ。
んだけど……。彼女のキャラって、つまりはどういうことだったのか、どうも、判らない、正直。

シングルマザー、それゆえに優秀なのに幹部に上がれない。彼女は二言目には昇進を口にし、この仕事も昇進への近道だと不敵に笑った。
だけど道行きに再三、清丸に対する敵意(というより殺意)はもちろん、それをエサに一緒に行動する仲間に対しても挑発を繰り返す。

正直、彼女の本意がどこにあったのか、判らないまま終わってしまったという気がしてしまう。
清丸は彼女の挑発行為を、その頭の良さゆえだと言っていたし、銘苅はじめ周囲の人間たちも、こんな優秀な人物なんだからと、そう処理していった。でも本当はどうだったのか……。
松嶋菜々子は常にポーカーフェイスで演じてるし、清丸の銃弾に倒れる場面で、最愛の一人息子のことを心配する言葉を口にする時ですら、その表情のまま息絶えるしさ。
白岩という女性の本当の思いがどこにあったのか、判らないまま終わってしまったようで。

銘苅もまた、ていうか、彼こそが重い過去を抱えてて。身重の新妻を、酔っ払い運転、しかも再犯の男に轢き殺された。
彼がこのチームに白岩と共に抜擢されたのは、清丸のような懲りないクズ男をより憎むであろうという、警察トップにまで顔が利く蜷川の采配であった。

最終的には蜷川の采配ミス、あるいは買いかぶり、あるいは……どうなんだろう。確かに銘苅は清丸を殺す寸前までいったけど。
いつも彼は亡き妻の声なき声に耳を傾けていて、蜷川に、それを促した。
死んだ人間は何も言わない。それはそうだけれど、本当にそうですかと。自分だけに聞こえる声、それは単に聞きたいと思う声、それはそうだけれど、本当にそうですかと。

……結局は、ここが、こここそが、説得力があるかどうか、だったんだろうなあ……。
そりゃね、銘苅だって、本当に死んだ人の声が聞こえた訳じゃない。それは清丸に問われてハッキリ言ってる。
まさに、一発逆転の場面だった。あまりにも悲しき、一発逆転。
人を守るのがあなたの仕事でしょ。そう、聞いた。聞いたと、思った。言い聞かせた。いや、確かに聞いた。
……とにかく、彼はそうして、妻とおなかの子供を殺した相手への殺意をどうにかこうにか封印した。したと、思った。

した、んだよね?彼がさ、清丸を殺しそうになるギリギリのクライマックスだったから……。
でね、すべてが終わって、銘苅は白岩の一人息子のもとに行き、もうすっかり慣れたように手をつないで歩き出すでしょ。
まあ、そのう、安心はするよ、大団円だけど、出来過ぎな感じがするなあさすがに、ちょっと……。

個人的には、チョイ出だけどメッチャイイ役で登場する音尾氏に歓喜!
公安で、彼もまた蜷川に買われた男として、蛇のように不気味に暗躍。い、イイ役だわー。
本田博太郎の個性的な声と、メッチャいい声でマジ対決!い、いいわー。何より、三池作品に彼が抜擢されたのが、本当に嬉しい!

上映前から散々流れまくっている、結局はエンディングテーマだった氷室京介氏、その歌声が……。
うう、うう、こんなことを言ってしまったらもうオシマイなんだけど、なんかもう……映画が始まる前から繰り返し“聴かされた”時点で、うっ、なんかベタつく、ふるくさっ、80年代?? とか本能的に思っちゃって(爆)。
ごめんなさい、ごめんなさい、ホントホント、でもでも、正直な思いなんだよーっ。もう、その時点で、ひょっとしたら、全てが、決まっていたかも……。★★☆☆☆


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