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「よ」


2014年鑑賞作品

欲動
2014年 97分 日本 カラー
監督:杉野希妃 脚本:和島香太郎
撮影:シディ・サレー 音楽:富森星元
出演:三津谷葉子 斎藤工 杉野希妃 コーネリオ・サニー トム・メス 高嶋宏行 松崎颯


2014/11/23/日 劇場(新宿武蔵野館/モーニング)
あの美しき才女、杉野希妃嬢の監督作品と知って慌ててスケジュールに入れる。と、初監督作品かと思いきや、それは来年公開に待機されていて、既にこれが第二作だということに驚く。
更に、上映1時間前に既に満席になってしまうほどの人を集めてしまう注目度の高さにも驚く。……最近人気の斎藤工の集客かとも思ったが(それもありそうだけど)、客層を見るとやはりそればかりではなさそう。

やはりこの、杉野希妃なのだ。今までの日本からは出たことのなかった能動的な製作者としての才能。
それがいよいよ、制作の方へと乗り出したとなれば(この漢字の使い分けが合っているかどうかは判んないけど、私の感覚としてはこんな感じ)、そりゃあ注目せずにはいられないんだもの。

彼女が手掛ける作品は(この場合は製作、の方になるけど)良かれ悪かれ、いや違うな、好き嫌いの振り幅が大きく振られはするけれど、強烈な持ってかれ方をする印象がある。つまり、ハンパなものは作らないってことであると思う。
それを思うと本作は、今までのそうした感覚とはちょっと違う気もする。良かれ悪かれ、好き嫌いの、どっちかも上手く振られない感じ。
もっと直截に正直なことを言ってしまうと、私眠気と必死に闘ってた(爆)。いやいやそれは、内容ではなくてきっと、私の体調のせい……なのかな??いや違うのかな??とずっと考えていたんだけど……。

舞台も、物語設定、アイディアも、総じて魅力的であると思う。日本ではなかなか望めない、伝統の祭りや舞踊の中に、むき出しの生命力がはじけているバリ。
有名な観光地でありながら、どこか猥雑で、その伝統文化の中には生命力と共に本能やエロティシズムが、それがなければ生きる価値がないとばかりにほとばしっている。

その中に放り込まれたメインの四人は、植民地として支配した歴史のあるこの地に、先祖返りのようにして住んでいるオランダ人、ルーク。その伴侶となってこの異国の地で彼との新しい命を宿した日本女性、九美。
その兄、千紘は病でいつ死ぬとも判らぬ体、彼に付き添ってこの旅についてきた、いくつもの生と死を見てきた看護師の妻、ユリ。
……こうして改めて書き起こしてみると、出来過ぎなぐらいに、記号的なぐらいに、上手い配置の設定なんである。

勿論、そんなことをベタベタに示すようなヤボはしないけれども、しないだけに、ピンとこない感じもしている。千紘が明日をも知れぬ重い病であるというのがどういう病気なのか、後からオフィシャルサイトで心臓病と記されているのを見て、そんなこと言ってたかしらん、と思うのは、きっとねむねむな私が聞き落としていただけだとは思うが(爆)。
やたらセクシーを前面に出す斎藤工が、一体どんな仕事をしていたらこんなほつれ髪を色気ダダもれで乱れさせ、ハアハアと色気ダダもれに苦しんでいるのかしらん、と思っちゃう。いや、どんな仕事をしてても苦しむときは苦しむけど(爆)。

いやその……彼が妻のユリに憤るほどに、死に直面する焦りを感じるその人生がどんなものだったのかが、判んないんだもん。彼が失うことを恐れている人生がどんなものなのか、ただセクシーに色気ダダもれなだけなんだもん(爆爆)。
いや、これは日本人のよくないクセかもしれない。仕事に人生を反映させるとか、人格を反映させるとかいうのは、確かに良くないクセだ。
でも、彼がここまでどんな人生を歩んできたかイマイチピンとこないんだもん。若い頃バックパッカーで旅した、なんていうのは確かに彼に似合いのエピソードだし、この舞台にも合っているんだけど、それだけに洒落た装丁の旅行記を聞いている気がしちゃうんだよなあ……。

それは、これまたセクシーな彼の奥さん、ユリに関してもそうなんである。看護師だからついててもらって安心、と千紘の妹、九美(これが兼監督、杉野希妃嬢ね)は言うけれども、看護師らしさがちっとも感じられないのは、案外キツい。看護師って言ってるだけ、って感じなんだもの。
九美がいよいよ出産、という時にも手を握って励ますだけ、せいぜいがお湯を沸かすように指示するだけ、って感じだし。千紘が奥さんに憤る、「お前の、死に慣れているところがイヤだ」って台詞を言わせるだけの、キャラ設定に感じてしまう。

看護師であるバックグラウンド、そしてこの台詞を言わせるだけの深さは、絶対に現実にあるだけに、単なる図式に感じられたことがあまりにももったいないと思っちゃうんである。
ていうか……正直、このユリを演じる彼女にピンとこないまま、だったのが、一番の理由かもしれない。直截に言ってしまえば、脱げてセックスシーンを演じられれば良かったのか、と思ってしまう。
ああ、ヤだヤだ、こーゆー言い方、フェミニズム女が言うべき台詞じゃないのに。

まあ、それを言っちゃえば、斎藤工氏に関してもそうかもしれん、と思っちゃう部分はあるんだけど(爆)。
本作の一番の見せ場、というか、これがあるからこそのこの作品、というのは、すれ違い続けた二人がむさぼるように求め合うセックスシーンにある。
性愛、という言葉は、生き物、動物としての人間を、理性側の人間をきちんと存在する形で向こう側に眺める、人間そのものを最高に肯定的に描く言葉だと思う。プラトニックも悪くはないけど、愛の中には、やはり性愛はあるべき姿であると思う。
つまり本作は、そこへと向かっている訳で、生きていなければ、いやそれ以上に健康な身体でなければ、性愛はのぞめない訳で。

性愛の延長線上に生命の誕生もあり、つまりそれが、千紘の妹の今の状態で、それをわざわざ説明するかのように、「男って、こういう時でも求めるのよね。我慢できないみたいで。そんな気にはなれないんだけど」と兄嫁に苦笑気味に……まあのろけなんだろうけれど、表面上はガールズトークのような感じで言ったりする訳。
正直、九美の、というかせっかくの杉野希妃嬢の兼役者の立ち位置が、かなり説明的、というか、客観的立場を凄く判り易く示している立場で、九美としての、女としての言い分が、図式の中に埋没しちゃっている気がしてしまう。

いつだって彼女が演じる役柄は……彼女は自分が演じたい役がある映画を作るんだと、言っていた記憶があるから……やはりいつでも、強烈だったんだよね。先述したように、良かれ悪かれ、好き嫌いのどちらか振り幅が大きい、役柄だった。
監督作になったからなのか、判らないけど、兄嫁につらく当たる兄をいさめる妹、バリでの暮らし方を示すアンテナ(生理中の女性は穢れとみなされるとか)ていう存在っていうのは、杉野希妃が演じるにしてはあまりにもったいない、気がしちゃう、のは、今までの彼女のプロデュース作品は、彼女が出たい作品、としての在り方だったからなのか。
出演兼監督だと、やはり違うのか。役者を立てる形になっちゃうのか。うがち過ぎかなあ。

でも性愛ってこと自体が、やっぱり難しいと思う。ユリは余命いくばくもない夫が、言ってみればスネてしまったもんだから、この地での自分をもてあまして、まあつまりアバンチュールに身をやつしてしまうという展開なんだよね。
最初は夫とのケンカで飛び出してしまった先での未遂に終わった訳だけど、その危険な相手とまたしても二人きりの時を過ごす、っていうのはつまり、そういう欲望……性愛、ではなく、性欲、の欲望、性愛が満たされないゆえの性の欲望があった、ということなんだと思うんだけど、……難しいと思う。これは難しいと思う。

正直言って、ユリからはその方程式は感じられない。なんであんな目に合った男についていくの、と思っちゃうし、九美が無事子供を産んで、安心して疲れ切った様で眠っている夫にいきなりまたがることにビックリし、そして頭の中でそういう方程式が浮かび、そういうことだったのかな、と導き出してはみるんだけど、なんともピンとこなくて……。
背景ではいつでもバリの伝統文化の祭りや舞踊や闘鶏などが生き生きと活写されているんだけれど、それはいつでも観光客のために差し出されている印象で、彼や彼女に決定的な影響を与えているように感じられないんだよね。
それを凄い凄いと眺めてはいるけれど、じゃあそれが、愛の先につながる性愛に彼女を誘っているのかと、そう感じられるのかと言われると、……きっとそういう方程式だったんだろうとは、思うんだけれど。

ねむねむだったくせに、エラソーなことばかり(爆)。でもひとつ、私が苦手に感じた心当たりがあるんだ(爆)。
かなり長めにカットを割っている印象。ハッキリと長回しだと感じたのはラストの海のシーンぐらいではあるけれど、全体的に長めに割っていると思う。
ホント私、ヘタレで、役者が演技見せます!!という長いカットに疲れちゃうの(爆)。まあそれでも、ながーく尺を割いたセックスシーンにはドキドキだったんだけど(爆爆)。俗物めっ。

そんなことを言ってるくせにアレなんだけど、セックスを意味あるものとして描くのは、難しいよね……。
いわゆる”一般映画”の中では、セックスシーンがメダマに据えられると、そこに話題も意味も当然の様に持たせられてしまう。いやいや、ちょいつまみでピンクやロマポルを観ている程度で判ったようなことを言う自分がハズかしいが(爆)、でもセックスが当然の世界の中では、それが当然あっての人間という描写になるからさ……。
そして、セックスが当然、ていうのは、まさしく当然、の世界な訳だからさ……。ちょっとやっぱりね、気合入れてセックス!!ということになると、性愛という、素敵な意味でのそれに向かうことがやっぱり難しくなってしまう。

いくらその伏線を、いろいろと張っても、それが異国の地になると更に、アイデンティティの掘り下げを妨げる気持ちにもなってしまう。
いや、異国だからこそ、邪魔するものがないからこそ、外の目を気にしないからこそ、あぶりだされるものがある、そういうことだとは思うんだけれど、伝統文化が観光としてのそれに見えてしまう部分もかなりあったのが、キツかったかなあ。

ラストシーン、これこそが長尺、ワンシーンワンカットをまるでお手本のように示す。
夕暮れの海へと入っていく千紘。しかしそれは、まるで遊びのように、戯れのように、無邪気に入っていく。
それを眺めるこちらがわのユリを引きの場面で見せる。こっち来いよ!と呼びかける千紘の声は、彼が危惧していた、死にゆく自分に引きずり込むような暗さはなく、本当に、遊びに興じている子供のような明るさ。

……これはどういうことなんだろうなあ……。千紘は、自分の死に引きずり込むことを恐れていた。でもこの様相は、まるで肯定的な引きずり込みのように聞こえる。
まあ、ユリはそれに応じることはなく、波間に消えていく(というのは想像だけど。スクリーンから見切れていくから)彼を黙って眺めている後姿だけで、その表情さえもうかがえず、微笑んでいるのか、泣いているのか、あるいは無表情なのかさえ判らない。

画としては美しい”長回し”だけど、あの”性愛”の結末を二人がどうつけたのか、正直判らない気持ちが残る。
美しい画としては完璧だと思う。だからこそ余計にピンとこないのだ。このラストの画に向かってブロックを積み上げるように作られたように感じてしまって……。

まあ結局は、自分のねむねむを弁解するだけのことかも……。あるいは、若く美しい才能へのヒガミ?そ、そうかも……(汗)。
いやいや、うーむ、あのね、南国は苦手なの。行ったこともないけど(爆)。日本国内でも、日本酒の地域外、つまり南西は苦手なのじゃ!(ムチャな言いがかり!) ★★☆☆☆


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