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「た」


2015年鑑賞作品

起終点駅 ターミナル
2015年 111分 日本 カラー
監督:篠原哲雄 脚本:長谷川康夫
撮影:音楽:小林武史
出演:佐藤浩市 本田翼 中村獅童 和田正人 音尾琢真 泉谷しげる 尾野真千子


2015/11/16/月 劇場(渋谷TOEI@)
原作の作家さんも読んだことない人で知らなかったもんだから、時間をさかのぼった冒頭でいきなり旭川と出てきて、そ、そうなのか……とうろたえる。いや、うろたえることもないんだけど(爆)慣れてないもんだから(爆爆)。
しかし、旭川の場面はほんのちょっと。しかしとても重要。佐藤浩市扮する主人公、裁判官の鷲田は学生時代の恋人、冴子と再会する。しかも、裁判の被告として。離婚した夫の残していった覚せい剤所持の罪。
雪がしんしんと降り積もる閑散とした旭川の街、小さなスナックで再び顔を合わし、やけぼっくいに火がつく。

問題は鷲田が東京に妻と息子を残しての単身赴任だということ。東京の裁判所への栄転が決まり、彼はそれをけって小さな町で法律事務所でも開こうかと思う、一緒に暮らさないかと誘う。
誰かを傷つけるのはイヤというひと言だけが、後から思えば動機のようなものだったのかもしれないが、判らない。道行の筈の降りしきる雪のホームで、寂しげな笑みを彼に残してふと真顔になった彼女は、迫りくる汽車にすっと身を投じた。

さすがはオノマチちゃん、予告編で既に彼女がキーマンであること、最後まで心に突き刺さる存在であることは判ってはいたものの、本当にずっしりと存在感を残し続ける。
東北大の学生時代に出会ったんだから北海道の女、ということではないのかもしれんが(設定は判らない)、北海道の冬、寂しげな女、ワケアリな女、がドンピシャ。実際は西の軽さを持っている女なのに、この辺が女優の凄さというところか。
裁判所での冴子と、スナックのママとして出会う彼女が、スナックでは、誰もほかに客もいないのに、冴え冴えと赤い紅をさしていて、かえってそれが物悲しい。

これは短編ということだから、私個人の感慨としては、映画化に際してそうそう削られる部分もないという点で、即しているように思う。時にベストセラー小説が長い原作だったりすると、そのハショリが原作ファンや時には原作者からおしかりを受けたりして、映画ファン側がびくびくしちゃうから、なんである。
でもこうして短編の映画作品を見てみると、生身の役者が演じる分、そのキャラに対しての物足りなさというか、違和感というか、そういうものが残る場合もあるのかも、と思う。

これは未読だからあくまで推測に過ぎないんだけれども……こういう謎めいた女、寂しげな女、何も語らずに”いさぎよく”命を消した女に対して、字の表現だけでならそのミステリアスが彼に影を落とす魅力のまま十分機能するんだろうと思うんだけど、役者が演じるとどうしても現実問題として考えてしまう。
いるかねぇ、ここで死んじゃう女、と思ってしまうのだ。勿論オノマチちゃんはその点もよく汲んで演じていたと思うし、まるで夢のようにかき消えてしまう女がとても魅力的だったけど、女、であるがゆえに、そして男に罪と罰を与える存在、であるがゆえに、同じ女としてどうしても反発してしまう気持ちがしてしまう。
こーゆーの、男性作家なら書きそうな気はするけれど、これって女性作家だよね……うーむ。

しかしまぁ、オノマチちゃんは確かに魅力的だった。まあ佐藤浩市と学生時代の恋人というのは、さすがにムリがあったが……ムリがあったのは、黒髪ベッタリの佐藤浩市(爆)。
オノマチちゃんは、少し実年齢より年が上の設定だったのかな?いや、恐らく彼女の方に年を合わせているのだろう。単純に恋人同士として見れば素敵だったけど……。

それに、オノマチちゃんが圧倒的すぎて、メインのヒロイン、本田翼嬢が、結構ツラい。
翼嬢は、鷲田が釧路に法律事務所を開いて、国選弁護しかやらずに慎ましすぎる生活を送っている中に飛び込んできた、その国選弁護をした被告人の女で、あの時の冴子をほうふつとさせる、男の覚せい剤所持をかぶった女であり。

つまり、陰のある女、なんだよね。本田翼といえば青春ラブストーリー映画で一気に名を売った、つまりそうしたみずみずしさ、笑顔のはじける女優、という印象。その名を売った映画を観ておかなかったのが今回ちょっと悔いていたところだったんだけど、あちこちで顔を見せる印象では、本当にそんな、好感の持てる女の子だった。
今回の役どころは恐らく、そうしたイメージを払拭したい、というところがあったんではなかろうかと思う。だってフツーに考えてこの役が彼女に行くっていうの、ないと思うもの。それこそフツーに考えて、この役をやらせたいと思う”実力派若手女優”はいくらだって思い浮かんでしまう。
つまり、私的には基本ずっと硬い表情で、本田翼!!な笑顔が封印されっぱなしの彼女に、単純な魅力も、芝居としての魅力も感じられなかった、のが事実、かなあ。

ホント、あからさまに、女優としての脱皮!てなキャスティングに思えてしまった。凄く、もったいない気がした。彼女には彼女の、そういうあけっぴろげな素直な可愛さという魅力があるんだからさ、と。
ヤク漬けの恋人をかばい、複雑な家庭環境を持ち、そこから飛び出して保険証も持ってない、そんな女の子を演じるだけのキャリアとキャパシティは持ち合わせてない、正直。
でもそれに変わるステキな魅力が彼女にはある筈なんだからさ!!それをラスト、旅立ちのシーンの笑顔でようやく発露できたなんて、もったないじゃないの。

なんか、妙に思わせぶりな事情をちらつかせるんだよね。彼女が演じる敦子という女性が罪をかぶった、その男が「自分のところの社員」だといって、鷲田の住む粗末なアパートに黒塗りの車で乗り付ける大下(中村獅童)。鷲田は大下を極道だと言い、大下はそれは時代遅れだ、今は立派に会社を営んでいる、と言うが、その実情も、大下が鷲田に執着する理由も、少なくとも映画内ではよく判らない、理解するまでに至らない、というのが正直なところである。
その”社員”を引き渡す、いや、売り渡すことこそを鷲田に強要するのだが、それが彼の”会社”にとってどういうメリットがあるのか、よく判らない。
まあ単純に推測して、覚せい剤の取引をこの会社、っつーか、極道はやってて、それが明るみに出るのを恐れているとゆーあたりだろうが、まぁ今もそーゆー話はあるのだろーが、正直、ちょっと古臭いかな、という感じもしている。

敦子が実家を離れて10年以上帰っていない、親の顔も忘れた、というのもかなり特殊な事情。兄が彼女の友達を妊娠させてしまった。それが中学生時代。その友達が家に入ってきたから、自分が家を出た、それ以来の音信不通。
この説明自体もよく判らない部分があってツッコみたくなるが、10年ぶりに帰ってみたら廃屋で、両親と、その時妊娠していた赤ちゃん、つまり敦子にとっての姪っ子(だというのはこの時判明)が、その姪っ子がまだ幼い頃に、同日に、亡くなっていた事実が、仏壇に残された白木のままの位牌によって判明するんである。

「……残っているのはお兄ちゃんと友達(名前忘れた)だけか……」とつぶやく敦子。かなりな衝撃の事実だし、この両親と赤ちゃんが同時に亡くなるという事情、いろんなことが想像されるけど何も解明されず、つまりこの事実が彼女に知らされなかったということも、お兄ちゃんと彼女の友達の行方も、判らないままだというのが!!
いや、それこそ先述したが、短編小説の中でなら、そういう謎の部分はただ魅力的であるということだけで済まされたのかもしれない。でも2時間はある映画の中では、それをスルーするのは気になりすぎるよ!!こういうのはやっぱり、尺と設定のバランスということだろうなあ。

てゆーか、鷲田である。恋人を目の前で失い、狼狽しながら何食わぬていを装ってホームの階段をのぼっていこうとしてコけ、怖気まくっていた若き日の様子が、その後の彼の人生、極道の大下いうところの「自分に課した量刑」を物語っているのだろう。
あの時、冴子と共に決めた残りの人生を、自分一人だけでも全うしている。妻子と別れ、自分の口だけを糊する生活を慎ましく送っている。
そうなると時間も出来て、料理の腕も上がった。まめに新聞の料理記事を切り取り、今やザンギは「店で食べるよかなんぼかおいしい」と敦子に言われるほど。

イクラや白菜まで漬け込む鷲田が、しかし不思議とコーヒーはインスタントしか用意がないあたりは、他人をもてなす生活をしてこなかったせいだろう。あるいは、自分自身もそれこそ口を糊するのが精いっぱいで、その中で楽しむ料理というだけが精いっぱいで、食後の一服、までは気が回らなかった、ということだろうか。
酒をたしなんでいる様子もない。長いこと世話になった先輩弁護士との別れの席でも、付き合い程度に口を湿らすだけである。

彼の下で働く新人の判事補が、鷲田の一人息子の大学時代の同級生だと知って、心揺れる。金を送るだけで、ずっと会ってこなかったからである。
しかも息子は近々結婚するという。その知らせさえ来ていなかったことに鷲田は動揺する。実際は、隣人の老人が恍惚が入ってきていて、彼の郵便物を持ち帰っていたことが原因だったのだが、でもこのシークエンスに若干の甘さを感じなくもないんである。

いや、実際、鷲田自身だって、息子が自分も行った東北大に進学したことさえ、そして司法試験を一度トライしただけで諦めたことさえ、知らなかった。
つまり、息子と個人的にやり取りしたりはなく、妻とのやりとりもごく事務的であったことが推察された。そのことを彼はよく自覚していたし、だから結婚の報告が来ないことだって、その流れからしたら当然だと思われる……少なくとも観客側はそうとらえていたんだもの。

かつて、自分の前で命を絶つという最高の(最悪の?)衝撃スタイルで姿を消した恋人と、その彼女をほうふつとさせる若く不幸な女、というラインにおいて、一方的に夫から別れを告げられ、文句を言う隙も与えられないしっかとしたほどこし(カネだわな)をつきつけられた奥さんのことを、この話の流れで語るべきではないのかもしれんが、やはり思ってしまう。
奥さんが、鷲田が気にかけていることを承知で、息子がどこの学校に行ったかとか、どこに就職したかとか、一切言わずに「息子も無事就職しましたから、これ以上はお気遣いなく」と、拒む理由もないしっかとした文面で、本当の意味での決別を告げた手紙に、彼女の気持ちを思ってしまう。

勿論、女性である原作者自身にもそういう思いがなかった訳ではないだろうと思うんだけど……少なくとも映画中においては、奥さんの影はただただ薄く、”自分に対する量刑”として純愛を貫いた鷲田が、その罪滅ぼしをする相手として現れた敦子、という図式に見えてしまう。
息子からの電話に敬語で会話する鷲田は切ないけれど、やっぱりあんまり共感する気にはなれないんだよなあ。

鷲田が弁護する万引き常習犯の老婦人から、「子供を持っていなければ、人の気持ちなんて判らないわね」と言われる場面は、なんとも言えなかった。
それは物語も終わりに差し掛かり、鷲田もいろいろと思うところがあっての場面。彼はただ一人だと言い、息子がいるなどとは言わなかったから、この老婦人の言葉は彼にとっては当たらないのかもしれない。
まずそのこと自身が、私のような独女はえーっと思ったし、鷲田が、子供を育てるという点では確かにこの老婦人の言葉にあてはまるのかもしれない、と思うと、彼がどっちをとってあの表情をしていたのかも、気になった。
そして作り手自身の意見がどうなのかも、気になった。それが見えなかった。本当にそう思っているような気がして……。

あとはこぼれたことをちょこちょこと。予告編でも印象的に流れた「生きていてくれさえすれば」という台詞、言われた相手、敦子に対する言葉ではなかったことにちょっと肩透かし。そういう関係性ではないということでは正解だったのかもしれんが……。
隣人の老人の息子役に音尾さん。ネイティブ北海道弁がステキである。
ラストクレジットに流れる主題歌はカルいなあ。手掛ける小林氏、劇中の音楽に対してはそんなことは感じなかったけど、この重い人間ドラマに今風、というにもちょっと古い、ちょっと一昔前のキャッチー系メロディと普通に上手い系の歌声が乗せられると、一気に印象が軽々しくなってしまう。こういうのは商業映画には時折あるけれど……。★★☆☆☆


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