home! |
のんきな富久の元には、続々と債権者がやってくる。そこは富久が趣味を生かして始めたはいいが、閑古鳥泣きっぱなしのクラシック専門レコード店、ロゴス堂。
留守を任されているいかにもあやしげな腹の突き出た男、増山が、うわっ、うわうわっ、モリシゲーッ!よもや森?久彌と池部良のがっぷりよつの共演が見られるとは思わなんだ。
ちょっとアメリカのサイレント時代を思わせるような、わざとらしい口上と笑い声の森繁の可笑しさに何度も噴き出しちゃう。てゆーか、その横でマジメな顔してふんふんと聞いてる池部良に、よく笑わずにいられる……エライ……などと思っちゃう。いやー、これは相当ガマンしてると思うなぁ。森繁、やりたい放題なんだもん!!
しかもここに更に絡んでくる、増山よりよっぽど格が上の大高利貸し、見た目もりゅうとした紳士の榊原が志村喬だってんだから、もう椅子からずり落ちそうになる。
なんとゆーゴーカなぶつかり合いなのだっ。後半のクライマックスではホントにぶつかりあう、森繁と志村喬がつかみ合って殺しかけちゃうなんて事態にまで発展するんだから、もうドキドキ!!
ワクワクしすぎてつい先走ってしまった(爆)。そう、クライマックスに行くにしたがって、なんかどんどんシリアスになっちゃう感じはあるのよ。
中盤までは池部良と森繁のとぼけたコメディのような趣。なんたって人のいい池部良を森繁が口八丁手八丁で黙くらかして、頼みの綱の権利金を巻き上げちゃうという筋書きなのだから。
でもそこを通り過ぎると、森繁に主人公がシフトするような感じ。志村喬とのつかみ合いは、森繁扮する増山が執着した、まさにそのカネにこそすべての元凶があるのだから……。
だーかーらー、ついクライマックスに行きたくなっちゃうんだから(爆)。
池部良を心底カワイイと思っている人はもう一人いる。彼の愛妻、喜代である。演じるは淡島千景。なんという美しさ。彼のようなボンクラについてきているとは信じられないような美女。
いや、池部良の美男とは実にお似合いなのだが、彼女がきれぇな奥さんだってことは特に言われないよね。ただこのぼんくら夫に心底惚れきっているってことだけ。こんな美人の奥さん、普通じゃないと思いますけど(爆)。
奥さんの方はまだ常識的だからさ、やたら饒舌で調子のイイことばかり言う増山が信じきれるのかどうか怪しがる。てゆーか、あの風体じゃ誰だって怪しむと思うけど(爆)。
増山は小金を持っていた後家さんに言い寄って結婚し、その金を元手に高利貸しを始めた。なんつーか、金というものに対して愛憎うずまく、といったような男。あばら家の押し入れの床下に現金をため込み、暇さえあればそれを眺めてイッヒッヒと喜んでいる。
幼い子供が三人もいるが、そうした姿と因業な商売ぶりに奥さんが注進しても、聞く耳持たず、というか、子供を可愛いと思う気持さえ、ないような感じである。
奥さんを演じるのが杉村春子。ああこの人は、本当になんて素晴らしいんだろ。それこそ彼女に対しては因業ババアのようなイメージがあるが(爆)、自分の小金を当てにして結婚して、家庭を顧みずケチな取り立てをし、現金だけを信じている旦那に心を痛めて、周りに申し訳なく思って、おろおろしている奥さんが、もうたまらないの。
不思議なことに、家庭なんか興味ないように見える増山だけど、心配する奥さんを可愛いヤツめ、みたいに欲情燃え上がらせたりする。うーわ、うわうわ、森繁と杉村春子の、生々しすぎる(爆)。
そう考えてみれば、富久夫妻も増山夫妻も、共に奥さんが夫にやきもきして、でも離れられなくて、それを愛と呼ぶのか、そんな対比があるのかなぁって。
増山は口では富久の味方みたいなことを言って、この窮地を脱するにはロゴス堂を閉め、姿をくらまし、任された増山が商品を投げ売る形で債権者たちを蹴散らし、店の権利金を返還してもらってそれを元手に人生やり直しなさいと、もっともらしいことを言って丸め込む訳。
勿論その通りにいけばいいから、説得力はある。説得力がない部分は、増山が富久に、自分が貸した分は後で返してもらえばいいから、と言ったことであり、権利金の金額がそのまま借りていた金額なのだからよーまーそれを富久信じるわな、という……
てゆーか、それを反故にされたって、そりゃ借りてた金額そのままなんだから、そんなに増山が因業とも言い切れず、とゆーあたりが絶妙というか。
富久は、自分の生活の立て直しまで考えてくれていると思っていた増山に、まぁつまりは騙されて、憤った。奥さんの喜代も憤った。でもよーく考えてみれば……貸してた金額を、自ら動いて作ってあげて、その間の運動資金だって増山が出している訳だし、榊原の追手に身体を張ってボッコボコにされたり、コストがかかってるんだよなあ。
だからかもしれない。森繁だってこともあるけど、なんか憎みきれない。小物なんだよね、もっとうまく立ち回って、富久に恨まれないで自分の取り分をせしめることだって出来たと思うのに。なんたって彼は現金だけを信じてる。どこかに預けるという頭もないから。
とゆーのが、後半のメインになってくる。さくら相互協会なる、預ければ元本が二倍になる、元本は保証し、いつでも返金可能なる、超あやしげな金融機関が登場する。
揉み手をして出てくる責任者が左卜全とゆーだけでアヤしさ満点だが、そもそもただ預けて二倍、なんてそんなの信じる人が居るのかと思うほどの詐欺感満点……今ならさすがに……でも今でもここまで露骨なアヤしさに引っかかる人はいるかもしれないなぁ。それだけ人は愚かで、怠慢で。
増山の奥さんがダンナの金をここに預けたのは、そんな愚かな考えではなく、離婚を考えるまで追い詰められていた彼女が兄の注進もあって、人に金を貸して増やすよりよっぽどいいじゃないかという考えに揺さぶられたからであった。
子供の目に現金やそれに関わる様々を消したい思いもあった。しかしこのさくらなんたらは榊原の息がかかってて……つまり、榊原は増山に出し抜かれたことでめっちゃ怒って、増山を陥れるためにこの金融詐欺を思いついた??……そこまで考えるのは行き過ぎかなぁ……。
でも増山の奥さんのお兄さんが舎弟で、彼を丸め込んだ感もあったし、うわー、怖い怖い怖い、志村喬、お地蔵さんみたいに慈悲深いお顔なのに、コワーイ!確かに最初から増山よりずんと格は上だったのだ、それは判ってたけど!!
ちょっと話を戻す。増山に虎の子の権利金も巻き上げられ、富久夫婦はすっかり夫婦仲の危機である。
喜代がずっと心のよりどころにしている猫の存在がとても印象的である。自殺してしまった保証人になっていた友人宅で飼われていたペルシャ猫、フーコ。えー?ペルシャ猫なの?すっごく毛並み悪いけど……(爆)。
毛並みが悪いのは、じきに死んでしまうことを示唆していたせいか、高齢だったからか、ただ単にこの時代の猫の栄養事情のせいかもしれない……最近は野良猫でさえ、バランスの取れたキャットフードを恵んでもらってれば毛並みがいいからねえ。
まぁ、そんなことはどーでもいいのだが、子供がいないせいもあるのか、あるいは頼りないダンナに対する不安から来るのか、喜代はこのフーコを片時も話さない。夜逃げすることになっても、ダンナと一時離れ離れになった寂しさから彼との再会にラブラブ抱擁がしばらく続いても(これは、増山ならずとも、見てるこっちが照れちゃう)、バスケットに入れたフーコは、どこまでも彼女と一緒なんである。
でもフーコはだんだんと元気がなくなる。誰が言ったか、この猫は、野良猫になる気はないのだと言った。それぐらい気位が高いという意味合いだったけれど、それぐらい、優しすぎたのかもしれない。難なく抱き上げられて、抵抗もしないフーコは、まるで頼りないダンナ、富久を思わせた。
増山に騙されたと決定的に判った後、フーコがバスケットの中で動かなくなったことに気づいた。そこから先の富久夫婦の葛藤とぶつかり合いがつらい。富久は、仕方がないだろう、と言った。あっさりとしていた。そりゃそうだ、彼はフーコと過ごす時間はほとんどなかったんだもの。
そこから喜代は彼と口を聞かなくなった。死んでしまったフーコをバスケットに入れたまま、ただただ……。
彼らがたどり着く、めちゃめちゃ自殺の名所!!って感じの、ゾッとするような人気のない、寒々とした断崖絶壁、いや、断崖絶壁なんていう凄まじささえも感じない、のっぺりと広がる絶壁と打ち寄せる波の海、そこを淡々と歩く、死んだ猫をバスケットに入れた奥さんと、こんな時でも愛蔵のレコードを入れたケースを離さないダンナ。
もういいだろ、ニオい始めてるよ、ペルシャ猫なんだから、故郷に通じる太平洋に水葬したら本望だろう。富久の言うことは判るが、「じゃぁ、捨てるよ」捨てる、なんだ……やっぱりこれは、時代的意識の差かなぁ。現代じゃ、絶対に言わないよね。猫、猫、猫……猫にはついつい過剰反応してしまう。
そして、先述の、さくら相互協会の破たんによる、増山と榊原のバトルがあり、一度はダンナと別れようとまで思い詰めていた奥さんは、一家ともども一文無しになって放り出される。
ダンナが同じく騙された市民を煽り立てる。そこに余裕の表情でやってくる榊原、もみ合う。止める。増山は幼い息子に、きちんと大学に行き、弁護士になれ、と鬼気迫る表情で迫る。訳が分からず逃げ出す幼い息子。
ああ、なんか、もう、息が詰まって死んじゃう!!と思ったところに遭遇したのは意外な二人、壮絶な別れをした筈の富久夫婦が再会している。
あんなに、あんなに、もうダメだと。こんな時に思い出の曲とか聞くのと、愛するボンクラ夫がいくらとりなしても、ただかたくなだった奥さんがさ……。
なんかね。この二人の、ちょっと甘いけど確実な愛は、慰められるのだ。このカネカネカネの世界で。富久は現実に目を向け、大切にしてきたクラシックレコードを売って、流行歌を売る夜店を開く決断をした。夫の決心に、妻は瞳をうるませた。
その決心を聞けたかもしれない一時の別れの、さびれたラーメン屋での言い合いが、二人のそれまでの気持ち、不満、をすっかりぶちまけ合ってて、それが効いていたから。
ここで終わりじゃないよね!と信じてたけど、不安で、増山家の壮絶なシークエンスを挟んでのこの未来への展望は、なんか、もう、ねぇ。この時代はこういう、金融の厳しさもあったのかな、猫に託された命や世間の厳しさはかなさ。
でも、喜代は夫との再出発を決意したその道行、道端に捨てられていた子猫を拾い上げる。「また君は、そんな猫、拾って」と口では言うが、富久の口元は暖かな微笑をたたえている。いいラスト、いいラスト!この仲のいい夫婦に子供がいない、猫を拾い上げる、なんか、この時代とは思えない、今の時代を思わせるような価値観じゃないの。★★★★☆
そしてまたもやたら長い。169分という尺には怖気づいたが、今回は苦も無かった。いや、やはり見せられた、魅せられた、ということかもしれない。
後半若干眠くなったが(重要なところを見逃しているかも……)、何か、これぞ大林作品、という気がした。懐かしさ……でもない、なんていうか、恥ずかしいほどに大林監督の原点に戻った気がした。
舞台装置のような、見世物小屋のような雰囲気、大仰な芝居、丸枠を絞り込んで使ったり、カシャカシャとスライドのようにめぐっていく編集はいかにも大林監督だ。
映画は大嘘、素敵な大嘘、それを戦争三部作の最後と位置付けたという、いわばシリアスな本作において、一気に花開かせたことに、たまらなく嬉しく感じる。
確かに戦争の時代を描いてる。戦争が人々をむしばんて行く様を描いてる。私は基本的に戦争映画はあまり好きじゃない。時代から遠ざかるほどに、切実さは失われていくから。ただ涙モノになってしまうから。
昨今の大林作品にもそんな風味はあった気はする。でも今回は、なかったなぁ。いい意味で、切実さを最初から求めていない気がした。確かに戦争の影は若者たちの青春に影を落とすけれど、総天然色カラーのような本作の中でバラバラと飛んでいく飛行機たちも、手描き鉛筆で描かれたようなキノコ雲も、まるでおとぎ話のように現実味がないのだ。
主人公は窪塚俊介。予科練に入学したばかりの榊山俊彦。大林監督の手にかかると、こんなにマンガチックにあっけらかんとした男の子になってしまう。
主人公なんだけど、どこか狂言回しの風もある。なんか、かつての大林監督にとっての林泰文を思い出す雰囲気。そういう意味でも、ああ、原点だなぁと。
両親のいるアムステルダムから日本に来たばかり。だからこんな世間知らず風なのか。いや、これは彼の性格だろうか。
同じ予科練に入った同級生たちとの、いわば青春ストーリーを描いていくのだが、その同級生、特に俊彦が一目で憧れてしまう、しかし正反対の二人が至極強烈で、そのエピソードもことごとく強烈で、これは青春ストーリーと言うより、人間の奥底をのぞき込む物語なのではないかと思ってしまう。
獣のような野性味を持つ鵜飼、虚無僧のように底知れぬ吉良。それぞれを演じるのは満島真之介、長塚圭史。おいおいおい、同年代の学生としては無理があるんじゃねーか、……とは、実は、全然、思わなかった。
大林マジックもあるだろうが、この時代の青年たちは時に40も過ぎたような諦念を持った男もいるような気がした。実際、かつての映画を見ると、まるで年齢の感覚は違うし、むしろ長塚氏のような青年の方がかつてのそれにしっくりとくるような気がした。
吉良は、長塚氏は、凄かった。正直、長塚圭史が大林作品なんて、水と油のような気がしていた。まるで相容れないと。しかしどうだろう。大林監督は彼を迎え入れるのを待っていたかのようだ。
この空恐ろしい青年、吉良。足が悪くて子供の頃からずっと寝たきりで、起き上がれたのは四年前だという彼。そのショックで母親が死んでしまったという彼……。吉良と幼少期の濃厚な秘密を共有しているいとこが門脇麦嬢というのが、また何ともそそられる。ナニをしていたかって、そりゃあ……言うのもヤボってもんだ。
彼がなぜ、鵜飼が連れて来た子犬を無造作に殺してしまったのか、あまりにショック過ぎて、判るようで判らないようで……。それでなくてもちょっと不気味な吉良という男の何たるかを、作品中何度も何度も反芻する羽目になるのはこのエピソードがあってこそ。
養鶏の鶏なら殺して食べるだろ、犬だって食べてやるよ、と吉良の言い様は無茶のようで、戦争の気配を濃厚に感じ、そして無為の時間を過ごしてきた彼にとって、何か、何か、反論できない何かを感じるのだ。
でも大林監督がこんな厳しい描写を描くとは思わなくて、それが長塚氏という稀有なる役者を得たからこそ喜んでやっているようで。
一方の鵜飼を演じる満島真之介君は、浅黒い肌に出来上がった身体を惜しげもなくさらして、本当に、まさに、アポロのようだ。劇中、俊彦と全裸で裸馬にまたがって夜の砂浜を疾走する、なんていうサービスショットまである。
女優を脱がすことには定評のある大林監督だが、今回それはなんとなくぼんやりとした映像処理がなされ(惜しいとこだった)、むしろ男優二人の全裸!!の方に目を見張っちゃう(爆)。
あの場面はヤハリ、そういう気分を思い起こさせるものがある。そもそもこの全くタイプの違う三人、そして俊彦が全く違うタイプの二人を、盲目的に憧れているという点で、ちょっと腐女子的な気持ちを持っちゃうんである。
いや別に彼らがそうというんじゃない。魅力ある女性たちはわらわら登場し、その中で彼らは贅沢にも気持ちも身体もとっかえひっかえ(爆)。でもなんか、根本の部分は男は男同士のどこかでつながっている感じが、するんだよなあ。
戦争という下敷きがあるせいかもしれない。女は取り残される。生き残る、ということでもあるが。
それを明確にあらわしているのは、ヒロインの両翼の一人、常盤貴子である。そーそ、夫婦で出てるんだよね。しかも年齢設定全然違うのも面白いし、それが違和感ないのも面白い。
常盤貴子はまさに、大林監督に気に入られた最後の女優かもしれない、と思う。女ざかりの女優ざかり。彼女が演じる俊彦の叔母、圭子は夫を戦争で亡くしている。そのエピソードは本作の中で繰り返し、意味合いの色味を微妙に変えながら語られる。
お国のために、という擦り切れた言葉を傍らに、自分は生きるために戦場に向かうんだと言った、でも生きては帰ってこなかった。戦場に行かなければ(行けなければ)非国民とそしられた時代に、価値ある生を証明するために戦場に行って、散ってしまう虚しさ。
そんなことを明確に言う訳じゃない。そこは大林監督らしい思慮深さと言うか。でも、意味がない、戦争には意味がないと、きっと大声で言っている。
言及するのが大変遅れましたが、両翼のヒロインと言ったけれど、若く美しい、こっちが商業的にも(爆)ピンのヒロインが、俊彦のいとこの美那である。肺病病みで余命いくばくもない、登場してもういきなり白いネグリジェ姿で血を吐く、だなんて、半世紀前の少女漫画みたいと思っちゃう。
ちょっとそのあたりは実際ネラっている感じもする。だって美那は夢のような美少女だし、療養している部屋は天蓋付きのベッドだし、訪ねてくる女学校の友達との会話の優雅さといい、ああなんか、夢みたいなんだもの。
彼女の兄嫁にあたる圭子との親密な関係も、何とも妖しい。血を吐いた美那のその血を、「吸ってしまえば良くなるから」と唇を合わす。そしてそのまま夢のように回転し……レコードの回転に飲み込まれていくこの映像美!
圭子は愛した夫の妹、いわば忘れ形見の美那を溺愛していて、寄り添う描写がなんかいちいちゾワゾワするほど妖しいのだ。大口を開けて圭子の流しいれる粉薬を受け入れる場面なんか!!無防備過ぎる!!
でも美那もまた、まだ経験せぬ恋に飢えている。月が大きく出た日、ロマンチックに俊彦からキスを受けかけたが、病気のこともあって「いけないわ」と拒否した。
でもそうではなくて、彼女は本当の恋を待っていたに違いないのだ。だってその人が現れたら、すべてを脱ぎ捨てて彼の胸に顔をうずめるのだもの。
それは、友人の恋人である鵜飼。写真を一目見た時から、素敵、と美那はつぶやいた。
その友人が麦嬢演じる千歳。彼女もまた鵜飼と、ずっと秘密を共有してきた従兄の吉良の間で揺れている。いや、揺れているというより、吉良との関係はある一方で全く揺るぎないものである。
そしてもう一人の友人、チャキチャキの豆腐屋の娘、あきねもまた忘れられない存在。この一癖も二癖もある男女の友人たちを持ち前の明るさで仕切って、あまり者同士みたいになる俊彦に「私たち不良同士よね」と明るい色気で接近する。
イヤミじゃない、むしろ……それぞれにハッキリと影を抱えた友人たちに比して、それこそ親友である筈の千歳から時に、あなたには判らないでしょ、みたいな態度を取られたりするけれど、確かに確かに彼女は問題ない環境に育った明るいお嬢さんだけど、そうした友人たちの闇をすべて知ってしまっているという意味での重荷を背負ってて、でもそれを出さない、言わない。
何かね、この子が意外に一番重かったかもしれないと思って。明るい笑顔の下で、女友達たちの本当の気持ちを言ってもらえない寂しさ苦しさ、そして彼女が好きだったのは本当は誰だったのかっていうのも……まるで彼女が隠していたみたいに、判然としないんだもの。
戦争の影を感じるのは、本当に、ほんのちょっと。村田雄浩演じる彼らの英語教師がアカという疑惑をかけられ、そして赤紙が来て出征する。その壮行会に料亭の娘である千歳が遭遇する。
騒がしい壮行会ではなく、バンザイは一回だけ、書家の先生が一筆したたためただけ。この書家というのが片岡鶴太郎氏。台詞、なかったんじゃないかな。彼の他にも、大林組にこれまで参加した常連、非常連?はじめ、豪華なチョイ役が登場する。ナンチャンが写真だけの出演とか、グッときたなぁ。
予科練のお調子者、でもきっと寂しがり屋かもしれない阿蘇が、その教師の出征の日に遭遇する。偶然。しかも彼はただ一人、まるで旅行にでも行くように、ただ一人、道を歩いているばかりなのだ。
阿蘇を演じる柄本時生が、これまたたまらなくイイ。道化師のような役割なのだけれど、ふっと一人でいたり、進軍ラッパを吹きながら走り去っていく後ろ姿とか、その寂しさが、なんとも胸に迫るのだ。
呼び止めて話した阿蘇に、帰ってきて、また会おう、英語教師はそう言った。敵国となるエドガー・アラン・ポー、あるいはレーニンの著書を教え、かたわらに置いたその人を吉良は、「もう戻ってこないだろう」と言った。何を根拠にそう言ったのかは判らない。彼独特の直感か、あるいは戦争とはそういうものということなのか。
彼ら予科練の青年たちはまだまだ年若いし、そして吉良は体の不自由さもあって、戦争には呼ばれないだろう。鵜飼は俊彦の家に呼ばれる“パーテー”で、兄の着ていたという真っ白い正装の軍服を着てきたりするけれど、彼のものではない、まやかしなのだ。彼らからまだ戦争は遠い。
結果的には、美那は鵜飼に抱かれ、鵜飼はまた圭子も抱く……までは至らなかったか、でも指を絡ませ、はっきりと想いを交わす。
最後には、妄想?幻想?鵜飼と美那と圭子が一糸まとわぬ姿で海の中を漂う。そしてその時、もう美那はこの世におらず、後に年老いた俊彦が「自分一人だけが生き残ってしまった」と、回想する。そして美那の墓石を抱いて号泣する、ってあたりはいかにも大林監督らしい大味甘美かなぁ。★★★★☆
圧倒的な脚本力で、緻密で面白すぎる台詞の応酬に魅了されてきた今泉監督だけれど、そうではない静謐な脚本の魅力もまた見せ始めてくれている。
本作は決して多弁な人物たちじゃない。もどかしいぐらいである。でも抑えるポイントというか、それがグサッときて、あぁ、判る、上手いなあと思うんである。
「ずっと好きでいてもらえる自信も、好きでいられる自信もない」「今まで付き合ってきた人はいるのに、なぜそれまでとは違うと、一生好きでいられると思うの?」ヒロインのふみが恋人からのプロポーズに返したこの台詞が、まさにツカミはOKというか、この物語のキモというか、この疑問、子供の頃からずっと持ち続けていて、今でも心のどっかでしまい込んでる疑問だったなぁと思って。
口に出しては言わないけれど、誰もがどこかでこの疑問、持ってる筈。最後に愛する人だとどこで決心できるのか。そもそもそこまでに何人かと付き合うべきなのか。
てゆーか、それ自体言うほど簡単なことじゃない。好きになること以上に、好きになってもらえることはとても難しいことだもの。
理想は初恋の人と結ばれることというのも極端だが、違うタイプの人を好きになったり付き合ったりすることで、最後の人が決められるのかなあと思ったり、それじゃ誰かと付き合っても結婚相手が現れるまでには、別れる前提になっちゃうのかなあとか、子供の頃の私はよく思っていた。結果どうなったかはノーコメントだが(爆)。
そう、子供の頃、思っていたこと。今はそんなに純粋に思い詰めてない。不倫も恋愛のひとつだと思ってるぐらい、結婚が絶対的だとは思わない。だからふみのこの決断が、なんていうか、とても純粋だなぁと思ったのだ。
彼女は初恋の人に再会して再び胸を焦がすのだが、だからといって付き合いたいとか結婚したいとかダイレクトに思う訳じゃない。元カレのプロポーズを受け入れられなかったことを分析して、「私はきっと、孤独でいたい人なんだと思う」と、冷静に分析したりする。恋人がいても物理的に一人になる時はある。そういうんじゃなくって、孤独でいたい人なんだと。
これも、刺さったなあ。凄く判る、と思って……。今泉監督は女の子の気持ちがなんでそんなに判るのかな!!いや、それを受けてたもつが「判んないな。俺は孤独でいたくないから」と言うのが、意外にそれが男と女の差なのかなと思ったりして。
意外じゃないかもしれない。男の子の方が寂しがり屋かもしれない。女の子は孤独を楽しむ。一人でいられる。その価値観をぶつけ合った時に、化学変化が起これば……。
てな感じでまたまた先走り気味ですけれども(爆)。ふみは美大を出ているんだけれど絵を描く気力を失い、パン屋のアルバイトから正社員になって働いている。
中学校時代のたもつと再会するのはその職場のパン屋だが、ふみは仕事終わりに職場からいつももらうパンをかじりながら洗車中のバスを眺めるのが好きで、そのバス会社の運転手が、たもつだったのだ。
地方から出てきてこんな偶然あるのとか、そこは突っ込んじゃいけない。運命と言わなければ(爆)。
その頃、ふみの元に転がり込んでくるのが、美大受験を控えた妹の二胡。姉は途中で熱意を失ってしまった絵の道を妹は、「私は描き続けると思う」というが、それでも葛藤がある。絵の情熱というより、やめる術がない、それ以外に道がない、という、これまた純粋少女なのだ。
絵を辞めてパン屋で働いている姉と、この妹はイイ感じに仲がいいのだが、何か、もう一つの人生のような、鏡の裏表のような感じがある。姉は三時半に起きて、二時過ぎには仕事が終わる生活。そこに転がり込んでくる妹は、その生活に目を丸くする。見ている世界がまるで違うのだ。
一見して、絵の道を諦めてパン屋で地味に働いている、という風に見えそうになるふみだが、彼女だけが大切にしている素敵なことがあることが、ラストに明かされるのが、ニクいんである。
それを共有するのが、うっかり再会してしまった初恋相手のたもつである。三代目Jなんたらのパフォーマーさんであるという。そんなきらびやかなイメージはいい意味でなくって、フツーな男の子、初恋の相手が再会してみたらバスの運転手になってた、ってのがムリない感じの普通さがイイ。
彼もいいんだけど、何より私の心にズドンと入ってきたのが、同じ中学校の同級生であるさとみである。再会したたもつから「さとみも東京に来てるんだよ。今度三人で飲もう」と言われた時は、すわこれは三角関係!!と思ったが……確かに三角関係と言えるのだが、思いもよらぬ形での三角関係だった。
さとみは中学時代、ふみのことが好きだった。告白もした。今は結婚して子供もいるけれど、「旦那のことは好きだし、今は幸せだけど、判らない。私は女の子しか好きになれないと思っていた」と言う。
子連れで久しぶりの対面をしたさとみは、「今でもふみのことが好きだよ。ヘンな意味じゃなくて。これから時々会おうよ。それとも会いたくない?」などと言うのが、冗談めかしていても、何か切ないのだ。
さとみを演じる伊藤沙莉嬢のハスキーボイスがやたら印象的で、今でも片思いが続いている感じがやたら切ないのだ。友達であることは間違いない。でも一方は片想い、なのだ……。
ああ、それこそが、本作のキモ中のキモであるではないか!それが最も象徴的なのが、たもつである。彼はバツイチ。それというのも、大恋愛したことで継ぐつもりだった実家の自動車整備工場も畳ませることになっちゃう。
でもその大恋愛相手に浮気されて、彼女のことが好きでたまらないから彼女の気持ちを尊重する形で離婚して、子供もいるから今もつながっている、というよりも、子供と共に彼女のことも諦めきれない、忘れられない。
ふみは再会したたもつに強く惹かれるから、たもつがまっすぐにその気持ちを向ける元奥さんに嫉妬せずにはいられない。そして、言っちゃうんだよね。「たもつが好きでいられるのは、片想いだからだよ。」それは自分に向けた言葉でもあった。
物語の冒頭、パン屋の同僚が不倫していた相手の奥さんに怒鳴り込まれ、堅いフランスパンで殴られて重傷を負っちゃう、なんていう、笑うべきなのかどうかってな事件があった。その同僚は、お互い決定的な言葉を言っていないといい、「付き合ってもいない、結婚もしていないから、続けられるのかもしれない」と言った。
その言葉もかなりグサリと来た。不倫という関係が世の中に糾弾されながらも消えないでいるのは、契約関係がないところに純粋を求めて、武装してしまうからなのかもしれないと。そしてこれを、ふみは片想いであるという定義に落とし込む。相手の想いを確認し合わないから、その想いを続けられる。つまり独りよがりなのだと。
たもつは、元奥さんのことも、一粒種の息子のこともとても愛している。息子のためにパンを焼きたいと、ふみに頼んでくるあたりが無粋というか、ホントに判ってないというか。
ふみは中学時代、たもつに告白している。しかも、さとみの助言を受けて、くるりの「東京」を勧めたラブレターを渡す、という感じが、いかにも中学生な甘酸っぱさである。
さとみが今もふみへの想いを胸に秘めて、彼女を傷つけないでほしいと、その気がないなら会わないでほしいと言うのが、もうなんなの、この三角関係っつーか、友情関係っつーか、みんなが片想いで、そして友達で、切なすぎるだろ!!っていう……。
ふみとたもつはお酒があんまり強くない。さとみだけ「あいつはヤバいよ」なんである。そのハスキーボイスと、子供連れでランチで会う場所でビールをかっこむのがステキと思う、のは、それこそヤバいのだろうか(爆)。
でもこの幼い息子が可愛くて、「ママが悲しむから、好きな女の子がいることは言わない」っていうのが、キュンキュンくる!!でもきっと、ママは知ってるよ(爆)。
ふみの妹の二胡もかなり印象的、チャーミングな女の子である。彼女は私生活がどんな女の子なのかそれほど見えてこないんだけれど、絵に対する真摯な姿勢と、それは姉も進んだ道だからお姉ちゃんのことを心配していたり、お姉ちゃんのフクザツな恋と友情の関係も知ってるし、元カレと別れたことも気にしているし、なんか、仲いい姉妹だなーっ、ってほこほこするんである。
彼女は美大受験をひかえ、姉をモデルに絵を描いている。「絵には終わりがない、どこが終わりか、それを過ぎ去ってしまったと思ったら、さっさと終わらせた方がいい、もう二度と最高の終わりは来ないんだから」
という、もう絵を辞めてしまったお姉ちゃんの言う台詞はひどく重く含蓄があって、まるで、そう、まるでそれは……何人もと付き合って、どこを終わりとするのか、その見極めを見誤ってしまったら、どこで切っても同じだと。そこでまずピリオドを打って新たな一歩を進むしかないんだと、そう言っているようで。
ふみとたもつはモヤモヤとした気持ちを抱えながら、それを一度スッキリさせるために、美しい丘の上で、こっぱずかしい、中学時代からの、そして今の気持ちを青春ドラマのようにぶつけ合う。初恋の相手同士だったのだ。たもつは言わなかったけど、当時彼もふみに惹かれていたのだ。そして再会して、また再び惹かれてしまったのは彼もふみと同じ。
でも、今は元奥さんに未練がある。中学時代と現在のふみへの想いに奥さんへの想いが挟まって、揺れている。
美しい夕焼けを二人で見て、ふみは、自分だけが見ていた美しい朝の群青をたもつに見せたいと思う。妹が居候している自宅に彼を泊める。この時の、妹含めた三人の気まずいような探り合いの会話がサイコーなんである。
そしてたもつは二胡が姉を描いた絵を、ふみが描いた自画像だと思い込んで褒めまくる。それもまた象徴的である。
二胡は絵を描いて、生きていくだろう。ふみは、妹に描かれる側の人生に回った。恋はまた、別問題だけれど、整備工場を継ぐはずだったたもつがバスの運転手になったことと、妙に重なるのだ。もちろん、納得の上でそれぞれが選んだ人生なのだけれど。
「俺たち、付き合おうか」「いいよ。でも私のことを好きにならないでね」「……じゃぁ、やめとく」これは、これまでの二人の経過、会話の変遷を経ての、本当に小粋な台詞!
やめとく訳ないのだっ。これが最後の恋、最後の相手かどうかは、じっくりと見極めればいい。それが初恋の相手同士だったという結末なら、……鳥肌が立つぐらい、サイコーだ。★★★★☆