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「く」


2018年鑑賞作品

KUICHISAN
2011年 76分 日本 カラー/モノクロ
監督:遠藤麻衣子 脚本:遠藤麻衣子
撮影:ショーン・プライス・ウィリアムズ 音楽:
出演:服部峻小林七生J・C・モリスン加藤英樹ブライアン・ハーマン遠藤麻衣子


2018/7/9/月 劇場(渋谷シアターイメージフォーラム/レイト)
うわっ……これは困った、どうしよう。何が起こっているのか判らない。慌てて解説なんぞを読んでみるが、えっ?そういう映画だったの??と更に焦る。コーラフロートを飲みながら、この世の終わりを待っている、って……そもそもコーラフロートを飲む場面なんか、あったっけ?
いやいや、それは恐らく、ついていけなくなった私が時間帯と疲労に負けて、後半はすっかり睡魔との闘いになっていたせいなのか……いや、それが後半じゃなかったらどうしよう(爆)。

てゆーか、これは“どういう映画”という映画じゃないのだろうという雰囲気は、最初から満々だった。「アンダルシアの犬」を思わせるような、ドアップの目とか、大胆なクロースショットの感覚が凄くワクワクさせて、それこそ最初はね、物語のことなんかどうでもよく、ザギザギにとんがった才能あふれる映像感覚に身をゆだねていたいと思ったものだった。
主人公の少年。最初にまず眉を剃る。自らT字カミソリで。ハラハラする。そして理容室に一人入っていく。もう充分坊主なのに、更に出来るだけ短くしてくださいとリクエストする。
バリカンが当てられる幼い頭のクロースショットは、ゾリゾリの毛穴のつぶが傷つけられて血を吹くんじゃないかというほどの生々しさ。モノクロームだというのが、不思議にその感覚を強くさせる。

そんな具合に映像だけに酔っていられれば良かったのになあ。眠くならなければ(爆)。凄く焦って、いろいろネットで当たってしまって。
するとさ、舞台が沖縄だから、いろいろ複雑な事情もあるし、あるいはローカル映画だと必ずある、こんなの本当じゃない、ちゃんと判って描いてない、というのもあって、凄く怒ってる人とかいたりするんだけど、やっぱりそういうことじゃないと思うんだよ。そういうことを判って作られるタイプの映画じゃ決して、ないんだもの。

誤解を恐れずに言えば、感覚映画。舞台が沖縄じゃなくても、良かったのだ。沖縄が、ある意味、そういうシンボル的なものが、判りやすい意味でもたくさんあるから、良かったんじゃないのかなあ。
それをどう取捨選択するかというのはあくまでクリエイター側の自由であって、実際はこうだとか、判ってないとかいうのは、違う気がする。だから、そういうタイプの映画ではないとは思うんだけれど……だったら、どういう映画なんだろう??

モノクロームとカラーが行き来する。モノクロームの場面はなんだか昭和初期にタイムスリップしているような感覚に陥る。ちゃぶ台囲んで親子三人、食事していたりさ。男の子がマルコメ頭だから余計にそう感じるのか。
いや、これは意図的なような気がする。ニューヨークで映画を学び、製作活動をし、作品を披露するのも世界が相手、というのを意識している(あるいは、無意識的な本能で)というのがそうさせているような気がする。そしてそのしたたかな無意識的本能は、記号的な沖縄という舞台を選択したことにも通じているような気がする。

きわめて、普通の家庭の子だと思う。優し気な母親。優し気な父親。ショッピングモールで買い物したりして。迷子を助けたりして。……でもそうしたちょっとしたシークエンスが、妙に不穏なものを感じさせる。
そもそもこの主人公の男の子……タイトルロールなのだろうか、クイチサンというのは。九一さん、ということなのだろうか、判らない、そのあたりも、なんか呪術的な感じもするし……。

とにかくその主人公のマルコメ頭の男の子は、あるいは彼ではなく、彼の周囲でだっただろうか、UFOの話とか、してるのね。見たとか、さらわれるとか、そういったことを。
で、大分早くから私の記憶は怪しげになってくるんだけど(爆)、彼は走る、闇の中を、祭りの中を。次第に輪郭さえもおぼろげになってくる。突如、舞台のような場面が現れる。子供たちが戯れでやっているのか、それともこれは夢の中なのか、まるでテロ集団かのように頭にすっぽりと布をかぶり、寸劇のような……あれは、なんだったんだろう。ひどく怖かった。睡魔のせいもあると思うけど(爆。恐らくそれが大きいとは思うが……)、段々、どんどん、訳が判らなくなってくるんだもの。

少年はなんかハブられたりする。アハハ、イヒヒ、ウフフ、と狂ったように叫んだりする。そもそも眉を剃り落としたり、ギリギリに頭を丸めたり、彼の望んでいることは何なのか。
一見して、穏やかな家庭に見える。でも、彼の行動は、……ショットガン(模造だとは思うが)を構えて屋根の上を駆けまわったり、彼と共に戯れる少年たちも、モノクロームのせいもあるだろうけれど、なんだか、なんだか、遊びのように見えず、殺伐としていて、だけど一方でやはり夢のようで、なんだか、なんだか、判らないのだ!!

カラーになると、突然現実味が訪れる。誤解を恐れずに言えば、突然平凡になり、突然社会性を帯びる、感じである。それこそ、オキナワである。米兵で街が充満し、ちょっと娼婦めいた外国人女性が行き来する。
ただ、少年が「あっちにも外人、こっちにも」と指さす場面はモノクロームで、昔っぽくて、現実味が薄くて、その継ぎ目がちょっと不思議感覚であるような気もする。

豚は沖縄を象徴するひとつのソウルフードであると思うが、その屠殺場面を、殊更にセンセーショナルに描いたりする。一息に殺さず、首にたてられた刃に驚いたような顔をした豚が、血だらけになって、さまよい、倒れ、仲間たちが取り囲んで傷をなめるようなしぐさをする。
……これは、さすがに演出なのだろうかと思う。だって、ちょっと実際では考えられないような気がする。だからといって、これに特に意味合いを乗せる訳でもない。あくまで感覚、そんな気がする。いや、判らないけど……。

彼と同じくらいの年頃の女の子が、やたらヘタクソな歌を街頭で披露したり、色とりどりのブラジャーが満載の売り場に母親があっけらかんと連れて行ったり、意味がありそうで、なさそうで、印象に残るだけを目的としているような、現代性なのか、何かの皮肉なのか、本当にちょっと、驚くぐらいの感覚で。
もうね、最後の方になってくると、てゆーか、最初からそういう感じはあったんだけど、呪術的、なんだよね。なんていうか。眉を剃り落とし、ツルツルになり、意味不明な言葉を発し、最初の内はそれが遊びの中の戯れだったような少年が、どんどん異端に、異邦人になっていく感覚。どうやら私が寝落ちした時に、聖書を投げ捨てたらしい。やばい、見逃した(爆)。そんな象徴的な場面を用意してたなんて逆に意外だったけれども。

歌を歌う少女はヘタだけにやけに現実的、言ってしまえば世俗的だった。UFOとかさらわれるとか、迷子に遭遇したりする少年は……なんか神様の世界に近い気がした。眉を落とすのも、出来る限りの坊主頭にするのも、穢れなき存在になりたいからのような気がした。
奇妙な奇声も、神に捧げる言葉だと思うなら理解できる。でもそれも、あまりに単純な理解だろうか。でもでも、男の子の方が、世俗を嫌い、神様に魅入られる期間が長い気がするんだもの。天使は大抵男の子だし、女の子は……特にこの時期の女の子は、生理という判りやすい穢れがやってくるから。

見直せるもんならちゃんと見直して、改めて自分がどう思うのか図りたい気持ちもあるが、私のキャパシティでは恐らく、ここがそもそもの限界なんだろうという気もする。ヤボなことを言っちゃダメだってことは、凄く良く判るんだけれども。★★☆☆☆


2018年鑑賞作品

草を刈る娘
1961年 86分 日本 カラー
監督:西河克己 脚本:三木克巳
撮影:岩佐一泉 音楽:池田正義
出演:吉永小百合 浜田光夫 望月優子 清川虹子 大坂志郎 菅井きん 山田吾一 安田千永子 平田大三郎 三戸部スエ 高島稔 小沢直好 葵真木子 金子克予 千代侑子 益田喜頓 佐野浅夫 近藤宏 山岡久乃


2018/6/5/火 劇場(神保町シアター)
これは完全に時代のせいだから仕方ないんだけど、直球にマッチョな考え方が物語を支配しているので、フェミニズム野郎の自分としては結構困ったりする。
でもそれをあっけらかんと……つまりあの時代には当たり前に、何の疑問も持たずにそれが当然、それが幸せとうたいあげているのだから、楽しく観なければソンなんである。
いやでも、明るいだけに見えた物語の後半に、そんなフェミニズム野郎の留飲を下げる……には哀しすぎるエピソードも差し挟まれるのだが、あぁ、ここで早くも先走ってはいけないぃぃ。

まぁ、もう、可愛いに違いない、16歳!!の吉永小百合、なんである。そしてニキビ面が初々しい浜田光夫とのカップリングが可愛すぎる。こんな純情なカップル、もう現代じゃお目にかかれない。
舞台は岩木山のふもと。つまりつまり、津軽平野、バリバリの津軽弁!!イイ感じに判りやすい津軽弁にかみ砕いていて、聞き取るのに不便はない。あぁ、マイネマイネ、久しぶりに聞いたよー。吉永小百合の津軽弁がキュート過ぎるっての。

一年に一度、2週間ほど、その年一年間使う馬草を刈り取りに、二つの集落からやってくるんである。そこで一年に一度の嫁取り婿取りが、双方のやりて婆によって仕組まれる。毎年その組み合わせはほとんどが大当たりで、今年も新婚さんがイチャイチャやってて若いモンには目の毒なんである。
草で覆った簡易テントみたいなものを点在させて過ごすのだが、少しでも近いところにいたいと、足がはみ出るほどのちっちゃい小屋に二人抱き合って寝て、風が吹いて倒れたのも知らずにぐうぐう寝ているもんだから、男女のことなどまだ何も判らぬ純情可憐なモヨコ、演じる吉永小百合が「二人が死んでる!!」とカン違いして大笑いになるところなんか、もうそのおおらかさに爆笑である。もう終始そんな具合なのよね。

しかしてこの二人のやりて婆がまず、最高である。望月優子に清川虹子。きっとまだ双方、そんなばあさんの年齢じゃないんじゃないのかなー、と思うのだが、にっかり笑顔にぶわーっはっはっはと笑い合う白髪の二人は名コンビ!
岩木山が遠くに見える津軽平野、まるでそこが二人の独壇場の舞台とばかりに、左右からばーっと駆けよって、事態を報告し合って、ぶわーっはっはっはと大笑い。ホント、舞台みたい!!さながら展開具合を、狂言回しともいえるこの二人が、笑い合いながら観客に報告しているみたい!!

マッチョな考えに支配されているこの時代の物語だが、集落の先行きのかなめと言える祝言の取り決め、そして表向きは「男が強いに決まってる」と言いながら、「これはナイショだけどな、本当は女の方がずっと強ぇえんだ」とにんまり笑うしたたかさ。
だから男のたづなを握ればいいんだ、というのは、まぁやっぱりちょっと、家庭を守り、内助の功を自ら肯定するような感じもするけれど、そこまでうがっちゃうのはミもフタもないかな。それこそこの時代、なのだから。

そんな具合で、骨惜しみせず働くモヨ子と気の優しい時造は最初からそういう含みたっぷりに引き合わされる。
なんたって物語の冒頭、おぉ、今年も来たか、と村の駐在さん(益田喜頓。味わい深い)に出迎えられたモヨ子が、おばであるやりて婆のそで子ばあさんから、三国一の婿を見つけてやっから、と言われて頬を染めるんだから、思いっきり判りやすい、てなもんである。

勿論、押し付ける訳じゃない。モヨ子自身だって、若くハツラツとした女の子なんだから、そうした自覚はしっかりと持っている。ただ、このやりて婆たちはプロフェッショナルだから、長年のカンで、上手くいく同士が判っちゃってる感じ。だから、二人で草刈りするように、とほっぽっとくだけで、すんなり二人はお近づきになっちゃう。
ただ、その前に二人は出会っていて、煮炊きをする水を使う川で時造が愛馬の足を洗わせていて、若い女たちに糾弾された時造が素直に謝ったことで、女たちの好感を一気に得たのであった。勿論、その中にモヨ子もいて、時造ともども、お互いに一目惚れ、だった訳である。

先述した新婚さんもそうだし、長年のベテランカップル、金作とちえ(うっわ、菅井きん!)もとても仲がいい。
時造と距離を縮めていく中で、時造が仲間にけしかけられる形でモヨ子に強引に迫ったことで二人は決定的なケンカをしてしまうのね。これぞ、マッチョな思想であり、それをまだ訳も判らず押し切られてしまった時造、それに反発した若きモヨ子という図式。

てな具合にフェミニズム野郎がここにとどまってしまうと先に進まない。でも、それを相談した新婚カップルがお互いに妄想ヤキモチを焼く形で取っ組み合いになり、それを止めようとしたベテランカップルの金作とちえが双方の立場で肩をもって、これまたお互いに対する疑心暗鬼でケンカになり、困り果てたモヨ子は周囲に助けを求めるも、なんかもうみんな楽しんでる感じで男女入り乱れての大乱闘!
これを見るとね、確かにずっぱりマッチョな思想に支配されているけれども、女性もただただダンナにかしずくんじゃなくって、女としてのプライドをものすごく持っているし、そして腕っぷしも強い強い。ベタな男女平等という考えにとらわれていると、本当の意味で男と女がきちんとぶつかり合うっていうことが、段々判らなくなっているかもしれない、となんか、思っちゃうんである。

でもね、その中で、そんなマッチョ思想から一人、ハズれている人物がいる。うっわ、山岡久乃かぁー!!彼女演じるはま子はつまり、女一人生きていく決意を固めている人物なのよ。貯金をもう10万円もためていると、仲間内でもウワサされている。
この当時の物価感覚は判らんが、後に重要なキーマンとなる行商のおっちゃんが色んな品物の金額を提示してくるので、なんとなく判ってくる。てゆーか、まさかこの行商のおっちゃんがキーマンになるとは思ってもいなかったのだけど!!

はま子は、とても美しい人なのね。同じ集落の、ちょっと頭の弱そうな(今の時代は言い方が難しい……軽度の知的障害、ということだと思うが)善太にホレられていて、彼が決死の思いで書き連ねるラブレターを、仲間たちがまるで悪気なく、本当に仲間意識だけでからかっているシーンはほほえましいが、落ち着いて考えてみるとこれも問題なのかなあ。

はま子は物語の後半、殺されてしまうのよ。いや、ビックリした。ちょっと疲れててネムネムになっていたから(爆)、一気に目が覚めたよ。彼女もまたやりて婆に世話された一人なのだけれど、上手くいかなくって、女一人、生きていく決意をしている、という人だったのだ。

善太がはま子に惹かれたのは、そらあ美人ということもあったろうが、案外そういう、強いところに惹かれていたのかもしれない。彼女が縊られて殺された時、現場に残された、善太が彼女のために大枚叩いて買ったメノウの指輪のこともあって疑われるんだけれど、真犯人は、はま子がため込んでいることを知って目を付けた行商の男。
彼をとっちめて、はま子を思って号泣する善太に、村の皆が、そして観ている観客も、胸を打たれてシーンとなってしまう。

はま子の遺体が発見された時、村の女たちは、あの時ちゃんと結婚しておけば、こんなことにはならなかったのに、とささやき合い、いかにも気の毒な女、という具合に手を合わせるから、単純フェミニズム野郎の私はキーッ!!となったのよ。
でも、あらゆるあれこれを考えると、それはまさに逆説で、そうでなければ女は幸せになれないこの状況こそが問題だと言っているようにも聞こえるし、あるいは、もっとベタに、男と女が難しいこと考えずに愛し合い、手を取り合って生きていくことほど素晴らしいことはない、つまり彼女が殺されてしまった要因のお金なんて、そういう悪しきものを導くことしかない、と言っているようにも聞こえるし(こう書いてみると、全然ベタじゃなくて、それこそ深淵だな)。

でね、モヨ子はこの事件に凄いショックを受けて、時造の元に走る訳。だーいぶ途中ハショっちゃったんだけど(爆)。
その前に、ムリヤリ迫っちゃった時造と大喧嘩して、その後、村を飛び出した一郎という訳アリ男とちょっとイイ仲になっちゃって、都会のプレゼントだといって真珠のネックレスとかもらっちゃって、で、その訳アリのシブい男は、時造に決闘を申し込む訳。だってモヨ子が、どっちが好きかなんて、判らない!!とか乙女なことを言うもんだからさあ。

モヨ子は本当にそう思っていたのかなぁ。真珠のネックレスをもらっちゃったから、なんかカン違いの妄想の恋になっちゃってたんじゃないかなぁ。田舎で純朴に暮らすモヨ子にとって、都会の匂いをプンプンさせて戻って来た彼は年上の男ということもあって、尋常な判断が出来ない相手に違いないんだもの。
彼との力比べに時造が負けてしまったこともあって、混乱したモヨ子は二人とも大嫌い!!とか少女漫画的な台詞を吐き捨てて二人と距離を持つんだけれど、はま子の事件に遭遇して、自分のそばにいてもらいたいと思った相手は、時造だった。

怖い、怖い、とぶるぶる震えて、通常の精神状態じゃないみたいな感じで、壊れるほど抱きしめて!!なんていう、昭和のアイドル歌謡曲みたいなことを言って時造の胸に飛び込むモヨ子に、男に守ってもらいたいだけじゃないの……とちょっと危険な感じを持ったが、その選んだ相手が、ケンカに負けた時造だってことが、つまり本当に好きだと気づいたのが彼だったって、ことなのかなぁ。
まぁ、まだモヨ子には、いわゆる女が強く生きていくということは判ってないかな、という気はする。だって小百合さま、まだ16歳なんだもぉん。

モヨ子と時造の恋の進行は可愛らしすぎる。これも時代かな、歌がふんだんに取り入れられていて、二人が競争みたいに草刈りをするシーン、小百合さまは多分彼女の歌声だと思うんだけど、あの渋い低音は、絶対浜田光夫じゃないと思うんだけどなーっ(そういう、ツッコミどころが楽しい♪)。
短い草刈り期間のお楽しみ、お祭りののど自慢の舞台で、これまた小百合さまは素晴らしい歌声を披露し、拍手喝さい。

時造との二人きりの草刈りシーンでは、大好きなエピソードが満載。時造の宝物にしているガスライター(ジッポだわな)、モヨ子は彼に火をつけたりしてあげて、これぞマッチョやがなと一瞬思うんだけれど、モヨ子が語る夢というのが、なんか、イイのよ。
お嫁さんになって、十人からの子供を産んで……なんてところまでは、私みたいなフェミニズム野郎の眉をひそめさせそうなもんなんだんだけど、年をとってからタバコを吸うの、と瞳をきらきらさせて言うもんだから、ちょっとビックリしちゃって、時造も、君は変わってるな、と言ったりして。

きっと、子育ても全部終わって、おばあさんになった女性たち、それこそそで子婆さんがあたりが、一服ぷかりとつけるのに憧れたんじゃないかな、と、思うのだ。
そう考えると、凄く凄く、女たちはカッコイイのだ。年をとってから、いや、年をとってこそ自分自身の好きな生き方をする女たちに、彼女が本能的に惹かれているのだとしたら、こんなステキなことはないのだ。

あのエピソードが最高に好きだったなあ。このジッポを時造がなくしちゃって、「川でクソをしていた時になくした」「だったらクソの匂いをたどって行けば判んべ」これはそで子婆さん。モヨ子は破顔一笑、「だったら探してくる!」
つまり、小百合さまがクソの匂いをたどって探しに行ったんである!!見事探し当てたモヨ子は、「凄いクソをするんだナ。熊みたいだった」「たくさん食べて、たくさん出すからナ」そんなこと、サワヤカな恋人同士の笑顔で語り合うなー!!もう、爆笑!!

マッチョな時代背景と思ったけれど、実は過渡期で、女はやはりいつの時代もたくましく、切り開いていった時代、だったのかなぁと思ったなぁ。でもとにかく楽しい映画、あっけらかんと笑って楽しみたい。こんな青森映画があるとは、知らんかったわ!★★★★☆


黒い画集 第二話 寒流
1961年 96分 日本 モノクロ
監督:鈴木英夫 脚本:若尾徳平
撮影:逢沢譲 音楽:斎藤一郎
出演:池部良 荒木道子 吉岡恵子 多田道男 新珠三千代 平田昭彦 小川虎之助 中村伸郎 小栗一也 松本染升 宮口精二 志村喬 北川町子 丹波哲郎 田島義文 中山豊 広瀬正一 梅野公子 池田生二 宇野晃司 西条康彦 堤康久 加代キミ子 飛鳥みさ子 上村幸之 浜村純

2018/1/28/日 劇場(神保町シアター)
ようやっと観られた池部良特集二本目。彼はモノクロがよく似合う……。ノーブルで渋みがあって実にイイ男である。銀行員役、肩幅と胸板の厚さが仕立てのいいスーツにしっくりと合っていてホレボレとする。
そして松本清張である。松本清張はモノクロがよく似合う……。ミステリというよりは人間のドロドロとした思惑が渦巻く様を、この短い尺でスタイリッシュとも言うべきスピードで語っていく。あまりにもとんとんと池部良が落ちて行ってしまうので、ガクゼンとするぐらいなんである。

池部良扮する沖野は冒頭いきなり、課長になったばかりの若さで、池袋支店長に大抜擢される。同期の、先代頭取の息子で常務にのし上がった桑山の後押しがあったのである。
桑山が沖野を推す「誠実でまじめ、勢いがある」といった褒め言葉は、ライバルである副頭取が推す“小心者”の候補と違って、という意味合いで説得力があり、桑山の沖野に対する信頼を感じさせたが、これがとんだ食わせ物だったんである。

つまりは桑山は自分の保身、いやさ野心、いやさ欲望のためならナンでもする男であり、沖野に対して見せてみせた友情も、結局は見せかけだったんである。
女癖の悪い桑野のために間に入って手切れ金を渡したり、沖野はそんな使いっぱしりのような役目だって何度もさせられていたのに、なぜそれに気づかなかったのか。

気づいてなかった、のかなぁ。そのあたりは正直判然としない。気づいていたような、気もする。
その、女に手切れ金を渡す場面は、まさに沖野が大抜擢人事を受けた後である。意味ありげに女との待ち合わせ場所に行くから、すわこれは沖野、いやさ色男の池部良と女との痴話げんかか、キャー!!とか期待したら、ビジネスライクな口調で手切れ金の入った封筒を渡したりするもんだからちょっとガッカリとする。
その女から「あなたはいくらもらったの?出世ということか」と皮肉交じりに投げつけられても顔色一つ変えない。いやつまり、沖野はそんな男なんである。後に美女にあっさり騙されちゃうようなさ。騙されたんだろうか、いやあれは騙されたんだよ、ワキが甘いんだもん!!!

その運命の女との出会いは、池袋支店に赴任し、得意先回りをした時である。料亭の女将。しかもダンナに先立たれた後も女手一つで剛腕をふるっている、融資を受けても実に金払いのいい、銀行にとっての上得意である。
その女将、奈美に扮するは新珠三千代。少したれ目気味の瞳を煽情的な黒いアイライナーで縁取った、なで肩、柳腰の、同じ女でも一目で心奪われる美女である。一目でヤバいと判る。なのになぜ。

いや、沖野は判っていた筈だ。彼女から増築のための融資、1000万を相談されて、経営状態もいいし金払いもいい、即座に決断しようとしたところを、常務の桑山に止められた。一度はそこでメシでも食ってみろと、そうやって内情を探るのも支店長の仕事の内だと。
そんなこともしないで書類上の成績で決めようとした時点で、確かに沖野は甘かったし、そこは池部良の、なんていうか彼から出てくる固さというかそういったものが実に上手く作用しているのだ。
池部良はとってもイイ男だけれど、抜け目のなさとかそういうものはあまり似合わない人だ。堅くて融通が利かなくて、だから……イイ男、なんである。

んでもって、そうやってちゃんと内情を探りに行ったし、この時に「お客さんたちの目当ては女将のようですな」というところまでちゃんと見抜いていたのに。
奈美がすねたように「それじゃまるで私が身を売っているみたいですね」というと慌てて打ち消すけれど、彼女はそのこと自体を明確には否定しなかったし、沖野だってそれは判っていたからそう言ったのだろうし。

そしてそれを裏付ける会話だってあるのだ。まさに二人が親密になるきっかけになった会話。沖野にロックオンし、何かと相談を持ち掛ける奈美、増築した店に飾る絵を選ぶのにつきあわせたその帰り道、自分を口説いてくる代議士の生々しい手口を口にする。
「私の心の支えになりたいだなんて。会うたびに待合に誘うくせに」沖野ならずともちょっとギョッとする。明確に否定はしてなかったけれど、一応は女将という手前……これではその誘いに乗ってない訳がないではないか、ということでしょ!

そして今までもきっとずっとそうやって、その荒波を乗り越えてきたと。沖野が前支店長から引き継ぎされてあいさつした時も、支店長がやってきた!と急ぎ足で出迎えた奈美の姿は、この前支店長とだって……ということを思わせもした。
そしてこの会話の次のカットではもういきなりベッドイン、は、早すぎる、沖野君、甘すぎないか……。

沖野には病身の妻と二人の子供がいる。子供たちはいつも仕事で帰りが遅い父親になついている風はない。
まぁ正直、モーレツサラリーマン時代のこの時には、多かれ少なかれこんな家庭が一般的だったんではなかろうかと思われる。この時代よりは新しいけれど、私んちだってまぁ、そうだったもの。

桑山の女処理のために妻にあらぬ誤解を受けて嘆息している沖野は、この家庭にちょっと疲弊している感がある。奥さんから「私はこんな身体だからしょうがないとあきらめているけれど、私の耳に入らないようにしてください」と言われたりしちゃう。
奈美との仲が深まり、彼女から結婚を迫られたりすると、彼の心は揺れる。しかし、支店長への大抜擢がされたばかり、ここで得意先との不倫の末に離婚などしたら出世の道どころか辞めさせられてしまうかもしれない。彼の心は揺れる……。

もうね、あっという間にベッドインになった時から、てゆーか、いきなりロックオンしていろいろつきあわせる様子から、奈美はぜぇったい、しっかりと計算してるなと、そりゃ思うでしょ。
で、そこに桑山も加わる。ウワサの美人女将にあっさり彼はのぼせあがっちゃう。沖野との仲も彼のことだからなんとなく感づいていたんだろう。そして女将が事業家として野心を持っていることも。

いきなり三人で一泊のゴルフ旅行に行こうとか言いだすから、その展開の早さにアゼンとする。しかも、まぁ予測はしていたけれど、しっかり夜這いまで敢行するのにはさらにアゼンである。いくらなんでもここで奈美は陥落はしない……いや、後から考えれば、奈美ほどのしたたかな女だったら、ここで計算が働いてもおかしくなかったかなぁと思うが。
この場面、「今は何もしませんよ。ただ寒いんで一緒の布団に入らせてください」と迫る桑山にはボーゼン&爆笑!先代のコネでという後ろ指をさされてきた彼だが、この口八丁で見事に登って来たのだ。そして、沖野はこの後、彼の口八丁で地獄に突き落とされることになるんである。

そもそも、この池袋という絶妙な土地である。今でも少々そういう感はあるが、“中央にくらべて……”的なところを、当時の感覚で「これからの展望が見込める大都市」と表現はしている。今も変わらぬ巨大な西武デパートのたたずまいに、池袋の矜持を感じる。
剛腕女将の奈美に対して桑山は、「池袋なんかにいるのはもったいない」とまで言い、それに対して奈美も「そうなんですの」と返すんだから、池袋の立場もないってもんである。

増築のための融資が一千万では足りず、追加融資を沖野に頼んだ奈美が、堅実な彼の判断でそれを渋られた時から歯車は逆回転した。もしかしたら奈美自身も、自分がしたたかな計算ずくで沖野と親密になったということに、自覚がなかったのかもしれない。
自分の美貌に惑わされた桑山が無謀な不正融資を行う、もうそうなると奈美の心はあっさりと沖野から離れてしまうんである。ちょうどその時、沖野の妻が自殺未遂をした。それは明らかにテメーのせいなのに奈美ったら「あなたまでミジメに見えてきた。私、ミジメな男はキライ」と手ひどく沖野をソデにしてしまうのだ。

なんとゆーこと、池部良を、ミジメな男呼ばわりするとはっ。でも、でもでもでも、やっぱり彼はなんだか甘いんだもの。奈美に陥落した時から、甘いんだもの。
奈美と桑山の仲を探偵社に調査させ、総会屋のボスに頼んでめちゃめちゃにしようとするもそれも失敗。キャストクレジットで名前があったことを忘れかけたところに出てくる御大、志村喬。あぁ、彼は、結局桑山に丸め込まれて買収されてしまったということ、だったのか。

この時には、探偵社の調査がデタラメだったと怒られて、えぇっ、どういうこと、と沖野と一緒に狼狽しちゃったんだから、私も相当甘い(爆)。
でも、「フラッシュがたけなかったから、顔は判らないけれど、見る人が見れば判る」という写真を証拠に出してくる探偵社も甘いというか怪しいと思ってしまったし、もう何が何だか。

そしてこれもまたキャストクレジットから忘れかけた頃に現れる丹波哲郎。桑山側からの脅しというスタンスで現れる彼とその子分たちの、いきなり任侠時代劇??というズラリ!というご登場にアゼンとし、思わず劇場内から笑いがこぼれるんである。
だって紹介文句が「手前、傷害前科四犯……」て!そもそも池部良と丹波哲郎のツーショットというのが意外すぎて、もうなんだか違う意味で胸がドキドキしちゃう!!

探偵社の男は、信頼を傷つけられたことに憤慨し、復讐してやりましょうと申し出る。でもね、これも……そもそもこの男がその後いきなり探偵社を辞めてしまっているのも怪しいし、顔の判らないあの写真のことだってさ……。
盗難車を運転していた、というワナに桑山を落とし、その際に待合からの奈美が同乗していた、というところまで持って行き、副頭取一派たちに桑山の所業を訴えるところまでは上手くいった……のだろうか。

沖野のツメがヤハリ甘かった、のは、銀行は、あるいは企業、あるいは社会というものは、真実や正義を重んじるのではなく、世間への体面、自分たちの保身、それをこそ重視するのだということなんである。
桑山の愚行を世間に広めたら、会社も、そして自分たちも危うくなる。そのためにイチ支店長の私心のためとするぐらいはなんでもないこと。そしてそれは……沖野自身もそう言われたら反論できないことでもあるのだから。

沖野が支店長に抜擢された物語の冒頭、副頭取派が常務派に乗り換えて沖野の支店長就任に賛成した、会話が交わされる。「常務の方が今勢いに乗っている。寒流から暖流に乗り換えたということ」まさにこのタイトルは結末までを、示していたのだ。
正義も真実も、本来の実力さえ抹殺される。日本は今でも、そうかもしれないと思う。実力主義とは程遠い社会としてある意味成熟し、そこから抜け出せない。
寒流、暖流という価値観さえ持たなかった愚直な沖野が呆然と枯野の中を歩き、うずくまるところでラストなんて、なんてなんて救いがないの!!大好きな志村喬が正義じゃないことにもショックだったし、もう!! ★★★★☆


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