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「お」


2018年鑑賞作品

オー・ルーシー!
2017年 95分 日本 カラー
監督:平柳敦子 脚本:平柳敦子 ボリス・フルーミン
撮影:パウラ・ウイドブロ 音楽:エリック・フリードランダー
出演:寺島しのぶ 南果歩 忽那汐里 役所広司 ジョシュ・ハートネット


2018/5/14/月 劇場(テアトル新宿)
えーっ!ジョシュ・ハートネットって、あのジョシュ・ハートネット!?ハリウッドに疎い私でも、ギリギリ見てた時代のスターやないですか!ビックリした……。
最初はだから、寺島しのぶがゲストで出たアメリカ映画かと思っていたらちゃんと??日本映画で、しかもこれが長編監督デビュー作だという。そ、そんなことって可能なんですか!!

オレンジ色のピンポン玉を妙に官能的な顔で口にくわえたしのぶ様のポスター写真は非常に印象的である。
なんつーか、自分を顧みちゃう要素が多すぎて、痛い。見てるのがつらい。年恰好、独身、自分を養うためだけに会社に通ってる感じ、だから、必要とされているという実感はどこからも感じられない。
一番のお局様が退職した今は、彼女が一番の年かさで、若くハツラツとした社員の中で明らかにやる気のない彼女は浮きまくっている。
その一番のお局様の送別会で、「KY、みんないつ辞めるかって待ってたんだよ!!」と毒を吐きまくる、のは、それはその通りだったのかもしれないが、その台詞はその後、彼女にまんま反ってくるんである。

この太ったおばちゃんはいかにもおせっかいで、確かに会社中から苦笑気味に迎えられている感はあるのだが、やたらと差し入れのお菓子をすすめてくるこのおばちゃんには決して悪気はなく、その点ではしのぶ様演じる節子のしらけた雰囲気とは違って、若い社員たちにもしょうがねぇな程度には受け入れられていたのかな、と言う気がする。
こういう感覚もなんか判るというか……。逆にそんな風に、臆面もなくふるまって、自分は楽しい、幸せ!!なおばちゃんになれたら楽だろうなと思いながら、そんな先輩を見ながら、自分はそうなれずに黙々と仕事をする、みたいなさ。
しかもきっとその仕事は、誰にも代わりになれる、それこそ節子が突然休暇申請をしてもあっさり受け入れられる程度のものなのよ。ああ、身につまされまくっちゃう。

てな自体に至るには、それ相応の展開があるんだから、焦ってはいけない。
そもそも冒頭がかなり強烈である。節子はホームで電車を待っている。これぞ日本、という感じの、やたらマスクをした人たちがたくさんいる、お行儀よくすし詰めに並んでいる通勤ラッシュのホーム。彼女の耳元で「じゃあ、また」(だったと思う)とささやいて、走り込んでくる電車にすっと姿を消した男がいた。
後から思っても、あの男はなぜ節子にささやいたのか。節子がトムに「彼氏はいますけど」と言ったのは、トムに対するガードだとばかり思っていたが、この男が本当に彼氏だったのか、いや多分違う、全然知らない人。
あるいは、節子だけに聞こえた囁きかもしれない。目の前で死んでしまった人と節子は、どこが違うのか、その境界線はなんなのか。

あ、トムってのは、英会話教室で出会う役所さんね。やたら距離を詰めてくる彼に対してそんなガードをするのは自意識過剰のようにも思われるが、独身のままここまで来てしまった女にとって、それもまた判る部分があって妙に照れくさいんである。
さてさて、なぜ英会話教室に行くことなんぞになったのか。見るからに自由奔放、若さと美貌で自信満々な姪っ子、美花ちゃんからの依頼があったからなんである。「どーうしても今お金が必要なの」と、解約できない英会話教室の後期レッスン分を買い取ってくれないかというんである。

まぁつまり、ていのいい借金肩代わりだが、代わりにレッスンに行ってもらう、という巧妙なやりくちは、なぜ考えついたのか。
最初から講師で恋人のジョンに、節子をメロメロにさせる作戦だったのか、いやでも、やたらハグありきは、トムの授業でもそうだったし、もともとそういう先生だった感じは出してくるんだけど……。

そう、授業に際して名前を付けられるんである。ジョン先生はアメリカンイングリッシュを教えるというテイ。でも自己紹介でマイ・ネーム・イズ、というのは日本の英語教育だけだと聞いたことがあるけどなあ。それともそんな古風な日本人に合わせた教育方針なのだろーか?
てゆーか、まるでカラオケボックスかラブホテルかと思うようなせせこましく隠微なライティングの中にびっしりと“教室”のドアが並ぶこの英会話教室は、いつもロビーでヒマそうにしているオーナーの存在だけでも充分にアヤしいし、英語ネームはまだしも金髪のウィッグまでかぶせられるというのは……。

でもルーシーは、それですっかり陥落しちゃうのだ。ルーシーというのは、節子が引き当てた名前。それに金髪くるくるのウィッグに、大きな口を開けた時にジョン先生からはめられたオレンジ色のピンポン玉を口にくわえて、小学生みたいな発音練習をする節子は、いやルーシーは、もうなんだか目が潤んでいる。
たった一回の無料体験、ジョン先生がそのつもりだったのかどうかはよく判らないが、ルーシーはジョン先生にホレてしまったのだな。

姪っ子ちゃん、美花を演じるのは忽那汐里嬢。本当に、お人形のように整ったお顔立ち、ネイティブな発音の英語は、英語教室に通う必要ないべやと……美花とジョンが出会ったのは彼女のバイト先のメイドカフェで、彼が一目惚れだった、と告白することを考えると、最初からクラスなんぞとってなくて、節子から金を巻き上げる口実だったのかもしれないと思えてくる。
判らない。そのあたりは明確にされないけど、わざわざ英語ペラペラの汐里嬢をキャスティングしてくるんならさと、思っちゃう。ハーイ、ジョン、なんていうレベルじゃないんだもん。

後に節子が姉から再三、きっとずっと言われ続けていることなのだろう、おせっかいを美花にもジョンにも発揮しちゃう。はっきりいって、お金である。困っていると聞くと、出しちゃう。お姉ちゃんにとがめられても、私のお金なんだから、私がレッスンを買ったんだから、と突っぱねる。
でも節子だって判ってる筈、だよね。結局それでしか、今自分に向いてくれているキラキラ輝く人たちを、つなぎ留められないんだって、だからだってことをさ。
おばちゃん、おばちゃん、と慕ってくれている美花を、めんどくさそうに迎えながら、きっと節子は支えに思ってた。慕ってくれている、なんていうのは所詮、ウソだ。お姉ちゃんが言うように、美花ちゃんは勝手な女の子で、おばちゃんを利用しただけなのだ。だからこそ、自分のライバルになる訳がないとタカをくくって、その態度が節子を激昂させた。みんな私をバカにして!!と……。

あーもう、だから、先を行っちゃったし、節子に戻ってるし!!でもさ……ジョンやトムの前では確かに彼女はルーシーだけど、姪っ子やお姉ちゃんの前ではやっぱり彼女は節子、なんだもの。
さてさて、あの悪気のないふとっちょ先輩おばちゃんに罵詈雑言をぶっかけたのは、ジョン先生が美花ちゃんと駆け落ちする形で講師を辞めたと知った日。可哀相なおばちゃんは、さみしげにホームから電車に姿を消した。
向かい側にいた節子、一瞬、冒頭の飛び込み自殺が頭をよぎった。だからほっとしたのだが、それがまさか、クライマックスでよみがえってくるとは……。
そーゆー、構成が、後から考えたらめっちゃ上手い!と思って、観てる時には全然気づかないところも、上手い!!と思ってさぁ。

節子は美花ちゃんから届いたはがきを頼りに、アメリカへと旅立つ。娘のことを見離すようなことを言っていたお姉ちゃんも、やはりそこは親心か、一緒についてくる。
この姉妹の、どーしよーもない仲の悪さに、これはそれこそ、そんな姉妹や家族もいるんだ……と思った。私は運よくいい姉と両親に恵まれたから……。大人になって、周囲からいろんな話を聞くと、自分は本当に幸運だったと思う。

この姉妹だって、根幹まで話し合えば判らないとかは思うけれど、そんなことナシに、仲良く出来ているっていうのってそんなに奇跡なのかと……。
ただ、根幹まで話し合う、ってことは、逆にしたことはない。このお姉ちゃんが、そして妹の節子が、どうしてここまでお互いに反発してるかって、それこそ根幹の部分を覗いてしまったからなのかなと思ったりする。ならばどっちが幸せなのか、判らない。本当に大事な本心は、私は聞いていない。そうかもしれない……。

ジョン先生の元を訪ねても、美花はいなかった。ケンカ別れしたという。その行先は、ジョン先生の別れた元妻のところ。でもその関係は、美花ちゃんは彼女にチクれなかった。奥さんも娘もいる、ってことでアッタマきて飛び出したのに、言えなかったという。でもねー、これぐらいの年齢の男性なら、奥さんと子供ぐらいいるの、当然だと思うけど。それに別れてるんだし。日本の女の子はそれぐらいケッペキということ??
それこそジョシュ・ハートネットと寺島しのぶの方が、年齢的には近いもんね。ただ、年若い美花ちゃんと恋仲になっているということ以上に、この年齢まで独身できた、ということこそが、ルーシーを……いや、この場合は節子の方を合わせ鏡のようにして、老け込ませているように思う。

逆のようにも思うけどね。でも結婚や母になった経験をした女性って、なんかすっごい自信を身に着けているとゆーか、そーゆー風に生涯独身女からは見えちゃう。自分を養うことだけできてしまったことは、若いときはラクだけど、ジワジワと、社会的制裁を受けているような重さを感じてしまうのだ。
それを感じ始めるのがまさに、まさに、この節子さんの年代、私の年代、なのだ!!!もう、子供も産めない。そういう価値観で縛るのって大嫌いだけど、日本ってそーゆー国なんだもの!!

……すみません、取り乱してしまいました。でもね、節子がジョン先生に恋しちゃって、美花を探す道中でお姉ちゃんが寝静まった隙にフェラ&カーセックスまでしちゃって、ジョン先生が美花とおそろいで入れたタトゥーまで入れちゃうという、もう狂気の沙汰になってさ、なんてことが刻々と描かれていくと……。
彼女をイタイ女だと言うのはカンタンだよ。ジョン先生にフェラしちゃって、そりゃ男の本能でヤッちゃうじゃない。ジョン先生、メチャ後悔して、もう出て行ってしまった美花に嫌われたくなくて、このことは内緒にしてほしいと言うのに、あー、でも、この場面で、ぜーったい、節子、言っちゃうなと、思った!!

……もう、ルーシーと呼ぶこと出来ないな、やっぱり彼女は最初から最後まで節子だよ。言っちゃうし。信じられない、美花ちゃんに言っちゃうし。
ああでも、それは、美花ちゃんが節子に浴びせた言葉なのだ。悪気はないのだろう、悪気はないだけに許せない美花ちゃんの、天真爛漫なあの発言、「おばちゃんのハグ、強烈だったって言ってたよ」「おばちゃんに嫉妬する訳ないじゃんね」あれは、あれは、あなたが年をとらなきゃ判らないことなの?それともただ単に想像力がないだけなの??

自分から別れたと得意げだったくせに、おばちゃんとジョン先生がセックスし、おばちゃん、二人と同じタトゥー入れちゃってるし、ということで、美花ちゃんはすっかり逆上し、つかみかかるケンカののち、崖から飛び降りてしまう。
そう、ここで、冒頭のホームのあの場面がよみがえるんである。美花ちゃんは死ななかった。顔面が見分けられないほど腫れあがった状態で病院のベッドに横たわっているけれど、話も出来る。でも、今まで、表面上だけかもしれないけれども仲良くしてきたおばちゃんにも、別れたくないと思ってきたジョンにも、部屋を出て行けと、泣いた。

節子は、いやルーシーはジョンに愛を告白したけれど、受け入れられる筈もないのだ。お姉ちゃんからも、縁を切られた。
そして一人、日本に戻って来た節子は会社を辞め、誰一人引き止められることなく辞め、クスリをラムネみたいにかじってかじって……そして、トムに発見されるんである。

どうして、トムは、いや、小森さんは、そんなにも節子を気にしていたのかなあ。息子さんが自殺したのだと彼は言った。そして節子も姪っ子ちゃんを自殺寸前に追い詰めた。似た匂いを、不器用な匂いを感じ取ったのか。
これはファンタジーだ。実際にはジョンのような心ときめく運命の恋(というか、片想い)なんて訪れないし、小森さんのように自分のことを理解してくれる大人の男性になんて、巡り合えない。
ただ、独の部分があまりにリアリティーがあるからこそ、自己嫌悪に陥るぐらい、リアリティーがあるからこそ、このファンタジーを示してくれた救いに感謝したいと思う。
そうじゃなければ、そうじゃなければ、たっくさんいる“ルーシー”は、もう死ぬしかないよ。あるいはトムも、かもしれないけど。★★★☆☆


オボの声
2016年 99分 日本 カラー
監督:齋藤孝 脚本:齋藤孝
撮影:根岸浩太 音楽:
出演:結城貴史 菅田俊 水野美紀 石倉三郎 烏丸せつこ 波岡一喜 田村奏二郎 江藤漢斉 藤井宏之 鈴木舞衣花 青柳弘太 坂東工 小野塚老 石川裕地 笹木彰人 贈人 梅津義孝 宮内勇輝 中山祐太 本村紀子

2018/11/1/木 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
うーむ、困った。こういう作品に対して意味判んないとか言ってしまうのもはばかられるが、それは単に私が理解力ナシのバカなのだろうと思って思い切って言ってしまおう。
意味判んない。この男が1ミリも理解できない。いや、理解なんかできなくて当然かもしれない。人間、他人を理解しようということ自体が間違っているのかもしれない。

共感、という言葉に置き換えると更に難しくなる。1ミリどころか0.1ミリも共感できない。難しいと思う。映画というコンテンツにおいて、どこか一つでもシンクロ出来ないと、あるいは彼が、こういう言い方もイヤだけど改心するとか、何かハッと気づくことがあるとか、他人や親に対しての心持のありようとか。
最初から最後まで彼は仏頂面で、苛立ちを言葉や態度や時には暴力さえも使って周囲に遠慮なくぶつけることしかなく、見ているのがただただ辛くなるばかりなんだもの。

それともそれが目的?人間ってのは所詮こういうものとか?正直言って、彼に恋人がいることすら理解できない。なぜこの男と別れないでいられるのか。
子供が出来て産みたいと思う、それを「まさかガキじゃねぇだろうな、ふざけんなよ」なんて言われたら、さっさと別れて一人で産んで育てなよと思っちゃう。うーむ、そんなこと言ったら映画作品なんて作れないんだろうけど。

脚本が、松田優作賞をとったのだという。脚本だけ読んだらいいのかもしれない(爆)。映画はまず脚本が命とは思うが、やはりそれを役者が演じ、声を拾い、スクリーンというフィルターを通していかにして作品という一つの形にするかである。
オボの声という不思議なタイトルに惹かれたこともあったが、その意味するところも観ている時にはさっぱり判んなかった。レイトで眠かったし(バカ!)、時に台詞がガサガサしたノイズに邪魔されて実に聞き取りづらくて、このオボの声のくだりも、彼がアルバイトするガスボンベ配送の先輩が人殺しだというくだり、その真偽やなぜそうなったのかというのも、単に明確にしなかったのか私が聞き逃したのか(爆)判然としない。

彼は仕事も続かず恋人の妊娠を告げられて怖気づいたのか、苛立つように実家の田舎町に帰ってくる。母親が一人、暮らしている。イイ感じにはすっぱ入ってる放任主義の母親である。
この息子にしてこの母ありという感じもするが、母親しかいない実家に逃げ帰るという時点で、他人と全然相容れない彼がいかに甘えているかが判るし、なのにちょっとひとこと言われると「うるせぇな」うるさいほど言ってないっつーの。茶飲み友達のおっちゃんが訪ねてきているだけで「男引き入れてんじゃねーよ」いい年してマザコンか、お前は。

ほんっとに何で彼が主人公で、こんなザマを延々見せられなきゃいけないのかなぁ。いや、判ってる。そういう弱さを演じ、描写することこそが意味のあることなのだって。
でもそれは、その後に彼がなにがしかの変化をしなければ、それこそ意味のないことだ。それがオボの声であり、ひき逃げを起こして逃げてしまった彼が初めて感じる、外へではなく内への嫌悪ということなのだろうが、そもそもこのオボの声というのがよく判んないし、それに導くような、少々不気味な先輩(というか、おっちゃん)の菅田俊も正直よく判んない。

てゆーか、オボの声に導くように彼を夜の山の中を延々歩かせるシーンは、あまりにも長くて、もう眠くなっちゃう。長い、長い、長いよー。
意味のあるシーンだというのは判る。観客を彼と共に緊張に導くという意図も判る。しかし長すぎる。眠くなる。レイトだということを差し引いても、あのシーンに意味を持たせすぎだと思う。
確かに私はバカな観客だけど、時々こういう、観客を置き去りにする表現に出会うと、それが映画から人を離れさせるんじゃないかなぁと思っちゃう。

忘れてた。重要なファクター。彼は元ボクサーなんである。冒頭、トレーニングをしている彼が過呼吸みたいな感じで倒れ、それ以降は一切ボクシングをしている場面は描かれない。その拳を、苛立った周囲にぶつけるというサイテーな使われ方をするだけで。
逃げ帰った実家で母親から「ボクシングはやめたんだ。良かったんじゃない。あんたは心根が優しいんだから」と言われる。これにも彼はうるせぇと返す。だからうるさいほどしゃべってないって。

心根が優しい?単にヘタレなだけだろう……と観客にツッコませるのはおり込み済みだったのだろうか?なんか微妙な気がする。そもそも彼に共感させたいのか、させたくないのかがよく判らない。
この母親の台詞のところが最もそう感じる。そうか、彼は心根が優しいんだ、だから生きるのに不器用なんだと思わせたいのか。それでボクシングのこぶしを苛立った他人にぶつけさせる?サイテーじゃないか。
ボクサーが怒るよ。これって一番やっちゃいけないことなんでしょ?だからこそ描写させたというのなら、単純すぎる。

彼は自分のことも顧みず、人殺しだと噂される先輩のことを糾弾する。先輩は、そのことに対して特に反論するでもない。
毎日手製のでっかい塩むすびを車の中で頬張る簡単な昼食。自分で作るんスか、と問う彼に、独り身だからな、と軽く返し、お前も独り身?そうだろうな、と言ったセリフが、後に自分もまた人殺しになったかもしれないと愚かなほどに怯える彼に呼応する感じがして皮肉である。

人殺しにさせちゃったら良かったのにとか思っちゃう(爆)。ひき逃げというサイテーの行為をしでかし、自己嫌悪……陥ってたとは思うけど、ただただ怖さから逃げた卑怯者にしか見えない(爆)。人は皆、こんな具合の弱い人間、それを見せる、そういうことなんだろう。でも、でも……。
なんだろう、この共感を阻む感じ。彼がまず、母親に許しを請うように弱さを見せたのがイラッとしたのかもしれない。彼の傍若無人に耐えてきた職場の人たちや、何より恋人ではなく、あー、やっぱりおめー、ただのマザコンだろとか思っちゃう(爆)。

そして自首しに行って、被害者が死んだかもしれない(新聞記事とか、ラジオニュースとかにこそこそビクビクしている)と覚悟していたところが、ケガで済んでて明らかにホッとしている愚かさに、更に心が離れる。こんなヤツには人殺しの烙印を押させろとか思っちゃう私の方が鬼畜(爆)。
そして彼は、どうやらすんなり恋人の元に帰るらしいんだもの。今まで彼女からの着信や「子供をおろすなんて、命を殺すなんてできない」というメッセージにも苛立たし気に黙殺するばかりだったのに、甘すぎるだろ。

てゆーか、女側の描写が甘すぎる。なんていうか……こういうマッチョでマザコンな男はあまりに前時代過ぎる。こんな男を許すほど現代の女は甘くないて……と思うのは、私が前時代過ぎるフェミニズム野郎だからなのか??

まぁ、ただ単に私が、この作品を好きになれないという、それだけのことなのかもしれないけど。★☆☆☆☆


泳ぎすぎた夜 La nuit ou j'ai nage
2017年 79分 日本=フランス カラー
監督:五十嵐耕平 脚本:
撮影:高橋航 音楽:ジェローム・プティ
出演:古川鳳羅 古川蛍姫 古川知里 古川孝 工藤雄志

2018/4/16/月 劇場(渋谷シアターイメージフォーラム)
企画意図や意思は凄く良く判るし、美しい素敵な作品だとは思うんだけれど、いかんせん観ている間タイクツでしょうがなかった……と言ってしまったら、これは単に私の感性不足の問題なんだろうか??でもやはりそこが映画の難しいところだと思う。観客を引っ張り続ける何かがなければやはり難しいと思うのだ。
国境を超えた共同監督の二人が、純白の重たい雪に沈み込む、この世のものとは思えない青森の風景に心惹かれたのは凄くよく判るし、そこを舞台にほっぺたの赤い地元の男の子に冒険させたいと思う気持もすごーくよく判る。そういう時には無駄な台詞はいらないだろうと私だって思うだろうし、そういう映画が観てみたいとも思う。
でも、それで観客を惹きつけ続けて魅了する映画にするためにはかなりの手腕が必要だと思うのだ……。風景も、男の子も、素晴らしいと思う。そのほかに何もいらないと思う。だけど……他に一体、何が必要だったのだろう??

男の子の気持ちが、冒険に出ようと思う男の子の気持ちが、そのきっかけといったものとか、そういうものが見えにくかったからなのかな、という気もしている。
男の子の父親は魚市場に勤めている。当然朝が早い。しんしんと、どころかびょうびょうと雪が降り荒れる朝は真っ暗で、父親はそーっと、物音を立てないようにしながら、それでも子供の可愛い寝顔を覗き、薄暗い明かりをつけた台所で一服吸って、セリ帽を手にして出かけていく。
いつもはぐっすりと寝ていた男の子が目を覚まし、そのまま眠れず、おもちゃで遊んだり、絵を描いたりトイレに行ったり、その後を犬がついて回ったり。

その絵が決め手だったということは確かに判る。お魚を描いた絵を持って、彼は父親の勤める魚市場を目指すのだもの。でもお魚を描いた絵というが、カメとかも描いてるし、魚市場に勤めるお父さんに見せたい、というほどの方向性を感じないというか。
いや、ベタにお魚と働くお父さんを描けというんじゃないけど(爆)。それに、働くお父さんのことは当然、見たことがない訳だしなあ。

そうか、働くお父さんを見たかったとか??そういう風に考えることもできるが、なんせ全編台詞がないこともあり、男の子の気持ちをそこまで斟酌するのはうがちすぎという気もする。
すっかり寝不足で朝を迎えた彼は、朝ごはんの最中もこてんと寝てしまう。お母さんが寝ている彼に身支度をしてやる。雪深い極寒の青森だから、つなぎの防寒ズボンやら厚手の手袋やらなにやら、エベレストにスキーにでも行くような重装備である。
ああでも、青森、劇中、小学生の子供たちが校庭でクロスカントリーに興じている場面が出てくる。青森では授業であるんだよね。クロスカントリーなんていうオシャレな名目は後から知った、あの頃は歩くスキーと言っていたけれど、今でもそうなのかなあ。

夢うつつの男の子がお母さんに人形のように着せられている様は、とても可愛い。ある意味そのまま夢うつつで学校に出かけ、冒険へと方向転換するのだから、これはある意味夢の中の物語と言えるのかもしれない。
始業ベルが鳴り始めて、一度は駆け足になった彼だけれど、なんの前触れもなく角度を変える。大きな雪玉の下からみかんを取り出し、食べる。この備蓄食があったということは、ひょっとして、以前からこの計画を温めていたということなのだろうか??いや、これは単なる子供心の遊び心、だろうか。

そんなこんなしている間に片っぽ手袋を落としたことにも気づかず、彼は駅へと向かう。この手袋を落とした描写は、最初から決まっていたのだろうか。そうとは思えぬものすごいナチュラルさ!落としてしまったから、それを生かして作劇していこうと思ったのだろうか。
冷たい雪の、外気の中を、さらされた片っぽの手にふーふー息を吹きかける男の子の様子は確かに愛しく、最初から決められていたようにも思うのだが。

乗り込んだのは地方の無人駅だから、降りた駅も、降りる人はほぼほぼ一緒だろうから、あっさりスルー出来てしまう。おいおい無賃乗車だぞと思うのは少年の冒険にはヤボである。
当然、魚市場への行き方など知らない彼は、それ以前に車がビュンビュン行き交う街中の(彼が住む場所は、とても静かなところなのだ)道路を渡ることも出来ない。あてもなくぷらぷら歩いて、見せたい絵を取り出したりして、ショッピングモールで用を足したり、階段で眠り込んだり。

……正直、彼に焦りの様子ひとつ見えないことが、先述したタイクツさ加減を産んでいるんだと思うんだけど(爆)。いや、それこそベタな描写だとは思うよ。お父さんに会いたくて、あてどなく歩いて、焦って、ベソをかいて、みたいなのはさ。男の子の単純な好奇心、それだけでいいんだという気も確かにする。
でも、それこそ先述したように、彼の動機やきっかけが希薄で、こちらにイマイチ伝わってこないから、一体彼は何をしたいのか、どうやら魚市場に向かっているらしいけどそれに対する切実な探求心もあまり感じられないし、やはり最低限のドラマを見たいと思う欲求が観客側にはあるからさ……だんだん、集中出来なくなってくるんだよなあ。

夜にはびゅうびゅう降り続いていた雪も、日中はやんでいる。だからこんなにノンビリ出来ているような気もする。青森の冬に青い晴れ間が見えているなんてそれこそ珍しいと思う。しかし、水産会社のトラックを見かけてそれを追いかけ、魚市場までたどり着いた時にはすっかり雪模様になっている。
たどり着いたって、広大な市場でお父さんを探せるわけもない。そもそも学校に行く時間からかなり経っているのだから、朝早く勤めに出かけたお父さんはもう帰ってるんじゃないの??
駐車場には雪に埋もれた車が何台も停めてあるが、買い出し人はそれこそもう帰ってしまっているだろうから、勤め人の人たちのものだろうなあ。

寒さに耐えられなくなったのだろう、車のドアを開かないかとひとつひとつ試してみる彼。あ、危ない。子供じゃなかったらこの行為は相当危ない(爆)。そしてひとつ、鍵のかかってないバンを見つけ、後部座席にもぐりこみ、疲れが出たのだろう、こんこんと眠り込む。
雪が降り出すと……特に青森は雪が降り出すと、本当に時間が判らなくなる。てゆーか、冬の青森は、それこそ半年のもの間、曇天で雪が降り続いて、時間の感覚が狂っている印象である。
だから男の子がもぐりこんだのも、それからどれぐらい時間が経って、車の持ち主が気づかずに乗り込んで発進してしまったのも、そして寝息に気づいたのも、一体何時ごろだったのか、その時間の感覚の狂っている感じ、異世界に放り込まれた感じは雪国、その中でも重たい雪と荒れ狂う津軽海峡に面した異郷の地、青森独特のものだと思う。

車の持ち主のおっちゃんは、男の子に問いただすなんてことはしない。ランドセルの何かから、身元を割り出したのだろう。どこかに電話をかけ、車で自宅まで送り届ける。その時間には彼の姉だけが迎えたということは、この冒険は意外にそれほどの時間は経っていなかったのか。
この日の朝に彼がトイレに行った時、何かを察知したのかまとわりついていた賢そうなワンコロが出迎える。このおっちゃんが、二階の少年の寝どこまで抱いていってくれる。疲れているとはいえ、眠り切ったままでしらないおっちゃんに抱きかかえられる少年、ああ、今の時代、危険すぎる(爆)。
半世紀前までなら、こういう描写に単純に心温まるとか思えただろうが、世の中そうそうイイ人ばかりじゃないんだもん(爆爆)。いや、魚市場の人は、みんないい人に違いないけど!!

まぁベタなドラマなら、送り届けてくれたおっちゃんに恐縮してお礼を言うとか、勝手に学校にも行かずに旅をしちゃった息子を叱責、あるいは心配したのよとか抱きしめて涙を流すとか、あるんだろうけれど、知らない間に冒険に出ちゃって知らない間に帰ってきた息子に、まぁいくらなんでもその事実は知らされているだろうにしても、母親は何にも言わず、疲れて眠り続ける息子を見守るだけ、アノラックや片っぽなくした手袋やらを、洗濯機に放り込む。
彼の姉は、弟の冒険のしるしを残そうとするのか、冷蔵庫にべりべりになったあの絵を貼り付ける。そして母と娘とテレビのメロドラマを眺めて、いつもの一日は過ぎる。

また、朝が来る。洗濯機にかけられた息子の小さな防寒着を部屋の中に干すのは、朝早く出かける父親の役目なんである。すべてを聞いてはいるだろうと思う。でも彼は何も言わず、まぁそりゃ一人なんだからそうそう独り言をベラベラ喋られても困るけど(爆)。
でも、せっかく青森なんだから、津軽弁をちょっとでも、あの愛しい言葉を、スクリーンの中で聞きたかった。もったいない、あんな唯一無二の魅力的な言語はないのに!!せっかく、映画なのに!!!

そして、いつものように真っ暗い雪の降り荒れる中を出かけていく。それでも、息子の顔を眺める時間はいつもより長かったかな。
この、階段の途中にある大きな窓の外、闇の中を雪だけが吹き荒れる様子は、ああこれは、本当に雪国の、そして特に青森の、異世界に連れて行ってくれる特別な眺めだと思う。家の中から眺めているからこそ、余計に。
雪に埋もれる判りやすい風景よりも、こっちこそに作り手たちは惹かれたんじゃないかと思うほど、オープニングとエンディングで挟まれたこの描写が、何よりも印象的だった。★★★☆☆


音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!
2018年 107分 日本 カラー
監督:三木聡 脚本:三木聡
撮影:相馬大輔 音楽:上野耕路
出演:阿部サダヲ 吉岡里帆 千葉雄大 麻生久美子 小峠英二 片山友希 中村優子 池津祥子 森下能幸 岩松了 ふせえり 田中哲司 松尾スズキ PABLO KenKen SATOKO 富澤タク KATARU NABO 清水麻八子 マーガレット廣井 Katzuya Shimizu  Kenzoooooo

2018/11/14/水 劇場(アクアシティお台場ユナイテッドシネマ)
コケた理由を初主演の吉岡里帆嬢のせいばかりにする論調に、ドラマでブレイクした彼女をあれだけちやほや持ち上げてたのに、手のひら返しっつーか、こういう浅はかなところがネットやマスコミのホントイヤなところだよなー、とか思いつつ、足を運ぶかどうしようかはちょっと悩む。
それこそドラマはあまり見ない人なので、彼女がどうこうというのは判らない。多分、ほとんど初見で、こんな論調の作品に出ている彼女を見るということに、少し抵抗を感じたりして……。
でも公開されてほんの数日ぐらいでそんな風に言われるのもどうなのかなぁと思ったし、阿部サダヲがまさにグループ魂の破壊よろしく、いやそれよりも数段アブないカリスマロックスター(というより、ヘビメタというか、パンクというか)になりきりまくって絶叫している映像には心惹かれていたので、なんとか上映終了ギリギリに飛び込んだのであったが。

そうかそうか、そーいやー、私はこの監督さん、初期段階でちょっと苦手意識を持って、その後あんまり作品を観ていないんだったな。オフビートのコメディは、そこに感覚がはまってこないといちいちハズしてしまう。なんか、真顔で見てしまう。
単に私の感覚が悪いのかもしれないが(爆。そうかもしれない……)本作でも、「リアクションが古い!」なしつこいリピテーション、しつこく転げまわる吉岡里帆嬢、突然のフラメンコ、突然の訛り、脱力系笑いというやつなんだと判ってはいるが、そのタイミングにはまれない、というか、ついていけない(爆)。正直、面白くないと思ってしまう(爆爆)。コケたのは、単につまんなかったからじゃないかなぁと思っちゃったり(爆爆爆)。
なんか突然、韓国でクライマックスとかもなんで韓国?絶対ロケーションしてないでしょとかも思っちゃうし、そもそもメインテーマである声帯ドーピングということ自体がピンとこないし、のどに注射とか血をシャワーのように噴き出すとか、まぁ正直引いちゃうし。

つまりこの監督さんは、こんな大メジャーの大公開の、シネコンスタイルの監督さんじゃ、ないんだよね。人気を得たドラマの世界でだって、オフビートスタイルのマニアックで、例えば月9とかいうタイプではなかった筈。これまでだってミニシアターの監督さん、というイメージだったもの。
阿部サダヲまでならそれでも作れただろうが、吉岡嬢を持ってきたら、それは出来なかったのか、それともそもそもそういう野心があったのか、いや製作サイドの話か、それは……。

彼女は初見だけれど、お芝居は達者な女優さんだとは思うけれど、あの阿部サダヲを向こうに回すには、かなり一生懸命、という感じにはやっぱり見えちゃったなぁ。周りが松尾スズキだのふせえりだのじゃぁ、もう、これは……大変だよ。
むしろコメディエンヌとして太刀打ちは出来ないのだから、監督さんとしては別の方法を考えてあげた方が良かったのかもしれない。

正直言うと、彼女のキャラクターというか立ち位置というか、正直かすんじゃうかなぁ、という感じ。声ちっちゃ!!というのがそれほど笑いにならないという、もうスタートからしてツラい。例えばこれが、MCではめちゃめちゃ張り切っていたのに、みたいなギャップがある訳でもなく、そのファッションからたたずまいから、別に声ちっちゃいのが意外じゃないっていうのがさ。
吉岡里帆嬢の可愛らしいルックスから単純にイメージするふんわりしたファッションでギター下げて登場して、声ちっちゃいの、別に意外じゃないんだもん(爆)。

一方の阿部サダヲはもう思いっきり期待通り(笑)。予測を大きく外れもしないあたりが彼らしい(笑笑)。その絶対的な声量でカリスマ的人気を誇る、“絶叫の堕天使”ことシンは、しかし声帯ドーピングによって増強された筋肉が喉自体を圧迫し、それでなくても疑惑を払拭した先でのライブだったのに血を吹いちゃって絶体絶命。
シンにドーピングを強要した事務所の社長(田中哲司)やら、レコード会社の担当(千葉雄大)やらが、シンのことを心配しているような顔をして実は……みたいな暗躍をたっぷり見せてくれて、これは見ごたえがある。なんつっても田中哲司の金色ビキニパンツいっちょ!!それでパンイチの千葉雄大といちゃいちゃ!!!!うおー!!!
千葉雄大がシンのスキャンダルを拡散させた女の子とあられもない姿でイチャイチャするシーンでもうどうしよー!!とか思っていたが(萌えすぎ……)、田中哲司の金色ビキニは衝撃的すぎる!あの鍛えてない腹が最高!!

……違うところで興奮しすぎ。で、まぁ、シンは追われる形でなんでかふうかと出会って、事故った彼を病院に担ぎ込むも、そこから彼は姿を消してしまって、しかし再会して……という、いわば奇跡的なことの連続。
ないわ、と思うが、金髪片目黒眼帯の女医、麻生久美子のパンクな美しさが素敵だったから許してやろう(??)。
シンがふうかの声の小ささ、自信のなさになんであんなに執着するのか、それは後から考えれば、自分自身の声が作られたものだったからなのか。そもそもシンは美しいテノール(というより、ボーイソプラノのようにさえ、聞こえた)の持ち主で、それをドーピングによって絶叫カリスマロックスターに生まれ変わった。

彼には妹がいて、母子家庭で、借金まみれで、歌うことが大好きなのに借金取りに見つかるから歌えなくて、ていう過去が後に挿入されるのだが、この愛する妹が改めて登場する訳でもなく、ついには借金取りを殺してしまった母親と、その後の子供たちがどうなったかを明示する訳でもなく、彼の歌声を拾ってくれたロックバンドとの出会いはあるにしても、その後どうやってシンがカリスマスターに上り詰めていったのかが、全然判んないんだよね。
それこそメンバーとのどうこうも全くナシだしさ。そらまぁ、脱力系コメディにそんな緻密な描写は必要ないのかもしれんが、でも結構なシリアス回想場面を挟んどいてさ、という気落ちもあるし、シネコンでかかるって話になると、意外にそーゆーことも大事になってくるのかもしれん……。だって案外と尺長いし(爆)。韓国になってからが、長かったなぁ。

そう、なんで韓国、だったんだろう。いや、これがさ、ロケーションもバッチリ韓国で、韓国全面協力!!とかいうんなら判るんだけど、ラストクレジットで見る限り、そういう訳ではないっぽい、じゃない??
声帯ドーピングは韓国が本場だの、シンが刑務所に入れられて、花火工場で暴れまくったからテロリストの疑いありということであっても、監視員から銃を向けられて危うく、なんていうシーンがあったりしてさ、いいのかな、これって対韓的にさー??とか心配になっちゃうよ。

ふうかは父親が花火の技術者だかそういう会社だったのか、とにかくこの花火工場ではお嬢様的に大歓迎されて、子供の頃一定期間ここで暮らしていたという彼女は韓国語もペラペラ。そ、そんな、突然すぎねーか!シンの声帯の手術が韓国でなら可能、と聞いた時にはハッとした顔さえ見せなかったじゃないの。
実は、みたいなことすらなく、対馬からならすぐ入れるだろ、みたいなノリで行って、いやー、実は私、韓国に知り合いがいてさ、みたいな展開で、なんだそりゃ!だわよ。いやこれがさ、それこそ脱力系なんだそりゃで押すなら判るんだよ。そんな都合よく韓国にコネがあるのかよ!!みたいなさ。ないじゃない。ツッコむ気も起らないじゃない。え??これって失敗パターン??

日本からの追手やら、韓国側の警察やらで韓国に入ってからがまさにクライマックスで花火バチバチ、バイクぶっとばしのアクションシーンも満載なのだが、そんな具合でイマイチ感情移入できない。
その間に、ふうかに絶叫を叩き込み、護送されるシンと車の窓越しの長々チューなんてオドロキのラブシーンもあり(……そんな、ラブな感じはなかったやんか……同志みたいな雰囲気は産まれたけどさ)、ふと気づくと何年か経って、ふうかは、あの声のちいちゃかったふうかは、絶叫の歌姫として人気アーティストになっている。

今も韓国の刑務所にいるシンに聞かせたいと、ふうかは対馬でのライブを敢行する。恐らく相当トレーニングした吉岡里帆嬢の、見事にソウルフルな歌声に圧倒される。
ちゃっかり千葉雄大君演じる坂口は彼女の担当になっていて、まぁ彼も、シンのことは好きだったんだろう、スキャンダルを拡散させたりしたのは、なんつーか、彼の性癖みたいな感じ??そんな雰囲気を童顔だけどもう大人で、田中哲司相手にパンイチでエロエロしちゃう千葉君は充分に感じさせ、いやー、面白い面白い。

これがイマイチヒットしなかった理由は、決して決して、吉岡嬢にあった訳じゃないよ。どこにあったかって??それはさ……言いづらいなあ(充分言いまくってた?)。
なんつーか、作り手の、これ面白いだろ、みたいな独りよがりを、私は感じてしまった。そして長かった。それが理由ではないとは思うけれど。★★☆☆☆


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