home!

「わ」


2018年鑑賞作品

若おかみは小学生!
2018年 94分 日本 カラー
監督:高坂希太郎 脚本:吉田玲子
撮影:加藤道哉 音楽:鈴木慶一
声の出演:小林星蘭 水樹奈々 松田颯水 薬丸裕英 鈴木杏樹 ホラン千秋 設楽統 山寺宏一 遠藤璃菜 小桜エツコ 一龍斎春水 一龍斎貞友 てらそままさき 小松未可子 花澤香菜 田中誠人 折笠富美子


2018/11/5/月 劇場(新宿バルト9)
今年は何だか、口コミ大ヒットの年なのね、いや、もう今はそういう時代なのかもしれない。一億総批評家時代、もはや他人の評価より、自分たちで評価を広めていく時代ということなのか。
それにしても、外見的には児童アニメ、原作は児童文学だというんだから、このシビアな世界観にちょっと驚いてしまう。顔の半分も目があるキャラクターの見た目といい、子供向け雰囲気満載なのだが、そもそも、思い返してみれば、読書好きの子供たちは皆最初、児童文学からそのスタートを切っているのであり(やはり、そこに絵本は入らないと思う)、今から思えばただのひとつも、子供だましの“児童文学”などというものはなかったのだ。
やはり同じように様々な事情を抱え、それでも仲間たちと共に明るく成長していく姿が、そこにはあったのだ。書き手の大人が、子供たちに何かを伝えようと真剣になる時、それはこんな風に時に大人の気持ちさえも深く揺さぶる。それはやはり……このおっこが、つまり子供たちが、大人たちよりはるかに真剣に人生を生きているからだろうと思ったり。

なんかね、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を思い出してしまった。辛い辛いことがあるイングマル少年なんだけど、それでも自分は幸せなんだといじらしく思い、そして哀しいことがあっても楽しい時は、100%楽しい。
例えばおっこが友達と美味しいものを食べに行く時なんて、彼女の頭の中には両親が死んでしまったことなどかけらもないに違いない。子供の素晴らしさは、そういうところにあるのだと、「マイライフ……」を観た時、まだ今よりずっと子供に近かった私は実感を持ってそう思ったし、きっとおっこもそうなのだ。
後半、その記憶が濃厚によみがえっておっこを苦しめ、観客も滂沱の涙を流すハメ?になるのだけれど、中盤までのおっこは、ちょっと拍子抜けするぐらい素直に自然に明るい。無理をしているという感じはない。そこが、イヤな芝居臭さがなくて、いいなと思う。

なんかとりとめもなくスタートしてしまったが、監督さんの名前に見覚え、どころじゃなく、ずっとこの名前は憶えてて、だって大泉先生が多分、声優としては初の主役、だよね?声優としてだけじゃなく、中央でも人気が出始めた頃の初主役ぐらいな感じで、当時ものすっごく盛り上がったことを覚えている。ローソンでオリジナルビールを買って飲まずに飾ったりしてたな(爆)。
そもそもあの時からジブリのイメージはなかったので、ジブリ出身というのがなんか意外な感じがした。それに前作の「茄子」は完全なる大人向け作品で、中編という尺も不思議な感じだった。あれ以来の監督作品というのは驚きだが、チャンスを得るというのはそれだけ難しいということなのかなぁ。
それとも裏方の方が合っているとか??判らないけど……本作はテレビシリーズが先にあったということだから、そこでの実績で打って出た、口コミからだとしてもこのクリーンヒットは、充分予想出来たものなのかもしれない。

おっこは突然、両親を亡くした。いかにも優し気で、娘のおっこが照れちゃうぐらい、仲がいい両親。突然の交通事故だった。反対車線から目の前に飛んできたトラックから、暗転する。
おっこだけが助かった。それは……おっこだけに見える不思議な少年、てか幽霊、が助けてくれたのかも、しれなかった。

この少年、ウリ坊のみならず、この温泉街イチの大きな旅館の一人娘、の姉である美陽もまた幽霊であり、幽霊でなく古い鈴に宿る小鬼までもがおっこの目にだけ見える。
ウリ坊はおっこが一度死に近づいたから見えるんじゃないかと言ったけど、それもあるかもしれないけど、やはりこの世に出てきて間もない存在である子供には、いろんな能力が備わっているのは、古今東西言われていることには違いないのだ。
じきに、段々、見えなくなるだろうと小鬼が冷静に言うまでもなく、それは予測できたし、その哀しい別れを予感して、勝手に最初から哀しくなっちゃったりも、したのだが。

両親を亡くしたおっこは、温泉街でアットホームな宿を切り盛りする祖母の元に身を寄せる。見るからに厳しそうだが、そもそも親しく行き来していたのが良く感じられ、若おかみとなる前からおっこは挨拶や礼儀作法もビックリするほどしっかりしている。ウリ坊から「厳しいけど、尊敬しているんやろ」と言われて、嬉しそうにうなずくのが、凄くよく伝わるんである。
生前の両親がちらりとしていた会話から、娘の方のおばあちゃんと思われるが、この仲の良い夫婦は何度となくここを訪れていたんだろう。「おかあさんに挨拶できなかったな」「しょうがないわ、今日は満室だったから」
盆暮れとかのたまの挨拶だったら、満室だろうがなんだろうが、ムリクリ挨拶だけはするだろう。そういうあれこれがじんわり感じ取れるのが、作品を通じてなんだけど、素晴らしんだよなあ。

ところでこのウリ坊というのは、おっこの祖母の幼馴染である。彼女と遊んだ幼い頃はこの場所ですらなかったのに、まさに時空を超えて彼女を見守っているんである。
初恋、というのも越えた、なんていうか、運命の友情で、子供の頃のアルバムを繰りながらおっこに話すおばあちゃんが、楽しかったあの頃、を何の曇りもなく覚えているのがグッとくるんである。

そしてもう一人の幽霊は、美陽。おっこのクラスメイトで温泉街一の大型旅館の一人娘、真月。通称ピンふり。つまりピンクのふりふりである。クラスからも浮きまくっていて、最初からおっこを目の敵にするのだが、おっこは天然なのか、まぁウリ坊や美陽がちょっと手を出したこともあって、直截に彼女にものを言っちゃって、クラス中が凍りついちゃう。
でもそれでおっこはすっかりクラスに溶け込むも、意外なのは、このピンふり嬢が決して嫌われ者という訳ではなく、努力家で成績もトップクラスであるということは皆が認めるところである、というところなんである。
こういうあたりに若干の大人の導きを感じなくもないが(爆)、ただこの後、おっこは彼女としっかりとぶつかり合いながら、ケンカもしながら、助けも借りながら、信頼を深めていくんだから、もう言うことナシなんである。

何よりね、このタイトルからはさ、なんつーかやっぱり、お遊びと言ったらあんまりだけど、所詮小学生が若女将になれる訳ないっしょ、そこはやっぱり、子供向けだから!!ていう気持があった訳さね。とーんでもないとんでもないの!!おっこはまさしく若女将としての自覚を持って、一つ一つ学んでいき、お客様に接していくんである。
つまり、大人は基本、子供を見くびっているのだ。このおっこの造形は決してムリがあるものではない。だって彼女は時には子供らしく客に憤ったりもしておばあちゃんにたしなめられもするし、宿泊客に可愛がられて洋服を買ってもらったり、過去の記憶がフラッシュバックしてその場を泣きながら走り去ったりもするし。
でもでもおっこは驚くほどしっかり若女将であり、腎臓が悪いお客が食べられる料理のヒントを得るためにライバル旅館に走ったり、自ら厨房に立ってデザートを作ったりさえし、少なくとも夏休みの間中は、私も若女将として頑張らなきゃ!!とびしっと和服を着て張り切るんだから、尋常じゃない。

も、というのは、勿論、ピンふりこと真月の存在があるからであり、登場シーンこそうっわこの子やべ、キャンディキャンディのイライザみたい、とか思ったが(爆)、凄く、素晴らしい子なんだよね。
そして彼女も実は、亡き姉の声だけを、聴いた記憶がある。おっこのように姿までは見てないまでも、やはり彼女もまた、この世ではないところに近かった幼き頃、ずっと彼女を見守って来た姉の声だけを聞いていたのだ。

その話を彼女がおっこに打ち明けるのは、この温泉地の由緒ある神事の舞に二人が抜擢され、その本番の前に二人でいかにも神聖な川水の中に身を沈めている時、なんである。
そもそも本作はこの舞のシーンから始まっており、おっこの母親は私も舞うのに憧れていたと言い、非常に日本的で神的なこのシーンから始まる物語が、幽霊や小鬼をすんなり飲み込んでいくのは、本当に自然な流れだし、国際的にも高い評価を得たというのも、実によく判るなー!!と思うんである。

そもそもの原作が長くシリーズを重ねているということもあり、様々な宿泊客とのエピソードがオムニバスのような連なりも見せるのだが、決して断絶は感じさせない。その根底にはこの神様がいるんだろうなぁと感じさせる。
その折り重なるエピソードの中で、母親を失って弱った上にワガママになってしまったちょっと美少年におっこは頬を染めながらも彼を叱咤し、神秘的な占い師の美女とお互いの苦しみを分かち合って年齢を超えた親友になり、ついにはあの事故の当事者と出会ってしまうに至り……。
いつのまにやらおっこが小学生だということや、これが児童文学であることを忘れてしまう。彼女の苦しみ、いじらしさ、何より前向きさに、涙が止まらなくなる。

彼女を支えるこの小さな旅館の数少ないスタッフ、仲居さんと板前さんもおっこをしっかりと、若女将として見守っているのが何より素晴らしいのだ。きっと、もっともっと昔の時代は、跡取りとなる子供たちは、こんな風に、子供でありながら子供ではなかったんだと思う。
もしかしたら原作者さんは、そういうのもよみがえらせたかったのかな。そして子供たち自身もまた、充分にそういう能力と自我があるんだということを、児童文学という素晴らしいジャンル文学を経て、成長していくんだと思うなあ。★★★★☆


わたしたちの家
2017年 80分 日本 カラー
監督:清原惟 脚本:清原惟 加藤法子
撮影:千田瞭太 音楽:杉本佳一
出演:河西和香 安野由記子 大沢まりを 藤原芽生 菊沢将憲 古屋利雄 吉田明花音 北村海歩 平川玲奈 大石貴也 小田篤 律子 伏見陵 タカラマハヤ

2018/1/21/日 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
えーっ、これはどういうことなの??最終的に“こういうこと”という決着をみるもんだと思って待っていたら、みなかった。それにも衝撃を受けた。
いつでも判りやすい映画、決着をみる映画、いい意味でも悪い意味でも“観客に優しい映画”を当然のことのように待っている自分にも気づかされたし、これは決着をみなくて当然、だとも思ったし。

監督さんが師事していた黒沢清監督が激賞したというのが、ものすごく判る気がする。いかにも黒沢監督好み。幽霊じゃないけど、幽霊のような。暗闇から何かが出てきそうな。スクリーンの隅っこに何かが潜んでいそうな。
舞台は一つの家。凄く独特な作りの家。入り口はドアじゃなくてシャッター。その内側に透明ビニールのアコーディオンカーテン。入ってすぐ覗けるところに畳敷きの茶の間があって、その奥に土間に降りるような形で台所がある。
茶の間のすぐ横手から二階への急な階段がある。この階段が凄く、効いてるのだ。この先には何があるのか、見たくない、出てきそう、そんな予感がして。

こういう階段は、祖母の家にあった。昔はこんな風に急な階段の上に暗い部屋が潜んでいるみたいな、そんな家が多かった気がする。子供にとってはそれがちょっとしたホラーというかミステリーのような。
ほとんどがこの茶の間にフィックスして動かないのも、二階のミステリをふくらませる。
まず登場するのは母と娘の二人暮らし。多感な中学生の娘、ちょっとイイ人が出来たシングルマザー。娘のセリが寒々とした海岸で友達と寒そうに肩を触れ合わせ、歩きながら交わすなんてことない会話に、その多感さがにじみ出る。
タイトル通り一軒の家が主な舞台になってはいるけれど、この海が、二つの世界をちょっとぞっとするような線でつなぎ合わせている。

二つの世界、そう、もう一つの世界があるのだ。世界というか、人間というか。同じ家に一人暮らしの透子、そこに迷い込んでくる記憶をなくした女性、さな。
彼女たちが出会うのがフェリーの上。フェリーで目覚めた時、さなは何故ここに自分がいるのか、そもそも自分が誰なのかさえ、すべての記憶を失っている。

暗い海をひたひたと走るフェリーにさながなぜ乗っていたかも、記憶を失っているんだから当然判らないのだが、透子がなぜ乗り合わせていたのかの方が謎なのだ。
彼女が何の仕事をしているのかもよく判らないし、子供服の修繕を請け負っているのも、何か秘密が隠されているのではないかと、後にさなは不審を抱く。脅しの電話や、仲間とこっそり秘密のデータを受け渡す場面があったりする。

この二つの世界、というか、人間、というか、である。同じ家で進行し、彼らは時々、お互いの気配のような、ささやきのようなものを聞く。
いや、彼らは、ではない。セリとさなだけが、その気配や声を感じるんである。そして観客である私たちは、それを一体何が起こっているのだろうとゾクゾク、ハラハラしながらながめることになるのだ。

さなはもらったのか誰かにあげるのか判らない、大きなプレゼントの箱を持っている。セリは劇中で、誕生日パーティーが開かれる。この不思議な二つの世界は最後の最後、ひどく接近し合って、さなが持っていたプレゼントの箱がセリの世界に紛れ込む。
さなも開けようと思いつつ躊躇していたその中身は、セリが開けてみる直前でブラックアウトする。それがラストである。そこで何かがスパークするのかと、とにかく何かの決着をみると、この物語がどういうことなのかが判るのだと思っていたから、このラストには衝撃を受ける。

いきなりラストのことを言ってしまったけれど……、この二つの世界が同時進行することの不思議さと不気味さに、絶えず緊張感を強いられるからなのだ。そこに意味を求めたいと思ってしまうからなのだ。
お互いの世界の気配を感じ合うセリとさな、特にさなが記憶を失っているということもあって、さなはセリのなにがしか関係のある人間なんじゃないかとか、“判りやすい”決着をついつい探してしまうのだ。結果的にはそんなことは何の意味もないのに。

さなとセリだけが、と言ってしまったが、透子はそれを判っていたような感じが凄くする。というか、セリはその世界のことを知っていて、この家に住んでいる、というか……。
透子がこの家にずっと昔から住み続けている感じがしないのだ。国家級の秘密を握っているスパイのような、謎めいた動きをしている透子は、この家を拠点にしている、そしてさなとフェリーで出会ったのも当然というか、待っていた、そんな感じがするのだ。

先述のようにそれが何なのか、どういうことなのかなんてことは明らかにされない。ただ謎めいた空気を残すだけだ。セリ側の世界、透子とさな側の世界、どちらが本物とか、あるいはどちらかが幽霊なのかもとか、そんなことも全然判らない。
単純な価値観で浮かぶのはパラレルワールドだけれど、同じ人間が違う運命をたどるという意味でのパラレルワールドと、まずその点で決定的に違っている。同じ場所ということこそが、すべてのかぎを握っているんである。

しかもそれは、ただ一軒の家のみ、その他の場所……海岸や、喫茶店や、さびれた商店街では、彼らはその気配をちらとも共有しないのだ。家だけが、一軒の家だけが、磁場のように二つの世界をつなぐ。すれ違いそうで、触れそうで、まじわらない。
声を聞いて気配を感じて、障子にぶすりと穴をあけてみたりするセリ、その穴に気づくせな、お互いがその穴からあちらとこちらを覗いてみる。うわわわわ、ゾッとする。なんてスリリングなんだろう!!

せなは記憶をなくした女性で、街中で自分を知っている、あるいは自分とソックリの人を知っている男性と出会ったり、異世界への扉へのかぎを持っている感がアリアリだが、セリの方はごく普通の中学生である。
ただ、中学生という、アンテナがビンビンに張っている時期、好きな男の子とか付き合うとか、そんなことをいよいよヴィヴィットに友達と話したりする時期、そんな時期にお母さんに恋人が出来ちゃったりして……なぁんか、こういう時期の、こういう環境に置かれた女の子が、異世界へのアンテナに敏感に触れるっていうのが、凄く判っちゃう、気がしちゃうのだ。

友だちと洋服のとっかえっこをして、お母さんのなのかメイクをしたりして。お母さんと恋人君の後をつけてみたり、おませなことをする。
ただ、その後がちょっとゾッとする展開が待っている。セリは明らかに違う世界の気配を感じる。その時のセリは、鏡に向かってクレンジングで化粧を落としている。アイメイクが真っ黒に目の周りに溶けた状態で、鏡とスクリーンに同時に映るセリ、溶ける夕闇。
あぁ、まさに、黒沢清好みのぞくりとする構図であり、その後帰宅した母親の前にそんなゾッとする顔で妙に着飾った娘がぼんやりとたたずんで、「幽霊がいる」とつぶやくのに、その娘の姿こそにゾクリとするのがね!

この場面は本作の中で最も象徴的な気がするのだ。少女というアンテナの張った時期、大人への階段をのぼりかけている時期、でもそれを拒否もしたい時期……「今日、お母さんと一緒に寝る?」と問われてコクリとうなずいたセリは確かにまだ子供なのだ。
だけどだけど……この悪寒のような予感めいたものはどうだ。誕生日パーティーに来てくれたお母さんの恋人に赤ワインをそそぎ、そこにタバスコを仕込む、少女らしいイタズラと言えばそうだが、赤ワインの血の色、恋人という存在が何を意味しているのか、中学生という第二次性徴の時期……考え過ぎ、そうかもしれない。そうだろう。でも、でも……。

透子とせなは不思議な友情が芽生える。まるで女学生のように♪やぎさんも〜と歌い合ってじゃれ合ったりする。「こんなに楽しいのは初めて」と、記憶のない筈のせなは口にしたりする。透子は「歌を覚えているんだから、覚えていることもあるんだよ」と言った。
そのくせ、せなが記憶を取り戻すことにさして積極的ではない。せなを迎えた最初から、「ずっといていいんだよ」と言う。まるで、せなが記憶を取り戻すことはないかのように。そのことを最初から知っているかのように。あるいは……せなは最初から記憶など持っていないことを知っているかのように……!!

記憶のないせなはあやふやな履歴書を持って喫茶店のアルバイト面接に臨むが、不審がられて不採用、そこに常連めいた顔でいた男と親しくなる。つまり、せなのことを知っていると。
ソックリな人だったかと彼は言うが、せなの方に記憶がないのだから、むしろそうやってあっさり引き下がった彼の方に不気味さを感じるんである。
楽し気に深夜の散歩を楽しむ透子とせなを商店街の奥の方からひたひたとつけてくる彼にゾッとするし、あくまで親し気な風を崩さずに家に乗り込み、透子から糾弾されてもひるまない、電気が切れて暗闇の中いつの間にか二階に上がって何かを物色している。ブキミ、ブキミ!!

でもこの場面は……不思議に魅力的なのだ。暗闇の中、せなと透子はお互いを探り合う。どこにいるの、ここにいるよ。顔を手で触れ、さすり、確認する。何かそれが……恋人同士みたいで。
その瞬間、彼女たち二人だけの世界になった気がして。怪しげな男も何もかも関係なくなって、二人だけの世界になった気がして。

母親の再婚話に、セリは子供らしい反発心で、「じゃんけんして、負けた方が家を出て行く。はいジャーンケン!」と挑みかかる。その前に、「お父さんはどうするの?」なんてことを言ったセリに胸が詰まる。お父さんとの最後の思い出、それっきりしまい込んでいたクリスマスツリーを、お母さんと恋人の仲が決定的になった時、セリはわざわざ引っ張り出してきたのだ。
電飾が壊れてつかないそれを抱えて自転車で山奥まで分け入っていくセリ、街が一望に見渡せる場所で地面にコンセントを差し込んだら、きれいに電飾がつく奇跡。
明らかにファンタジーなのに、これまでの不思議不気味感覚にヤラれて、すんなりステキだと思っちゃう。そしてセリは異世界からのプレゼントを受け取り、その中身は……判らない、判らないの!!

なんて不思議な、不気味な、そして魅力的な。ホラーのようで、ミステリのようで。しかもその中に青春と親子関係と友情とが詰まってる。そのどれかだけでもいいのに!!
突然の停電、窓の外が暗くなって開かない扉、何もない空間から飛んでくる花瓶、ずっとずっと漂い続けるさやさやと聞こえる声、気配……。映画的、そんな使い古された言葉が、新鮮な意味で久々に思い起こされた。 ★★★★☆


私は絶対許さない
2018年 119分 日本 カラー
監督:和田秀樹 脚本:黒沢久子
撮影:高間賢治 音楽:三枝成彰
出演:平塚千瑛 西川可奈子 美保純 友川カズキ 白川和子 吉澤健 三上寛 原奈津子 立山咲里 奥野瑛太 川瀬陽太 南美希子 児島美ゆき 東てる美 隆大介 佐野史郎 草野イニ 小林竜樹 高尾勇次 高橋卓郎 飯島大介 栩野幸知 卯水咲流 岩間天嗣 安部智凛 椋田涼 川手淳平 吉田祐健 折原みか

2018/4/22/日 劇場(テアトル新宿/モーニング)
主人公の目線でのカメラワークで撮っているというのは何かの記事で読んでいて知っていたのだけれど、想像以上にグラグラのカメラに早々の段階でゲロゲロに酔ってしまい、頭を叩きながら観ている始末。うーん、意図は判るんだけれど、何も全編でなくても良かったような。
それに意図は判るけど、それがどれほどの意味を成しているのかなという疑問も残る。輪姦シーンで襲われている感じをリアルに表すために、というのはまぁ判る。この恐ろしさは、経験してなくてもそれを想像できる女でなければ判らないであろうと思えば、加害者となる男性にその怖さを疑似体験してもらうためには、必要なのかもと思う。

それでも勿論、100%主観カメラという訳には行かず、例えばコトがいったん中断した時にハダカで呆然としている少女が映しだされるカットはある訳だし、そういう構成はやっぱり最低限、必要なのだもの。
そして“もう一人の私”をまるで幽体離脱したかのように高みから眺める少女の存在もまた、完全主観がやはり不可能であることを露呈しているような気もする。レイプされている時に外から眺める客観的視線なんて、持ち得ないと思うのだが。

とにかく、これはそんな辛い物語なんである。元旦、東北の片田舎、無人駅で母親の迎えを待っていた15歳の葉子。突然、若い男たちに車に連れ込まれ、一軒家のきったない部屋に連れ込まれ、次々と輪姦される。
しかも“二回戦”ににまで及ぶ。男たちが疲れて眠りこけたところでほうほうのていで逃げ出す。誰も踏み入っていないような純白の雪原に、足の間から滴り落ちた血が点々と跡を残す。

散々殴られたから顔も腫れあがり、駅で偶然出くわした同級生に驚かれる。もうこの時点で、いくら言いつくろったって、感受性の強いお年頃、バレバレだっただろう。
絶対に許容できないことだけれど、昔は特に、今もどこかで、レイプされるのは女側に隙があるからとか、レイプされた女に対する侮蔑感情とか、ある訳で、それは……言いたかないけどそれこそ雪に閉ざされた東北という保守的な地方には、ちょっと強く感じる部分も、なくはないんである。そんなこと、明確に口に出しはしないけどさ。

フラフラになって家に帰る。迎える母親は心配しているどころか、自分が脱輪して遭難しそうだったと娘をなじる。そして父親に至っては……この不良娘!!といきなり殴り飛ばすんである。
うっそうそ、娘を殴るってかい。しかもこんな、“暴力受けてきました”という顔で帰ってきたのに。無断外泊したんだから仕方ない、それもしつけだ、という周囲の空気も先述したような東北の保守性を感じるが、それにしても随分な時代錯誤……。

いやこれは、現代の物語ではなく、“事実を元にした”大人になって、看護師しながらSM女王様やっているというスゴイ経歴の持ち主の葉子さんが綴った手記によるものなのだ。携帯もない時代。それでも私よりずっと若い。
援助交際なんてものは私がすっかり働き疲れてしまった年代になってから産まれたものだった。それでも、20年は前なのかと思うと、なんというか、感慨深い。

宣伝的にもそうだし、一応本作の主題としても、タイトルからしても、あの輪姦した男たちを絶対に許さないんだと、一度は絶望して自殺しかけたけれど、死ぬべきはあいつたちなんだと、私はどうせ一度死んだのだから(自殺しかけたということじゃなくて、レイプが心の殺人だというのは、今や常識的な考え方だ)と、その男たちの名前をことあるごとに呪術のように唱えて彼女は生き延びる。ヤリマンだと後ろ指をさされてイジメに遭っても。

だから、結局は彼らに対して何も出来なかったことに不満というより、拍子抜けの感は残るんである。仕方ない、これは“事実”なんだから。輪姦からスタートして、勿論それが彼女の人生を狂わせ、その後の人生をどう決定していくかの、ある意味礎にさえなってしまったということなのだが、つまりはそういうことなのだ。
これは一人の女性の半生記なんである。レイプの残酷さ、それへの復讐、鉄槌が主題じゃなくって、だって出来ないんだもの。明るみに出ないだけで、レイプ、輪姦された経験を言えずに、その犯罪を明るみに出せずに、自分の方を責めて生きて来た女性たちはきっときっと、たくさん隠れているに違いないのだ。
そうした女性たちだって、復讐なんてようしない。出来ない。心の中で何度も殺したって、出来ない。これこそが現実ということなんだろうけれど。

でも、タイトルから、期待しちゃうじゃない。許さない、その結果を期待しちゃう。カタルシスを。鉄槌を。ふと「リップスティック」を思い出す。もうずいぶんと、古い映画。恐らく私が初めてレイプをテーマにした映画に遭遇したものだと思う。あれぞまさにカタルシスだった。そんな男は死ねばいい、死ぬしかない。それしかないと思った。
でも現実には、そんなことは出来ないのだ。生きていくしかなく、葉子はとにかくこの町から出ることだけを目指して生きていく。輪姦の後、もうヤケになったということなのか、あまりにもアッサリとヤクザ男と援助交際に発展するのにはアゼンだが、腹を据えた女というのは、年若くてもそういうものなのか。

このヤクザ男を演じる隆大介は困ったことにとても魅力的なのだ。そもそも彼だって、周囲と同じく、葉子がレイプされたことを、それこそいち早く知っていたに違いないのだ。
彼はレイプ魔たちのうちの一人の母親の恋人。処女だったであろう葉子の、セックスへのトラウマをほぐすように優しく導く、でもインポテンツ男。気持ちよくなんかない、とモノローグしながら声を上げる15歳の少女の姿は、このいきなりの展開ぶりも含めてなかなかに許容しづらいものを感じるのだが、いかんせん、15歳で輪姦される経験なんて当然ないからなぁ。

いや、それ以上に彼女を苦しめたのは、冷たい両親からの仕打ちであり、むしろ葉子さんが復讐したかったのは、この親たちに対してじゃないか、絶対にそうだと思っちゃうんである。それは悲しいことである。実際に確実に犯罪を犯した、心を殺した男たちよりも、憎んでいるのはきっと両親の方、だなんて。
彼女だけじゃなく、幼い弟と妹も理不尽なまでに暴力的な“しつけ”を強いられている場面が現れる。少なくとも彼らにとっては、お姉ちゃんの存在は少しはよりどころになっていたんじゃないかと思われる。朝帰りのお姉ちゃんをいさんで出迎えた場面でそうじゃないかと思われる。

でも少なくとも劇中、葉子が弟妹のことに少しでも心を寄せる場面はない。ちょっとそれが、残念というか不自然にも思われるんである。彼女はただただ自分一人だけがひどい仕打ちを受けているような感じで、ここから出て行くために、ヤクザとのエンコウの稼ぎをタタミの下に蓄えていく。
タタミの下って(爆)。時代劇みたいなことホントにやったのかぁ。いつか見つかるんじゃないかって、すんごくハラハラする。

望み叶って彼女は東京に出てくる。稼いだ金でさっそく整形手術をする。すっかり、別人の風貌になっちゃうんである。地味ないでたちはしていたけれど、もともとべっぴんさんと言われていた彼女なんだけれど、整形したら、なんか外国人女性みたいになっちゃう。
だからここからは当然、キャストもバトンタッチである。声まで変わるか、と思うが、ダブルキャストなんだから仕方ない……でも母親との電話シーンとかでどうなのかなぁ、とかは思っちゃうけど。

困ったことに、キャストをバトンタッチしちゃったら、ガクリと演技力が落ちるんである。輪姦シーンという、壮絶な場面を任された西川可奈子嬢はその点、さすがの実力だった訳なんである。大学生になってからも主観カメラは変わらず、あまり彼女自身が正面から映される場面はないのだが、声だけでもやっぱり演技力の差というのは出るからさ……。

大学生になり、おっぱいパブでバイトし始めた彼女は、とある会社社長と出会い、見初められる。愛人関係、になるまでには少々時間があり、だからこそ葉子は誠実な彼を信用し、愛したのだけれど、結婚してからの彼は、彼女に豪華なお持ち帰り食材を、まさにブタのように食わせ続けるだけで、なんてゆーか、女を飼育することにこそ満足を得ているような、セックスもそうだし。
そもそも葉子が意を決して過去を告白した時、「それは君がレイプされるほどに魅力的だったということじゃないかな」という台詞を吐いたから、あぁ、もうこの男はダメだと思った。どうやら葉子ちゃんはその台詞にカンドーしたらしいが、ほんとかよと思う。

いや、判らない。それが救いの言葉だと本当に彼女は思ったのかもしれない。正直、この台詞に後になっても何も突っ込まれることがなかったので、かなり不満が残る。
だからこれは、レイプに対する復讐劇の物語ではなく、数奇な人生を送りながらも、すべてを乗り越えて今がある女性の、いわば成功譚なのだよね。不満というほど強いものじゃないけど、なんか違う、なんか違うと思うのはそこかなぁ。勿論、強く生きていけるのは素晴らしい。素晴らしいのだが……。

結果、いわば彼の資金力をエサにして、葉子は幼いころからの夢だった看護師の夢を実現し、その後離婚。ボランティアの介護施設で老人からレイプされかけるというエピソードもさらりと流すあたり、まぁそういうこともあるよネという感じに思えたり、なんかところどころにそういう不満が残っちゃう。
だって結局、彼女は自分の力で乗り越えられたんだもの、という、そんな経験もしてないくせに思っちゃうヒクツ女の感想なだけなんだけどさ。

本当はね、レイプされたら、どんなにしんどくても、辛くても、泣き寝入りなんかしちゃ絶対にダメ。どんなにその痕跡が汚らわしくてすぐにでも消したくったって、シャワーでごしごし洗ったりしちゃ絶対にダメ。
すぐに警察に行って、病院に行って、体内の精液を“証拠”として“提出”して、犯人を挙げなきゃダメなのだ。それこそを、今の教育現場で、家庭で、教えなきゃ。

あってはならない卑劣な犯罪だけど、これが残念ながらなくなることはなく、幼いとか年取ってるとか、美醜がどうとか、そんなことは関係なく、むしろその弱さをねらってこそ、起こることなのだ。
レイプされた娘を叱責で迎える両親、特に母親の姿は本当に辛く、でもこういう現実もあるのだと確かに思うが、女はどんなに辛くても、自分自身で敵を告発し、胸を張って生きていかなくちゃいけないのだ。
そのことを、いまだに、日本は教えていない。こんな作品がいまだ生み出されるようじゃ、ダメなのだ。★★☆☆☆


トップに戻る