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「つ」


2019年鑑賞作品

月夜釜合戦
2017年 115分 日本 カラー
監督:佐藤零郎 脚本:佐藤零郎
撮影:小田切瑞穂 音楽:井上譲 浦田晴夫 岳陽
出演:太田直里 川瀬陽太 門戸紡 渋川清彦 カズ 西山真来 赤田周平 緒方晋 下田義弘 大宮義治 北野勇作 デカルコ・マリィ 海道力也 大宮将司 日野慎也 柴哲平 得能洋平 福井大騎 角田あつし 足立正生 井上修 井上登 岡田尚丈 珠木奈美 羅門生 泉敬三 金城 河栄 才本隆彦 岡元あつこ 金羽木徳志 筒井亘


2019/3/25/月 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
途中ちょっくら眠くなっちまったこともあったので、かるーい気持ちでオフィシャルサイトで復習を試みたのだが、やっちまった、と思った。迷宮に、入ってしまった。これはただ単にあらすじの補完なんぞをしても意味のないことだったのだ。
作り手側の深い、深すぎる思いを知って、ハッキリ言ってビビッてしまうんである。彼らにとって、物語の筋がどうとかなんていうことは、きっと、ほっとんど、関係がないのだ。

恐らく物語自体は伝説とゆーか、おとぎ話とゆーか、そうしたことがベースとなっているのだろう。でも作り手側が求めたのは、それだけ純粋なベースを下敷きにしたってことは、失われつつある、汚くって、雑多で、でも生命力にあふれまくっている、釜ヶ崎という街とも言えない、この一角そのもののだったのだ。
おとぎ話になってしまうほど、それだけ現実味がないほど、まるで遠慮なく、犯罪すら子供のケンカみたいになってしまうような、そんな。

私個人としては、川瀬陽太と渋川清彦がガチで、いわばダブル主演で、がっつりぶつかり合うことこそに、コーフンしてしまって、もう、それだけで、それを観られるだけでいいやという気持もあったのだけれど。
同じ作品に出ているのは何度も見かけたことはある。でもそれは共演、というにはすれ違い過ぎで、どちらかといえば川瀬陽太を信頼して使い続けてきたたたき上げの監督さんが出世して、渋川清彦にたどり着いたという趣の方が、強かった。

渋川氏だってインディーズ臭ぷんぷんの役者さんではあるが、やはりその中では成功者というか、なんというか……。
ナマにやさぐれの川瀬陽太と、インディーズ臭ながらやはりフィルムスターの匂いがどこかにまとう渋川清彦、共に大好きな役者が、ガチにぶつかり合うことに、本当に、感動したのであった。ありそうで、なかった。本当に、すれ違っていたよね。何度も共演は、ホント、していたと思うのだけれど。

釜ヶ崎の、渋川氏はヤクザの二代目、逃げ回っていたのが、父親が病を得て仕方なく帰って来た。川瀬氏は私娼窟の用心棒……なんて役回りも、全然担えてないような、ダラダラな男。
この二人の男がフューチャリングされる前に、なんか、釜、釜、なんである。そんで旅芸人の男が白塗りで、白塗りをものともせず、とゆーか、娼婦のところにしけこむのも白塗りをものともせず、という、なんか、不思議モード満点で、これはやばい、ファンタジーか、パラレルワールドか、なんかそんなところに迷い込んだとかゆー世界感なのかと、かなり焦る。
タイトルから覚悟はしていたが、なんか大釜とか出てくるし、盗まれたりしちゃうし、釜がうやうやしく、ヤクザのかための盃アイテムになったりしちゃうし。

確かに釜フューチャリングではあるのだが、でもなんだか、ゆるーくスルーしてしまう気分があるのだ。私娼窟、昭和の匂いがぷんぷんとする娼婦の女たち。モノクロの映画、赤線の映画を観ているような錯覚を起こさせる。決して若くも美しくもないスリップ姿の女たちというのが、そんなアナクロ感覚を助長させる。
川瀬氏扮する仁吉が岡惚れしているメイはどこか、違った雰囲気がなくもないのだが、それは仁吉、そして渋川氏扮するタマオと幼なじみで、メイと仁吉はどやら孤児施設で育っているらしくて、という、疎外感というか、マトモ感を欠落していることを自身が自覚して今生きている、という雰囲気を感じるから、なのかもしれない。

そういう意味で言えば、仁吉やタマオはそれを、自覚していない、ちっとも、という部分があるんだということなんだと、思うんだよね。
メイは始終、冷めた目で男たちを見ている。でも子供に対しては、優しい目を向けるんだよね。それを単純に母性と言うのは、よくないことだとは思うんだけれど……。

たださ、ここ釜ヶ崎は生きる人のエネルギーにはあふれているし、子供も大人もあざとく、しつこく、たくましく生きてはいる、んだけれど、そういう、家族愛、といったらベタだが、まぁ、親子愛、と言っちゃうしかないんだけれど、そいういうものは皆無、だよね……。
ヤクザの二代目を嫌悪して、でも父親の病気でしぶしぶ帰って来たタマオにようやくそのつながりを感じることは出来るけれども、そんな具合だから彼にも家族の執着を感じることはないし、仁吉やメイに関しては、家族どころか、木の股から産まれたというのもないぐらいの、今ここで、釜ヶ崎で生きているだけの人間たち、それは他の人たちもみんなそうでさ、という……。

監督さんが、この釜ヶ崎の雑多な生命力を愛したというのは凄く判るし、それが対外的いわば恥ずかしさで排除されてね、塗りたくられた人工的な秩序に置き換えられたことに対する反発もまた、すっごくよく判る。
ただ、その前の釜ヶ崎にあった雑多な生命力という中に、そうしたつながりがあったのかと考えると……。

いや、私はね、そーゆー、血のつながりにこだわる日本的執着は嫌いさぁ。それによって女が苦しめられ、男が尊大になる、いまだ続くそんな日本社会は嫌いさぁ。
この釜ヶ崎の無法地帯な生命力は素敵だけれど、そこに娼婦という、なんつーか、ベタな女生命力を放り込んで、じゃあどう作用しているの、と思っちゃうんだよね。ついつい。

釜、というのは確かに魅力的である。物語の冒頭で、炊き出しのために使われる大釜、何か芋煮会とか連想しちゃうようなダイナミックさ。その大釜はラスト、ウソみたいな逃亡劇に使われるし、最後まで素敵なファンタジー大作。
中途は、盗み出された釜を見つけ出すために、街中で釜の買い占め、どころかドロボーが起き、コンラン状態。なんか眠たい間に、アツい青年運動家が仁吉に心酔、担ぎ出されて仁吉が困り果てるなんていう展開にもなっていて、なかなか楽しいんである。
眠かったせいもあるだろうが(爆)、渋川氏より、川瀬氏の方が出ずっぱり、主役然としていたんじゃないかなぁ。

考えてみれば、ヤクザの元から大事な盃になる釜を盗み出した芸人が焼け死に(殺され)、逃げた幼い息子が仁吉とメイに出会い、いわば疑似家族のような関係を築く訳で。
仁吉もメイもなかなかその関係性を受け入れられずにいたけれども、タマオが現れたことで一気にその距離が縮まる感はある訳で。

正直、釜ヶ崎の人たちの魅力の方に力が行ってしまってて、家族愛とか、そういう詰まり方に納得いく感じは薄いかなぁ、という気がしている。言ってしまえばこれって、文化映画だよね、と思ったり。
ドキュメンタリズムは凄く、あると思う。そして登場人物はどこか、見世物的で。だからその中で仁吉、タマオ、メイは、むしろ浮いているというか、プロの役者っぽい(いや、プロなんだけどさ)から、なんだか違う感じは、したかなぁ。
メイの友人、はすっぱな娼婦、アケミとか(あっけらかんとした色気が魅力の西山真来)、それを突破できそうなキャラクターはいたんだけれど……。

結果的には、かなり政治的、というか、仁吉を心酔して奉る運動家の青年が現れて、かなり具体的な運動に発展しそうな感じになって、ヒヤヒヤするんだよね。
いや、一番ヒヤヒヤしていたのは仁吉なのだが、これはさ、これは……やはりそうした生臭さに対する批判がある、のかなぁ。でも、きれいごとだけでは生きていけない、のだけれど。★★☆☆☆


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