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「よ」


2019年鑑賞作品

夜明け
2019年 113分 日本 カラー
監督:広瀬奈々子 脚本:広瀬奈々子
撮影:高野大樹 音楽:タラ・ジェイン・オニール
出演:柳楽優弥 YOUNG DAIS 鈴木常吉 堀内敬子 芹川藍 高木美嘉 清水葉月 竹井亮介 飯田芳 岩崎う大 小林薫


2019/1/23/水 劇場(新宿ピカデリー)
ハッピーな結末にならないことはどうしようもなく察知できたけれど、でも彼の先行きがまるで見えない、ある意味冷酷にぶった切るラストには、驚いてしまった。
でも、あれしかないのか。自分自身を偽ったまま、生きていくことはできない。家族のように見えても家族じゃない。ただ理想を押し付け合っているだなんて、破たんは目に見えている。

彼のことを、どう呼べばいいのだろう。シンイチではない。最初から、ぎこちなく名前を言う最初から、その名前が偽名であることは明らかだった。
それは彼を拾った哲郎にだって判っていた筈だったのに、彼はシンイチという名前にこだわったのだ。死んだ息子の名前。判り合えないまま、いや、理解してやれないまま不慮の事故で妻と共に事故で死んでしまった息子の名前。
彼が名乗るシンイチというのがどういう字を書くのかさえただしもせずに、本当の名前を聞き出すことまでもしなかったのは、もうこの時点で哲郎は明らかに……彼をシンイチの代わりにしたいと思ったに違いないのだ。

観客側には、この時点ではさすがにそれとは判らない。川辺でぐったりと倒れていた彼を助けて、ここに来た理由や帰りたくない理由を「言いたくないなら言わなくていい」と理解ある態度で、自分が経営する木工所に見習いのような形で半ばムリヤリ雇い入れるあたりまでは、ただ、情に篤い人なんだろうと思っただけ。
それもそうなのだろうが……哲郎の人望の厚さは充分に伝わってくるのだが、彼に対しては、そうじゃない。そうじゃなかったのだ。

彼。どうやら死のうとしていた彼。オチバレで言ってしまうと、どうやらパワハラ的なアルバイト先の店長を、判っていながら見殺しにした……ガスが漏れているのを判ってて、仕事終わりにタバコを一服つけるのを判ってて、そのままにしてしまった、という過去は、これは未必の故意、とまでさえ、いかないのだろうか。
それこそ彼自身がその状況を誰かに言わなければ、バレることすらなかったこと。イヤな言い方だけど。
でも結局、どうやらこの“事実”を彼の家族も知っているようだったし、とにかく彼は耐え切れなくなって、家を出て、“現場”から二つ駅の離れたこの場所で、死のうとした、のだろう。

この場所は、千葉、なのだろうか。とにかく、田舎というにも微妙だし、本当に、なぜここに、と住民の誰もがいぶかしく思うような、そこで生まれ育った人以外は、訪れることはまずないような場所。
ただひとつ、その二つ先の駅に大学があって、それが後に同じ大学の卒業生の目撃という形で現れる。そしてこのムラ社会では、それは決定的なことと、なるんである。

彼の本当の名前は光。字さえ決めていなかったシンイチより、ずっとずっと、彼に似合う、素敵な名前だ。
シンイチは、ここでは死んでしまった名前なのだ。光はつまり、死んでしまったことを肯定して、ここで生きていこうとしたのだ。

シンイチという名が、哲郎の亡くした息子の名だと知って、写真の中の彼に近づけて髪の色を明るく染め、遺された衣服を着て、哲郎とぎこちないながらも疑似親子のような触れ合いをしたのだ。
それはほほえましくうつらなくもなかった。ただ……光が自分の過去と自分自身を消し去りたいと、死に損なってここで生きなおすチャンスを得てもなお、思っていたらしいことと、それに哲郎が乗ってしまって、つまりシンイチとして、息子の代わりとしてここにいてほしいと思ってしまって……光のアイデンティティを、“つらい過去”という形で、そんなものなら捨ててしまってシンイチになれ、と言ってしまったことが、決定的な間違いだったから。

そもそも身分証もない状態で、しかも偽名で、このままいられる訳がない。哲郎はすっかり“シンイチ”に入れ込んでしまって、彼を正式に雇い、木工技術を伝える若い才能、として周囲に喧伝する。
若手とベテランの同僚二人も彼の素直さを認めてくれて、どうやら問題を抱えているらしいことを悟っても、何でも言ってくれよ!!と憤るほどに、なんつーか、イイ奴らなんである。

そういう意味では、哲郎の恋人であり、事務方を引き受けている宏美はその点、女のカンっつーか、そういう厳しい目を割と最初の内から感じてしまう。
演じるのが堀内敬子、ふんわりとした可愛らしい人だけれど、それなりの年齢を経ていて、ここでは“子連れの出戻り”(古い言い方だが……こういうあたりが、その地域だけで完結している地方都市、って感じ)という立ち位置。

事務員として、彼を素性のしれないまま正社員に雇い入れることは不可能だということを当然、彼女は心配している訳だし、それをかたくなに通そうとする哲郎に対する不信、それ以上に光に対する不信が、通常の彼女なら心優しい女性なのだろうが、何か、嫉妬みたいなねじくれた感情までが出てきちゃって。
つまり、哲郎が光に対してばかり心を割いて、結婚を決めた自分とのことは、何にも考えてない、なりゆき任せ、しかもシンイチ君も結婚後も一緒に暮らすとかなんなの!!みたいな。

そして「僕はシンイチじゃない。すみません」と結婚披露パーティーを飛び出した光に対して、よっぽどやましいことがあったのねとか、シンイチと名乗って最初から取り入るつもりだったのねとか!うーわ、うっわー。
本当は、本当は……こういう女ばかりじゃないよと言いたいが、でも、結婚という大きなスタンスを迎えた女は、もうこうなっちゃうのか。同じ女としては肯定したくないけど……。

光の何よりのトラウマは当然、店長を見殺しにしてしまったこと。そのかつての自分を見るかのような、製品を収めに行った先での、店員をあしざまに扱う店長と、そのバイト君のガマンがブチ切れての修羅場に、光は呆然、というテイで手を出さない。この時点でなんとなくそういうことかということが示されてきているので、判ってしまう。
このバイト君が、ブレイク必至の(もうしてるかな)個性派飯田芳氏。彼が、ハッキリと判る形で店長に堪忍袋の緒が切れた行動を示したことを、光は、正直、どう見ていたのだろうか。そうできていたのなら、当然違う結果があって、光はここにいない筈なのだから。

そもそもが、光が家族といまいち上手くいっていないことが示されるのだが、それは、高圧的な父親によってすべてが決定される、休暇の旅行も何もかも、とか、優秀な兄貴ばかりが期待されて自分はまったく顧みられなかった、とか、判るんだけど、よく聞く話って感じすぎて、光が追い詰められたせっぱつまった感までは正直感じられないウラミがある。
あくまで光が思い詰めたのは店長を見殺しにしてしまったことであると思うし、そこでそんな家族と上手くいってなかったみたいなことを出されても、ちょっとナァという気持が浮かんじゃう。

でもそれは、そのやんわりとした感じはむしろ、意図的だったのかもしれないとも思う。だって哲郎の境遇も……こんなことを言ってしまっては、それこそそんな目に遭ってもないのにアレなんだけど、ありがちな設定、なのだもの。
むしろ奥さんとのすれ違いをあんまり重要視してないところの方が気になっちゃったりして。女性としては、子供より連れ合いの方に重きを置いてほしいと思っちゃう。むしろ、女性の方が子供の方に重きを置いて、男性の方は逆のパターンの方が多いような気がするが。それともやっぱり男性は、嫡子にこだわる気持ちがあるんだろうか??

哲郎が光をシンイチのまま、社員として、そして“代わりの”息子として正式に迎え入れようとムリヤリ通そうとしたあたりから、もうダメだと思った。現実的にさ。身分も明らかに出来ない人を社員になんて、出来ないもの。
宏美が「哲さんはそんなのかまわないって言ってるんだけど……」と言うが、その台詞を言わせる時点で、現実性をひどく欠いてしまう。んなことできる訳ないでしょ。保険証から厚生年金から何から何まで、正式な身分を証明できなければ、できるはずがない。

この時点で光がここにはいられなくなることは察知できたけれど、そもそも前提として無理があるというか、ちょっと幼稚な感覚は正直、しちゃったかなぁ、と思う。
シリアスで押し通しただけに、この点を頂点にして、甘いほころびが所々に見えてしまったのが、惜しいと思う。柳楽君はとっても良かった。★★★☆☆


よこがお
2018年 111分 日本=フランス カラー
監督:深田晃司 脚本:深田晃司
撮影:根岸憲一 音楽:小野川浩幸
出演:筒井真理子 市川実日子 池松壮亮 吹越満 大方斐紗子 川隅奈保子

2019/7/30/火 劇場(角川シネマ有楽町)
今さらだが、前作がカンヌで審査員賞を受賞していることは、もっと騒がれてしかるべきだったのではと思っちゃう。パルムドールをとらなければ映画ニュース以外にはめったに出回らない現状を歯がゆく思う。勿論、国際映画祭ばかりが才能を発見する場所ではないけれど……。
毎回驚かされるし、その才能には疑いの余地はないと思ってはいたけれど、本当に感服してしまう。小さな公開形態だけれど、しっかりとした形での評価を残すことを願っている。

もはや深田監督のミューズとも言うべき、筒井真理子の圧倒的な力に感服してしまう。なぜ彼女ほどの人が、いわばバイプレーヤー的位置に甘んじているのかと思ってしまう。不遜な言い方なら申し訳ないが、深田監督が女優としての彼女を本当の意味で発見した、とまで思ってしまう。
言ってしまえば親子ほどの年の差がある、この若い監督に、彼女が全幅の信頼を寄せているのが伝わってくる。肉体を含めたすべてをさらけ出し、奇跡の芝居を私たちに投げつけてくれた。

こういう描写を見るたびに、正義の皮をかぶったマスコミというものの横暴さを苦々しく思い知らされるのに、普段ワイドショーやネットニュースを見ている時には、不思議なぐらいその情報を信じてしまう。ドアをノックしてコメントを撮る姿勢を、ジャーナリズムとして当然のこと、と思わされている。
落ち着いて考えれば理不尽さ満載の報道の姿勢に、なぜこうしてその立場側に回った描写を見せられないと気づけないのか。

それがイヤで、無意識に、テレビはニュース番組さえも見なくなってしまった気がする。
気分が害されるニュースを避けて、自分が得たい、無難な情報ばかりを摘み取る。確かにそんな自分こそが最もヨロシクないのだが、なぜこんなにも、世の中は正義を振りかざすようになったのか。

いや、本作の面白さは、そんな凡百なところにある訳ではないことは判っている。だけど、そうした描写を見事に徹底させるから、本当にたじろいでしまう。
すべてのシーンに緊張感が並々ならぬ気迫でみなぎっている。まだ事件が起こる前の、喫茶店でなごやかに勉強会をしている時でさえ。

しばらくの間、違う時間軸が同時進行で並列に描かれていることに気づかなかった。そういうあたりのドンカンさにかけては、誰よりも負けない自負がある(爆)。
訪問看護師として職場でも訪問先でも信頼の厚い市子は、まさにそれを絵に描いたような風貌と人物像。すっぴんに近い顔で、看護師のユニホームにコートをはおって自転車で訪問先に向かうような。

しかしまず最初にスクリーンに映し出されるのは、ミステリアスなマダムである。メイクも上品目ながらしっかりと施し、年若い美容師を指名して、カラーリングを頼む。
ひげを蓄えた、なのに不思議と中性的な色気を持つ池松壮亮君が彼女の髪を触ると、もうそれだけで先の展開が予感されてしまう。ゾクリとする。ぼそぼそと抑揚の少ない空気を多く含んだ池松君の喋り方が、その予感を確信に変えてしまう。

無意識に、中性的な、と書いてしまった。そう思っていた訳じゃないのに。むしろ池松君は、この年代の役者の中でも男を感じさせる、というか、本人がそれに意欲的な感じがするというか。
でも、池松君演じる和道の彼女である基子(市川実日子)は、結果的にはレズビアンであった訳だし、彼との付き合いが高校生の時からという設定も、まだ男子としての骨格を成す前の、というのが感じられてしまう。基子の妹のサキが「そんなの、信じられない。だって男子なんてガキばっか」と吐き捨てるのを聞くと余計である。

しかして、サキがそう吐き捨てるに至るには、この物語の軸となる事件があるからである。サキは突然失踪する。見つかったと同時に未成年略取の容疑で一人の青年が逮捕される。
こともあろうにそれは、市子の甥である。しばらくして見つかって、当然のようにサキがいわれない中傷……絶対にレイプされているだろうとなんとか、学校内で言われまくる、そんなことを言い募るのが、彼女がもう、信頼することは一生ないであろう、同級生男子、たちだったから。

市子、というのは、筒井真理子が演じる第一の人物、というか……こちらが本物というべきか、である。基子とサキの姉妹の祖母が自宅で介護されていて、定期的に訪問しているのが市子である。
基子は今の時点では何もしていないような感じ、いつもダルダルなスウェット姿で、ちょっとそれまでの経過が気になるようなキャラなんだけれど、特にそれは明らかにされない。

今は市子に教わって介護の勉強をしている。資格を取るつもりなのだろうとは容易に知れるが、一緒に妹も勉強を教わっているのが、確かに最初の段階から引っかかった。姉妹ともども市子に心酔しているのは判るが、この姉妹自体は各々確立した生徒のようで、姉妹同士のなごやかな会話はついぞなかった。仲が悪いという訳ではないのだけれど……。
誘拐事件が起こった時、基子は、動揺しまくる母親に「私だったらよかったのにね」とつぶやく。はつらつと明るく、“在学中”から勉強に熱心な妹とこの姉は、どうやらかなり行く道が違っていたのだろう。

喫茶店での勉強会に、甥の辰男にテキストを届けさせたのがすべての始まりだった。サキとはほんのすれ違いで、彼女は辰男を認識していなかった。辰男だって、帰りかけのサキをガラス越しに認めていただけだったのに……。
レイプがどうこうというのは、劇中では明らかにされない。てゆーか、サキはそんなことされていないのに、と中傷こそにダメージを受けている。
そして市子は自分の甥が犯人であることを言い出せない。いつかバレることなのに。その時に大変なことになるのに。
そんなことは何の関係もない外野が思うばかりのことだ。市子が言い出せなかったのは、基子から強く止められたから。

基子が言う「だって市子さんが悪い訳じゃない」というのは確かにそうだが、それは黙っている理由にはならないのだ。市子が結局言い出せなかったのは、サキがそのことに気づいていない、明らかにしたことで彼女が傷つくことを恐れたのだろうが……でも判らない。市子自身に保身の気持ちが働いていなかったとは、言い切れない。
市子は幸せをつかむ寸前だった。同僚である訪問医師と結婚間近だった。連れ子の少年ともいい関係を築きつつある。そう……せめて彼にだけは事情を告白しておくべきだったのに、なぜそうしなかったのか。
基子に強く止められたシーンばかりがよみがえる。不思議だ。あの時、基子の姿は暗い闇に溶けていて、彼女の表情はほとんど見えなかったというのに。

当然マスコミがこんなおいしいエサを見逃すはずもなく、市子は色欲魔を手引きした悪魔の看護師として週刊誌に報道される。急転直下に、すべてが崩壊する。
とどめを刺したのは、この事態をいわば招いた、市子に口止めした基子だった。市子が結婚すると知った途端に、態度を豹変させた。市子とのたわいないナイショ話を悪意もりもりで証言し、市子を変態性欲の女に仕立て上げた。
マスコミが職場まで殺到し、信頼を失った市子は、辞職するしかなく、自宅マンションも追われ、交際していた医師と自分を慕ってくれていたその息子とも、別れざるを得なくなった。

観客には基子の市子への執着が明らかだったから、なんで気づかないのーと歯がゆくもあったが、それこそ、展開を求める偏見の目と、日常を生きる目とは違うということなのだ。
結果、市子は基子への復讐を願う。そこからの人格が一つ、作られる。それが冒頭まず登場した、“リサ”という名のミステリアスな女なのだ。

でも、でもでも、市子は全く違った人間を作り上げることは結局出来ない。確かに地味で誠実な訪問看護師だった市子とは全く違う。リサは、安アパートのがらんどうな一室で、椅子ひとつにドンブリと割りばしで食事するような生活スタイル。
夜になると対面の部屋を覗く毎日。そこに……冒頭の場面で彼女を担当した美容師が住んでいるのだ。夜な夜な観察し、そこに通ってくる女の子が基子だということも確認済みである。そして、その美容師、和道に接近するんである。

本当に、気づくのが遅い。並列描写に、なかなか気づけなかった。和道と出会ってデートと言うべき外出を何度もしているのに。自分の彼女のおばあさんが画家で、この間亡くなった、という話にふいをつかれて市子が涙を流したところでようやく、あれ??と思うていたらく。
もうこの時点で、市子、とゆーか、和道の前ではリサだけど……は全然、ぜんっぜん、雰囲気が違うのに。
本当の名前も自分自身も捨てたリサこそが、妖艶でミステリアスで、親子ほど年の違う和道を陥落しえるほどに女として魅力的だというのが、皮肉な気がした。

だって市子はこんなことになる前は結婚寸前だった。夫となる人は同僚、信頼し合える関係。血がつながっていないのにひどくなついてくれる彼の息子。
間違いなく幸せそうだったし、幸せになれるはずだったのに、その市子時代の彼女が何も知らない、……なんていうか、基子の気持ちにも気づけない、傷ついたサキを余計に傷つけることしかできない、信頼してくれていたクライアントを裏切る存在だったということが、突き付けられることが、たまらない、たまらない、のだ!!

そう、リサとして、荒れた気持ちと生活で、復讐だけを考えている彼女こそが魅力的だなんて思うなんて、どうすればいいのだろう。
市子=リサは見事、復讐を叶える。和道に近づき、親しくなり、ついに寝る。素裸で窓辺にたたずむ筒井真理子のショットに衝撃を受ける。おっぱい出さずして女優たるなや、とか散々言ってるのに、その覚悟がどれだけ過酷なことかを、彼女の年齢での、そしてこの役柄での、この展開での、素裸に思い知る。
彼女は和道の携帯を使って、基子に自分の裸、大事なところの接写までして送りつける。復讐だと思っていたのに、なのに……「彼女とは別れたんだ」それが自分への想いゆえだったと、彼女が気づけていたかどうかが、判らない、判らないのだ。

想いが判らないのは、市子をこんな事態に巻き込んだ甥っ子も同じ。最後まで、彼の家族は現れることがない。事の重大さにパニックを起こした母親=市子の妹の携帯越しの声が届けられるのみである。
そしてこの母親は睡眠薬の過剰摂取で死んでしまった。事故なのか、自殺なのかは、判らない。母子家庭だったということなのか、結局ただ一人の身内だからと、これまたすべてを失った市子が甥っ子を引き受ける。

謝りたいんだと言うこの甥っ子が、ただ連れ去っただけなのか、レイプしたのか、なんてことは明らかにされない。基子とサキの一家は引っ越してしまっている。
それが知れた帰路、甥っ子を乗せて車を運転していた市子は、基子がかつて自分が働いていた場所のスタッフとなったと思しき姿で、お年寄りの車いすを押している姿を見るんである。

基子を、急発進して轢こうとする描写にヒヤつきながらも、市子がそんなことをしないことは、判っていた。なぜと言われても、判らない。
苦しい、苦しいけれども、あの時、基子が、自分がしたことの愚かさと、市子への想いを、決して出てくれなかったドア越しに叫んだ、「私、市子さんみたいになる!!」と絶叫したあの台詞が、その時から耳にこびりついて離れなかったのは、市子も同じはずだと、信じていたから。
人を、人の想いを信じるって、なんて困難なことなのか。自分だけで信じられる何かを信じるって、なんて困難なことなのか。

誰一人死ぬわけじゃないのに、こんなにも苦しく、生きることを突きつけられる映画が作れるのだ。才能というものは恐ろしい。
積極的に海外資本とも提携する彼のような存在こそが、今後の日本映画界を担っていくと確信している。稼げることよりも、そっちの方がよほど大事だということを、内向きな日本社会、日本映画界に、知ってもらいたい。★★★★★


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