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「き」


2020年鑑賞作品

喜劇 愛妻物語
2019年 117分 日本 カラー
監督:足立紳 脚本:足立紳
撮影:猪本雅三 音楽:海田庄吾
出演:濱田岳 水川あさみ 新津ちせ 大久保佳代子 坂田聡 宇野祥平 黒田大輔 冨手麻妙 河合優実 夏帆 ふせえり 光石研


2020/9/13/日 劇場(新宿ピカデリー)
めちゃめちゃ面白くて声出して笑いたい、笑うべきと思うのに、笑えない、いやー、笑えない。困ったことに私はこの超絶口の悪い奥さんにかんっぜんに共感してしまってて、彼女と一緒にこのダメ夫を罵倒しまくっている思いに駆られてしまって、だからそりゃあ、笑えないのだ。
頭ではめっちゃ面白いと思ってるし、手を叩いて笑ってる自分がいるのに、なんだろこの感覚。後ろに座ってるオッチャンが素直に大爆笑しているのがうらやましくなっちゃうぐらい。

もしかしたらと思っていたが、ヤハリ自伝的お話、ということらしい。そういう意味では自嘲、という言葉も浮かぶが、その当時の監督さんは、奥さんから罵倒されてヘコんでても、ホントには判ってなかったに違いない。
そう、きっと、後ろに座ってるオッチャンが笑えるのは、これを本気で受け取ってないからなのだ。奥さんが本気で怒ってると、思ってるけど思ってない、というか。

“夫婦仲は冷え切っててセックスレス”と書いてみればもう修復不可能のようにも思えるが、ホントの修復不可能は、口も利かず、顔も見合わせず、というのが、“冷え切っててセックスレス”なのだ。
このダメ夫のように、どう考えたってムリだろと思われる闘いに挑んだりしない。それを彼は、金がないから風俗にも行けない、ということにしているが、本当に冷え切って、憎み合っていたら、罵詈雑言も、セックスへの闘いもありはしないんである。

で、そう、自伝的お話ということは、このダメ夫は脚本家である。一本だけ賞に引っかかったが鳴かず飛ばずで、年収は50万。こんなんで妻と娘を養える訳もなく、奥さんがまさに大黒柱である。
今の時代、男が家族を食わすなんてこと自体が、むしろ差別的価値観だと思われるから、かまやしないと思うんだけど、だったらその場合、家事や子育てを引き受けるかといったら、それもない。
つまり奥さんが大きな息子、小さな娘を抱えている状態なんである。そらー奥さん爆発もしたくなるってもんである。

彼にしてみれば、家事はともかく(いやしろよ、って感じだが)、子供の面倒は見ている、と言いたいのだろう。
しかし、テレビばかり見るなと言ってるその口先でスマホの画面から片時も目を離さないし、子供を遊ばせている間にもスマホでエロ人妻とのLINEに没頭して子供を見失うし、子育てはおろか、面倒を見ている、なんて口が曲がっても言えない状態。本当に大きな子供、なんである。

そんな中、ビッグチャンスが舞い込む。いや、奥さんに言わせれば、そういう話は千回あって、千回私は騙されてきた、というところだが。
それには香川へのシナハンが必要なのだ。しかし取材費は出ない、ダメ夫は車の免許持ってない、奥さんに頼むしかない、ということとなる。

これを利用して家族旅行しようよ、と猫なで声で説得する。結局さ、結果的に奥さんが自分の仕事のシフトをやりくりしてそれを受けたのこそ、愛情に他ならないんだよね。
あまりにも罵詈雑言爆裂奥さんだからうっかりスルーしそうになるんだけど、ホントにあきれ果てて、ホントに夫をダメだと思っていたら、絶対にこんな大変な旅を引き受けない筈なんだもん。

当然、青春18きっぷで鈍行の旅。うっわ、東京から香川まで……気が遠くなる……。サイコーなのはこの奥さんがめっちゃ酒飲みで、水筒に酒を持参していること、なんである。家庭でも常に飲んでいる。缶チューハイにストロー突っ込んで飲んでいるのは、家事の作業がしやすいせいだろうかと思われる。
旅先では、車を運転するのが彼女だから、飲めなくてイライラしている。しかもおもてなし先で出される料理はどれもこれも日本酒が進みそうなものばっかりで、水ばかりつがれて奥さんは爆発寸前である。そらあここは水の美味しいところなんだろうけれど、水と酒は違うんだもん!

しかもダメ夫の方がすすめられるままに酒を口にし、顔を赤くしていくことが彼女にはガマンならない。
そりゃあそうだそりゃあそうだ。そもそもコイツのために酒をガマンしているとゆーのに。彼は酒に対する嗜好はそれほどなく、勧められるから仕方ないじゃないかと、怒れる鬼神におずおずと言うのだが、ちーがーうー。

そもそもこの場面、既にシナハンの目的は瓦解、一足先に大メジャーのメディアミックスの製作が進行しており、迎える側は単に、こんなにあちこちから注目されてねえ……ということに浮足立ってて、彼らの落胆なんぞ想像も出来てない状態。
だからもう、次々出されるごちそうなんかさっさと断って、帰ってしまうべきだったのだ。奥さんは食い下がるけれども、どー考えたって勝ち目はないのだ。
そしてそのことはダメ夫の方はよく判っていたんだから、せっかくもてなしてくれたんだから、なんていう小心ゆえにプライドが結局はズタズタになることが判ってるんだから、さっさとここを辞すれば良かったのだ。

つまり、二人ともに、プライドが邪魔したということだ……。
私は、奥さんの言い分にばかりシンクロしてしまって、とにかくこのダメ夫がダメなだけ!!と思ってたんだけれど、このシーンでは、彼女の食い下がりは、無意味だよね、と最初から思ってしまったから、自分の、奥さんへの肩入れにふっと違和感を感じたのだ。

このダメ夫は本当にダメ、もう別れた方がいいでしょ!!と思っていたし、この延長線上に、そういう展開も待っている。もうどうしようもないこんな夫とは別れた方がいい、そもそも最初からそう思っていたぐらいだったのに、この中盤点で、彼女へのシンクロが初めてズレたのだ。つまりそれが、夫への愛のあかしだったということなのだ。
いやまあ、愛と憎しみは紙一重だとゆーし、自分のスケジュールをやりくりしてここまでやってきたという悔しさもあったろうとは思うけど、何とかとりなして、大メジャーを蹴ってくれないかとムチャなお願いをする奥さんは、愛以外の何物でもなかった。

なのに、なーのーにー、そのことにいっちばん気づいてないのはこのクズ夫なのだからホントに困ったもの。彼は、常識はずれの困った行動をする奥さんに困惑する夫、というスタンスに安住するんだから、ホンット、判ってない。
セックストライも失敗して夜の街にフラフラさまよい出た彼は、酔いつぶれているセクシー女子に欲情してパンツの奥とかのぞき込んでたところをおまわりさんにつかまっちゃうってんだから、サイテーである。

小豆島に奥さんの親友がいて、それがこの旅行への口説き文句のキーポイントであった。大学時代の友人同士。友人も彼に会いたいというが、奥さんが拒否反応、んでもってこんな状態だから決裂して、夫に娘の世話を託して、奥さんだけが親友に会いに行くんである。
この親友ちゃんが夏帆ちゃんで、奥さんを演じる水川あさみ嬢と本当に対照的。童顔でふんわりとした乙女系なんだけど、親友とのガールズトークでは年下の彼氏(彼女は既婚者だから愛人と言うべきなのかしれないが、彼氏だと強硬に主張)とのエロい話をさっくりとして驚かせる。

つまり、あれだけ罵詈雑言で夫をクサしている奥さんだけれど、他に恋人を持つとか、こんな風に赤裸々にセックスの話をするなんてことが、彼女にとっては考えらないことなんだということが、凄く良く判るんである。
そうか……本当に、愛しているんだなあと思う。セックスレスになっているのは、夫に対して腹を立てているからなんだ。私が腹を立てている理由を、私があなたを信じてるほどにあなたは自分を信じてない、てゆーか、真に努力をしてないことに、腹を立てているからなんだ。

奥さんのはいているヨレヨレの赤いパンツが、冒頭から、その豊満なお尻を包んでいるドアップで印象的に示されていて、なんとも気になっていた。元の色はその時は判らなかったけど、明らかに色あせていて、ほつれていて、ヨレヨレ感が上手いこと出てた。
今はただただダメ夫に呆れて悪口雑言爆裂させるだけの彼女が、彼の才能を、初々しい状態で信じられていた時のこと。今だって信じているんだと、観終わってみれば判るけど、観てる時にはもうすっかり見離しているとも思っちゃってたから……。

とにかくその、初々しい恋人ラブラブの時期、商店街の庶民的な洋品店の店先に山積みにされていた、赤い勝負パンツ、男性用、女性用、デザインもいろいろの中から、彼女は選び出した。
彼の方も買ったんじゃないかという雰囲気があったけど、はきつづけていたのは、彼女の方だけだったのか。それを日常的に目にしていたのに、なぜ彼は、その想いを汲みとれないまま10年も経ってしまったのか。あるいは、見ないフリをしていたのか。

このシナハンとは別に、映画の企画が進行しそうだ、という話もあって、むしろそっちにこそ二人の気持ちは行っている。なぜなら、その脚本は二人ともにいい出来だと思ってて、イケる自信があったから。ただもともと原作があり、語られている感じでは、“クソな原作を面白い脚本に仕立てた”という雰囲気があったから、イヤな予感はしてた。
口の軽いプロデューサーは、原作者が何か言って来たらバシッと言ってやるから、とか心強いことを言っていたけれど、もうこの時点でイヤな予感がした。そんなこと、不可能に決まってる。オリジナルの、原作者の意向がまず優先されるに決まってるんだから。なぜそれを信じたのか。

ボツになった理由をそこに求めてぼそぼそと奥さんに言い訳を並べるクズ夫に心底腹がたつが、でも奥さんも、この企画が通りそうだということを、なにより喜んでいたのだ。
もしかしたら彼女は、自分こそが信じてしまったことに腹を立てていたのかもしれない。寿司屋だった。久しぶりのセックスでお互いの気持ちがしっくり重なり合い、映画化の進行に心躍らせている時だった。サイアクのタイミング。

閑話休題。クズ夫は奥さんとセックス出来ないままのここ最近で、とにかく欲求不満である。奥さんの親友の夏帆ちゃんに妄想してくださいね、とハートマーク付きで言われて、「小悪魔め!!と」仮眠ルームで布団を抱えて腰ズコズコする哀しさである。
なんつーかね、奥さんの彼に対するイラッと感、めっちゃ判るのよ。こっちの苛立ちを判ってなくて、ニヤニヤしている感じへのいら立ち、めっちゃ判る、判るー!!

でもとにかく、判り合うこと、なんだよね。クズ夫はタイピングが出来ない。いまだに手書き原稿なのを、恋人時代の奥さんがワープロをプレゼントしたのに、彼は習得できずに、結局彼女の方が手書き原稿を入力して仕上げていた。
いや、ワープロじゃない、初期のパソコンだ。そのことを彼女は言っていた。これワープロじゃないからね、と。監督は私と同じ年齢。自分の思いを指先から瞬時に表現できるワープロの登場に心躍ったことや、全世界とつながるパソコンが登場した時期、その中にワープロソフトが導入されていた感動、もう……今では当たり前のことばかりなんだけど、凄く凄く、思い出しちゃって。

人数をちょろまかしてホテルに泊まるために、裏口から侵入するのにボルダリング並みの危険を冒す場面も最高だった。
そしてクズ夫がエロ人妻と妄想エロを繰り広げるんだけど、その相手がなんとまあ大久保佳代子サマで、いやあ……エロいっす。親友のいとうあさこたんと、こんなにキャラ違うのが面白すぎる。関係ないけどね。佳代子サマ、面白かったなあ。★★★☆☆


北の螢
1984年 125分 日本 カラー
監督:五社英雄 脚本:高田宏治
撮影:森田富士郎 音楽:佐藤勝
出演:仲代達矢 岩下志麻 夏木マリ 中村れい子 高沢順子 成田三樹夫 夏八木勲 苅谷俊介 荒勢 渡辺隆馬 二瓶正也 阿藤快 三田村邦彦 山谷初男 月亭八方 丹波哲郎 小池朝雄 稲葉義男 早乙女愛 佐藤浩市 隆大介 露口茂

2020/4/29/水 録画(東映チャンネル)
結構な壮大な歴史的事実物語だったので、げっ、やべ、と思いながら見進める。
北海道開拓時代の、いわば暗黒の歴史。全国の囚人たちを有無を言わさず送り込み、過酷な環境の過酷な労働に次々と命を落としていく。

しかもその囚人、というのは当時の時代的背景、会津藩だの津軽藩だの薩長だの幕府だの新政府だのといった、愛国や革命に身を投じた立場の熱き人々が、反逆、国事犯としてとらえられたという事情なのだ。
だからこそ彼らの妻や恋人や時には情婦までもが、愛する人を助けたいと当地の遊郭でタダで身体を売りながら待っているという、これまた過酷すぎる修羅。

そしてそれらの権利を一手に握っているのが仲代達矢先生扮する典獄(刑務所長)の月潟である。
野心のカタマリの、鬼と言われるのも当然の、傲然とした男、この年頃の、脂の乗り切った仲代達矢の、背中に炎が見えるような圧倒的オーラに鳥肌がたつ。
しかし彼が結局倒れるのは女への愛によってというんだから、これは壮大な大河ドラマなんである。

それにしても北海道の大地、もう降りしきる雪雪雪、裸足に草履でおもりを引きずった鎖につながれる囚人の足元だけ見ていても震え上がる。
月潟がどうやってこの地位まで上り詰めたのか判らんが、士族という肩書の内実は薩摩の農村産まれらしく、この北海道の中で彼のキツい薩摩なまりはかなり強烈である。

彼にぶつけられるのが、雪の中行き倒れになっていたと、逃走囚を捕縛するついでみたいに連れられてきた女、ゆうである。岩下志麻である。めちゃめちゃキレイな時代の(爆。いやその)。若すぎず、年増すぎず、これまた脂ののった時期の岩下志麻が、キッツい薩摩なまりの月潟に対してはんなりとした京言葉で、彼を一気に陥落させる。
姿かたちだけではなく、一流の芸妓であったというのはダテではなく、月潟の野心を助けるために東京から来た内務省の副長官(わー!丹波先生!!)を“接待”させる。

それには、ゆう側の思惑もタップリとあったのだ。彼女もまたこの地に収容された愛する男を追ってきた一人であった。津軽藩の男鹿。演じるは露口茂!うわー!!山さん!!そのイメージしかない!!こんなイイ女を追ってこさせるような、触れれば切れそうな、狼みたいな、孤独の色気を放ちまくってる露口茂なんて、ぜんっぜん、イメージない!!
ゆうはやっと男鹿と面会するも、彼はもう死を覚悟している。自分一人が助かろうとは思っていない。千数百人の囚人たちを救うのだ。自分のためなら何でもできるというのなら、月潟を殺せと彼はゆうに厳命するんである。

正直、正直ね、すんなりゆうは月潟を殺す、あるいは殺すことに躊躇はないんじゃないかと思っていた。
月潟は確かにゆうにご執心だったけど、遊郭の女将(夏木マリ。若い頃からこーゆー遣手婆みたいなのピッタリ)が言うように、男が大なり小なりそうであるように、すぐのぼせあがる、そういう感じがおゆうとの出会いにはあったから。

つまり、この女将とはズブズブの関係だったからこそ自信タップリに彼女はそう言ったのであったが、思いがけず月潟は、まるで初恋を知った少年のように、ゆうにホレちまったんである。
それは、ゆうが逡巡の末、月潟に刃を向けた時に自覚したというんだから凄いが、更に凄いのは、「これで判った。おまんはワシに惚れとる」なぜそうなる!!でもそれで、がくんと図星を刺されたように彼女の力が抜けちまったのは、まさに……図星だったのか。

この時点で、男鹿はもはやアワレなのだが、それこそこの時点で男鹿の生死も杳として知れなくなる。そもそもこの時点で月潟はゆうではない刺客に襲われて、目を怪我してほとんど見えない状態になってるんである。
しかしその後もその設定を頭に上らせてうーむと思っちゃうほど、見えてるようにしか動いていないんだけどね(爆)。でもそれが、月潟という男の、視覚を失われただけではどーってことない凄さなのかな(爆爆)

月潟の懐刀、木藤を演じるのがだーい好きな成田三樹夫。彼はなぜ、この横暴な月潟に従順なのかよく判らんのだけど、なんつーか、月潟自身も木藤のことは無条件に信頼しているし、まるで幼なじみのような、本当にこの二人の間には陰謀とか猜疑とか疑心暗鬼とかないんだよね。
だからこそ、木藤が無残な最期を遂げた時、もう月潟の運命は決まったような感じがした。

木藤は女に殺された。遊郭の女を落籍いたのだ。ここにくる女たちは誰もが愛する男のために来ている筈なのに。おぼこな訳ないのに、「水揚げ」しちゃって、さすが東京の女は垢抜けしとるとか鼻の下伸ばして、それでも本当に、可愛がっていたのに、その女に彼の持ち物であるサーベルで貫かれて死んでしまう。
なぜだと、そんな苦悶の表情を浮かべながらも、なぜかなんて、判ったんだろう、木藤はこの女、せつを逃がす。この時点では、まさかこのせつが、めちゃくちゃ重要な働きをする女などとは思わなかった。

早乙女愛、さすが早乙女愛、逃げる途中で囚人たちが無造作に埋葬された墓場を掘り返し、吹雪吹きすさぶ中でおっぱい露わに囚人のカッコに着替え、猛然と、傲然と、どこかへ向かう。どこかというのは……。

で、そんな凶事の中、月潟はその地位を追われそうになってる。あれだけワイロを使ったのに、さすがに月潟の横暴が中央に聞こえて、新しい典獄が派遣されてきたんである。
しかしてこれまたムチャなことに、それをはねつけ月潟は最後の砦である、道路建設地に向かうんである。月潟が言ってはばからないところとしては、そんな、中央のお役人には手におえない土地なんだと。あんたらが言うような俺みたいな疫病神でしか、北海道は勝負できないんだと。

意味も通ってないし不条理だし野心そのものだしムチャクチャなんだけど、一度の晴れ間もない、ただただ雪が降り積もり、この船が出たらもう雪解けまでは行き来も出来ないようなこの土地で確かにそうかもしれないと。
月潟の横暴のせいもあって食料も資金も閉ざされて、囚人たちはバタバタと死んでいく。でもその状況を、自分の野心のせいだと判っていながら、それでも、北海道じゅうに道路をめぐらし、開拓していく力があるのは、自分だけなんだと、すべてをはねつけて言い募る月潟に、でももしかしたら、本当にそうなのかもしれないと思ってしまう。

それだけ過酷な土地であり、開拓も尋常なく過酷であり、それを机上の空論でしゃなりとした役人を送り込まれちゃあ、それはやっぱり違うのかもしれない、と思っちゃうのだ。
鬼と言われるほどじゃなければ、人を人とも思わなければ、この時代の、北海道の開拓は、なし得なかったのかもしれない。ただそのために、彼は当然の恨みを買い、正義の名のもとに成敗されなければならなかったのも、自然の摂理だったのかもしれない。

めっちゃメインのクレジットで佐藤浩市が出ていたので、キャーッ!と思い、待ちに待ち続けたのだがなかなか出てこない。そもそも当時の年齢を換算すると、うっわ、わっけわっけ!!と思ってワクワクしながら待っていたが、実に、月潟が、戦争を判ってて乗り込んだ作業現場においてようやく、である。
私のだーいすきな成田三樹夫を刺し殺したあのおせつの愛する男、だったんである。そーかそーか。

確かに重要人物だが、なんたってそんな具合に事態が差し迫っている上に、久しぶりの逢瀬に吹雪の中避難した山小屋の中でまぐわいまくって仲間たちを刺激しまくるわ、そこに飢えた巨大熊が襲ってくるわ、海を目指してクタクタになりながら歩き続けるもそれが間違っていたわで、状況が過酷すぎるのが続いて、確かに一瞬見えるお顔のクチビルは佐藤浩市、意外に変わらない声も佐藤浩市、なのだが、ぜんっぜん、顔の認識がちゃんと出来ないよーう!!

そう、間違っていたのだ。このクーデターの責任者として、しかし自分の女はどうやら月潟を愛してしまっていることを横目に見ながら進んできた男鹿は、決して戻りたくなかった刑務所に舞い戻っていたことを知り、絶望して自害した。
その銃声を遠く聞きながら、すっかり弱ってしまったゆうを気遣いながら、月潟はもう自分の居所はない筈のその場所へ向かう。最後の権限をムリヤリ発動して、新任の典獄とそのお付きたちを、目が見えないのに、そのほかの五感を駆使して殺戮しまくって、おいおいおいー、なんか奇跡の所業凄すぎるんですけど!!

奪った鍵束から、ひとつひとつ外して、囚人の檻の中に放り込む。次々と格子から手が伸び、鍵が外されて行く。
ストレートラインで月潟が猛然と、鍵を左右に放り込み、次々に手が伸びて鍵を外し、次々とオレンジ色の囚人服の男たちが群れなして飛び出してくる、カタマリになる、外に飛び出していく、この、スローモーションでもないのに、ひどく目に焼きつく一連のショット!

ゆうは、ゆうは、死んでしまったんだろうなあ……。なんかさ、岩下志麻らしくないんだよ。それは極妻のイメージのせいがあるんだろうけど……。仲代氏扮する月潟がメッチャ男臭いんだけどどこか子供っぽくて、でも男臭いからヒゲが口の中に入りそうなベロチューとかヤバくて、こーゆーのがギャップ萌えとゆーやつだろーかと思ったりする。
成田三樹夫も哀しすぎたなあ。あのいい身体……いやその。結局は、女が強かったのだ。しかし、一番強そうな岩下志麻が、実は弱い、古いタイプの女として死んでいったというのも、時代かなあ。★★★★☆


義妹の乱れた喪服(悶える義妹 遺影の前で抱いて)
2016年 71分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:当方ボーカル
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:朝倉ことみ 星野あかり 倖田李梨 世志男 イワヤケンジ ダーリン石川

2020/5/31/日 録画(日本映画専門チャンネル)
ラストの妄想返しとも言えるどんでん返しに口アングリし、そうなるとすべての見え方がひっくり返っちゃうじゃん!!とボーゼンとする。
ヤハリ上手い竹洞監督。正直言えば中盤あたりまで凡庸なピンク的展開という印象だったのだが、竹洞作品がそんなところで終わる訳はないのだった、ヤハリ!

いきなり主人公が、死んでいるんである。と、こう書きだすのもラストが言いたくてムズムズしている。いやガマンガマン。多分早々にガマンが崩れそうな気もするが(爆)。
物語は死んだ主人公、ミツルの四十九日のところから始まる。全編彼のモノローグで進んでいく……ああ手がムズムズする。ガマンガマン。

ミツルは入り婿という立場である。居酒屋なのか、あれは。なんか和食屋とかそんな感じなのかと思った。そこの長女と結婚している。
長男もいるのだがダメ男で、俺には向かないとサラリーマンになり、それもダメで郊外に喫茶店を構え、それも閑古鳥で始終金を無心に来る。長男の嫁もあつかましく、ミツルはどうも苦手である。

四十九日であるこの日も、長男は酒をかっくらい、自分の嫁に欲情してイチャイチャしている。なんで喪服着てこなかったんだよ。キツいんだもの。それがいいのに。燃えただろ、お前も。だなんて、葬式の時にラブホで盛り上がった時のことをニヤニヤ回想する。
こういうあたりはいかにもピンクだが、ザ・ピンクを男前に体現してくれる倖田李梨姐さんがステキである。そういやあ今回は着衣のままのエッチシーンだけで、そのおっぱいを出していないではないか!
おっぱいは若手に任せるとゆーことか(爆)。ミツルの妻の延子を演じる星野あかり嬢のおっぱいは素晴らしく美しい。大きさと張りと乳首の色の美しさ。私何言ってんだろ(爆)。いや、この姉に対する妹の和歌子を演じる朝倉ことみ嬢のおっぱいが、小ぶりで濃いめの色の乳首で、妙に生々しかったからさ……。

和歌子は一見大人しそうというか、内向的というか、その風貌からして可憐なのだが、家族の評価は“何考えているか判らない不気味な子”といったところなのだが、ミツルはさらにそれに具体的な解釈をつける。彼女は自分に興味のないものごとにはとことん興味を示さないのだと。
自分に対しては最初から興味津々で接してきたし、兄や姉にはつんけんしても、自分とは親しく口もきいたし、意味ありげな視線や態度を常に感じてきた。
妻とはずいぶん前からセックスレスで、だからこそミツルもこのカワイイ義妹との妄想を止めようもないが、実際に手を出すのは踏みとどまってきた、のは、“何を考えているのか判らないタイプに手を出すと経験上ロクなことにはならない”ことを知っていたから。

それでも彼女だけは自分のことを判ってくれていると思っていたし、だからこそ嫁が妹のことを口さがなく言うのに反発する気持ちもあった。
あの子に彼氏なんている筈ない。毛もボーボーなんだから。腋毛もすね毛もよ。AVジャンルに腋毛フェチもいるじゃないかとか訳判らん反駁をミツルがするも、すね毛はないかなあ……とか思い直すのが可笑しい。

でももうイイ年の和歌子。まさか処女ってことはないだろとミツルが言うと、そりゃないよ。彼氏がいないだけで、ヤってないとは言わないわよ、という嫁の台詞をミツルは聞き咎める。じゃあお前はどうなんだと言いたいが、言えない。
ミツルはこの時、嫁の言葉に気をとられているが、この話の展開はツマリ、和歌子は男と付き合う度量はないが、ヤッてはいるだろうという結論に達しているに他ならず、それは彼女のキャラクターに決定的な一石を投じているに違いなく……それを乳首の色に判断しかかるのは、私の頭がおかしいのだが(爆)、なんかそんなことを考えちゃうようなヘンな陰影が和歌子にはあるんである。

とにかく死んでるミツルが魂として漂って、こんな人間関係を説明しているんである。
階段から転げ落ちて突然ミツルは死んでしまった。俺の死をだしにして、酒を飲み、鮨を食っているだけの身内、嫁も愛人を連れ込んでよろしくやってるし、兄夫婦もまたしかり。俺の死を悲しんでくれているのは和歌子ちゃんだけ……だよね??と躊躇するのは、なんたって何を考えているか判らない女の子だから。

こっそり遺骨の一片をかすめ取るのには、生きてるうちは指一本触れなかったけれど、死んでから自分の元に残しておきたいなんていじらしいじゃないかと思った矢先に、こっそりその遺骨を取り出してぼりぼり食べちゃうのには魂となったミツルも震撼。コワッ!となるのだが、でもこれはミツルの本心じゃないってゆーか、そもそもこれはミツルのモノローグではなく……ああ!ガマンが切れた!!
そうなの、これは他ならない、和歌子の妄想なの!和歌子が小説に書いてる作りごとなの!!和歌子と妄想セックスを繰り広げているミツルは、和歌子が妄想して書いている小説なの!!ああ言っちゃった!!

……もうちょっと、ガマンできなかったか……衝撃のクライマックスがあるのに……。そもそもミツルが和歌子の愛情を感じて妄想セックスしたり、妹モノのAVをネットで隠れ見たりしている描写こそが、和歌子の妄想であり、冒頭に言った、妄想返しというのはそういうことでさ。
実際はミツルと嫁の関係は良好。夫婦力を合わせて店を切り盛りしていて、気持ちもつながっているし、状況的にも彼女がウワキしているなんてありえない。兄はダメ男なんかじゃないし、サラリーマンにも喫茶店経営にも手を出していない。ミツルが尊敬するデキる料理人である。すべてが、すべてが、現実と真反対なんである!!

とゆーことは……和歌子こそがダメ人間なんである。不愛想でいかにも接客が苦手といった彼女の描写が現実世界で繰り広げられる。
そんな彼女がこっそり、てゆーか、ミツルにわざと見せつけるようにパソコンに書き残す小説が本編の展開であり、それを読んだミツルは、「俺死んでるし!!」とボーゼンとし、この不気味な義妹の自分に寄せる好意的態度に背筋を寒くするのだ。

だってなんたって、小説の中で自分は死に、愛する嫁や尊敬している兄を罵倒し、自分とミツルはプラトニックな崇高な愛情で結ばれているんだと信じ、ついには彼らを縛り上げて、「一緒にお兄さんの元に行きましょう」とガソリンをまいて火をつけるという暴挙に出る展開なんだもの!!
俺は関係ないし、と責任逃れしようとする姉の愛人を息が出来なくなるまで蹴りまくり、「キスしてたじゃない。このキスマキスサブロウ!!」と罵倒する場面には、キスマキスサブロウという言葉のチョイスについつい笑っちゃいつつも、うわ、こいつやべえな……とようやく和歌子という、おかっぱ頭が可憐に見える女の子の怖さに思い当たり始める。

ここに至るまでに、(結果的には和歌子の妄想小説の中でなのだが)ミツルの四十九日をダシにして酒を飲んで鮨を食い、大いに盛り上がる身勝手な身内連中の描写は面白くて、ホームドラマの魅力を大いに発揮している。
愛人関係である長女とヤリたくて押しかけた男が、ミツルの後輩を装って座組に連なり、嘘エピソードを連発したり、この場面が直角に真上からの、まさしく天井からの画のフィックスで長回しするのが面白くて、まさに天の声でミツルが、誰だよ!してねえし!知らねえし!とかツッコミまくるのが可笑しくてさぁ。上手いよなあと思っちゃう。

和歌子の妄想小説の中でミツルは、「僕が考えているより、彼女はずっと過激でした」というのは、和歌子自身がそう思われたい願望に違いなく……。そんなことできないから小説の中で自分を解放しているんだからまあ健全な処理の仕方なのかもしれんけど、そりゃあそれを読んじゃったミツルは震え上がるよね。
現実世界ではミツルにとって和歌子はそれこそ“何を考えているか判らない不気味な義妹”に過ぎないんだろう。和歌子が妄想するような、禁断の関係なぞ、嫁を愛しているミツルにとっては思いも及ばないのだろう。

冒頭に“凡庸なピンク的展開”などと書いてしまったが、それはそのまんま和歌子がしたためている妄想小説であり、そう考えると彼女の貧しい思い込みがあまりに痛々しいのだ。
「何をやってもダメな自分からのがれたいだけの願望を書いて吐き出してるだけ」と、ミツルが解説しちゃうのが、あまりに痛々しいのだ。

現実世界では、ミツルはこの不気味な義妹にビクビクしている。妻に相談もしてみるが、まあ女の子なんてそんなもんじゃないの、モテていいじゃない、と真剣にとってくれない。
そうこうするうちに、彼女の視線がからまりだす。時に知らない内に背後にピッタリいたりする。ホラーである。ラストもラストの、ニッコリ笑った和歌子が猫のように爪を見せて指を折り曲げ、ニャー!とばかりに襲いかかるラストショットは、恐ろしすぎて……どういう意味なのか……。

後から考えれば、舞台はこの店舗兼家屋だけで繰り広げられるのだ。閉鎖された状況で巧みに繰り広げられる妄想と心理戦。やはり竹洞監督は凄いな……。 ★★★☆☆


君が愛したラストシーン
2013年 75分 日本 カラー
監督:佐藤吏 脚本:片岡修二
撮影: 斎藤幸一 音楽:
出演:吉井怜 窪塚俊介 江澤翠 宮地真緒 吉岡睦雄 川瀬陽太 広瀬彰勇 川崎麻世 朝倉えりか 池田大 岡まゆみ

2020/8/16/日 録画(チャンネルNECO)
テレビの画面から出てくる(しかも録画媒体の)というと、もう即座に貞子っと思ってしまうが、いや待てよ、そーいやー、かなりクラシックな映画でスクリーンからヒロインが出てくるのがあったっけ。あー、思い出せない。超昔の名作映画。そう思えばこれは意外にそういうクラシックなものへのオマージュかとも思える。
その貞子、いや違った、テレビの画面から出てくるのは北条美波という役名の女の子。演じるは吉井怜。テレビの画面ではあるけれど、それは映画のDVDで、それを観ているのが窪塚俊介演じる浩介である。

彼はこの映画を何度も何度も見ている。それは亡き妻が大好きだった映画だから。劇中の医者役の俳優(川崎麻世)のファンだった奥さんだが、次第に主演の美波を演じる亜希自体のファンになったのだという。
いい芝居をしているよね、と回想シーンで奥さんはソファの隣で一緒に見ているダンナの浩介に同意を求める。このシーン、泣いちゃうんだよね、と。

惜しむらくは、奥さんがこんなに心酔しているほど、劇中映画であるこの作品がイイ作品にはちっとも見えないということなんである。
ほんの何カットかだし、確かに構成上、そんなにがっつり見せる必要はないんだけれども、この亜希という女優さんの代表作でありヒット作、今でもファンが多いという作品にちっとも見えないのがツラい。思いっきりB級のVシネぐらいにしか見えないんである……。

ちょっとだけ垣間見られるストーリーはといえば、不治の病に侵された金持ちのおぼっちゃんと、彼が恋したナースとの短い恋物語。
そしてそこには、「どうせ財産目当てなんでしょ!!」というおぼっちゃんのママが登場、という、今時こんなんないわ……と思われる古臭い筋立てで、これをファンが多い名作映画、と語られるのは、ほんのサワリだけにしてもあまりにツラい。もうちょっとなんとかなんなかったのかと思っちゃう……。

後にこの美波を演じた女優である亜希は、いわばこの作品を頂点にして下降線をたどり、仕事も減り、来るのは小さな役ばかりで仕事の意欲を失っているところである。
後にかつて自分が演じた役柄としての美波に対峙する亜希は、四年前の、やる気しかなかった、がむしゃらな自分を突き付けられることになる。

つまりこれは、映画から出てきた女の子とのロマコメというよりは、四年前の自分、過去の自分と対峙する亜希の物語である。その美波を呼び寄せたという点では浩介もまた、時間が止まったままの男だから、彼もまた同様である。
そう考えるとなるほど……なかなか深い物語なのだが、劇中映画も、そして浩介が実際に生活している、そして仕事している場面も、いかにも低予算の空虚さがミエミエで、これまたなかなかにツライのだが、うーん、難しいよね、予算というのはさ(自嘲)。

ただ吉井怜嬢にとっては、この役、つまり二役はとてもチャレンジングだと思うし、実際、かつて演じた四年前の自分、自分だけど演じた役柄だから自分のようで自分じゃない、そして今の自分はすっかりやさぐれていて、という演じ分けがなかなか素晴らしく、これは演じがいがあっただろうなあ……などと思う。
彼女が四年前に演じた北条美波が街なかを歩いている、というSNSの投稿があって、まさかと思って探偵を雇って調べたら、どうやらマジらしい、そしてかつての自分と対決する、という図式。

なかなか思い切ったファンタジーだが、亜希が所属する芸能事務所の社長(かな?)を演じる川瀬陽太氏がそこんところは絶妙なまことしやかさでこの事実を亜希に告げるのがホント絶妙で、上手いんだよな、ホント。リアリティが一気に高まる。
二人が対決した経過を聞いて美波のガンコさに、なるほど亜希そのものだと言うあたりはちょっと、噴き出しちゃうんである。
禿げ上がり初期をごまかすようにヘンなロン毛なのがちょっとキショ悲哀を感じるけど(爆。今のやさぐれ感の方がずっとイイ男よ)。

確かにちょっと、興味があるんだよね。役者さんがかつて演じた自分のキャラクターをどんなふうに思っているかって。
観客にとっては何年たっても、ヘタしたらその役者さんが鬼籍に入ったって、自分の好きな映画の自分の好きな役柄は、そのまんまそこに生きている。時にこの役を本当に生きている、なんていう表現をしたくなるほど役者さんがそのキャラクターに没頭している時なんかはなおさらである。
スクリーンの中に永遠に生き続けている、なんていう言い方をしちゃうのを思ってもそうであろうと思う。

でもある当たり役を得てしまって、その後そのイメージに苦しむ役者さんたちを何人も私たちは思い浮かべることが出来る。当たり役に出会えるということは幸せなことなのか、どうなのかと……。
画面から抜け出て来た美波は決して亜希ではなく、何年も何回も同じ芝居を繰り返して飽き飽きしちゃった!!と言って飛び出してくるんである。休憩休憩、と。
ファンが見るたびに同じ演技を何度も繰り返す。そんなわきゃないのだが、ファンがその映画、その役柄に彼らを閉じ込めてしまうというメタファーとしては確かに成立してるかもしれないと思う。

美波が出て行ってしまって、医者役、同僚のナース役はひたすら動揺、テレビのスイッチを切ってしまうと単純に接触が出来なくなる。時々スイッチをつけると、待ちくたびれた二人がハッとして、美波に帰ってくるように懇願する、という繰り返しが起こる。なかなかにシュールである。
彼らはこの永遠の芝居のループの中に生きていて、それが破たんするとどうしていいか判らなくなる。もちろんありえないことなんだけれど、画面の外に出て自由を得た美波を見ると、まるで地獄のように永遠再生を繰り返す彼らが、何の罪よと思ってしまう……。
美波を演じた女優である亜希が、代表作である以上に忌まわしき超えられない壁であるかつての自分が、知らないところで無限ループに陥っているなんていう皮肉にも感じてしまう。

だったら浩介はどうだろうか。そもそも美波が飛び出してきたのは、それまでは奥さんと一緒に楽しそうに見ていたのに、ひとりになって悲しそうにしているから気になっていたのだ、という。
この異常事態に戸惑いながらも、美波のこの心配、優しさに次第に惹かれていく浩介。セックスもしちゃう。でも奥さんの服を着た美波に奥さんの面影を見たりするから、決して美波にマジで恋しちゃったという訳ではない。そのあたりは切ないが、美波側も決して浩介にマジで恋しちゃってる訳ではない感じが程良いんである。

やっぱりどこかで、自分は虚構の存在だという自覚があるのか……でも、作り物、結局はウソ、本当の人間じゃない、という台詞には深く傷つくし、浩介ともケンカになるんだけれど、でも……浩介に恋した訳では、なさそうな感じがするんだよね。
まあちょっとはあったかなとは思うが、親しみ、心配、切なさ、あるいは自由になった自分のよりどころ。このエキセントリックなキャラクターの本質は、現実世界に生きている浩介や亜希が自分自身を思い返す触媒のようなものだったように思う。

てか、これはあるエロ企画の中の作品だったらしいし、吉井怜嬢は確かにそーゆー企画にも積極的に参戦している感はあるが、キスは舌入れなし、おっぱいも出さずじゃエロとは言えんわなあ。カラミに遠慮を感じちゃうと愛が感じられず、なんかガッカリしちゃう。
浩介とはセックスしたとはいえ、どこか戦友というか同志というか、そういう存在であったからラブを感じなきゃいけないという気持はなかったけど、カラミシーンが乾いた感じがしちゃったのは、かなり残念。

浩介に恋している後輩女子がいる。職場でもひたすらぼーっとしている彼は、奥さんが亡くなったという事情があるにせよ、もう3年だぜ??と同僚は心配というよりは呆れたように言う。
それだけ奥さんを愛してたってことですよ!!とお決まりの台詞で反駁するのがその後輩女子であり、腑抜けた浩介の仕事をこっそりサポートしたりする。
その同僚が呆れるのを待たずして、あり得ないけどねー。一応後輩女子に礼を言いはするが、自分がやったこととして上司に提出する浩介にはかなり失望を感じる。こういう細かい描写が結構裏目に出たりすると思うんだよなあ。

亜希はかつて演じた自分にガチで対峙したことで、目が覚めたようになる。美波から、なんでも投げやりで自分勝手だと、自分が作り上げた役だって言ったくせに、全然愛情がないじゃないかとぶつけられて、ハッとするんである。
自分が演じた自分だけれど、自分じゃない自分、多くのファンがいる自分じゃない自分を他人のように思って、ただただ苦しんでいたことから目覚めたような。
浩介は、美波のことを、子どもみたいに純粋、と言った。天使みたいだと。亜希はそんなかつての自分と、もっといろんなことを話し合えば良かった、とつぶやいた。浩介は微笑んで言った。またああいう役を演じてください、と。

そしてラスト、チョイ役で渋っていた現場に、亜希は立っている。美波に出会った人はみな幸せになる。私がその一人だと言って。★★☆☆☆


君がいる、いた、そんな時。
2019年 85分 日本 カラー
監督:迫田公介 脚本:迫田公介
撮影:小山田勝治 石田しんじ 音楽:ウサギバニーボーイ kneeeeee オカダノリコ
出演:マサマヨール忠 坂本いろは 小島藤子 おだしずえ 末武太 アイリン・サノ 沖原一生 山本正大 吉元宏介 渡邊海瑠 下村拓巳 山本偉地位 小川恭未子 藩飛礼・竜児 阪田マサノブ 横山雄二

2020/6/21/日 劇場(新宿K's cinema)
子どもたちがすごく良かったなあ。なんか久々に、誤解を恐れずに言えば、芝居の上手くない子どもたちの映画、を見た気がする。
この場合は子役、とは言いたくない。彼らは子役を生業にしていないし、多分これからもそういう方向に進むことはないんじゃないかと思われる(判んないけど)。ただ、この役を生きるためにとてもとても一生懸命に、まさに彼らの一生をかけて(それがほんの10年ばかりではあっても)臨んでいるのが判るから。
初々しい、ほほえましい、といった言葉も弱い気がする。つまり彼らは拙いながらも、監督さんの、そして多くの人たちのこの映画への思いを背負っていることが伝わってくるのだ。

長編デビュー作というものの、その年齢を見ると少々遅いスタートだと思ったら、鬱を患った数年間が間に挟まれているという監督さんの、そういうことを殊更に理由にすべきではないだろうけれど、何かやはり、気持ちが込められたことは感じられる。
劇中の、亡くしてしまった赤ちゃんという事実を受け止められなくて、心療内科に通う図書館司書の祥子先生に投影されている、と単純に考えられもするが、主人公の男の子二人を含め、きっとすべての登場人物、そして世界に、作り手の経験や思いがつめられている。
それは、監督さんの故郷を舞台にしていろんな協力を得て、10年位以上かかって出来上がったという判りやすい事実以上に、なんだろう、真摯さというかなんというか……てらいがない、という言葉がいいのだろうか。そうしたものを感じるから。

つまりこれはトリプル主演と言うべきなのだろう。一番目立っているのは、フィリピンと日本のハーフ(という言い方も今はそぐわないのだろうが)の岸本君。長い手足を手持無沙汰気に芝居する様がそれこそ最初こそが初々しいと感じていたが、次第に、ああ彼を演じるマサマヨール忠君も、監督さんと同じように、自分自身の人生を映しているんだなあと感じてくる。

一番にぎやかという点ではこちらの方が目立っているのかもしれないのが、昼休みの校内放送で“DJカヤマ”といって暴走している、つまりクラス(というか学校)で浮いている香山君である。
この子を演じる坂本いろは嬢、嬢なのだということに!ビックリ!!全然違和感なかった!!いや、女の子と言っても充分納得の色白の美少女だとは思うが、このあたりの年齢って、こういうきゃしゃで元気のいい男の子っているもんなあ。
そして彼、彼女、うーん、どっちで言えばいいのか!!とにかく、この役柄は、底抜けの明るさと彼自身の家庭環境の厳しさのギャップが激しくて。父親からの虐待、それを止められない弱い母親という、昔からあったんだろうけれど、今やそれが虐待死にまで発展する時代柄である。

岸本君に関しては、わっかりやすくクラスのいじめっ子三人組(わっかりやすく、デブ、チビ、コマシャクレの三人)にこづきまわされているが、昨今の、イジメ描写の凄惨さを競うような向きに比べると、何か懐かしいというかほのぼのとしていて、いや、勿論すっごい辛い、ハーフということがいじめの理由になるだなんてこんな理不尽なことはないんだけれど、そこに固執しないというか。
イジメ描写の凄惨さに固執してしまったら、物語の本質を見失ってしまう。それこそそういう作品が、今多い気がする。どこか牧歌的ないじめっ子三人組にとどめることで、そしてそこにドッカーン!とぶつかってくる香山君が登場することで、イジメという現実をきちんと描きつつも、物語の本質に向かうことこそを大事にしていることを感じるのだ。

香山君はラジオ大好き、テレビはほとんど見ていない、というのは、だから放送部員になり、DJカヤマとして独自の放送を作るのに情熱を燃やしているという単純な図式だけではない。テレビが見られないのは、その過酷な家庭環境によってであり、今までラジオだけが友達だったんであろうと思われる。
家庭環境は安穏だったけど、テレビの視聴制限はかけられていた昭和世代の私はラジオっ子だったので、なんだか嬉しくなる。ラジオはテレビと違って、リスナーとの距離が近くて、というか、そもそもリスナーの反応を前提としている媒体で、今改めて、その価値をしみじみ感じている。
テレビと決定的に違うのは、コミュニケーションツールなのだ。香山君はだからこそラジオに、そして校内放送に魅力と価値を見出していたに違いなく。

一人暴走しているDJカヤマにはリクエストも皆無で、むしろうるさがられている。それは岸本君も同意見である。でも、ひょんなことから彼と近づきになる。いじめっこにぶつけられた水風船でびしょびしょになった服を、お母さんに気づかれないようにこっそり乾かす場所を探して、雑居ビルの屋上にあがったら、そこに思いがけず香山君がいたんであった。
彼はあちこち、“カヤマの別荘”を持っている……その貼り紙をしても誰も文句を言わない(つまり気づかれない)場所。この時には今一つピンときていなかったが、つまり彼は、家に帰れば暴力を受ける、自分の身を隠す場所を探し続けているのだ。

そう考えると、少なくとも家は安住の場所である岸本君だが、ハーフであることでいじめられているから、大好きな母親にもつい辛く当たってしまう。フィリピンパブに勤めているお母さんは超美人で超スタイルよく、超イイじゃん!!と思うが、そら息子にとってはそーゆーことではない(爆)。
こういう家庭環境でよくある母子家庭だと単純に予想したら、実に温厚そうな父親が登場し、皿洗いをしながら息子の食事の世話を焼き、妻と息子の小競り合いを、妻の方こそを抱擁してなだめるという、超理想!!の素敵さに鼻血出して倒れそうになる。

大体今までよく見るパターンとしては、フィリピンパブの客と結婚しました。でも離婚、いや、ありていに言えば捨てられました。今は母子家庭で必死に育てています。ハーフで父親のいない子供はいじめられています、みたいな図式がお約束みたいに、見ることが多かったからさ。
それに反旗を翻した!!みたいな気もするのさ。日本の男は、皆が皆そこまでダメじゃない!と、思いたい!!(爆)。

岸本君の、そして後には香山君も心のよりどころになるのが、図書室の司書である祥子先生である。いつもガラガラの図書室に(そういう時間帯をネラっているのかな)、準備中の札に裏返して入っていく岸本君。
祥子先生だけが、彼と垣根なく話してくれた。そう、担任の先生もいるんだけど、めっちゃイジメられているのを目の当たりにしているのに、まじシカトなんだもの。むしろイジメって先生に隠れてやるもんじゃないのかよと思っちゃうぐらい(爆)。でもそうか、先生もイチ人間だから、面倒なことは避けたいのか……。

祥子先生がなぜ、岸本君や香山君といった、いわば学校のつまはじき者と垣根を持たずに接せられたのか。優しい人柄、人格者、残念ながらそういうことじゃないんだ。勿論それはあったにしても、根本的な理由、それは、彼女もまた二人と同じ、つまはじき者だったから。世間の常識、良識、という暗黙のルールに対しての。
結婚している人の子供を宿し、周囲の反対を押し切って出産し、そしてその赤ちゃんを亡くした。当然、その交際相手は、周囲の反対、の前に離れてしまったのであろうことは、想像に難くない。

小学生にこんな大人の事情はキツいのではないかとも思ったが、考えてみれば、岸本君にしても香山君にしても、まさにその大人(両親)の事情こそが苦しみの元である。ただ、そのことによって自分は生まれてきて、今生きている、という図式まで明確に思い浮かべた訳ではないだろうけれど。
祥子先生がいつもいつも、写真を見ては私の生きがいだと語っていた彼女の赤ちゃんが、今はもうこの世にいない、というショッキングな事実が彼らの前に立ちはだかる。同時に、信頼し頼ってきた先生が、その事実を受け止められていないという事実も含めて。
彼らがただ守られるべき子供のままではいられない、というか、助けたい、守りたい相手が出来た、しかもそれが、自分たちが助けられ、守られてきた大人だということが、本作の、凄い、素晴らしい展開だと思って……。

表面上は乗り気じゃないものの、段々と香山君に巻き込まれて行く岸本君は、ウッカリ彼自身が口にしてしまった昼休み放送でのドッキリ企画を、祥子先生まで巻き込んで計画、じっくり稽古までして本番を迎えるばかりになる。
でも祥子先生の先述の秘密をいち早く香山君が覗き見て知ってしまって、それを、「祥子先生から教えてもらった」と小さなウソをついちゃったことで、岸本君はつまりは嫉妬しちゃうんである。

だって祥子先生は優しいだけじゃなく、風貌もとても可愛らしく、香山君がケッコンするんだ!と張り切った時に、岸本君が、いや、結婚して子供もいるから、と即座に否定するあたり、お互い祥子先生をめっちゃそーゆー対象で見てるでしょ!!という可愛らしさがあってさ。
だからこそか……。結婚してるなら子供がいるっていうのは理解の範疇。でも結婚してない。生まれた赤ちゃんは死んでしまった、ということから小学生男子である彼らが導き出す苦悩は、計り知れないものがあると思って……。

岸本君は、こんな確執があったせいで、ドッキリ特別放送をドタキャンした。その代わりに祥子先生がその任を担っちゃったことで、冗談では済まされなくなってしまった。
いや、それ以上に嫉妬に駆られた岸本君が、祥子先生に赤ちゃんなんていない、ウソをついているんだと校長先生に手紙を出したことこそが大きかった。祥子先生は謹慎になり、香山君はみんなの前で頭を下げ、……つまりは岸本君だけが卑怯者になった、と、彼自身がさいなまれた。

なんてつらい、なんてつらい!!ここからどうなるのと思ったが、岸本君がハラをくくってくれたから、くれたから!!だってだって、岸本君はいじめられても、バカは相手にしない、という説明を自分の支えにしていたけれど、それはやっぱり強がりで、香山君が割って入ってくれたことが、絶対に嬉しかったに違いないんだもの。
弱っちいのに、全然力にならないのに、でも彼は、臆せずいじめっ子たちの前に立ちはだかり、ぶっ飛ばされて動けなくなった、のは、いじめっ子たちに対する芝居で、心配して抱き起した岸本君に変顔をして笑わせる。
なんか涙出る。それこそ凄惨なイジメ描写を競うように描出する昨今では甘いと言われるのかもしれないけれど、表現したい本質はそこじゃないんだということを、改めて静かに優しく訴えてる気がして。

大好きな祥子先生に、自分たちのメッセージを聞かせたい。一世一代の作戦を二人は決行する。あの時ドタキャンした岸本君こそが、その先導者である。香山君が英語と聞き間違った岸本君のフィリピン語の愚痴、愚痴っていうのは、本音と言うことだ。だからこそ、英語と聞き間違っても、香山君はカッコイイと思って、岸本君にDJを依頼し続けた。
岸本君は母親が友達と大声で歌うフィリピンの歌に、「近所迷惑」というのは言い訳で、自分がいじめられているからの嫌悪感で反発した。でも優しき父親が言うように、本当はそうじゃないのだ。お母さんのこと、大好きだし、フィリピンの歌も、後に証明されるようにソラで歌えるほど身についてる。

お母さんが、イヤな思いを心にしまいながら仕事をしているのを、覗き見る描写を入れてくるのは優しすぎるかなとも思ったけど、でも、仕事に臨んでいるお母さんは家でのラフなお母さんと違って、芸能人かと思うぐらいのスタイルの良さと美しさで、観客の方が目を奪われるし、しつこく言い寄ってくる酔客を愛想よくしながらも毅然と追い払うのがカッコいいし。
それをこっそり見守っている岸本君、泣き声で、お母さん……!と駆け寄るところでカットアウトするのが、たた、たまらーん!!

祥子さんの亡き赤ちゃんの一歳の誕生日、その瞬間12時に向けた、ゲリラ放送。苦しみ続けた自身のアイデンティティを解放したフィリピンの愛の歌を町中に向けて歌い上げた岸本君。
ひとり亡き子のバースデーケーキを前に過ごしていた祥子先生がそれに気づき、窓際で耳を澄ませて、静かに涙を流す。

その後、深夜の校舎に忍び込んだこと、勝手に放送を流したことをとがめられるも、まず、香山君が、それまで虐待に屈していた父親に歯向かったことと、校長先生が、「大事な人(祥子先生)のためにやったんだよな」と言ってくれたこと。
ああ、優しい、優しい。先述したように、イジメ描写の凄惨さを競うような昨今だし、現場の先生も対応しきれないような家庭環境や教育現場の厳しさで、ある意味、こんな風に優しい後味を残す映画を作るのは、かなりの勇気であるかもしれないと思う。

そう、これこそが勇気なのだ。凄惨なイジメ描写を描いて、赤裸々だと評価されることが勇気ではないのだと、思った。
岸本君、香山君、祥子先生。彼らの苦しみに真に耳を傾けるための、最上の、正確な、形をとったと思うし、だからこそ、胸を打たれた。ラジオ好きとしても、めちゃくちゃ嬉しかったなあ。 ★★★★☆


君が世界のはじまり
2020年 115分 日本 カラー
監督:ふくだももこ 脚本:向井康介
撮影:渡邊雅紀 音楽:池永正二
出演:松本穂香 中田青渚 片山友希 金子大地 甲斐翔真 小室ぺい 板橋駿谷 山中崇 正木佐和 森下能幸 江口のりこ 古舘寛治

2020/8/5/水 劇場(テアトル新宿)
青春映画の新たなマスターピース、だなんてこーゆーこと簡単に宣伝文句にしちゃうんだよな、とか思いながら観始めたが、こ、これは本当にその通りかも……と思い始め、観終わる頃には完全にノックダウンされていた。
今の若い子たちのリアリティなんておばちゃんの私には知る由もないのだが、ものすごくリアリティを感じたし、その一方で観客をすっかり騙し切るストーリーテリングもある。
そのいわば“オチ”に際して彼らが様々に思いを巡らす、心理的クライマックスとも言いたいあの場面が、むしろ未来への明るささえ感じて、胸に迫った。

この6人ともが、主人公と言いたい。縁(本当はユカリだが、友人の琴子からはえん、と呼ばれている)と琴子の親友二人、父親に反発する純と継母と関係している伊尾のねじれたカップル、縁と仲の良い男子で琴子にホレてる岡田、精神的に不安定な父親を抱えて苦悩している業平。彼らみんな、それぞれに放射線状に片思いしているというのが徐々に明らかになるにつれ、それにも胸が締め付けられる。
そして……最終的に誰かが口にしたように、みんな、子どもなのだ。琴子なんて男を食っては捨てるファムファタルで、縁のことを「処女の匂いがする」なんて言って子ども扱いするけれど、そんな風に経験の有無で大人になろうとする痛々しさが子供そのものであり、痛々しいけれどいとおしい。

とにかく素晴らしいのは、舞台になっている大阪の、そして高校の、彼らすべてが漫才師じゃないのかしらんと思えるぐらいのぽんぽんとテンポの良い会話と、アクションとも言いたいぐらいの身体表現である。
スカートの丈を測るジャージ姿の熱血教師なんてイマドキいるんかいとヘタな大阪弁でツッコみたくなるような、いかにも楽しい学校生活は、殺伐としたイジメ描写を競い合っているような昨今の“青春映画”と比して、ファンタジーかと思われるぐらいに楽しい。

まずそれが一つのリアリティ、なんである。この学校にだってイジメはあるだろう。とゆーか、東京から転校してきた伊尾は標準語というだけでその口ぶりをマネされてトーキョーというあだ名がつく、なんていうのは明らかにイジメのひとつであろう。
それこそ“昨今の凄惨なイジメ描写”に比すればあまりに軽いが、でも明らかに伊尾はこの地になじめず、かたくなに一人でいる。彼にとってはこの大阪、というよりはこの大阪のこのひとつの町、もっと言ってしまえばショッピングモール一個ですべてがまかなえてしまう狭い世界こそを、憎んでいる。

そしてそれは、ここに限らず、あちこちの地方都市に存在するであろう価値観である。むしろ、大阪という、私たちが一般的に想像する都会性や社交性とは真逆のような気もして意外だが、しかし大阪というアイデンティティはその中で完結するというイメージも確かにある。
外に出ていきたがらない。ここ以外の、ここ以上の場所はない、みたいな。それを、ひとつのショッピングモールに象徴させるというのが、大阪っぽくなくて、まるで東北かどこかの地方都市の設定のようで凄く意外だったのだ。

それが最も作用するのが純と伊尾のカップルである。いや、カップルと言っていいのか。単なるセフレではないのか。純は鬱屈している。母親が出て行ったのは家事を完璧にこなしちゃう父親が母親の役割を奪ったからだとかたくなに信じて、父親を憎んでいる。
……この考え方こそがとても21世紀のジェンダーの価値観とは思えず呆然とするが、結局は日本における父親と母親の役割のすみわけはそう簡単に行かないらしいことを痛感する。

そして大人なこっちとしてはひたすらこのお父さんに同情してしまうんである。いや……どこかでは純だって判っているのかもしれない。判らないフリをしている。だってそうでなければ、大好きなお母さんがいない苛立ちの矛先がないから。
お父さんがめっちゃ頑張って、美味しそうな朝食、バースデーのごちそうを作っているその想いが判らない訳はないのだ。だから……コドモだけどそれが判らないほどコドモじゃないから、彼女はそれを大人のするセックスとして伊尾に絡まり、執着し、正当化しようとしている。

伊尾は継母のミナミさんと関係を持っている。純はからっぽの駐車場にぽつんと止められた車の中で激しいディープキスを交わしている二人を見て、立ち尽くす。
純もまたこのショッピングモールですべてが完結しちゃう生活を送っている。家に帰りたくないからというのもあるし、仲が良いと思っていた友達とダベっていたところが、その友達を迎えに来た後輩と、二人ラブラブに去って行ってしまうのをどこか呆然と見送るんである。
この二人は明らかにビアンと思われる描写で、つまりそれが後半のそうだったんだ!と思わせる伏線になっていることを後から思い至る。しかしこの時点で、友達にとっても自分が一番じゃないことに打ちのめされる、まあそんな明確な言い方では言い切れないもどかしさが、彼女の中で爆発し、ブルーハーツが炸裂するんである。

「気が狂いそう」今思ったワードで検索したその言葉でヒットして、彼女にとっては生まれる前のブルーハーツの名曲が流れた。そして伊尾に出会った。「キスしてほしい」曲のタイトルでもあるその台詞が印象的に駆け引きされる。
伊尾にとってはこのショッピングモールは、ミナミさんがここだけで人生のすべてを完結した場所であり、こんなところにいたらそれこそ「気が狂う」んであり、東京に戻りたいというのは、ここが大阪ということじゃなくて、それ以上に狭いすべてに、手が届く場所に満足するミナミさんや父親もそうだし、もしかしたら自分もそうなっちゃうかもしれないという焦燥に駆られているからなのだ。

縁と琴子、そして岡田と業平のねじくれ加減は純と伊尾のそれよりもさわやかさはあるけれど、でも重い。縁と琴子の楽しそうな友人関係は、ほんっと、女漫才師のステージを見ているようであり、琴子はえっちくさいモテ女子だけれど攻撃的な大阪弁がマゾ心を萌えさせる、女王様タイプ。
縁のような優等生タイプがなぜ琴子のような爆弾女子と一緒にいるのか、外見だけであまりに違い過ぎるのに、琴子のマシンガンに阿吽の呼吸の縁のカップリングは、最初の内はその食い違いに気づかないままである。

琴子が落ちこぼれなのに対して縁は京大も目指せるような優良女子であり、ホントになぜ、この二人がつるんでいるのか不思議なのだが……。そういやあ、こういう中高映画に必ずある、女子のグループ分け描写が本作ではないな、と思うんである。一人一人、そのアイデンティティが確立している。グループ分けのピラミッド構造が、ない。
だからこそ、琴子と縁という対照的な二人が親友として成立する、と思いかけて、でも縁は自分が学年トップの成績をとっていることを、琴子の母親に「琴子には言わんといて」と口止めするんである。琴子はそんなことを気にせず付き合っているとは思うけど、でもそれを口止めするほどに、縁は琴子との関係を壊したくない。それはつまり……。

琴子のことが、そういう意味で好きだから。

あら!マジで気づかんかったわ!!琴子が今度こそホントの恋に落ちた業平君と縁の方が仲良くなってしまって、それは業平君が暴れた父親を介抱しているところに縁が遭遇していたこともあるんだけれど。

琴子は縁との秘密基地的な場所に業平君が入り込んでいたことに、彼女らしくブチ切れる前に彼の涙を見て恋に落ちてしまったのだが、そもそもなぜ彼が泣いていたのか、何を抱えていたのか、琴子は全然興味を抱かなかったんだよね。
縁に処女の匂いがするとか言って子ども扱いしてちょっとバカにしている琴子だけれど、そういうあたりが全然縁よりコドモであり、縁にとっては、こんなに私が好きなのにそれに気づかないことこそが全然コドモやわ、と思っていたかもしれない。

今の時代珍しくもないんだろうけれど、片親、再婚、出そろっている中で、縁だけは、マンガみたいに平和で仲の良い家庭なんである。
悩み深き業平君を心配して家に連れて来た縁に、むしろはしゃいで迎える両親は信じられない平和さである。むしろ縁にとっては、何の不満もない、理解ありすぎるこの両親こそがナヤミなんじゃないかと思われるぐらいである。

だって、こんなあたたかい家庭に招かれて業平君は笑いながら泣きそうなんだもの。しかし、琴子のところも片親ではあるがスナックのママをしながら女手一つで琴子を育てる江口のりこはめっちゃステキだし、タバコを娘に400円で売りつけるあたりとか(おーい!!ダメだぞー!!)片親だからとか、両親揃ってるからとかいうのは、本当に今は、まるで作用しないことがひしひしと判る。
でね、そもそも本作にはもう冒頭にひとつの危険球が投げ込まれているんである。高校生が父親を殺したという事件。それがまず示されて、時間軸をさかのぼり、この狭い世界の、6人の青春が紡がれていく。当然、この中の誰かがしでかしてしまったと、思うでしょう。ハラハラしながら、見守り続けているでしょう!!

でも、この誰でもない。正直、業平君だと思ったが、それは判りやすすぎる例で、伊尾でも純でも充分可能性はあった。未成年の事件だから名前は公表されない。不安を抱えた中で学校で再会し、お互い安堵を覚えて、ショッピングモールで集まる。
琴子だけ輪の中にはいないのは、関係性においてしょうがないのだけれど、ちょっと寂しい気がする。でも琴子はこんな内省的なとつおいつをするタイプじゃないのだ。もっとずっとストレートに、ドガンガシャーン!!なタイプなんだもの。

そういう意味では、めっちゃイイ奴、の縁の親友と言ってもいいであろう、気のいい男子、岡田君はそんな琴子にホレている訳だが、かなり同じベクトルで似合いのカップルになりそうな気もする。
いやでも、やっぱり全然違うな。岡田君は本当にメッチャイイ奴。琴子が周囲を惹きつけまくりながらもその周囲の気持ちを一ミリも理解していないのと違って、岡田君は理解しまくってる。告白してきた後輩女子の和歌に真摯に応えようと成績の良い縁に助けを求める。

縁が琴子にホレていることもとうに判ってるし、同じサッカー部である業平が縁のことを好きになっちゃってることも判ってるから、まるでオバチャンみたいに心配している。ああこんな男の子、友達に欲しい!!
つまりは縁とは男女ながら親友同士であり恋のライバル同士という、時代やなーと思いつつ、二人とも片想いで玉砕するんだろう、それが判っているからこそ、どれだけ近い場所で近い存在でいられるかで勝負するんだろうとか思って。
だからラスト、縁が琴子と泥だらけになりながら思いをぶつけ合うシーンで、でも縁は琴子に自分の気持ちは結局言わないし、ズルいような!

でもなんたって、琴子を省いた5人が豪雨をやり過ごすために、ショッピングモールの中に忍び込み、暴れまくって、お互いの気持ちをぶつけ合うクライマックスがサイコーである。これは、これはさ。誰もいない、閉店後のショッピングモールをうわー!!!と絶叫して、もうあちこちやりたい放題に駆け回りまくる、トイレットペーパーをステージに投げるテープみたいに投げまくるとか、やってみたいことばかりでしょ!
止まったままのエスカレーターに体育座りし、一段ずつ降りて行きながら心情を告白するフィックスのシーンとか、ヤバすぎる。だって、だってさ、本来なら逆方向に動いている筈のエスカレーターを、同方向に降りて行きながら、ずっとずっと隠しておきたかった秘密の恋心をお互い打ち明け合うんだよ。キャー!!ダメだよー!!

主人公6人ながら、ここに琴子がいないっていうのが、なんかナットクな気が、するのだ。琴子は悩んでるけど、悩んでない。愛されている幸福な人だ。でも琴子の存在は、正常であり理想として残り5人に作用している気がする。
父親を殺した生徒は彼らには誰も面識がなかった。「普通のヤツだった」と言うだけ。普通って、何??というのはこういう場合よく語られることだけど、それを実地の、いまリアルな同級生としての彼らが、タラレバとしても考えて考えて絞り出す気持ちが、刺さりまくるのだ。

それはつまり、私たちと同じということ。同じように学校に通い、同じようにバカ話に笑って、変わったところなんか気づかない。それは裏返って言えば、彼らは言わなかったけど、悩みや苦しみを判るように外になんか出さない、てか出せないってことである。
報道後、学校で再会した彼らが、よかった、あんたじゃなかったんだ、と思う安堵はすぐに、それがあり得たことを思わせ、誰もいないショッピングモールで、強制されないグループディスカッションのように想いをぶつけ合うのが……でもそれが、そういうことが大事なのだとも思い。そういうぶつけ合いが、次の悲しみを産まないことになるのだと思い。

凄く凄く、重層的で、リリカルで、赤裸々で、そしてエンタテインメント抜群のオオサカな感じで、本当にワクワクするし、言い切れなくて困っちゃう。青春映画の新たなマスターピース。間違いない。
大人ぶってる彼ら彼女らがカワイイとも思ったが、今この年になっても、劇中の彼ら彼女らの親たちと同じように、不器用にしかその気持ちを示せないコドモなのだ。申し訳ないけど。それを判ってほしいなんて、大人なのにムチャだと思うけど。

でもね、その中で、ちょっとグッと来たのは、結局どういう事情でシングルファザーになったか判んない純の家庭、常にエプロンをして完璧な食事を用意している古舘寛治演じるお父さんが、ふと手元を見ると、左手の薬指にしっかり指輪をしてるんだよ。
どういう事情で奥さんが出て行ったのか判らない。そして娘からはお前のせいだろと反発されてる。でもお父さんはひとことも言い訳せず、お父さんのせいなんだよな……とつぶやき、ぶーたれた娘のために、日々ムダになるいかにもおいしそうな食事を作り続けているのだ。

ああ、大人としてはこっちにシンクロしてしまうから、ラスト、ホントにお父さん、良かったなって思って!
純がショッピングモールから朝帰りして、一晩中待ち続けていたパパと、それでも朝帰りの理由なんか聞かないパパと、ラップされたお好み焼きを温めもせず頬張りながら、「天かすが入ってへん。天かすいれなきゃふんわりいかんのや」と冷静に父親にツッコミを入れる。母親が作っていたのを見ていたから知っているのだとぼそりと言い、それでも副菜やらごはんやらも黙々と食べ続ける純、……大人になったということ、だと思う。

彼女はひときわ独特なキャラクターで、態度はデカいけど、地味系というか、メイクとかファッションをキメてる訳じゃないし、顔立ちも平凡で、だからこそ逆にすんごく、印象的なんだよね。
そんな彼女も含めてキャスティングが素晴らしく、芝居も素晴らしく、うがって構えていたババアを天空から突き落としてくれた感じ!! ★★★★★


君死に給うことなかれ
1954年 99分 日本  モノクロ
監督:丸山誠治 脚本:丸山誠治 西島大
撮影:中井朝一 音楽:早坂文雄
出演:池部良 司葉子 若山セツ子 英百合子 土屋嘉男 菅井きん 河美智子 鏑木はるな 持田和代 恩田清二郎 土屋博敏 松本光男 馬野都留子 瀬良明 志村喬 小沢経子 高原とり子 大成政子 上野洋子 出雲八重子 藤木悠

2020/9/2/水 録画(日本映画専門チャンネル)
うわーもうどうしよう。池部良が素敵すぎて倒れる(爆)。おいおいおい、これはしっかりした戦争映画、いやさ反戦映画というべきものだし、傑作だし、なのに私は池部良の素敵さにばかり心奪われてちっとも正確な観方が出来る訳ないぞ。どーしよー。

……落ち着け、私。しかしホントにイイ男だなあ……(抜け出せない)。モノクロがまた似合ってて……(抜け出せない……)。落ち着け私。
時代はまず終戦直前から始まる。でももちろん、そこで苦労している人々は間もなく戦争が終わるなんては思ってない。ただ……隠しても伝わってきてしまう重苦しい戦況、池部良扮する亘の友人が、きっと本来ならばもうこれぐらいの年齢の男子は召集されることもないところが、そうざらえかき集められるような先行きのなさが、人々の間にひしひしと真実を知らしめていた違いない、そんな時。

亘と看護婦の久美子が出会ったのは、亘の老母が入院している病院である。登場がイイ。カワイイワンコが病院内を駆けてくる。驚いた久美子がしっしっ、と追い払うと、そこにご登場のちょーカッコイイ池部良、もとい亘が(やべぇな、私)ひょいとそのワンコを抱き上げ、「ひどいな君は」としかし笑顔で話しかけるんである。
このワンコ=ボンはその後も何度となく登場して愛らしさを振りまき、更に違うボンとしてさえ登場してムネアツになるんである。
違うボンというのは??それは後の話だが、いやー、この時代になんと芸達者な、素晴らしき芝居をするワンコであろう。私ゃ猫派だがこのワンコにはヤラれる。なんたってあの素敵すぎる池部良にひょいと抱き上げられて大人しくその腕の中に抱かれてる、あー、ボンになりたい、私(ダメだ……)。

老母は何の病気だったのか、彼女が息絶えてしまったのはその病気のせいというより、その後に襲った空襲のショックであったろうと思われる。
その時亘は友人の小島に妹の礼子をもらってやってくれと持ちかけられていた。
この時代は、“色恋にうつつを抜かしている時じゃない”つまり恋愛と結婚は全く別問題で、兄妹二人きりである小島は、妹を案じるあまり、結婚という形で亘にその後を託そうとしたんであった。
妹は自分の言うことなら何でも聞くから大丈夫、とあっけらかんと言う小島のマッチョな思想は現代じゃとても通用するものでもないし、小島が亘に「その髪、切れよ。女みたいだぞ」と言う、亘のいまだ文学青年の青臭さを悪意なく揶揄する言い方も、全く無意識だけれど、まさに戦時下の非人間的価値観に気づいてさえいない恐ろしさなのだ。

しかし思いがけずの空襲である。母は亡くなり、そのそばについていてくれた久美子と、一気に距離が縮まる。もうここからは池部良の殺し文句のオンパレードでマジで倒れそうになる。
久美子はなんたってこの戦時下で看護婦をやっているんだから、男子とこっそり会うだなんて、婦長(じゃなく、代理なんだけど)の厳しい目が光っている。
この婦長代理がコワくてねー、こんな時に患者さんの身内の男性といちゃつくなんて何考えてるの。しかも彼はもう(母が死んでしまったから)病院とは関係ない人じゃないの、とキラリと光る眼鏡の奥から鋭い視線を飛ばして叱責されるんである。めっちゃコワーイ!!

怖気づいた久美子は、亘に惹かれてはいるけれども距離をとるのに、亘は頓着なく彼女にぐいぐい迫ってきちゃう。時に空襲訓練をやっているところに押しかけてきたりするもんだから、こんな場所で……と久美子が婦長代理の視線を気にして躊躇すると、「場所が何の関係があるんだ。僕が君が好きだというのに」
キャーッキャーッキャーキャーッ!!!もうもうもう、だからもう、そんなこと、真顔でさらりと言うんじゃなよ、死ぬぞこちとら!!あああもう、うらやましい言われたい、いやもう私に言われてることを夢想するぞ!!……落ち着け私……。なんつーかもう、池部良はあの甘いマスクで、しかし常にまっすぐにマジにアタックしてくるもんだから、ああもう、ヤバいんである。

久美子は切羽詰まって、彼に黙って故郷の広島に帰ってしまう。亘は追いかける。列車に飛び乗り、探し出す。君と一緒に広島に行くよ、と言う。なんとムチャな、と彼女は驚くも彼は引き下がらない。
途中、米軍の爆撃が汽車を襲う。バラバラと飛び降りて逃げ出す乗客。こんなことも、あったんだと戦慄する。すぐ近くに爆弾が落ちる。亘は久美子をかばって伏せる。何度も危険が押し寄せる。なんとか危機を脱して、亘は久美子を抱きしめて、言った。「やっぱり僕と一緒じゃなきゃダメじゃないか。君一人ならさっき死んでるよ」

ああもう、もうもうもう……。基本的には私はフェミニズム野郎だから、こーゆー、男が守らなければ女はダメだという思想はキライさ。でも池部良になら言われたい。言われたくて仕方ねー(爆)。
もちろん、決して久美子自身が弱い女だとは思わない。看護婦として自立しているし。それは、彼女だけではない。礼子だってそう。妹のことを心配するあまり、亘に押し付ける形でもらってくれと小島は依頼したけれど、その礼子もまたその後、雑誌記者としてきちんと自立していたことを思うと、本作が単純にマッチョな思想で作られていないことはとてもよく判るのだ。

でね、久美子の故郷に押しかけであいさつに行く形になる旅の途中に、亘への召集令状が東京からの電報の形で届けられるんである。こんな時に……。
しかして二人の気持ちを確かめ合うにはこんなドラマティックな状況はない。ヤッたでしょ、ヤッちまったな!!あー、こんな無粋なことは言いたかないが、二人きりの客車の中で、キッスだけで済む訳なかろーが、バカヤロー!!(落ち着け落ち着け私……)。

時は過ぎる。てゆーか、彼女が帰っていった故郷が広島だったことが何といっても気になっていた。その事実が判った時から、ピカドンが明示され、彼女の生死が判らないところから展開するのかと思っていたら、数年が経ち、久美子は故郷の保育園で働いている。園長が志村喬とゆーのがもう、感動的な展開を予感させてムネアツである。
亘の出征を見送って、ずっと待っていると約束していたけれど、この時点で久美子は行方不明の状態である。つまり、亘から姿を消しているんである。

広島、つまり……である。優しき園長先生は、久美子が患っている原爆症の治療のため東京に行くように勧める。
東京に行ったらあの人に会ってしまうかもしれない……優しき園長先生にはすべてを打ち明けているから、久美子の気持ちを充分に汲むものの、あの広い東京でそうそう会うこともあるまい、と説得して送り出す。確かに亘とは会わなかった。でも亘の親友の妹、礼子に会っちまうんである。

原爆そのものの悲惨さをこれ見よがしに描かないところが、本作の特徴的であり、人が傷つくのはあくまで心の問題だということにこだわったところであると、思った。
久美子は倦怠感も訴えているし、“ケロイドよりも白血病になってしまったらそっちの方が重大”という医師たちの会話を漏れ聞いてショックを受ける訳なんだけど、右頬にある筈のケロイドは決して、映さないんだよね。

最初のうち久美子が原爆でケロイドを、しかも顔に負ってしまった、という、まあステレオタイプだけど、女の顔に!!みたいなのが全然映さないから、ピンときてなくて、言葉だけで言われて展開していくから注意深く見てみると、確かに全然右側映さねーぞ、ということに思い至り……。
これは、時代性、なのかなあ。女の顔がケロイドで醜くなっているのをスクリーンに映し出す、というのは倫理上とか、女性に対する哀れさとか、そーゆー価値観なのだろうか。現代だったらちょっと考えにくい。
そらまあそれが、特殊メイクでしょ、と思うからってのもあるにしても、その前提があるのに、女性として、あるいは女優として、それを見せるに忍びないというこの時代の現実こそに驚愕してしまう。

必死に探し当てた久美子を、とにかく必死に説得して、自分と共に幸せになるんだと、一緒に帰るよ、と納得させた筈、だった。ただ、その過程において、彼女のケロイドを……顔じゃなくて、その手に見た。
もちろん、久美子は敢えて見せたのだ。これでもいいのかという意味合いだろう。でも決して、顔のケロイドは見せない。彼の前では決して外さないマスク、お互い判りあったと思ったところで、亘が優しくそのマスクに手をかけようとしても、避けてしまう。

奇しくも今こんなコロナの状況で、誰もがマスクをしている状態で本作を観ると、久美子が気にしてマスクを装着し続けているのが、マスクなんてフツーなのになあなどと思えて、今じゃない時に見たら、また全然違った感想になったかもとも思うのだが……。
ただ執拗に、左の横顔を見せ続ける久美子に気づくと、あるいは特殊メイク費用のこととかもあったのかなとも思うが、でも手は一瞬だけど見せた訳だし、もー、メッチャ気になっちゃう。

本来ならば、ケロイドや後遺症によるその後の余命の問題があれど、お互いの気持ちを確認し合ってひしと抱き合ったところでハッピーエンドになる筈なのが、その後、じゃあ泊まっていってね、布団敷きましょうか、なんていう引き延ばしにかかるからイヤな予感がひた走る。
こりゃー、もしかしたらバッドエンドの可能性……イヤだー!!せっかく大好きな志村喬が、彼自身の人生訓を語って心配して送り出した先で、悲惨な結果になるのはあまりにツラ過ぎるだろ!!

もうね、不穏な空気ばかり打ち出しやがるんだよ。亘の夢の中で妙に幸福なキャッキャウフフな追っかけっこをする。しかしハッと目が覚める。夜中である。ワンコの鳴き声。
この信州の山の中で、かつて亘が飼っていたワンコと同じ名前をつけて、姿かたちもソックリなワンコと共に久美子は暮らしていた。その一発で、久美子の亘への変わらぬ想いを証明しているようなもんであった。そのワンコが鳴いている声が亘を起こした。

不穏な予感を感じて久美子の部屋に行く。いない。窓が開いている。飛び降りたか!!とも思ったが一階である(爆)。
ワンコの鳴き声は遠く聞こえている。その声を頼りに駆けていく。この地で久美子を捕まえた河原である。川面に向かってワンコが吠えている。いやだ、いやだ。入水して、死んじゃったの?そんな結末、サイアクだ!!

亘が必死に川に分け入っていく。沈んでいる久美子を引き上げる。その時には異変を聞きつけて、施設の人たちが駆け寄ってきている。医者が脈をとる。大丈夫ですよ、と言う。ああ、ああもう、……良かった!!!
うっすらと目を開けた久美子に、安堵と共に叱りつけるように亘は言った。死ぬくらいなら何でもできるじゃないか、と。そしてお姫様抱っこをして、怒ったような顔をして、歩き続けた。ぐったりと腕の中で、死んだように彼に体を預けている久美子。

池部良にすっかり心酔しているばかりだったけど(爆)、後から思い返せば、亘の友人の妹、礼子が女子としては共感というか、印象に残る。
彼女はお兄ちゃんからアイツは俺の言うことなら聞くから、と、まあ妹として可愛がっていて、心配しているんだろうけれど、いわばナメてるというか、ちゃんと一人の人間、一人の女として見ていなかったんだけれど、実はとても自立した女性だった。
いや、戦後、一人になって、本来の性分を発揮して自立した女になった、というのが、この時代の女性の強さを示しているようで。

雑誌記者として被爆者の久美子を取材する立場として登場、亘のことは好きだったに違いないし、久美子の行方が知れないから亘との結婚話が進んじゃっているところに久美子を発見して苦悩したに違いないのに、やっぱり、さ。好きな男が自分以外の女を好きなことが判ってて、結婚なんてできないさ。それはまさに自立した女のプライドさ。
そういう意味で言えば久美子は戦前の価値観を持ったままの古風な女、礼子に向かってあなたが亘さんと結婚すべき、だなんて、フェミニズム野郎のこちとらとすれば、ふっざけんな、とゆーところだが、礼子はそのはざまにいる価値観の女子で、自立女子と古風女子の両方の気持ちが判る人だったのだろう。違う時代から見る映画が面白いのはこーゆーところなのだよね。

だってさ、「僕は一生君の代わりに君のことを考えてあげなきゃいけないんだな。なんでも僕の言うとおりにしておけばいいんだよ」なんて台詞、そらー池部良に言われたいとは思うけど、池部良以外には言われたくない(爆)。こんなマッチョな女性蔑視な台詞ないんだもの。小島が妹に言ってた「俺の言うことなら何でも聞く」とおんなじじゃん。
それにしても久美子を演じる司葉子の美しさも絶句モノだった。これがデビューでまさかの代打。へーそうなんだ!★★★★☆


窮鼠はチーズの夢を見る
2020年 130分 日本 カラー
監督:行定勲 脚本:堀泉杏
撮影:今井孝博 音楽:半野喜弘
出演:大倉忠義 成田凌 吉田志織 さとうほなみ 咲妃みゆ 小原徳子

2020/9/19/土 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
大伴の前に、実に7年ぶりに大学の後輩、今ヶ瀬が現れた。しかも大伴の妻から依頼を受けて、浮気を調査している興信所所員として。
大伴は実際、浮気をしていて、今ヶ瀬の調査書類は完璧なものだった。でも先輩だから、先に知らせようと思ったんです、と今ヶ瀬は意味深に言った。
出勤してきた大伴の前に現れた今ヶ瀬の、半ばシルエットでたたずんでいる逆光の姿、顔もよく見えないのに大伴はすぐに今ヶ瀬だと判ったことが運命のはじまりかもしれなかった。大伴は知っていたに違いない。出会った時から今ヶ瀬は自分のことが好きだったのだと。

とゆー……大倉氏と成田君のツーショットが美しすぎて、倒れそうになる。原作は未読だけれど人気少女コミックということだからこの美男ぶりは原作を裏切らないんじゃなかろうかと思われる。
こういう美男子同士の恋愛ものというのは、実際のゲイの方たちにとってリアルかどうかというのはヤハリ頭をよぎるが、それを考えてしまったらこんな美しい二人は拝めない。

とか言いつつ……大倉氏が演じる大伴はもともとゲイではないところに、美しき後輩の今ヶ瀬から熱烈にアプローチされることで徐々に心も体も開いていく、という役どころなのだからそのあたりのセクシュアリティの変化も実際にはアリなのか、やっぱり気になる。
いや本作以前にも様々な作品で、ゲイのみならずレズビアンやトランスジェンダーを題材にした恋愛でもその試みはなされているのだから、そして人の気持ちや身体の感覚は一言で言い表せない多様なものなのだから、絶対にない、ということはないに違いない。それがこんな美しき二人であるかどうかは別にして(爆)。

ただそこが、大伴が昔の彼女から大学時代のあだ名を暴露される、“流され侍”であるというところが絶妙に引っかかってくるんである。実際、劇中通して見事な流され侍っぷりである。
今まで付き合った彼女はみんな、向こうからのアプローチだった。それだけの美しい男だったんだから当然であろう。今の妻も2年付き合って、そろそろかな、ぐらいの理由で結婚している。

そこに今ヶ瀬は噛みついた訳だったんであった。2年付き合えば結婚するんだね、と。今ヶ瀬から言われなければ、大伴はホントの意味で自分の流され侍の深刻さに気付かなかったのかもしれない。
大伴は本当に妻を愛している、大事にしたいと思っていた。いや、思い込んでいた、という方が正しいだろう。妻の方がその虚飾に耐えられなくなった。

浮気を疑っていた訳ではない。何も欠点のない夫だからこそ、浮気でもしていてくれれば、罪悪感が減るんじゃないかと思っただけだ。
夫の浮気に気づいていなかったのに浮気調査を依頼したのは、その“夫の浮気”も、そして自分との結婚も、流され侍の結果ゆえの薄っぺらさだからなのだ。

だったら、今ヶ瀬との関係はどうなんだろう。今ヶ瀬だって、出会った時から7年間、運命的な再会で爆発するに至るまでに、現時点でも同棲している恋人の描写もあるし、ずっと思い詰めていたってことはなかったろうが。
でも、再会に至ると、もうそれ以降はタガが外れるというか、ガマンが効かなくなってしまったのだろう、これが最後のチャンスとばかりに大伴に迫る。大伴が真性ストレートで、ゲイは考えられないというのだったら、今ヶ瀬との関係はなかった、のか??判らない……。

一応理由付けとしては、愛している(と思っていた)大事にしたい(と思っていた)奥さんへの口止め料として、キスだけを了承したところから始まった。それも執拗に舌入れは拒否していた。しかし今ヶ瀬が(これは秀逸な突破口だと思うのだけれど)「キスは口にするとは言ってない」と言って、パンツを脱がせてくちゅくちゅやり始めたところからすべては始まっちまったんである。
まさに流され侍ここにあり、である。男にやられようが女にやられようが、それは気持ちいいに違いない(爆)。

しかし生理的な拒否感や嫌悪感があったらやっぱりムリなんじゃないかなあと思うと、もともと大伴にはその素地があったのか……いやいやいや、なんたって彼は流され侍、自身のセクシャルアイデンティティさえ考える前に、当然男だから女と恋愛し、それなりに付き合ったら結婚し、結婚しても言い寄られたら断るのも悪いから付き合うような男。
それがイレギュラーに男子であったということだけだったんじゃないか。そしてそのイレギュラーな相手の想いが、それまでの女たちのそれと全く違ったんじゃないか。

とはいえ今ヶ瀬は大伴のスマホを公然とチェックするし、元カノとのデート場所にゲイの元カレをわざわざ引き連れて乗り込んでくるし、なかなかの女くささ、である。いやこれを、女くささというのは自身女としてどうなのかとも思うが……。
ただ、本作に出てくる女という女が、みんな、まさに女くさくて、凄くイヤな女ばかりなのが気になるというより哀しいというか、腹立たしくてさ……。

ちょっと、懐かしいような感じなんだよね。男と女で選べないってどういうこと?とか顎をあげて傲然と言ったり、嫁入り前のウキウキで「お母さんに習ってきたの、ジューシーなハンバーグ」って台所に立ったり、ねぇよ!!と叫びたくなる。
特に後者、大伴と結婚寸前にまで行く後輩女子の描写は、自分では無意識なのかもしれないというところが特にイラッとくる女の武器をふりかざしてくるから、そらあ今ヶ瀬がそれを敏感にキャッチするのは当然、なのだ。

この後輩女子の設定はご丁寧に、大伴の上司の内縁の妻の娘、オブラートに包んでるけど、つまりは愛人の娘ってことだろーなーと思わせるところである。
彼女はファザコンで、父親を驚かせたいがためにナイショで自力で入社してきたんだ、とこの上司は目を細めて語るんである。
その直後にこの上司は死んでしまう。葬式の場面で、当然親族の席になんて座れない彼女は雨にずぶぬれになって、大伴にさしかけた傘の下、彼の胸でわんわん泣くんである。

……この時点までは確かに、純情なただの少女だった、ように、見えた。いや、どうだろう……。
今ヶ瀬が興信所の仕事から帰ってきて、クリーニングに出していない、大伴の、女のファンデーションがベッタリついた喪服をクローゼットから見つけ出して激昂した場面で、観客であるこっちも、今ヶ瀬と同じ気持ちになったのだ。大伴もそうだけど、当然それをべったりとつけた後輩女子のしたたかさ初めて気づいた気がして。

大喧嘩になって、ホントは別れたくないのに傷つけあって別れて、そのすぐ後にこの後輩女子が事後、という雰囲気満点で大伴のマンションで朝を迎えてる。そのカッコが、男物のパーカー、それは大伴のであり、今ヶ瀬も勝手に着て、大伴からヘンタイ、とからかわれたそれである。
しかし華奢な女子の彼女が着ると、萌え袖になり(絶対ワザと!)ほっそいナマ腿があらわになり、可憐なのにエッチな雰囲気がバッチリ出るのだ。

これを彼女の計算だと感じてしまうのは女のヒガミ??いや計算で何が悪いのだとは思うけれど、この部屋で、愛する人の部屋で、必死にその想いをつなげ止めようとしていた今ヶ瀬のことを思うと、やっぱり許せない気持ちになる。
その同じパーカーを可愛い女子が着て、そして今ヶ瀬と同じポーズで小鳥が止まり木に休憩するように、高足の椅子に体育座りのように腰掛けるのだ。本当に、スライドで重なるかのように、同じポーズで。

そもそも今ヶ瀬との別れのすぐあとでこのシーンが来たから、その時には彼女よりは流され侍の大伴のあまりの変わり身の早さにゴラァ!!という思いの方が大きかった。流され侍にも程があるだろ!!と……。
大伴に心を残したパートナー(彼女、と思い込んでいるが)がいることを敏感に察知した後輩女子は、それを探りたいそぶりは見せるが、大学時代の元カノほどにはえげつない態度はとらない。
でもそれは、彼女の方が殊勝だからとか出来ているとかではなく、この後輩女子は、大伴の相手が男だということを知らないからなだけであろうことを思うと、何とも言えない気分になるんである。

一度だけ、彼女と今ヶ瀬(と大伴)は会っている。ほんの一瞬。会社の資料を届けて来た彼女に二人して会った。大伴は何とも思ってなかった。てゆーあたりが、しんっじられないのだが。
今ヶ瀬じゃなくったって、誰だって、この子が大伴にホレていることは丸わかりだ。いや、大伴も判っていたような気もするがなんたって流され侍だし、つまり……そういうことに慣れているからいちいち気にしていられないということなのだろうか??

本当に、なんでこんな男にホレちまったのか。今ヶ瀬の切なさが辛すぎる。なんたってノンケ(多分。大伴は自分自身に向き合わない流され侍だから)の男を振り向かせるってんだから、なりふり構わずにはいられない。
成田君はあまりにも美しい男の子だから、どんな老若男女も陥落しちゃうだろとつい思っちゃうが、その覚悟を改めて思うと、なんかもう……死にそうになるんである。

7年ぶりに会って、もうチャンスはないと思ったんじゃないだろうか。かなりあこぎな手に出るし、実際それにパイセンは陥落する。でも一方で判ってる。この人は流され侍だってことを。
後に誰かに問われる。なんでこんな人を好きになったのかと。好きになるのに理由なんかないでしょ、その台詞は今ヶ瀬が何度か言ったように記憶しているが、最後の最後に言った時、ホントに、なんでなんだよ、こんなに苦しめられてさ!!という言外の声が聞こえたような気がした……。

本当に幸せなのは、本気で好きになれる相手がいる人だとは思う。大伴のようにモテモテで、次から次へと来る相手をとりあえず味見して、人生設計建てようなんていうヤツは、こんな風につまづく時が来るんだとは思いたい。
でも実際は、どうだろう……。大伴はラッキーな人だ。フツーなら、自分自身のクソさに気づかないまま、奥さんも愛人も恋人もそれなりにこなしていける人生であっただろう。みんなあなたに真剣になったからこそ、それを知らしめてやりたいと思ったのだ。こんなラッキーなことはない。

最終的に大伴はこっぴどく振ってしまった今ヶ瀬を待つ決断をする。そのために、理想的な従順でカワイイ婚約者をソデにする。
「前の彼女さん」という誤解を解かないままなのはちょっと気になるが、まあ現代日本はここらあたりが限界なのかもしれない。

成田君は天才だと前々から感じていたが、本作で改めて感服した。恋する男のせっぱつまった、もう死にそうな、震える瞳にたまる涙。女の子以上に女の子、いや、女の子は既にもう汚れまくってるよ!!と思っちゃうぐらいの純真100%。
無造作なヘアスタイルがナイーブを際立たせ、非現実なまでの愛と可憐で出来上がっていて、もうウツシミじゃないんじゃないかと思うぐらい。
時々こういう、性別も何もかも超越したような天才が出てくる。武田真治氏が出てきた時を思い出した。これから先成田君がどう変貌するのか、楽しみでならない。★★★★☆


今日もどこかで馬は生まれる
2019年 94分 日本 カラー
監督:平林健一 脚本:
撮影:平本淳也 音楽:
出演:

2020/1/13/月 劇場(新宿K's cinema)
競馬ファンではないけれども、馬という生き物が人間と関わる他の生き物と違う、特別なものであるという感覚は判る気がする。競馬という場があるからこそかもしれないけれども。それこそ競馬ファンは涙なくして本作を観ることができないんじゃないかと思うほどである。
ていうか……なんでこの事実に気づかなかったのかと、思った。きっとすべての競馬ファンの頭の片隅には常にある事実なのだろう。有名なスター馬の死が名優のそれと同じように哀しく伝えられるのを聞けば余計にであろう。

ならばそれ以外の馬たちは……?

何千、何万を数える、それ以外の馬たちは……?

中央競馬で勝つことはもちろん、そこでのデビューでさえ一握り、生み出される“サラブレッド”が年間何千頭になるかなんて考えたこともなかったけど、でも何千頭、なのだ、ということはなんとなく予測がついた。そしてその行く末は……なんていうか、考えたくない予測であって。

本作は、子供の頃から競馬が大好きな監督さんをはじめとした有志によって、クラウドファンディングで製作をスタートさせたという。クラウドファンディングは昨今珍しくもないが、その額が予想以上に少ないことを後に知って驚く。この金額であれだけの様々な関係者の元に全国飛んで行って、根気よく取材を重ねた熱意にこそ感動する。
正直言うとナレーションの感情過多気味な感じとか、ドキュメンタリー作品としての出来具合としてはちょっと照れくさい部分もあるのだが、ただ単に、馬が可哀相、という方向だけの人を集めず、でもすべてが馬たちへの真摯な愛につながっているということ、これを個人的ボランティアで終わらせてはいけない、それが競馬というものを作り出した人間の、馬たちへの責任なのだという気持を、実に丁寧に描いていく。

とっつきのいいファンたちから始まって、馬主、調教師、大規模生産者、個人生産者、引退馬を馬術のパートナーとして迎え入れる選手、屠畜工場の経営者、養老牧場、引退馬の預託金の話などなど……まさに、漠然と不安の予感を抱えていた引退馬の、統計には現れない、つまり行方不明のデータを補う取材力で、丁寧に取材していく姿勢こそに、心打たれる。

やっぱりね、単純なんだけど、屠畜工場にはショックを受けるよ。それは、馬のみならず、最初から食肉用として育てられている豚や牛がここに運ばれてくる他作品を見た時にもショックを受けて、そんな自分勝手な人間である自分がほんっとヤだ!!と思ったもんだが、食べるために生み出されたんじゃない馬がここにやっぱり来るんだと思うと……それもまた、勝手な言い様なのだが……。

震災の時に犠牲になった家畜のことが話題になった時、経済動物という言い方を初めて知って、いずれ人間の口に入る動物に対して憐れむことが、人間の得手勝手なのではないかという議論に、なんかもう、どう考えていいか判らなくって、凄く凄く、悶々とした記憶があった。
競走馬が成績を残せなくて、売られ売られて食肉工場に運ばれる、というのを同様に考えていいのか判らないんだけれど、ここで違う、と言うのも、人間の勝手なのかとか、またまた悶々として……。

屠畜工場の経営者さん、よく顔見せしたと思う。ほんっと申し訳ないんだけれど、ヤハリ人の嫌がる仕事だと思うし、自らの手で家畜たちの命を奪う日々を送る彼らの葛藤は、想像なんて追いつかないんだもの。
このおじさんがね、他の豚や牛もそうだけど、特に馬は……やはり、頭がいい、判るんだろう、だからなるべく、目を見ないようにして、というお話には、頭の中に想像の映像が浮かんでしまって、キツくてさ……馬肉、馬肉好きだけど、引退馬のお肉を食べてたなんて考えたくない、ということこそが勝手なのか!!

しかして、引退馬の6割は乗馬用に転向だと聞いて思わずホッとするも、6割が多い数字なのかも疑問だし、そう……乗馬にだって、体力のある年齢の内しか難しいし、つまりここまでが“セカンドキャリア”であって、“サードキャリア”の統計、行方は、追いきれないのが現状なのだという。……追ってしまったら、辛いだけだから、なのだろうか、ヤハリ……。

色んな考え方があるのだ。大きな経営で、サラブレッドを数多く生み出すファームの若き経営者は、馬だけを特別扱いすべきではないと唇を引き結ぶ。若いうちからスパルタ訓練することへの批判も、可哀相だと言って、競走馬としてひ弱にしたら意味がないと斬って捨てる。
少なくない馬たちの未来が厳しいことを知っているからこそ、確率という目に見える成果で、出来るだけ長く生きてほしいと考えている彼の考え方が、一番厳しく、そして辛く、そして一番……愛に満ちていると、思った。

たくさん、愛に満ちた関係者は出てくるのよ。本当に素晴らしい人たちが沢山。いわゆる判りやすく売りやすい体形の馬ではなく、これから伸びる育て方をして、赤字ギリギリで生産している経営者とか、一時は生産者の立場だったけど、引退馬の行方に心を痛めて、これまた赤字ギリギリで養老牧場経営に舵を切ったところとか。
善意ばかりでは金銭的に成り立たないから安楽死を選択して、山を買い取ってまで数多くの馬たちを埋葬して、手を合わせる場面は心打たれるが、そう……ボランティア精神では、だめなのだ。そんなんじゃ、やっていけないし、お涙頂戴で終わっちゃ、意味がないのだ。

ここに出てくる人たちは皆、そのことをよく判ってて、だからこそ丁寧に取材に応じているのだけれど、それに対して、どこか自分の気持ちを封じ込めるように、冷酷にさえ見えるように応対した、大手生産牧場の若き経営者のあの表情が、一番の覚悟を感じて……。
やっぱり、責任なんだろうなと思う。国内屈指のサラブレッド生産牧場としての。経営スタイルとして、引退馬を受け入れたり、看取ったりするのはできない、そのことに対する言い訳じゃなくて、馬に対する自分が出来る精いっぱいの責任を、あの引き結んだ表情に感じて……。

そう、本当に、それぞれの立場なのだよね。有名ラーメンチェーンのオーナーで、数多くの馬を所有している紳士なんてさ、登場した最初こそは、まーお金持ちのいいご趣味ね、と思ったりもしたんだけれど、まるで子供の成長を見守るようにそのレースを見つめ、引退馬、あるいは馬と人間の関わり方のアイディアもちゃんと持っていたりして、それはこういう、経済力と行動力と馬への愛のある人なら、これから実行に移していけるだろうという頼もしさを感じるのだ。
やはり、役割だと思う。ファンの立場、調教師の立場、オーナーの立場、生産者の立場、引退馬を引き受ける様々な場所の人たち、出来ることは、それぞれに違って、つまりそれぞれにプロであり、ファンであってもファンのプロであり。

そうだ……引退馬の行方について、ファンが声をあげたことで、それこそ屠畜直前に救い出せたというエピソードもあったのだ。これはもう、あまりにも純粋に関わった馬を子供のように愛してやまない、調教師と競馬ライターカップルの話だった。
本当に、子供と遊ぶみたいに楽しそうにたわむれ、嬉しそうに可愛い馬の話をする。一番単純な姿のようでいて、一番予想外の馬との関わり方のようにも思った。競馬にしても乗馬にしても、常に人間がピシリピシリと馬を先導していく画が思い浮かんでいたから、こんな楽しそうにたわむれるシーンは見たことがなかったのだ。

今、引退馬を救う運動が、馬に関わる様々な立場の人たち、特にメインの、調教師、馬主、JRAを中心に動き出しているんだという。その中で吐かれた台詞がホント、辛辣だなと思って……。売れっ子役者四人もそろえてCM作るぐらいなら、その金を引退馬の救出に使えるじゃないかと。
ホンット、その通りで。だってそんなCM作らなくても競馬ファンは大挙して押し寄せる訳だし、まるでそれは、税金対策じゃないけどさ、儲けた金の行方を説明しているのかとか、つまんないことをついつい、考えちゃう。

ほんっとうにハズかしいんだけど、競馬の収益金が、少なからずどころかめっちゃ大金、国に納められてて、国を支えてて、マジで知らなくて(恥)。だったら国こそが引退馬救出を考えるべきとも思うが、それが一部の国民の反発を招くってんなら、国への納付金を削ってやればいいじゃんかとか(爆)。
バカな国民は単純に考えるのだが、でも、単純なことがなぜやれないのだろうかと、こういう現実に直面すると、ほんっとうに、素直に疑問に感じてしまう。

個人の善意やボランティア精神を持ち上げることだけはしちゃいけないってことを、作り手も、作り手が取材した先もよく判ってて、穏やかな良品のように見えて、実は厳しい主張をきっちり内包して糾弾しているのだと思う。
競馬という娯楽を抱える他の国ではどうなのだろうか。それも知りたいと思うし、この作品がそうしたいろんな問題を暴く起爆剤になれる力を秘めていると思う。 ★★★★☆


巨乳だらけ 渚の乳喧嘩
2016年 分 日本 カラー
監督:加藤義一 脚本:後藤大輔
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:めぐり 福咲れん あやなれい 小滝正大 可児正光 なかみつせいじ

2020/6/7/日 録画(日本映画専門チャンネル)
ピンクでもいよいよ震災をテーマに刻んだ作品が出てきていたのかあと、感慨深いものがある。最初はドキュメンタリーがうじゃうじゃ出てきて、その中にはヤラセものさえあり、シリアスな劇映画に仕立て上げられ、次第に“あの時の記憶”としていわば共通認識として怖がらずに織り込まれるようになっていたけど、ピンクは、少なくとも私は初めて遭遇した。
ただ、劇中でははっきり震災、とか津波、とかはほぼ口にしない。だから最初の内は“災害”っていうのが震災だということになかなか気づけない。
でも“みやぎ漁協”で働くヒロイン、陽(ひかり)の物語であり、漁港であり、彼女の死んでしまった愛する夫は漁師で、あの日、難破した漁船は沖合で見つかったけれど、その遺体はいまだみつからないまま。

あの震災だと、はっきりと言わないところに、何とも言えない共感を感じるのは何故だと言われると難しいのだが……。
ヤハリ震災モノがうじゃうじゃ作られたあの時の反発がまだ私の中に残っていて、そんな簡単にネタにすんなという気持もあったし、共通認識だということは判っていても、もっとセンシティヴに扱ってよ、という思いが実は今もくすぶっているからさ……。

まさに、本作はそのセンシティヴをそこここに感じるのだ。物語的には10年も音信不通だった妹が地下プロレスの選手だったのが怪我して突然帰ってくるとか、その妹が陽の上司と“送ってくれたお礼”でセックスしちゃうとか、「クールに姉妹丼てわけにはいかないかあ」なんていう妹のアッケラカンとした台詞と言い、いかにもピンクらしいフリーダムな展開ではある。
でも、陽の心情、そして陽をひそかに想っているその上司、石母田(いしもだ)さんの心情がとても丁寧につづられるから、なんだか切なくなってしまうのだ。

物語の冒頭は、それこそザ・ピンクだなと、その時には思った。裸エプロンをして記念日のすき焼きを用意しながら愛する夫を待っている陽。そこに帰ってくる夫。タオルで頭を巻いて精悍なイケメンは脱いでもスゴイ。
後ろ姿だけで裸エプロンと判るのに、愛撫しながら、ノーブラ、ノーパンティ、と確認していく、絡み合う。ああピンクね、と思うのだが、「ところでなんですき焼きなの」「だって今日は……あれ?今日は……」

何かの記念日であることを彼女が忘れているのか、と思ったところでこれが夢であり、陽は目覚める。サイレンの音で。
「ああ、ビックリした。時報かあ……」なんの音だと思ったのか。と、観客が思いかけたところで、遅刻遅刻!!と慌てて服を着て鍵もかけずに(このあたりの描写はヤハリ、田舎町という良さかな)自転車に飛び乗って出勤する描写で、遮られてしまう。

後に、陽が上司の石母田さんを「二人じゃ食べきれないから」とすき焼きに呼んだことで、すべてが判明するんである。
二人??いかにも一人暮らしだったのに……と思いかけたが、一人暮らしの女子にしては家族向けっぽい一軒家に住んでいてソファとかテーブルとかの家具もしっかりしているし、でも一緒に住んでいる親とかの姿もないし……と思っていたら、まず肉を取り分けたのは、フォトフレームの中で笑っている夫の前なのであった。

そして石母田さんと「献杯」とビールグラスを合わせる。つまり冒頭の妄想夢は、すき焼きを作る「だって今日は……」という日は、夫が津波にのまれた日、だったのだった。なんだ時報か……とつぶやいたサイレンは、あの日鳴り響いた防災サイレンを思い出したのだろう。
これは2016年の作品。あの日から5年。劇中では体育の日だと設定して、今はハッピーマンデーにしているから、10月10日なのは5年前のあの日以来なんです、と言う。つまり、確実に震災を下敷きにしていながら、やっぱりそこを注意深く避けていることが判る。それが判ると余計に共感を濃く感じる。

石母田さんは片足を引きずっている。見ている時には読み取れなかったけど、震災で足に障害を負ったらしい。後に出てくる陽の妹もまた片足を引きずっていることと、当然つながってくる。
そもそもの設定では石母田さんも漁師だったということらしい。そして今は、この障害によって事務方に回ったということか。陽が夫の命日にわざわざ彼を呼ぶってことは、それぐらい近しい存在だったのだろう。

劇中で名前だけ触れられる、夫の親友で恐らくその時一緒にいて、自分だけが助かってしまったことで自責の念に駆られてこの数年を引きこもって過ごしている人物の存在もある。
陽は、勿論この親友さんにウラミツラミなんぞないけれども、会ってしまうと夫のことを思い出すから辛くて、見舞いを石母田さんに頼んでいるんである。つまり、石母田さんはそれだけ信頼できる上司で、もしかしたらそれ以上で。

石母田さんの自分への想いを、陽は敏感に感じ取っている。てか、はた目からも判りやすすぎるけど。漁港の小さな事務所はたった二人きりの手狭さで、仕事の小さなミスも、夫の命日が近いから心が揺れているんじゃないかと心配したり、陽の手作り弁当を食べたいなーとのぞき込んだり、このちんちくりんおじさん(爆)石母田さんは、陽への思いやりにあふれていて、なんかこっちがドキドキしちゃうぐらいなのだ。
だから夫の命日のすき焼きに招いた陽が、食事後のしんみりした雰囲気で、「石母田さん、私のこと好きでしょ。自信過剰な女って言われそうだけど、なんとなくそんな感じがしてたんです。……違う?」と切り出した場面には最高潮にムネアツが高まってしまう。

陽を演じるめぐり情はとても芝居がお上手なのだけれど、ことにこの場面は、お顔のアップでこの台詞を静かに発して、「……違う?」と石母田さんに視線をゆらめかせる流れ、もう胸が高まりまくって、うわー!!と叫びそうになるぐらい。
それを受けて、好きだ!!と絶叫する石母田さんがまた愛しく、そっから先はまあピンクさんなのでそーゆーことになるんだけど、なぜか後ろ手のままキスする石母田さんがまあ可愛く、その後もなんか不器用というか、脱がせたジーンズを裏返しのままだけど妙にきちんと畳むとか、可愛くて。
で、陽が本当に切なげに、気持ちのこもった喘ぎ声で、石母田さん、石母田さん……と繰り返すのがたまらなくて。なのにここにジャマが入るんである!!(裏返しのジーンズをよく即座にはけたなあ……)。

訪ねてきたのは、ミニスカをべろんとめくってぱんつを見せて車を止め、石母田さんと昼間一戦交えた妹である。ピンクあるあるだが、セックスに関して全くあっけらかんとしたキャラクター。なんで知り合いなのといぶかしげな姉に、石母田さんは小学生の頃、漁港の体験実習でついてくれていたから覚えている、とかしれりと言うんである。
陽は突然戻ってきた妹、月子に、そもそもなんで震災の時に帰ってこなかったんだと、そういう辛い時にこそ帰ってくるのが家族でしょう、と言い募るのだが、月子の言う台詞がふるってる。
「悲惨な時に悲惨な妹が帰ってきても、もっと悲惨なことになるだけでしょ」悲惨な妹て!!

なんかね、この月子ちゃんてのはいかにも自立心が高くて、それは恐らく姉の陽とは正反対。陽は愛する夫の死から立ち直れない。勿論、あんな突然の悲劇だから当然といえば当然だが、そもそもこの姉妹は両親を早くに亡くし、おじ夫妻に育てられた。
そのことに対して陽は「感謝はもちろんしているけれど、両親というものに憧れがあった」からこそ、夫への愛だけでなく、夫の両親と切れたくなくて、「優しさなのは判っているけれど……」と、籍を抜いてもいいんだよ、という義両親の言葉に傷ついているんである。

一方で月子はなんたって10年も音信不通という、ザ・自立女性で、生きがいになった地下プロレスに行き着くまでにもいろんな苦労があったらしいが、そんなことは口にしない。失ったとはいえ、愛する家族を得たお姉ちゃんがいまだに前を向けていないのを心配するばかり、なんである。
うっかり第二戦を交えた石母田さんに「仙台の男だったらしゃんとしろ」とカツを入れ、石母田さんはこの頼もしい妹ちゃんに「仙台の男は昔から優しさだけがとりえなの」としょげて見せるのが可笑しい。

そう……なあんかね、この妹ちゃんが夢幻のように思えて仕方なかったんだよね。後半になって、月子と因縁のライバルレスラーであるコスモスが登場し、砂浜で肉弾戦を繰り広げるんだから夢幻どころじゃないんだけど、なんかね、なんか……前を向けないお姉ちゃんのために現れた天使みたいに見えちゃったんだよね。
でもそれはあながち間違ってもなかった気もするけれど、コスモス姐さんが乗り込んできてからはもうカオスそのものなんだけれど。

その中で、石母田さんが勢いに駆られて陽にプロポーズするのね。それでも夫のことが忘れられないからと断る陽なんだけれど、コスモス姐さんと月子のバトルの中で石母田さんもなんかコーフンしちゃって、いろいろ言っちゃう中で月子との成り行きの関係もバレちゃう。
もうこれはダメだと思いきや、「妹と二回もヤッたって、どーゆーことよ!!」陽がバンバンクッションで石母田さんを殴り、激怒しながらも、なぜか笑ってる。もう殴りまくってることで吹っ切れたようになって。そんなお姉ちゃんを見て、月子も安心した顔をして……。

てなわけでクライマックスは、コスモス姐さんと月子の砂浜マジバトルと、陽と石母田さんの心震えるマジセックスがカットバックで交互に描写されるとゆー、なかなかに挑戦的とゆーか、シュールとゆーか。
しかしこれが、いわば二つの肉弾戦が、全く意味合いがなさそうに見えて、実は根幹のところでつながっているのかもしれないと思わせるとゆーか。

なんかね……ピンクらしいフリーダムとか書いちゃったけど、実は細密な用意周到な設定だったんじゃないかと思えてきちゃうケミストリー。後半から突然登場するコスモス姐さん(と、彼女の情夫であるレフリーのなかみつせいじ氏)がかなりさらっちゃってるんだもの。
コスモス姐さんは(情夫が勝手にやった)卑怯な手口で有望なライバルにけがを負わせてしまって以来、見世物のような地方巡業を惰性でこなしている、というのを聞くだけで涙が出そうだし。
おっぱい丸出しぱんつ食い込みの姐さんが、がふがふブリーフ姿の情夫相手に、しかもお布団敷いたところで、うーん、これが練習なのかなあ、しかしてスバラしすぎるプロレス技を繰り出す、まあコメディシーンなんだろうけれどめっちゃ本格的でさ。この二人の物語で一本ください!と思っちゃうぐらい。

とにかくめぐり嬢のセンシティヴな芝居が胸を打った。調べる限りはAVがメインらしいけど、純粋に役者さんとしてとても魅力的だと思ったなあ。★★★★★


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