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「そ」


2020年鑑賞作品

組織暴力 兄弟盃
1969年 93分 日本 カラー
監督:佐藤純彌 脚本:石松愛弘
撮影:飯村雅彦 音楽:菊池俊輔
出演:菅原文太 安藤昇 待田京介 一色美奈 嵐寛寿郎 内田朝雄 柳永二郎 八名信夫 山城新伍 藤山浩二 田口計 河合絃司 相原巨典 名和宏 日尾孝司 渡辺文雄 永井秀明 植田灯孝 遠藤辰雄 寺島達夫 沢彰謙 岩本多代


2020/4/8/水 録画(東映チャンネル)
最後にはマジに全員死んじゃうんだから、もうなんか、笑ってしまう。菅原文太氏は今まで案外見ていなかったかもしれない。彼とダブル主演と言うべき安藤昇氏もまた。
つまり私は、東映ヤクザものをあんまり見ていないということだろうな。見慣れてないもんだから、組と組とが絡み合う複雑なやり合いに結構頭を抱えながら見進めるが、もう段々、文太氏の子供みたいなイヤイヤと、こっちは大人でその度たしなめるのに結構アッサリ彼のワガママを聞いてしまう安藤氏と、そして何より、そのアッサリの決断が元でバンバン人が死んじゃうムチャな展開が可笑しくなってきちゃって。
だってどー考えても文太氏演じる木島の「オレは納得いかねぇ!」の突っ走りが原因で人がバンバン死んでいくのに、更に「許せねぇ!!」と猪突猛進なんだもの。おいおいおいー、君のせいだよ。可笑しすぎる。

二人の出会いは戦後すぐ。文太氏演じる木島が、米兵の慰安婦にイヤがりながら引っ張られて行く女を助けた(とゆーか、そこの男たちと乱闘した)ところを、そら一人で劣勢だった木島だから伸びちゃって、そこを助けてくれたのが、これまた命知らずの大場(安藤昇)なのだった。
後から思えば木島と出会ったことが大場の命を縮めたとしか思えないのだが(爆)、無鉄砲な木島を気に入った大場は、どうせ戦争で死んだかもしれない命、ハデにやろうぜと、地元のヤクザの対立の中に巧みに攻撃を仕掛けていく。

後から思えばいかにも義憤に駆られて、みたいな殴り込みも怜悧な大場の頭の中には最初から構想が組み立てられていて、それをライバルの組頭も、顔役の御大も見抜いてて、彼に銀座を任せようというところまで発展する訳。
そして後から思えば、最初から木島はそこんところがぜーんぜん判ってなくて、言ってしまえばいわば……大場のコマに使われていたような気もしないでもないけど、それは大場が思う以上に木島が子供みたいに純粋な男で、見どころのある男気という以上のその純粋さが、大場にとって余計に可愛くもあり、そして扱いづらくもなっていったのだろうか。

出会いは反発していたのに、盃を交わすとまるで子犬のように大場をアニキとたてるあたりもそうだしね。見た目はブルドッグみたいにザ・男なのにさ。
そのあたりは助けた女=伸子をレイプ同然に抱いて、見た目の画はもう、まさにレイプ、こんな男臭さだけで出来ているような(爆)文太さんにヤラれちゃうんだから、うっわー!!現代ならコンプライアンス発動だよ!!と思うのだが、その台詞が「お前の中にあるアメ公の匂いをオレが消してやる!」……うーむ、当時の文太さんだからもしかしたらキューンと来てしまうかもしれない、しかしてかなーり危険な台詞だが……。

つまり伸子との再会は、結局彼女も連れて行かれちゃった米兵の売春宿であり、木島は一人で突っ走って敵組の頭をぶっ殺しちゃって身を隠している最中、昔の仲間、津ケ谷に再会して、彼の妻を救い出すという暴挙に出た先だったんであった。

この“一人で突っ走って”の場面も「絶対に手出しはしない」とか言いながら身体中から許せない、俺はヤルぜ!てオーラ満々で爆発しそうな木島を、なぜあっさりと「判った」と送り出してしまう大場なのだよという話なんですよ。
もう最初っから、どんなに抑えられても抑えられても、ばね仕掛けの人形みたいに飛び出していくのを押さえるのが大変みたいな感じで、全員死んじゃう状態ですよ。最後までこの調子なんだから、最後の方になると笑っちゃうっていうの、判るでしょ??

で、脱線したけど、ここで伸子と再会するも、当初の目的だった津ケ谷の妻は、もうその時点で何人もの相手をさせられてボロボロで、津ケ谷と共に拷問にかけられ、夫が救い出しに来たことすら気づかずに、死んでしまう。
この場面は、最後の方になってくると笑っちゃうような、ザ・男の子映画の死にまくりと違って、なんかこの当時のリアルな残酷さを感じてしまうのは、ヤハリ私が女で、フェミニズム野郎だからなのだろーか。

ヤハリ当時だし、ザ・男のヤクザ映画だし、女性キャストは数えるほど、どころか役柄として与えられているのは二人しかいないか??
一人はこの悲惨さ、そしてもう一人は伸子だが、彼女もまた昭和の、しかもヤクザ男、木島にひたすら付き従う女であり、……正直現代の感覚では、こんな三つ指女マジ信じらんねーし、成立自体しないと思われる。そういう意味では、男の子映画を成立させられたという点では幸福な時代だったに違いない。

そして恐るべきことに、“全員死んじゃう”に彼女までもが巻き込まれる。これもまた、木島のせいなんである(爆)。自分の子供を宿していたことに、「どうしよどうしよ」(カワイー!!)と動揺していた木島のあの幸福な時間は数分も続かない。
一匹狼になったことで狙われることを自覚した(ようやくか……)木島はこともあろうに「そんな子供おろしちまえ」と言って、もうこの台詞を聞いた時は、私がコイツをドラム缶に水をマンタンにして浸からせてやろうかと思うほど激昂したが、……当時はそれが、愛する女に対する情愛の台詞だったんだろうな……納得しませんけどね!!
強硬に拒絶する伸子にああようやくフェミニズム野郎の気持ちが落ち着いたかと思ったら、敵の差し向けによってひき殺されてしまうんだもの!!おおおおーいいいい!!!!

ちょっと時間がさかのぼるが、木島は津ケ谷の妻を奪還したことによって大場たちを窮地に合わせたことを知り、あっさりと自首する。
自分のせいでアニキが!という単純な理由で、米兵側、警察側と折衝していた大場もアゼンだが、もうこの時点で木島がそーゆー、まあちょっと頭の悪い、でも憎めない、ただそれだけにキケンな男だとゆーことは、充分に知れるんである。

で、3年服役して出所すると、時代はすっかり変わっているのだ。大場は最初からこうした時代……ヤクザは時代遅れ、会社組織にしてしっかりと儲ける、ということを見込んで動いていたんだろうことが知れるのだが、3年間浦島太郎だった木島は、いや……浦島太郎でなくてもずっと彼は変わらなかっただろうが……まあとにかく、もともとの、義理人情、渡世、アニキの弟分気質が抜ける訳は、ないんである。
この設定は菅原文太氏のキャラを増幅させるという意味でちょっと面白かったかもしれないと思う。最初から子供みたいな男であり、そしてこの戦後の時代の目まぐるしい変化、たった3年で、そもそも子供みたいに純粋だった男が、ついていけるわけがなく……しかもその純粋過ぎるがゆえに周囲も巻き込んで、“全員死んじゃう!”って!!

ヤクザになりたての頃、とゆーか、大場の弟分と決心して殴り込みに行った最初の場面。
ドスを握ったその血だらけの指が、なかなかほどけず、カメラがアップになって、血だらけの指を、一本一本、そのガチガチをほどいて、カランとドスが落ちる音までものシークエンスが、木島は決して最初からヤクザじゃなかったのに、フツーの、純粋な男に過ぎなかったのに、ということを、後から考えると凄く効いてくるような気がしてしまう。

大場は最初から、ヤクザ気質があるというか、現代ヤクザ気質、つまり義理人情よりもビジネスとして、時にはヤクザ世界の理不尽なしきたりや納得のいかない手打ちにも歯を食いしばって従う、つまり実業家、言ってしまえば野心家、なんだよね。
純然たるヤクザの世界では、野心だけでは成功に導かないし、かといって足を洗ってシロートからのスタートではその野心がいつ成功として実現するか判らない。

大場の、冷静なのに木島の純粋さに単純に負けてしまうあたりは、そのあたりにカギがあったようにも思う。
だって大場のやってることって、ムチャクチャなんだよ!!見た目は、外見は、一般企業を装っている。“オリエンタル興行”という社名もぬかりない。しかしてその内情は、窮地に陥ったがために後ろ暗いことをやってるらしい企業を叩き、脅し、悪いようにはしないから、と手数料をふんだくるというヤクザそのもののやり方。

しかもそれが、彼らの首を絞める。最初は小さな町企業といったところから、より弱いものを搾取する黒幕がどんどんあぶりだされ、そのたびに大場たちはこれはチャンスと舌なめずりする。
いやいやいや、あれだけ冷静に情勢を見極めてビジネスを展開してきたのに、なぜいきなりメクラなの、芋づる式により悪党が出てきたら、これはヤバいに決まっとるやんけ!!と……組同士のフクザツな駆け引きに頭を悩ませていた私ですら思うのになあ……。

どんどん大きな黒幕に近づいていくほどに、自慢タップリに披露する拷問部屋、拷問器具、拷問方法のバリエーションにドン引きどころじゃないんですけど、っていう……。
あれ?これはもしかして、ゴーモンの数々を披露する作品じゃないよね??……しかもそれが何一つ実を結ばないというのは、逆にゴーモンはいけませんと言ってるってことなのか??まさか……。

最終的には、大物政治家まで行く。もう追及しきれない雰囲気だし、大場も、これは勝ちだという結論で取引をした。
しかしてナットクいかないのが木島であり、……あーあ、もう、ほんっとに、これまでもそうだったけど、このシークエスはあーたのせいで全員死亡、だよ!!黒幕である大物政治家は、どっか下界でパンパンやってんな、という顔で、ゆうゆうと車でその場から離れていく。

皮肉な結末と、(当時の、現代も変わらんが)時代、政治に牙をむいた作品だったのかもしれないなあ。しかしあまりにも人が死に過ぎて笑っちゃうって、初めての経験だったからさー。★★★☆☆


その神の名は嫉妬
2018年 85分 日本 カラー
監督:芦原健介 脚本:芦原健介
撮影:西村洋介 音楽:飯田匡彦
出演:芦原健介 新井郁 日下部そう 中川智明 後藤ユウミ 二ノ宮隆太郎 松下幸史 谷仲恵輔

2020/9/28/月 劇場(池袋シネマ・ロサ)
自分にとって一番キツい感情は自己嫌悪だと思っていたが、嫉妬心かもしれない、と思った。嫉妬心は自己嫌悪とセットでやってくるんだもの。こんな強力な負のスパイラルはない。
増田は決して特殊な人間ではないと思う。弱くて愚かでクズだけど、弱くて愚かでクズに堕ちてしまったキッカケがあっただけで、そこから這い上がれなかっただけだ。こんな人間はごまんといるし、いつだって誰だって予備軍。
そのキッカケは、直接的なキッカケは、明らかにパワハラな上司からの営業成績へのプレッシャーだったけれど、実はずっと前から、10年近く前から抱えていた嫉妬心だった、のだろう。

増田と同期の役者仲間、武藤がつい最近、ブレイクした。テレビをつければ彼がピンで出ているチョコ菓子のCMが待ち構えたように流れる。映像といい音楽といい、サブリミナル効果のようなこのCMが増田の嫉妬心をよみがえらせた、いや思い出させたのだろうと思う。
増田が役者を諦めたのは、恋人のために地に足の着いた生活をするためだった。実際、恋人の朋子にそう宣言した。でもきっと違ったのだ。その時点で、増田は既に逃げていたに違いない。恋人のためにというのは言い訳で、きっとこの時点で武藤の才能には勝てないからと、心の奥底で気づいていたからに違いない。

でも自分自身もその意識から目を背けていたのだ、きっと。武藤がブレイクするまでは、結局役者なんて成功しないさと思っていたのかもしれない。だからパワハラな職場でうだつの上がらない生活をしていても、なんとか彼女との生活は平穏に送ってこられた。
でも実に7年もの間、ただただ同棲生活を送るだけで、結婚する気配すらも見せないことに、朋子がどう思っているかと彼は一瞬も思わなかったのか。役者から足を洗う時、いかにも朋子と一緒になるためだというニュアンスだったのに。

増田は上司から叱責されて、半ばヤケクソのようにアヤしげな新興宗教に営業アタックをかける。宗教団体で税金逃れをしてて不動産をしこたま持っているだろうという荒っぽい考え方から、飛び込んだんである。
予想に反して、まるで地域の寄り合い所のようなアットホームな雰囲気、碁に興じたり、ゲームをしあったり。増田は拍子抜けしながらも、そこの神父と呼ばれる男に何とか契約を取ってもらおうとする。
神父……しかし見た目は坊主なところはどちらかというと仏教系のようだけど、カッコは派手で安っぽいペラペラした色柄物の部屋着みたいな感じで、カリスマ性があるようなないような、なんとも判断しがたい人なんである。教祖という感じはしないけど、でも底知れない雰囲気はあるというか……。

結果的に言えば、最初から増田はこの神父に弱さを見抜かれていたのだろう。この宗教団体がどんな信仰とか、あるいはそれをカクレミノにしたビジネスをしているのかとかは正直あまりピンと来ない部分はある。ゆるやかなセラピー的な団体に過ぎなかったのかもしれないけれど、でも神父は増田の弱さと、“犬”となれる素質を見抜いていたに違いないと思う。
増田を“気に入った”と言って契約を取らせるのは、彼を引き入れられると思っていたに違いないし、実際、そうなる。神父は嫉妬が人間の最も負の感情であり、それを操作すればラクに人を落とせると判っているから、なんである。

秘書のような、なんか暗いオーラを発散する女性スタッフに増田が最も嫉妬に狂うであろう、武藤と朋子との“密会”を撮らせて、ネットに拡散させる。
そもそも朋子から、武藤と仕事をすることになったから、増田とも久しぶりに会いたい、三人で会おうよ、という話を聞かされていたんだから、これが“密会”なんかじゃないことは増田は判っていた筈なのに。そもそも嫉妬に着火されている彼は、だから武藤と会わなかったし、客観的に示された“密会”に爆発してしまったんである。

朋子の仕事は明確には示されないけれど、武藤とつながるような、つまりマスコミ系のものと思われ、そしてパリッとしたファッションと、口ぶりとから、きったない小さな事務所で上司からガミガミ言われっぱなしの増田とは雲泥の差の、恐らくキラキラ系の仕事で成功していると思われる。
だから彼女は臆しているのだろうか。なんと昭和な。こんな若い世代でも、男より稼いでいることに臆するのかと思うと、日本は因習に縛られてるなと感じる。
朋子は不機嫌な増田に謝るばかりである。謝る必要なんてないのに。食事を用意して待って寝入っちゃうなんて、どんな昭和の風景だよ、とボーゼンとする。こんな価値観が令和のワカモンにいまだにはびこっているんだということに……。

まあでも、そらあ我慢の限界だよね。こんな男は斬って捨てて正解!!とは思うが、ただ……朋子が自分の気持ちをぶつけないまま、まるで奴隷のようにゴメンねを繰り返すまま、成功者である武藤に鞍替えしちゃうことにはちょっとしたツラさというか、同性としては、それはズルいよね、ダメだよね、と思っちゃう。
自分の気持ちをぶつけずに、確かに彼はクズだったけれど、おめーはクズだとぶつけずに、「このままじゃ、嫌いになっちゃうから」と出ていくのは、その言い方も含めてあまりにも卑怯。同性としてかなり許せないやり方。

だって、まずこの出て行き方が突然。いやまあ、増田がなぜ彼女のツラさにこれまで気づかなかったんだということはあるけれど、男は総じてドンカンなものである。
この直前、朋子はストレスから過呼吸に陥り、それは今までも何度もあったらしいことが示唆され、さすがの増田も思いを抱えての一夜を過ぎたのだから、そこで別れを告げるのはなかなか残酷である。

何度も言うように、コイツの方がクズで弱くて愚かで圧倒的に悪いのは判ってる、けれども、いわばその弱さにつけこんで、自分の苦しさを何も言わず、あなたが全部悪いんだよとこれまでのあれこれを証拠のように叩きつけて出て行くだなんて、フェアじゃない。女がやりがちな卑怯な手だ。
女だから弱いんだという古い手口で、自分の強さ、経済力、その気になれば男を支えられる条件を隠そうとする。まあ朋子の増田に対する気持ちはそんなもんだと、いやつまり、自身が生活力でも、人間力でも追い越していくほどに、気持ちが離れてしまったということなのかもしれないけれども。

それにしても、そんな増田が傾倒してしまうことになるこの宗教団体は、結局はなんだったんだろう。増田を使いやすい労働として利用する感じはあったけど、怪しい啓蒙活動をしている感じもないし、なんだろう……。
増田は契約を取り付けるために、神父が興じている碁をマスターしたり、自分の思いを叩きつける粘土細工に没頭したりする。その粘土細工は見た目は巨大なキスチョコ、いや、それは美しく言い過ぎ、うんこにしか見えないのに(爆)、神父からもその時居合わせた信者からも絶賛され、この時増田は、すっかり“信者”として取り込まれたんだろうと思う。

あるいは、混沌に陥っている増田を見かねて、神父が秘書?の女性に「フラットにしてあげてください」と、まあつまり……セックスしちゃったところからかもしれない。
朋子との同棲生活の中では、そんな雰囲気はイチミリもなかった。朋子の方は、歩み寄りたい雰囲気充満していた。でも増田は、自分だけが大変だ、苦しんでいる、武藤のようにぽっとブレイクしたゲーノー人なんて、みたいな感情が、次第に隠せない感じになってきた。7年。7年の春は長い。

なんで増田は、転職しようと思わなかったんだろう。はた目から見ても、ヒドいパワハラ、ただただふんぞり返った上司が人格否定するこの職場は、どう考えても健全じゃない。
劇中では、増田がこれまで転職したかどうかというのは明らかにされないので、彼女のためにと社会人になった職場がここなのかなと思わされたが、どうなんだろう。

増田は朋子に去られて、壊れてしまう。会社を辞め、神父の元で活動に没頭するけれど、ここでも全然成績が上がらない。残念ながら、そもそもの無能力男だったらしいんである。
更に、徹底的にぶっ壊れる。神父につかみかかる。殴らせろという。でもアッサリ返り討ちにされる。そして悄然とタクシーで向かった先は、なんと水戸である。

なんで水戸??その説明もされないまま、武藤が呼び出されてる。雨の中。大切な時はいつも雨だと、増田はこぼす。朋子へプロポーズめいた、社会人になると宣言した回想が入る。
朋子への、よりを戻してほしい!!という映像を武藤が撮らされる。これをどうしても朋子に渡してほしいと依頼される。ほんっとうに、見てられないみじめな姿で、雨に濡れながら、朋子への愛の言葉を連ねる増田。

カットが変わると、武藤と朋子が二人してソファに座り、この映像を見ている。ああやっぱり、という感じである。
「増田君て、昔からホンとキモいよね」という朋子の台詞に苦笑する武藤。なんと報われないこと100%。辛すぎる。

増田は確かにサイテーだと思うけど、同性として、朋子がやっぱりなあ、卑怯だと思っちゃった。ごめんねばかりを繰り返し、不満を口にせず、あっさり鞍替えして勝ち組になる。絶対友達になりたくないタイプだな。 ★★☆☆☆


空に住む
2020年 118分 日本 カラー
監督:青山真治 脚本:青山真治 池田千尋
撮影:中島美緒 音楽:菊池信之
出演:多部未華子 岸井ゆきの 美村里江 岩田剛典 鶴見辰吾 岩下尚史 高橋洋 大森南朋 永瀬正敏 柄本明

2020/11/8/火 劇場(丸の内ピカデリーA)
多部ちゃんは本当に美しい大人の女性になった。しみじみと彼女を見つめることができるだけで価値があるような映画。
正直、登場人物たちがかわす会話(特に彼女と行きずりの関係になるスター俳優との)は哲学的で示唆に富んでいるとは思うものの、染みわたることなくするりと手から零れ落ちるような感があって、よく意味がわっかんないなあ、と思っちゃったりするのだが、それは彼女、いや誰もがそうだけど、自分自身を掴もうと必死にあがいて焦って、言葉という実体のないもので武装しようとしているのかもしれない。

空に住む、というのは都心に立つ超高層タワーマンションである。ヒロインの直実がここに引っ越してきたのは、両親が突然事故で亡くなってしまったから。
叔父が持っている物件で、「これは投資なんだから」と、目もくらむ絶景が眼下に広がるこのゴーカなマンションをタダで貸してくれる。

叔父夫婦も階下に住んでいて、直実を心配してしょっちゅう訪ねてくる。合鍵まで持ってるのには確かに最初の段階からあれっと思った。直実がそれに頓着していないのも気になった。
勝手に入ってきたりはしないけど、ドアを開けて総菜を置いていった時に、直実はこのマンションに住むスター俳優の時戸森則といちゃいちゃしていた時だった。彼は途端に機嫌を損ね、出て行ってしまう、という展開があるまで、直実はそのことにおかしく思わなかったのか。

なんか全部すっ飛ばしていきなりヘンな着地点についちゃったけど、この叔父夫婦と直実の関係は、親密そうに見えて危ういところがある。とても気さくないい夫婦だし、突然の不幸に見舞われた直実を心配する気持ちも判る。
特に奥さんの方が友達みたいに直実と接していて、最初のうちはとてもいいなあと思っていたんだけれど、どうやら彼女も人に言えない焦慮というか、そんなものを抱えているんだと徐々に判ってくると、直実に対する同情や親密さが、自分を慰めたいそれに見えなくもなくなってくる。

とても仲のいい夫婦だけど、ちょっとそれなりにいい年で、いつ結婚したのかは判らないけれど、子供を望むには……多分これまでの経過時間で、難しいと思い始めているらしい、のだ。
だからこそ直実を娘のように、というのは一見いい関係のようにも見えるが、代替品でしかないのかもとも思えなくもない。

一方の直実は、両親の突然の死に涙も出なかった自分を持て余している。自分は冷たい人間なんじゃないか、どこかおかしいんじゃないか、壊れているんじゃないか……。でもそんなことは、ぼんやりと遠くに押し出して深く考えようとはしない。
日々の生活がある。直実は小さな出版社に勤めている。そこは、郊外の一軒家がそのままオフィスになっている家庭的と言いたいようなところで、出版社、というイメージからこういうものを想像したことがなかったので、結構驚く。

忌引きで休んでいる間、仕事を引き継いでくれていた後輩の愛子はただいま妊娠中。デキ婚で結婚式が目前だが、実はそのタネが違うというのは直実は気づいていて、愛子から打ち明けられても驚くことはない。
大きな文学賞受賞後の第一作をこの出版社から出すことになっている作家さんが、書下ろしか連載かでモメている、その彼こそが愛子のお腹の赤ちゃんの父親なんである。

妻子ある人の子。愛子は彼に奥さんと別れてと迫ることもなく、こともあろうに何も知らない婚約者のタネの子だと押し通して結婚しようとしている。会話の感じでは、この妊娠の時期からおかしいとバレる可能性があるというのに、である。
ひと昔、いやふた昔前ならば、略奪婚とか不倫とか、ギャーギャー騒ぎ立てそうなもんだけれど、こういうあっけらかんとした事例は特に問題なくこれから現れてくるような気がする。むしろ、ゲーノージンの不倫だなんだと殊更に騒ぎ立てるマスコミに昭和的な、古臭い価値観を感じていたから、なんか溜飲が下がる気もしている。

この作家さんももちろん、このことは判っている。てゆーか、出版社の社長も知ってて、産まれた赤ちゃんが女の子だと告げたりするし、みんなが知ってて、そういうこともあるよねと、ただ黙っている感じがいい。
愛子の旦那さんは、いつかこのことを知ることがあるのだろうか。いや、ここまでの覚悟を持って産んだのなら、墓場まで持っていかなければならない。

一方で直実は、このタワーマンションに住むスター俳優、時戸と出会う。正直な感じとして、ガンちゃん演じるこの時戸のスターっぷりは、それこそ昭和な古い感覚がある。
有名人が多く住んでいると噂されるこのタワーマンションで、直実の叔母さんは彼の存在を見知っていて、見るたびに違う女の子を連れ込んでいる、と言う。その時点でもはや直実は彼と関係を持っていたから、しかしそういう週刊誌ネタが出ていた直後だから、動揺する。

こんな下世話なことで、それまでフタをしていた自分の感情、親切な叔父夫婦に対するイライラが爆発する。判ってる。彼らは本当に自分を心配し、可愛がってくれているし、何くれと親切にしてくれる。何よりこんなゴーカなタワーマンションにタダで住めるのだ。
でもそれこそが直実を苦しめる。だって彼女はきちんと自立して、編集者としての矜持を持って仕事をしているんだもの。

そのプロとしての自覚は本作に意識的にちりばめられている。大きな賞を受賞した作家のその後、どう売り出すか、下世話でもいいから売れる企画を探して来いと言われて直実が作った企画書は、時戸のインタビュー本だった。
彼女はそれを、彼の哲学を語らせる本だと言ったが、世間的には単なるスターの口当たりのいい自慢本としか映らないだろう。劇中でそう言う訳ではないけれど、直実がいうほど時戸が哲学的魅力に富んでいるとも思わなかったし、本にするためのインタビューも通り一遍のものにしか感じられなかった。
ただ、直実はスターとセックスしたいだけの女として終わりたくなかったのか。どうなんだろう……。

時戸との出会いはエレベーターの中。窓から見下ろせる大きな広告写真の青年だとすぐに気づいた。またエレベーターで遭遇した。彼は直実にオムライス作れる?と聞いた。直実は部屋に招き入れて彼にオムライスをふるまった。
深い仲になって後、機嫌を損ねた彼をとりなすように直実がオムライス出来るけど、と言った時、俺、玉子嫌いだから。と言った台詞に茫然とする。
つまり彼は、オムライスが食べたいって言ったのは、彼女を釣るためだけのデマカセだったということなのだ。叔母さんの言葉がここでよみがえることになる。とっかえひっかえ女を連れ込んでいるよと。

直実だって、こんなスターとの逢瀬がマトモなものだと思ってはなかっただろうけど、溺れてしまう。時戸はスターだから、ちゃんと予防線を張っている。直実の意思を尊重するかの如く言葉で、逆に彼女自身の意思でこうなったんだと導く。
「キスしたそうな顔をしていた」とキスして、「やめたいんだったらやめるけど」と突き放す。直実がここでやめるわけがないと踏んでいる。そして自分に責任が及ばないようにしている。直実は……それに気づいてない訳ないとは思うのだが。
どうなんだろう。時戸との関係は恋愛というほどにのめり込んだものには見えなかった。やっぱりスター俳優との関係に浮かれていた感じがあった。

ここまで触れなかったのもアレなぐらい重要なファクターがある。直実と15年もの間生活を共にした愛猫、ハルである。物語の冒頭、引っ越してくる場面で当然、直実の背に背負われた窓付きリュックの中にハルがいる。何より何より、大事な存在の筈。
そして……もうこの時点で不安はあった。猫は家につくという。実に15年のあいだ住み慣れた家があった猫が、こともあろうにタワーマンションにお引越ししてどうなるのか。

しかも直実はこんな具合に少々地に足がつかない状態にある。仕事も忙しいし感情も忙しい。ハルが病気になってしまって、それがストレスのせいかもしれないと言われる。環境の変化、自身がかまってやれない多忙な日々だったこと……。
直実は自分を責めたに違いないが、その一方でどこかフワフワとしている。それを見抜いたように叔母さんが訪ねてくる。それが愛子の結婚式に出席していた留守中で、留守中に勝手に入ってこられたことに、時戸とのいざこざもそれに関係していたこともあって、直実はバクハツしてしまう。もうほっといて、と。
でも、でもさ……ハルは、死んじゃうのだ。まさに、こんな風に目を離したすきに病状が悪化して、そのまま衰弱するばかりで、死んでしまうのだ。

……猫が死ぬ映画はそれだけでもう大っ嫌い(爆)。辛い。辛すぎる。それを補うように愛子の出産と生まれ来る命の素晴らしさを提示されたとしても、私は納得しない(爆爆)。
ハルを荼毘にふすのに、出張火葬軽トラが出動する。どこか判らぬ河川敷のようなところに運ばれ、「煙も出ないんですね……」と直実は骨になってしまうハルをながめやる。こんな一瞬のシークエンスにスタッフとして登場するのはぜーたくな永瀬正敏である。

作家先生に時戸の企画を通すのは、自分のためではない。あえて言えば、ハルのためだと直実は言った。後輩の愛子は子供を産み、それはでも結婚相手のタネではない。叔母は子供が出来ずに諦めかけている。作家先生は恋人が自分の子供を産むのに何も言えずに、幸せな家庭を守り続ける。
直実が両親に対して淡泊な気持ちで泣けないことに、自身への親の愛情をいぶかってる感が語られたりする。もう、判らない。ベタベタの愛がいいのか、父親の愛、母親の愛、それは親密さの度合いとも違うし。

猫がね、ハルがね、猫は、猫だけじゃなく、人間に強制的に飼育されるあらゆる動物たちのすべてがそうだと思うんだけれど……、こんな、拉致されて、ムリヤリここでの生活を強いられて、でも彼ら彼女らは、愚かな人間たちに愛情を与えてくれることだろう。タワーマンションに連れてこられて、さぞかし居心地が悪くて、でも飼い主サマは仕事に恋愛に喪失感に忙しいし、ハルはそれをじっと見守っていたのだろう。そして静かに死んでいった。
……色々哲学的台詞で判んないとか思ったけど、本作が真に語ったことはさ、人間は愚かだということだよ。それを一匹の猫が示したということだよ。私の大好きな、世界で一番愛してる愛猫、野枝には、絶対に、そんな思いはさせない。 ★★★☆☆


それはまるで人間のように
2019年 78分 日本 カラー
監督:橋本根大 脚本:橋本根大
撮影:田邊裕貴 音楽:
出演:志々目知穂 櫻井保幸 ユミコテラダンス 片岸佑太 富井大遥 冨田智 植木花子

2020/9/7/月 劇場(池袋シネマ・ロサ)
いわば超能力モノなのだが、人間存在意義としても、恋愛の依存の問題としてもひどく残酷で、そして一段、二段、差し出されてくるぞっとする事実に、思わず身を引いてしまった。
指先ひとつで何かを消し、何かを出せる、このアイディア一発はいわばドラえもん的単純な近未来と言えるのだけれど、それが社会的生活、アイデンティティ、人間とは、恋愛感情とは、と関わってくると、これが本当に怖い。

同棲しているカップルである。うっとうしい前髪といい筋肉のなさそうな身体つきといい、中性的とも言える彼氏、鈴木なのだが、その外見とは対照的にかなりマッチョな思想の持ち主である。
道端でしきりに謝罪のお辞儀を繰り返しながら電話の向こうの相手と話をしているサラリーマンを見かけると、「ああはなりたくないよな」と唾を吐き捨てるように言い、自身の持つ能力で必要なものからお金からなんでも出せるのだから、働く必要がないから働かない。だからお前も働く必要がないから働くな、と恋人のハナに言い渡している。

いわばそれは暴君のような束縛なのだが、彼自身は本当に単純に、なぜ働く必要がないのに働こうと思うのか?と不思議そうですらある。イラついたハナがパソコンで求人を覗き始めると、そのパソコンをパチンと指先ひとつで消してしまう。
後から思うと鈴木はひどく臆病で、自分自身も社会というところに出ていく度胸がなかったし、ハナに出ていかれることで、一人になるのが怖かったのかもしれない。

どこでオチバレするかという問題があるが、このオチを前提にしなければ話が進まない。衝撃の事実。鈴木が指先で作り出したのは、単純にお金とかモノだけではなかったんである。
ハナは鈴木が隠してあったメモリを見つける。パソコンで開いてみる。女の子の写真がナンバリングして何人もある。その子たちについての考察が書かれている。中にはかなりエロでエグいものもある。
そして最後が、ハナだった。ハナと名付けた理由も書かれていた。ハナは気づくんである。自分には過去の記憶があいまいなままなことを。鈴木といる今の自分しかないことがおかしいとさえ、気づかなかったのは、そもそもが作られたカノジョだったからなのか!!

この衝撃の事実に至るまでには、なんだかノンキな幸福みたいな展開が挟まっているんである。ハナの剣幕に鈴木はしぶしぶ働き始めることを承諾する。面接したところは、今まで全く職歴のない鈴木をあからさまに見下している経営者だったが、彼を採用してくれる。
あれは大学か、あるいは専門学校だろうか、その清掃係である。仕事を教えてくれるカルい先輩も、後から入ってくる内向的な後輩女子も社会的適応性に苦労しているような感じで、この経営者が「ここに来る人たちはみんなニートだね!!」だなんてデリカシーのないことをニッカリ笑顔で言うんである。
……悪気がないというのは時に罪だとは思うが、ある意味では現実を突きつけて、しかし彼らを受け入れているこのオッサンは意外にイイ人なのかもしれず。

しぶしぶ働き始めたし、不器用な鈴木は決してスムーズに仕事が出来てた訳じゃなかったし、あんなマッチョな思想だからすぐイヤになって辞めちゃうかと思ったらさにあらず。
思いがけず仕事が評価されたり、後輩女子を指導することになって責任というものを覚えたり、その後輩女子が自分と同じように生きづらさを抱えているのをかぎ取って親近感を抱いたりして、今まで得たことのない社会的充足感を彼は感じ始めたんだろうと思う。

一方、ハナの方は専業主婦といった趣なのだが、オチバレで言っちゃったように作られたカノジョであるハナには恐らく……表面的な常識や情報しかなかったんだろう。だって鈴木の恋人であるという存在でさえいれば良かったんだから。
だから何をどうしていいのか時間を持て余す。鈴木のために料理を作ってみても、だからこそどうやらビミョーな味らしく、鈴木は食べ終わるのに苦労するありさまである。

家事のひとつとして掃除をする、という感覚さえ、なかった。そのことに気づかされたのは、時間つぶしのために公園でぼんやりしている時に出会った、父子家庭と思しき妙齢の男性である。恋の予感があると思っちゃった自分の単純さにあきれる。
確かに一見してさわやかで好感触の男だった。ハナとは10ぐらい離れているかなという感覚で、彼女にとっては大人の男、ひょっとしたらオジサンぐらいの気持ちだったかもしれんが、30そこそこの男なんて大人でもなんでもない。ハタチそこそこの女の子に対してオオカミにしかならないことぐらい判ってた筈なのに。

後から思えば、距離のつめ方が妙に早かった。公園の狭いベンチに並んで腰かけると、ぴったりと腿がくっつく距離だった。ハナは孤独と不安にさいなまれていたから、誰かに聞いてほしかったから、気づかなかったのか。
いや、観客であるこっちも油断していた。あんなイイ感じの男が彼女を“自分の作品”の中に連れ込み、ナルシシズム全開で裸になって、めがねをとって、当然判って来たんだよね、なんて雰囲気出してくるなんて思わなかった。

自分の作品、というのは、廃校となった学校をアート作品として飾り付けた空間である。男子小便器にライトをともし、当然部屋の中央にはナニするベッドが据え付けられている。
「休憩しよう」と肩を抱いた時には当然ラブホテルだと思っていたから、それ以上にサイアクなナルシシズム空間でセックスしようとする変態男にボーゼンとする。

ハナはさ、イヤだし、逃げたいのに、身体が動かないのか、なかなか逃げようとしないのさ。もー、見てるこっちはじれったくて、さっさとここから出ていきなよ!!と思うのだが……結果的に言えば、ハナにも鈴木が持っている能力があって、このナル男を消してしまう、という決定的展開があったからなんだよね。
そしてその展開に、ハナはもちろんのこと観客も動揺する。え?え??どういうこと??作られた存在として苦悩していたのはハナの方だった筈。なのに……。

ハナはこの衝撃の事実を確かめるために、帰宅後、うつろな目をして部屋のものを消しまくる。のんびり風呂に入っている鈴木はそのことに気づかない。実は、鈴木と後輩女子が仲良く帰っているところをハナは目撃していた。それもハナの心にさざ波たててたところのこの衝撃であった。
ハナは鈴木を外に連れ出し、深夜の歩道橋の上で、自分が作られた存在なんだろう、と思いをぶつける。ただ、この時、ハナ自身もそうだろうけれど、観客の方も当然、ハナ自身がその能力を持っていることを突き付けられ、実際はどうなの、真実はどうなの、と動揺しまくっている。ハナが鈴木を作り出した可能性だってあるじゃないかと、悪寒が駆け巡るんである。

ハナは鈴木が後輩女子と仲良さそうにしているのを目撃して、自身がレイプされかけた直後だったから余計に、嫉妬以上に頭も心も爆発した。
でも後からその後輩女子に聞けば、鈴木はハナのことを嬉しそうに話して、後輩女子からのデートの誘いもすげなく断ったというのだ。

意外。観客側から見ても、初めての社会生活の中で、自分で作り出した都合のいいカノジョであるハナとは違う、新鮮な魅力をこの後輩女子に感じていると思った。
つまり、本物の社会、人間生活、世間というものに触れて成長を遂げてきたと見えていたから、作られたハナが残酷な捨てられ方をするとばかり、思っていたのだ。

だって自身の記憶さえ曖昧なことに気づいてしまったハナが、鈴木によって作られた存在であることは疑いないと思っていたから。
でも、ハナが鈴木にその想いをぶつけて、鈴木はとにかく家に帰って落ち着いて話そうと言い、そこにはなにがしかの事情や理由が感じられたのだけれど、ハナは、……思いがけずというか、ほんの心の迷いだったのか、鈴木をパチンと消してしまった、のだ。

その後、何が起こったのか判らないような状態で翌朝目を覚ましたハナは、当然鈴木がいないその部屋で、カーテンレールに引っ掛けられている鈴木のバイトのユニフォームを見やる。
次のシーンでは、あの後輩女子に指導される、更に後輩女子の形で、あっさりと後釜に入っている。そして後輩女子から先述の事情を聞く訳なんだけれど、観客側としては、もう遅いよ、だってもう鈴木は消されちゃったんだもん……と暗澹たる気持ちでいたのだが、なんと!次のシーンで、出勤するハナを送り出す鈴木が、腕を広げて彼女をハグする鈴木が、いるのだ!!

……消すだけじゃなく、生み出すこともできるあの能力。でも、ここで改めて生み出した鈴木は果たして元の鈴木なのか。元の鈴木はこの能力に安住して、カノジョも都合よく作り出して、その作り出したカノジョに反発されてオロオロしているような困った暴君だった。
その鈴木に盲従していたハナがそのまま鈴木に反転したような、改めて作り出された鈴木は……ああもう、判らない!!

とにかく、とても怖くて、人間って、アイデンティティって、恋愛感情って、社会生活って、仕事って、幸福な生活って、なんだろう、とこのシンプルなアイディア一発で展開される、ミニマムな物語の中で思わされて、凄く凄く、怖かった。★★★☆☆


ソワレ
2020年 111分 日本 カラー
監督:外山文治 脚本:外山文治
撮影:池田直矢 音楽:朝岡さやか
出演:村上虹郎 芋生悠 岡部たかし 康すおん 塚原大助 花王おさむ 田川可奈美 江口のりこ 石橋けい 山本浩司

2020/9/13/日 劇場(テアトル新宿)
役者さんが監督をやる、というのはよくあれど、製作会社を立ち上げてイチから映画を作り上げる、というのは、見識が狭いせいもあろうが初めて聞く話である。
実を言うと人気役者さんが監督に手を染めるというのは、染める、などと言ってしまったがなんたってネームバリューもあったらスポンサーから何からバックサイドは完璧である。それは演出であってカントクではないんじゃないかなあという気がいつもしていた。本来の意味の監督はすべてを背負う。ことにインディーズで苦労してきた作り手さんたちは皆そうである。やとわれ監督なんかじゃないんである。

それをやりたかったのかなあ、という気がする。いわば成功したスターである豊原氏、小泉氏の二人が、担ぎ上げられたところでリスクのないところじゃなくて、すべてを背負って、まさに若きインディーズの情熱のように、やりたかったのかなあと思う。
それは並大抵のことじゃないと思われる。若い時は情熱で突っ走れるけど、これだけキャリアを重ねた人たちがその挑戦をするのは……ものすごい勇気ではないかと思われる。

まあでも、作品は作品にしか過ぎない。そういうバックヤードをついつい考えちゃうのは良くないと思う。そもそも観てる時にはそんなことは考えてない。ただ、ヒリヒリと痛い気持ちを感じ続けている。

どうしてこんなにも、何もかも、上手くいかないんだろう。

言ってしまえば二人ともまだ子供だ。年齢的には成人になってるし、義務教育からも外れているし、ことに彼女、タカラの方はちゃんと働いてもいるのだから大人と言えるけれども、子供の定義は多分……大人、親や近い身内の大人の庇護から抜け出せない内ではなかろうかと思う。
その庇護が決して望まないものであっても、庇護なんてものじゃなく束縛や暴力や、……時にはレイプであった時でさえ。

タカラは山深い高齢者施設で働いている。そっけない通知書が彼女の元に届く。被疑者が出所した。ただそれだけ。ということは彼女は被害者だということだ。そして被疑者の罪状は強姦致傷。
あぜんとする。レイプした相手が出所したよと告げるだけの通知書。それに対するフォローとかサポートは何にもない。当然、被害者である彼女に再び危険が迫る恐れは充分に考えられるのに、である。

でもこういう話は聞いたことがある。その時にもあぜんとしたことを覚えている。だからつまり、再犯の可能性があっても、事件は起こってから対処されるものなのだ。
後にタカラが血を吐くように語るように、被害者の方に辛い経験を事細かに証言させるのが日本という国なのだ。それでようやく相手をブタ箱にブチ込めたのに、出てきますよ、としれっと通知してくる。

予想通り、母親も何の頼りにもならない。そうでなきゃ、一人暮らしなぞしていないだろう、いや、その前に、こんな目にも遭ってる筈もない。
後に登場する、スリップ姿でぶよぶよとした体形が妙に煽情的な母親は、そもそも子育てをする気もないような女である。

いや、同じ女として別に、親が親らしくいなきゃいけないと締め付ける社会こそがイヤだと思う。だからこんな、わっかりやすい自堕落で男をくわえ込むような形状にしてほしくなかった気もする。結局は親も子も一人一人なのだから。
でも日本という国と社会はそれを許さない。当然のように父親はレイプした娘の元を訪ねるし、再びレイプされて父親を刺して逃げた娘が母親の元を訪ねると、「親不孝だね」と一言言っただけで背を向けられる。それぞれ、ただのクズ男クズ女だと斬って捨てられれば、なんてことはなかったのに。

このタカラと出会うことになるのが、売れない役者、翔太である。いきなり彼がオレオレ詐欺の受け子になっている描写から始まる。札束の中から無造作に2、3枚の万札を取り分として手渡される。
この詐欺グループは後に一網打尽にされていることがニュースで明かされるが、ソレを考えると翔太はほんの下っ端というか、そもそも2、3万ぽっちで人の道を外れるとか、バカじゃん、と思うが、この時の彼には、そんなことしかできない、というところだったのだろう。

故郷にある高齢者施設に慰問だろうな、あれは、演劇指導に訪れる、文化祭で作った自主映画があると言ったら見せろよと言われて、こっそり実家に帰った彼が兄に見つかり、叱責される場面。そらまあタカラが父親にレイプされちゃうぐらいの地獄に比べたらアレなのだが、翔太は兄に、全否定されるんである。
才能ある人のフリやめろよ、という言葉はかなりシンラツである。そんなのしてねえよと言いたかったかもしれないが、実際箸にも棒にも引っかかってないからそう言っちゃったら……いわばオシマイである。
見栄を張り続けるしかないのだ。でも今の彼は、小さなワークショップの中ですら、台本も覚えられず叱責される状態である。むしろ潮時を考える時だったのかもしれないのだが……。

この二人が、同じ年頃で、同じ故郷を持っていることを、なぜ考えなかったのだろう。東京から来た役者のたまご、夢をいっぱい持ってる雲の上の人、タカラから見ているそんなイメージに、観客側も引きずられていた。
同じなまりで喋り、二人して忍び込んだ廃校になった学校は、二人が同じ時を共にした場所だった訳だ。それがラストシーンで明かされる。ああもう、オチを言っちゃいけないのだけれど。

翔太はタカラが父親にレイプされている場面に出くわしちゃう。その前段で、施設の入居者であるおじいちゃんがさまよい出ちゃって、みんなで探しに出かけるシークエンスがあった。ここにはボランティアしに来ただけだし、みたいな苛立ちを隠さない劇団主宰者、そもそもここに来た意味を悩んでいる女子座員、そして翔太は……ただ、ぼんやりとしていた。
ここについて、一人の入居者の急死に遭遇した。きっと翔太は年寄りだから死ぬだろ、みたいな思いはなくはなかっただろう。でも、ここの入居者はこうした救急の場合、どうしてほしいかを書き残しているのだというのを聞く。自分の死を全うしたい。家族にかき乱されたくない。だから延命治療や、救急を呼ぶこと自体、拒否している人もいると。

そこまで、自分の人生のしまいかたを考えているかと言われたら、そらムリである。そこに、ただただ迷える子羊状態である二人が立ちすくむ。
で、タカラの実父からのレイプ事件に翔太が遭遇し、タカラは父を刺してしまい、もう殺した、と思ってしまい、翔太は発作的に、彼女を連れての逃避行に向かうんである。
タカラが自分は警察に行く、と言っているのに。そして、二人は別に、恋愛関係にあった訳じゃない、単なる行きずりの、関係でしかなかったのに。

ところでどーでもいいが、タカラをレイプする父親役の山本浩司氏、あの太りようはこの役に対して求められたのかなあ。彼は重用される役者さんで散々いろんな作品で見かけるけれど、いつもすぐ判るのに、最後のキャストクレジットで名前を見て、あれ?もしかして……と思ったぐらい、今までになくでっぷりとしていたから。
でも確かにあの自分勝手な父親は、太っている方がそれっぽいかなあ。ただ単に太っちゃってたのかもしれないけど(爆)。

そして、それ以降は、タカラと翔太の逃避行である。そもそも、殺したと思い込んでいたけれども、それすら判ってなかったんである。慌てて飛び出した現場を検証した刑事たちが、なんで逃げてんですかねえ、とノンビリと言っていたから、あんなにぶっさり刺したのに全然ピンピンしてたのかなあと思ったら、意識不明の重体から結局は死んでしまう。
あの台詞は何だったんだろう……タカラが刺したことは予測できてて、翔太の行動に疑問を持っていたということなのだろうか??

それはあるかもしれない、と思う。なんたって通知一発で、再犯の可能性のあるキチクを野放しにし、再犯して殺されかけて、あーやっぱりね、と駆けつける図式が頭に浮かんだから。
ホントはそんなこと、言いたくない。犯罪者の更生を信じたいし、それを社会が支えていくべきだと思ってる。でもそもそもの、こーゆー根本的な制度の無責任さには憤りを感じる。協力する気もなくすわと思っちゃう。
そらまあコイツは死んで当然のクズ父親だが、それを、娘の魂を殺させてまでその手を汚させることを仕向けた、とさえ言えるではないか。

逃亡は、意味がなかったし、それはタカラもずっと思っていたに違いない。この逃亡は、翔太自身の、彼自身にもよく判らない衝動のように見えた。
だって、最初から、タカラは警察に行くと言っていた。彼女が悪くないのは、翔太が言わなくても観客側だって判る。だからこそ、ここで逃げたら、余計に事態が悪くなるのは丸わかりである。タカラ自身にもそれは判っていただろう。
翔太には……判っていたのだろうか。悪くない彼女を連れて逃げることが、その時の彼の逃げたい気持ちの言い訳になっていなかったとは、言えないだろうか。

冒頭でいきなりオレオレ詐欺で、そっから事態が突然飛ぶから、翔太の人となりというか事情はなかなか、呑み込めない。この逃避行のさなかでタカラはスナックのアルバイトに天性の才能を見出し、働く時間の間、必要とされている時間の間で、時給という形でお金がもらえる、そんな当たり前のことに、まるで水を得た魚のようになる。
介護施設でだってお給料をもらっていた筈なのに、そこでは下っ端で、役に立てていないという気持でいたのだろうか。時給という明確なシステム、ママからかけられたほめ言葉、予想していたおっちゃんたちにちやほやされる場面が特になかったことが妙にリアリティを生み出す。
翔太の方が競輪だパチンコだとギャンブルに行ったことで、最初はそれで競争だ、なんてい言っていたのに、追手も迫ってくるし、重体だった男は死んじゃったことが判っちゃうし、二人の間には次第に亀裂が入ってくるんである。

タカラと翔太が待ち合わせる場所が、さびれたコインランドリーだというのがなんか……胸に迫る。いつもドロドロのカッコして、どっかに落ち着いても警官の姿を見るとすぐに逃げ出す生活の中で、風呂と洗濯は何より重要だった。
何にもしないけど安ラブホに泊まったりしても、洗濯は難しい。でもさびれたコインランドリーだから、24時間じゃないから、深夜になって、会えなくなる。重体だったクズ父親が死んだというニュースを、双方知った夜だった。

この地方には、伝説がある。安珍と清姫。その演劇を教えるボランティアに、翔太が属している劇団?が来ていたんである。
結構、凄惨な物語である。軽薄な約束をした安珍を恨んで、清姫が呪い殺す、そんな話。もちろんそんなことに本作はならないけれど、ちょっとだけ、ちょっとだけ、重なるような気がする。

だって最初から、タカラは覚悟していたのに、彼女は悪くないから、という、義侠心という武装の甘言で、いい人になりたかったのか、何者かになりたかったのか、翔太が引きずり回したのだ、という風に、最終的には私には、見えた。
実際、というか、見方によって全然違うとは思うんだけれど、安珍=翔太は清姫=タカラを迎えに行くのだろうか。恐らく、忘れていただろう。そんな雰囲気を感じるからドつきたくなる。

でもそれでも、それまでとは違う地道な、食肉工場でのバイトの描写が現れ、劇団員たちと終電近くまで彼の家で飲んだくれている、その時にたわむれにかけていたのが、あの時話に出ていた、文化祭の自主映画である。
タカラが自分自身のお守りのように、笑うことが大事、とほうれい線をさするようにしていたあのしぐさを、自分自身が自主映画作品の中でしていて、翔太はハッとする。
いやそれ以上に、何かがそのフィルムの中に映り込んでいる。何度もストップする。その度に涙が吹きこぼれる。獣のような嗚咽が響くと思われる凄い表情の翔太、でも消音されて、ラストクレジットへと至る。

あの時、文化祭用の自主映画を撮っていた翔太たちの教室、その後ろを、タカラは、二人の教師に付き添われて、しずしずと行き交っていた。あれは、そりゃあ、その事件が、起きた、その時だった、としか、考えられない。
一瞬、耳にした、辛い時にはこうやって笑おうよ、頬を人差し指でなぞったほんの一瞬のしぐさが、それ以降、辛い辛いタカラの人生を支え続けていた。
そして二人が再会、というか、初見、というか、少なくともタカラは知っていたのにそれを出さずの再会で、そらまあ二人は恋愛関係ではなかった、同志というのも違う、なんともツラい二人だったけど、やっぱり運命の二人だったのだ。

お互い惹かれ合っているのを自覚してセックスしようとするのに上手くいかず、でも翌朝、タカラが自分の両手の爪に不器用に塗られたピンクのマニュキュア(当然、翔太が塗ったのだ)にこれ以上ない幸せそうな顔になる場面が凄く好きだった。
それはさ、父親を刺した時の真っ赤な手をほうふつとさせるぐらいヘタクソな塗り方、皮膚にまでメッチャはみ出してるんだけど……セックスも出来なかったけど、こんな幸福はなかった。

何よりタカラを演じる芋生悠嬢が、清らかなおっぱいをさらりと出してくれたことに感動した。実父にレイプされ続けた人生、この人、と思った翔太とトライする段になっても結局は最後まで行けなかったけれど、この時に見せてくれた清らかなヌードが何よりの宝物だった。
女優さんはさ、最初に見せておかないとその後きっかけを失うと思う。ヌードは臆せず見せてほしい。すべての年代の、すべてのキャリアの女優さんに。★★★☆☆


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