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「は」


2021年鑑賞作品

花束みたいな恋をした
2020年 124分 日本 カラー
監督:土井裕泰 脚本:坂元裕二
撮影:鎌苅洋一 音楽:大友良英
出演:有村架純 菅田将暉 清原果耶 細田佳央太 韓英恵 中崎敏 小久保寿人 瀧内公美 森優作 古川琴音 篠原悠伸 八木アリサ 押井守 Awesome City Club 佐藤寛太 岡部たかし オダギリジョー 戸田恵子 岩松了 小林薫


2021/2/7/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
誰もが共感できる、だなんて惹句にはあったけど、私はちょっとできなかったなあ。
趣味が何もかも一致する、奇跡のような相手との出会いで当然のように恋に落ちる、確かにそれはドラマティックには違いないが、趣味が何もかも一致するのが友達だったならば最高と思うが、恋人というのは一見理想のように見えてそこじゃない気がどうしてもしてしまう。

彼らは趣味は一緒だけど価値観は違うよね、ていうか、違ったよね。好みが何もかも一致することで価値観もまた一緒のように錯覚していたけれど、違ったよね。
ここが友達と恋人の大きな差だという気がする。基本的な価値観が一緒じゃないと、恋や生活はともにできない気がする。まあそれは友達もそうかもしれないけど、人生の、生活の価値観という点ではやっぱりそれは大きな問題なのだ。
本作がそのことに気づいてさえいないような感じがするのが気になった。彼らがすれ違った原因が経済的なこと、仕事がジャマしたというのが、単純すぎて、凡俗すぎて、そしてだからこそ幼稚に思えてしまう。

いや、ちょっと私、遠回しに言ってる。私が一番なんかヤだなあ、と思ったのは、彼らの一致する趣味がいかにも高尚で、それを周囲に押し付ける感じに思えてしまったのがイヤだったのだ。
判ってる。それは単なる私のヒガミだ。彼らが興奮してしゃべりまくる現代の小説家の名前も作品も私はちっとも知らんし、押井守の顔も判らんし、「今村夏子のピクニックを読んでも泣かない人だよ」と言われたって読んでねーからちっともピンとこない。

早稲田松竹や下高井戸シネマが間違いないね、とうなずき合う彼らに、早稲田松竹や名前は出なかったけど文芸坐とか、いかにも彼らのよーな自信たっぷりのシネフィルが集っている感じのところは敷居が高くて行きづらいし、下高井戸シネマは行ったことすらない。なのに彼らは、映画ファンならマストでしょ!というテンションで喋るのだから……。

いや判ってる。それは二人の間の合致で、だからこそコーフンしている訳だってこと、判ってる。でもね、二人の間の価値観の合致以外にも、二人が恋していた間のサブカル事情を年譜のように語るんだけどさ、“いつの間にか新海誠が宮崎駿にとってかわっていたり”“スマスマが最終回を迎えたり”という言い方や、着眼点が、いちいち私には腑に落ちなくて。
新海監督は確かに急に時代の寵児になったけど、それ以前の作品でコアなファンをつかんでいたし、誰もがスマスマを見ていた訳じゃない(私見てない)。
何かさ……それこそ誰もが東京ラブストーリー見てたでしょ、という前提で話をしているような違和感。そしてそれが、後々これほど古くさくなることはないというリスキーにハラハラしてしまう。

二人が抱く、自分たちの趣味、好みに対する絶対的な自信タップリが、時にめっちゃ上から目線に見えるイライラさ。終電を逃した同士のもう二人との会話で、「意外とマニアックな映画見てるよ。」というのが「ショーシャンクの空に」だったり、今更魔女の宅急便、いや実写の方かよ!と麦が心の中でツッコむのが、すごく、イヤな気持ちになった。
そもそもこの、名前さえ与えられない一夜のわき役の男性に、“マニアックな映画見てる、それがショーシャンクの空に”という意味の分からない辱めを与える作り手の上から目線がすごくイヤだと感じた。
実写版の魔女の宅急便だっていいじゃないの。見逃しるけどて、いい作品だったのかもしれないし。

てゆーか、千差万別、人によっていいと思うものはそれぞれだ。それを、二人は囲い込んで、これを知ってなきゃアホぐらいに盛り上がってる。
世の中にはめちゃくちゃたくさんのカルチャーがあって、彼らが触れているのはそのほんの一部分、その一部分が奇跡的に一致しているからって、それがすべてみたいに語られると困っちゃう。

……うーむ、私もちょっと、なんかいろいろズレてるけど。でも押井守本人を出演させてまで、この神様に気づかないなんてね!!と、ショーシャンク&実写版魔女の宅急便で行きずりのカップルの価値をダダ下げさせるなんて、そりゃないよと思ったんだよね。
ショーシャンクにも実写版魔女急にもひどい失礼だと思って……。私、おかしいかな?だんだん自分がおかしい気がしてきた……。なんでこんなに腹が立ってるのか、よくわからなくなってきた……。

趣味が合うというところからすれ違う二人だから、そもそも趣味であって価値観や考え方じゃないから、表面的なだけですらすら恋愛が流れていくから、そりゃ破綻は当然の帰結だよね、と思っちゃったのが最大の原因だったかもしれない。これまた作り手がどこまでそれを意識していたのか、そもそも考えにあったのかどうかさえ、疑わしいような気がする。

二人が出会ったのはお互い学生同士だったから、夢はたっぷりとあった。麦はその夢であるイラストの仕事にありついたけれど、どんどん仕事の単価を下げられるばかりだった。
絹の方は就職活動で心折れて、麦と同棲することでまずはフリーターになった。一念発起して簿記の資格をとり、就職にこぎつけた。
麦の方はそれで焦ったのか、まずは生活の基盤をつけて、絵の仕事はいつでも再開できるから、と思って就職活動を始めた。

正直もう、この時点で見えちゃったよね、と思った。麦が就職を考えたのは、ああ、今の時代でもやっぱりあるのね、家父長的マッチョな思想が。これは、麦というよりも、作り手の年代が刷り込まれているように感じてしまう。
まあそりゃさ、資格を取ってカタい事務職に就職した絹のヒモ状態になるのはヤだとは思ったよ。ちょっとその兆候がなくはなかったけど(爆)。

絹が転職を考えていると聞いた時、麦がそれは甘い考えだと憤った時にさ、どっちとも取れると思ったよね。絹の転職によって彼女の収入が減ることに不安を感じたのは、否めなかったからさ。
そして、自分がイヤな仕事をガマンしてるのに、彼女が「好きなことを仕事にしたい」と言ったことが、麦のプライドを傷つけたのだ。まさに麦は好きなことを仕事にしたはずのイラストの仕事で、ナメられて、挫折したから。

挫折した、ということから目を背けていた。経済的基盤を作って、その間も絵は描き続けて、いずれ戻るつもりだった。でもそれは口ではそう言っていたし、自分をだましだまし言っていたけれど、結局自分は負けたと思っていたんじゃないのか。
だから、彼女が好きなことを仕事にしたいと、あっさり転職したことに、自分に対する侮辱のように感じたんじゃないか。彼女がそれで、転職に成功してしまったら、自分の決断が、否定されることになる。決定的に、自分の才能が否定されることになる。

……ていうことだと思うんだけれど、なんかそこまで掘り下げないんだよなあ……。絶対、そーゆー、めっちゃドロドロなことだと思うのに、あくまで、二人の関係は続けられるのか、あんなに運命的な恋に落ちたのに、なぜこうなったのか、という観点でしか進まないのだ。
その原因に、根本的なことに、目を向けない。押井守も今村夏子もゴールデンカムイも新作ゲームも、何もかもカンケーないのだ。てゆーか、その全部、私ゃ知らん!!

趣味が合う二人、っていうなら、こんな、なんかさ、ファッション雑誌に出てくるような非の打ちどころのないカップルじゃなくて、オタク的とかエロ的とかグロ的とか宗教的とか(爆)、そーゆーヤバい趣味の奇跡的な合致で、他者に、えー?知らないんですかあ??なんて不遜な態度をとれないような二人だったらカンドーしたよ。
キレイすぎて、押しつけがましくて、デキすぎてるんだもの……。まあだからこそ破綻したんじゃんと思わなくもない。他人とは共有できないほどの合致ではなかったんだもの。

二人の共通の知人たちのエピソードの方が強烈である。同じタトゥーを刻んだほどの熱烈カップルが、彼からのDVで別れた。その彼は思いがけず、急死した。麦は尊敬する先輩の死にひどく悲しんだが、部外者であり、いろいろ事情を知っている絹はそこまでの気持ちは当然、抱けなかった。
これが価値観というものだ。この時点で気持ちがすれ違っているということはあるものの、趣味以外のことで話すことがなかった彼らが行きついた当然の帰結であるとも言える。ただそれを、先述のように、作り手自身が判ってて提示しているのかが、図り切れないんである。

あんなに運命的な相手同士だったのに、みたいなまま、このシークエンスも語られている気がして、仕方ないんである。こんな風な別離を考えないでタトゥー入れちゃってさあ、ぐらいにしか着地していない気がして仕方がない。
もちろんそれを、だったら今、なんかぐちゃぐちゃになってるあんたたちはどう考えているの、という投げかけはしているけれど、根本が、置き去りにされている気がどうしてもしちゃうんだよなあ。

趣味を仕事にできるなら。それは理想であると思う一方、真実楽しむなら、仕事にはしないべきという考え方は、仕事にできなかったという劣等感が生み出す言い訳でしかないと言えば確かにそうである。
私はそのクチである。だから、麦の言いようは判りすぎるほど判る、のだが……それが、恋人と一緒に暮らす男の言い様であると思うと途端にイラッとくるというのは……やっぱりフェミニズム野郎だからなのだろうなあ。
いまだ、いまだ、男女は平等じゃないから、麦の言い様が男のプライドが愚かなぐらいに爆裂していて、だからこそ絹との気持ちが離れたし、自身それを自覚しているのに……。

二人の別れは、お互い決定的にそれを自覚して臨んでいるのに、うっかりかつての自分たちとソックリなカップルの会話を聞いてしまう。
お互い気になったまま、再会にこぎつけてる。話せば話すほど、趣味や興味が一致している。足元を映せば、白いスニーカーもお揃い。今読んでる小説を交換して、お互いの好みの合致を確信する。

すべてが麦と絹の、出会った時の描写と一緒。別れることをお互い言い出そうとしながら対峙しているのに、いやだからこそ、あの出会いの時、間違いなく運命だったと思ったのに、なぜ、なぜ……と、二人とも号泣。
抱き合い、あのころの気持ちを確かめ合うのに、でもダメなのだ。アホか!と思うけれども……。

私はね、案外、若い頃の純なラブを信じたいおばちゃんなのさ。だから、こんな風に、それは若い頃のウツクシイ思い出だよねー、とか言われると、腹立たしいのだ。
なんかさ、書きつつ思ったのは、すべてが、時代だと、時代が決定するんだと、作り手が思って展開している感じがして、それはないだろ!!と……すごく、悔しかった。
それはなんだろうなあ……自分よりひと世代上の作り手さんが決めつける価値観、そう、価値観!!にプライドを持って立ち向かいたい気持ちなのかもしれない。★★☆☆☆


浜の朝日の嘘つきどもと
2021年 114分 日本 カラー
監督:タナダユキ 脚本:タナダユキ
撮影:増田優治 音楽:加藤久貴
出演:高畑充希 柳家喬太郎 大久保佳代子 甲本雅裕 佐野弘樹 神尾佑 光石研 吉行和子

2021/9/15/水 劇場(新宿武蔵野館)
タイトルで検索するとドラマ版が出てきて、あらあこれもまた、先にドラマがあるのかぁと。そうなると、そっちを観ていないことが気になって仕方なくなるが、映画は映画だからなあ……と思いつつ、こーゆーの、やっぱりちょっと困っちゃうなあと思いつつ。
つぶれそうな映画館を立て直す、というのがメインの物語だと思って対峙したのが、それは半分ぐらいといった感じで、もう一人の主人公とも言いたいような大久保佳代子氏演じる高校教師の人生がもう半分の尺と重みをもって描かれるので、そのあたりがひょっとしたら、まずドラマ版があるという、尺の配分の難しさなのかなあと勝手に想像したり。

ただ、失礼ながら大いに意外だったのだが、その大久保佳代子氏がとても素敵だった。私にもこんな恩師がいたらなあと思わせた。
ドラマを観る習慣がないせいか、彼女が役者のお仕事もしていること自体初めて知ったというていたらくである。いわゆる芸人さんのゲスト出演的お芝居じゃなく、この茉莉子先生をたまらなくチャーミングに演じている。
しかも彼女自身をほうふつとさせるような、ちょこっとやさぐれてて、惚れっぽくて、みたいな。そして映画が大好きで、映画の力をもって落ち込んでいたあさひを立ち直らせる。しかも映画好きに育てて、彼女の人生の運命を決めてしまうほどの。

高畑充希嬢はあいっかわらず可愛すぎる。高校生姿もまるで問題なく可愛いが、この時代に彼女、あさひは暗黒である。東日本大震災があり、父親は人道的に素早く動いたのに、それがあまりにも上手く行ったために、ある時点から“震災成金”と突然、手のひらを反すがごとく、周囲の態度は豹変した。
父親はその仕事に忙しく家に帰らず、残された家族はそうした視線に耐えられなくなって、崩壊した。オトナである母親が崩壊したのが辛かった。母親は弟を溺愛し、あさひに辛く当たった。それは、父親が震災成金と呼ばれるようになった、その立ち上げた会社の名前が、まんま彼女の名前、浜野朝日交通だったこと……そのことで、あさひは母親のみならず、高校生活もつまづいた。

ぼんやり屋上にたたずんでいたあさひに声をかけてきたのが、茉莉子先生だったのだった。「ここは私の憩いの場所だから。そこで飛び降りられたらイヤじゃない?」そんな風に言って、あさひを応接室?視聴覚室?なんかとにかく、テレビのある一角に連れ込んだ。こっそりそこで先生は、好きな映画を観ているのだ。それをあさひと一緒に観た。彼女の観たことのない、古い映画。
ぽつりと先生が言った言葉は、「100年後には生きてないんだから、慌てて死ぬことないよ」あさひは「もっといいこと言うのかと思った」と笑い、茉莉子先生も「いいこと言う人信用できる?」と笑って返すが、でも、充分、めっちゃイイこと言ったと思うし、あさひだって、きっとそう思っていたと思う。

先述した、つぶれかけた映画館の再生という展開は、確かに最終的にはクライマックスをラストに迎える主軸ではあるんだけれど、それをあさひに依頼した茉莉子先生の死こそが、大きな転換点となる。正直、こーゆー場合に安易に使われる、乳がんで死んじゃうっつー展開には、一年に一回フツーに健診受けてればまずないって……と愚痴りたくはなるが。

なんか大久保氏にすっかりホレこんじゃってそこから抜け出せないので、軌道修正。チャーミングという意味では本作で彼女と双璧を成す、柳家喬太郎氏である。南相馬のつぶれかけた映画館、朝日座は実在する映画館である。夢のような、ザ・地方のワンスクリーン映画館である。転勤族で地方転々の私にとって、たまらない感慨である。
小学生の時初めて映画館で観た作品「ET」、姉と観た「たのきん映画」、高校生の時にはおこずかいの大半を映画館に費やして、時にエロい映画にドキドキしたりして。
こういう映画館、なんだよね、どれも記憶に残っているのは。シネコンというものが登場したのは、ああでも、大学時代には出始めただろうか、でも、印象としてはここ10数年で、ばたばたとミニシアターがなくなったことが強烈に印象にある。

地方に顕著なこうした大きなワンスクリーン映画館は、ミニシアターとは違って、まあいわば、ミニシアターは時代が求めたちょっとおしゃれな、都会のサブカル的存在であったけれども、本作の朝日座のようなそれは、その町における、文化的象徴というか、一つのアイコンであった筈なのだ。
それが失われるということがどういうことなのか、本作の中でも大いに議論されるのだけれど、ことに震災によって人も少なくなり、町も閑散とし、古くからあるというだけの理由で映画館が何かを寄与できるのか。

館主の森田がここを閉める決断をしたのは、もちろん最初は経済的な理由だった。震災は何とか乗り越えた。でもこのコロナでどうしようもない、と。
この跡地を買うという会社は、リハビリ施設付きのスーパー銭湯、ステージも作って歌手も呼んじゃう。お年寄りばかりになってしまったこの地に、雇用を作って子供や孫を呼び寄せることも出来るというのは、古き良き映画館を残すというノスタルジイに対して確かに、あまりにもまっとうで、正直、太刀打ちできない。

「今の若い人は映画館を必要としていない。配信やYouTubeを観ていますよ」反論できない。実際そっちの方が、数多くの作品に触れる機会があるんだもの。
森田館主の独特過ぎる二本立てチョイスが、集客力をイマイチにしていたというのが、思わず笑ってしまうシークエンスとして語られる。どっちだろうと、思う。

私はね、選択自由、自由過ぎて、何に手を付けていいか判らない、結局、その時のおススメとか、流行ってるものとかになっちゃうのかなあ、って、コロナ禍で一気に広まった配信やYouTubeについていけずにいた。
私が中学生ぐらいにレンタルビデオが産まれて、その時はワクワクしてメッチャ利用していたけれど、次第に膨大になって、何を選べばいいか判らなくなって、映画館で観る映画、にシフトしていったのと同じ。
今しかかかってない映画。ビデオになるとも限らない。今だけの出会い。映画館で映画を観るって、そういうことだと思う。それが、森田館主のような微妙なチョイスであったとしたって、いやだからこそ、かけがえのない出会いなのだ。

茉莉子先生の影響で映画好きとなり、配給会社に就職もしたけれど、コロナ禍で会社がつぶれてしまった、というあさひである。それはまるで、茉莉子先生の教師以前の人生を踏襲している。茉莉子先生はだから、自分が出来なかったことを見事に教え子につなげているということなのだ。
東京に引っ越して、編入した高校にもなじめず退学、家にも居づらくなってあさひは茉莉子先生の家に押しかける。その時から男にホレちゃフラれる茉莉子先生である。男と入れ替わりに来たようなあさひを先生はあっさり歓迎し、最終的にはあさひの母親から誘拐の訴えをかけられるまでに彼女をかばい続ける。
「同情はしてませんよ。ただ、友達は裏切れないから」刑事に当たり前のように言い放ったこの台詞、先生はいいこと言わない、と笑ったあさひに、この台詞を聞かせたかったなあ。

逃げていては、闘えない。ワガママを押し通すぐらいの気持ちじゃなくちゃあね。茉莉子先生のホレては失恋するハートの強さは、そういうことだったのかもしれないと思う。失恋するたびに、おんなじ映画を観て泣いて、そしてするっと立ち直る。
あさひが最後に出くわした先生の彼氏は、これはダメだ、長続きする訳ないと思っちゃった、日本語カタコトのベトナムからの技術研修生だった。先生自らがどこか達観して、ダイスキダイスキ言ってくれるけど、永住権欲しいだけじゃん、だってヤッてないし、と言うぐらいだった。

でも数年後、先生の余命いくばくもないという連絡を、そのバオ君からもらった時、二人が続いていることのオドロキ、結婚したというオドロキ、そして……“ヤッてない”のに、二人が真実愛し合っていることのオドロキ、なんである。
……。なんかもう、こうして書いていると、ほんっとに、朝日座の存続とかどーでもいい気持になってきちゃう(爆)。茉莉子先生とバオ君の想いが最後の最後に確かめ合えて、その場面にあさひが同席していて、「(最後の言葉が)ヤッとけば良かったって!」と泣き笑いする、このシークエンス、本作の最高の場面でさ。
確かに朝日座の存続、最後の最後に感動的にクリアされるのには涙涙だけど、でもそれには茉莉子先生がバオ君に残した遺産があり、彼はそれを愛する彼女への想いで半分は朝日座に、半分は故郷で映画館を立ち上げるために使う、もうさ、結局は、やっぱり茉莉子先生側のエピソードが強いんだもんなあ。

もちろん、あさひが先生の最後のお願いを聞く形で、この地を訪れ、最終的にはもうここに住み着く(そもそもの地元だからね)決断をするという、まさにメインストーリーな訳なんだけれどさ。
クラウドファンディング、地元テレビの取材、判りやすい現代的なやり口で一度は上手く行きそうだったのに、一過性のアイディアは、敵の地道な行動であっという間に突き崩される。そして、先述のように、森田館主は果たしてこの映画館を存続する意味はあるのか??と悩んでしまうし、あさひもまた、なんである。

あさひは、この事態を打開せんと、意を決してウラミツラミありまくりの父親に会いに行く。思った以上に立派な会社にたじろいだあさひは、その事実にちょっと、間違った、今まで持っていたねじくれた気持ちを加速しちゃったのかなあと思う。
ドラマ版でじっくり語られてるのかってところは気になるが、本作においてはあくまでこれまでつづったとおりである。父親として出てくるのが光石研なのが、もうそれだけで涙が出ちゃうのはおかしいだろうか。
だってさ、彼が、この娘をほっとける訳ないし、家族と離れた10年間、苦しんでなかった訳がないんだもの。あさひが語っていたように、お父さんはあくまでこの未曽有の危機のために闘ったんだし、今だってそうなのだ。そしてそれは、娘のあさひにも当然、引き継がれているのだ。

あさひを演じる充希嬢、とゆーか、あさひ自身と言うべきなのかもしれないけど、すんごくオシャレで、お洋服も、髪もメイクも、そして一番印象的なのは、そのショートカットの耳元でぶらんぶらんと目を惹くイヤリングである。
茉莉子先生がもう余命いくばくもないベッドであさひを迎え入れ、垢ぬけた、きれいになったね、と言うのは当然と思うが、その当然をやりすぎなぐらい通り越しちゃって、ラストシーン、これからもこの町に住む、と宣言してる彼女も、ファッションもアクセサリーもめちゃくちゃ最先端のオシャレ女子。
いやまあね、別にさ、ジャージ女子が町おこしするべきという訳じゃないけど、あさひがそのキャラの破天荒とは違ってメッチャオシャレ女子なのは、なんか引っかかったかなあ。★★★★☆


はるヲうるひと
2020年 113分 日本 カラー
監督:佐藤二朗 脚本:佐藤二朗
撮影:神田創 音楽:遠藤浩二
出演:山田孝之 仲里依紗 今藤洋子 笹野鈴々音 駒林怜 太田善也 向井理 坂井真紀 佐藤二朗

2021/6/9/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
舞台では山田孝之氏の演じている得太を佐藤二朗氏が演じ、しかも舞台だから何日も、しかも好評を得て再演も行っていたことを山田氏が、こんな役を何日もするなんて考えられない、と前置きした上で、だからこそ映像は舞台とは違ってもう二度とは出来ないほどの全身全霊の一瞬をぶつけられるのかもしれない、といった趣旨のことを宣伝で出ていたテレビ番組で語っていた。
それを聞いて……誤解を恐れずに言えば、ほんっとうに、雑な言い方になっちゃうけど、これは一種のファンタジー、というか、寓話と言った方がしっくりくるかもしれないけれど、その寓話性が舞台においてはより際立ち、そこに、一種の一息つける感というか、これは現実じゃないという、ファンタジーを眺めている気持ちが産まれていたかもしれないように思った。

しかし映画となり、架空の場所とはいえ実際の空間と、そこに生きている人間が、舞台の板の上ではなく、共通認識、あるいは観客との共犯関係と言ってもいいかもしれない、パラレルワールドのように、これはどこかで本当に起こっている物語なのだ、と感じさせる映像の持つ圧倒的リアリティとなると、急速に、寓話であるはずのこの物語が、凄惨なまでの残酷さをもって迫ってくる。

寓話的だと思ったのは、ふと「フリークス」なんぞを思い出しちゃったからかもしれない。女と遊ぶための島。昭和を思わせる、女郎、というより赤線地帯的な感覚を漂わせる爛れた売春宿で成り立っている島の、ある置屋の物語。

小人症を思わせる女郎がいることが、「フリークス」を思い出させた。演じる笹野鈴々音嬢は小柄なだけで小人症ではないのだけれど、だからこそその偏見を生み出してしまうギリギリのラインも、観客の残酷さを試されている気がした。
そんな外見の彼女の存在だけで見世物的な発想をするのは、それこそ偏見だとは思うのだけれど、でも、彼女たちは、まさに男たちの見世物として、陳列品として、ファックできる玩具としてそこにいる。あながち的外れでもないような気がした。

その中にフリークス的存在を置いた佐藤氏の意図を、ついついうがって見てしまう。そしてその小さな女郎、りりは底抜けに明るく、女郎たちの中でも客からのつきがいいのだ。しまいには常連客のミャンマー男性にほれ込まれて結婚、足抜けまでしてしまう。
この物語は凄惨で、息詰まる辛さで、出口が見えないと思っていたけれど、なんたって佐藤二朗氏だから、そこここにコミカルな要素はおいてくるし、決して救いのない物語じゃないんだということを、このりりという愛すべき女の子に象徴して描いてくれたような気がしていた。

なんか、周辺でうろうろしてばかりいるのは、覚悟をもって立ち向かわなければいけない作品だからに他ならない。
自分自身を肯定出来るか否かの物語だから。他人から否定されて、あっさりくじけちゃうような、そんな世界にいる彼や彼女の物語だから。

そして、“否定する他人”もまた、……まあつまりそれは、佐藤氏演じる哲雄なのだが、否定返しをされて、それまでの暴君が嘘のように油が抜けてしまう。スミマセン、なんかあっさりオチバレだけど、オチとかが本作の大事なところじゃないから。
つまりは哲雄、いやもっと広く人間のよりどころ、絶対と思ったものが崩された時に、これほど人は弱いのかということなのだ。そしてそれは男が特にそう……母親の幻想を崩された時に、もうどうしようもなく破壊されてしまうこと、なんである。

人間関係も展開もすっとばしたまま、オチに向かって突き進みすぎなので少々周辺を整理すると……。この島は本土から女を買いに来る男たちを迎え入れる島。原発誘致の話があって、とりあえず反対しとけば懐柔するための金は入って来るし、その後原発が来て作業員が押し寄せれば、女を買うに決まってるからウハウハ!!みたいな、社会派な問題も盛り込んでいる。
でもとっくりと描かれるのは、この島に生まれた時から閉じ込められている“はるヲうるひと”である女たちである。どうやらこの島にはそうした置屋が沢山あるらしいんだけれど、劇中で描かれるのはかげろうという置屋ひとつだけ。

暴君のような哲雄が経営者、異母弟の得太が使いっぱしり、女郎たちの中には得太の妹いぶき(仲里依紗)もいるが、身体が弱い上に精神的にも病んでいてアル中状態である。
この置屋のトップは峯(坂井真紀)で、女郎たちを束ね、なにくれと心を砕く優しい姉さん。ちょっとコミカルだが問題提起の中心にいる純子(今藤洋子)、先述した小柄なりり(笹野鈴々音)、引っ込み思案なメガネ女子、さつみ(駒林怜)というメンメンである。

りりと共にフリークス的感覚を呼び起こすのは、仲里依紗嬢演じる伊吹に他ならない。これは……深刻な方のフリークス的感覚。心を病んでいて、お兄ちゃんである得太は彼女の辛さを抱えきれない。
肉体的にも精神的にも多様な人々を、どこかおかしみをもって描くことができるフリークスな世界は、とても寛容で、強かったのだと改めて思う。実際は、特に現代では、たとえこれが寓話でも、日常として、大丈夫だよと受け止めるのは、とてもとても難しいことなのだ。

哲雄と、得太、いぶきは異母きょうだい。つまり父親は正妻のほかに妾を持っていた。
父親が妾、つまり得太たち兄妹の母親と心中した、という“事実”が、哲雄を得太たち兄妹への暴君ぶりに向かわせ、その“事実”ゆえに二人は抗えない。
その暴君は女郎たちにもおよび、かげろうの面々は哲雄に対して奴隷のように恐れおののいてひれ伏すばかりだったんである。

カッコ書きで“事実”と書いたのには訳がある。ああもう、オチバレばかりだな。“真実”は得太だけが持っていた。
父親が妾と心中した、それを見た正妻が絶望して自殺した。その図式が哲雄に、得太たち兄妹への憎悪と、それによって彼自身が、このあまりの悲しみの中でなんとか立っていられる理由を与えてくれていたのだ。

そしてそれは得太にもだ。事実はそうじゃないということを彼だけが知っていて、それを、死に際の父親から絶対に誰にも言ってはいけない、と彼だけに託されたことで、立っていられた。
だから得太は決して、決して決してそれを誰にも言ってはいけなかったのに、こともあろうにすべてのメンメンの前でぶちまけてしまう。

それは、哲雄と得太にはそれぞれそんな風に与えられていたよりどころが、いぶきにはなかったということを、この二人の兄貴は、まったく、全然、気づいてなかった、がゆえの悲劇であり、すべてが崩壊しても、きっとこの二人は、それこそがこの破綻の原因だったのだと、気づいてないんじゃないかと思う。

父親が妾を心中の相手に選んだんじゃなかった。正妻が裏切られたんじゃなかった。正妻と妾、この女二人が心中したのだ。
得太だけが、実母と義母の愛の行為を目撃していた。胸にしまっていた。そして父親も得太が知っていたことに気づいていたんだろう。死に際に、首筋から血を噴き出しながら、秘密を守ることを懇願する。

得太が父親から信頼されて胸にしまっていたことなのだから、死ぬまで、墓場まで持っていかなければならなかった。なのにそれをぶちまけちゃったのは……こともあろうに、哲雄がいぶきを犯してしまったから、なんである。
なんということを……。それを哲雄は、長年彼の性欲処理をしていた峯が、二号になりたいと言い出したからだと言い放つ。

こんなキチクな男なのに、信じられないことに美しい妻と可愛い娘がいる。これがまっとうな生活なのだと、哲雄は得太や女郎たちに、お前たちが来れない領域だとばかりに胸を張っていた。
峯から二号希望が来て激高したのは、そのことによって破綻したと信じている自身の父親のことを思ったのか。それにしたって、異母妹とはいえ実の妹をヤっちゃうなんて!!
最初に目撃したのはさつみ。その叫び声でかけつけた峯も言葉を失う。そっからは当然修羅場である。得太が遭遇して……ああもう!!

やっぱり、さあ。男の子のお母さんに対する神話的思想だよねと思う。哲雄も、得太も。
哲雄がこの“真実”に際してこんなにまで青菜に塩状態になってしまったのは、お母ちゃんは裏切られた。かわいそうだった。その修羅場に自ら命を絶った。かわいそう、だけれど、なんと潔い!と、ギャップ萌えといったらアレだけど、それも含めて母親は最上の、何一つ汚点のない存在になり、だからこそ母親を貶めた妾と父親を攻撃するのに何の躊躇もなかったからなのだ。

そして得太は、そんな哲雄の心理を知っているからこそ、そりゃ母親がそんな死を選択したことは悲しいながら、それを自分だけが知っていること、そして父親からの懇願が、悲しさ苦しさは猛烈にあるけれども、彼を支えるアイデンティティになっていたことに、誇りを感じていたに違いないのだ。
哲雄からの理不尽な仕打ちに耐えられたのは、その一点に支えられていたに違いない、ということが、すべてが明らかになれば判るのだが、判った時に、何も、何も知らなかったいぶきが、そりゃ更に精神やられるわさ。
結局兄二人は、自分だけの苦しみに埋没して、妹を置き去りにしていたことを、結局判らないままなんとなくエンディングにしちゃったのが、フェミニズム野郎としてははがゆいのだ。

峯が、印象的だった。妾になりたいなんて。何者かになれるチャンスだと思ったと、彼女は言ったのだ。哲雄からは一笑に付された上に目の前でいぶきに鞍替えされて、いぶきに対してだって申し訳ないし、もうこの時点では、修羅場中の修羅場である。
哲雄が峯に苛立ち100%でぶつける、何者かになりたいだなんて、何者でもないんだよ、バーカ!!みたいな、あまりにもひどい暴言、でもそれはまるで、彼自身に、自分で自分を殴るみたいに、言っているように聞こえてならなかったのだ。峯が流した涙も、それを感じ取ったからこそのものだったような気がして……。

個性的な女郎さんたちの泣き笑いのエピソードが沢山あったのに、なんかいろいろ爆発しちゃって、上手く言及できなかったな。そういう、ちらばり方の上手さが舞台作品の良さだと思うんだけど、映像作品になると、そのリアルなとこについつい立ち止まっちゃうから、こーゆーことになっちゃう。
やっぱり別物だし、どっちがどうということじゃないんだけど、難しいね、舞台作品を映画にするっていうのは……。★★★★☆


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