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キネマの神様
2021年 125分 日本 カラー
監督:山田洋次 脚本:山田洋次 朝原雄三
撮影:近森眞史 音楽:岩代太郎
出演:菅田将暉 永野芽郁 宮本信子 沢田研二 寺島しのぶ 前田旺志郎 志尊淳 野田洋次郎 小林稔侍 リリー・フランキー 北川景子
「大阪物語」で娘のちーちゃんから、クズじゃなくてカスとまで言い捨てられるダメ父親だった彼を即座に思い出した。
そんなどうしようもない父親でもどうしようもない色気がなんたって沢田氏だからあって、そしてそれはそれからも相当に年月が経った今でも、年取って貫禄の体格になったとしても、やはり、どうしようもない色気があるんである。
そしてそれは、コメディアンに徹していた頃の志村けん氏より晩年の彼にもやはり感じていた部分であった。
まるで山田監督がオリジナルで書きそうな話なので、原作があるというのが不思議なぐらいな気がする。年老いて、ギャンブル依存症で、アル中のゴウ。ラグビーワールドカップの中継にわいている娘の歩の職場に電話がかかってくる。
父親が借りた闇金の取り立て。帰宅すると家にまで張っている。歩が烈火のごとく怒るのも無理はない。これが初めてではないのだ。後に彼女が自分の息子に告白するように、いなくなっちゃえばいいのにと思っていたというのは無理からぬ。観客のこっちでさえ、あーあーもう、こーゆー甘えた男をのさばらすから!!ぐらいにイライラしながら見ていたのだから。
だから、今度こそと決死の思いで通帳とカードを彼から取り上げ、更生できなければ離婚!!と突っぱねた娘と妻を振り捨て、フテくされて旧友の経営する名画座にやってきたのにも、行き場がないぐらいだと思っていた。
確かに奥さんは映画があるじゃない、映画が好きだったじゃない、と言っていたけれど、生きがいはギャンブル、という会話の延長線上だったから、かつての趣味ぐらいの話だと思っていた。
とおんでもない。ゴウはかつて映画監督を目指し、松竹撮影所で助監督生活に汗を流した青年だったんである。皆から絶賛された脚本を描き上げ、デビュー作の撮影にまでこぎつけていたんである。
そして旧友のテラシンは当時の同僚(映写部)で、今はゴウの奥さんになっている淑子に共に想いを寄せているという関係性だった。
ところで現在の淑子を演じているのは宮本信子氏なのだけれど、近年はパワフルでポジティブな役柄を観る機会が多かったからか、宮本信子だよね??と思いつつも、なかなか彼女だと断定できなかった。笑顔がなくていじいじとしていると、まるで別人のように感じるだなんて、役者って凄い……と思ってしまった。娘の歩から、お母さんが甘やかすから!!とがみがみ言われて小さくなっている母親、だなんて。
でもどうしてもどうしても別れられなかった、というのは弱さではなく強さ、どうしてもどうしてもゴウちゃんが好きで好きでたまらないんだもの、という淑子ちゃんだということが、若き日の彼らを活写するうちに判ってくるんである。
ゴウがあれほど夢見ていた映画監督をあきらめたのは、その小心ゆえにデビュー作の撮影序盤ですぐにしくじって、すっかりいじけてしまったからなんであった。あっさりと、辞めてしまった。
それ以来、ひょっとしたらゴウは映画を観ていなかったんじゃないかと思ったりする。ハッキリと描かれる訳じゃないけれど、奥さんとなった淑子がわざわざ、映画があるじゃない!というぐらいなんだから、きっと避けて避けて、だからこそ人生落ちて落ちていったんだと思う。
テラシンは当時片思いしていた淑子に語っていたように自分の夢をかなえ、映画館館主となった。
でもゴウのその後は語られない。逃げるように故郷に戻った彼を追って、淑子は食堂の看板娘だったのを捨てて、彼を追った。そして彼と一緒になった。苦労しただろうことしか想像出来ないのだが……。
ゴウやテラシンがその青春時代を燃やした撮影所時代が、同時進行で描かれる。もう、胸アツどころじゃないんである。原節子をモデルにしているんだろうと思われる大スター女優、桂園子を演じる北川景子氏の圧倒的な美しさ。モノクロになって、当時の女優感を完璧に漂わせるクラシックな美しさに酔いまくる。
これまで山田作品に呼ばれなかったのが不思議なほどだが、「男はつらいよ」の時代に彼女がいたならば、絶対にマドンナとして呼ばれただろう!という、つまりヒロインじゃなくて、マドンナなのだ。
これはフィクション映画だから実際に小津だの清水だのと実際の監督や作品を語る訳ではないんだけれど、そらあさ、それは小津、あれは清水、だよね!!と思いながら観るのが、ああ楽しい。
そしてその中に、当時の絶対的スター女優として、その台詞回しというか口ぶりも当時をイイ感じに再現して、スタッフみんなから信頼され愛される園子を演じる北川景子氏の美しさ素晴らしさ!!
彼女とかんっぺきに対照的だからこそ、ゴウとテラシンから想われる食堂の娘、淑子を演じる永野芽郁嬢のたまらないチャーミングさがひときわ際立つのだ。
彼女はホンットに、唯一無二だよねと思う。エロキューションがまずたまらないし、まるで黒の碁石のような深い漆黒の瞳、そしてあの、無邪気千パーセントの笑顔!!あの時代の女の子、という雰囲気も違和感なくまとってるしさ!!
あの時代の、あの黄金期の、しかも松竹の撮影所の、こんな感じというのを再現してくるのには映画ファンとしては感涙というか、ドッキドキというか、たまらなくって。
先述のように北川景子氏は本当に当時のスター女優のオーラをまとっているし、役者をコマのように扱うのにつなげてみると大傑作、という監督を演じるリリー・フランキー氏ののらりくらりとした感じ、うわぁ、当時の監督の中にこういう人いそうなイメージ!!とワクワクするし。
これがさ、東映、東宝だと絶対に全然違ってくるじゃない。松竹の中の、小津監督や清水監督をダイレクトにイメージできるからこその面白さで、その才能に、ゴウは勝負さえできないまま、終わってしまった。
ゴウが書いた、スクリーンから男優が出てきて観客のヒロインに話しかける、というのは、「カイロの紫のバラ」だよねぇ??
劇中では孫の勇太(おお、旺志郎君か!)が、こんな斬新なアイディアはない、おじいちゃん天才!!とコーフンするが、いいのかな??アレンより数十年も昔に思い付いたみたいに描くのは……私が無知なだけで、そんなアイディアは、もっともっと昔にあったのかな??ありそうだよな……そうだったらすみません(小心者……)。
ゴウは当時の松竹映画が平凡なメロドラマばかり撮っていることに、若いながらの苛立ちを感じていた。だから、荒唐無稽な脚本を書いて、仲間からも絶賛を得たから自信をもって臨んだんだけれど……。
自身の小心で撮影が上手く進まず、あれだけ自信があった脚本に対しててもネガティブ志向が波及されちゃって、すべてを放り捨てて、故郷に帰って行ってしまう、んである。
テラシンさんに、家族のかげが見えなかったのが、気になる。まさか、淑子ちゃんに純愛をささげて、結婚もしなかったとかじゃないでしょうねとか心配になっちゃう。
若き日のあの時、恋とは何て苦しいんだと、うめいていたテラシン。お互い想い合っているのが判ったのに、テラシンの方が彼女を幸せにできるとかほざくゴウに激怒した彼。そしてそれは、数十年も経ってさえ繰り返されるのだ。
あの時テラシンが淑子と結婚していれば彼女は幸せになれたと、ゴウは言うのだ。愚かな!!こんな愚かなタラレバはない。そんなこと言ったら、娘の歩も孫の勇太も産まれなかったじゃないか。そーゆーところが、ゴウの愚かなところなのだよ!!
孫の勇太を演じる前田旺志郎君。恥ずかしながら、彼だと判らなかった。それこそ宮本信子氏の先述のイメージさながらに、彼に対しても明るいイメージが先入観であったから、笑顔を見せないと途端にわからなくなる、うっわ役者!!と思った。
部屋に引きこもって、ウェブデザインで小遣い稼ぎしているような男の子。ゴウとはジェネレーションギャップしかないかと思いきや、映画雑誌を愛読しているし、テラシンからゴウの幻のデビュー作の脚本をゲットして、その面白さにカンドーするんである。
歩が契約社員として勤務していたのがその映画雑誌の編集社だったから、それでその雑誌を読んでいたのか、だとすれば、クールそうに見えて、おじいちゃんの脚本に感動したことも合わせて、家族思いの男の子だったということなのかしらん。だって彼自身が映画を観ている感じはなかったもんなあ。
おじいちゃんの脚本を現代風に手直しして、木戸賞(当然、城戸賞のことであろう)に応募しようと、勇太は提案するんである。アル中のギャンブル依存症であったゴウが、まさに生まれ変わる。
テラシンの名画座で映画をだらだら観ている時には、売店からこっそりビールをかすめ取る方にしか、情熱が傾いてなかった。映画を観ることじゃなく、ゴウはやっぱり、映画を作ることがしたかったのだろう。ずっとずっと、未練があったのだろう。
きっとそういう人が、今も昔もたくさんいるんだろうなと思う。ゴウのように、幻の監督作品を抱えたまま、市井に戻っていった人たちもたくさんいるんだろう。どの時代の、どの業種にもたくさんいるんであろうそんな人たちの、一端を切り取る。
今はただの人、家族から疎んじられるしょぼくれた老人の、その人生を肯定する意外な人物、未来へのつながり。親子ほどの近さでは判らなかったものが、世代を経ると見えてくるという意外さ新鮮さ。
旺志郎君が終始クールなのが、めっちゃ頼もしい。母親と祖父のぐちゃぐちゃなたたかいを横目に見つつ、彼は公平な目で、おじいちゃんの脚本めっちゃ面白い!お爺ちゃん才能あるよ!!というジャッジを下したのだ。
もはやそれは身内ではなく、あの当時の、ゴウの仲間たちが、彼の脚本の面白さ、彼の才能に感嘆したことと同じなのだ。時空を飛び越えて、つながったのだ。
ゴウはせっかく権威ある脚本賞を受賞したのに、はしゃいで仲間と酒飲みまくって、入院してしまう。だから授賞式は出られなかったのだが、奥さんへの素直な手紙を読み上げた娘の歩、そして奥さんの淑子は会場で号泣。
その後、ゴウはテラシンの名画座で、かつて自身が手伝った桂園子主演の映画を観ながらこと切れるのだ。
撮影中断してから、つまりはコロナの緊急事態が発令されてから、その状況も映画の世界に取り入れて、すべてを組みなおして作り直した本作で、ゴウはマスクをして万全体制の映画館に、家族と共に訪れる。
そこで、娘や孫がそばにいる客席で、こときれる。かつて、ゴウが書いたスクリーンの中から抜け出してくる設定そのままに、ゴウの永遠のスター女優であろう、桂園子が、ゴウちゃん、手伝いに入ってるでしょ、行かなきゃ!!と手を引っ張るのだ。
シムケンも天国行っちゃったし、このコロナ禍で映画の公開状況もぐっちゃぐちゃで、配信が台頭もしたりして、映画館で映画、というのが今後失われていくんじゃないかという危惧がやっぱりあるんだけれど、こういう作品に接すると、それはない、ていうか、絶対あっちゃいけない。
映画館は絶対になくなっちゃいけないし、こんな風に……過去の作品が語り掛けてくれるかも、っていう夢が見られるような、映画への憧れを持ち続けられる社会であったらなあと思う。★★★★☆
そしてなんとかコロナ禍も落ち着き始めたタイミングで、ほんっとうに久しぶりに飲みに行った友人と、それこそドラマや映画の傾向も全然違う友人なのにこれだけは意見が一致し、一緒に観に行こうという話になり。
普段は映画は一人だし、誰かと行くとなんか気になっちゃって集中できないとか思っているが、本作に関してはむしろ誰かと、もちろんそれはこの物語世界が大好きだということが共通している誰かとだけれど、観たい、その方が絶対楽しい!という、なんかそんな感覚も、メチャクチャ久しぶりというか。それこそ学生時代のジャッキーチェン以来のような(爆)。
さてまあ、前置きが長くなったけれども、でもね、凄く根本的な感じがしたんだよね。ある映画作品における周辺事情というか、記憶というか、思い出というか、そういうものが連なって後から振り返った時に思い出すんだろうな、っていうのが、すんごく絡まり合っていたから、こういうことは記しておきたいと思ってしまった。
コロナ禍以降に作られた映画(に限らず、ドラマや表現媒体)は、今や新しい生活常識となってしまったウィズコロナを無視するわけにもいかず、それを前提にした物語の展開となる。マスクもする、会話にもそれが出てくる。
でも本作は、そもそもがコロナがなかったころの原作ということもあるから当然、ウィズコロナを描写する義務も何もない。それが、なんていうかさ、幸せだったあの頃、という言い方はちょっと感傷的になりすぎかもしれないんだけれど(爆)、大好きな人たちと、ウチ食外食問わず、美味しい料理を間に笑い合う風景が、こんなにも特別なことだったんだと、あらためて気づかされるというか。
そもそも、普通に実家や職場や友達や近所の知り合いの家を行き来すること自体が。“普通”という基準自体が書き換えられてしまったから。
ああもう、自分の日記かよ。でもいいの。これぞ映画に接する醍醐味。その作品にいつ、どんな状況で、時には誰と一緒に対峙するかで、その見え方が大きく変わってくるっていうことにも、あらためて気づかされたから。
今回は劇場版ということで、もちろんそもそもの本作のオリジナリティである手料理の魅力はふんだんに取り入れられているけれど、長尺ゆえの、連関性というか、シロさんとケンジの関係性を軸に、周囲のあらゆるそれを一つの物語として見せていく感覚が、一話完結でその中でのサブパートの重きが入れ替わるドラマとは違う魅力が当然ある訳で。
だから、もちろん料理はめっちゃ魅力的だし、絶対にやってみたい!とレシピを検索するであろうメニューはいっぱいあるんだけど、ドラマ版の時ほどには、料理自体の重きを感じないんだよね。一本の物語の芯、というか、その中に通ってる、そもそもの基本、日本における遅れに遅れたセクシャルマイノリティ―の現状を、家族の中でまず直面しなければいけない残酷さとか。
ドラマ版でも当然それは前提にはあったけれど、美味しい料理と泣き笑いのチャーミングな展開に、根底にある、重いテーマに、ここまでじっくりと取り組んではなかった気がするんである。
それは二つある。シロさんの両親、ことに母親、昭和初期世代の親がどうしてもぬぐえない、同性同士のカップルへの違和感。ドラマ版で彼女は一生懸命に理解しようと努め、お正月にシロさんに伴われて来訪したケンジに対してかなりの緊張感はあったにしても、理解しあった幸福感はあった。
幸福感“は”だったんだなあ、と思い返してしまう。あの時から、その後の映画化のことは上っていたんだろうか。そうでなければ、後々考えてみれば、“は”だったんだよなあ、と思っちゃうもの。
お母さんはめっちゃ緊張していたのがドラマの時にも伝わっていたし、なんとなく偏見が残ったまんまなのがコミカルな処理はされていたにしてもちょっと気になっていたし。
シロさんとケンジは、私と完全に同世代なので、その親世代も当然、同じである。だから、めっちゃ判っちゃう。私は独女のまま来ちゃったけど、姪っ子や甥っ子に接し、その親である私の姉や、子供を持つ友人たちと話をすると、その違いは残酷なまでに明確、というか……。
そうした差別的感覚を、もはや本能レベルで刷り込まれちゃってる、それは教育とか時代とか価値観とか、もうどうしようもないレベルではあるんだろうけれど、そういうのが私ら親世代と私たち、そして私たちの子供世代の間には深い深い溝がある訳で。
それはセクシャルマイノリティの問題だけにとどまらなくて、もういろいろ言い出したらここが違う場所になっちゃうから(爆)やめとくけど、なんかホント、切実に感じちゃった。
映画を一緒に観た友人とも、すんごくその話題は盛り上がった。同性カップルに対する日本の対応の遅れがいかに恥ずかしいことか。実子至上主義、子供を社会全体で育てていく価値観の希薄さ。ああなんか、私、コミュニストみたいなこと言ってるかもしれん(爆)。
本作はとってもチャーミングな作品だし、幸福感で満たされる作品だし。それでも、同性カップルが、日本における同性カップルがどうしても直面してしまう、子供を得る、育てる、ということ。それが出来てないのがマジ200年遅れてるよ、ということなのだ(生産性って言葉、独女も激怒させたからね!!)。
本作はそもそも、そんな無粋な政治的メッセージを発する訳じゃない。シロさんとケンジ、彼らの友人である小日向さんとジルベールのカップルの間で、話題には上るけれども、それに敏感に反応するのは年若いジルベールだけである。
そのことは、嬉しくも切なくも、なんていうか、他の三人が昭和世代だからさ、パートナーと穏やかに暮らすことだけが御の字で、それ以上のことを望むなんて、ぐらいのスタンスなのに、ジルベールがかみつくのが、なんか、嬉しいというか、私たちだってそうでなきゃいけないんだけど、というか。
ジルベールは、一見して子供を毛嫌い、いや、結婚して赤ちゃんを得て、それが幸福、という価値観に反発している、あまりにもストレートで、素直で。自分たち同性カップルが世間から、社会から、否定されている理不尽さにまっすぐで。
それは私ら、シロさん、ケンジ、小日向さんにも当然、心の中にはある感情だし、きっと若い頃は、ジルベールのような反発もあったんじゃないかと思うけれど、彼らの前には昭和初期世代の親たちが立ちはだかり、シロさんの両親は息子に対して理解しようと努力する、とってもいい親御さんたちだけど、先述したようにそもそもの培ってきた価値観が違うと、本能が違うと、そりゃあ、ということなのだ。
その根本的な難しさが判ってるからシロさんもそもそもカミングアウトまで時間がかかったし、ケンジを紹介するのにも時間がかかった。
ケンジの方はと言えば、フクザツな家庭環境、父親は放蕩者で今やだれからも見放されて生活保護状態、本作の中で、いわゆる孤独死(この言い方は私は好きじゃないが……まあそれは長くなるので)し、長男であるケンジが遺骨だの店を継ぐだのということが展開され、シロさんとの今後のあれこれに影響してくるんである。
そこには愉快な誤解や勘違い、それが解決されると萌え萌えなラブ再確認!!てな展開が待ってるんだけれど、その問題となるテーマが、まさに彼らと同世代の私が直面していることでもあるからさ……。
冒頭、シロさんとケンジは京都旅行に出かけるんである。ケンジの誕生日祝い。あまりの幸せにケンジはこれは別れを告げられる予兆、いや、シロさんは病気で死んじゃうのかも!!と妄想爆発。
シロさんは笑って一蹴するものの、確かにこの旅行には後ろめたさがあった。シロさんの母親が、ケンジのことはとてもいい人だし、彼らのことを反対などしてないんだけれど、息子が男性と、と考えると、そしてそのことを踏まえてお迎えした前回の正月の後、寝込んでしまったのだという。だから次の正月は、連れてこないでほしいのだと。
のちのちシロさんが両親に意を決して言い渡すように、「ケンジが俺の嫁さんだったら、来るなと言われるのがどれだけ残酷なことか、判るよな」というのは当然のことだし、ホンットひどいこと言うなあと思ったのは、でも、このシロさんが意を決して対峙した時にであったことに、なんか自分でも、ビックリしちゃうというか、自分にガッカリしちゃうというか。
ああやっぱり、理解しているような気分でいて、やっぱりやっぱり、昭和初期世代の親を持つ、その価値観を、しょうがないよね、って抱えているんだと思って、すんごく恥ずかしくて。
ジルベールが、結婚をして子供を持つことに単純に祝福する社会にかみついたことに、はいはい判るよーみたいな、お若いねえ、みたいな気持ちでいたことに気づかされて、すんごく恥ずかしくなっちゃって。
ああホントに、そもそもだよ。もちろん、子供を得ることは素晴らしいこと。大好きな、親密な、親しい人たちにそんな幸せなことが出来れば、とても幸福で、おめでとうございますで、私ができることはあるかな、なんて思うのは……こんな年になったからかもしれないんだけれど。
シロさんのお買い物友達、田中美佐子氏演じる佳代子さんの娘ちゃん、ドラマ版でも友達になりたいわあと思わせる、とんがった価値観を持った彼女が、長年付き合ってきた彼氏との間に授かって、慶事となる訳。
ドラマ版の時点で既に、長くつきあってるんだから結婚はとか、若いうちに産んだ方がとか、平成娘と昭和親との間でバチバチバトルがあり、それをシロさんとケンジ、小日向さんとジルベールの同性カップルから見た価値観という点でも、遅れた日本社会の価値観に対して大きな問題提起があって、とてもとても意義のあるドラマであり、今回の映画だったと思う。
シロさんが担当するホームレス男性の冤罪殺人事件とか、ケンジが悩む薄毛なんてコミカルだけど、それがシロさんとのドラマチックな確執に発展したりとか。
もうさあ。西島秀俊氏の素敵さにはドラマ版から陥落していたけれど、マジ素敵すぎる。ケンジが、実は育毛外来に通っていただけなのを、深刻な病気なのかと、髪が薄くなるのを危惧して脂っぽい料理を控えていたのもシロさんの不安を加速させ、「お前、死なないよな!!」ああもう!
そりゃ判ったさ。この台詞、待っちゃったもん。幸せすぎる京都旅行で妄想爆発したケンジが涙ながらにシロさんに迫ったアンサー。めっちゃ上手い。絶妙。だって、その直後、シロさんが親のことを謝罪、これをテーマとして、うっとうしくもずっと背後にちらつかせながら、あの最後の最後に至るんだから。
ケンジは、京都旅行でシロさんに言われたその台詞をそっくり返す。死ぬなんて、軽々しく言うもんじゃないよと。ドラマ版からそうだったと思うんだけど、映画版でも、これはアドリブだろ!!と思わせる、カットがかかった後であろうと思わせる、手練れ主演二人の親密アドリブが萌え萌えすぎるのよ!!★★★★★
物語は、こうである。ここはとある町。日本であるのは日本語だから確実だが、現代とはとても思えない、けれど、じゃあいつの時代だというのもよく判らない。
戦争をしている。相手は川向こうの町である。奇妙なことに、朝の9時から夕方の5時までと決まっている。敵の姿も見えない川向こうに、一日80発くらい撃ち込んどけば叱られないから、と先輩の兵隊は後輩に教える。
主人公の露木もこうした兵隊の一人。朝9時に兵舎に行き、昼は決まった定食屋でおばちゃん(片桐はいり氏、最高!)の給仕でごはんを盛られたり減らされたりしながら食事をとる。
夕方5時に“戦争”の仕事を終えると、帰り道、弁当箱を預けていた煮物屋で今日の煮物を金を払って受け取り、その煮物をおかずに粗末な食事をして寝る。判で押したようなそんな生活。
露木自身もまるでねじまき式の人形みたいな感覚を抱かせる青年だが、彼のみならず登場人物たちは総じて言葉に全く感情を乗せないで喋るし、角は直角に曲がるし、融通が利かない、なんていう言葉では説明のできない奇妙さである。
その意味では、定食屋のおばちゃんは中でも唯一言葉に感情が乗っていると感じさせる。一方的に高圧的な物言いという点では確かに平板さはあるのだけれど、彼女は自慢の息子がどんどん川上での戦闘へ“出世”していくのが誇らしくてたまらず、食事をとりに来た露木達に「お前たちも張り切りなよ」というのがお決まりの台詞である。
張り切る、そのことだけが彼女の価値観で、露木が楽隊に配属されたと聞いた時には、「それは、張り切れるのかい?」と不思議そうに聞いたものだった。
そう、露木はある日突然、楽隊に任命されるんである。楽隊の存在を知るものはほとんどいない。俺は何でも知っている、と豪語(という雰囲気ではないんだけどね)している煮物屋のおじさんが描いてくれた地図でも、楽隊の兵舎にたどり着けない。
そもそも兵隊でなければ兵舎には入れないよ、と無慈悲な受付の女性が立ちはだかるのは、露木の前に技術者として赴任してきた仁科(てゆー役名だったのか。演じる矢部太郎氏がじんわり滋味深い)で証明済みである。
既存の兵隊たちを通す時にはアホみたいにアイ、と確認するだけなのに、彼女の領域を犯す、兵隊以外の者が現れると、とたんに底意地が悪くなるんである。
楽隊の兵舎は、配属される人たちがたどり着けるまでに何日かかるか、ということが話のネタになるほど判りにくいところにあった。
看板は隠されるように置かれ、目を凝らさなければ見えないような細く影になった隙間に出入り口があり、薄暗い中階段を下っていくと、ひしめき合うような狭い空間で楽団員たちが練習をしている。管楽器をあんな狭いところで練習って、鼓膜が破れるんじゃないの、と心配しちゃうほどの、トイレの中かっていうぐらいの狭さである。
この時点では、単に面白さネラってこんな設定にしたんだろうと思っていた。でも、判ってくるのだ。この世界は、現実社会の世界を相当に、皮肉っている。批判している。
この作品がいつ、どういう状況下で作られたかは判らないのだけれど、奇しくもこのコロナ禍において、“不要不急”はどこまでのことなのか、エンタテインメントは真っ先にやり玉にあげられた、当初のことを思い出さずにはいられない。
そして本作の中には、現代社会の様々な理不尽がまっすぐに皮肉られる。夫を迎えに兵舎の入り口で待っている女性は、ある日新しい妻だという女性にとって代わられて当惑する。
居合わせたこの町の町長である夏目(石橋蓮司)は、子供ができないから新しい妻を迎えたと聞くと、それじゃ仕方ないな!!子供を産んで兵隊に育てられなくてはな!と言うんである。
二重の意味でゾッとした。子供ができないのが女の側に問題があるという考えが、確かにいまだに根強く残っていること。
それが間違いなのは、捨てられたこの彼女が負傷兵でクビになった藤間(今野浩喜氏。彼はもう、私のツボなんだなあ!)と傷つきあった者同士で情を通じたのか、彼との間には問題なく子をなしたということから考えると、不妊の原因は、冷たく彼女を離縁した男の側にあったということなんである。
そして、川向こうの町と戦争をしているこの町では、子供の生誕は兵隊のそれとして尊ばれることなのだ。それは町長が明言しているほかに、楽隊の中で結婚が決まったカップルに対する、楽隊長のあからさまな豹変にも念を押すように描かれるのだ。
きたろう氏扮するこの楽隊長は、なんたってきたろう氏が扮しているから憎めなくて困っちゃうのだが、しかし彼は楽隊内の一人の女子を意味なくイジメている。彼女が何か言うと君には聞いてないからと言い、君はこの楽隊内の盲腸のような存在だ、とうっとうしげに言い放つ。
楽隊内では一番の年若い彼女に、トッショリならではのイラつく気持ちがあるのかなと思ったが、彼女と楽隊内の青年が、二人の結婚を恐る恐る報告すると、途端にそのイジメの矛先を別の女性楽隊員に向けるのだ。
結婚するということは、子供を作るということ。子供は兵隊になる。この町に貢献する。ならば、ともう一人の独身女性にイジメの矛先を向ける。
そういうことなのか……と戦慄する。きたろう氏の、のんびりとした風采から、ブラックユーモアぐらいに思って見ていたけれど、ブラックはそうだけど、ユーモアとはもはや言えない。
そして現代社会でこの問題は、顕在化している。女性しか出産できないのに、妊娠すれば労働力にならぬと社会から排除され、一方で子供を持たない女性は社会の役立たずぐらいに言われる。
このおそるべきマッチョな現代社会を、ファンタジーと言うには恐ろしすぎるこの作品世界で、まっすぐに言い放ってくれた。
石橋蓮司氏扮する町長が、兵隊たちの体操している時に挨拶っつーか、業務連絡をするんだけど、「忘れましたが」を連発し、重要かもしれない、川向こうからの危機や、新しい兵器の詳細など、さっぱり判らないんである。
この町長の造形は、メンメンと続く日本の政治家の姿に誰もが投影するだろうと思う。記憶にございませんというアレである。
川向こうの町と戦争をしているというのに、肝心なことはちっとも記憶にとどめておらず、つまり危機感がない。
なんたってこの戦争は、定食屋のおばちゃんが記憶にないぐらい、つまり物心ついた時には始まっていて、なんだか判らないけれど、川向こうの人たちは恐ろしいのだと、だから戦争をしているし、これからも続けるのは当たり前だし、そこで出世をしてえらい人間になるのが当たり前なのだ。
ここ、これは……まさに、過去の戦争というものが生み出して、その当事者の時にはちっとも気づけなかったけれど、後の時代から見ると明確に判る、恐るべき戦争の実像ではないか。姿かたちが見えないから、ただただ恐ろしい存在の川向こうの敵、仕事として従事する兵隊の生活。
そして……そこに入り込むのだ、音楽が。不要不急の音楽は判りやすく虐げられていたし、そもそも露木自身が、トランペットを吹ける技術があるのに、音楽のそもそもの力を判っていなかった。技術を習得した時にはそれこそ、人形のように無味無色に習得したに過ぎなかったんだろう。いざ楽隊に配属されたって、音楽の魅力どころか、そもそも楽隊自体が排除されまくっていたのだもの。
楽隊兵舎にたどり着くまでに、すぐ隣の、あれは技術部隊といったところかなあ、仁科もようやくたどり着いたのだろうところ。そこの、やたら頬の赤い、顔のデカい、等身のバランスのおかしい、福助人形みたいな男が、これまた平板な口調で、しかしなんかキンキンとした高い声音で、なんだ?なんだお前は?、と、ケツキックしてくる。顔も見ないで、横に並んで、正確なケツキックである。
ユーモラスなんだけど、執拗なうえに彼の異形な風貌と、甲高い無感情な声に、次第に恐ろしさを感じてくる。最終的に彼は、特段差し迫った理由もなく、川向こうの対戦町に原爆を思わせるキノコ雲が巻き上がるほどの爆弾を打ち込む、その部隊の責任者である。
しかし彼自身も、なんとなくウワサは聞きつけていたけれども、楽団として珍しく表に出る仕事として、なんとなく誉っぽく思っていた楽団員たちも、その行進を見送る町の人々(定食屋のおばちゃん!!)やら、兵隊さんやらも、なにやら、なんかよく判ってなかったに違いない。
これがどれだけ、重大な出来事か、ってことを。誰が判っていたんだろう。決断したのは、指示したのは誰だったんだろう。それが、見えない。何もかも忘れっぽい町長が決断はしたにしても、進言したのは誰だったのか。
そうだ、それが、見えないのだ!!それに気づいた時、途端に恐ろしさに身がすくんだ。
アイディアを出した者、それを決断した者、その間に挟まる、それを精査するものが、見えない。これがどれだけ危険で、非人道的で、深く考慮しなければならないことだと、アドヴァイスする者がなく、あっさりとキノコ雲が町を破壊した。
破壊した町が、描かれる訳じゃない。いわばそんな、ヤボなことはしない。露木より先に、この町のおかしさに気づいた青年がいた。そのおかしさに気づいたキッカケが、つまんないつまみ食いドロを一緒にした友達は町長の息子で、ドロボウを捕まえたとして警官になり、青年の方は兵隊になった。おかしい、明らかにおかしい。そこから彼が、なんか目覚めちゃうんである。
その同時期に、露木が真の意味で音楽に目覚めた。顔も判別できない川向こうの女性トランぺッター。もしかしたら露木は、恋に似た感情を得ていたのかもしれない。この町ではそりゃ恋愛は難しい。いわば、命がけである。恋愛=結婚であり、その場合もれなく子供をなさなければ排除されるのだから。
トランペットのアンサンブルを始めた頃、負傷兵の藤間と夫から捨てられた春子が、妊娠を経たことで、この不条理な町から出ていく。出ていけるんじゃん、と思う。
一方で、町長の息子は罪を隠蔽されたのに自分は兵隊にさせられた青年が、川向こうにダイブする。どー考えても単なる日本の穏やかな河川なのに、彼は溺死寸前の危険を冒して、川向こうに渡ったというんである。
そこにも何か、皮肉を感じる。こんな穏やかな川一つ渡れないほど、一見ボーダレスな世界に見えながらも、嫉妬というツマラナイプライドで、いまだ分断されているのだと。
川向こうの敵が恐ろしいというばかりで、顔つき合わせたこともないのに、というのが、戦争の真情なのだと、改めて痛感する。
露木はそれまでは、特段そのことを重く考えてなかったでしょ。でも川向こうの顔も見えない女性とアンサンブルをした。音楽は、メロディは、それ以前も以降も非情なまでに続けさせられる平板な、無味無色な芝居に、揺さぶりをかけたのだ。
そりゃさ、プロの役者さんだから、基本的には揺るがない。でも、シロートの観客が気づいてしまうぐらい、動揺があった。トランペットを吹いても、川向こうからのレスポンスはない。それはつまり、あの砲撃で……という推測。
あんな生真面目一辺倒の露木が、毎日出勤を刻んでいた受付の木札を盗み出し、川に投げ込んだ。それは、きっと報復のために撃ち込まれた、川向こうからの砲撃がこちらに描いたキノコ雲をバックにした出来事だったのだ。
心を通わせられたかもしれない相手を爆弾で殺し、その報復で爆弾で殺される。世界の戦争は、この繰り返しだ。その中に、本作の中にささやかに示された、通じ合えるかもしれない、通じ合えたかもしれない可能性がある。
本作で最も衝撃的だったのは、そのささやかな可能性こそが、精査されるなんてことがある訳もない、理不尽な木っ端みじんにやられることであったのだった。★★★★☆
大学四年生のホリガイ。地元の児童福祉士としての内定をもらった。ガヤガヤとしたザ・大学生の飲み会の席。お前みたいな社会性に無知な奴が人の人生に介入する資格があるのかよ、とねちっこい男子に絡まれた。かなり執拗に。ホリガイはやや顔をしかめながらも聞き流す。周囲も戸惑いながらも彼を止めない。
そんな始まりに、ホリガイは周囲から浮いているのかとも思ったが、そんなことはない。いや、正確に言うとそれほどのことはない、といったところだろうか。ほんのちょっと、彼女以外の者たちは要領がよく、いわゆる空気を読むことができるというだけだろう。
後々描写されるホリガイの性格は、やや気安く他人の気持ちや境遇を解釈してしまうというところにあるのだと思う。いや、それだけならば誰だってあるのだが、それを彼女はあっさりと口に出してしまう、言ってしまえば素直な性格、なんである。
それがこの現代社会においては空気が読めない、デリカシーのないヤツ、になってしまう。ホリガイ自身もそのことにコンプレックスがある。
だって児童福祉士になるというのは、周囲が思うように安定した公務員、っていうんじゃなく、彼女が真剣に目指したものだったから。13年間行方不明の男児のニュースにとりつかれた。彼を救い出したいと思ったから。
そんなホリガイが出会うのが、一つ下のイノギさんという女の子である。卒論のためのアンケートを方々に頼んでいるホリガイは、それを人質(うーん、モノ質だよな、この場合)にされ、一限の授業のノートを頼まれる。バイトが押して見事遅刻してしまったホリガイは、イチかバチかでその授業に出ていた見知らぬ女の子にノートのコピーを拝み倒す。それがイノギさんだった。
当然、見も知らぬ人からの身勝手なお願いにイノギさんはノーと言い続けた……のは、後から思えばイノギさんにもまた、壮絶な過去からくる、人とうまく付き合えないってことがあったからに違いない。
イノギさんもホリガイからアンケートを頼まれる、その時に、「交友関係少ないんで、あんまり数集められないけど」とさらりと言った台詞は、シンプルだけどその通り、言い当ててた。
後から事情を聞かずとも、イノギさんは人に心を許すということが苦手な感じがにじみ出ていた。一見するとフツーのカワイイ女の子、なのだけれど……。
ホリガイに無体なお願いをされたその場面で、三角関係のもつれなのか、カッターを振り回して叫びまくる女子を取り押さえる男子二人、な修羅場が突然展開される。それを呆然と眺めている、と思いきや、ふっとイノギさんは笑ったのだった。「気持ちよさそう」その台詞にホリガイさんも笑った。
まさにこの時、二人は通じ合った。運命の出会いが決定づけられた。思っていることをダダもれにして、相手に突きつけることのできる気持ちよさを、二人とも渇望していた。一見して、ホリガイはそれが出来ているようにも見えるが、他人に対してついつい不用心に言動してしまうだけで、ホリガイは自分自身にふたをして生きている。そしてイノギさんは、すべてにふたをして、生きている。
事件が起こる。本作のキモとなる事件である。一人の男子の自殺である。一度は、バイク事故だと知らされた。しかし、首つり自殺だった。その男子、ホミネ君と、ホリガイは冒頭の飲み会で出会っているんである。いわば、この飲み会で最も居心地悪く浮いている二人であるという点で、運命の出会いであり、その後二度と出会うことはなかった。
もし、その後ホリガイとホミネ君が再会して、ちょっとさしつさされつしたりしたら、ホミネ君は死ななかったかもしれない。似た者同士だっただろうと、ホミネ君が死んだあと、ホリガイのパーソナリティーが明らかになったりすると、ものすごく、そう、思った。あのがやがやした飲み会で出会ったのが奇跡だったのに、それを生かせなかった。
ホミネ君を飲み会に連れてきたヨッシーは、ホリガイとも気のおけない友達である。この時ホミネ君は、ネグレクトの少年を保護していたのに誘拐扱いされて、捕まっちゃったのをヨッシーが引受人になったんであった。落ち込んでいるホミネ君をそのまま、冒頭の飲み会に連れてきた、という図式。
ホミネ君はホリガイと帰り道、一緒になって屈託なく喋った。冗談で結婚しよっか、なんて話になった。この時ホリガイは児童福祉士を目指した理由を、次に会う時に、と引き延ばした。長くなるから、というのはそれはそうだったろうし、この人になら話してもいい、話したいけど、なんたって初対面だからという気持ちも働いたのだろう。
でも、これが最初で最後のチャンスだったのだ。もしかしたら、この時ホミネ君に話したら、彼はあるいは……いや、そんなタラレバを言うべきではない。でも常に人生は、タラレバを後悔しながら生きていくのだもの。
あの時、たった一度だけ会っただけのホミネ君の死に思いがけないショックを受けるホリガイ。葬式に出たヨッシーはそれ以降、なぜかホリガイを避けるのだ。その避ける言葉が、ホリガイが恐れてやまない言葉、自分の都合ばかり押し付けてんなよ、というその言葉。
その言葉を発すること自体が、ヨッシー自身がまさにそれを犯しているってこと、なんだけど、ヨッシーは後々、いや、この時点できっとそれに気づいていたと思うんだけれど、ホリガイは打ちのめされてしまう。他人の気持ちや事情を推し量れない自分に苛立ってきたから。
でもそんなのは、誰しもが同じなのに、なぜ彼女だけがそれを糾弾され、苦しまなければならないのか、それは、先述のように、大抵の人たちは、自分が傷つかないために必要以上の対応をしないから。
後半にイノギさんの壮絶な過去が明かされると、冒頭も冒頭、投げ捨てられた自転車、イノギさんが生き延びた、というモノローグが、ようやく謎が解明されるんである。
イノギさんの耳に生々しく残る傷跡。就職課の授業で無遠慮にイノギさんのロングヘアを、こういうのは不潔に見えるからアップにした方がいいわね、とつかんで持ち上げた講師、後から事情を知れば、なんというデリカシーのなさ!!いや……事情を知らなくったって……ああでも、判らない。人の事情を、どれだけ、それこそ読むか、だなんて。
ヨッシーはホミネが自殺する前夜、彼と飲んでいた。いつもと全く変わらない、無邪気な飲み会。ヨッシーの陽気な姿を、ホミネはSNSにアップして、そして死んだ。
ヨッシーはホミネにあった筈の異変に気づけなかったことを悔やみ、その席でホリガイの話題が出ていたことで、ホリガイに会うのが苦痛で、ここまで来たんである。
コロナ初期、立て続けに芸能人の自殺が起こった時、そんな空気が充満したことを思い出す。なぜ気づけなかった、苦しんでいたに違いないのに、と。
イノギさんが言ったのだ。ホリガイがイノギさんの耳の傷、ひいてはそれを引き起こした事件に苦しんでいることを気づけなかったことに、ホミネの事件で苦しんだヨッシーに接して、ああそうだ、私もそうだと、目覚めたように思ったことを、苦し気に吐露した時に、言ったのだ。
そりゃそうだよ。だって、隠していたんだもの、と。
ホリガイはそれに対して、それでも気づかなければいけなかったと押すけれども、でも、そうか、そういうことなんだと、思う。苦しんでいる人は、でもそれが知られたくなくって、全力で隠す。全力で芝居して、いつも通りの自分を演じとおす。
それに騙されてしまったヨッシーの苦しみに接して、ホリガイはイノギさんにその想いをぶつけると、イノギさんは、そりゃそうだよ、と。一世一代の芝居を、そう簡単に見破られちゃたまんないよと。愛する人を、大好きな人を、信頼する人を、悲しませたくない、迷惑かけたくない、だから精いっぱいの芝居をして、……気づけなかったことが、相手からの最大の愛情だったなんて。
ホリガイが処女だということが、ことさらに披瀝される。こんな年になって処女だなんてさ。てゆーか、処女って言葉が重すぎるよ、もっと他の言い方ないの??と、自嘲も含めてあっけらかんと、わざとあっけらかんと、ホリガイは対外的態度をとるんである。
一般的平均値とかは判らんし、私もまあ、アレなんで(爆)、身につまされるのだが、こんな風に、処女であることを話せる時代っつーことこそが、かなりの衝撃である。でも……話せる、というか、それを強いられる、というか、それが痛ましい感じがしちゃって。
ホリガイのバイト先の後輩で、その巨根ゆえに恋愛が上手く行かない男の子がいる。彼に対してもまた、ホリガイはついつい心無い(というのは、想像もつかないことなのだが)イジリをしてしまい、かなりの尺でエピソードが展開されるんである。
ホリガイが彼の苦悩に付き合ってカラオケ屋に行って、その巨根を見るか見ないか、みたいなまさに、ど・クライマックスの後に、イノギさんが合流するんである。合流というか……。もうこのあたりになるとかなりごちゃごちゃしてきていて、ホミネ君のこともあるし。
でもこのシークエンスは、ほんっとうに、キモだったと思う。ホリガイは、カワイイ後輩君にシリアスな悩みを打ち明けられて、これは、処女喪失アリかも、と思ったところに、ずうっと気になってるイノギさんが現れ、その時点で即座に、男との処女喪失がどーでもよくなる。
ってことは、明確に示す訳じゃなかったけど、そーゆーことだよね!特段、女の子同士のセックスが赤裸々に描かれる訳ではないんだけれど、何を求めているのか、異性の恋愛じゃなくってさ、というのももちろんそうなんだけれど、それだけじゃなくって。
ああ、上手く言えない。まあぶっちゃけちゃえばさ、いろいろ打ち明けまくって、ホリガイとイノギさんはそーゆー感じになっちゃうさ。でも、なんていうのかなあ……レズだとか、女の子同士のセックスだとか、それはあったとしたって、そういうことじゃないっていうか、なんだろうなあ……。
もちろん、彼女たちはセックスによって分かち合い、理解しあった、かけがえのないことは間違いなくあったに違いないんだけれど。
一度別れて、二人は再会する。ホリガイは児童福祉士として働いている。イノギさんは、休学して、心を休めてる。ホリガイが小豆島に暮らすイノギさんを訪ねていく場面で終わる。
大学生時代、髪を濃いピンクに染めていきがっていたホリガイ、過去と、それを示す傷跡を隠していたイノギさん。そして、命失われた旧友。生と死。この年頃になると、あるのよ、でてくるのよ。そう、そうなんだよねえ、と思いながら、観ちゃうのよ。★★★★☆
これが子供までも大人気の作品だというのが、いい意味で不思議だった。この家族の情愛がベースになっている物語にぐっとくるのは大人じゃないのかとも思われるが、さすが少年ジャンプに連載されるだけある、圧倒的な躍動感と臨場感はアニメになった時に最大限にその魅力が発揮されたのだろうから、その部分で子供たちの心をとらえたのか。
いや、子供子供とバカにしてはいけない。自分の子供の頃を考えたって、あの頃の方がずっとずっと繊細な心の機微を持っていたじゃないかという気持ちもする。
でもやっぱり、技とか型とか、そういうのを覚えるのが子供って好きだからなあ。全然違うんだけど、なんかそういうあたり、北斗の拳みたいだと思っちゃったり。
そういえばあの作品もとても子供向きではなかったと思われるし、ひでぶだし(爆)、凄く怖いと思いながら、でも見てたし子供たちの間で人気だったし、そして子供心ながらにケンシロウのユリアへの思いに心打たれていたもんなあ。
すっかり話がそれてしまった。しかして、ヒットコミックス、ヒットアニメの劇場版となるとドラえもんやらクレしんやらプリキュアやらコナンやらセラムンやら、うる星やつらもそうか、まあつまりは、劇場版のために独立したオリジナルストーリーであることがほとんど。本作のように、テレビアニメの続きの形で観客を引っ張るというのは、ちょっと私の記憶ではないような。
エヴァンゲリオンはどうだったかしらん。あれはテレビアニメが破綻のような状態で終わったんじゃなかったかしらん(爆)。まあとにかく、原作に忠実に、テレビアニメからつないでいく、というのは、正当でありそうで、なかなかないことのように思う。
その場合、当然テレビアニメファン、原作ファンをもくろんでのことになるのが、この爆裂大ヒットはどうしたことだろう!てゆーか、もう最初から劇場公開の上映スケジュールの組み方が信じられない、見たことのないスクリーン数と上映回数。
これはそこまでの勝算がテレビアニメのヒットの時点であったのか、私はそれを知らなかったから、それにしたってずいぶん大胆だなと今でも思うが、でもそれがまさに当たりに当たったのだから!!
そうなると当然、テレビアニメも原作も触れてない観客も連れてくることになる。これはなかなかのリスキーである。私は予習を出来て世界観を頭に入れて足を運べた。それが良かったと思うけれど、でももしかしたら、予習せずに行ったら、よく判らないところがありながらも、身も世もなく号泣しちゃったかもしれん、とも思ったりする。
劇場版の中盤までさしかかる原作をお借りして読んでいたのだけれど、そこまでに何度も電車の中で涙ぐむ私(照)。なので、色のついた(爆)動く(爆爆)世界に、そのことに単純に圧倒されちゃって、泣くのを忘れる(爆爆爆)。
ただ、中盤まで、だったから……後半は煉獄さんがほとんど主人公のような趣だったのが予期していなかったので……。
当然主人公は炭治郎。少年である彼が鬼殺隊員として成長していく物語は、考えてみれば少年漫画における王道の少年成長物語なのだと気づく。それを様々なバリエーションで少年漫画、ことに少年ジャンプの作品は生み出しているのだと。
おっと、話がそれた。そう、後半は煉獄さん、なのだよね。てゆーか、ここまで来ちゃうと後味としては煉獄さんが主演という気がしちゃうぐらい。いや、そもそもそのつもりでの作りだったのかもしれないと思う。
先述したように、劇場版アニメとしては珍しい、テレビアニメから引き継ぐ形でのストーリー展開になる訳だが、すいません、その後の原作読んでないのでうかつに言えないのだけれど、無限列車という、舞台装置が物語を動かすこのシークエンスは、尺が決められた映画作品にチョイスするには非常に合っていて、まるで最初から計画されていたんちゃう、と思うぐらいなのだ。
だからこそ、ちょっと、煉獄さん部分がはみ出たようにも思えて、二本の映画をくっつけたようにも見えるなあとも思ったのだが、考えてみれば本作は煉獄さんから始まっているんだよね。無限列車に乗るのは、煉獄さんと合流するためなんだもの。
つまりこの劇場版に限って言えば、主人公であるはずの炭治郎が後方に回っている感があるのは、もちろん原作の流れ通りなんだけど、尺の切り取り方はやっぱり、確信があったのだと思う。
それまでだって、それ以降だって、炭治郎は様々な人たちに出会い、影響を受けるのだろうけれど、ここで煉獄さんという、超強力に強い剣士、なのに死んでいく、大人の男であり。
背後には家族の思いを背負っていて、それは炭治郎もおんなじで、なんていうか……煉獄さんによって、炭治郎が男になるきっかけのタイミングの劇場版というか、そうやって、新たなファンを巧みに獲得しやがるというか!!
先述したけれど、原作コミックス読みながら涙ぐみまくっていたんである。噂では女性の描き手ともささやかれていて、真偽は定かじゃないけれども、そんな気はしちゃうんである。
今はジェンダーの問題はそんな単純なものじゃないことは判っちゃいるが、主人公炭治郎の優しさ、それが描線にも出る、ちょっと少女漫画の雰囲気もほうふつとさせる繊細な魅力が、人気のもとになったんであろうとも思われる。アニメーションとなると、まあ私は劇場版しか見てないからアレなんだけど、そのあたりはやっぱり失われてしまうのが惜しい気がして……。
本作が大正時代を舞台にしている、というのもグッとくる。よくある、架空の時代じゃないんだと思って。だからファッションとか文化とか、絶妙に反映させていて、その辺りも大人のファンを引き付けるのだろうと思う。
それがね、繊細な描線の原作で、当然モノクロで描かれると、ノスタルジックでファンタジックな闇夢世界みたいな魅力があるんだよね。だからカラフルなアニメに接した時、確かに原作の躍動感はアニメ向きなんだよなと思いつつ……でもこれは、原作コミックスとアニメに常に生じる仕方なし、なんだよなあ。
全然物語に入っていけないが(爆)、誰もが知っているからまあいいか(爆爆)。いや一応試みようか……。
人を喰らう鬼退治、その組織が鬼殺隊で、主人公の少年、炭治郎は家族を鬼に惨殺されて、隊員となった。鬼になってしまった妹、禰豆子をつれて。禰豆子は鬼になったけれど人を喰らう欲望を自制し、人間を守るために兄とともに闘っている。鬼を退治する展開の中で、様々な人に出会い、様々な悲しき鬼たちを退治する……。
こう書いてみれば、先述したように、ドラえもん的、クレしん的劇場版のためのオリジナルストーリーはいくらでもできそうな気がする。登場人物のキャラ設定の上に、鬼を成敗するというシークエンスの積み重ねなのだから。
でもそれをしなかったのは、無論、リアルタイムで原作とともに進行している臨場感をわざわざ壊すに値しないというのもあろう。一方で、この作品世界、心優しき炭治郎という主人公の魅力とそれまでの哀しすぎる過程、でも彼が心を強く持って進んでいく過程、まさに少年の成長物語という、少年ジャンプが背負っている絶対的価値観ともいうものを、この優れた原作の流れ、展開にあることを十二分に尊重したってことなのかなあと思う。
炭治郎は、時に共に闘う仲間たちに呆れられ、歯がゆく思われるほどに、倒した鬼にさえ憐憫の情を寄せる。自分の愛する家族が鬼に惨殺されたのに、である。
それは鬼たちも元は人間だったから。自分と同じだったから、ということを忘れないから。優しい優しい少年、その思いが、本作のシークエンスの中でも、鬼に弱みを握られた青年の心を引き戻させ、号泣を強いる(爆)。
優しさが強さになるというのは、言葉で言えばありそうなもんだけど、こと少年漫画の中でこれほどまでに明確化されて人々の心をとらえた現象は、なかったんじゃないのかなあ。
類は友を呼ぶ。炭治郎と行動を共にする、超ビビりの善逸、猪突猛進をそのまま姿に映す伊之助。ともに登場した時にはそれぞれぶっ飛んだキャラとしか思わなかったが、炭治郎の優しい心に感応する、つまり優しい心の持ち主であることが、この最強トリオを生み出したのだと思い、ああ、この後の原作も読まなければ!!
それにしても、映像化、映画化を予感したかのような、この無限列車のシークエンス、疾走感、密閉空間でのミステリ感、そもそも鬼と対峙するために夜間である必要性があったが、その闇の中に列車を疾走させるという神秘的なワクワク、炭治郎に倒される、夢を操る魘夢のジェンダーレスな魅力といい、まるでここだけ切り取って映画化するために作られたみたい!!と思っただけに、先述したように煉獄さん部分が独立したように思っちゃって。
いや、もったいないと思ったのよ。無限列車シークエンスにムリヤリくっつけたように見えちゃったから。煉獄さんで始まったんだからなるほど煉獄さんで終わるのねとも思ったが、いわゆる世間の共通認識で、やっぱり炭治郎が主人公であり、鬼になった禰豆子の可愛さやら、鬼退治の熾烈さやらであるからさ……。
最初に原作を読んじゃったせいもあるが、モノクロが生み出す、舞台となる大正時代のモダニズム、設定的に特攻に通じるものを感じちゃう、いくつもの金ボタンでとじられた黒い隊服、カラーではない想像力が喚起されるところにグッときちゃうんだなあ。
モノクロの家族映画に泣いちゃう感覚を持ち込んじゃったから、原作のカラー躍動感に圧倒されて泣けなかったんだとしたら……悔しいなあ!!★★★★☆
やっぱりそれは、企画力なのかなあ。ここでも若き才人、川村元気氏の名を見ることができる。彼の名前を見るだけでなるほどなあと思っちゃう。
そしてなんといっても驚きのキャスティングは、いわばタイトルロールと言ってもいい、殺人鬼両角に、俳優初挑戦のFukase氏を大抜擢したことなのだ。
しかもこれが、まあ私は彼らの音楽をそれほど聴いたりしてなかったせいもあって、彼の名は知ってはいたけど、まさしく恐るべき新人俳優、ここに殺人鬼として立ち現れたダガーにしか見えず、本当に震え上がった。
彼がこれほどの恐るべき芝居の才能を秘めていることを、一体どうやって見抜いたのか。恐るべし、である。物語のアイディアは抜群、それにはダガー=両角という存在がいかに恐ろしくリアリティがあるかがキモだったのを、まさかのキャスティングで観客をあっと言わせてしまった!!
予告編の印象から言えば、もっとダイレクトにびくびくもののサスペンスなのかと思って身構えていた。10分に一回心臓が震え上がるようなホラー的なものを想像していた。
そうした場所がなかった訳ではない。しかし、私の感じるところではわずかに二か所。それこそ皆が驚いた、おぐりん演じる熱血刑事、清田が殺される場面と、両角の魔の手が愛する妻に伸びていると知って慌てて自宅にとって返した圭吾が両角に襲い掛かられる場面。
もちろん緊迫した場面はそこここにあるし、目を覆うような殺人現場には震え上がるばかりなのだが、基本的には心理描写、プライド、愛情、後悔、絶望、そういった、本当にね、人間の気持ちにギリギリまでよりそっていく展開が見事で、あれ、思っていたのと違う、という嬉しいオドロキでもあるのだ。
圭吾はもともと画力はピカイチだった。だからアシスタントとして重宝されて、ついてる先生からは、一生俺が食わせてやるからと頼られているぐらいだった。
彼の弱点は、いい人ゆえに悪人が描けないこと。なのに描きたいのはサスペンス系なのだというから困ったもんなんである。その性質に合わせて優しいホームドラマを描く、ということにはならないらしい。
このあたりの漫画家的リアリティはどうなのかなあと気になる。でもなんたって、この原案自体を売れっ子漫画原作者である長崎氏が温めてきたというのだから、きっとある話なのだろうと思う。
売れるためには、悪魔にも魂を売り渡したい、だって画力という、漫画家に供えられた半分の才能は与えられているのだから、ということなのだと思い至ると、途端に背筋に寒気が這い上がる。
圭吾は両角に出会ってしまったことで、もう半分の才能を、悪役キャラクターが作れないという才能を、両角そのものを描いてしまうことで、悪魔に魂を売った。
いや、この時点では圭吾はその事実に気づいていなかった。凄惨な殺人現場で犯人の顔を見たことを隠蔽したということが、どういうことなのか。殺人犯を泳がしたというだけでも、その後のさらなる殺人、悲しむ人たちの量産、そこまでは想像できる範囲。
だけどそれさえ、圭吾は計算に入れてなかった。いや……何も考えてなかっただろう。悪役が描ける、自分に足りなかったものが得られた興奮で、一気に描き上げた作品はたちまち大ヒット、デビューさえも出来なかったのが押しも押されもせぬ大先生になる。
圭吾が遭遇した殺人現場。そもそもが、アシスタントをしていた先生からの、誰が見ても幸せそうな家をスケッチしてこいという依頼だった。もう漫画家になるのをあきらめて、アシスタントもやめることを決めていた圭吾にとって最後のご奉公だった。
曲線が和やかな印象を与えるデザインの一軒家には明かりが漏れていて、夜の闇の中、圭吾はスケッチする。ぎい、とドアがあいて、中から人が出て来たもんだから圭吾は慌てて、スケッチさせていただいていますと言いかけたところでドアは閉じられてしまう。
大音量で流れてくるクラシック音楽。隣の家の窓から人の顔がのぞき、クレームが入る。今話していたじゃないか。うるさいって言ってくれよ。警察呼ぶぞと言われて、圭吾は恐る恐るおとないを入れる。そこは……見るに堪えない凄惨な殺人現場だった。そして圭吾はゆっくりと立ち去る犯人、両角の顔を見てしまうんである。
憑かれたように、両角はこの事件を描き上げる。両角=Fukase氏の一瞬の横顔は、観客にも強烈な記憶を刻む。
返り血を浴びているその横顔は、ああ、こんなことは言いたくないけど、美しいのだ。一目で心を奪われちゃうのだ。美しき殺人鬼。だからこそ読者の心もつかんだのだろう。
計算外だったのは、現実を漫画にしたはずが、その後のフィクションを現実にされていっちゃうこと。両角は自分が作品になったことに狂喜したのだろうか。だからこそ、その後を再現しないと、思ったのだろうか。
彼をサイコパスだと言ってしまうのは簡単だが、思いがけない背景が絡んでくる。恐らく圭吾自身は何の気なしに付与したであろう設定。四人家族こそが幸せの象徴というもの。
いや、何の気なしにじゃない。運命的な合致。圭吾はクリエイティブな興味で、ああそうか、本当にそういう、サスペンスとかホラーとかが好きなんだ、それで作品を描いていきたいんだ、とここで判るのは皮肉というかなんというか、殺人事件データマニアで、新聞記事をストックして、ファイリングしている。
その中に、四人家族が最も幸せな一単位だと信奉する、宗教的団体というか、コミュニティというか、そうした村落が存在し、そこで決裂ゆえの殺戮が起きて、戸籍のない子供たちが取り残された、という事件があった。
何も知らずに、こんな運命的合致があるとは思わずに、圭吾は自分が遭遇した四人家族の殺戮を、そうしたカルト的洗脳を受けている人物によるものだとしたのだ。まさかまさか、それがまさに本当だと思わずに!!
いや、どうなんだろう……。両角による最初の殺戮に、その深層心理に、圭吾が答えを与えてしまったということなのかもしれない。だとしたら、だとしたら!!
圭吾が警察に犯人の顔を見ていないとウソをついたことが、この物語を産み出すのだが、本当に重い事実の隠蔽だ。
圭吾は結婚を控えていた。夏美のためにも、漫画家としてデビューしてから挨拶に行きたいと思っていた。精魂込めて描いた最後の最後の原稿もダメ出しされ、もう諦める決意をした矢先の出来事だった。
このタイミングでなければ。こんなコンプレックスを抱えていなければ。画力はあるのにと言われ続けていた。圭吾の中の悪魔が耳元でささやいた。
手描きとデジタルが効果的に使い分けられているのが印象的である。私たち昭和世代にとっては、デジタルで描くなんてまったくピンとこないんだけれど、最初からデジタル世代においては、紙とペン、スクリーントーンをカッターで切って貼るなんていう経験すら、していないのかもしれない。
ただ、かつて漫研だった(照)こちとらとしては、やはり一度はペンと紙、スクリーントーンを手ずから貼る経験を得てほしいと思っちゃう。
まさに、手から生み出されたものだから。圭吾が両角、いや、彼にとっては“キャラクター”としてのダガーを得た瞬間は、殺人現場を目撃して直後、あの姿を逃さぬようにと必死に描いた。紙とペンであった。
その後、人気作品になり、三重ものセキュリティがかまされるだだっぴろいマンションで一人、アシスタントはオンラインでという、なんつーか、孤独、いや違うな、圭吾が遠ざけているのだ。
自分が作り出したキャラクターじゃないことを、知られたくないから。愛する妻にさえ、心を許せない日々。もうすぐ二人の愛の結晶が産まれるというのに。ああそしてそれが!!
清田がいち早く、圭吾の漫画の通りの事件がソックリに起こっていることに気づいた。そもそも、最初の事件で捕まった、いかにもアヤしそうな、少年期にやはり一家惨殺事件を起こした男が目くらましになった。
恐らく少々知的障害がありそうな雰囲気(偏見な言い方になるのはごめんなさい)、少年期に捕まった罪だって、本当に犯したのかどうかあやしい、という見え方がし出してくると、観客に戦慄を与えだす。罪なき人に、都合ばかりで濡れ衣を着せているのかと。
まさに本作は、それを如実に描く。警察によって都合のいい犯人を仕立て上げて終了。バッカじゃないの。そんなん真実が明らかになったら、あっというまにバレちゃうことなのにさ。
なのになのに、プライド、建前が重要なのだ。中間管理職的にそこに挟まるのが中村獅童演じる真壁であり、天性のカンを利かせて真実に迫っていくのがおぐりん演じる清田。
清田は圭吾の作品のファンだった。それが、それこそが……決定的だった。そりゃさ、本来ならさ、漫画で先行して描かれた展開が、実際の殺人事件として実行されるなんてさ、ファンタジックすぎて、現場で取り上げられるなんて難しいよ。
でもほんっとに、清田はいち早く気づいたから……犯人が隠した凶器を見つけ出して、現場も色めき立つ。でもやっぱり、漫画だろうがよ、という、半信半疑というより、警察の威信、プライドがジャマして、なかなか思うように動けない。
清田を演じるおぐりんは、本当にカッコいいんだな。改めて、彼のスタイルの良さ、手足の長さ、独特の声の魅力とか、ああ、この人はスターだなあと、しみじみ思う。
そのスターさんが、がっつり脇に回り、殺される、このインパクトは強烈である。圭吾は清田に全幅の信頼を寄せるようになるし、だからこそ彼が殺されてしまったことで、自分がしてしまったことの本当の重さを痛感する。
でも、清田が無残にも殺される前の時点で、苦悩する圭吾に、清田は何度も繰り返した。
先生のファンなんですよ。新作を期待してます。先生は漫画を描くことだけを考えてください。……それは、描かれた殺人を再現する、後追いに過ぎないのに、それが共同制作だと悦に入っている両角とは全く違ったのだ。早く、早くそのことに、圭吾は気づくべきだったのに!!
幸せの四人家族、これが最後の最後まで圭吾を追い詰める。圭吾は両角をおびき寄せるために、自分の家族を殺戮しに来る彼を、最終回として描いた。これはデジタルではなく、手描きで描きたいから時間が欲しい、と言った。
冒頭のシーンで、あら今時、手描きなんて珍しい、いや知らないけどそう聞くからさあ。なんか昭和な懐かしい感じ!!とか勝手に嬉しくなっていたが、手描きとデジタルに、心の持っていきよう、魂の入れ込みようをこうして区別して描いてくれたことが、凄くグッときた。
そしてそれは、まさしくクライマックスに現れるのだ。両角は単純にはおびき寄せられなかった。なぜなら、圭吾の実家の家族は、両角の思う家族の条件を満たさなかったから。
再婚、義理の母とその連れ子である妹、四人という形だけだと、両角は吐いて捨てるように、清田が殺された時に落としたスマホから連絡してくるんである。だから本当の四人家族じゃないとね、と。なぜ両角は夏美のお腹の子供が双子だと知っていたのか!!
で、まあ、その後の展開は先述の通りなんだけど、ゾッとする画が用意されているのだ。圭吾が覚悟の上で描いた最終回のクライマックス、殺し合いになる。最後の最後には、両角にのしかかられた圭吾という図式である。
つまり、両角の悪が、圭吾の善を制した、ということだと思う。しかし結果的に、現実に起こったことは……両角が圭吾に乗り移ったというか、殺意、悪魔、それが移っちゃったって見えるよね。
だってだってだって、尋常じゃなかった。正気じゃなかった。そりゃしょうがないさ、生きるか死ぬか、愛する人を殺されるか、てな場面なんだもの。
でも、形勢逆転して両角に馬乗りになった圭吾、菅田君のイッちゃった目は、そうじゃないよね、ということを示唆していた。
そのあとは、静かに病院で療養している圭吾、裁判にかけられる両角は相変わらずイッちゃった雰囲気で期待を裏切らない感じなんだけれど、最後まで、気になってしまう。
入れ替わった、とまでは思いたくない。でもあの時、圭吾自身が描いたラストが反転して、自分自身が両角を組み伏した図が、悪魔が乗り移ったように思って、本当にゾッとしたのだ。
ちょっと、余韻を残すじゃん。夏美が双子ちゃんを連れて外出して、なんか視線を感じて目を上げる、そこでカットアウトとか、マジやめてよ!!と思っちゃう。怖いのはイヤだよー。★★★★☆
いやね、100年近くも前の某日本の近代小説家の代表作を読んでいてね、彼は結婚生活の理想と現実を、その奥さんを使って実践する形で失望したり、喜んだり、っていう内容なんだけど、まーめっちゃこのクズ男と共通するものを感じる訳さ。
んでもって当時はなんたって100年前だから女性に対する見下し感覚があって、それに気づいてすらいなかった訳なんだけど、実に現代においても大して変わっちゃいねーということなんである。
ただ救いは、それをピンク映画という、開放的感覚を持った女性がいなければ成り立たない現代日本の文化において徹底的に叩きのめすことができるというこの痛快さなのだよね。
ヒロインの綾は風俗ライター。今日も売れっ子風俗嬢に取材をしているところである。風俗嬢は興味なさげにスマホをいじり、別に何でも、好みのタイプも得意技も、といった感じで、それを綾は”オールラウンダー”とメモに書き込む。
それを見透かしたように、いや、どんなライターも結局は同じようなもんなんだと判っているのだろう、「オールラウンダーって書いてくれればあとは適当でいいから」と踵を返す。
写真撮影の一瞬だけは見事なプロの笑顔を見せる。綾は彼女がひとことも言っていないエロい台詞を書き連ね、男性読者の興味をひかせるような記事を書き上げるが、いかにもむなしい作業である。
同じ女性として、取材対象の何にも、一ミリも、その本質を理解もしていないし、伝えてもいない、ということなのだもの。
そらまあエロ記事はそんなもんだということも出来るし、本作の中でことさらそんなクリエイティブな悩みについて掘り下げる訳でもないのだけれど、これが導入部になっているのはヤハリかなり意義深いものを感じるんである。
綾はサラリーマンの彼氏と同棲している。その彼氏、肇は綾に対して常にマウントをとろうとする。セックスをしたいと思って彼女に愛撫をしかかるも、綾がイマイチ鈍い反応をしたり、彼の愛撫にただあえいだりすると、そのたびごとに不機嫌になるんである。
自分のことしか考えてないよね、俺にしてあげようとか思わないの?ひるんで黙ってしまう綾に、そうやって自分だけが被害者みたいな顔して、とまで言い募り、もういいよ、とぷいと出て行ってしまう。
出ていった先が風俗だと後に判ると、あーやっぱりクダらない奴だった!!と思わずホッとしちゃうのだが、それはつまり、この自分勝手な男にムカつきながら、彼に対峙する綾と同様、そうなのかもしれない、こういう場合の女は自分勝手なのかもしれない、と思わされている、洗脳されていることに気づくからなのだ。
じょーだんじゃない。自分が百パーセント欲望を達せられないのを相手のワガママだとするなんて、じょーだんじゃないっ。おめーこそ、おめーの方が、女を全然満足させられないくせに、何が”自分ばっかり気持ちよくなっちゃって”だよ。ちゃあんちゃら可笑しいね。ケッ!!
でも大丈夫。綾には理解者がたくさんいる。まず、彼女が記事を書いている編集社(破瓜書店って……なんつーネーミングだ)の、ベテラン編集マンである。
川瀬陽太氏が扮するから、まあこの先の危険性はすでにはらんでいるのはとーぜんだが、しかし30にもなるのに、そして風俗ライターなのに、いまいちエロに対して閉じてしまっている綾を、父親のように心配している感じが温かいんである。
まあさ、口では、綾ちゃんと寝たいなとか言うし、最終的にはそうなっちゃうんだけど(爆)、綾の潔癖さ、セックスどころか恋愛に対する臆病さを温かく見守っている感じがイイんだよなあ。
テキトーな感じの居酒屋の隅っこで、ギャラ替わりだといって飲み交わす二人が、何とも知れずイイ感じなんである。
そうなの、綾はもう、30歳になる。巨乳で童顔だから幼く見えるけれども、だからこそ女の30、恋愛やセックスとの向き合い方、もちろん仕事に対しても、というのが、のしかかってくる。30歳ということをわざわざ明確にしたのは当然、そこんところであろうと思う。
友人たちがサプライズで呼び出して祝ってくれたんである。ささやかな気のおけない場面だったけれど、あの場面は重要だったのかもしれないと思う。
綾は肇が常連になってる風俗嬢、カレンに取材を名目に会いに行くんである。セックスに関して彼氏を満足させられていない、いや、そもそも自分が楽しめていない、楽しんでもいいのか、という時点で悩んでいた彼女は、自分の彼氏が風俗嬢とどんなセックスをしているのかを、直接聞きに行くという、ビックリな決断をしたんである。
でもピンク映画の中で見ると、さしてビックリには見えない上に、風俗嬢とのプレイはパワハラ店長と店員という設定で、小道具まで完璧にそろえてやっていたと知って、綾とカレンは肇に対するキモさで意気投合、すっかり親友同士になっちゃう。
カレンは映画監督を目指している。これまた意外性あふれる設定である。創作活動に専念したいからと、売れっ子だったのに突然店を辞めてしまう、のは、綾と仲良しになったことで、肇を翻弄させて陥れようという計画ももちろんある訳である。
カレンの出勤に即座に予約を入れた肇に、カレンとともに綾はしれっと会いに行く。うろたえる肇。逃げ出す肇。なんという情けなさか。あんなに女に対して、だから女はバカなんだとばかりにマウントとって、俺こそがすべてを判ってる、理解者だからこそ教えてやってるんだという態度でいたくせに。
尊敬するベテラン編集マン、田中はある日、いつものように綾を飲みにつれて行って、綾は肇とのことで悩んでいてすっかり酔いつぶれちゃう。田中が「少し休んでいこうか」などというからこらーてっきりラブホに連れ込むんだと思ったら、酔いから醒めた綾はきちんと服を着ていて、そばにペットボトルの水も置いてあるし、普通の家の一室、なんである。
しかして隣の部屋では田中と妙齢の熟女がくんずほぐれつ情熱的なセックスをしている!綾は目を奪われる。何度も何度も、角度を変えてのぞき見しちゃう。綾にとっては、こんな風に求め、求められるセックスは、肇との間になかったから。
てっきりこの美熟女は彼の奥さんで、綾を介抱するために自宅に連れ帰った、なんてイイ奴!と思っていたら、なんとまあこの美熟女はセフレであり、「綾ちゃんとセックスしたかったのに酔いつぶれてたから、私が呼ばれたのよね」とゆー、衝撃の事実!!
しかもその事実が明らかにされるのは、この美熟女の娘がカレンちゃんであり、カレンちゃんが田中の彼女であるという、さらに衝撃の事実!!つつつまり、親子どんぶり!(あー、ピンクって感じ!)
しかしカレンちゃんはその事実を知ってもさして驚きもせず、ママとの共有はヤだからなあ、と自分の彼氏を綾におススメしちゃうという!!しかもそのおススメ理由が、「ママがセックス上手いっていうんだから、田中さんは相当なもんよ、」そそそんな!
……うーむでも、綾が彼氏とことセックスにおいて、愛を感じられずに悩んでいたことを考えると、ヤハリそこは重要なトコなんだろうなあ。
何より田中は、肇のクズっぷりを、俗な性欲にまみれた男が、愛する女を聖域におきたいがための愚かさなんだと分析した、居酒屋での何気ない会話シーンが秀逸だったのだ。
飲んでる席での他愛もない議論にもならないネタに見えたけど、あの時彼が指摘したことこそ、男の価値を決する重要なことを語っていたと思うし、それを踏まえて女性に対してどう接するか、で男の価値は決まるんだと思うんだよなあ。
ラストはまさに、それを決したものである。綾はウェブマガジンでの連載を抱えながら、カレンの映画製作にほかの女友達とともにかかわっている。いかにも楽しげである。
その中で、一人の女友達が新しくできた彼氏に見下されて悩んでいる、という話をする。なんか聞き覚えのあるキャラに顔を見合わせるメンメン。写真を見せてもらったら案の定である。
ニヤリと笑って、彼女らが何を決意したかというと……うわあ!手に手にバットやらゴルフクラブやら金槌やらの武器をもって、キャーッ!!とばかりに、楽しげに襲撃に向かって駆けていく!!
笑っていいのか、いや、笑っていいのだろう!!これじゃボッコボコどころか殺されちゃうけど!!
風俗ライターだから、いろんなエロの現場を取材する。その中にスワッピング夫婦数組の仲間たちも登場する。取材の中身は描かれなかったけれど、彼らの穏やかな幸せそうな笑みに見送られて取材場所を後にする綾と田中のシーンが、何とも印象に残った。
愛の形、性愛の形、幸福の形は様々にあるのだと。風俗やらセフレやら、親子どんぶりはどうかとは思ったけど、まあそのあたりは、エロ的範疇としては想像がつく範囲。
スワッピングをやっているんだと登場する夫婦数組が、そんなことをしているようには思えない、一緒にガーデニングをしてますみたいな穏やかさに包まれているのが、本作の中では一番印象に残ったし、意味を感じたかなあ。★★★☆☆
夏目雅子の代表作というのは知っていたが、なるほど「なめたらいかんぜよ!」の台詞はここから来ていたのかと今更ながらに知る。
あの可憐な美貌の夏目雅子扮する松恵が、その決め台詞を言い放つシーンに至るまでに、彼女が艱難辛苦をなめまくった経過を息をつめて見守ってきただけに、その台詞が口からほとばしると、ああこれが、そうかそうか……と思ってしまう。
岩下志麻が言ったのかなと思っていた。いかにも彼女が言いそうな台詞だし。本作でも冷たい美貌で松恵に辛く当たる義母だが、結局は彼女は一番弱い女だった。
一見か弱く見える松恵が最も強い、たおやかに強く生きていく女だったのか。
長尺だから怖気づいて、なかなか物語に入っていけない(爆)。もう一つ脱線。このタイトルにも、驚いた。こんなんで映画好きだなんて言えないな、こんなことも知らなかったのかと言われちゃう。
タイトルになる花子は、主人公じゃないんだ。つまり、夏目雅子じゃない。夏目雅子はもらわれっこの松恵なんだもの。花子はその後、妾のつるに生まれる総領娘である。重要な役どころであるのはもちろんだが、主役は明らかに松恵だし、少々おつむの弱い感じの花子はキャラ的な印象も弱い。
タイトルと内容のいわばギャップは、おっと思わせる効果は絶大だが、それにしても思い切ったこのタイトルのつけ方はそれ以上の意味を感じさせる。
結果的に松恵が持つことになる強さは、この花子によってもたらされたからなのだろうかと思ったりする。
それでなくてももらわれっこの松恵、しかも本来なら男の子一人がもらわれていく筈だったのが、下見に来た政五郎の目にたまたま止まって、女の子も一人、とついでみたいにもらわれていった。結果、松恵の弟であるその男の子は逃げ出してしまい、ついでの筈の松恵が残った。ここにいる理由がそもそもなかった筈の上に、弟の逃亡の責任を背負わされて。
それだけでも松恵が生き抜かなければならない強さを否応なく課される訳だが、そこに、政五郎の血を受ける娘が生まれてしまった。
政五郎の妻との間に子供ができなかったからこそ、逃げてしまった弟と松恵はもらい受けられた訳で、妾との間とはいえ正当な娘が生まれてしまっては松恵の存在意義はほぼなくなってしまう。
もう自分一人で生きていくために、自分がしたい勉強をおなごには必要ないと言われながらもなんとかもぎ取り、生きていくしかなかった、ということなのか。
なんかいろいろ言い忘れてるけど(爆)。まず舞台は土佐、仲代達矢御大演じる鬼龍院政五郎は、この地でブイブイ言わせてる親分さん。
つるに花子を産ませる前にも、お気に入りの妾を多数お抱えにし、松恵は夜伽を仰せつかるそのおねえさまたちを呼びに行く係も仰せつかっていた。
素直で賢い松恵は妾たちにも、使用人たちにも好かれている。この子供時代を演じているのが仙道敦子で、うっわ、まんまなお顔!!そしてめっちゃ可愛い!!!夏目雅子の美しさにも心打たれたけど、仙道敦子の演じる、耐えに耐えている幼き松恵のいじらしさにこそ、私はヤラれてしまった。ああ、あの、何もかもを飲み込んだ眉のあたりの表情、たまらん!!
本作はさ、夏木マリをはじめ、まーみんな、美しいヌードを見せてくれるし、夏目雅子も仲代達矢にモミモミされてびっくりしちゃうのだが(爆)、本作は仙道敦子が全身全霊を投じて生きた松恵の苦しい少女時代にこそ、すべてが詰め込まれていた気がしちゃうんである。
政五郎はカリスマ性はあるし、子分たちからは盲目的に慕われているけれど、それだけに危ういというか。
ここが起点、という、闘犬場面、さっすが土佐犬、幼き松恵がほとんど見てられない風に目を覆うのも判る、まさに殺し合い、それは、その犬のオーナーである同士の、結果的には殺し合いであった。
同じ親分の子分筋である政五郎と末長の犬が対決、負けた末長がいちゃもんをつけたことから、二人の確執は始まった。
末長が悪いよ。遺恨から政五郎の犬を殺すなんて、人道的に許されぬ!!政五郎所有の、金星を挙げたのに殺された犬をずっと育ててきた兼松は号泣しながら訴えた。どうか仇を打たせてほしい。そうしてもらえたら、自分は親分にこの身体を預けますと。
わーかーるー。わかるわかるわかる。これを我が愛猫に例えたら怒られるかもしれんが、でも、私だって、さ!!そう思うさ……。
そしてこれが、この二組の確執の始まり。末長の女房こそがキモだった。空気を読まず、やたらかみつくこの女房が夏木マリ。
さっすが鍛え上げられた、キュッと上がったおっぱいと美しい背中の彫り物を見せて談判に来た政五郎を篭絡しようとするが、おっぱい見せ損(爆)。
政五郎は思い付きみたいに、その家の娘をさらっていってしまう。これがつるで、政五郎との間に娘の花子を産み落とすんである。
それまで政五郎のお気に入りの妾を二人も抱え込んでいたのに、子供は出来なかった、てゆーか、この二人はいかにも玄人、プロとしてここに来ていて、そりゃあ正妻さんの歌との間に子供ができない状態、だからこそよそから子供をもらってきた事情、子供が出来ないように配慮していたに違いない。
つるは何も知らずにさらわれてきた。反発心しかなかったし、このアウェイな場所で生き抜くには、政五郎の子供を宿すしかなかった。それをつる自身がそこまで事情を判ってたかは微妙なとこだけど、少なくともまだ子供だった松恵にわかりようもなかったのは確か。
プロとして政五郎のお相手をしている古参の妾二人は新参者に荒らされて怒り心頭、可愛がってる松恵まで愚弄されたことで更に怒りに火が注がれ、去っていった。
そしてつるは花子を産んだ。女たちの確執をうっとうしいぐらいに処理してしまった政五郎は、……ああでも、これがこの時代、いや、この場合、やっぱりやっぱり、一番悲しいのは妻の歌なのだ。
なんたって岩下志麻だから、松恵にもつらく当たるし、キッツ、と思うんだけれど、つるが花子を産んでからは、やっぱりさすがに……彼女の真情を慮らずにはいられなくなる。
正妻なのに、子供を成せなかったことで末席に座らされ、花子を産んだつるが自慢気に鎮座している。それを夫の政五郎もまるで気づかぬように上機嫌である。
もし、もし、歌が松恵を、もらわれてきた松恵を、その時点で本当の自分の子のようにかわいがっていたらどうだったろうと考えてしまう。その時から歌は、自分の立場を脅かす者として松恵につらく当たったのだ。
でも今や、松恵と歌は同じ立場で、こんなことになろうなんて、思っていなかっただろうし。しんっじられないことだけれど、歌はこんな、女殺しで不誠実な夫を、愛しているのだ。最後まで、愛していたのだ。
……これが、一番、信じられないことだった。彼女はあくまで、この大所帯の侠客一家の姐さんとしてプライドを持って君臨しているがために、松恵や、外の者にも冷たい態度をとり続けているのだとばかり思っていた。
違うのだ、違うのだ!!こんなに孤独な人は、いなかったのだ。きっと松恵は、もっと早く、この義理の母親と心を通わすことができたのだ……。
それが判った時には、歌は腸チフスという当時としては不治の病に伏し、この時点でほとんど勘当されていた松恵が看病のため呼び戻された。
松恵は父が見込んで花子の婿にと目論んでいた社会活動家の田辺と愛し合ったが、彼とは離れたままで、地方で教員をしていた。
歌の看病に当たって、この死の間際で、血のつながらない、冷たい関係のままだった母と子が、本当は心の底で歩みあいたがっていた心をやっとの思いで交わせるのには、……この場面が一番、本作の中で一番、心が動かされた。
それはやっぱりやっぱり、同じ女であり、この21世紀でさえまだまだ苦しんでいる男社会の中の女の苦しみを、同じプライドという名の下でも、歌の時代はつまらぬ見栄というようなものであり、松恵の時代は自分が存在するための誇りであり、という……。
でも双方ともに、女が一人、生き抜くために必死につかんでいくなにものか、ということを、歌の死の間際に、そして同じく感染して息も絶え絶えの松恵に、そんな二人の、もう死にそうなところでようやく、同じ苦しみを持つ女同士だったということを、判りあえた、切ないカタルシスがあったのだった。
松恵は弱者のために闘い続ける田辺と生涯を共にすることを決意し、貧しい生活ながら、彼との子供を宿し、幸せな生活を送っていた。しかし、彼の故郷に帰る船の中で流産してしまう。
久しぶりに土佐の実家に寄ると、懐かしい顔が歓待してくれて、あんなに激怒してもう二度とあいまみえないと思っていた父親の政五郎とも、しみじみと杯を交わすことができた。
かつて政五郎は、田辺との話が持ち上がると大激怒して、こともあろうか松恵を凌辱しかかる愚行を犯しかけたのだが、松恵が政五郎を殺そうかという抵抗を見せて、それは何とか逃れたという過去があった。
ああ、本当に、逃れられてよかった……。松恵が血のつながらないもらわれっこだということが、ずっとずっと気になっていたから。それは、何も言いはしなかったけど、歌もきっと、そう思っていたからこそ、もらわれてきた当時のあんな幼い頃から、冷たい態度をとり続けていたんだろうと思うから。
なんて悲しいの。いつだって女は凌辱される立場。子供のように、時には孫ぐらいに離れていても、その可能性におびえ続けなければいけない女、そして、男を愛する女たちは、なんて悲しいの。
田辺は、政五郎一家と長年の確執を繰り返してきた末長一家に殺された。それは……田辺が花子をさらったのを救い出そうとしたことからだった。
「なめたらいかんぜよ!」の名セリフは、松恵が田辺の実家にお骨を強奪しに行く場面で発せられる。
この時には政五郎一家は没落していたし、なんたって時代的にもヤクザは厭われていたし、総領息子を殺された田辺の父は当然、松恵を罵倒するのだけれど、彼女は毅然と、愛する夫のお骨をその台詞と共に、その手に奪ってくるんである。
花子がね、花子が……。ああ、そう考えれば、タイトルに刻むのは、刻みたくなるのは、刻むべきなのは、判る気がした。
あまりにも不憫な花子。観てる時には不憫なのは松恵だと思っていたし、にくったらしかった歌も最終的には気の毒な女だと思った。
花子はただただ溺愛されて育ち、義母である歌や、義姉である松恵に優越感を持って君臨していた、ように見えたけれど、それは父、政五郎、母、つるの後ろ盾があったからだったのだ。
花子が、親からの押し付けであったけれど、田辺は松恵に奪われ、ぶんむくれて、姉とは断絶さ。次に父親が世話した子分筋の相手とは、最初のデートからチューしちゃったりラブラブだったのに、これまたヤクザの抗争で命を落とした。
それで花子は完全に気がふれてしまった。あっさりさらわれたのは、そうでなくても見るからになんか精神的に弱そうな造形に作ってる花子の、その弱みに付け込んだとしか思えないのだ。
溺愛する花子を救い出すために、政五郎はじめ鬼龍院一家はほぼ全滅、政五郎は末長派と一騎打ちになり、命はとりとめたけれど、網走の刑務所内で二年後に死んだと伝えられる。
そして、松恵が花子のうらぶれた死に遭遇したのは、物語の冒頭でまず示されたところである。かつては栄華を極めた侠客一家の、最後の最後は、やはり女の哀しき末路だった。
私が時代劇が好きじゃないのは、男と女の役割の違いを、その古い価値観にいやおうなしに引き戻されることなんである。家事育児だけでもイラっとくるのに、生殖能力の責任を理不尽に押し付けられるとは……!!である。
本作が作られた時代は、そこまでの意識はそれほどにはなかっただろうと思われる。だからこそ余計に、これはヤバい、これはダメだよと思う。
一見して美しく強い女、そういうイメージが永続的についているであろう岩下志麻様、それは確かに間違いないけれど、少なくとも本作に関しては、だからこその、それは仮面だからこその、苦しい苦しい女の想い、あまりに不公平、理不尽な女にとっての社会を描いていると思う。
でも、やっぱり、当時の時代だから、まだまだだなと思うけど。だって当時、その問題提起として取り上げた人はきっと、いなかっただろうな。そういう時代だったもの。★★★★☆