home!

「み」


2021年鑑賞作品

みだら妻の妄想不倫(ひとり妻 熟れた旅路の果てに)
2020年 84分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:深澤浩子
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:辰巳ゆい 並木塔子 加藤ツバキ 折笠慎也 モリマサ 安藤ヒロキオ


2021/6/11/金 録画(日本映画専門チャンネル)
なんて、なんて怖い。竹洞作品はいつも人間の心理を深く深くえぐりだす。ロケーションはいつも、心寂しくも美しいのに、そこにぽつりと置かれた男と女はみんななんて寂しくて、愛し合っていてもみんなたった一人なのだ。
そしてそれに気づかずに、正義や普通といった価値観を鎧に、その愛を壊し、傷つけ、自分自身をどうしようもなく孤独にぶち込むのだ。なんてこと!!

本作もまた、監督の故郷である青森に舞台をとっている。見るからに北国の果ての、凍るような海だけれど、広く広く広がる砂浜とそこにつながるうっすらと緑が覆う丘の斜面の構図は、不思議と穏やかで、まるで異次元、いや、あの世さえも思わせたのは決して偶然ではあるまいと思う。
そこに今は一人、恵深は歩いている。夫婦二人の旅行。10年の記念旅行。なのにその傍らに夫はいない。遅れてくる、その理由が明らかになる前に、一人歩いている恵深のたたずまいで、まだ彼女しか登場していないのに、この夫婦の心が離れているのが判る。

以前ここを訪れたことがあった。会社の慰安旅行だった。しかし登場するのはたった3人。まあ低予算のピンク映画だし、と一瞬思ったが、それはそうだろうが、いや違う、あの世のようなこの空間にこの三人だけがいて、うち二人は夫婦なのに、決定的に一人なのは、その妻だというのを確実に示すためなのだと後から思うにつけ思い知る。
恵深ははぐれた夫の洋介が、海岸に打ち捨てられた大きな流木の片隅に座っているのを見つけて、声をかけようとする。しかしその反対側の片隅に、つまり一本の流木の両端に、不自然なぐらいに離れて同僚の石庭さんが座っているのに気づく。
ただ同じ方向を向いて、ひどく離れて座っている。なのに恵深はこの二人の心の絆に気づいてしまって、声をかけられなかった。いや、気づいていた。

この慰安旅行の最中から恵深は不機嫌だった。なんで石庭さんが来てるの、だなんてそれこそなんと理不尽な物言いだろう。だって彼女、そういうタイプじゃない、友達もいなさそうだというのは、後に石庭さんが亡くなってから他人に言い放つ勝手な物言いである。
この時には彼ら夫婦、そしてそこに介在した女性の存在が何も判らないうちだったけれど、でも恵深の言い様には、じゃああんたには友達がいるのかよ、とつい言いたくなるような相容れなさを感じた。

確かに石庭さんは人づきあいが得意そうなタイプには見えないし、実際にそうだったんだろう。
洋介とは、運命的なシンパシィをお互い感じ合ってはいたけれど、何も、何もなかった。この慰安旅行でようやくまともに口をきいたぐらいだったのだ。

石庭さんはハッキリと前々から洋介のことが好きだったのだし、洋介の方は自身が結婚しているから、というのもあるから明確に自身に確信を持とうとはしなかったのかもしれないけれど、どっちにしろ、そういう関係には至らなかったし、あの流木に離れて座っているだけで満ち足りていた。
それを妻の恵深に目撃された。何もないのだから後ろめたいことなどないけれど、ある意味これ以上ない裏切りであり、屈辱。でもこの夫婦はそれをお互い、正そうなんてことはしないのだ。

そしてその後、夫と二人の旅行に出かけた先で、夫はその……石庭さんの葬儀に出席するために、恵深だけがこの地に先に来ているというのが物語の始まりである。
そこで恵深はかつての高校の同級生と偶然出会う。口ぶりから、この地はお互いにとって全く共通点のないところなのだから、こんな偶然あるかいなと思うが、それを心底苦々しく思っているのは、恵深に発見されてしまった梢枝であるだろうと思う。地味で薄幸な雰囲気は、石庭さんを思わせる。

恵深はきっと、高校時代もそして社会人になってからも、華やかな存在だったのだろうと思わせる。
この地で知り合う取材に来ているという小説家の男に、「私と同級生なんですよ!」とその老けぶりが信じられない、という口吻で話す。小説家は如才なく、おきれいな方じゃないですか。恵深さんがお若く見えるだけじゃないんですか、と返すのだが、この時点でこの男が、取材と称して恵深に近づきながら、だんだんと彼女のことを軽蔑しだしているのが判るんである。

恵深の薄っぺらさ。ハンサムな夫をゲットした自分、若々しくファッショナブルな自分、言ってみればたったそれだけだ。
それを小説家は最後の最後まで言わない。冷たく、彼女のことをじろじろと観察している。恵深にかかわる二人の哀しい女性のことを知るにつけ、恵深という女が“一番かわいそうな女”だという結論を冷酷にたたきつけるのだ。

ああ、口が滑ってしまった。そこに至るまでには、まだまだ先がある。
恵深が、きっと学生時代は女子的カーストの最上にいたであろう、OL時代も自分はそうだったに違いないと信じて疑っていないであろう彼女が、実は真の愛も友情も何一つ得ていなかったことを、まだ彼女は、いやまだどころか、生まれてから今まで一度だって、気づいていないのだ!!

いや、この期に及ぶと、気づかないふりをして、踏ん張っていたのかもしれない、という気がする。地味な梢枝のことを同じ年とは思えないと言いやがる恵深だが、演じる辰巳ゆいは、べったべたに白々とファンデーションを塗りまくって、その下の皮膚の疲れが見えるのが痛々しいんである。
それがネラってやっているのかは難しいところなんだけれど、それに比しての石庭さんも梢枝も、ナチュラルメイクに年相応の女の年輪というか、疲れの中にもそれは滋味や深みというものを感じさせる。比する恵深はなにか……何とか保ってきたバービー人形みたいな雰囲気を漂わせるのだ。

結婚してしばらくは仕事をしてきたけれど、そろそろ子どもかな、って、と小説家に語る恵深だが、結婚して実に10年、子供が授かってない、ということは、身体的なことももちろん考えられるけれど、この物語的展開においては、そうではない感じがひしひしと漂う。
確かに二人はセックスはしている。土曜日は仲良くする日でしょ、と慰安旅行のホテルでも恵深は夫に挑みかかる、のは、隣室の石庭さんに聞かせるためだったのだが。

結果としては逆効果だった。聞かせられた石庭さんも、恵深とセックスしている洋介も、壁、というか、心でつながっていた。
この描写こそが一般タイトルにつけられている妄想不倫だが、タイトルに刻まれている妻は蚊帳の外なのだから、見当違いもはなはだしいというか。まあピンクはタイトルなんぞはほぼ意味ナシではあるのだが……。

そして梢枝である。彼女は銀行強盗、殺人さえも犯した男とひそかに暮らしている。彼女自身、高校3年の冬休みに家を飛び出し、放浪の末、今この彼と一緒にいるんである。
お互いのことを、聞きもしない。薄々彼がトンでもないことをしでかしたことは感づいてはいたんだろうけれど、何も言わない。ただ彼とは約束をしている。追われているということだけは知っていた。いつも通り帰宅しなければ、灯台で落ち合うこと。そこにいなければ、諦めて帰ること。
そんなときに梢枝は恵深に発見されてしまって、そして恵深は指名手配犯のポスターが梢枝と一緒にいた男だということに気づいてしまう。

恵深が通報したのは、正義なんかじゃない。梢枝が、今自分は幸せだと、恵深に言ってのけたからだったに違いない。だって恵深は梢枝を憐れんでいたんだもの。
こんな寂れた田舎町に隠れるように生きている梢枝がマトモな人生である筈がないと、困っているなら話を聞くよと言った恵深は明らかにカースト制度の上から梢枝にモノを言っていた。不幸であるに違いないと、決めつけていた。
それは、……恵深自身が、外側に向けては幸せな結婚生活、夫から愛されている奥さんの図式を、いわば必死に守ろうとしていたからこそ、他人に、たまたま出会った下層の同級生を自尊心を満足させるターゲットとして、狙い撃ちしようとしたからに違いない。

なのに、返り討ちにされた。幸せそうに寄り添うその相手の男が指名手配犯だと知った時、恵深はカチドキの声を心の中であげたのではないか。
でも、通報し、その結果が確実に想像されると、途端に不安になる。小説家に、私は間違ってなかったですよね?と問いかける。

小説家は最初のうちは諭すように恵深のかたくなな嫉妬心を懐柔しようとするが、そもそも彼女の薄っぺらさを見抜いていたんだろう、ある時点で豹変する。ムリヤリ唇を奪い、凌辱しようとする。
「あなたみたいは人は、いっそレイプでもされた方が価値観が変わっていいんじゃないかと思って」その後の彼の台詞が心に突き刺さる。
「だって、世の中に好きということを間違いだと言われる恋愛なんてあるんでしょうか?」
ああ。その通りだ。その通りだ!!そして彼は唾棄するかの如く、「本当に可哀想な女だな」と恵深を突き放すんである。

この小説家は、狂言回し、というのともちょっと違うかなあ、何か、あぶりだす、あるいは恵深の傲慢さ、彼女自身が気づいていない孤独を気づかせるために現れる、そう考えれば悪魔のような存在だった。
でも恵深は、気づかないふりをしてきたことのすべてに対峙はしたけれど、でも結局は、何も、何も、変わらないのだ!!
愛しあうカップルの仲を裂き、石庭さんが洋介に送ったささやかなプレゼント、ホントにささやかな、旅先の平凡なお土産であるキーホルダーを盗んで隠し持つ。彼女は、自分だけが、ただ一人きりであることに気づいているのか。

気づいているんだろうな……それでも恵深は、社会的に幸福な立場に見えることを選んでいる。夫が確実に自分以外の誰かを愛している、それも体のつながりがなかったのに、それだけに深い愛情を獲得したまま、その相手は死んでしまったから、永遠に勝てないまま。
そして偶然再会したかつての同級生は、自分より下と思っていたのが、何も見返りを持たない深い愛情を交し合う相手を得ていて、正義と常識の名のもとにその関係を破壊してみても、きっと彼らの間の絆は深まることはあっても、切れることはないのだ。

それは小説家の男に言われないでも彼女自身、判っていたのだ。誰かに否定してほしかったのに、これ以上なく肯定され、自分自身の高慢さが、今どうしようもなく一人に追いやられている。

石庭さんの死に打ちのめされていた夫がようやく旅行に合流する。二人とも、そのことに言及さえしないし、これから先もただただ夫婦生活を続けていくのだと、お互いの心の中で思って、まるでただただ仲の良い夫婦のように手をつなぎ合って、因縁のこの海岸をそぞろ歩くのだ。次第に二人の姿が遠ざかってエンドなのだ。

怖い、怖すぎる!!一見してまるで穏やかな夫婦、いろいろあったけれど、これからもやっていこうね、的な穏やかさに見えて、全然、違うのだ!!
それでも、いや、これが夫婦のあるあるなのか。夫婦の形を保つことをいわば絆にしているのか。愛し合うってどういうことなのか。怖すぎる!!

ほんっと竹洞作品はロケーションの寂しい美しさに、こんな怖い、もうなんつーか、見たくない男女のエグい心理を掘り下げて、セックスがなんか哀しくて、本当に毎回ヤラれちゃうんだよなあ……。★★★★☆


未来のミライ
2018年 98分 日本 カラー
監督:細田守 脚本:細田守
撮影:音楽: 高木正勝
声の出演:上白石萌歌 黒木華 星野源 麻生久美子 吉原光夫 宮崎美子 役所広司 福山雅治

2021/7/10/土 録画(チャンネルNECO)
妹が産まれて、周囲の関心が自分に来なくなったくんちゃんの、いやーだー!もうー!好きくないの!!の絶叫にマジでイライラしてしまう自分の心の狭さに心底イヤになってしまったが、これはきっと計算に違いない(そうだと思いたい、私だけではないと思いたい……)。
だって当然だもの。赤ちゃんが来る、妹が来ると判っていても、今まで100%向けられていた関心が100%赤ちゃんに行き、それに対しての彼にとっては正当な抗議に外ならないのが、突然お兄ちゃんでしょ、なのだから。

私、心底妹で良かった……などと今更ながら思うとともに、ねーちゃんもそうだったのかなあ、そうだったとしてその時のこと覚えているのかなあ、と思ったところでふと、思う。
妹、お兄ちゃん、お母さん、お父さん、ばあばにじいじ、ひいばあばにひいじいじ。誰一人、名前がない。

いや、突然お兄ちゃんという役目を担わされた彼はくんちゃんと呼ばれているし、妹には未来、という立派な名前が命名されてはいるのだけれど、くんちゃんと呼ばれるその本来の名前は何というのか、最後まで明かされないのだ。
未来という名前だって、女の子にも男の子にもつけられる割と一般的な名前だし、それ以上に本作のタイトルロール&名前以上の、名前ではない意味がある。

未来。子供は産まれたとたんに未来の塊であり、その象徴なのだ。そう考えたら、本作の登場人物は総じて個、アイデンティティではなく、それぞれの役割を振られて物語を形作っていることに気づく。

かなり、日本的な考えに基づく構築だなあと思ったりする。もちろんその中で、現代日本社会にまだまだ根付く、父親と母親の役割という価値観のこびりつきや、女の子と男の子に分けられる祭事、女の子の方が服の着せがいがあるとか、お雛様をしまい忘れると婚期を逃すとか、根強く残る日本の男尊女卑の問題提起がびっちり充満していて、この作品が海外にも広く出て評価もされたというのが、なんか身も縮こまるような思いもしたりして。
アジア的家父長感覚が厳しい中で抑圧されている女性、というんなら判るけど、自覚のないままぬるっと不平不満を抱えている、みたいないかにも日本的あいまいさ。そしてその中に生きる家族、登場人物には役割としての呼び名しか与えられない、個を否定した構成。

これって相当大きな問題提起だよなと思うのだけれど、物語的にはわがまま放題だったくんちゃんが、未来からきた妹によって時空を飛び越え、成長していくというファンタジック&ヒューマンドラマを、日本アニメ技術のすべてを尽くして壮大に描くもんだから、なんかうっかり、家族のイイ話、と思いそうになるけど、やっぱりやっぱり、違うよね。

だって、くんちゃんは、「くんちゃんは未来ちゃんのお兄ちゃん!!」と自覚するところで、負のスパイラルから抜け出るという図式が用意されているんだもの。
くんちゃんがなんていう名前の、一人の男の子かどうかということは最後まで置き去りにされ、未来ちゃんのお兄ちゃんである、ということがアイデンティティの獲得として大団円になる、なってしまうということに、それを感動的に用意されてしまうということに、正直どうなのかなあ、と感じてしまう。

このクライマックス場面は確かにかなり魅力的である。そこに至るまで、くんちゃんがやーだー!もうー!好きくない!!と絶叫するたびごとに、彼は異空間にいざなわれる。
最初は、くんちゃんが産まれた時に同じ目にあった飼い犬のゆっこが擬人化されてそれを訴える。その次にいよいよ、未来のミライちゃんがあらわれ、婚期を逃したらたいへん、と一向にひな人形をしまう気配のないお父さんを案じて現れる。

そのたびごとに彼らの訓示を受けてくんちゃんはそれなりに、自分が非力な子供でばかりはいられないことをなんとなく悟っていくし、その中でプライドも産まれ、自転車に乗れるようにもなるのだけれど、そう簡単に順調に大人になってはくれなくて、戻ってくるとまた、いやーだー!もうー!!の繰り返しなんである。そしてそのたびにイラっときてしまう、こっちこそ全く大人げない私(爆)。

本作はザ・現代日本の核家族を描いていて、赤ちゃんが生まれた時はばあばが手伝いに来てくれるし、ご近所づきあいも描かれるし、まったく孤立しているという訳じゃないんだけれど、私の親世代は兄弟がたくさんいて、こんなやきもち焼いてる暇もないし、祖父母や近所の人たちが普通に出入りするような社会で、だからくんちゃんのような感情を持つ子供はきっと、そうそういなかったんだろうと思うんだよね。
昔はよかった、というのは簡単だけれど、でも、そこに見いだされるそれこそ未来への危機感こそが問題なわけで、正直それが描かれているとは思えなかったしなあ。

くんちゃんは、時空を飛び越える中で、子供だった頃のお母さんや、若き日のひいじいじに出会う。子供の頃のお母さんは、今のくんちゃん以上に散らかし魔で、母親(つまり、くんちゃんのばあば)にいつも叱られていた過去を持つ。
その悪癖が治ったのが実に結婚してからだというんだから恐れ入る。それこそくんちゃんを叱れないんである。

でも今の彼女は、そのことを忘れている。お母さんという役割に必死で、その立場において、くんちゃんの立場にたって考えられずにただ怒ってしまったことに自己嫌悪に陥るんである。
そのことは間違ってないんだけれど、それはあくまでマニュアルとしてのお母さんとして間違っていた、という苦悩であり、彼女もまたそんな自由奔放な女の子であったことを忘れたまま、息子のくんちゃんを叱っていることに気づいていなかったら、意味がないんじゃないと思っちゃう。

せっかくこんな風になかなかに豪快な子供時代を見せてくれるんだから。そして弟がいるという話もあるのに、話だけで終わってしまっているのももったいなさすぎる。
それこそ、唯一ヨウイチという名前まで贈呈されているのに、本当に話の上だけ、写真に残された幼い姿だけ。くんちゃんにとって、逆の立場、性差も逆の立場のおじさんの話は興味深かったに違いないのになあ。

くんちゃんの異次元への旅は次第にエスカレートしていって、ひいじいじにお馬に乗せてもらった後は、これは、それまでとは違う、なんつーか、くんちゃんをこれまで教育してきたのに、なんかどうにも自覚してないよね!!的な、もうここまできたら、お仕置きするよ!!みたいな、ブラックファンタジーな展開になる。
みんなで旅行に行くシークエンスである。またまたくんちゃんは、いやーだー!もうー!!の繰り返しである。お気に入りの黄色いズボンがまだ乾いてなくて、でもそれじゃなきゃイヤ!と、お父さんを困らせるんである。

これをはかないんだったら行かないんだね!いやーだー!!というお決まりの展開で、意地を張ったくんちゃんは、未来から来た自分自身に止められるのに、なんたって電車好きだから、来た列車に飛び乗ってしまうんである。
車窓に見える様々な列車に興奮さめやらぬくんちゃん、確かに見覚えのある東京の在来線、新幹線、でも次第になんか、おかしいな、って感じになる。ありそう、だけど、ない。駅構内に滑り込んでくる微妙に近未来的デザインの新幹線、東京駅も、凄く凄く似てるんだけど、なんか違う。なんか、よそよそしいというか。

くんちゃんは迷子になったことを自覚し(迷子ってか、一人できちゃったからなあ)、機械仕掛けの奇妙な案内係に訴えるも、家族の名前が思い出せないことではじかれてしまう。
そう、くんちゃんは、お父さんはお父さん、お母さんはお母さん、名前が判らない。そこまでは子供だからまあいい。そのほかの家族は?と聞かれて、ゆっこ、それは飼い犬の名前ではじかれ、それ以外の家族と聞かれて、答えられないのだ。

つまり、彼にとって、妹はこの時点で家族ではないのだ。ライバル、異形の存在、自分を脅かす何者か。
幼い彼はこんな状態では自分自身を証明することすら出来ず、迷子の子供たちが運ばれる恐ろしい列車のホームに送り込まれてしまう。

確かにさ、子供にとってのアイデンティティなんてさ、くんちゃんぐらいの年の頃なんて覚えてもないからホント何とも言い様もないんだけれど、ただ、想像すると、想像したくないぐらい、孤独で、頼るなにかもなくて、叫んでも叫んでも聞いてくれる人がいなくて、恐ろしすぎる!!きっと子供時代に、そうした経験もしたんだろうが、ああ、忘れてて良かった!!と思っちゃう。
そして……私は妹であり、上はお姉ちゃんで、すっごくいいお姉ちゃんで、こっちが落ち込んじゃうほど、私のことを肯定してくれる、愛してくれる、お姉ちゃんだったからさ。私、幸せな妹だなあと思って。ワガママ言っちゃったの私の方だなあと思って。

家族はいろんな形があるし、きょうだいもいろんな形がある。半世紀も生きてくると、友人や職場関係やらで、驚く事象を様々見聞きする。それは世界中どこの国でもそうだろうし、もちろんその中に文化的違いはあるだろうし。
本作は、家族の中のアイデンティティ、特に子供のそれに特化してとても意欲的だったは思うけれど、うーん……なんていうのかなあ。

日本映画ってさ、なんつーか、こういう、過去を織り交ぜる時に、戦争体験をうやうやしく入れる傾向にあるというかさ。もちろん、家族の系譜を語るのにそれは必要だとは思うんだけれど、今や、世界的視点で言うと、戦争の歴史、その体験を、こんな風にちょこっと、その国の視点、価値観から感傷的に織り交ぜるというのは、ちょっとちょっと、違うかなあ、と思って。

必要以上に他国におもねる必要はないとは思うけど、戦争から生き残ったから、今の命につながっている、というのが、その価値が重いからこそ、現代社会の家族の物語の中で織り交ぜるのには、尺的にもエピソード的にも、誤解を恐れずに言えば軽々しすぎる感じが、正直してしまったんだよなあ。だって描き方が、タイムリープ、ファンタジーだから余計に……さあ。

こう書いてくると、くんちゃんのイヤイヤに観客をイラッとさせ続けるのが、結局はどういう意図だったのかしらんとさえ、思えてくる。
ワガママ独女の私がどう言ったってどーもならんが。どうしようもなく、モヤモヤばかりが独女にとっては残っちゃったというのが、正直な感想かなあ。★★★☆☆


MIRACLE デビクロくんの恋と魔法
2014年  115分 日本 カラー
監督:犬童一心 脚本:菅野友恵
撮影:蔦井孝洋 音楽:上野耕路 山下達郎(監修)
出演: 相葉雅紀 榮倉奈々 ハン・ヒョジュ 生田斗真 小市慢太郎 渡辺真起子 塚地武雅 岸井ゆきの 市川実和子 温水洋一 クリス・ペプラー 劇団ひとり(声)

2021/4/25/日 録画(TBSチャンネル1)
公開当時はまあなんたって相葉ちゃんだから気になってはいたんだけど、アニメーションとの合体、山下達郎のクリスマスイブ、そして……あんまり相葉ちゃんの役者としてのイメージがまあその(汗)。とにかくポップなキラキラ映画のように思えていたので迷いつつも足を運ばなかったんだけど、このコロナ禍で、思いがけず遭遇してみると、予想していた感じとはかなり違う印象があった。意外としっとりしてる……いやその(汗汗)。
物語は幼い二人の時間から始まる。幼なじみ。子供の頃には女の子の方が身体が大きいことはあるあるであるが、大きいゆえに、気持ちまで強いと誤解されている。でも小さな体の男の子の方は、決してそうではないことを知っているのだ。
女の子は杏奈。男の子は光。大人になった二人は榮倉奈々嬢と相葉ちゃんが扮している。子供の頃の関係性そのままに、強くてしっかり者の杏奈と、どこか頼りない光はまるで姉と弟のように今も行き来している。

幼いころに杏奈の父親が亡くなった、という描写はちらりと出てきたけれど、光の方の家族がどうなっているのかよく判らないし、本当にまるで、この世に二人だけの姉弟のようである。
しかし当然、決してそうではない、ことを、ただの男と女だということを、杏奈の方はきっと、子供の頃から意識している。光は……ただただ杏奈を慕って、信頼して、彼女のいない時間なんて考えられなかった、その感情が子供の頃のまま止まっているような、奥手というには歯がゆい青年なんである。

なるほど、これを相葉ちゃんに振るのはピタリ!と思ったが、実はそんな単純なキャラではないことが明らかになってくる。いや、相葉ちゃんが単純だと言っている訳じゃなくて(爆)、天真爛漫さが光にピッタリだと(爆爆。どんどん墓穴掘ってる……)。
それはなんたって、タイトルにもなっているデビクロくん、なんである。先述したように予告編で遭遇した時には、このデビクロくんなるアニメーションキャラクターがポップな印象でしかなかったのだが、実は光の心の闇、だったんである。いや、闇、という言い方は違うかな。言えない本音、しかもそれに自分でも気づいていない、いや、気づかないふりをしているといったような……。

デビクロ通信なるビラを光は街中を駆け抜けて貼って歩く。その描写はそれこそアニメーションと合体して疾走感にあふれ、一瞬これが、めっちゃ明るいエンタメのように錯覚する。
違う違う違う。夜の闇に紛れて、自分の闇から抜け出せない心の奥を絞り出したデビクロ通信は、光の、血を吐くような心の叫びなのだ。それを続けなければ自分自身を支えていけないような。

そうなんだよね。これって、相葉ちゃんのただただ天真爛漫なイメージからすれば……確かに外見は相葉ちゃんそのものだけど、それだけに、ドキリとする描写なんである。
光は本屋に勤めている。上司に小市さんがいるのに震える(照)。光は漫画家志望で、いくら応募してもちっとも引っかからないんだけれど、こつこつと描き続けている。
その作風は光そのもので、コミケ仲間にも地味だよね!!と喝破されちゃうんだけれど、ちらりとコマを見るだけでも、光のあたたかな気持ちが投影されている作風だというのがわかる。でもそれは、“売れる”ものではないのだ。

そして杏奈の方は、新進気鋭のオブジェ作家である。劇中、国際的な賞をとるところまで行って、そのスカラシップ制度のために、光と離れ離れになるという危機が、その可能性が割と最初の方で示される。
光への気持ちを自覚しまくっている杏奈にとっては、それがどういうことなのか、二人にとってどういうことなのかを、光に投げかけているのに、光は子供のように、子供の頃のように、さみしさを正直に表すだけなのだ。

光には子供の頃に思い描いた運命の相手というのがいて、それはあまりに非現実的な、“知性を左手に、ヒョウを右手に”といったキャラクター。しかしこれが、困ったことに現実に彼の前に現れる。
知性は本だったし、ヒョウは紙製の模型だったけれど、光は運命の相手だとまじで思っちゃう。無理もない……出会い頭にぶつかった、なんて、少女漫画かよ!!というシチュエイションでもあったのだから。
しかしてその相手、ソヨンは杏奈の仕事仲間であり、ソヨンの恋人が光の大学時代、漫研の仲間であった北山である、というのは、そんな偶然あるかよ!!とさすがに言いたくなるが、まあ仕方ない。

何から行こうか。杏奈の仕事であるオブジェ作家、ソヨンは著名な照明デザイナー。杏奈はソヨンや、若き仲間たちとチームを組んで、大プロジェクト、「ILLUMINATION FOR MAGICAL X‘MAS」に参画している。
工房にこもりきりで、真っ黒になりながら鉄だのなんだのバリバリ加工していた杏奈にとって、華やかな場所は苦手なんだろう、事前セレモニーはあっさりぶっちって、一人作業に没頭している。子供の頃デカ女と言われ、気を張っていた彼女と、今もちっとも変わらない、気がする。そういう感じが、榮倉奈々嬢にピッタリである。

照明、つまり光を操るソヨンが、きっと杏奈にはまぶしい存在だったんだろうと思う。でもその中で仕事をするのだから、杏奈もまた、光を抱き込む作品を作り出すことになる。
光、光!!これは偶然ではあるまい……。杏奈にも光にも、その人生の中で、今まで、光はなかった。それを杏奈はまず、仕事という物理的なもので対峙し、つかみ取った。
光は、ぶつかって反射するものがなければその存在さえ、確認できないものである、というのはよく言われるところである。光は一見天真爛漫に見えるキャラでありながら、その中の闇こそが彼自身だった。それは悪い意味ではなくって……デビクロくん、と称される彼の心のお友達は、間違いなく彼自身であったのだ。

それを、杏奈もソヨンも直接的に間接的に指摘するけれど、まっすぐに指摘してきたのは、北山である。
思いがけず、売れっ子漫画家となった彼とコミケで再会した光。北山は、漫研時代、光の漫画が一番好きだったと言い、編集者を紹介するから原稿を持って来いよ、と声をかける。この時には、光が岡惚れしているソヨンの恋人だとは、そらー思いもしなかった。

北山はエリート銀行マンを極めて、夢をかなえるために漫画家に転身、見事に売れっ子作家になった。
しかし光が原稿を携えて会いに行くと、北山は頭を掻きむしっている。自分から持って来いと言ったくせに、光の作品を全然ダメだ、売れる漫画ってのはそうじゃないんだ、読者の喜ぶことだけを考えて書かなきゃダメなんだ!!と吠えるように言う。光は……何も言えずに立ちすくんだ。

違う、違うよね。アンビバレンツというやつだ。北山は、光の漫画が漫研時代一番好きだと言ったし、今の作品を読んで、彼が全然変わっていないことを知って嬉しかったんだろう、こんな作品が、評価されてほしいと願ったんだろう。
読者のために、というのは口当たりのいい言葉だ。つまりはマーケティング。自分のクリエイティビティをマーケットに売り渡すということなのだ。そこまで本作が突き詰めて描くわけではないんだけれど、なかなか辛いものがあった。

ただね、ただ……杏奈に叱られるようにして、光は漫画を描き続けることを、最後の最後に決心したし、それは自分が本当に好きなことって、何なのと、ただただ、後ろ向きに、何かにぶつかっては、ごめんなさいごめんなさいと謝ってばかりだった光が、最後の最後に、ぱあーっ!とすべてに気づいて走り出してくれたから!!

最初のうちこそは、天真爛漫な相葉ちゃんそのものと思いながら観ていたのが、いやこれは、全然違う、コイツめっちゃ後ろ向きで、本音を吐露するデビクロくんを自分自身でも見ないようにして、後ろ向きすぎてホントに大事な存在、大好きな人に気づいていない大馬鹿野郎!だと気づくと……。
でもそれが、大事な存在が故に自分に対する自信のなさだったのかもしれないと思うと、ああもう、一気にいとおしくなってしまう。

恋しちゃったかも、と勘違いしたソヨンとの邂逅シークエンスもとても好かった。彼女とは、魂の交感を出来たと思う。お互い、大事な存在に対して、不器用にしかできてなかった、不器用君同士だったのだ。
ソヨンは光に、鳩みたい、と笑った。職場の上司の小市マンも光のことを、ミスターごめんなさいだな、と言う。ぺこぺこ謝っちゃう、優しさからくるまあいわば無責任さなんだけど……それが、ソヨンの心を解きほぐした。あくまで、相談相手として、だったけれど……。

杏奈が光とソヨンをおぜん立てしたのだけれど、そのシークエンスの中で、デート練習の場面がヤバかったなあ。おしゃれな、間接照明の、つまり薄暗いだけの(爆)店でトレーニングするんだけど、そもそもその前に、光、つまりは相葉ちゃんが。
光とも相葉ちゃんともイメージがないシュッとしたスーツ姿(どちらにしても、失礼な物言い……)で試着室から現れ、慣れないゆえに戸惑っているのも可愛らしいが、なにより突然男前になっちゃってるしさ!!
そして、杏奈もまた、練習に付き合うためという言い訳の元、ショウウインドウに見とれたドレス姿で、光との疑似デートに付き合う。「なんか杏奈、いつもと違うね!」あったりまえだわ、それ言う?光、もう……。

幼なじみとゆーのは、かくまで難しいものなのか。いや、難しいのは、人生、仕事、自分が打ち込むものをどう判断するかによるだろうと思われる。
デビクロ君に支配されていたように思われていた光は、逆だった。デビクロくんこそが光自身であることを、光に関わるすべての人達、何よりデビクロ君にこそ、教えてもらう。

成功することに固執していた北山が光に吐いた暴言も、明確に回収された訳ではなかったけれど……相葉君自身の柔らかなキャラクター、彼が描き紡いでいるであろう優しき作品世界が、きっとこの先、売れるという方向ではないのかもしれないけれど、きっときっと、ファンを獲得していくだろうと確信できる。
ほんのちょっとの描写だったけど、ちっとも売れない地味な光の冊子を、タイトルをハッキリ口にして、買っていったお客さんがいた。目指してきた、感じだった。そういうことなんだと思うのだ。反射して光を感じる人が、必ずいる。売れることだけが絶対の価値観では決して、ないのだと。

決定的なのはラスト。だって、光は杏奈を三年待つのだもの!!待ってるからと、彼女の手のひらにマジックでこれが最後のデビクロくん通信を描き込んだ。
雪の降る中、コミケの仲間に助けられて途中まで送ってもらって、渋滞にはまって走り出して、ようやくたどり着いて、さ。ああ、お約束の涙腺モードさ。

考えてみれば、なになに、こいつら、ザ・プラトニックかよ!!彼ら以外もそんな純潔さが漂ってるのは、ジャニーズだよなーとも思うが。
個人的には大好きな小市さんが、まさかのコスプレイヤーで、奥さん役の渡辺真紀子氏にそれゆえアイソをつかされていたというエピソードである。コスプレイヤー小市さん、サイコーだなー。★★★☆☆


トップに戻る