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「な」


2021年鑑賞作品

仲間たち
1964年 92分 日本 カラー
監督:柳瀬観 脚本:中島丈博 吉田憲二
撮影:峰重義 音楽:遠藤実
出演:浜田光夫 松原智恵子 舟木一夫 松尾嘉代 飯田蝶子 石丘伸吾 田中筆子 杉山元 菅井一郎


2021/7/18/日 録画(チャンネルNECO)
浜田光夫のあまりの可愛さにヤラれる。彼の出演作品は何度か見ている筈だが、あらららら、こんなに可愛かったっけ……と何度もつぶやいてしまう。彼演じる光弘(みっちゃん)の親友として登場する舟木一夫も、その八重歯が愛らしい、これまた最も若く可愛い時期の彼だが、浜田光夫はもぉー、アイドルと言いたい可愛らしさ。
田中圭をぐっと若くしたような感じのお顔。相手役の松原智恵子の美しさは言わずもがなだが、彼女がまさに美女、であるのに対して無邪気な少年のような浜田光夫の可愛らしさにキュンキュンくるんである。

みっちゃんの節子(松原智恵子)に対する猛アタックといい、その後のラブラブデートといい、これはさわやか青春ムービーかと思いきや、どんどん物語は深刻度を増してくる。
舞台は川崎、時代は高度成長期。まさにぐんぐん日本が動いている時。節子はパンツスーツの制服をさっそうと来たバスの車掌さん。みっちゃんはトラックの運転手。

みっちゃんのトラックがエンコしているところに節子の乗車するバスが行き合うことで出会う、その出会いから、二人はお互い誇りある仕事をしている最中に出会うことが、しっかりと象徴している。 タイトルが示す仲間たちは、それぞれの労働者たちであり、窮地に立たされた仲間の一人を救うために結束して経営者に交渉する、という展開が、節子の職場、みっちゃんの職場それぞれで描かれるんである。

女性の社会進出、それでも結婚や出産で職場を追われることが当たり前だった当時に、それを仲間たちによって打ち破る爽快さ。
事故でけがして労働力として使えないと判断したらあっさりと切り捨てる、経営者と労働者の上下関係を、労働者がいてこその経営であると仲間たちがたたかう胸アツさ。

これはまさに、高度経済成長期の日本が、本当にこんなことがあちこちで行われていたと思われるような、今から思えばなんだかうらやましいような、労働への、人生への、賛歌である。
私たちはいわば、彼らが闘って築いてくれた労働者の権利の上に、感謝も覚えず安穏と座り込んでいることを痛感するんである。

とはいっても、基本は青春物語である。なんたって舟木一夫がメインキャストで出てくるんだから、その美声を劇中ふんだんに聞かせもしてくれる。
みっちゃんも和さん(舟木一夫)も、田舎から出てきたクチ。みっちゃんが働いている運送会社にも似たようなメンメンが集結している。子だくさんのあの時代、長男以外は追い出され、自分で人生を切り開かなければいけなかった時代。

でも逆に、ぐんぐん伸びているあの当時の日本で、家族から放り出された形とはいえ、彼らには途方もない夢と未来があった。ただ、いつだって故郷の影はその背中に張り付いていたけれど。
みっちゃんの勤める運送会社には朝鮮からの出稼ぎもいたりして、そのおっちゃんはいつかは帰る故郷のためにと必死に働いている。

みっちゃんたちの会社の寮からは、工場から絶え間なく噴き出す炎が見える。排気ガスを燃やしている炎だという。新入りの勉(マチャアキ!!)は、キレイなもんですねえ、と感心するんである。
みっちゃんたちは、ひっきりなしに燃えている炎に飽き飽きしている、という。それは、どうとるべきか。公害問題はこの当時すでに社会問題化している筈なのだから、かなり皮肉めいてとらえることも出来るとは思うけれど、印象としてはかなりあっけらかんと、高度経済成長の象徴としてさらりと描かれているように思うのだが。

和さんとみっちゃんと節子は、ひそかに三角関係であるが、和さんがその気持ちを飲み込んじゃうから、二人は知らないままなんである。
和さんのお得意先が、節子の兄の恋人のお母さん。かわいい和さんが恋する節子とうまくいってほしいとぎょうざを出前してもらうのだけれど、上手くいかず、そのうちみっちゃんが節子を恋人として和さんのところに連れてきちゃうという切なさである。

しかして和さんは本当にイイ奴で、失恋の気持ちはおくびにも出さず、親友と節子の仲を最後まで真摯に応援するんである。
舟木一夫のさわやかさを決して崩すことのない、なんか舟木一夫を売り出すための作品のように思えるぐらい(そうなのかも)。

みっちゃんはお気楽に働いていたんだけれど、節子との出会い、そして同僚のおっちゃんが戦力外通告であっさり切り捨てられていくのを見るにつけ、憤りと共に、自分自身の行く末を案じるようになる。
いや、やっぱり節子との出会いが大きかったに違いない。それまでは、先行きなんて判らないんだから、楽しく過ごせればいいやと思っていた。大いに酒を飲み、大いに遊んだ。健康的な若き男子。でも女子にはオクテってあたりは、当時の浜田光夫人気を考えれば、うなずける設定。だってめっちゃカワイイんだもん。

親友の和さんに言われて、恋人ぐらい!!と思い立ってすぐに頭に浮かんだのが節子であり、その後はストーカーよろしく彼女が乗車するバスに、回数券を使って一日中乗車するという強硬手段。今の感覚で言ったらかなりキショいのだが、浜田光夫の無邪気な可愛らしさと、無体な乗客をやっつけたことも手伝って、節子の心が開いちゃう。
その後は割とあっさり恋人関係になり(つーても、チューもためらうほどの純情さなのだが)、みっちゃんはそのことで未来が突然ひらけちゃう。

これまでの雇われ運転手ではなく、手持ちのトラックで有利に契約できる、いわば一国一城のあるじ。
今までは貯金なんぞ考えもせず、気楽に働いていたのが、一台のトラックを買う、その頭金をためるために、寝る間も惜しんでハンドルを握る。あーもー、何が起こっちゃうか、この時点で判り切っちゃうのだが。

何が起こるか予測は出来ていたが、それが二度にわたって深刻な事態に陥るとは、思わなかった。
一度目。ネラっているトラックの頭金がたまるまでギリギリに働くみっちゃん。節子とのデートも居眠りばかり。なんとまあ、当時大人気の林家三平の高座を居眠りしちゃうというぜいたくさである。
ついに決定的な事故を起こしてしまい、その賠償金としてコツコツ貯めた貯金ががっつりさらわれてしまい、みっちゃんはすっかり失望、元の、遊んで使い果たす状態に戻っちゃう。

でもそこに、和さんが安く手に入るトラックの情報を持ってくる。みっちゃんは、即座に目が覚め、そのトラックを手に入れるために、それまで以上の過酷な働き方をする。
和さんがカンパ金を差し出しても、自分の力でやりたいと、突っぱねる。オバカーである。若くプライドがある時は、妥協や計算を一切排除しちゃう。明らかに体力の限界を迎えているのに、だから親友が心配しているのに、そんなことも、受け入れられないのだ。

一方で、節子側にも大きな展開がある。節子の兄の恋人であり、節子の同僚でもある冴子の妊娠である。この展開には結構、ビックリする。時代的にも経済事情的にも結婚への道のりが険しく、悩んでいた二人だったのが、いきなりの妊娠突破とは。
しかもそれを、まずは妹である節子が無邪気に喜び、祝い、当の冴子もにこやかにそれを受け入れちゃうもんだから、えええ、この時代、結婚前に妊娠しちゃうって!

現代ならばできちゃった婚という言い方すら良くないと、授かり婚と言い換えたりするけれど、でも根底には、やっぱりまだまだ古い、軽蔑的な価値観があるのに、この当時、先に妊娠させちゃう!!これだけ苦悩の真っ只中を描いておいて、おお、そうか、しかも無邪気に喜んでるし!!と、なかなかに動揺させてくれる。
しかしこの後、結婚していなければ妊娠した女性社員は内勤に異動が認められない、という社内規定によって彼女が職場を去ることに同僚たちが奮起、それなら結婚しちゃえばいい、そして体に障りのない内勤に異動して、無事に赤ちゃんを産んで、車掌として戻ってきて!と一致団結する姿にカンドーするんである。

女性の社会進出までは進んだ。女性は我慢強いし、男性と対等に働きたいというプライドが芽生えたこの時代だからこその、熱い想いである。
むしろ今の時代、女性にこの熱い気持ちがあるかどうか。この時代の女性たちの戦いによって築かれたお座布団に安穏としていないか。

節子のお兄ちゃんと冴子は、そうしてめでたく結婚生活に入ったものの、独立して暮らす資金がなく、節子はみっちゃんに金を借りる安請け合いをしちゃう。
だめだよー。みっちゃんは節子との未来のためにがむしゃらに働いていて、節子と会えば夢見るように、その夢想を通帳の残高と共に語るもんだから、そりゃあカネの無心なぞ言い出せるわけもなく……。

そのことでなあんだか気まずくなっちゃったりして、でみっちゃんが事故を起こしちゃって、ほんっとうに節子と気まずくなるんだけれど、そこに和さんが中古トラックの話を持ってくる。
しかしそこでみっちゃんは立ち直ったからこそ、これまで以上に張り切っちゃう。カンパもはねつける。無事頭金の金額をためるまでは行きつくものの、本当に、本当にその直後にさ……悔やんでも悔やみきれない。神経まで断裂する大けが。会社からもクビになり、みっちゃんはすっかり自暴自棄になっちゃう。

みんなみっちゃんが大好きで、助けたいと思って、なのに、みっちゃんの男としてのプライドが邪魔して、致命的な展開に持ち込んじゃう。これは……この時代、じゃないな、今だってそうだ。なんだって男はつまらぬプライドにとらわれちゃうのだ。周囲が手を差し伸べているのに!!
そして本作において生き生きと描かれる女性の働く姿、それは恋人となる男が陥る、男たるもの!!という幼稚な価値観とは違う。これから先、一人の人間として生きていくための職業、女性として出産するということ、結婚、それを乗り越えての働くこと……。

本作がメッチャ画期的なのは、結婚を考えているけれど経済的になかなか踏み出せないカップルをまず設置し、妊娠をさせ、しかもその妊娠はその事態を突破するための計画的なものではなく、あくまで愛し合う二人の結晶であるとする。
その事実になんら悩むことなく当たり前に喜び、その上で経済事情、仕事事情を考え、悩むという道筋を提示したこと、である。

これはねぇ、当時も,現代も、なかなかできないことだよ。まず二人がメッチャ愛し合っていること。いろいろ悩みはあるけれど、今後を考えて避妊するとかいう選択肢が頭になくって、授かったことに迷いなく喜んでいること。
もうここまでで、愛愛愛、愛しかないでしょ!!だからこそ彼女の同僚たちが、こんな風になりたいと思うからこそ動く訳で、当時としては相当画期的だったであろう、勤務形態替えが実現するんである。

そして、みっちゃん側である。みっちゃんは致命的な事故に遭う。神経がヤラれてしまい、必死のリハビリをしても、2年かかってどうか、という状態になってしまうんである。それまでは無邪気で天真爛漫だったみっちゃんが、やさぐれちゃって、手が付けられなくなる。
前半までの、明るい青春ドラマからどんどん暗くなっていくばかりだから当惑するんだけれど、そもそも冒頭に、排気ガスを燃やしてる炎や、朝鮮からの出稼ぎおっちゃんや、家族を抱えているゆえにムリして仕事を引き受けすぎて事故を起こしちゃったまた別のおっちゃんやらが、さりげなーく登場してくるもんだからさ。

でも、仲間たちの、そして和さんの、みっちゃんに対する体当たり、その愛がようやくみっちゃんに伝わって、節子の愛も伝わって、彼はリハビリに邁進することを決意。この改心の展開はそれまでの苦悩と比べると割とあっさりしていたが……。

最初はホンットに、気楽に見ていたのさ。かっわいい浜田光夫、舟木一夫、美しい松原智恵子、それだけでワクワクしたもの。でも現代につながる仕事、人生、ジェンダーのアイデンティティが、この時代に避けて通れないこそ、強烈に描かれている、捨て置けない作品だったのさ。
ちょっとねえ……フェミニズム野郎としては、なかなか捨て置けない作品、冒頭には、カワイイ男子二人に萌え萌えしてたのに、ヤバいなあ。この時代にしっかり戦っていた若者たちに申し訳ない、闘ってない私たちを顧みちゃう。★★★★☆


なぜ君は総理大臣になれないのか
2020年 115分 日本 カラー
監督:大島新 脚本:―(ドキュメンタリー)
撮影: 前田亜紀 音楽:石崎野乃
出演: 小川淳也

2021/3/14/日 録画(日本映画専門チャンネル)
本当に恥ずかしながら私は政治には全く興味がなくって、でも最近そのことにやっと危機感を感じ始めたところであった。知らないところで知らない間にしれっと法規が変えられそうになっている、それをまともに食らう職業の友人から教えられた。
本当に恥ずかしかった。政治に関心がない、というのは日本の国民病のようなところがあると思うけど、ならばなぜ関心が持てないのか。この作品を見てその答えがまずわかったような気がした。

監督さんは最初、奥さんの故郷の同じ学校だった同学年の青年、小川淳也氏が、周囲の反対を押し切ってエリートコースの総務省を辞めて、出馬した、という話に興味を持った。
言ってみればそれだけだった。しかしどんどん彼自身の熱意に惹かれていき、こんな人にこの国の政治を任せたいと本当に思うようになった。最初こそ企画書を作って持っていったけれど、その後は作品化するあてもないのに、友人同士として会っては時にカメラを回した。実に17年間。

ある一人の政治家に惚れ込んでしまえば、政治に興味が持てちゃうんである。私なんかは単純だから、こうやってドキュメンタリー作品で出会っちゃうと、こんな人がいたんだ、知らなかった!こういう人がちゃんと上に行けないのはおかしい!!とか単純に思っちゃう。
でも絶対に彼のほかにもこうした魅力的な政治家は大勢いて、私たちが知らないだけなんだろう。なぜ知らないのか。

日本の選挙システムが間接的で、まず党が強くなければ上に上がっていけないことになっているからだということは、小さな頃からぼんやりと思っていたことだ。
例えばアメリカでも二大政党の対立はあるけど二大だし、大統領は国民の直接投票によって決まる。その判りやすさに憧れた。自民党の中でころころと総理大臣が変わり、野党は与党に文句を言うだけ。その図式では政治家の一人一人の顔など到底見えず、政治離れをするのも無理はない、と思っていた。

その気持ちは基本的には変わらないんだけれど、もし、こんな風に、ああこの人!という人に出会えたなら、違うのかもしれないと思う。
小川氏の論はめちゃくちゃ判りやすい。この国が直面している危機、危機感を叫ぶだけじゃなく、それを解決する方法論をきちんと確立している。この人の思う、この国を、社会を、変えなければ大変なことになる、という思いを百パーセントかなえてあげたくなる。

それはとりもなおさず、自分たちの未来をよくすると信じられるから。そんな政治家に出会えて、勝たせたい、いや、彼が勝たなければ日本はダメになる、とまで思える、そんな人に出会えたら。
いやむしろ、世界的にみれば、それが全く機能していない国はひょっとしたら日本ぐらいなのかもしれないとさえ、思う。

タイトル通り、小川氏は政治家を目指すのならその先のトップのトップを、目指していない訳はない、と言い切る。それが万分の一の可能性であったとしても、である。自身でこの国のかじ取りをしたいと。
でも監督さんとの最初の出会いで、小川氏はまず言った。「(企画書のタイトルである)それでも政治家になりたい、という台詞には違和感があるんですよね」と。政治家になりたいと思ったことはない。ただ、ならなければならない。焦燥感にも似た熱で、彼はそう言った。
それぐらい明晰な彼の目にはこの国の破綻が見えていたし、家族を愛する気持ちと同様に、国を愛している彼にはそれを漫然と見ていることができなかった、ということなのだ。

なんという純粋な。彼の家族や、後に監督さんさえ口にするように、この点だけでも小川氏は政治家には向いていないのだ。その事実こそがどれだけこの日本という国にとって損失であるかということを判りながらも、そう言わずにはいられない。
学者とか、教育者とか、報道とか、彼に見合った立ち位置で日本社会の問題を糾弾することはできただろう。でもそれでは日本という国が変わらないことは確かにそうなのだ。ペンは剣より強しと言いつつ、結局決定権があるのは政治家たちなのだから。
小川氏は猪突猛進純粋すぎる誠実さを持った人物だから、いかに万分の一の可能性でも、総理大臣というトップを目指す理想を崩さず、政治の世界に飛び込んだ。

ならばなぜ、野党からと人は言うだろう。劇中でも彼の地元である香川のおじいちゃんおばあちゃんたちは、自民党にしか入れたことがない、という。自民党に入れる、なんである。その人に入れる、んじゃなく。
総理大臣になってかじ取りをしたいという夢を隠さずに語るなら、野党からの出馬はいかにも回り道である。

小川氏自身は右だ左だという傾きは持っておらず、中道というのは充分に判る。与党野党というのしかないのなら、野党に飛び込むのは判る気がする。
冒頭で、現在の小川氏に監督さんが会いに行くところから始まるんだけれど、監督さんが提出した「なぜ君は総理大臣になれないのか」という本作の企画書タイトルにわっはっはと笑い、生真面目な彼は、そのなぜをきちんと解説しだしてくれるんである。

まだ小川氏の人となり、日本の政治システムの予想以上の旧態依然を全然判らないままだったから、党利党益、党内の出世という言葉が飛び出すことに、あーやだやだ、めっちゃ日本的やん、とこの時には思ったのだけれど……。
冒頭、政治家になって17年経つ彼にこの台詞をまず言わせてスタートしたのが、見終わるとめちゃくちゃ意味があったことなのだと、判った。

党利党益、党内の出世、これができないがゆえに、小川氏は”総理大臣になれない”どころか、選挙でも苦戦するのだ。
彼の政治信条とまっすぐな熱意に惹かれる人たちはいっぱいいる。支持者も、後援会も、スタッフも、熱い。これだけの人たちに支えられているのなら、当然選挙に勝つだろうと思うのだが、そうはいかないのが日本の選挙システムなのだ。
自民党の圧倒的強さ、選挙カーで回る古臭いあいさつ回り、支持者しか集まらない集会でどんなに盛り上がっても、その熱は外に伝わらない……。

ネット社会、SNS社会になった今ならば、これから変わっていくのかもしれないが、本作が描いているほんの数年間でそれが反映されていないことにこそ、危機感を感じる。

小川氏は、党利党益だの、党内の出世だの、関心がなかったし、今だってない。でも、それを経ないと、総理大臣どころか、この国、この社会を憂える危機感を発言する機会さえ、与えられないのだ。
比例代表で当選しても、直接当選組と比して発言権が落ちてしまう。なんとまあ、日本的保守感覚だと思う。党内での出世、だなんて。うわー、半世紀も前の感覚。
社会の経済活動の中ではもはや失われかけているサラリーマン的価値観が、いまだ政治の世界には強く残っている。地元一族、地盤引継ぎ。ああやだやだ。

そんな日本的悪しき価値観に、政治家として上り詰める欲がない小川氏が巻き込まれ、発言権を得るためには……でも党の方針にはついていけないし……分裂、統合、どこに身を置いたらいいのか……と苦悩しまくる。
苦渋の選択で小池百合子氏掲げる党に合流することになり、しかし選挙で負け、さらに地元の商店街のジジイから「イケメンだとかいって、腹ン中は真っ黒だな」と浴びせられたりする。うっわ……。

結局、一人一人の政治家の葛藤まで判りようもない市井の人々にとっては、党から党に渡り歩くなんて、勝ちたいがために魂を売った、と思われちゃうんだろう。
党、それはまるで、会社やヤクザの一門のように、絶対的服従を強いられる場所。でもそのジジイのような年代の価値観では、その場所こそが仁義を尽くして仕えるべき場所なのだろう。

日本の政治システムにおける、そのかび臭い感覚こそが、この人に政治を任せたいと思う彼のような人材を腐らせていくのかと、暗澹たる気持ちになる。
党じゃない、彼なのだと、党が変わっても彼は変わらないんだと、声を枯らしても、言い訳にしか聞こえないだなんて、一体政治家って、なんなのか。

国会答弁で、質問をする小川氏の後ろで、青二才があまっちょろい正義感ふりかざしてのう、みたいに薄笑いをしている、あの図式である。たまにかすって見ちゃう国会中継で、あの感じが本当にイヤだから、国会なんて見たくもないし、その延長線上で、政治なんて、政治家なんて、と思ってしまっていたのは事実である。
国会中継が、すべての政治家が、臨戦態勢で、わくわくするような討論の場であったなら、これからの世代、政治に関心を持つ人たちが増えるかもしれない。

実際、2019年の国会で、小川氏は明晰に理詰めで統計不正を質し、SNSで話題になったのだという。見た目がイイ男なのが、どっちに転ぶのかという危うさもある。
清濁併せのむという日本的訳判らん悪しき価値観から言えば、彼が上り詰めて総理大臣になる可能性は……限りなくゼロに等しいだろうが、小川氏が言うように、もしそうなるチャンスがあるとすれば、その時はすべてががらりと変わる、リーダーシップの取り方が、変わる時だと、いうことであり、そうでなければ日本という国は……マジでヤバイ、かも、しれないのだ。

正直言って、小川氏はあまりにも純粋で、上手く入り込むとか、ここは自分を殺すとか、できない人でさ。小池氏の掲げた党への合流も、彼女が思わずみたいにポロリと漏らした、排除と選別という言葉にあっさり神経をとがらせたあたり、確かに政治家には向かないのかな……と思ったりしたよ。
小池氏のしたたかさは、イコール勝つための強さ、つまり彼女も小川氏と同様に持っている、この社会の行く末に対する危機感、それを正していくためには、敵を作っても、嫌われても、かまわないという、”清濁併せのむ”強さがあるのだと思うからさ。その言葉尻に動揺するのは、小川氏がジジイから浴びせられた罵倒と同じことかなと思っちゃうのだ。なんか人間だね、人間だよねと思う……。

誰かひとり、党とか関係なく、私が憂える日本の欠陥に目を向けて、声を上げてくれる政治家に出会い、惚れ込みたいと思う。
小川氏の唱える、今後の人口減少、高齢化に対する危機感はもちろん、ある。私が抱いているのは、いまだになされきってない男女平等、女性だけに重くのしかかる子育て、その責任の押し付け、むしろ美徳として女性にプレッシャーを与える男性上位社会がいまだに横行していること……。

なんか言えば言うほど、私共産主義者??と思っちゃうが、そうかも……。小川氏はとても魅力的な政治家だと思うが、妻や娘を選挙に駆り出して、好感を得ちゃうのは、フェミニズム野郎としては複雑な気持ち、なのよ。
判ってる。彼が家族に愛されているから、妻や娘のみならず、彼の両親も尽力を惜しまない。
とてもとても美しい図式なのだが、娘です。てなたすきをかけて、選挙活動に回り、なんつーか、可愛らしいマスコット的に扱われるのが、いや、そんなことはないよ、ないんだけど、そうともとれるのが……フェミニズム野郎としては、捨て置けないとゆーかね……。★★★★★


舐める女(汗ばむ美乳妻 夫に背いた昼下がり)
2016年 70分 日本 カラー
監督:城定秀夫 脚本:城定秀夫 長濱亮祐
撮影:田宮健彦 音楽:
出演:七海なな 青山真希 富沢恵 木下桂一 沢村純 麻木貴仁 森羅万象 久保奮迅 内トラ 一本気渡

2021/7/16/金 録画(チャンネルNECO)
ピンク映画は時にヒロインとなる若手女優陣が目も当てられない演技力だったりして、テーマが面白くても残念な結果になることも多いのだけれど、本作に関してはすべての役者がいい芝居をしてくれて、この繊細なテーマの物語に迫力とリアリティを与えてくれる。

一言で言っちゃえばフェティシズムなのだけれど、それが単純にエロにつながる訳じゃない。
とりあえずエロ入れとけば通っちゃうというピンクとはいえ、本作において最も重要な、ヒロインと水道修理屋の男との情事は、その最初の突破は、逆に彼女の夫への純愛をしっかりと示す重要な場面。
それは相応の演技力がなければとても観客に納得させられない。このせめぎあいの情事の迫力があったればこそ、彼女を信頼して、観客を充分に物語に引き込めたんである。

カオルと輝彦は結婚相談所の紹介で出会った。二人とも奥手で、お互いが初めての男女交際であった。
この最初の場面から、二人の緊迫度合いがひしひしと伝わってくる。空調のイカれた喫茶店で、緊張も手伝って、お互いこめかみから汗を流しながらぎこちない会話をかわしている。
そして結果的に、この時お互いに一目ぼれだったことが後に明かされるのだが、カオルの方は、一目ぼれというより、ひと嗅ぎ惚れである。彼が自分の汗をおさえたハンカチを、会計しに行ったすきにこっそり鼻に押し当てた。

カオルはのちに、情事の相手の水道修理人浅野に、その時とてもいい匂いがしたのだ、と告白する。でも輝彦は潔癖症。もうそんな隙を見せることもなく、せっけんの香りしかしない、と哀し気に言う。
俺よりいい匂いなの、と浅野が浮気相手の戯言とはいえ、ちょっとやきもちめいた口調で言うのに対しても、カオルは素直に……ごめんなさい、とそりゃ肯定の意味でしかないだろ、浮気してる駆け引きとか全く考えてない、本当に輝彦が好きなんだ、ということを隠そうともしない。

フェチで、いわば匂いに惹かれただけなのに、カオルにとってはまさにそれが、恋に落ちたということなのだ。輝彦が異常なぐらいの潔癖症で、その後カオルが寂しさを抱えることになっても、輝彦を愛する気持ちは、あのひと嗅ぎ惚れした時からゆるがないのだ。

これは……凄い設定だと思う。そしてカオルを演じる七海なな嬢が見事なリアリティをもってそれを体現してくれる。情事の時にも決して外さない銀縁めがねがこちらのフェチ気分も盛り上げてくれる。
おっぱいも小ぶりで清楚な雰囲気の彼女が、水道修理人の浅野に迫られた時、必死に抵抗したあの芝居が、本作の一本の芯になっている。

あの時カオルは浅野の汗の染みたタオルをこっそり奪って、浴室でご自愛なさっていたところを、彼に発見される。
そらー、浅野にとっては誘ってると解釈するのは致し方ないところで、カオルがいかに抵抗しても、いやよいやよは……ぐらいに思っていたのだろう。

でも観客から見れば判る。そりゃ、その官能に溺れそうになっているのは判る。判りながら、必死にその沼に溺れないように抵抗しているカオルに、夫への愛を確信して、なんであんな潔癖夫がそんなに好きなの、あんたの欲望を満たせないような除菌夫にストレス感じてるなら、この野性的な修理人との情事ぐらいいいじゃん、とかついつい思っちゃう(爆)こちとらなんであるが、だからこそコーフンしちゃう訳で(爆)。

当然その後、カオルは必要もないのに修理の名目で浅野を呼び出し情事にふける。彼もまた、カオルの意図を汲んで、わざと風呂に入らずに来たりする。イイ感じにガタイがよく、端正な顔立ちの浅野役の沢村純氏にちょっとクラッとくる。
彼は役者を志して上京したけれど、故郷の父親が倒れて、戻ってリンゴ農家を継ぐのだという後々の設定があるが、それを頷かせるような、女に食わせてもらってる、役者を目指して挫折した優男、みたいな、崩れた色気があるんである。

いくらなんでもこんな偶然はないと言いたくなるが、まあピンクのよーに尺が限られているから仕方ないさ、とあっさり受け入れる(爆)。
その偶然は、浅尾を食わしていた同棲している彼女が、その仕事はSM女王様で、輝彦が接待でムリヤリ連れていかれたSMクラブで出会い、なんとまあ、彼は開眼しちまうんである。

あの潔癖輝彦が、女王様の“お聖水”を請い、おケツにろうそくを差し、亀甲縛りの状態を誰にもバレないように一昼夜過ごして女王様に開陳する、までにのめり込んでしまう。
笑っちゃいそうになる展開なんだけど、なんかマジに見てしまう。笑っちゃう役割は、接待した取引先の森羅万蔵氏にしっかり割り当てられていて、小柄でアフロで言葉がカタコトっぽい女王様に嬉々として従って犬のように四つん這い散歩する場面まで用意されて噴き出しちゃう。

一方で輝彦は、彼もまたこの女王様に、カオルへの愛を吐露するんである。妻の笑顔に一目ぼれした。でも今は彼女は笑わなくなってしまったと。
そらーおめーの潔癖と、まるで先生のように細かく指導する態度のせいだろと観客が心の中でツッコむ、一瞬先ぐらいにすばやく、女王様が指摘してくれるんである。

溜飲が下がる一方で、女王様は、一緒に夢を追いかけていた恋人と、結果的には夢破れて田舎で夫婦になることに一抹の不安を感じている。結婚って、いいもの?と彼女は輝彦に問うんである。
図式はボンテージ女王様と亀甲縛りで四つん這いになり、おけつにろうそくをぶっさされている画なのに、何この人生相談(爆)。

でもさ、この女王様は、何かこの、潔癖から目覚めちゃった不器用な男に、感じるところがあったんだろうなあ。
お互いに知らずに交換不倫している状態なのに、この二組のカップルが自分のパートナーに対して真実の愛情を貫いていることを、あんなズッコンバッコンやってるのに(爆)、観客に確信させるのが本当にすごいと思う。ホント、こんな偶然ないけどさ(爆)。

ピンク映画は女優さんありきであり、ヒロインを肯定しなければ成立しない。だから、この潔癖輝彦が転向するんだろうとは思ってはいたが、まさかこんな、荒療治とは、このあたりはピンクならではの急展開である。でもそれも、先述した、役者たちの芝居の確かさが納得させてくれるところなんである。
女王様との出会いからすっかりのめり込んでしまって、輝彦は日参するもんだからちょこっと心配にもなるけれども、この女王様が先述のように、輝彦の妻への想いを聞き出してくれて、輝彦自身をそれに立ち返らせてくれるんである。

潔癖症があっという間に真逆にターンしちゃったのは、彼の中にあったなにか、コンプレックスなのか、鎖を解き放たれちゃったのは、そもそもは彼自身、真逆の欲望が閉じ込められていたのが、荒療治でこじ開けられたということなのか。
そこまでの尺的展開的余裕はないにしても、大事なのはたった一つ。カオルと輝彦がお互い、♪一目会ったその日から〜♪運命の恋に落ちちゃっていた、ということなんである。

カオルが浅野との最後の情事を済ませ、輝彦も女王様から卒業した、ともに朝帰り、マンションの前で二人は鉢合わせする。共に乱れた格好である。通常ならば、お互い慌てる構図の筈なのに、まるで何もかも飲み込んだかのように、お帰り、と言い合う。
お風呂沸かしますか?いやいい。このまますぐに寝たいから。私も一緒に寝ていい?いいよ……。

当然、エロな展開を期待したが、お互い着の身着のままの状態でベッドにもぐりこむ。こんなことは、今までならばありえなかった。生活のすべてにおいてきっちりさんの輝彦は、セックスする期日さえ決めていたのだから。
当然、就寝時はきっちりとパジャマを身につけ、首元までボタンをとめていたからこそ、その下で亀甲縛りをしてたって、カオルにバレなかったのだから。

でもこの時、お互いに“けじめ”をつけてきた朝帰り、言えない疲れをお互い抱えて同衾した、表面上は、描写的には、何も起こらない。ただ、カオルがふっと寝返りをうった。向かい合った輝彦は、眠りこけていたし、カオルもまた何をするでもなく眠りに落ちた、ように見えた。
でもなんか、胸がざわざわした。輝彦のこれまでのキャラでは着の身着のままでベッドに入るなんてこと、ありえない。そりゃま、これまでの展開、SM女王様に改造されたとしたって、家庭ではあくまでそれまでの輝彦のキャラをカオルに対して保っていたのだもの。

だからこその、これぞギャップ萌え、いや、そんな言葉では追いつかない萌え萌え!!
寝返りを打ったカオルは眠ったままのように見えたけれど、彼女の目の前にあった輝彦の、無造作なワイシャツのめくれた手首にはめられたままの腕時計、その手の意外な大きさ、なのに繊細な指の美しさ。めちゃめちゃドキュン!としてしまう。

だからこそ、翌朝のシークエンスが倒れそうになるぐらいキュンキュンしてしまう。正直、あの夜、その後どうなったのか、なんにもなかったのか、それとも……と思ったりはする。何かあったように思うし、そのまま何もなく二人目覚めたような気もするし、どっちにしても、二人の間で何かが産まれているんである。
いつもと同じに見える静かな朝食のテーブル。でもカオルが輝彦に、トイレがつまったみたい、と告げる。ここ、これは……!!

これまでなら、カオルが自分の過失を開陳するなんて、ありえなかった。いつだって、輝彦から指摘されて、ごめんなさい、気をつけます、とうなだれるばかり。
輝彦は彼女の笑顔に一目ぼれしたのに、自身のこうした行為が、彼女の笑顔を奪っていることを知ってか知らずか、苦悩していた日々だった。

トイレがつまったなんて、ありえない。だってそれは、浅野との情事の始まりであり、言い訳だったのだから。
わざとつまらせたトイレに悪戦苦闘する輝彦の、首筋に流れる汗に唇を寄せるカオル。驚いて振り返る輝彦。かまわず、ぺろりと首筋を舐めるカオル。そしてにっこりと、輝彦が一目ぼれしたあの笑顔!!

舐める女、か。原題は違うし、匂いフェチなんだから、嗅ぐ女じゃないの、と思っていたけれど、嗅ぐ、のは自身の満足を満たすだけなんだよね。
浅野によって舐めるという行為が、お互いの理解と、興奮、充足、とにかくパーフェクトなコミュニケーションだということを教えられたカオルの、その衝撃こそが、本作の最も大きなコンセプトだったかもしれないと思う。★★★★☆


名も無い日
2020年 124分 日本 カラー
監督:日比遊一 脚本:新涼星鳥
撮影:高岡ヒロオ 音楽: 岩代太郎
出演:永瀬正敏 オダギリジョー 金子ノブアキ 今井美樹 真木よう子 井上順 藤真利子 大久保佳代子 中野英雄 岡崎紗絵 木内みどり 草村礼子

2021/6/13/日 劇場(池袋シネマ・ロサ)
うやうやしい手書き文字で「章人へ」とスクリーンいっぱいに映し出された時、ああやっぱりそうか、と思った。特に情報を入れずに足を運んだのだが、そういう匂いはひしひしと感じていた。
監督さん自身に実際に起こった物語。つまり……弟が実家にたった一人引きこもり、そこで死んだ。実に半年も発見されず、DNA鑑定まで必要とする無残な死であったこと。

それを映画にし、素晴らしい役者さんたちに演じてもらい、弟という存在を刻みたい。その気持ちが重たければ重たいほど、正直言って回りくどく、判りにくく、本作に対する共感をじわじわと遠ざけてしまったような気がする。
ミもフタもないことを言えば、正直長かった。こんな重いテーマなのだからそんなシュッと短く語れる訳は確かにないんだけれど、その長さを産むのは、そもそもの人間関係、兄弟関係、家族関係、どういった経緯で長兄は家を出て、次男が家を継ぎ、三男もまた外に出たのか、というのが最後の最後の方になってようやく語られるから。

まるでミステリを解けというように、観客は登場してくる彼らがどう関係しているのか、達也は何のためにアメリカから帰ってきたのか、家で何が起こったのか、事件なのか、なんなのか……実に思わせぶりな台詞回しで、同窓会があったという彼の友人たちまで使って、ゆっくり事実の核心に迫っていくという構成を見せられることになる。
こう書いてみるとなかなかに魅惑的な設定なんだけれど、実際に接するとそれは、作り手の自己満足的構成に思えてしまう。大体、そんなちょうどよく同窓会があるとか、ないだろと思っちゃう。

まず兄弟関係がさっと飲み込めなかったのは、私の頭が悪いせいかもしれない(爆)。子供の頃の回想シーンでは、兄弟二人しか出てきていない。私が見逃している??学校から帰ってきた達也と、子猫を拾ってきた章人の二人だけだったと思うが……。
現在の末弟を演じるのは金子ノブアキ氏で、長兄を演じる永瀬氏との年の開きを考えれば、まだ産まれていなかったと考えるのが妥当だが、それじゃ判りづらいなあ。せめてお母さんのお腹が大きいとか、もう産まれてる時点での回想にするとかになぜしなかったんだろう。

子猫を拾ったタイミング?確かに章人のそばに最後までいたのはこの猫であろうことを考えると判らなくもないが、それがもし事実を忠実にするが故の再現なのだとしたら、そこは譲歩してもいいような気がするんだけれど……。
だから頭の悪い私は、弟は一人しかいなかったのに、えーと、金子ノブアキはひょっとして達也を兄貴と慕う近所の他人?それに彼らが集う親戚のおばちゃんもどういう係累なのかよく判らん。達也たちの両親のどっちかのきょうだいだとは思われるのだが……と頭を悩ますことになる。

このおばちゃんの家を拠点に集まっている図式なのだが、それも最初のうちよく判んなくて、え?末弟の隆史の家?それにしてはこのおばちゃんが姑としたら隆史の嫁さんの口のきき方がちょっと変だし……。
結局、この三男もまたこの地元を出ていることが判ってないから混乱しちゃってるんである。長兄はどーんとニューヨークに行っちゃってるからめっちゃ判りやすいが、三男は結婚してどうやら名古屋に住んでいる。ニューヨークに比すれば近い近い。しかも舞台になってるここがどこかもイマイチ判らないし(爆)。

今井美樹演じる訳アリかつての同級生が登場する。陰のある美貌をふりまきまくりである。大久保佳代子サマの同級生として紹介される。誘ったんだけど、という、同じ同級生がやっている居酒屋には現れずじまいである。
こんな店だから入りづらかったかな、と佳代子サマが言うのがうなずけるような浮世離れした美女である明美は、高校時代に付き合っていた男の子が、自分が待ち合わせに行けなかったことで事故に遭い、死んでしまったのだと苦しみ続けている。
その男の子の母親は、ずっとずっと墓参りに来続けてくれている彼女のことを気にかけている。クライマックスで対峙し、あなたの時が止まっていることが心配だ。生きている人間は生き続けなきゃいけない。あの子のことは忘れて、と我が子の墓前で諭し、明美は嗚咽にまみれるんである。

このシークエンス、必要だったかなあ、と思う。章人のケースだけで重たさ満タンなのに、なぜもう一人の哀しき死者のエピソードを入れ込んだのか。それともこれも、実話だからなのか。
正直、今井美樹サマの美しさの時を止めて、高校生の時から止めちゃって、今まで死んだように生きてきた的なフラフラした生気のなさは納得がいかなかった。むしろこれは、傲慢な描写だと思った。

だってそんなに魂が抜かれるほど気に病んでいるのなら、実に20、いや30年だよね、そんな生きていられないよ。
自分自身の人生、生活、それなりに過ごしてきたはず。自分のせいで死んでしまったと気に病んでいたって、その墓参りがルーティーンになって人生の中に組み込まれていた筈なのだ。そうでなければ20年も30年もそのことに苦しみ続けて生きていくなんて、それほど人間は強くない。あなたの時が止まってる、だなんて、優しすぎる憶測だよ。そしてその憶測を体現するかのように、うっとうし気なロングヘアーを振り乱して嗚咽するとか、なんかいい年した大人の女が、と思っちゃうよ。

そして先述したように、章人の凄惨な物語を描きたいなら、彼女のシークエンスはあまりにもジャマに思える。やはりアレかな、章人の死に向き合うために、愛する人に死なれた残された人々の他のケースを示すために入れ込んだのかな。
そうだとしたら、あざとい……は言い過ぎなれど、いくじがないというか、なぜ章人だけを一本に見つめられなかったのかと責めたい気持ちにさえなっちまう。

章人の死の真相は、そりゃ本人にしか判らない。順序が違う、とつぶやいた、入院中の祖母が言うとおりである。
オダジョー演じる章人の人となりは回想の形でちらりちらりと語られるばかりだが、正直言って、フツーに生きてる達也や隆史、その周辺にいる人たちの目に映っているのは、優秀だけど引っ込み思案な姿がおざなりに映し出されるばかりなんである。

そのおざなりさが示すものは、達也や隆史が、章人の人となりを、思っていることを、知ろうとしなかった、と苦悩するならまだしも、この兄と弟が苦悩するのは、その死を止められなかったことだけにピンポイントにおかれる。
これにはヒヤリとしてしまう。根本的な贖罪になってないんじゃないかと、思ってしまう。
章人の死を発見した親戚のおばちゃんが、近くに住んでいたんだからもっとちょくちょく様子を見ていれば、と悔やむ。そんな責任はないが、その悔やみは確かにそのとおりである。しかし達也も隆史もそれに引きずられるような形で、自分たちもそうだったと反省するにとどまってしまう。

そこじゃない、そこじゃないでしょ、と思っちゃう。いや、別にさ、兄弟であろうと家族であろうと、結局は別々の人間なんだから、彼らに責任なんてないよ。
でも悔やむべきところは、様子を見るべきだったことではなく、そもそも章人が何を考えていたか、本当はどう生きたかったか、それを誰も知らなかったこと、知ろうともしなかったこと、ではないのか。

達也も隆史もそんなに器用なタイプには見えないけれども、達也のカメラマンの夢はきょうだいどころか周囲全員知っていて応援していたし、落ちこぼれっぽい三男も今は美人の嫁さん迎えて、幸せに暮らしている。

章人はなまじ優等生で、家業を継ぐことが当然みたいに思われていて、実際そうなったから、誰一人、彼が本当はどう思っていたのか知らなかった。
優秀であることが幸せなのだと思っていた、とまでは言い過ぎだが、自分たちの人生が思った通りに進めるための、都合のいい存在だったことが、観客にはひしひしと感じられるんだけれど、達也にも隆史にも、そしてこうして映画にして、劇中の彼らである作り手にも、それが判ってるのかな……と思っちゃうのだ。

なんかピンとこないな、と思うのは、結局は章人がどう思っていたのかは本当に神のみぞ知るなんだから仕方ないのだけれど、仕方ないからこそ、章人に死なれた周囲が、自分たちの苦しみを判ってくれよと提示してくるように感じてしまうからなのかなと思う。
せっかくオダジョーを配置しているのに、すんごく全身全霊演じているのに、見えてこない。

そもそも両親のキャラが判然としない。達也と章人の幼い頃の回想一発で、しかも母親しか出てこない。頭痛持ちという描写だけで、身体が弱いという設定を通してくるのも弱いし、まったく出てこない父親が、例えば厳しかったのかとかも判らない。
章人が継ぐことになる稼業がどういうものなのかも、それは綱がければいけないものだったのか、章人のような内向的な男の子には向いていたのかいなかったのか、両親が章人に対してどういう対峙だったのか、厳しかったのか、甘かったのか、放任だったのか、何一つ、何一つ、判らない。

なぜ章人があんなにも追い詰められて、両親に死なれ、猫にも死なれ、失明の危機にも手術を拒み、腐って死んでいったのか。
その内向的な性格だけを提示し、そのほかの材料は、家出ちゃったからわかんないもーん、とばかりに放棄してるとしか思えず、なのになんかすんげー苦悩してるし。

草村礼子御大が言うようにさ、その人にしか判らないし、その人の命を生きたのだよ。このおばあちゃんは、達也たちの母方なのか父方なのか判らんが(そーゆーあたりも雑なんだよなあ)、子に死なれ、その配偶者も死に、孫に死なれ、順序が違う、と哀しんでいるこのおばあちゃんの言葉だよ。
人の、いや、すべての生きとし生けるものにはそれぞれに与えられた命の長さがあり、それを生きたのだと言う、彼女の言葉どおりだと思う。
それを、自分がああすればよかった、こうすればよかっただなんて、愚かも愚か、他人の人生を左右する力なんぞを、虫けらごときな人間が持ってる訳がないのだから。

その点ではこのおばあちゃんの台詞はとっても名言だったのだけれど、どーもイマイチ達也たちには響いている感じがしない。まあ何とか達也が、この現実にシャッターが切れるようになるのは印象的ではあったけれど。
隆史の嫁(真木よう子)が、達也に別れ際耳元でナイショ事をささやく。「赤ちゃんできた」と、声は出さなかったけど、口の動きで判っちゃう。

一つの命が失われた先に、一つの命が産まれた。幸福な瞬間だが、達也が弟夫婦に無遠慮にうながしたりするのが、うっわ、これはなかなか危険だぞと思ったし、その先にあっさり、赤ちゃんできたハートマークみたいに落着させるんだ……と戸惑ったりして、しまった。
だって、結婚してまあまあ日が経ってる感じの弟夫婦だったから、子供がいないということが、作らないのか、出来ないのか、観客側が勝手にハラハラしていたのに、おーい、あっさりできるんかーい、とか思っちゃって。

この“実話”に苦しんでいるのはすっごくよく判るんだけれど、だからこそ一つの作品に仕上げるってことの難しさを、観客側としてはちょっと冷静に、冷たく見ちゃったかなあという感じである。
こういうケースだからこそ、他のプロに任せた方が良かったんじゃないかという気がしちゃう。なんか結局、自己愛な印象になってしまって……。★★☆☆☆


成れの果て
2021年 81分 日本 カラー
監督:宮岡太郎 脚本:マキタカズオミ
撮影:山本周平 音楽:岡出莉菜
出演:萩原みのり 柊瑠美 木口健太 田口智也 梅舟惟永 花戸祐介 秋山ゆずき 後藤剛範

2021/12/15/水 劇場(新宿シネマカリテ)
本作がもともと話題を呼んだ舞台作品だということを聞いて、すっごく悔しくなった。このすさまじい物語を、その結末を、先に味わっている人たちが沢山いただなんて。
衝撃。衝撃。物語も展開も、だけど、何より役者の鬼気迫る芝居に。萩原みのり嬢の久々の主演作と聞いて、あーもうそれだけで傑作確定だもんね、と思って足を運んだが、ぶっ飛ばされた。

怖い、怖い怖い怖い。笑っているのに憎悪が爆発している、抑えようとしても震えが止まらない唇、全身総毛立つほどに充満している怒り。
なぜ、なぜあなたはそんなにも皆を憎んでいるの。何があったの。ああでもそれが次第次第に明かされてくると、耳をふさぎたくなるのだ。でも、でも最大の衝撃がラストに待っているなんて。

もうどうしよう。相当の覚悟を持たないと、対峙できない。冒頭は、みのり嬢ではない。みのり嬢演じる小夜のお姉ちゃん、あすみ。
あすみを演じる柊瑠美嬢がラストの衝撃をさらっていくし(あああっという間にオチバレ!)、冒頭かなり長い尺で妹との電話のシーンが続くこともあって、そしてずっとみのり嬢と対決している感じもあいまって、みのり嬢とのダブル主演とも言いたいぐらいの存在感である。
小夜が憎悪むき出し、攻撃の刃を緩めることがないのに比して、100%対照的に、ひたすら下手に出て、妹をなだめ、謝り、という彼女は、弱気な、優しい女性なのだと思っていた。ああもう、オチバレが止まらないが。

あすみが小夜に電話をかけたのは、結婚の報告。電話の向こうの小夜が「誰か死んだの?」というぐらい、没交渉だった。そして、あすみが結婚相手の名を告げると、小夜は電話の向こうで過呼吸の音をさせた。
そもそもあすみがなかなか言い出せなかったこと、覚悟を決めたように電話をかけたこと、それが冒頭にしんねりと尺を使って描かれる不穏さに、激烈に不安が募っていた。

そこへ帰ってくるへべれけのその彼氏。同じ会社の先輩にともなわれて、接待で飲まされたと言ってその後も何度もその状態で帰ってくるっていうのが、それもまた、後に、過酷な、あまりにも過酷な彼の現状が明かされることになるのだ。
ああこうやって思い返してみると、なんとまあ、上手く出来ているんだろうと思うけれど、そんな構成の上手さをぶっ飛ばす、人間の憎悪が渦巻きまくるんだもの。

もう我慢できないから、言っちゃう。こらえ性がなさすぎる私(爆)。小夜はレイプされたんである。その相手が姉の結婚相手だった。レイプは心の殺人。絶対に、ぜえったいに、許すことなどできない。私も間違いなくそう思っていたし、今でも思っている。
なのに……巧妙なのは、過去になされたその事実が、無粋な回想なんぞで決して再現されないことなのだ。そして今、加害者である布施野はレイプ犯であったことをネタに営業を勝ち取っている。接待のたびにへべれけになるのは、そのネタに彼自身が耐えられないからだということが後に明かされてボーゼンとなるんである。

絶対に許されないこと、情状酌量なんてありえない、だけど……。布施野はなぜあんなことをしてしまったのか、後悔と共に自分への不信が今も彼を蝕み続けている。
若気の至り、なんて言うべきではない。でも、同席していた先輩、その年齢ゆえの避けられないノリのようなもの、なんだろう、判るような気がする自分がイヤだけど、判るような気がしちゃうんだもの。

これが絶妙なザ・地方というのがまた、上手いというか、なんというか。みんな顔見知り、一緒に育ってきた、親の稼業を継ぐか、地元企業にコネで入るか公務員になるかの選択肢しかないような田舎町で、こんな事件が起これば誰も忘れない。いつまでも話題にする。
つまりネタにする。小夜はこの田舎町では受け止め切れないような女の子だったんだろう。ちょっとした中規模都市ならば、彼女ぐらいの女の子が生きにくいなんてことはない。周囲が言うほどヤリマンって訳じゃなかっただろうと思う。
フツーにモテて、明るい、将来の夢も中央に打って出るような華やかな女の子だっただろう。なのにそれが、この狭いコミュニティでは異物になるのだ。

もうホントに我慢できないから言っちゃうけど(ガマンできなすぎ……)お姉ちゃんであるあすみは、妹に嫉妬していたんだよね。
あすみはこの土地、このコミュニティに根を張っている。図書館勤務、両親が亡くなった後の広大な一軒家に一人住んで、居候の友人がいて、恋人は半同棲状態で、お人よしの優しい女性という印象だった。最後の最後まで、そうだった。まさかだった。ああもう、我慢できない!!

あすみが布施野を選んだのは、妹をレイプした男を結婚相手に選んだのは、複雑な弱者同士の愛の発露だと思っていた。
確かに小夜をレイプした男だと判った時には驚いたけど、それからずっと贖罪の意識に苦しみ続けている布施野についつい同情する感情に至ってしまったのは、ああそうだ、小夜を演じるみのり嬢の、バーン!と乗り込んで、幸せになる気なの、絶対に許さないから!!という自己中なワガママに見えちゃうような不遜な態度がワレラ保守的な日本人の気持ちに反発を起こさせるから、なのだ。

本当に巧妙なのだ。その気持ちを劇中の関係者たちが頼みもしないのに(爆)代弁しやがる。目立つ存在だった小夜、事実かどうか判らないが、公然とヤリマン扱いされていたこと。
だからレイプ事件も遊びの延長、さんざん遊んできたくせに、一回のレイプぐらいで、と信じられない言い方をするのが、地元に残って親の稼業をついでいる、見た目はクマのぬいぐるみのような癒し系の男であるということが、確かにここまで、観客の私らは彼に心を許しちゃっていたよな、というのが、もうさあ……。

オチバレ爆裂だから言っちゃうけど、言っちゃうけど!!あすみが布施野を選んだのは、妹をレイプした男ならば、その罪の意識で自分から離れることはないという目算だったのだ。
本当に本当に、ビックリした。最後の最後、まあいろいろ重要なことすっ飛ばしちゃったけど(これからちゃんと書きます!!)、布施野が会社も辞めているのに出張だとウソをついて、きっと永遠にあすみの前から去ったことを知った時、彼女が、それまでの穏やかで、内気で、辛い目にあった妹を慮っていたように見えていた彼女が、吠えるのだ。よだれ垂らして、吠えるのだ。あの人なら私から離れることはないと思ったのに、と。

レイプという最悪の目にあった妹に対して、その事件さえも、みんな小夜ばかりを見ているから、と呪詛する。小夜が皆を、この土地そのものを含めて憎悪していると思っていたのに、それは確かにそうなんだけど、それ以上の憎悪を、あすみが妹の小夜に対して持っていたことが最後の最後に明かされて、すべてがひっくり返された気がして、呆然、どころの騒ぎじゃないんである。
レイプさえもが、皆妹を見ているから、という理由の元に、傷ついた彼女に想いを寄せていなかったという事実に慄然とする。

でもそれは、でもそれはさ!……すっごく怖いことなんだけど、このコミュニティがすべてそうなのだ。小夜をズベ公(って古い言い方だが、この古いコミュニティには妙にしっくりくる)として確定しちゃえば、地元で生きていくしかない彼や彼女は、小夜をネタに盛り上がるのが半永久的に持続可能なのだ。
「お前の話(つまりレイプ事件のこと)みんな大好きなんだよ。」という台詞を、先輩が布施野を連れた接待の場で繰り返していたことが判明するのは、その先輩が小説家志望のカノジョを連れてきた時である。どー考えても才能ゼロのキャピキャピ彼女に、小説のネタとしてレイプ犯のお前の話をしろというんである。

この場面、いやその、本作はすべてのシーンが辛く、いたたまれなく、見てられないんだけれど、このシーンが一番キツかったかなあ……。
その後、もっとえぐいシークエンスもあるんだけど、精神的に最も追い詰められ、本作のネタあかしというか、布施野さんの感情が爆発したのはここだけだったし、それ以外は本当に痛ましいほどに彼は気持ちを押し殺して生きていてさ……。

だとしたら、布施野さんは、あすみを愛していた訳じゃなかったんだろうか??結果的に彼女にウソをついてまで去ってしまったことを考えると、そうなのか……。
小夜にどう罪を償ったらいいのか、どんなにののしられても、獰猛にくってかかられても、そりゃこうべを垂れるしかないよ。レイプしたんだもん。
ああでも、でもでも、決着しないじゃないとは思っちゃう。許せないのはそうだし、反省して今後まっとうに生きるのは勝手にそうしろという感じだけど、姉の結婚相手になっちゃうんなら、一体どう決着すればいいのか。
でも結果的に、というか、最初から、あすみ側は妹への復讐で布施野さんと結婚しようとしたわけだし、そして布施野さんは……?どうなんだろう。

苦しんで苦しんで、会いたくないけど会わなければいけないと思っていた小夜と再会して、自分にできることなら何でもする、という凡百な台詞に小夜が言ったのはまず、じゃあ死んで、という台詞だった。自分にできることなら何でもする、という台詞が、いかに陳腐で無責任な言葉なのかを思い知らされる一撃だった。
次に出たのは、私と暮らして、ということだった。結婚して幸せになるなんて許せない。私と一緒になって不幸になりやがれ、というんである。それって、彼女自身がそうなるってことでもあるのに。

小夜は自分が幸せになるなんてことは念頭にないというか、不可能だという以前に、考えてないというか、ただただ、布施野さんが幸せになるなんて許せないというスタンス、あまりにも単純で。
それが、そうかそれが、ラスト、あすみが小夜への呪詛を言い募るところで、浅はかな観客であったこちらが撃ち抜かれてしまう。

ずっと没交渉だったし、こんなねじれた状態だし、仲の悪い姉妹、と思いきや、なんか妙に、交錯するんだよね。
小夜は挫折したデザイナー。姉のあすみは妹が作ったセーターやワンピースを今も大事にしている。あすみが居候させてるあやしげな女が土地の権利書を物色していたのを攻撃し、お姉ちゃんにつけこまないで!と締めあげる。
こんな具合に、仲の良さを信じたくなるシークエンスがちょいちょい挟まれるから、小夜がオオカミのように牙むき出しで歯向かって来ても、あすみが小夜に対して下手に出てることもあって、結果姉妹が和解するんじゃねーかとか甘いことを考えてしまっていたんだよね。

でもさあ、これぞ、アンビバレンツなんだよな。でももうさあ、すべてが竜巻よ。小夜は長年ため込んでいた憎悪を姉の結婚話で爆発させ、自分と同じ思いをさせようと、ゲイの友人に布施野をレイプさせかけて、見てられなくなって、中断させて、泣き崩れる。
このシークエンスで充分衝撃的で、ああ、もうここがクライマックス。辛かったね、布施野さんも小夜も小夜の友達のエイゴ君もさあ、と思っていたところが、何度もオチバレしちゃったけれども、あすみ姉の、小夜妹への嫉妬のえげつなさ。

小夜の友人のエイゴ君はゲイで、恋人の束縛を楽しそうにグチっている。そんな信頼のおける親友に小夜は、サイテーの依頼をしたのだ。復讐のレイプをしろと。布施野さんのケツにチンポを突っ込めと。
かなり早い段階で小夜は見てられなくてエイゴを止めたけれども、これは、さあ……。小夜との友人関係がいかに強固だったとしたって、にっくき相手にレイプをしろとは……ああでも、小夜がレイプされた、そのキチクと思えばそうなのか、ああ、ムズい!!

私はね、あすみお姉ちゃんの感覚が近いんだよ。だから、うっかり判っちゃうから、すっごく、怖かった。レイプされ、それが和姦にされかけられ、地元でヤリマン女のネタにされる妹。それを材料に慎ましい姉としてこの地のコミュニティに居場所を確保する姉。判っちゃう、判っちゃうだけに……。
いまだ男女格差に苦しむこの国でさ、ああこんなことは言っちゃいけないんだけど、頑張ってきた自分より確実に劣っている男子に、かわいそうな境遇の女子という目線で見下されてる感覚が本当に、ほんっとうに、耐えられないの!!★★★★★


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