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母性
2022年 115分 日本 カラー
監督:廣木隆一 脚本:堀泉杏
撮影:鍋島淳裕 堀部道将 音楽:コトリンゴ
出演:戸田恵梨香 永野芽郁 三浦誠己 中村ゆり 山下リオ 高畑淳子 大地真央 吹越満 高橋侃 落井実結子
宣伝で出ていた、自殺した女子高生、というのが主人公になるのかと思ったら、そのニュース記事が主人公の一人、“娘”が自分自身を投影して、“母”との関係性を思い起こす形で物語が始まるんである。
こんな風に””書きにしたのは、名前が明かされないから。娘の名前は最後の最後、彼女がまさに、ニュースの女子高生のように自殺、幸いにも未遂に終わったけれど、となって、病院で母から名前を呼びかけられることによってようやく明らかになる。そしてその時彼女は、まるで今、初めて自分の名前を知ったとでもいうように、母の呼びかけを反芻するのだ。
そうか、それこそ、お母さんであり、お父さんであり、おばあちゃんであり。子供の側からは当たり前のように、彼らの名前=アイデンティティを考えることなどなかったのだ。彼らがどういう人間か、どんな感情をもって生きているのか、なんて、考えたことがなかった。
なのに毒親だったり鬼親だったりすると、それだけで人でなしのように糾弾する……ひょっとしてそれって、ものすごく身勝手な、利己的な感情だったのか。
すっ飛ばしすぎるけれど、ラストのラスト、娘が、女には二種類ある。それは娘か母親かだ、と極論する結論にもそれがつながってくるのか。
自分はどっちなんだろうと彼女は考えるけれど、それ以前に自分自身だとは考えないのかと思うと、なんだか怖くなる。でもここでは一応、幸福なラストに落ち着いているのだ。それがやっぱり怖くなる。
娘は永野芽郁、母は戸田恵梨香。しかしまず、母とその母の母との関係性が描かれる。母の母は大地真央。彼女の、どこか非現実的なエレガントさが、この母親像に際立つ。
母の母、つまり娘から見たところの祖母は、母を大きな愛で包んで育てた。見る限り、理想的な育て方に見えた。祖母の娘である母は、それを百パーセント受け止め、愛し、彼女にとっての一番はいつでも自分のお母さんだった。お母さんに愛されたい、褒められたいと。
不思議だ。そんな感情は、愛されない、褒められない子供に産まれるものだと思っていたし、そうした映画作品は数々見てきた。でも、彼女は、まるで愛情の中毒にかかったかのように、お母さんからの愛情を渇望するのだ。
これは、なんなんだろう。大地真央の母親、戸田恵梨香の娘、ヨーロッパかどこかみたいなクラシックな部屋のつくりや、そもそもの彼女たちのかわす会話の、なんだろう、名門女子校のごきげんよう、みたいな、ゆかしき会話術、みたいな。
だからといって空々しい訳じゃなく、彼女たちはそういう上流な生活様式で生きて来たんだと思わせるものの、なにか、決定的な違和感をずっと抱かせる。それは、後に母の娘が長じて高校生になり、私たちになじみの深い、若者らしい言動をするのに接して、やっぱり、と思う。確実に、対比させるために、対照的にするために、そうだったんだと。
娘と母、女はどちらかに二分されると、娘は言った。でもやっぱり違うと思う。絶対に個人に決まってる。あるいは、この母親の娘である娘が、その道を選ばないように。
母の母である祖母はどうだっただろう。母が……良くない化学変化を起こしてしまったのだろうか。祖母の無償の愛は、自身の娘にも、孫にもそそがれた。それを、娘は許せなかった。孫、つまり、自分の娘がその愛情をきちんと理解していなかったから。
それはつまり、嫉妬だ。理解してなくても、彼女にとって傲慢に見えても、彼女の愛する母親は、孫娘を、ひょっとしたら自分よりも愛しているように見えてしまった。そんなの世間的には当然と思うけれど、彼女にとっては我慢ならないことだった、のか。
本作は基本、ラショーモナイズに基づいていると思われる。同じ経過、同じ事件、でも、母と娘の記憶が違う。それはある意味当然というか、誰もが自分の受けた印象によって言われた台詞や態度の意味合いも変わってくるのだから。
おばあちゃんに刺繍してもらう小鳥さんを、キティちゃんにしてほしいと言った娘に怒った母親、というシークエンスが実にわかりやすい。母親側からは、愛情をもって小鳥さんを刺繍してくれたのに、既成のキャラクターを所望するなんて、思いやりがない、というスタンス。
しかしこの時まだ頑是ないというほどに幼かった娘の目からは、炎のように怒り、弁当箱をたたきつけ、あんた私の愛するお母さんに何生意気なこと言っちゃってんの、という鬼のようなオーラに見えた。
でもそんなことはささいなことかもしれない。幼い女の子にとって、優しい筈の、大好きなお母さんのちょっとした態度の変化が大きなそれに見えることはあると想像はできる。
でもそんな風に思っちゃうことは、大人が自分自身に言い訳しているようにも感じる。その言い訳に対して叩きつけられたのが、クライマックスの、あの秘密を明かされた時の、母と娘のそれぞれの認識の大違いだったのだと言われれば、ああごめんなさい!!と言うしかなくなる。
……えーと、いろいろすっ飛ばしちゃってるけど、ここまで来ちゃったから言っちゃおう。
母の愛する彼女のお母さんが、不幸な事故で亡くなった。ある暴風雨の夜だった。落雷があって、停電になった。夫は夜勤に出ていた。荒れ狂う暴風は近くの大木をなぎ倒し、窓ガラスを突き破って、家具をなぎ倒して、孫娘と一緒に寝ていたお母さんともども下敷きになった。
停電だったからろうそくをともしていたのが倒れ、火事になった。母は、お母さんを助けようと必死になった。
お母さんは、あなたは母親なのよ、と必死に諫めた。それでも母は、お母さんを助けたいの、と言った。こともあろうに……子供ならまた産めるんだからと言ってしまった。
この台詞を言わなければ、あんなことにはならなかったかもしれない。この時、祖母は、母のお母さんは、初めて、彼女の間違いというか、育て方が間違っていたというのは酷だけれど、自分の与えた愛情が、違う醸成の仕方をしてしまったことに気づいた、のだろうか。
あるいは以前から薄々気づいていたのだろうか。気づいていたのかもしれない。じゃなかったら、孫娘を助けるために、いくら自分はもうダメだと判っていても、ハサミで頸動脈をぶっ刺すなんて、娘に対するショック療法にしてもスゴすぎる。
ひょっとして、お母さんは、こんな危機的状況だったけど、いやだからこそ、腹が立ったのかなあ。自分自身にも、娘にも。尊い愛の意味を、教えていたと思っていたのに、伝わっていなかった、愛する娘だからこそそれが伝わっていなかったことへの絶望、しかもこの状況で、と想像すると、そりゃあもう、これは……。
そう思ったら、結局は自身で命を散らしたけど、ひょっとしたら、その娘を、自分の責任でこんな考え方の娘にしてしまったと自身の手で殺めたいぐらいに思ったのかも、と感じるのは飛躍が過ぎるだろうか??
でもさ、ラストもラストのクライマックス、これはどっちが真実かは永遠に判らないけど、母は娘を抱きしめたと思った。でも娘は、母から首を絞められたと思った。あのラストにつながってくるんじゃないのか。
業火の中、自ら首にハサミを突き立てたお母さんの最期を見てしまった母、愛する母がそうまでして守った娘を、憎んでいるということを認める訳にはいかないからこそ苦悩しまくって、その首、その首を……やだ!!
でもそう、どっちがどっちかなんて、判らない。どっちの記憶が真実か、だなんて。
ついつい娘側に加担しちゃうのは、新しい時間軸に近いのが娘であるのもそうなんだけど、母側の回想、というか、母からの視点は先述したように、大地真央お母さんの、非現実的なエレガントさやら、夫とは絵画教室で出会って、その交際も、会話の様式とか、皇室ですかい?と思うぐらいな、なんていうのかな……踏み込まない感じ、なんだよね。
後に夫が、幼なじみの女性と不倫している現場に娘が踏み込むんだけれど、夫とその女性は、普通の会話をしている、というか。娘はね、母からの遺伝性で母と娘の愛情関係に縛られているから、お父さんのウラギリに激高するし、確かに彼女の言い分は真っ当。
不倫相手の女はいいとこどりで、結婚して舅姑のめんどくさいのはゴメンだと思っていた訳で、なのに飲み込んで結婚した友人である母をクサすとかサイテーの友達、いやもはやこれは友達ではない!!……まあそれは、ここでは関係ないっつーか、そもそも友達じゃなかったよね、と思う。
娘が後に、すっかり大人になった時に、女には二種類、娘か母か、と言ったことを思いだす。それで言ったらこの不倫相手は、娘の立場は持ってるけど、母ではないのだ。
今の時代、なかなかこれを言いきるのは難しい。誰かの娘であることは確実だけれど、母親になるかどうかは判らないから……。だから、ついつい、この不倫相手の女性に同情する気持ちが沸いてしまうが、でも判りやすくクッソ女だから、もうどうしようと(爆)。
私がどうやら腹を立てたらしいクソ記事で、それぞれ祖母役である大地真央氏と高畑淳子氏が強烈で、そういう作品はコケるとか、まー言いたい放題だなと思ったけど、コケるってのはおいとくにしても、確かに……。
ここまでは大地真央氏の演じる母の母のキャラ的重要性、キーポイント、どころではないな、これがキモ、大キモである存在なのだけれど、高畑氏演じる、夫の母、つまり母にとっての姑っつーのが……ギャグじゃねーのか、というほどに、クッソ姑で。
いやこれは、もはやギャグよ。高畑氏、圧も圧、そして地方の豪農の女主人の造形、もー、天才!!と思っちゃう。ガーガー耳につくなまり言葉、火事で焼け出されてよんどころなく身を寄せた息子家族、いや、糾弾するのは嫁のみであり、ひっどい罵声を浴びせ、奴隷のように扱う。
それに対して、ただただこうべをたれるばかりの母を娘は、なんとか助けたいと、祖母にたてついたりするも、母は静かにキレるのだ。何してくれてんのと。私の努力を無駄にするんかと。全然判ってへんねんと。……なんでウソくさ関西弁になってくるのか我ながら判らんが(実際は違うよー)。
高畑氏の1000%自己中シュウトメは、ムカついたけど、そのキャラ造形の面白さの方が強くって。この母と娘に強烈に作用したのは、母の母、大地真央の方だったのは明らかなので、だからこそ高畑氏は、こんな風に、判りやすく強烈な、ちょっとツッコミどころがある人物として演じたのかなあと。
この自己中、愛情のバランスがおかしい姑さんは、だからこそ誰からも安定した愛情が受けられない。息子は望んだ相手(あの不倫相手よ)と結婚しないし、娘はどこの馬の骨とも判らんやつと駆け落ちするし、その手引きを孫娘がやりおるし。
第三者的に思えば、高畑氏の強烈な役作りもあいまって、このおばあちゃん、自分勝手でムカつくけど単純だし、懐に飛び込めば、理解し合える、愛し合えるのかもと思ったりして。
でもそれは、傍観者だから思うことだってことは、判ってる。でも、傍観者だから、という視点があれば、解決できるかも、とも思う。
戸田恵梨香嬢の母親側を御伽噺チックに、永野芽郁嬢の娘側をリアリスティックに。大地真央氏、高畑淳子氏の、その前の時代の母親の圧倒的思い込み感。
今を生きる永野芽郁嬢、娘が、まだその系譜を引きずっているのを感じつつ、自身の妊娠を母親に告げる。母親=戸田恵梨香嬢の、いまだその輪にとらわれている、誤解を恐れずに言えば、イッちゃってる目をしているままで、娘にとって良き母親であろうと、自身の母親を心に刻んで生きている、そうでしか生きられない、自分の名前もない、母親であり、母親の娘であるしかない,という……。
これは怖い、そしてつらい。母と娘だから。これが父と息子だったら。いやそれもまた、違う物語があるのだろうか。いややはり、女に課せられた性差別的な母性という価値観が拭い去れないからこそ生まれる物語だったのだ。★★★☆☆
いやー、これは嬉しいなあ。ラジオがコミュニケーションツールになってる。コロナ禍になって、学生時代以来久々に聞き出してすっかりはまってしまったラジオ。きっとそんな人が沢山いるんじゃないだろうか。
役員車運転手の寛治はそうではなく、ずっと聞き続けているのだろう。いまだにハガキで投稿を送るのも、目立つかなと思ってというのはすっごくよく判る。そして彼が毎年トライしているのは、愛する妻の誕生日を祝ってもらうための投稿。
それなりの妙齢カップルなんだけど子供はおらず、生活ぶりはこじんまりとしていて、ツードアの冷蔵庫に、妻の握るおにぎり二個が彼のランチ。テレビではなくスマホで聞くラジオが彼らの生活に当たり前に寄り添っている。
身体の相性が抜群だったから、と後に寛治がのろけ、早々に夫婦のカラミがあるのは無論ピンクならではに他ならないんだけれど、身体の相性抜群、だからこそ、それが少しでも崩れると、彼女は夫の不調に気づいちゃう、っていうあたりが後にしめされ、セックスだけじゃなく、それが心につながっているのが見えるのがいいなあ、と思う。
でもこれは、夫婦の物語はあくまでサブなのだ。男同士の友情物語。いわば女たちは彼らの人生に寄り添っている、ヘタすれば男にとっては都合のいい、母のような存在と見えなくもない。でもそれがイヤミじゃない。この男たちはバカだねぇと女たちに言わせちゃうチャーミングを持ってる。
寛治が運転手を務める、会社役員の山本である。演じるはだーい好きな那波隆史氏。
こんな色気ダダもれな役者さんに、「ほとんど童貞」と寛治に言わしめちゃう、真面目一徹、仕事一筋、見合い結婚が破綻して、人生行き止まり、な純情おじさんをあてがうなんて。でもこれがまた、母性本能くすぐりまくっちゃうんだな!
寛治は得手勝手にこき使われることに愚痴っぽいのだけれど、でも山本に対しては好感を持っている。その示し方が、奥さんと一緒にドリップコーヒーを飲みながら、「こんなウマいコーヒーくれる人がパワハラなんてやるわけないだろ」と。
お歳暮のあまりものだというコーヒーをおすそ分けしてくれたんだという。なんかもう、こんな具合に、ささやか、つつましやかなエピソードが存分に詰まってて、いちいちキュンときてしまうんである。
この時点で寛治が、仕事はキツいけど山本に対しては好感を持っていることが判り、その山本が登場、うっわ大好きな那波氏ですよ!と。
休日、社用車ではなく寛治個人の車を使ってほしい。行く先は明かされない。山本からのそんなリクエストにいぶかしがりながら、寛治と山本の二人旅がスタートするんである。
そうか、これ、ロードムービーじゃん。行く先は、山本がかつて住んでいたという、寛治言うところの「何もない」ところ。
山本は寛治に、古くからの友達のように接してほしい、と言った。おずおずと、まるで子供のように。訳が判らず最初はいなしていた寛治だけれど、もともと好感を持っていた上司であるし、後に面と向かって言うように、可愛い、と思っちゃったからであろう。優秀だけど人生自体に童貞のような山本に、いろんなことを体験させてあげたい、と思う。
こう言っちゃうと大仰だけれど、どれもこれもささやかなことなのだ。外で食べるランチ、妻の握ったおにぎりもそうだけど、寛治が取り出したのは、カセットコンロでお湯を沸かして、袋めんのラーメンを作ることだったり、ほんの少しのワクワクがたまらないのだ。
山本が、ラーメンも、おにぎりも、子供のように喜んで食べるのが、可愛い。寛治がそう思っちゃうの、判る。だからついついからかいたくなる。
こうなったらいっそ、どこかに泊まって楽しみましょうよ、ということになる。行き当たりばったりで何件も宿を断られ、いっそのことラブホに行きましょうか、と冗談交じりに言った時の山本の動揺っぷり。
寛治は何か、それこそ冗談めいてではあったけど、年上で、役員で、優秀だけど、なぁんかほっとけない、可愛い、という感情で、ラブホ行きますかみたいな、からかいが、若干本気めいていたというか(爆)。
風呂もベッドも広いし、という寛治の言葉に、反応が薄かった山本、寛治のみならず観客のこっちも、あーこれは、行ったことないな。結婚もお見合いで、どうやら恋愛も……と想像出来て、てことはつまり、彼は、好きな人と、愛のあるセックスを出来てなかったって、ことかなあ。
だからこそつながるのか。寛治が”身体の相性が抜群”な妻とのセックスが、心までしっかりつながっていることと。
出会いのエピソードをのろけ気味に語る寛治、スタイルはいいけれど、いい感じに肉付きが良く、おっぱいの大きさ加減もそうだけれど、彼の煩悩に着火したのは、ジーパンをはいた後ろ姿。
パチンコ屋の客同士で知り合って、「デートは昼飲み」なぜかというと、酔った後、攻略する時間が長いからだという。そんな手の内に山本は目を白黒させる。
この妻とのエピソード、いきなりバックでやっちゃったりとか、煽情的なシーンはむしろ、山本のそれが全くないだけに、彼の純情さがどんどん際立つことになるのが面白い。
寛治はもうすっかりこの可愛い上司をどうにかしてやりたい、と思うわけ。山本は、仕事を辞める決意をしていた。マジメだけでここまで生きてきた。一体この人生なんなんだろうと思ってしまった。見合い結婚した妻とは、相手の両親に義理立てしていたようなところがあったから、その二人が亡くなってしまったら、理由がなくなった。
ラブホすら経験がない山本に、寛治がデリヘル嬢を呼んだのは半ばイタズラ心もあったかもしれない。でもまさに、青春をとりかえしたのだ。
山本はできなかった。お酒のせいじゃないんだと、彼女にわびた。プレイがなくてもいいから、食事をしないかと言った。外で待っていた寛治ともども楽しく飲みかわし、翌日も河原で水切りをしたり、公園でだるまさんがころんだをしたり、野球をしたり、まるで中学生みたいだ……。
あだ名で呼ばれたことさえないのだろう。おずおずと、自分もそうやって呼ばれたいと、寛治に頼んで、しろぴーなんていうハズかしいニックネームつけられて。
人生後悔ばかりだった、だからこそ、取り返す楽しみが出来た、というのは、なんと深い言葉だろう。なんにもない、と自嘲し、でもここに戻ってこようかな、と山本は言った。
デリヘル嬢はこの地元で、寛治から「こんなとこにも風俗はあるんですよ。デリヘルですけど呼びましょうか」と呼び寄せたのが彼女だったんであった。こうした地方の風俗事情もさらりと描かれる。それこそ映画などで目にする、大事に送迎される感じではなく、えーっ、迎えナシって、とお仕事後に怒って電話しているシーンがあり、こういうのが地方事情なのかもと、興味深く思ったりする。
風俗嬢と客であるオジサンがどうにかなるなんていうのは夢物語ではあるし、そんな示唆を明確にはしていなかったけれど、なぁんとなく、山本と彼女にはありそうな気がした。
共に今の仕事の先行きに疑問や不安を持ち、そもそも本当にやりたいことなのか、ということも考え……。ラスト、山本の誕生日に寛治が送ったハガキが読まれ、再会した彼女と、無事セックスも成功した山本は共にそのラジオを聴き、笑い合う。
この彼女が、ラジオは聞きます。交通情報を、というのが面白くて。自分の住んでいるところだけじゃなく、各地の交通情報を聞くんだと。どこかに行きたいけど行けない、それを、いろんな場所の交通情報を聞いて、満たすんだと。
なんて素敵なの。ガイドブックを眺めて旅行気分、というのは聞くけれど、今の、リアルタイムの、交通情報で、旅をしている気持ちを味わうだなんて、思いつかなかった!!いいないいな。ラジオの魅力をいろんな角度から発信してくれて、とても嬉しい。
ウブな山本の魅力炸裂だけれど、寛治の側もまた、深い人生がある。先述したけど、妙齢夫婦だけど子供はいなくて、慎ましい生活。
彼の側はバツイチ、前妻との間の子供はもう成人しているけれど、長いこと会っていない。会いたい気持ちはあるけれど……と、山本との不思議な旅を終えて帰ってきた寛治は、セックスも腑抜けになった状態で吐露する。
会えばいいじゃん。奥さんは、思うところはあったと思うけれど、何が問題なの?ぐらいの軽い明るさで、言ってくれる。
それも、セックスのリアクションが薄いことで、すわ浮気しとるか!と思ったのが、そんな思い悩みがあったという流れなのであった。こーゆー、生々しくも、でもこれこそがリアルな夫婦生活っていうのは、ピンクでこそ描ける世界観だと思う。
この奥さんがね、何とも味わい深いのよ。そもそも本作の印象的なアイテム、奥さんの握ったおにぎり。今時、素手に塩まぶして直に握るなんて、なかなか見ないよ。ビニール手袋か、ラップ握りでそのまま包んじゃうのが主流。
でも、確かに、直にぎりが不思議な美味しさ、なんだろうね、あれは……。寛治が感心して言うように、愛情だというのは、それもあるだろうけれど……。
これが描きたくて、本作が成り立ったんじゃないかと思うぐらい、私もめっちゃ、思い出した。母親が素手で握ってくれたおにぎりが、ビニール手袋でにぎったもの、ラップ握りしたもの、コンビニおにぎり、そのどれもぶっちぎって、最高に美味しかったんだよなあ。
寛治が山本と一泊することを奥さんに告げ、奥さんが、「二人分用意したのに……」とハンバーグのタネをパンパン裏返しながら、だったら私も旅気分!!と浴槽につかりながら、洗面器の中には二人分のハンバーグ、缶ビールをグビっとやり、シャワーで滝を演出しつつも、違うなぁ……と、そらそうだと。
そもそもこんな突飛なことをやっちゃう当たりが可愛らしいし、ホントの旅行をしてないなあと吐露する彼女に、もう!連れてってあげてよ!!と思う。
その風呂上り、おっぱいまる出しのあたりがピンクだが(爆)、寛治から、電話がかかってくる。しおらしいだんなさんに笑みがこぼれる。別にこれまでだって、不仲だった訳でもないし、仲良く過ごしてきたけれど、メリハリというか、きっかけというか。愛してるよと、伝える場面が必要なんだろう、と思う。★★★☆☆