home!

「す」


2022年鑑賞作品

スウィートビターキャンディ
2022年 107分 日本 カラー
監督:中村祐太郎 脚本:小寺和久 中村祐太郎
撮影:池田直矢 音楽:町あかり
出演:小川あん 石田法嗣 田中俊介 清水くるみ 松浦祐也 町田マリー 蒼波純 若杉凩 片岡礼子


2022/7/18/月 劇場(池袋シネマ・ロサ)
映画は相性、とは思っちゃいるが、それにしたって久々にうわー、これはダメだと思ったわ。
若い女の子のいる家庭に説明もされずに派遣される男性家政“夫”という設定の違和感。なんのきっかけも説明もなく急になれなれしく受け入れだす家族。
ファーストネームにさん付けにしようと言い出すのから違和感があったが、さんがいきなり取れて呼び捨てにし出すのが意味が判らない。

彼に恋しちゃう高校三年生のサナエが、本当に、急に馴れ馴れしくなる、女を使いだす。
冷蔵庫から生卵を落とすとか、牛乳を頭から浴びせちゃうとか、シャワーを浴びてきた彼の髪の毛を乾かすとか、真ハダカの彼の身体をマッサージしだすとか。
急激すぎる馴れ馴れしさに、ないないない、いくらなんでもない。そもそもついさっきまで、突然男の人なんて……と言ってたやんか、好きになる過程が一個も見えないんですけど!!と思っちゃう。しかも全編に渡るハイテンション芝居が、ドラマチック押し付けに感じて見てられない。

違和感ばかりだったので、その違和感を説明しようとしたら、もうなんだか訳が判らなくなった(爆)。
そもそもの冒頭の場面、二つのシーンが主軸の物語の時間軸より先に行っていて、そっからさかのぼる、という手法だったと気づくと、……言いたかないけど、若手クリエイターが使いたがるヤツだなと思っちゃう。

ヒロインであるサナエがここでは大学生になってる。乗り気のしない合コンで、二次会へと盛り上がる仲間たちを尻目に、同じ方角だという男子と道行きを共にし、彼の家にまで上がり込む。
なのに何もない。眠る彼女に彼はブランケットをかけてくれる。後から考えてもこん時の彼は、一体何を思ってサナエを誘って家に上げたのか、その後飲みなおす描写すらなかったが、何もない、というんじゃなく映さなかっただけで、がっつりあった、という暗示だったのか。
でも冒頭でキャラクターの情報も何も示されないままだったし、全編が終わってその時間軸に戻ってきても、何かあったかどうかなんて、判んないんだよね。判るような、キャラクターの成長も何も、ないんだもん。

そしてもう一人の主人公、裕介である。警察官に導かれてシャバに出てくる。その場面の後の、アパートを借りるシーンで付き添っている片岡礼子は保護司かなんかなのか、しかしこのアパートのシーンが、どっちの時間軸なのか判然としない。
ついに前科者となってしまった先なのか、ストーカートラブルで東京を追われて住み着いた、サナエたち一家の住むのどかな田舎町なのか。

鋭い目つきで、だけど哀しさをまとい、過去を捨てたいと、なんとか生きていきたいというオーラをまとう裕介=石田法嗣氏は魅力的だとは思うけれど、彼が家政夫として派遣されたサナエ一家プラスワンのテンションが高すぎて、それにつられる形で彼の芝居のテンションも高くなっちゃって、まずそれが、見てられない。
家政婦、いやさ、家政夫を雇う、雇わざるを得ないだけの経済力と行き届かなさ、を、この家庭に見いだせないのがキツい。若い男の家政夫が現れたことで始まる物語、の設定ありきにしか思えない。

自営業、つまり、サナエの父親は社長な訳だが、母親も同じ職場で働いている、つまりは小さな同族会社な訳で、おうちがおっきいのも庭がそれなりに広いのも、のどかな地方都市を示されるロケーションでは、お手伝いさんを雇うほどの現実味がないのだ。
だって、小さな子供がいる訳じゃなし、帰省してきている大学生のお姉ちゃんは加わるものの、基本的にはサナエ一人、受験生とはいえ、18歳の娘一人に手がかかるとは思えないし、彼が携わるのは掃除や庭の手入れだけで、食事はサナエの母親が作っている雰囲気、後片付け位はしているけれど……それでお手伝いさん、いるか??

ほんっと、この図式がまず、謎だったんだよね。しかも裕介をブッキングしたのが、ザ・悪役として作り上げられたにしては、単純というにも判りづらいキャラである山下(やめてよー)という社員で、どっかからの頼みで断れなかった、というのを語るのは社長であるサナエの父親なんだけど、どーゆーことなのかよく判らんのだ。
この時間軸の時点では、裕介は“まだ”前科者ではなかった。ストーカーとDVで所属事務所を追われ(役者だった)、東京にもいられなくなったけれど、過去を忘れて生きていきたいと思った……ということ?
だとしたらやっぱり、アパート契約の場面にいた片岡礼子は、まだ前科がつく前の裕介に付き添っていたという時間軸??でも、そういうスタンスの人物についてくれる人ってどういう立場なんだろう……。

でね、もう最初から言いまくっちゃったけど、サナエが裕介に恋しちゃって、言い寄りまくるその過程が突然すぎるのよ。直前までおどおどしてたのに、突然躊躇も何もない。
好きになっちゃったから、という、その情熱だけを言い訳に展開するけれど、そりゃ恋に理由はないけれど、いきなりの馴れ馴れしすぎの説得力のなさと言ったら、本当にビックリしちゃう。 本作のメインの時間軸は高校三年生の夏休み。進路もイマイチ決まっていない状態、やりたいことも判らない、そうした苦悩も……まぁありがちな設定だとはいえ、それにしたって全く感じられない。
塾に行くから、と別れたクラスメイトが、土手でさえない男とイチャイチャしているのを見てガックリくるシークエンスはあれど、だからといってそれが彼女のもやもやの一端になっているようには全然感じられない。だって、このイチャイチャもあまりにもクサすぎるんだもの(爆)。

オフィシャルサイトの解説では同性のグループやらとなじめないなどと書いてはいたが、クラスメイトとの薄い描写や、訳も分からず足を引っかけられて転ばされるとか、え?いじめられてんの?それにしちゃこの場面だけだし、がっつりした友達がいないんだろうなという感じはあっても、それに思い悩む風でもないし。
てか、サナエはあまりにも茫漠としていて、そんな学校生活や進路にどう感じているかとか、全然判らなくて、あるいは、自分自身が判ってないことに焦ってるとか、そんなこともなくてさ。
裕介に突然恋して突然猪突猛進になる前段階のキャラが固まらなさすぎる。てか、なさすぎる。恋すりゃいいってもんじゃない。しかもその恋は、恋心は、形ばかりで、昭和の大映ドラマだってもうちょっと説得力がある作り上げ方をしただろうと思っちゃう。
サナエのJK制服は、今でもこんなんあるの、と懐かしくなる紺サージのセーラー服。だから余計に、オールドファッションを感じちゃうんだろうか。

サナエや彼女の姉が裕介に心酔していることに嫉妬した、子飼いの社員、山下が、卑怯にもサナエを使って彼を放逐する。山下が少年院あがりで、裕介の気持ちが判るとか言って彼に取り入ったり、利用しようとしたり、姉妹に好かれる彼に嫉妬してとにかくムチャクチャな言動をとるのだが、これがねぇ……。平成のVシネですかぁ?と言いたくなる、女をテキトーに理由付けしてとにかくケンカしたがるアホな男たちである。
大体さ、社長を蹴落としてのし上がるんだ!!と再三言い募る彼の成り上がり欲望は、ふと落ち着いて考えると、……社長を蹴落として、と言うが、その社長が経営する会社は、全貌は見えないものの、奥さんが手伝っている感じと言い、いかにもこじんまりとした零細企業であり、そんな場所で社長を蹴落として、とかいう表現がむなしいっつーか。

可能ではあると思うよ。山下が姉妹のどっちかを垂らしこめば、というのは、可能な手段、手っ取り早さだろう。でもそれって、“社長を蹴落として……”てな勇ましいサクセスストーリーとはかけ離れていて、なのに山下は、サクセスストーリーを俺は成すんだ、ぐらいの勢いで裕介を全力で排除しようとして。
その執拗なシークエンスが、風俗嬢のドライバーにまで落ちた裕介を、嫉妬と思い込みで追い詰めて、酔っぱらったテイで先に手を出すように仕向けるっつー、もう見てて飽きちゃうぐらいの長回し。マジで、いいよ、もう。

そしてこの場面にも、サナエはいるんである。ああ。もうマジでね、サナエさん、やめてくれよと思った。
歌舞伎町と思しき、裕介が働いている店の前で、セーラー服姿で(これが一番イタい)受験勉強のための参考書を山と積んで(これもサイアク)、裕介が出てくるのを待ち続け、ユウスケ、ユウスケ!!とまとわりつく、オンナ+JKの純粋な恋心を武器として100%ぶつけてくるコイツをマジぶっ殺したくなる。

女の風上にもおけんわ!!こんな女いねーわ!!いやいるかもしれんが、同性として、制裁のレベルだわ!!
正直ね、予想はしていた。いっくら裕介がこのしつこいサナエを振り切ったって、いい加減にしてくれ、もう来るな!!と吠えたって、一人になりたいんだと懇願したって、それでもまとわりつくサナエに、サナエが、気になっていた、その気持ちに応えられないにしても、感謝していた、とかいう展開になるのは、予想は出来たわ。

だからこそ、これは、やっぱり、男性の理想なのかなあ。こんなことカンタンに言いたかないけど、セーラー服の女子高生、大学生になっても清楚という名の没個性のファッションのサナエに、こんな俺のことを唯一判ってる女の子、の造形を感じてゾッとしちゃうよ。
タイトルともなっている、棒つきキャンディーが二人の距離を縮めるのだが、これもねぇ……。ハイティーンで棒つきキャンディーをなめなめしながらとか、私のキャンディとったでしょ、とか、もうあの会話の応酬の時点で、キショッ!!と思ってしまったのは正直なところかなあ……。

なんだろう……そりゃね、こんな女の子もいるのかもしれない、いるのだろう。千差万別、いろんな人がいるのだから。
でもなんだろう……この程度の認識で、いまだに、今の若い世代でさえ、この程度の認識で、女の子や、その友情や、恋や、あるいはこれもちょっと気になったんだけど、お姉ちゃんとの関係が特にだけど、家族との関係を、この程度でとらえてて、映画にまでしちゃうのかと思ったら、正直失望してしまったというのが事実かなあ。

とにかく、さあ。せめて恋する過程、気持ちの過程、グラデーション、それは丁寧に描いてくれなければ、もうその時点で、観客の心は離れてしまう。
友情も、家族間の関係もメチャクチャそうだけど、この二人が主人公ならば、せめてそれだけでも納得させてくれなければ、成立しないじゃん!!

私、結構怒ってるのかな……怒ってるなあ……。★☆☆☆☆


鈴木さん
2020年 90分 日本 カラー
監督:佐々木想 脚本:佐々木想
撮影:岸健太朗 音楽:
出演: いとうあさこ 佃典彦 大方斐紗子 保永奈緒 宍戸開

2022/2/13/日 劇場(池袋シネマ・ロサ)
危うくお蔵入りというところだったんだろうか。最近では配信というのが当たり前になってきたから(本作も同時配信ということらしいし)別にいいのかもしれないけれど、私のような古い人間はヤハリ、劇場公開というハクをつけてほしいと思っちゃう。ことにこうしたなかなかの意欲作に関しては。
監督さんは市長役に「政治に物申すことを恐れない」ことから宍戸開氏にお願いしたんだという。実際、ファンタジー(ディストピア映画だというんだそうな)に見えながらも、いやそこに隠して、本作はハッキリ、今ある現実を指摘している。

ハッキリ言っちゃおう。この日本である。日本の天皇家は20年も隠れてはいないけれど、人間なのに人間じゃないようなあいまいな扱いで、テレビの画角の中で、手をお振りになる壇上の上で、きっと言いたいことも言えずににこやかにほほ笑むばかりなのだろうと思ってしまう。
それがようやく、崩れ始めているのが、この作品がそこをも象徴しているような気がしちゃう。

そして何より、「生産性がない」というクソ言葉が記憶に新しいことである。本作における、「45歳以上の未婚者は市民権を失う」という法律は、あのクソ言葉が正義だと信じていたらしい政治家が作りかねないそれである。
作劇上ではそこに性差は言われないが、よしこもよしこの友達もそうなように、やはり子供を産める可能性が薄くなっていく女性の方にこそ、その視線が注がれるのは明らかなところ。

そして手首に刻まれた個人番号。もう疑う余地もない、導入された時誰もが不安に思ったあのマイナンバーだ。手首に刻まれている、といういかにもな恐怖政治的描写で、逆に日本のことを言ってるんじゃないよと舌を出しながら、ハッキリとそうだ。
この監督さん、勇気ある、かなりしたたかかもと思っちゃう。隅々まで、充満するがごとく、今の日本(もちろん、日本だけじゃないけれど)を糾弾する想いに満ち満ちているんだもの。

そのヒロイン、よしこになんとオドロキ、いとうあさこ様である。東京国際映画祭に出品されたというのは彼女のラジオ番組で知り、タイトルといい、てっきりコメディなんだと思っていた。
まったくじゃないの。いや、ある意味ではコメディかもしれない。ディストピア映画というのは無知なのでよく判らないのだけれど、批判精神はどこかにユーモアがなければただワガママをがなっているだけになってしまう。

あさこさんは徹頭徹尾シリアスに演じていて、彼女曰くの「ちゃんとしたブス」という、どんよりとした女のリアリティは本当に素晴らしい。でもその一方で、あさこさんが、喜劇女優になりたかったという道から今この存在感で活躍されていることを思うと、なんとも絶妙なのだよね。
彼女は徹頭徹尾シリアス。でも、物語の成り立ちや、よしこが面倒見ている介護施設のおばあちゃんたち、そしてなにより、ふらりと現れる謎の男の浮世離れした感じ、彼女以外は非現実的が高じてなんだか可笑しくて、特におばあちゃんたちが可笑しくて。
でも、おばあちゃんたち、なんだよね。おじいちゃんはいない。女が長生き、そういうことかもしれないが、なんだろう、このざわざわした感覚……。

カミサマによって美しい国が保たれていると信じて傍若無人にふるまっているのは、カミサマの髪形(ポマード七三分け)をマジメに踏襲している若い男の子たちであり、介護施設でよしこと共に働くのりこはフツーの若い、現代の女の子である。
彼女はよしこにも、自分の彼氏やその仲間たちにも相容れない違和感を抱いている感じ。若い女の子にありがちな何もかもに不満という感じでもあるけれど、彼女の本能的に察知している違和感こそが、正しいアンテナな気がするんである。

彼女は、よしこが理不尽な法律の前に市民権を失いかけていることにも、彼氏やその仲間がカミサマの髪形を盲目的にしていることにも、そしてそのしもべであることに疑問を持たずに、「美しい国にふさわしくない」と弱い者たちをさらしものにするにも、拒否感を示す。でも、自分に不利益がブチ帰ってくることを思って、何もできない。それは、ああそれは、まさに今の、私ではないか!!

全体的に、暗い色調と静かな進行で粛々と行くんである。この国のカミサマと言いつつ、描かれるのは一つの町であり、ひょっとしたらこの一つの町の幻想にすぎず、ここがディストピアで、この町を出たらユートピアがあるんじゃないのと思っちゃったりする。
この国、と言ってるのに、描かれるのはこの町、45歳以上云々もこの町の話だと受け取れるから、うわ、なんかそれもまた怖い!と思い至る。

カミサマを拡大解釈しているのはこの町だけ?いやでも、そのカミサマは、この町に逃げ込んできたのだから、国と町はどういう位置関係にあるのか、それともこの閉鎖されたような小さな町が、美しき国だと洗脳されていることこそが怖いということなのか。

市民の情報源は古びたラジオ、そして町内放送。昭和初期、戦前戦後、そんな雰囲気である。なのに先述のように、今の日本の、じわじわと迫りくる恐怖政治の価値観が襲ってくる。
つまりは、今の私たちは物質的に豊かになって、そのことに隠される形になって、恐ろしい圧政に気づいていない。情報が与えられているようで、実際はこんな風に、戦前戦後ぐらいな状況なのだ。

政治、条例、法律。劇中、いつの間にか変わってしまっているそれに対して、知らないよ、いつ変わったんだよ、とかみつくおばちゃんが出てくる。そしてよしこもまた、口には出さないまでも、そう思っているのだろう。
いつの間にか変わってしまったそれは、ちゃんと選挙なりなんなりの公的な手続きを経て決まったもの。あなたはそれにちゃんと参加しましたか?と役所の人間はおばちゃんをバカにしきって追い払う。

おばちゃんは、そこに居合わせたよしこに助けを求めるように話しかけるけれど、そのよしこだって……。この図式は、あまりにも思い当たり、それは確かに、我ら日本人の政治に対する無関心にほかならず、そしてそれを利用されて、先述したようなクソ政治家たちが跋扈していくことになることを、私たちは、その恐ろしさを、まるで判っていないということなのだ!!

よしこが守ってきた介護施設(どうやらもともとはラブホテルだったらしい)、よしこが市民権をはく奪される危機に陥り、そんな時に謎の男、鈴木さんがやってくるんである。
手首に個人番号が刻まれていない。このことが何を意味するのか。本作は、国民、町民の定義というか境目が、私がアホだからなのかよく判らない。市民権を失えば、この町から追放されるというのが、でもこの国内なんだよね、とも思うし、個人番号は当然、国民に付与されたものであるとは思うのだけれど……。
だってそれがないということは、鈴木さんがカミサマという証拠のようにもなる訳だし。でもどうなんだろう。のりこはあの人はたんなるホームレスだと言い張り、それは番号がないからということからなのか、うーん、よく判らない!!

施設の中のおばあちゃんのなかで、すみこさん=演じる大方斐紗子氏が印象的、というか、象徴的、というか。心に深く残る。
この施設にいるおばあちゃんたちは皆そうなんだろうけれど、すみこさんに集約されているというかね、他のおばあちゃんたちは、集団としてのおばあちゃんなのよ。鈴木さんの演奏するオルガンと一緒に歌ったり、見えない敵に怯えてなぎなたの練習をしたり、一つのおばあちゃん、いや、ひとつのこの美しき国の国民としての形を形成している。

彼女たちは、よしこが市民権をはく奪されることでこの施設から追い出される運命にあることを判っていないのだ。それもまた、そののんきな感じもまた、いかにも今の日本人の姿だ。
すみこさんは、形なき、顔なき、おばあちゃんたちのぼんやりしたアイデンティティを一人背負う。あまりにも悲しき姿で。すみこさんはどこからかやってきた。よしこを娘と思い込み、孫の顔も見せてくれないと嘆き、迷い込んだ鈴木さんをダンナにとあてがって、手放しで喜んだ。だから、次第に事態が判ってきちゃうと、ショックを受けて、何もかも判らなくなってしまうのだ。

そしてすみこさんが我を失うのと同時進行のように、この国、なのか、この町、なのか、じわじわと追い詰められていく。外からの工作員の危機というのは、実際だったのか作られたことだったのか。
そもそもカミサマというのは本当に実在したのか。鈴木さんが本当にそうだったのか。結局は政府で作り上げたものに過ぎず、鈴木さんは狂言芝居を起こしていたのか。
いや、やはり、閉じ込められたカミサマであった鈴木さんが逃げ出して、あらゆる勢力のぶつかり合いが生じたのか。

先述してきたように、国、町、市民権とか、そのあたりの切り分けが判然とせず、この閉じられたムラ社会の陰惨な感じはよく出ていたんだけれど、そこはちょっと、もったいない感じがしたかなあ。
鍵盤もバイオリンもあっさりと弾きこなす鈴木さんが、それだけでエリート教育受けていたことを示しているんだけれど、それが不思議に哀しくて、音楽を奏でることができるのに哀しくて。ズンドコ節でおばあちゃんたちを喜ばせるのに。音楽は、その名の通り、音を楽しむことなのに。★★★☆☆


トップに戻る