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「に」


2023年鑑賞作品

逃げきれた夢
2023年 96分 日本 カラー
監督:二ノ宮隆太郎 脚本:二ノ宮隆太郎
撮影:四宮秀俊 音楽:曽我部恵一
出演:光石研 吉本実憂 工藤遥 杏花 岡本麗 光石禎弘 坂井真紀 松重豊


2023/6/11/日 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
今最も新作が待ち望まれるおひとりである監督さん、ようやくの新作が、しかも光石研氏主演ということで小躍り。ようやくの新作。監督さん自身、役者としてもとても魅力的で方々でお見掛けするので、それでなかなか監督作品が見られないのか、あるいは寡作のタイプなのか。
それにしても光石氏主演作ということを聞いた時には、なんかめっちゃくちゃしっくりくる感じがしたなあ。後に監督たってのオファーだったこと、もともと大好きな役者さんとして名前を挙げていて、本作も当て書きの脚本だったことなどなどを知り、なんという幸福な監督さんと役者さんの出会い、と思う。

実際に光石氏に深く話を聞いての脚本だったという本作は、だからといって光石氏自身の人物像という訳ではもちろんないのだけれど、監督さんが、そして映画ファンである私たちが持っている光石研という、なんともいいがたい柔らかでチャーミングな、どこかにもの悲しさがある市井のおじさん、というたたずまいが、光石氏自身のパーソナリティーを掘り下げての本作の中で、じんわりと立ち昇ってくる。

改めて考えてみれば、本作は結構シリアスというか、記憶をとどめておけない症状に至りつつある初老の男が、自身の人生を見回してみた時、こころもとなく、必死にそれを取り戻そうとする、端的に言えばそんな物語ではあるから、救いようがない、のかもしれない。
でも、光石氏自身が醸し出すチャーミングが、なんだかクスリと笑わせちゃうのが、それこそがかえって物悲しいのかもしれないのだけれど。

光石氏演じる末永周平は高校の教頭先生。後に元教え子の平賀南に、本当は校長になりたかったんだけどね、などと自嘲するように、キャリア的にも年齢的にも、教頭で打ち止め、というのを自覚し、それを悔しいというよりも、自分なんてこんなもんだったか、みたいな諦めの境地。
それもあるけれど、教職という立場の中でも、ああやっぱり、こうした、サラリーマンのような上昇志向はやはりあるんだと観客に思わせたり。
それはね、とても自分勝手な感じ方よ。教師は生徒の人生を預かり、思いやるべき、だなんていうのは。教職だって出世欲があり、その行きつくところは校長。仕事として生徒に接していると言えば確かにそのとおりなのだろう。

ただ末永自身がそこまでのことを、シビアに自覚していたかどうかは判らない。ただ、元教え子の平賀からも、現教え子の女の子からも、その浅はかさを指摘される。本当は心配なんかしてないでしょ、テキトーに言ってるでしょ、と。
末永はうろたえて、いや、うろたえてさえいない、お決まりのように、そんなことないよ、と、心外だというように返すのは、現教え子の女の子の時には確かにそうだった。でも、物語のラスト、元教え子の平賀からそう言われた時には、言葉に詰まっていた。

そのラストに至るまでは、末永の、いわば、自分の人生はなんだったか、の旅である。彼がかかっている病気は明確には示されないけれど、若年性アルツハイマー、というところかなぁと思われる。
平賀が勤めている定食屋でのお会計を忘れて外に出たところで、末永は平賀に吐露する形で、その事実を明らかにする。でも、平賀にしか、結局は、言わなかった。家族にも、数十年来の友人にも、言わなかった、いや、言えなかったというべきか。

なのになぜ、平賀には言えたのか。お会計を忘れたという、厳然たる事実を抑えられたということもあるけれど、なにか……末永はホッとしたというんじゃないけれど、誰か一人、この事実を知ってくれている人をつかまえた、みたいな、そんな落とし穴に陥ってしまったような、告白のように見えた。
だって、こんな重大な事実を、家族にも、長年の友人にも言わず、食事に立ち寄る定食屋の元教え子にだけ明かすなんて、明かされない人たちにとっても、明かされた彼女にとっても、なんだかたまらなく、切ないんだもの。

不思議なんだけど、末永を糾弾するのは女の子たちばかり、なんだよね。一見親身になっているようでそうじゃないよね、と柔らかく指摘する女の子たちはでも、それでも、表面上だけでも声をかけてくれる末永を、見透かしながらもきっと好きでいてくれているのだ、と思いたい。
末永自身が、こんなオジサンなのにそこんところを気づいていないというか、生徒のことを心配して声をかけている、と自分自身それなりに思っているところを、甘いんだよ、と女の子たちに喝破されてオロオロしちゃう、みたいなことまでコミで、彼女たちは末永を、しょーがねーなー、と気持ちでの信頼があるんだと思う、思いたい。

その感覚にちょこっと近い位置にいるのは一人娘の由真(工藤遥)で、就職したてというぐらいの若さの娘ちゃんと父親との関係は、まぁこの程度の距離感だよな、という感じ。
突然、コミュニケーションをはかってくる父親に戸惑い、ある意味鋭く、「なんかあった?」と返してくる。言葉のあやだったのかもしれないけれど、異変を察知した上で出た言葉だったのだから、もしかしてこの時点で末永が自身の状況を娘に明かしていたら、まったく違う物語が産まれていたのかも、と夢想してしまう。

かなり前から冷え切った関係になっていたと思われる妻、そして、スマホをずーっといじったままの娘と、なんとかコミュニケーションをとろうと涙ぐましく明るくふるまう展開は、古今東西、既視感アリアリの父親の哀しさだが、でもいつだって、古今東西の父親は、こんな具合に千載一遇のチャンスを、逃してしまうものなのだ……。

幼なじみと言ってもいいだろう、学生時代から数十年の関係であるという、石田とのシークエンスが好きすぎる。だって松重さんなんだもの。バイプレーヤーズ仲間、もうホントに、この界隈は、共演してる姿に遭遇すると、涙が出ちゃう。
そもそも本作の舞台は北九州、光石氏に当て書きされた土地で、光石氏はきっと、なつかしい故郷の言葉を存分に堪能しながら演じていたんじゃないかと思う。ああ、松重さんも、福岡出身なんだ。じゃあ彼もまた、そうだったんだ。末永が石田(松重氏)をおちょくるたびに、しゃーしぃ!と返す、やめろよ、といったニュアンスだろうか、この繰り返しがたまらなく愛しくて。

石田はバイク屋を継いで、この地元で細々と暮らしている。彼の目から見れば末永は、大学に行って、公務員になって、教頭にまで行った、成功者なのだろう。そんなんじゃないよ、ということを、きっと末永は言いたくて、久しぶりに、旧友の石田に会いに来たのだろう。
単なる平日、職場には父親の容体がとかウソ言って、石田に会いに来た。昔はなじみだったと思われる小料理屋に、石田を誘って飲みに行った。女将はその久しぶりの理由をなんとなく察していただろうことが、店を後にする二人をわざわざ見送りに出たところから察せられるし、もちろんそれは、石田だってそうだ。

なのに何も言わないと、昔からそうだったと、ケンカ勃発しそうになるも、なんだか笑っちゃってならない。最後にケンカした時の青春の思い出を話し合って終わっちゃう。
この時……末永はもちろん、あえてごまかしたんだからそうなんだけれど、石田はくみ取ったのだろうと思う。何かの事情がある、でもそれを、コイツは言わねぇんだと。

見ている時には観客であるこっちも、言わないんだ、言わないからダメなんだ、もう!!と思っていたんだけれど、だったら私は、果たして、同じような立場になった時、友人に言うだろうか??やっぱりこんな風に、ただ会いたくなって、会って、それだけで、苦しい胸の内を打ち明けたような気持になって、むしろ言ってしまったら、逆に苦しくなるような気もして……。
勝手なんだけど、そんな風に友達を心に利用しているのだと、見透かされているから相手が怒るんだというのも判っていながら……結局は、甘えているんだ。甘えているんだということを、自覚して、正直に言えたら、良かったのだけれど。

めちゃくちゃ印象的なのは、末永が介護施設で生活している父親に会いに行くシークエンスである。オープニングと、後半のラスト直前に用意されている。
うっかり記事を読んじゃって、その父親が実際の光石氏のパパであることを知っちゃったので、ドキドキしながら待ち構えていた。台詞はなく、車いすに乗って穏やかな表情でただただ前方を見つめているだけなのだが、めちゃくちゃ品格があって、ダンディーで、イイ男で、光石氏にはあまり似てないような(爆)。

末永が、忘れてしまう病気、アルツハイマーなのかな、と思われるものを宣告されていて、それを踏まえてこの父親との対話(父親は聞こえているのかすら判らないんだけれど)を見ていると、いろんな思いが湧き上がってくる。
後半、ここがクライマックスというべきであろう、末永が父親との関係を、まるでインタビューを受けているみたいに真正面から語る場面において、厳しかった父親との関係性を知り、それは今、介護施設で、仏のように穏やかな笑みを浮かべる父親からは、まるで想像もできないのだ。

きっといつの時代も、親子はこんな風に、衝突した若き頃があって、その記憶が拭い去れないままに親が老い衰え、憎むべき、敵対すべき、闘うべき親が、小さくなって、優しくなって、守らなければならない存在になって、戸惑うのだろう。そして自分自身が親となっていることに今更のように気づき、どうしたらいいのか判らなくなるのだろう。
今や冷え切った関係の妻、どうやら妻は他に恋人がいるらしい、それを末永も黙認していて、もはや修復は難しい、この夫婦関係においては、わりとおざなりというか、ありがちな展開を深堀もしないので、ちょっと不満は残るけれど、本作においては親と子、大人と子供、の問題にフォーカスしているからなのかもしれない。

でも、実際の親子関係、末永と娘よりも、娘と同じ年ごろの元教え子、平賀との関係性、というか、彼女が最終的にすべてを受け止めるから、家族とか、血のつながりとかじゃなくて、いや、それが前提にあるからこそ、なんつーか……深く、印象に残る。
会計をスルーしたことへのおわびにと、デートというか、そんな展開がラストシークエンスになる。地元にずっと住み続けていたであろうと思われる末永の、思い出めぐりに平賀が付き合わされる形で、最後の場面は、静かな喫茶店での長尺の会話シーン。
末永と平賀の切り替えしが淡々と、観客のガマンが試されるがごとく、ゆっくりと、しんねりと、時に同じセリフの繰り返しがなされる。本当はそう思っていないんでしょと、そういった意味合いの台詞を、何度となく平賀は繰り返す。黒々とした瞳を、しっかと末永に見据えて。

末永が恐らく認知症を患い始めているということを、じわりじわりと観客に思わせながらのこのラストは、末永自身が、何度彼女の言うことを聞いても聞いてもイマイチ咀嚼できず、夢の中でループしているような、……二人の切り替えしが段々緩慢になって行っているような錯覚を覚え、夢の中で、彼女が、ホラ、全然聞いてないでしょ、判ってないでしょ、テキトーに言ってるでしょ、と末永に、いや、観客に言っているのを、永遠ループで見ているような錯覚に陥る。
吸い込まれるような黒々とした瞳の吉本実憂嬢、平賀がきっと、末永を一番判っていたのだろうと思う。薄っぺらで、上っ面なことを、認めたくないけれど、それを認めなければ進めない、そのことを指摘してくれる誰かを末永はきっと求めていたに違いない。

てゆーか、子供の頃からずっと思っていたことだけど、男親って、なんでこんなにブキなの。子供であり、奥さんである女がこのブキな大人のガキに苦労していることを、判ってくれよと言いたい。愛したいのに、ワガママ千万だから、もう勝手にして!!という結果がこうなるのだから、きっと。★★★☆☆


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