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「え」


2024年鑑賞作品

地球星人(エイリアン)は空想する
2023年 99分 日本 カラー
監督:松本佳樹 脚本:松本佳樹
撮影:常川千秋 北林佑基 松本佳樹 音楽:
出演:田中祐吉 山田なつき アライジン 中村更紗 村松和輝 星能豊 ひろえるか 小夏いっこ 町田英太朗 西村優太郎 大城規彦 西よしお 藤澤克己


2024/5/21/火 劇場(新宿K's cinema)
なんといってもタイトルがもう良くって飛び込んだら、摩訶不思議の先の深い深い哲学。いやーなにこれなにこれ。中盤まではちょっとキナ臭さがあったというか。いや、うさん臭さかな、ウソ臭さかな。でもそれは確実に計算のうちに違いないのだ。
この地に取材の訪れた週刊誌記者、宇藤がそもそもそう思っていたように、UFOの町だなんて、宇宙人に拉致されるだなんて、ミステリーサークルだなんて、眉に唾つけまくりたくなるものなのだ。

宇宙科学博物館コスモアイル羽咋の館長だって、とくとくと展示物について語ってはいるものの、この地の伝説めいた話になると、詳しくはあるもののどこか及び腰で、都会の記者さんから突っ込まれることを恐れている。そうでしょう、うさん臭いと思ってますよね、と。
だってかたわらには緑の宇宙人マスクをかぶったキャラクター、……キャラクターというにはあまりにもそのまんま、ダサさ全開のサンダー君が黙ったまんまなのに妙にニコニコしているように感じられる動きで、アピールしまくっているんだから、これはヘタなところに連れてこられちまったと思うじゃないの。

実際に、この羽咋市という地があり、実際に、UFOの町であり、実際に、この妙に本格的な宇宙科学博物館も存在する、と知ると、……劇中で観ている時には半信半疑だったけど、博物館の描写はしっかりしていたから、これは実際あるんだろうとは思ったけれど……まじで??とめちゃくちゃビックリする。
UFOの町だなんて、ありそうだけど一番ウソ臭いと(ごめん!)思っちゃっていたから。そしたら劇中まことしやかに語られるそうはちぼんなる江戸時代の資料も本当なんだろうなぁ……。

実際宇藤は、そうした次々に示されるまことしやかな(まだこんな言い方しているあたり……)事実たちに外堀を埋められる形で、マユツバだと思っていたUFO案件に取り込まれていく。
そもそもこの地に取材に来たのは、羽咋市側からのアピールがFAXで送られてきたからで、編集長はこうした都市伝説は媒体側にとっても美味しく、お互いウィンウィンの関係なんだからと渋る宇藤を送り出した。
宇藤は、週刊誌記者、というより、誇り高き記者であった。仕事にならない個人ブログで自身の信じる真実を発信している。この図式が結果的に、ラストに、重く問題を投げかけてくることに唸る。

チャプターごとにタイトルが付けられ、絶妙に不協和音が混じるようなクラシック曲のピアノ、そして何たって……宇宙語、というか、エレガントなデザインの創作文字。原始的にもモダンにも感じる絵画。
宇宙、UFOを題材にしているという前提を思いっきり、いわば野暮ったい手法でガンガンエフェクトし、目まぐるしいカッティングを施した映像美学。美術館で大人のための絵本を上映しているような、見たことのない感覚。

中盤までは先述したようにうさん臭さばかりが立ち込めていたし、ジャーナリストとしてのプライド故にイヤイヤこの地に来た宇藤の気持ちの方がメッチャ判る、と思った。なのに……。
何より、一人の少女の登場である。この博物館にフリーパスを許されている高校生、乃愛。かつて、失踪し、宇宙人に誘拐され、身体を改造された、と語る。ミステリーサークルと同じデザインの画をぐるぐると描き、仲間たちに想いを馳せる。
こう書いてみれば、そらぁイッちゃってる女の子と思っちゃうし、誘拐された先で何か……忌まわしい体験をしたのかもしれない。母親がそう勘ぐっても、それを娘に対して問いただすことなんて出来っこない。

そしてここに、新興宗教が入り込む。宇宙をベースにした新興宗教、確かにありそう。いや、劇中で、江戸時代に実際そうした宗教が存在したのに迫害されたと、深い森の中の寺の住職が証言するんだから、マジで羽咋市での歴史の一つなのかもしれない。
信じるものを迫害される。それは、本作のテーマであるように思う。信じるということは、実はとても難しいことなのだ。それは……自分が地球人であるということを信じることすら、難しいことなのだと。

このあたりから、急激に社会派のスタンスを帯びてくる。乃愛は宇宙人に拉致されたのでも、新興宗教の男に監禁されたのでもないのだということを、宇藤は突き留め、というか、信じ、真実を世の中に示そうとする。
そもそも、新興宗教とか、少女の誘拐とかに、そりゃあ世間は飛びつくし、宇藤も本当にそう思って、信じて、記事を書いたのだった。UFOとかじゃない、それを利用した宗教に少女が巻き込まれた、それを社会に知らせるべきだと。

そして社会もそれに飛びついた、飛びついてしまった。いわゆる、バズった。放置されたままの宗教団体に警察も動き出したということで、編集長はホックホクだし、宇藤だってジャーナリストとして溜飲が下がった筈なのだけれど……。

宇藤の先輩が彼に忠告するところから、水滴が波紋を広げるように、変わってくる。乃愛を拉致したと思われた新興宗教の男は、その彼こそが、団体の間違いを内部告発したのだと。
宇藤は自分が書いた記事を正そうと思う。でも同僚も編集長も止める。そんな訂正記事、誰も読まない上に、自分たちが潰れるだけだと。しかも、その男もまた、宇藤にコンタクトをとり、彼の正義にブレーキをかけてくるのだ。

この男と乃愛の真実の結びつきあいを信じたからこそ、宇藤はジャーナリストとしての使命感から訂正記事を、せめて自分のブログではと載せるのだけれど、判りやすく炎上する。
これはもう珍しくもない、顔の見えない人たちの無責任なつるし上げだけれど、本作が決定的に違うのは……宇藤が、ジャーナリストとしての矜持を持ってこの記事を書いている筈の宇藤もまた、このネット民たちと大して変わらないのかもしれないということを示していることなのだ。

これには本当に……グサリと刺された。彼はジャーナリスト。その誇りをしっかりと持って仕事をしているのは事実。胡散臭いネタを取材するように言われても、その中から自分自身が信じる真実を得て、こうして闘った、と思っていた。
でも……乃愛との道行きで彼女が謎めいた笑みを浮かべ、どこか諦め気味に言う、私の言うこと、判りませんよね??と言うのは、宇宙人に身体を改造されたから、だなどというフィクション極まりないフィルターをかまされてうっかり錯覚しそうになるけれど、結局、自分が思い込んでることしか、見てませんよね?ということ……ネット民もあんたも同じでしょ、ということなのだろうと、思った。

これは、返す刃、そのまま私、そして誰にでも刺さる刃。あまりにも思い当たる。自分が信じたい部分、都合のいい部分しかチョイスしない。それは遠い昔から常にそうだとは思うけれど、ことにネット、何よりSNSが重視されてきたここ数年では明らかなこと。
それが、古今東西うさん臭さの頂点であるUFO、宇宙人といったネタでは全く動かなかったのに、新興宗教となると動いちゃうし、宇藤自身もUFOや宇宙人は信じてないのに、新興宗教となるとプライドが働いちゃう。そして、自分が信じる真実しか目に入らず、乃愛を救うことが正義だと思い、彼女から反駁されてしまう。

映像美学がさく裂しているし、じわじわとこうして社会派に進んでいくけれど、でもずっと見た目はアーティスティックな、ダークファンタジーの趣だから、なんだかちょっと、観客として自信がなくなってしまうのだ。こんなに社会派一辺倒で語っていいのかと。
ネット社会の、自分の信じることしか見えなくなってる傲慢を示していることにやたらとぐさぐさ来ちゃうのは、本作に対するスタンスとは違うのかもしれないとか。だって、そんなヤボなことで語りたくないような……アーティスティックミステリアス、なんだもの。

乃愛、そして宇藤も、おもちゃのような銃を自分自身に向かって撃つ、そして自分自身が倒れてしまうというシーンが何度も現れる。自信のない、こんな自分を、といったことなのだろうかと思う。
自分を殺してしまいたいことは、誰もが、一度や二度、あるだろうと思う。死んでしまいたいと思うことから、実際に死んでしまうよりは、もう一人の自分を殺してしまえば、その後、何とか、自分自身を騙して、生きていける。

自分は宇宙人に拉致されたんだと証言した大学生が、宇藤から論破され、目立ちたかっただけだと悪ぶれる前半のシークエンス。でもこの前半部分で宇藤は、あらゆる資料や地元住民の証言で、この地のUFO情報が真実だと思い始めていた。
そこに現れたこの大学生を、ウソをついていると論破するところから、UFOが存在するのか問題から、UFOをもとにした新興宗教問題に、言ってしまえばすり替わってしまう。言ってしまえば……宇藤自身が、すり替えたと言えなくもないと思う。

科学的実証の末、この学生がウソをついていると宇藤は本当に思ったんだろうけれど、本当にそうだったのだろうか。論破に屈する形で憎まれ口をたたいて去っていったけれど、本当にそうだったんだろうか??
後半は、新興宗教にテーマがすり替わることで、社会派として真実味は帯びるけれど、その渦中にいる、決定的な中心人物である乃愛は、最初から最後まで、自分は宇宙人に身体を改造されたと、仲間たちが他にいるんだと言うし、乃愛の友達は、彼女の明らかな変化を本当に心配している。

このあたりになると、本当に混とんとしてくる。結局真実なんて、それぞれの胸の内にしかないのだから。乃愛を拉致、監禁したと出頭する男、でも乃愛は行方不明のまま。
乃愛が子供の頃描いたりんごの絵、他のクラスメイトは皆、赤いりんごを同じように描いた。一見子供らしく、でも、うがってみれば、大人から可愛らしいと思ってもらえるような、ぴかぴか光ってるとか、お父さんの手より大きいとか、そんな、ザ・子供らしいことを、おんなじ赤いりんごに書き添えていたのだった。

でも、確かに、確かに確かに、そんなの、おかしい。同じ赤だって、こんなにみんながみんな、同じ赤を塗るだろうか。コピーされた同じ顔ばかりが並ぶ気味の悪さ。りんごは赤いと教育されちゃってるからという恐ろしさもあるけれど……。
その中で、乃愛がりんごを青く描いただけで、いやでも、それを実際に糾弾された訳ではなかった、そんな描写があった訳ではなかったけれど。

本作が、ものすごく絵を、絵画を、モティーフにしているから、そして最後の最後、宇藤が訪ねる乃愛が、しんしんと絵を描いているから、やっぱりそこにたどり着いてしまう。
その中でやはりミステリーサークルもキーポイントだと思ったけれど、青いりんご、赤いりんごの中の青いりんごが、あんなにも彼女を心配している母親や友達がいたのに、赤いりんごの中の青いりんごだったんだなぁと思う。そしてそして、地球星人もまた、宇宙の中の星人、エイリアン、すさまじく孤独なたった一人なのだと。★★★★☆


エロスのしたたり
1999年 64分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:小林政広
撮影:下元哲 音楽:
出演:川奈恵美(河名恵(美)) 長坂しほり 葉月螢 林由美香 伊藤猛 酒井健太郎 佐野和宏

2024/8/21/水 録画(日本映画専門チャンネル)
脚本家、小林政広氏特集ではあるけれど、ここ最近放送されている作品は、ピンク映画の製作者、現場、監督たちの物語がバックグラウンドとされているものが結構あって、それが裏テーマでチョイスされているんじゃないかしらんと、うがってみたりする。
好きなのよ、それがさ。一般映画でも製作現場が描かれることはそりゃあるけれど、撮影所制度が残っている最後の砦の、特にこの時代のピンクは、助監督を長くやっていれば監督にはなれたものの、とか、不景気で企画が通らないのは低予算ピンク映画としてはめちゃくちゃ想像がついたり。映画が好きで好きで貧乏な彼らの、その撮影現場の様子も本当につましくって、手作りで、でも、これがホントの作品作りだと思ったり。

ピンク映画に惹かれたいろんな要素が、懐かしくフラッシュバックする。だってさ、葉月螢、林由美香という当時の二大看板女優が、どでかくクレジットされているからどんな重要な役かと思いきや、台詞のない一瞬のカラミ要員として配置されているだなんていう、ピンク版カメオ出演的なぜいたくさもワクワクするし。

それに比して、ピンクではあるあるだが、ヒロインはなかなかの棒読みさんで、うわぁどうしよと思うのだが、まるでその彼女に合わせるように、貧乏ヒマヒマの男二人も、とぼけたトーンでやり取りするんである。
こう書いてみて、マジでそうだったんじゃないかとも思えてきた。見てる時はね、これは小津安二郎あたりを意識、というか、オマージュというよりはイジっているといったらアレだけれど、会話の平坦な感じをそらっとぼけてやる感じが、そうなのかなぁとも思ったんだよね。

だって、めっちゃ彼らは映画が好きなんだもん。めちゃくちゃ判りやすく、「タクシードライバー」とか「ダウン・バイ・ロー」とかのポスターを、しかもしっかりパネルにして部屋に貼ってる。
でもなんたって貧乏だから、映画は見れてない、高いし、ビデオで見るって映画ってのもなんだか味気ない気がしてさ、と、この男二人で川っぺりを散歩しながら言い合ったりするんである。芝居よりは安いよ、と言い添えるあたりも面白い。

映像学院で一緒だったという二人は、今やフリーターですらない、一応監督の肩書きはあるけれど、それを何本か撮ったとか他人に見栄を張るけれど、伊藤が撮ったのは助監督の経験から声をかけられての1本だけだし、彼の友人はどうなのか、自分ではアバンギャルドとかアートとか言ってるから、こりゃぁ伊藤以上にヤバそうに違いない。

だけど友人の方はパソコン持ってんだよね。あぁ懐かしい、当時のブラウン管パソコン。たっかかったよ、30万ぐらいはした筈。貧乏してるのにいいもん持ってんなぁとヘンなところが気になっちゃう。
この友人はそのあたりちょっと謎で、伊藤が性欲で悶々としているのに、大ブスだという“友人”を泊まらせて、ヤリまくりである。この大ブス(な訳ない!!)が贅沢ゲスト、葉月螢氏で、伊藤が性欲を紛らわすのが風俗嬢役の林由美香氏。豪華!

結果的には、めちゃくちゃほのぼのと大団円ラストになるのだけれど、つまりは壮大なフリであったとおぼしき、ヤクザの娘をかくまうという展開なんである。
伊藤と友人が曜日感覚も判らずにカップ麺をすすっている隣から、いかにも壁の薄いやっすいアパートだから、アンアン声がまる聞こえなんである。

そのカップルの男子の方が、突然伊藤を訪ねてきて、彼女をかくまってほしいと言う。ヤクザというか、そっち系の娘さんで、駆け落ちしたんだけれど、追手のほとぼりが冷めるまで頼みますと。目の前に積まれた30万に目がくらんで伊藤は引き受けちまうのだが……。

結局、この、そっち系、という言葉でなんとなく想像は出来たけれど、全然ヤクザじゃなくって、街金に過ぎなかったし、しめしがつかないからと処分したと言われていた隣の男は、確かに処分……廃棄物処理場に投げ込まれたという、物理的な処分で、そこからほうほうのていで逃げかえってきて生還したというコントみたいな展開。
観客側になぁんとなく、そうじゃないよね、と思わせつつ、でも雰囲気はヤクザの娘をかどわかして、かくまって、みたいな怖さも残しつつ、あぁ、なんか往年の映画って感じ!!
ヤクザ(じゃないんだけどね)の娘、君子との同居生活に性欲を押さえられないんじゃないかと苦悩する伊藤に友人がアドバイスしたのが風俗だったのだが、少なくとも伊藤は風俗ではイケなかったらしいのね。

伊藤はつまり、君子に性欲以上に恋しちまっていたんだろうか??君子の恋人である隣人の男、木村が“処分”されたと聞いて、彼女は伊藤に抱いて!!と言い、それに応えたけれど……その時はあまりにもあまりに即物的なセックスだった。まさに、挿入だけ。しかも一瞬で果ててしまい、君子がしゃぶっても同じで、もう!これじゃ慰めにならないじゃない!!と君子はイカったのであった。

その後、追手がかかっていることもあって、外に出ることが出来なくなった彼らは、ひたすら部屋でヤリまくるのだが、体位を変えたり、いろいろ工夫してもたせるようになると、それが愛だとカン違いするに至る、少なくとも伊藤の方は、というのが、なんかやりきれないっつーか……。
確かに、挿入だけをセックスというのはあまりに寂しいし、愛がないと思っちゃうけれど、もたせて、長引かせて、そこに達成感を得て愛の感情だとすり替えちゃうのは、それは絶対に、違うのだもの。なんか、そういうカン違いで世間のカップルは成立しているのかもしれんが……。

で、先述したけど、実はヤクザの娘なんかじゃなく、街金の娘。その母親と伊藤は思わぬ邂逅をしている。立ち食いそば屋で、銭湯の前で、二度にわたって伊藤は彼女に小銭を貸した。まさか君子の母親だなんて思いもせずに。
伊藤が電車で遭遇した痴漢のオッサンは、この街金の女主人にも痴漢を仕掛けている。別居していた元夫から痴漢されたなんて、それをあっけらかんと受け入れちゃうあたりはピンクのいいところ。

この元夫もまた売れない映画屋であり、長年温め続けていた脚本を後生大事に持ち歩いている。不景気というのもあるだろうが、きっとうだつのあがらない映画屋である(のはもう、ぱっと見で判っちゃうあたり(爆))彼の脚本を、誰も読んでさえくれないのだろう。
女主人が元夫の脚本を、通りすがりの、小銭を二度貸してくれただけの青年に、映画監督を一度だけやったという彼に託したのは、これぞ映画的ドリームだけれど、こんな風に、温められ続けている脚本が、たくさんたくさん、あるのだろう。

元夫は、映画畑にいたらしいが恐らくピンクではないだろうと思う。そうだったら業界にいる伊藤は知らない筈はないから。
ピンクだったら一般よりも少ない予算で出来るという夢もあり、元夫はプロデューサーとしてご満悦で現場に登場し、女主人は、私はエグゼクティブプロデューサーね、と笑い合う。

ピンクの現場に誇り高きものを感じて、グッと来てしまう。この最終的な撮影現場でのラストは、その主演としてかくまわれていた“ヤクザの娘”君子が、「私、女優やってみたい!!」とこれまた棒読みの連呼しまくって(爆)濡れ場を披露し、その相手は彼女の恋人、処分されかけた木村であり、木村と同じく処分されることに怯えて君子を追っていた斉藤が撮影クルーに入って、当然伊藤がメガホンをとっている。
一体今までのサスペンス的雰囲気はなんだったんかいと言いそうにもなるけれど、つまりはすべて、映画マジック、映画が好きなヤツらの遊び心に飲み込まれちまったって訳。

君子が女優になりたい!と連呼し、伊藤の友人から、本当にいいのか、映画と言ってもピンク、裸の映画だぞと言われ、彼女が返す言葉が凄く、素敵だった。誰だって裸になるし、誰だってセックスするじゃない、と。
本当だ、まさしくそうだ。裸やセックスシーンに難色を示す役者さんに対して、私がなんだかもやもやと思っていたことをバシーン!と言ってくれた!と思って。

いやもちろん、判ってる判ってる。裸やセックスや、めちゃくちゃパーソナルでセンシティブなものだから、それをプロフェッショナルだからと強要するのは違うというのは、判ってる。インティマシ―コーディネーターの重要性も判ってる。
でも、ピンク映画に基本的な人間性を感じるのはまさにこういうところで、閉じられた、狭い世界かも知れないけれど、ここで撮影現場が描かれているように、スタッフ、共演者、そしてこうして作品を観させてもらっている私たち観客は、特別なことじゃなくて、生きている私たちの物語の当たり前のことであって、っていうのがあるからさ!それが、それこそが、まさしくピンクに魅せられるところであるから。★★★☆☆


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