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「ひ」


2024年鑑賞作品

火だるま槐多よ
2023年 102分 日本 カラー
監督:佐藤寿保 脚本:夢野史郎
撮影:御木茂則 音楽:SATOL aka BeatLive 田所大輔
出演:遊屋慎太郎 佐藤里穂 工藤景 涼田麗乃 八田拳 佐月絵美 田中飄 佐野史郎


2024/1/6/土 劇場(新宿K's cinema)
激ムズ。でも、こんな映画を無心に浴びてた頃が確かにあったかもしれない。この村山槐多という人を私は知らなかった。22歳で夭折した画家であり作家。ガランスと呼ばれる深い赤色を好んで使ったことで知られるという。
本作のテーマのように掲げられる「尿する裸僧」という強烈な絵はまさしく、このガランスを血のようにぬったくっている。いや、マグマのようにか。

本作の後半に、槐多に魅せられた薊(あざみ)と朔(さく)が一糸まとわぬ姿になって、天から降ってくる真っ赤なぬらぬらとしたものにしとど濡れながらまぐわいあう場面があり、血、と即座にも思うが、マグマのようだとも、後から思った。
村山槐多という、もちろん美術史的には有名なのであろう人物を、でも決して世間的には有名ではない人を、その人に魅せられて、映画にした、それがこの描き方というのがドギモを抜かれた。
そんなに遭遇する機会がないのだけれど、うっかり遭遇しちゃうと毎回こんな風に驚かされる佐藤監督。そうだ、ビザールなお人なのだと思い出したのだった。

だって、知る人ぞ知る芸術家を、いわば初見である観客がほとんど、紹介という意味合いだって絶対に発生するのに、この、このやり方。それこそ四天王であった佐藤監督のピンク時代ならば、結構やりたい放題なところはあっただろうが、それをこの無数に作品が吐き出され、淘汰されまくる中でやり切るとは……ドギモを抜かれてしまう。

冒頭に言っちゃったけど、激ムズなのだ。何が何だか判らない、と言っちゃったっていいぐらい。薊は街頭で人々にインタビューしている。村山槐多を知っているかと、尿する裸僧を見せて聞いて回っている。
彼女はただただ聞いているだけで、それをカメラで撮っているって訳でもなく、何故この人を知らないのかと、焦燥するかのように聞きまわっているところに、朔に遭遇するんである。

朔は自ら作り出したノイズミュージックを手作り感満載の放射させる金属機械で東京の喧噪の中、放出して回っているらしいのだが、街中の誰も、そして観客である私たちも、その音はちっとも聞こえてこない。

朔は音に対する感覚が異常に敏感で、それは超能力に匹敵するほどで、後々知れるところとなるのだが、彼の父親の実験材料とされ、狂人一歩手前にまでなった過去がある。
朔は父親を憎しみのあまり殺しかけたが、それを救ってくれたのが、このヘンテコ放射機械を作ってくれた廃車工場のおっちゃんで、なんとビックリ佐野史郎氏。考えてみれば彼もその出自はかなりアングラな空気マンマンな人だったから、判る気がするというか。

朔はその異常ともいえる聴力、感応能力によって、はるかかなたから槐多が聞こえてきちゃう、キャッチしちゃう。自分がカイタだ、と言うけれども、薊が言うようにそれはカタカナのカイタであり、彼自身もどこか惑うように槐多の中をさまよっている。
そこに引き寄せられるように集まってくるのが、路上で前衛的なダンスパフォーマンスをしていた四人の男女で、彼らもそれぞれ念写やら透視やら予知やらの超能力を持っていた過去があり、しかしそれを、“普通に戻す”実験をする施設で虐待的な目に遭わされ、そこを脱走してきたんであった。
そしてその四人を常に監視、というか、彼ら言うところの観察しているサングラスに革ジャン、バイクに乗っている謎の男が付きまとっている。何をする訳でもなく。

なんじゃこれ、と思うような設定だし、正直言えばずっと戸惑い続けている。薊や朔とは違い、この若者四人は槐多のことを知らなかったし、知った後に興味を持ったにしても、薊と朔の熱量とはかけ離れている。
この、超能力を封じられるという設定、そしてどこか懐かしくさえ感じる、ヘッドギアに電線通じさせて、ビリビリビリ、アワアワアワみたいな描写がハラハラしちゃったり。

村山槐多が若き頃に作ったという同人、毒刃社の名前を掲げてパフォーマンスをYouTubeにアップしたりもするが、そこに映し出される視聴者数も悲惨で、彼らが沸き立つほどに誰かがその経過を見守っている風も見えない。
これは、どうとらえたらいいのだろうか……視聴者数はちらりと映し出されるだけだから、特にそこに意味はないのか、YouTubeとか、生配信とか、予告とか、そんなあたりはいかにも現代の若者だけれど、そこで展開されているのは、まがまがしい、怨念というか、槐多の声をキャッチした、そしてそれが神か悪魔かパラレルワールドか、アガルタと呼ばれるどこか魔的な場所にいざなわれる、深い森の中なのだ。

槐多の文字に使われている槐の字、木の名前だけれど、それが本作の中では神木のように、なにかを封じ込めるように、使われている。日の光も届かないような深い森の中でそびえたっているその木のほらのなかに、意味ありげな人骨やマスクが隠されている。

そもそも、佐野史郎氏演じる廃車工場のおっちゃんが持っていた、槐多のデスマスクがキーポイントであった。本作があまりにもアヴァンギャルドなので(爆)、鑑賞後、村山槐多のウィキとか見ちゃったりしたのだが、実際にデスマスクが作られていたことを知り、劇中に出てくるデスマスクは……しっかりレプリカだったりするんだろうか……などと、ドキドキしてしまう。
このあたりの時代の日本の文学者の中には確かに、デスマスクを残している例は結構あって、それが何か……単なる型に過ぎないのに、そこになにがしかの思いが込められ、何十年も後の未来に何かを告げてくる感覚は確かにある。朔が魅せられたのも、槐多の声を聞いたという以上にこのデスマスクの存在があったように、劇中でも色濃く描かれていく。

朔は槐多に魅せられたというより、乗っ取られたようにも見えた。薊は尿する裸僧に出会って、槐多に取り込まれた。そして四人の男女は槐多を今ここに呼び寄せるよりしろであり、薊が朔を槐多にしようと、槐多なんだと思いたがっているようにも思えた。
どうなんだろう……槐多は画家であり、劇中でもあくまでそのガランスの赤の強烈な色をぬったくった泥臭い絵画を突きつけるように、差しはさまれる。でも、男女四人のパフォーマンス集団は絵はもちろんだけれど、槐多が書いた詩やシナリオの方にこそだんだんとシフトしてくる。作り手側、佐藤監督自身がそもそもそうだったんじゃないかと思えてくる。

このタイトルは、高村光太郎が槐多の追悼で寄せた詩を基にしているんだという。「五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。強くて悲しい火だるま槐多。無限に渇したインポテンツ」なんというか……この詩だけでも、槐多は未練をたっぷりと残して、情念だけでなく肉体もどこかにさまよっているように思えてしまう。
インポテンツ、だなんて。彼はそうした恋愛や性愛の肉欲ももてあましたまま、ガランスにぶつけるように描いて、そして死んでいったのだろうか。

そうした影は確かに、槐多を乗り移らせてしまった朔に見え隠れする。廃車工場のおっちゃんは、朔は異性に対して興味はないんだと言い、薊はそれに対して立腹し、大げんかになる場面があるけれども、この設定は、ついついウィキで読んでしまった、ちょいと男の子に懸想したこともあったりしたことも入れているのだろうか??

いやそんな、凡俗なことでもないとは思うが……だって、本作は、槐多を、というんじゃないけれども、どこか神格化というか、アガルタというイメージが繰り返し出てくるのもそうだけれど、どこかに理想郷があるとか、槐=エンジュという木が神木として扱われたり、民族的なお面をかぶってパフォーマンスしてみたら、そのお面がとれなくなって森に帰りたい、と若者たちが訴えたり、なにか、まがまがしい神話のようなのだ。
村山槐多という知られざる芸術家を描くとか、紹介するというより、死んでしまった彼と同じ年ごろの感応性豊かな若者たちに、未来を託すというのとは真逆な、もうこの世はダメだと、それは自分の時代から判っていたと、だからアガルタへ行けと、そんな風に感じ取られた。

アガルタ、聞いたことはあるような。でも、知らなかったのでこれまた調べてみちゃうとこれがまた……危険なんである。槐多の時代にはむしろ、無邪気な、最後の救いの場所みたいな、天国よりもちょっと現実味のある、地球のどこかにきっとあるような、という概念だったけれど、当然、現代ではそれは御伽噺以上に却下されてしまう空想に過ぎず、これを持ってきて、槐多を現代に感応させて、そしてどうなるんだろう。
確かに、私みたいに何も知らなかった観客にとっては、興味津々な芸術家であり、知るきっかけになるには充分だった。でも……難しいな、実験的意欲作であるのは無論なのだけれど。

槐多の槐の文字、その木は、実際には街路樹によく使われ、その白い花は可憐で、確かに見覚えがある。劇中登場する、ただただ苔むしてそびえたち、ほらの中に人骨やら怪しげなものを隠し持っているようなイメージとはかなり違う。
激ムズと思った最初の印象から、村山槐多という人物をたどったり、いろいろ頑張ったけど、キツかったなぁ。むしろ、実在の人物ではないというスタンスで見られたら面白かったかもしれないけれど。★★☆☆☆


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