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「き」


2024年鑑賞作品

霧の淵
2023年 83分 日本 カラー
監督:村瀬大智 脚本:村瀬大智
撮影:百々武 音楽:梅村和史
出演:三宅朱莉 三浦誠己 堀田眞三 杉原亜実 中山慎悟 宮本伊織 大友至恩 水川あさみ


2024/4/21/日 劇場(池袋シネマ・ロサ)
この日、投薬のせいでか眠くって、本当に、この体調で観てしまったことを恥じた、後悔した。前半はまるで目をこじ開けるようにしていたんだけれど、でもそれでも、これはただごとではない映画を観ているというのは判りすぎるほどだった。
いや、そもそも本作の、目に心に染みるような、桃源郷のような、マイナスイオンで充満しまくっているその画に深く沈んでしまっていたから、夢を見るような感覚に陥ったのかもしれない。決して言い訳じゃなくって。

「萌の朱雀」を思い出したのは、間違いじゃなかったらしい。ラストクレジットで製作総指揮に河瀬直美氏のお名前を見つけて、そうか、と思った。
奈良国際映画祭が関わっている本作、舞台となる川上村は奈良の山深いところにある実際にある村であり、ヒロインに抜擢された三宅朱莉氏は奈良出身の新人俳優であるという。

何もかも、萌の朱雀と見いだされた尾野真千子氏を思い出すじゃないか。奈良の、山深い、霧の立ち込める川上村。霧が発生するのは、植林された杉が水分を多く含む樹だからなのだという。

林業の町。イヒカの父、そして今は引退しているのであろう祖父は林業に携わる。私が夢に沈みそうになっていた(爆。ごめんなさい……)前半は、まるでドキュメンタリーかと思うほど、林業のお仕事場面、その自然な仕事の会話、イヒカと祖父がふらりと遊びに来たようなその木々のまにまに、特段事件が発生することもなく穏やかに進む感じ。
12歳という設定にしては大人びた女の子、イヒカはでも、この年頃の女の子特有の内省的感覚で、本当に無口。この、霧深い山の木々のように、中に水分をいっぱいためこんでいるのに、木々のように、川のせせらぎのように、思ってはいるんだろうけれど、口の端にのぼらない。「私はまだ、子供だから」という、印象的な台詞がはかれたのは、どこでだったろうと思うほど。

冒頭でもう、不穏が約束されている。じっと横顔を固定してる、だから水川あさみ氏だと、この時には気づかないほど。おかっぱという古風な言い方をしたくなるぐらい、重たげな黒髪を肩先で無造作に切りそろえている。
夫とは、別れ話中である。彼が開口一番言ったのは、別れたら、父の遺産を引き継ぐのは自分、お前には何も渡すことができない、ということだった。そんなことを別れ話で言うのか、ヘンな感じ、と思ったら、代々続く古い旅館に彼女は嫁入りした形で、この別れ話によって、その旅館をどうするか、女将を続けるのか。そもそももう、櫛の歯が抜けるように、シャッター観光街と化している。かつての賑わいはもうない。だからそんな話になっている。

この冒頭のやりとりで、ああ女はソンだと思い、それを充分に理解しているから夫は、別れゆくかもしれない妻に、せいいっぱいの思いやりを見せたのだろうと、思った。
この夫婦が壊れてしまったのがなぜなのかは判らない。本当に、静かに静かに、紡ぐから、判らない。切り取られる山や木々、イヒカが見つめる、ガラス越しの風景。

前半、夢に沈みそうになっていたから恥ずかしながら断言はできないんだけれど、だんだんと……祖父、シゲの記憶というか、かつてこの街はにぎわっていた、旅館街には灯りが連なり、芸者さんたちもにぎやかに出入りし、露店に大人も子供も夢中になっているのが明確になってくる後半の描写に、前半、とぎれとぎれに挿入されていた気がして。

母は、義父のシゲがいなければ旅館を継続できないと言った。別れ話の中で、旅館は続けると強く断言した彼女は、夫は別居、なのに舅とは旅館業務を共有する同僚という形で同居するというイレギュラーなスタンスをとった。
そこに、言ってしまえば巻き込まれている形の娘のイヒカはでも、父より母より、この祖父にこそ懐いているように見えた。懐いているというか……なにかのアンテナでつながっているというか。

私が夢に沈んでいる間に、一番その夢の深いところで響いていたのは、聞いたことがあるようなないような、遠くふんわりと降ってくる音楽、歌謡曲、であった。それは、このマイナスイオンな景色の中で、違和感があるようでいて、不思議と調和していた。
それが、ラジカセから響いてくると判った時に、そして、それが響いていたのは、今ではなく、かつてこの山あいの町が登山客やらで活気づいていたころだったと思い至ったら、一気に腑に落ちたんであった。

これは、ひょっとして、タイムスリップなのだろうか??今現在のこの町は、言ってしまえば、さびれている。母が頑張って切り盛りしている旅館も、大学生の研究宿泊が入っているのが描写されるだけで、春休みなのか冬休みなのか、イヒカはずっと家にいて、母と祖父と一緒にご飯を食べるのだった。
そして母とイヒカの二人での食卓が朝昼晩なのか、昼晩朝なのか、とにかく三回続き、祖父がいなくなったことを示唆した。
その三回の食事シーンは、三人であったそれまでだって特に会話が弾んでいた訳ではなかったのに、不自然に思うほど、二人ともただただ飲み込むように一汁三菜を胃の腑に収めていたのだった。

どうしよう、と突然、母が言った。祖父が、彼女にとっては義父がいなくなったことを、切羽詰まったように娘に言った。それまで、目に染みる山深いヒーリングムービーだと思いかけていたところに、急転直下のミステリアスの予感である。

私は、私はね、めっちゃくちゃ、ヤボなこと言うとね、母は、義父が、好きだったんじゃないかなぁと思うのだ。ヤボね、無粋ね。いやその、ね、そういう、ヤボな感覚以上に、この山深い村に、この旅館に、この家族に嫁いできた彼女は、女将として頑張ってきた彼女は、林業の方に携わっている夫よりも、同じ旅館で一緒に頑張ってきた、先輩の、ベテランの、義父をこそ、リスペクトしていたんじゃないのか。
旅館を続けてこられたのは、義父がいたからであって、まぁ正直、このシゲじいさんがどんな業務に携わっていたのかよく判らんのだが(爆)いるだけで良かったのか、いなくなっただけで、だけっつーのもアレだけど、彼女は動揺し、もう旅館は出来ないと思い詰めてしまう。

イヒカがそんな母を誘う、いわば境界を越えた先のどこか。イヒカが仲の良い同級生男子と、幼い冒険のように分け入った先にあった古ぼけた一軒家は、かつてシゲじいさんが住んでいた家だった。
家というか……しっかりとした厨房があり、見通しの良い縁側には深い破風の屋根が趣を添えるその家は、入り口側の粗末な印象とはまるで違う、ちょっとした豪邸だった。日当たりが良く、風通しが良く、言葉に起こせない自然の言の葉が常につぶやかれているような家。
おじいちゃん、こんないい家に住んでいたんだね、と母はつぶやき、娘の座る縁側にごろんと横になった。もう起きれないかもなんて言いながら。

このあたりから、私は急速に夢から立ち上がるんである(爆。すいません……これからはちゃんと体調整えます)。それまでのイヒカはね、それこそなんか、立ち上がってなかった。
でも少しずつ少しずつ……それは、なんとなく自分の暮らす場所にあった、朽ち果てた映画館や、シャッターの閉まった街を、外の目から研究する若い学生たちが宿泊客としてはつらつと現れ、この街に住むイヒカを案内役として巻き込んだところから、始まったのであった。

その時のイヒカは、無表情で、何の興味も感じていないように見えた。朽ち果てた映画館だって、彼女が物心ついた頃からそうなっていたんだろう、その映画館が朽ち果てていなかった頃なんて、考えもしなかったんだろう。
学生たちから、この映画館に行ったことある?と聞かれて初めて、この場所が生きていたことを想像したんだろう。

そんな風に、そう、そんな風に、考えもしない、この場所の意味をとか、考えもしない。でも、ひとつ、問いかけられれば、一気に自分の感情が膨れ上がる。イヒカにとって朽ち果てた映画館がそうでなかった時は、大好きなおじいちゃんがそれを知っていた時代、なのだった。
イヒカは、この映画館が生きていた時代に紛れ込み、映画館の椅子に座り、屋台の喧噪に紛れ込む。かつておじいちゃんが住んでいたこの立派な木造家屋は、しっかりとした厨房もあるし、ここで旅館をしていたのかなとも思わせる。

ここに、彼は帰ってきたかったのかな。てゆーか、時間軸がぐちゃぐちゃというか、解釈次第というか。シゲじいちゃんはね、結局どうなの、どこかに失踪したのか、かつて住んでいたこの家に帰ってきていたのか、明瞭じゃないのよ。

ラジカセの音楽を聴きながらイヒカは縁側でうとうととし、その間の夢なのか、自分のウチの旅館の、かつて眺めていた画角と同じ、大広間を、一つ隔てた小部屋みたいなところの欄干にもたれてながめてる。
今の時間軸では、近隣のおじいちゃんおばあちゃんたちが寄り集まっての、平凡な宴会。シゲじいちゃんの時代は、艶っぽい芸者衆を呼んで、灯るライトもほんのりと夢の中のようで。イヒカは何度も何度も、夢のようにおじいちゃんと遭遇する。時に彼は、言い方悪いけど幽霊か地縛霊かのように、そっとイヒカのそばを通り過ぎる。

この山深い村の、美しいミステリアスの、失われた美というものを、私が観賞したこの日、トークショーがあって、登壇したライターさんが、失われゆく美を感じてしまうのが、勝手というか、そんな忸怩たる思いをおっしゃってて、あぁ、判る、判るわぁと思う。
この寂しくも美しい場所を知ってほしいと思うけれど、このさびれゆく感じが美しいのだと売り込むのならば、それは違うのだから。
最近、オーバーツーリズムがヒドすぎて、こうして映画で紹介されてしまって、そら製作側は、この美しい場所に来てほしいという思いがあるのだろうけれど、心配よ。ほどほどの観光地だったからこそ美しさを保っていたのに、というのが、各地あれこれ破壊されまくっているから。とてもとても心配。

お母ちゃんがさ、じいちゃんを探しに行く先で、これはさぁ……ある意味、決壊を越えたというか、思い出の場所が溢れすぎて、お母ちゃんが、思い出の場所で、立ち止まって、動かなくなって、動けなくなって、イヒカが、お母ちゃん、帰ろう、お母ちゃん!と叫ぶ。
お母ちゃん、水川あさみ氏がめちゃくちゃ思いたっぷり100%含んだ顔でゆっくりと振り返るあの場面……あの場面こそが、すべてを物語っていた。私の中ではこれだと思った結論があったけれど、どうだろう。★★★☆☆


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